2008年10月22日水曜日

南島漫遊記 Ⅰ

「暑いところから来たさぁ」が訪問地最後の本島中部の漁協の参事さんのあいさつだった。おいおいここも29度はあるぞと内心苦笑い。「こちらはもう秋さぁ」先島は沖縄本島にとってもはるか遠いところ。あそこは復帰前の沖縄(ウチナー)があるさ、復帰前の祭りはこの辺でもああだったさぁ。どこに泊まるの?ゆっくりしていけるの?「いや今日で4日目、夕方東京に帰ります」

竹富島の民家の白い石垣の上には桑の実が成っておりました。ミンサー織りを体験できる資料館は休館しておりました。年に一度の、住民が、ここを故郷にする人たちが待ちに待った祭りのために。私たちも数多い観光客としてこの地を訪れました。「種子取祭(たねとりさい)」の奉納芸能が行われるのが今年は金曜日土曜日にあたるというので誘われました。シマ・ナイチャー(島=沖縄出身の本土住人のこと、いろんなニュアンスがあるらしい)の比嘉さんに引き連れられて。早朝我家を出てきてようやくたどり着いた。

ここで紹介いただいた学者さんによると(よく聞き取れなかったが)、夏は暑すぎて秋から農業に入る。粟の栽培らしい。それで種子からとる「種子取祭」らしい。作物の豊穣を神に祈る約600年の歴史を持つ神事。私たちが着いたのは午後で既に御嶽(うたき、沖縄の神社のこと)の舞台で奉納の多種多彩な芸能が演じられていた。島の2つの集落が2日間にかけて出し物を演じる。

そんなにあるのかと感心するほどの演目である。先島に伝わる琉球古典芸能。古式の舞踊、民謡。中には「ちっちっちっ、ほっほっほっ」と調子がよいリズムの民謡がある。狂言がある。芝居といっても歌舞であるが、台詞は方言だからさっぱしわからない。琉球にも「さむらい」という身分があってユーモラスに描かれる、庶民のしたたかさ。「さむらい」はヒゲを大きく蓄え、身分が高ければ厳(いか)つい冠を頂く。大太刀回りがあって見事だ。ナントカの「敵討ち」という演目ではかぶりつきの観客席に向かって太刀や槍がすんでのところで突き刺せるような仕草はなんともユーモラス。毎度の太刀回りでそれを演ずるから、客席もそれを期待してやんやの喝采だ。

学芸会はいつまでやっていたのだろう。自分の台詞を覚えるのでせいいっぱいだった。舞台に上がれば胸がどきどきした。知ったひとや親が見えればそれだけで頭が真っ白になった。

この素人の村人たちはこの日のためにいくつもの演目の台詞と演技を覚えたのだろう。いや、国立劇場でも演じたことがあるらしいから素人とはいえない、たいしたものだ。

御嶽(うたき)を背景にした正面には村の長老や来賓たちが並び、向正面には子どもたちが並ぶ。朝から夕方までみなずっと楽しんでいる。大人たちにはオリオンビールやお神酒=泡盛が振舞われる。正面からは横の席だが、舞台の背景幕からみれば正面は一番広い。ここが主に観光客が陣取る。席といってもゴザのような敷物に直に座る。村人のための大事な行事であるが、余所者である観光客のために実によく開放されている。テントを張って屋根がこしらえてあるから上からの直射日光は遮られるがそれにしても暑い。

この島の住民は300人ぐらいだという。2日目には東京から駆けつけた島出身の郷友会の代表が紹介された。なんと駆けつけたのは140名という。

初日の夕暮れから「世乞い(ユークイ)」の行事に夜遅くまで付いて廻った。そして見よう見まねの作法に則り参加した。月のきれいな夜で10時半の臨時の最終便で島をあとにした。

宿をとった石垣島から通ったので、両日とも朝と暮れの行事には立ち会わなかった。次の機会の楽しみに残しておける。専ら舞台を堪能した。なにか一生分の琉球舞踊と民謡を味わった気がする。


2日目の夕方、ほんのひととき島のコンドイビーチで海水浴を楽しんだ。ホントに何年かぶり。「水着だ!」と準備していた麗しきマダムたち。足をつけるだけかの仕草の後、素早く着替えてためらわず海に入った。この日は恐らく海に沈む夕日が見られたかもしれなかった。この日のフェリーの最終便の時間のために再び竹富島をあとにしました。 ~つづく~

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