2008年10月24日金曜日

南島漫遊記 Ⅲ

 島のタクシーの運転手さんから聞いた。この島には5,000人ぐらいの幽霊人口があると。行政が水道の数で把握したらしい。またこの島の米作は二期作ができて「ひとめぼれ」をつくっているとも。

 中新城(なかあらしろ)さんは72歳だ。奥さんと31歳の長男と次男がいて一緒に農業、米作りをやっていらっしゃる。従業員もいてタイムカードもある‘精米店’のりっぱな経営者でもあるらしい。ご自分の足跡と米のことと田んぼとその生き物のことを話せば、まるで長く独房にいた人が久しぶりに解放されて他人と話すように、たて続けに話される。ただし、私は初対面でもあり話の時系列がいまひとつわからない。田んぼも畦も水も虫も貝も鳥も山も品種も掛け合わせ(交配)も何もかも話す。二期作目の稲を手にとりながら話す。水をすくいながら話す。彼の概念に国境などない。今のままでいけば必ず食糧難がくる、飢えるという、だから暑いところでも収穫のあがる品種をつくっているという。「まぼろし」と名づけているそうだ。これをカンボジアやフィリピンに送りたいと。彼は自然交配の仕方を体得した。私にはよくわからないが、これは大変な技術なのだそうだ。

 かつて島の古老たちが「赤米」を「白米」に混ぜて炊いたら、もちもちして香りがする、おいしいと言っていたそうである。「赤米」は南方系、「白米」は普通の米のようだ。彼は「赤米」と「白米」をかけあわせて「赤米のもち米」というものをつくった。それが今では「古代米」とか「黒米」とか言うものになって「ブーム」になった。彼のつくる品種は普通の米と違って1.8mぐらいの背丈になる。今から20年前ぐらいに3年かけてつくった。苗から香りがあるそうで、鳥が降りて来る。鳥が来るから稲が小さいうちに食べられるそうで、彼の田の中には池がある。

 彼は8年前から自分の田んぼを無農薬にした。雑草が大変だったそうだ。「2年でお父さんの時代の土壌に蘇った」と言う。田にいる生物を指差しながら話す。この人の田んぼに「池」があると聞いていたら、確かに田んぼのところに小さくはない水溜り(=池)があった。ここの米を「古代米」という商品で各地の産直事業に供給しているM社のN社長はできるだけ要領よく西宮弁で解説しようとする。出発の時間が迫る。

 あの人の家に行けば本だらけさぁ。あの人が若いころは農協もたじたじだったさ。大先輩だからねぇ、つくっているものは違っても。敬意を込めてパイン生産者の辺安名(へんな)さんは言う。

 海岸にヒルギ(マングローブを構成する海辺の植物)が自生するところを少し北に行く。名蔵地区の丘の斜面いっぱいに広がる赤土、ここに辺安名さんのパイン畑があった。名蔵湾の水面がきらめく。光景だけでも美しい。この適作地と彼の技術で他では手に入らないおいしい国産パインが育つ。みんな内地に送られ沖縄本島でも手に入らないと地元O社の社長はおっしゃっていた。辺安名さんは色が真っ黒だ。47歳、長子は来年大学受験。小さいときは電機も水道もない生活をおくったという。台風が来て急に明るくなったと思ったら屋根が飛ばされていたという。牛も飼っていて、餌代があがり、売る子牛は50万が30万円に値下がりしたという。エサは輸入に頼っているからいけない、国産化をすすめるという国の方策をいう。八重山商工出身で現役時代は応援団団長。

 ご同行させていただいたもうひとりの麗しきマダム。前夜、辺安名さんと会食交流しながら10年ものの古酒(クース)をボトルでたのむかどうかやりとりしていた相手。ボトルは「ん万円」もしたので大手組合の役員をしているヤモメのスポンサーと今度同行したときにはたのむか、などと企(たくら)んでいたお相手(向かいの美しきマダムにはその様子が聞こえていたらしい。一合のクースを追加し皆ほどよく酔っていた)。

 このマダムが自宅でパインを育てるためにここ石垣島の赤土が欲しいという。「いいよ、持ってけ、たぶん育つとは思うけど、思いっきり酸っぱくできるよ」育て方があると辺安名さんはいう。「いいの、観賞用だから」と元気なお方。ずっしりと重い土が入ったバックをりっぱな肩に掛けてお持ち帰り。飛行機を乗り継ぎ、乗り継ぎ品川まで見届けた。土は6kgあったと後からうかがった。

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