2008年5月31日土曜日

おやばかちゃんりん

酷使して壊れた一升炊きの炊飯器を五合炊きに買い換えて随分経つ。それがフル回転状態になった。同じく動かなくなって洗濯機も7kg型から6kg型に買い換えていた。こちらも、日に2回も洗濯するときがある。二男のユニフォームなんか汐を吹いている、この季節に、だ。えりは真っ黒。
息子たちは少年野球からひとりは高校野球まで進んだがあのころを再現している。

二男、三男が4月に社会人になってから。

二男は初心者マークで運転は慎重。早速組織拡大。まず、自分で加入した。そしてこの前手柄をたてた。あっさり入ってくれたという。いとこが住んでいたのでこれも頼んだらタイミングよく入ってくれた。貯えがないから、お茶を沸かしてペットボトルに詰めて持って行く。弁当は自分でつくる。執念だ。ついでに私のもたのんでいる。妻がつくるのよりその日の昼はなかなか。

三男は朝6時前にご出勤。水曜日はノー残業デーで8時半にはご帰宅。連休はまるまる休めた。4月分の給料もまるまる出た。その初月給で日頃見かねていた掃除機を買い換えてくれた。赴任地が決まった。希望地とは全く違う手作りの餃子が食えるさる県都。

ここのところ登録米だけでは足りない・・・。
でも近くまた足りるようになる。

一人、巣立っていく。
有名企業系列とは言ってもサービス残業では有名なところ、長時間労働・課題ノルマの波に呑まれなければよいが・・・。

明日、家族を招集し、壮行会を開くことにした。

2008年5月30日金曜日

行きつ戻りつ


父親に叱られて泣き止まなかったから、母親が負んぶして夜道を行きつ戻りつあやしてくれた。近所のおばちゃんもあやしてくれた。そのうちしゃっくりになった。なんで泣いているのかもわからなくなったから、顔をあげた。あげたらまるいお月さまがあった。月が追いかけてくるように見えたから「ないごてか」と聞いた。ラジオから浪花節がちいさく流れていた。音はそれしかなかった。光は裸電球の淡い街灯と夜空しかなかった。

国道沿いに町があって、並行して走る単線の国鉄線路を越せば田んぼだらけだった。昼間の道順を覚えていなければ、道に迷い、どこかに落っこちそうだった。単Ⅱの電池2個の懐中電灯はたいした灯りもなかった。ひとりでは不安だからと母が幼い私を連れて何かの用で農家を訪ねて行った。人工の光も音もなく、何もなく、道すがらあるのは蛙や鳥、梟、虫の音、月の光、星の光、犬の遠吠え、砂利道の白さ、それぐらいしかなかった。

「土づくりだぁ!」の得意先の部長たちと小笠原父島に向かった。同じ得意先の瀬掘(セーボリー、シーボリー)さん達を支援するために。仕事を終えて、港のある町の反対側の海岸に行くのにわざわざ夜を選んだ。真っ暗とはああいうのをいうのだろう。星明りしかなかった。たどりつき、海岸であお向けに寝転べば、星が多かった。こんなに多かったのかと思った。恐る恐る峠道を越えて帰るとき星がこんなに明るかったのかと思った。
 あれ以上の星の多さと明るさを見ていない。いや、東南アジアで見たのかな。21年も前のこと。

病みあがりのころ、「夜空にむかってあお向けになれば地球を背負っている、ヒトも宇宙の一部なんだ」となぐさめてもらったとき、あの情景を思い出した。真っ暗な中にいる、重力も、悩みもない。時を経て、楽になっていった。いつしか絶望感から逃れた。

2008年5月29日木曜日

わからんでもない


妻はパート。お休みの日におそうじ。トイレも。
父親のお前から息子たちに言え、と言われる。

映画「青春の門」大竹しのぶと田中健が主役だったやつ。 小林旭演じるやくざの親分がオートバイで峠から臨めば、筑豊平野が広がる。
そんな情景のシーンがある。

あのころは創立期だった。

  配達を終えた町並み眼下に見
     
     小便(しょんべん)飛ばす遅き昼弁

青年は大志を抱くかどうか知らないが、

      飛び、散ら、かす、のだ。

2008年5月28日水曜日

メモリアル


一発で気に入って独断で決めた。
1Kに住んでいたから驚いた。ガラス戸を開けるとまだ部屋が2つもあった。3LDKで3万円。
県都から国鉄で40分。公団高層住宅が立ち並ぶ振興のベッドタウン。公団からは離れた、別の村落の民間4階建てアパートの中の独立した別棟2階建ての2階。オーナーの若夫婦が昔住んでいたという古い住宅。階下には中年のご夫婦のみ。
村落の中だったので、作り酒屋、神社、学校、農家があった。降りていけば国道沿いで没落途上の商店街があった。駄菓子屋を営むよろずや、プラモデル屋さんもあった。

彼女にはこの地方でいちばん大都会の県都を見せ、県都で食事をしたので、後日結婚のために、遠く関東から越してきてこの村落に「えっ!?」となった。以来、ずっと言われ続けた、「だまされた」と。

長男が生まれたとき、大家さんはトイレの改修をして水洗にした。それまでは、2階から階下に落ちるドッポンだったから恐かった。昔の家だったので和式だった。長女が生まれたとき簡単なもの干し場もつくってくれた。

長男、長女は幼き日をそこで育った。
長男をひいきにしてくれるガキ大将がいて、朝出て行けば日が暮れるまで帰ってこなかった。長女はあるとき自分の頭より大きい竹の子をどこからかいただいてきた。アパートには同年代のお友達がたくさんいて、二人ともみんなから自転車の乗り方を教わった。

住宅には四方に窓があり、炊事場から私の帰宅する姿が見えた。帰宅の合図を夕食の準備中の彼女に口笛で知らせてしていたのを、実はアパートのみんなが知っていた。そのことを後日引っ越すときに聞いてあわてた。

大喧嘩をして一度だけ彼女は家出をして東へ向かった。新幹線にのって遥か遠い実家に向かおうとしたが、台風で交通機関が既に止まっていた。何千円も使ってタクシーで泣く泣く帰ってきた。あとでわかったがそのころはもう第一子を宿していた。

今日はその県都でささやかな式を挙げて30年目の日。

2008年5月27日火曜日

国がしたこと


小中学時代のころの友人の家にカメラか写真の月刊誌があった。戦前の報道写真が掲載されていたことを覚えている。そこに中国戦線で兵士達に混じって、荷物を頭にのせ、着物やスカートを太ももまでめくって川を渡ろうとしている若い女性たちがいた。従軍慰安婦たちである。この存在は公然のことだったはずである。その写真の兵士と女性たちの表情は明るく国策に準じているようだったが、「不許可」と四角で囲った印が捺してある。検閲では許可されなかった、つまり隠していたことをコメントしてあった。

朝鮮半島の各地から強制連行して船で南方へ送るとき、軍の主計士官たちは軍馬はウマとして扱いながら、慰安婦たちを「物資」として扱い、記録上からも証拠に残さぬようにした。卑劣。

1975年は昭和50年の節目で、「昭和50年史」という類の内容がいくつか編集、あるいは特集され、相次いで出版された。当時、印象的な研究、ルポがあったことを覚えている。元従軍慰安婦の女性達のことである。多くが耐え難い屈辱と犠牲になったが、生存する人たちが帰国することもできず、主に沖縄、奄美にひっそりと暮らしているという、研究や証言が紹介されていた。当時その人たちは50歳前後。今私はその歳を幾つか越している。当時若くてわからなかったが、今はわかる。記憶も屈辱も古いことではなかったのだと。奄美は1953年まで、沖縄は1972年まで米軍政下におかれた。貧困とそして「島差別」があった。女性達の居場所があったのが何故奄美、沖縄だったのか。沖縄、奄美になぜ居場所があったのか。

若者が主催する昨年で3年目の「さらば戦争映画祭」でひとつのドキュメントが上映された。『オレの心は負けてない』~在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい~07年制作95分。彼女は16歳のときから中国のあちこちで7年間慰安婦を体験。93年に国を提訴、03年に敗訴。東北に在住。妻の実家に近い。

2008年5月26日月曜日

憲法ミュージカル「ロラ・マシン物語」

昨日が千秋楽だった。
 もとは埼玉の弁護士さんたちが支えて何年もやってきたが、昨年から三多摩で引き継がれた。
 昨年はお世話になっている先生の息子さんが実行委員長になって頑張った。しかもよい出来だった(沖縄戦をテーマにした作品「キジムナー」)。
 
 今年はひょんなことで最前列、つまりかぶりつきで観た。映画と違って舞台はまたいいものだ。同年代の演者の方のしわもはっきり見える席だった。
 指導をする人以外は公募の素人約100人で、スタッフ200人というスタイルを続けている。常連とおぼしき顔も見える。約半年の稽古で公演に及ぶ。
ここのところいろんなジャンルの舞台を観る機会がある。

人類の歴史が400万年としたら、ヒトが暴力、戦争を始めたのは、ほんの今。
399万何千年かはそんなことはなかったという。
ロラ・マシンとはフィリピンの元従軍慰安婦の方の通称。78歳で生涯を閉じた。
フィリピンには黄色で統一したアキノ民衆革命があった。
本名トマサさんは生前、女性国際戦犯法廷に立ち、体験を証言した。
父親を目の前で、軍刀で首を刎ねられ失った。
その瞬間13歳から2年間続いたレイプ。

振り向いたら2階席まで満員で、立ち見も出ていた。 おとなしいね、わん。


お向かいさんからご自分の畑でとれたさやえんどう、三陸から旬のホタテを送っていただいた、予告なしで慌てた。調理はすべて次男。後片付けは三男。女房殿はごシュッチョウ中。 
琴欧州も初優勝でよかった。ながくケガで苦しんでいたから。

2008年5月25日日曜日

スーパーゴーヤその2

ヒカゲくん
私は君を思ふ。

君を書いた原稿を一夜にして失った。
保存をしていなかったからだ。

いま、気を取り直して違う角度で描く。

手抜きと「カネで済ます」の姿勢で君たち2苗を買った。
H.C.の店頭で88円、98円であるものを、大枚はたいて買った。
あまり揺らいでいない宅配システムを信頼して買った。
天まで弦を巻き、たわわに実る成果を夢みている。
20本も成ればよい、元はとれる、と踏んだ。
植えるの、育てるの、したことのない町の子、ひ弱なおじさん。

モンサントでないことだけ確かめ、デルモンテなら手を打った。
“スーパーゴーヤ”
「ビックリするほど、たくさん収穫できるゴーヤです」
とキャッチしてあった。

先々、弦のやんちゃに困るなと思ったから場所を考えた。
結果、日当たりがよくないように思う。
それがわかっていて、君のことをヒカゲくんと名づけていた。
なあに夏になればいくらでも日が入る、と思っていた。
ところがここのところの雨続き、異常な低温。具合がよくない。
君は育っていない、あらだうしよう。
君にこの「ハタケ」はあっていなかったのかもしれない。

ヌクヌクくん
君に期待するために、君を選抜し「簡単栽培セット」に植えた。
大きくならないうちは移動もできるから日当たりのよいところにおいた。
それでそう名付けた。
君は期待に応えてすくすく育っているように見える。
ただどこそこの後継者づくりに見えて、素直にはなれない。

君には成果のみを期待する。
手段は問わない。

2008年5月24日土曜日

スーパーゴーヤその1


苦瓜という。「にがごい」とか「にがうい」という。
ゴーヤとかチャンプルとかはあとで知った琉球語。こちらの方が全国区になった。それでいい。それが関東ではなんでこれが群馬特産なのだといぶかしがっている。
苦手だった。なにしろ苦かった。少しもおいしいとは思わなかった。
味噌炒めで食べる。もともと甘い味付けのお国柄だが、もっと甘く調理してくれた。
なんども騙された。調味や他の具材が甘くても苦瓜は苦瓜。緩和などしてくれない。夏がくればこればっかりだった。夏休みのお昼なんぞ安直にこれ。なにしろその辺にいくらでも成っている。これに加えてへちまでも出てこようものならもうお手上げ。あのむにゅの食感のどこがいいのかわからなかった。コロッケ食わせろ、目玉焼きにしろとあがいた。
酢の物、ゆがいてしょうゆ削り節、目をつぶって口に入れ苦虫をつぶした、いや箸もつけなかったかなぁ。

毎日でもいい、山ほど食べたい。調理はなんでもいい。あの苦味がいい、人生に比べれば。

先輩から古酒(くーす)をいただいた。10年ものだ。「からから」もある。壷屋焼きでは、ない。

焼酎ならなんでもある。黒千代香もある。指宿焼(薩摩焼の流れを汲む)だ。

ポークミートも琉球で直接いただいた。デンマーク製だ。

黒砂糖もある。これなんか手作りで「畑から食卓へ」だ。この品種のさとうきび由来のものは他では入手できない、希少品。

そうだ、琉球ガラスのグラスがあるが赤色がない。今度求めてこよう。

2008年5月23日金曜日

みんなポチ?


ビジネス街ではみんながIDカードを首からぶらさげ、携帯をもたされ、それが私にはどの人も「ポチ」のように見えてしょうがありません。IDカードがなければビルにも入れません。逆に携帯があればいつ何時どこにいても連絡、仕事の用件が入り込みます。GPS機能でも入ればお手上げでしょうね。
IDカードは組織のアイデンティテー、携帯は24時間戦える便利な武器。
私も弊社のポチ。

にゃんには鎖がなくてよいようにも見えるけど…。 在来種、雑種をみかけなくなりました。はぐれ、まぐれにゃんもみかけません。


あ~あ、保存していなかった。全部パー。夜中におきてごそごそするものではありません。ウインドウをあれもこれも開けておくものではありません。細かく上書保存または名前を付けて保存。何度失敗したことか。生きるの、死ぬのになんの関係もありませんが、ワードにいれたつもりの傑作がひとつ消えました。

2008年5月22日木曜日

この列島の中小企業の力こそ


肌には合わぬ籠の鶏のような事務仕事に専念する任務にまわされ身動きがとれなった。
それでご足労願って東京駅の近くで、3者で話し合った。ここの親父さんは主張を聞いてくれて国内の製造業を大切にしてくれるそんなところを恋焦がれているが、営業に専念できる余裕もなく、大手に立ちはだかれているようでチャンスがない。

流通もりっぱな主張とは裏腹に、大手や問屋を使って安直な仕入れをしているように見えてならない。意図はなくとも昔からのお仲間以外の中小の加工業者がよく見えていないようで残念だ。

親父さんが社長でアイデアマンだがワンマン、息子が専務、その嫁、その叔母、一族郎党、ご近所のパート、中国研修生で成り立つ、この列島の水産加工の、縮図のような会社。

67年に父親から家業を引き継いだ。この地域ではごくありきたりの品目を製造していたが、時代の先を読み、中古の機械を譲り受け「中骨取機」を作り出した。それが21年前。いわし、さんま、さばに応用し、調味料も自分で調合したり、お茶を応用して“くさみ”をとったり、フライパンで調理できるようにしたりして、今も続けている。

注文があったときは順風満帆、奢りがあった。妻を亡くして、いつしか酒に依存した。わずかな会社の蓄えも底をつき始め考え直したという。日本酒をやめビールだけにした。

業界も大手流通もかくいう我社も中国加工に血道をあげていたころ、この加工を地元でやってがんばっている、このことに着目している。こんなご時勢になってから、引き合いもあるだろうが、真贋確かめてほしい。

丸い眼鏡の似合うOさんに引き合わせお願いした。社長さんの思いは強いが、工場の品質管理は途上。Oさんには畑違いの商品分野だが、品質管理は本業。協同のチカラ、出番です。

お孫さんに差し上げた『もったいないばあさん』(絵本)が受けて、工場では「もったいないおじさん」と私は記憶されているらしい。そんな、もったいない。

2008年5月21日水曜日

色がいつもと違い灰色、どうして


 しらす干しの色のご指摘について申し述べます。
 「しらす干し」のしらすはいわしの稚魚です。3月から5月にかけて漁獲されるしらすは黒潮海流とともに北上し日本近海で漁獲されます。この商品は○○○の海で漁獲された数々のいわしの稚魚の「命」をいただきます。
 
 群れをなして泳ぎ、大きい魚に食べられないように海の色に合わせて保護色になり、外敵から身を守ります。極端に言えば、水温変化などで赤潮が発生しているときはシラスは赤っぽくなり、雨が降り、川から雨水が海に流れ込んでいるようなときはシラスは白っぽくなります。

 これらの色の変化は自然に生きる生物のありのままの姿・形です。そのように色々な色に微妙に変化するのであって、しらす干しの色から海の色を想像しながら召しあがっていただければありがたいと考えます。

2008年5月20日火曜日

いや、知らなかった


「骨からみる生物の進化」という美しい骨格を写した本が先日まで青山ブックセンターの特設コーナーに置いてあった。皆が立ち読みしたせいか、重くて分厚いので、背表紙が傷んでいた。それでなくても8,800円もするので買う気にはならなかったけれども、立ち読みではつい手が出た。
 
陸上の脊椎動物の骨格は骨盤と肩甲骨の対で成り立つ。知っているようで、ついぞ知らなかった。 その骨盤が肩甲骨のように開閉できるとは。知らなかった。

指は計20本ある。足であれ、手であれ、指を開き地に立つことが大事らしい。足指5本、計10本が手指のように、カエルの足のように開く。ましてグーチョキパーができるなんて。知らなかった。    (画像は足指を開く道具)

何年生きていても、ついぞ自分の身体のことさえ知らない。男、女に関係なく骨盤は開き、足指はカエルのごとく開くものなんだ。 私の体は退化していたのか。固い、かたい。 ひらかない。


以下は孫引き。
『人は変わるもの 変われるものだ (ある記事より抜粋)
明るい人間になるためにはものごとを“プラス思考”で考えるようにすることだ。プラス思考とは人や会社を長所中心でみたり、ものごと全般を楽観的に考えることである。意識的にそうする習慣をつけると顔つきも自然と明るくなる。人の言うことを謙虚に聞くことができる。すぐに反発したりヒネクレたり落ち込んだりしないで感謝の気持ちをもって聞くことができる。「人は変わるもの変われるものだ」ということを他人に対しても自分に対しても認めることだ。世の中を斜めにしか見ることができなかった人間が人を信じられるようになり信頼を得ることになる。その根っこにあるのは素直さである。』
そういえば、こういうことで接するひとがいる。つねづね、たいしたものだと思っていた。知人にいる。日々、反省。

2008年5月19日月曜日

カラス何故するの、かわいい七つの子があるからよ


今日はゴミの日、月曜日

洗濯とゴミ捨ては大概私の役目。

全自動だから造作ない。残り湯を必ず使う。ポンプ式は性能が悪いからやめた。バケツを使う。ステンレス製。もとはインテリヤ用。粉石けんの溶かし方、漂白剤の使い方、ちと粗い。よく晴れた日の干しあがりの風合いは粉石けんに限る。粉石けん派ではない。

ご近所の人が言っている。子育てに入っているみたいだ、必死のカラスがいる。
翌日出しの生ゴミをやられた。そもそも我家では生ゴミは水を切って生ゴミバケツで出す。市の「家庭系生ごみリサイクル事業」に参加している、週に1度だ。しかるに出し忘れた。それを燃えないごみで出す用意をしていたものをやられた。
我家は食い物を無駄にしないことを信条としている。家族は一致団結一枚岩だ。賞味期限などそんなものない。飢餓の線上にある世界8億の民を考えよ、つくってくれた人に思いを馳せよ。食い物をすてるのは人倫に悖る。
然るにナンだ?道にばらけた我家のゴミからマルのトマトがでてきた、腐ってはいたが。翌朝、女房殿に詰め寄る、何故?「えへっ」。

責任感の強い当番の年配のご老人は収集車が来るまでゴミ置き場を見張っていたそうだ。そしてカラスのお母さんも必死だ。

2008年5月18日日曜日

たまご生産の危機


 宅配のたまごを買っていると、配達のない土日の分はどうしているのかなとか思ったりする。登録をすると平飼たまごが手に入る。ただし有無を言わされず毎週届く。今春社会人になった末の子はこれの“たまごかけご飯”を至上の楽しみにしている。米も登録米だからまっとうにお願いしてつくってもらっている関係だと思っている。
 女房殿はスーパーのチラシに載っている98円や88円の卵を買いたいという。たまに買う。何がなんでも「平飼たまご」ではなく、家計も秤(はかり)にかける普通の家庭。
 養鶏業者の並々ならぬ日々の経営努力がある。インフルエンザに怯え、飼料の高騰に泣く。資材高騰もひたひただ。
 物価の優等生だとおだてられても誰か助けてくれるわけでもない、逆に売り場の「目玉商品」に利用されてきた。
 にわとりの毎日たまごを産む不自然。あくまでも一般論だが、雛から孵(かえ)りメスとして選別され、大地を走りまわることもなく鳥のように(?)飛びまわることもなく、大奥のごときメスだけの鶏舎で、座るか立つかぐらいの籠のなかで毎日たまごを産み続ける。そして羽も抜け落ちて産卵もできぬようになって、「鶏ガラスープ」のダシとなって生涯を終える。
 こういう鶏舎の経営努力と鶏さんがこの列島の「たまご」という優良な食糧と物価を支えてきている。
 この地球プラネットに生まれた生物で月の満ち欠け、潮の満ち干きに影響を受けぬものはなく、したがって排卵が毎日あるはずもなく、にわとりとは、柳沢(元厚労相)くん風に言えば、「卵を産む機械」生きている産卵マシーンである。先祖代々人間によってそういうふうに造りかえられてきた。
 にわとりのその生涯、境遇を考えれば、「平飼たまご」はありがたい。安全な飼料を使っているからとか、自分の健康のことをのみ考えているのではない。
 光と風と土の鶏舎でゆったり暮らす「にわとりたちのたまご」このことに思いをはせる。
 ある南の島の村落に寄宿したときにタイムトンネルから出てきたような錯覚に落ちた。鶏の鳴き声に目覚め、庭、畑を走りまわる鶏たちがいた。幼き日の朝と同じ、幾筋もの光と、凪ぎと一陣の風の交互、これを五感に受けとめつつ、顔を洗い、朝餉にあずかった。そんな「朝」に遭遇した。かつて、庭の、あるいは縁側下のたまごをひろう役割は子どもだった。自分の家では食べずお金に換えた。年に一度運動会の朝、生卵のすすりかたを教わった。たまごが貴重で、この列島の「朝」が健康であったように思えることを重ね合わせるからである。
 その経営に危機が訪れている。飼料の高騰だ。食糧資源への世界的な投機が横行している。このことを、いま生きている人類として許してはならない。
 間違いなく、途上国のひとびとに、より厳しく、そして我々の社会でも庶民に襲いかかる。産直を通して話し合い、それに終始するだけでなく、私達の日常と幸福を奪う世界的投機およびその実行者、倫理のかけらもなき輩と対峙、対決すべく世の中を動かさなくてはならない。グローバルの、といえばそういう課題でもある。

2008年5月17日土曜日

名も無きひとびとをこそ今は伝えよ。


 琉球は列島の人口の約1%、面積は0.6%ほどであります。琉球は地球の宝石であります。

 しかるにヤマトによって、この列島に「おもいやり予算」で鎮座まします米軍基地の約3割、米軍施設のおよそ4分の3を背負わされていますから、基地が産業の主力のひとつであります。しかも居ります主力は、4軍の雄、海兵隊すなわち「なぐりこみ部隊」であります。基地「産業」無くして明日の「せいかち」の立ち行かぬひとびとのいることも現実であります。粉石鹸がいいだの、合成洗剤がどうの、という前の「げんじち」でありました。

 水産資源の枯渇が続くなかで、列島の食卓を潤す海産物をつくりあげたのが琉球であります。きっかけをつくったのはサツマでありましたが、その薩摩によってほぼ同じ、いやそれ以上の辛酸をなめた奄美に行き、技術を導入し実用化に成功しました。ひろく琉球諸島全体にひろめ産業のひとつとしました。わずか30年。
 これを産業にまで高めたのは山陰の加工業二者の貢献に負うものがあります。地を這う30年。二社は今日もよきライバル業者であり、むしろ果実をあとから同業となった他社、もしくはユーザーに奪われております。
 ユーザーとは過剰生産産量の足元をみた買人であります。それは仕方なき市場法則として見逃すこともできましょうが、100万人を背景にしながらそのことに気付かなかったのは狭き立場であります。ライバルに肩肘を張るがために弱き生産者を見失っていた「正義の味方」のことであります。「はつこころ」はどこにありましょうや。

 君よ、早く生産者のもとへ行け。遭うべきひとびとがいる。世に問いたい生産物がある。「一郎の牛肉」だけではあるまいに。おととい気付いた「若鶏」だけではあるまいに。宣伝上手になる勿れ。江戸から離れよ。筑波に足元をおき、筑波人工都市から離れよ。なにしろ100万人だ。

 広く、名も無きひとびとをこそ今は伝えよ。

2008年5月16日金曜日

君、声をあげよ


 千葉県警が故意の混入と断じたことによって、事件に巻き込まれたことが世間的には、はっきりした。7人の方の健康被害をもたらし、信頼を揺るがしたということで6人の役員の減俸処分を決めた。
 つまり体制は変わらない。「安い、簡単、便利」も変わらない。歴代過去2人の商品本部長(その後昇格)のすすめてきた、なすがままの拡大路線「一流志向」そのことも問われたわけでもない。これで誰がやらせてきたかということもはっきりした。体制は変わらないのである。自ら変えるつもりも無い。現場は沈黙。総会は近い。
 君、憤怒の声をあげよ。     
      
       (深夜、駅より帰宅途中の軒先にて 死んでいた鳩に遭遇)

2008年5月15日木曜日

こだわり酵母食パンは妻のもの


毎週お届けで入手する。インターネットでは「あらかじめ」とか毎回出てきて親切だ。並みのルートでは手に入らない。出遭うまでは1斤100円を目安に生活してきたが、これに切り替えた。1.5斤で280円。つまり1斤187円換算。価格感覚ではためらいがあったが、ものが違う。賞味期限が短い。五感で自己責任。いろいろな御託を簡単には信じない女房殿が、これのファン。そしていつのまにか妻のもの。なかなか分けてはもらえない。
 
パン屋さん業界も寡占化がすすんだ。競争が激しく、大手の工場は眠らない。眠らぬ工場でパンはつくられている。このパンの工場はどうだか知らない。

2008年5月14日水曜日

雨ニモマケソ、風ニモマケソ、


冷凍ほうれんそう(国産)に仲良くはいっていたのは“クジケナサソウ”。
トレサビリティはばっちし。つまり、いつ誰がどこの畑で栽培し、収穫し、いつ工場に持ち込み、どうであったか、どんな加工をしたか遡れる。
生産者○○さんの畑で主役の作物に寄り添って育って、工場に送られた。色も形も比重(つまり重さ)も似かよっていたから畑でも工場でも見逃された。

ワカランカッタトデス。
ハイ、タベテモ「ガイ」ハナカトデス、ケド。
ドゲンカセンナイカントデスガ。


雨。
自転車をこぐ手が冷たい。レインコートはクリーニングに出していた。
来年の教訓に。ブログは便利。

雨ニモマケソ、風ニモマケソ、ソシテ初夏ノ寒サニモ クジケソー。   

明日から回復?

2008年5月13日火曜日

いのちのたべかた、終え方


 頼みもしないのに生まれてきて、望みもしないのに死んでいく。ただそれだけだ。神も仏もあるものか、と生きている。終わりを仮定してみたとき楽になった。功なり、名を成すこともなく終えるだろう。
 なんど聞いてもわからないが、とにかく宇宙が誕生した。始まりがあるようなないような、距離だか時間だか137億光年の彼方にあるとかないとか。これだと老荘の思索の方がまだわかりやすい、混沌。ぐっと近寄って、太陽系が生まれ地球が誕生し、水ができ、プラズマだかなんだかと作用して生命ができてしまった。この偶然は広大な宇宙にはどこにでもあるだろう。緑になったり泳ぎ回ったり、水の上に出たり、伸びたり這いずり回ったりして生命は進化した。何故森にいたのか知らないが食いはぐれて草原にでてきたはぐれもの家族がいた。必要があって立ち上がり、環境に立ち向かった。肩、肩甲骨の大きな親戚類者とは異なり骨盤に依存する姿勢をつくり真っ直ぐに載せる7kgもの頭をつくった。ついでに「肩こり」まで生じたが。目で見る能力を発達させた。大中小、右左の血管神経のあまたの管と分泌物が複雑に作用し、而して思考するようになった。同族の生命を奪ったり自らの生命を絶ったりする能力まで身についてしまった。
 かようなストーリーのある伝達物と設計書を申し送られて頼みもしないのに生まれてきた。子をなし育てたから生物としての使命は果たした。なにを伝達しよう、だれも聞いてはくれぬと思うが。望みもしないのに死んでいく。縁起でもないと言われるが、この「いつか」を仮定してみると生前はつまり整然としてくる。必要以上のお金も、媚びへつらいも、要らなくなる。自由に生きよ。
 なに?もう家では勝手に生きているって、女房殿。今に始まったことではないとの由。ははっ。

若者よ『蟹工船』を読め。独りではないぞ。
若き男性よ、恋せよ。
「いのちのたべかた」見に行け。若い女性が多い、しかもひとりだ。
動機は問わない、「いのちのたべかた」を観よ。

映画いのちの食べかた
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/main/theater.htm 
たしか、昨年の11月からまだ上映し続けている、ロングランだ。
渋谷の青山通り入ったところで上映中。
「シアター イメージフォーラム」 http://www.imageforum.co.jp/theatre/index.html 
ただし、上映時間は11:00~と、21:00~の2回。
 
 寒、きわまった昨日今日。

2008年5月12日月曜日

『環日本海諸国図(通称:逆さ地図)』(富山県)の面白さ

我が列島は弧をえがいた大陸の端であります。オホーツク海、日本海、東シナ海は海水が入った湖であります。黄海は奥にすぎません。樺太、朝鮮半島は掛け損なった架け橋であります。五島、壱岐対馬、島根半島、隠岐、能登に続く佐渡、男鹿半島は列島に並び突き出た先端であります。僻地離島ではなかったかもしれません。お江戸、東京が首都となったばっかりに、あちら側を表といい、逆側を裏と呼んだがために格差がつき、歴史が歪んでしまいました。もし首都が富山あたりにあったなら、自ずと対岸世界に目が向き歴史やものの見方も違い、豊かさの配分も変わっていたのではないかと想像します。ひろくユーラシア大陸の東端をみるとき、私は生物の鰻がここに棲息し、巣をフィリピンの東沖に定め棲家をベトナムから日本列島に求めたのが理解できます。すべては地図を逆様にしてみるとその思いをめぐらすことができます。(写真は境港から島根半島を望む)

2008年5月11日日曜日

母の日だった


母は長寿で健在。くにの老人ホームでお世話になっている。独りだ。要介護があがるというので兄夫婦がくにへ帰る。当番のように順番で帰っているが、一番若い私が身動きとれなくなってきた。

「後期高齢者医療制度」には怒り心頭。

みておれ政権党だ。

父母は戦争で財産をなくした。兄、姉の記憶にある。
叔父は南方戦線で死ぬような目にあった。祖母がよく語っていた。
舅もそうだ。
働きづくめの昭和30年代。私達の幼き日を育ててくれた。
近所のおじさん、おばさんも親戚もみんなそうだった。

このひと達が「長生きしてすみません」そうなるのか、なさけない。
ひとのやることか。

人口の多い団塊の世代をにらんでいるらしい。
そのころは倍以上の保険料になるという。

いまからでも、やめてほしい。

長男夫婦から妻へ花束。


*土曜日の近所のヤオコーの特売「うなぎ」。           
「値上げが続いているというのに」の項参照。 左:中国産、右:国産

新・三酔人経綸問答(ちと長いゾ、アクビするな)

同地方の者同士三人で初めて飲む。
最近の原材料の事情に及ぶ。大豆、小麦事情。「値上げを認めてくれない」
魚の数年来の「世界で買えない」事例を話して、とんでもないことになるゾ、と。
大豆も中国が輸出しなくなるのでは、と話をむけると、「いやぁ品質がいいのでそれは困る」と。ただ、あと1、2年かな?
小麦に及んで、次はナニ飲もう?

お二人に敬意を表してイモではなくて麦という。
店員はすらすらとブランド名を挙げるが、こだわりのふりをした商品名ばかりでわからない。
イモならつっこめるがムギはわからん。
特徴を言えというとまたすらすら、「むぎっぽい麦」とか言ったところで、それ。

口を開くたびに話はあちこちに飛ぶ。我々はお江戸中心の得意先。

我々にあって、お江戸にないもの。味の深みだ。
「甘い」と言われる、いや違う、我が地方の歴史的豊かさじゃあないか。
東には、米はともかく塩と小麦と大豆しかなかったんじゃないか。
お江戸中心にもの言うんじゃない、と、いちど言ってみたい。
四万十川の海苔佃煮が甘くてだめなら、大手M屋でつくれ。まして我社でつくるな。

GMOフリーは対応できるが、そうでないものも続けざるをえない。切り替えのときのコンタミを証明できない。匂いもなければ色もない。社内の科学者たちは思い悩む。
ちゃう、ちゃう、あるがまま伝えればいい。貴社の誠実誠意、科学の立場はこの場でわかるが、率直に伝えなくては相手にはわからない。ほいほいと請け負う方が妖しい。それで我がグループはよくひっかかる。

この列島のものづくりは技術をもつ中小企業が支えている。
実感しているし、確信を深めている。大企業といったって、TMUF○銀行のように合併しただけのことで不具合だらけだ、突貫工事を始めている。大手食品メーカーだって自分で作っちゃあいない。中小企業を傘下にいれただけで、危なさはいっぱいある。

中小企業が協同して切磋琢磨しよう、貴社はその核になれ。
気炎があがる。

ここにはとうふ屋さんも、こんにゃく屋さんも、さかな屋さんもいる。
ただ親衛隊だ。譜代だけでは屋台はもたぬ、「篤姫」でもそういうシーンがあった。
貴社のような「能」と「志」あるいわば外様が必要。

『もともとこだわった食べ物作りに、原料管理や品質管理、仕様書管理などができれば鬼に金棒。いよいよ事業協同組合でちいさな大企業がうまれた。』とか言ってもう3年になる。
酔いがまわる。またゴジラを演じなければいいが。

「仕様書」なんて、「知る権利」とはいうものの、あんなの企業防衛型。
ミートホープも中国加工もすぐ検索エンジンが稼動し、さすがに威力を発揮した先進性。ただし時点情報。「ものづくり」のための仕様書ではない。仕様書発注ができる代物ではないし、それをめざしてはいない。ちょこざいに「仕入れ」しようとしている。
ひとの褌、となりのブラジャーだ。

ものづくりを一緒にやろう。

さすが老舗、かんたんには動じない。あちら様への義理も捨てられないという。
それでいい、貴社らしくていい。
すぐ雷同するほうが売上げほしさを感じる。

聞けば最近中部方面の高原やら、ついでに北海道小麦がどうやらこうやらの加工屋さんやらに行ってきたという。あれっ?どっか2方面から聞いた話。検索エンジン即稼動。
世間は狭いゾ。次は誘えと酔った勢い。南の島には元R大□○派のケイコさんがいる、会えば必ず癒される「よくきたさぁ、いいさぁ」で。

夢を語ろう。
素材をもちよろう。ばらばらだけどみなそれぞれ事情あるから今は順列組み合わせ、いつか一同に会そう。みなそれぞれの家業の商品をもち、誇りがあって、積み上げがあって一流品だ。なによりも作り手がみえている。自立をしている。「志」がある。

あのひとは○を仕込んだ63歳。3年かかる。学者さんは足を運び、焼酎を飲む60代。番頭さんは△▽を揉む59歳。常務さんは□◇▽の商談54歳。ケイコさんの漁協は○▽◇5ん歳。事務員さんところは○○を搾っている年齢未詳。あのひとの会社は▽▽▲を掘っている65歳。Etc.

持ち寄るものは「仕入れ原料」と呼ぶものではなく、「素材」。
その道のプロ同士、助け合えばなにができるか今はわからないが、きっと傑作ができよう。
おう、気が大きくなってきた。気概が必要だ。キアイだっぁ!
昨今、言うところの「こらぼれーしょん」かな?
ON様は信頼絶大、営業はおまかせします。

若くて出遭った皆さんも、もう後継に伝えなくてはいけない年になった。事実息子さんになったところもある。

・・・、#$%&@*‘’。ん、帰りますか?10%引きのクーポン使ってください。
明日帰りますか。お気を付けて。


こちらジョニーちょっと酔った。あなたのことがわかる。トンツー、トンツー、・・・。

2008年5月10日土曜日

不安とイライラの循環、能面・金太郎飴型社会




自動改札口の向かいでお年寄りが通過しようとする。
「ゆずってくれてありがとう」と微笑んですれ違う。ほっとなごむ。

休日出勤。

ペットボトルに何者かが農薬を混入する事件が続いている、朝のニュース。

白鳥や黒鳥を鉄棒で殴り殺していた中学生。数日前に夜遅くに聞いたニュース。

ギョーザ事件、ずっと考えさせられているニュース。

穴があいていた、袋があいていた、泡がある、黒いところがある、味が変だ、臭いがする、キャップを開けたら液が減った、吐き気がした、下痢をした。不安だ、恐い。
直面する現実。

土日を越せば遅れる。不安におびえる人に早く結果をお知らせしなければ。言ってみたい「ご安心ください」と。事実にしか基づけないから「不安だ」にたいしては「特定には至りませんでした」が現実。それでも一刻も早く調べた限りの事実をお知らせしよう。
―――というのは、少し偽善だ。こなしきれないほどの世の中の不安があるだけだ。早く解決しなければこじれる、それを恐れる。
明治維新で世の中変わったとしよう、敗戦で社会が変わったとしよう、ギョ-ザ事件はそれに匹敵する、我が業界では。

「あなたはこんな人です」と言われているような前期評価。何故ですかときくと、基準に照らし合わせすらすらと答える。つっこむと部下をたくさん抱えている、と。・・・。
 今期目標は数値化、または目に見えるもの化。「とは言っても」と応えると、「マニュアルに高めることができるまでにしてください」と。要は誰でもできる仕事化、個性はもちろん、個人も要らない。世の中みんなマクドナルドのような笑顔とあいさつになる。

世の中がおびえている。いらいらしている。なにかへぶつける。弱いものにあたる。
とんでもない「循環型社会」になる不安。

「不安だ」をひょっとしたら他の企業、業界、社会が相手してくれないのかもしれない。
我社我がグループは。存在価値があるのだ。

2008年5月9日金曜日

音を上げないで  


社長(大将)はワンマン。ロマンチスト(妄想家)。
だが面倒なことには出てこない。

産地食品加工もはじめた集荷問屋の
なんでもこなさなければならない女子事務員さんに宛てたメール

列島の農業の衰退は目を覆うべきものがあります。

昨年来の米価は農民に米をつくるなといわんばかりです。
農業の担い手がなく後継者がいない。若い夫婦が仮に農家を継いでも将来子どもを大学に行かせるような収入は見込めないのが一般的な現状です。

こころある人たちは「食」の危機と呼んでいます。
ひとつは、この列島から農業を営む人がいなくなるという危機。
自給率向上を言うどころではない、深刻な危機を孕んでいます。
もうひとつは、生産と切り離された食の消費は、食べ方がわからない、調理を知らない、季節をしらない、無駄に廃棄する、などなどの現象を生んでいます。食文化崩壊の危機です。

柑橘類も本来、この列島で自給以上のことができたのですが、ご承知のとおり輸入自由化され、産地は衰退しました。

この列島での稀少な柑橘の適作地のひとつとして貴社周辺での産地が形成され、農民とともに貴社は産地加工に奮闘されています。たいへん有意義な事業のひとつです。流通の端くれに長く従事するものとして、お取引きできるのはたいへんありがたく存じています。とはいえ、食品工場は食品工場でなければなりません。品質を保証することに関しては規模の大小、設備の有無などを問題にしてはいられません。もし不足することがあればひとの力を借りればよいではありませんか。

貴社は大手食品Q社とも取引があったように覚えていますし、納品業者の瓶屋さん、キャップ屋さんもあるし、機械屋さん、装置屋さんなど日本の名だたる製造業とお付き合いがあるはずです。貴社の製品の品質を保証するために、諸課題の根っこに突っ込んでいけば切り拓けます。このことが必要です、その場しのぎを望んでいるのではありません。
起業(企業ではありません)とはそういうものです。大企業もみな初めは町工場から出発しました。
私どもの問い合わせは、貴社製品の品質保証進歩のための“はずみ”となれば幸いです。
聞いてみてお取引先が答えてくれないなら、道理を尽くし、人格で対話をされることです。

この列島の危機を背負い、地域にあって踏ん張っているのが貴社であり貴職です。
どうか誇りと使命感をもち、いまいちど奮闘してください。

2008年5月8日木曜日

残しておきたい記憶

モノの豊かさは誰が支えている?

 今回のミャンマーのサイクロン被害は
痛ましい。 国情のことや、
強力サイクロンと地球環境悪化のことにも
思い及ぶが、さておく。

 実は04年12月26日のスマトラ沖大地震のときの犠牲者にも多くのミャンマーの人々がいたらしい。
らしい、というのは実態が把握されていないからだ。
どこの記録にも残されていない、記憶にのみ残っている。

 タイのラノンは国境の町だ。ミャンマーの南端に接している。
アンダマン海で獲れる水産物の水揚げと加工の町だ。
ここで加工されたヤリイカなどが日本に入ってくる。
ここから南の海岸に沿って
ミャンマーの多くの人たちが住み着いた。
 
 ミャンマーは軍事政権で最貧国のひとつである。
だからひとびとは豊かな隣国のタイに出稼ぎに出てくる、
または不法入国して住み着く。
タイの政府は黙認をし、
その社会は安い日雇い労働力としてこれを受け入れた。

 あのときの津波の程度は地形や海岸からの距離により異なる。
被害にあったところは20mの高さの波で、甚大だった。
植物や建物がさらわれ、小学校の跡地には国旗だけが立っていた。
その小学校は日曜日だったことで最悪の人的被害は免れた。
 海岸近くに住み着いていた不法滞在ミャンマー人が犠牲になった。
タイ政府はこのことを公には話さない。
もっとも不法滞在状態だったので掌握もしていなかった。
この人達は漁や浜加工の低賃金の格好な労働力だった。

 個々の人々が消えたというのではなく、
     格安賃金の労働力が消えたという
 無機質なそんな記憶だけがこの地域のひとびとに残った。

 「バカボンの頬」に見えたので印象深く覚えている。
小柄でより浅黒いその人たちは黙々と立ち働いていた。
この人々は頬にくるくるとした模様で何か塗っている。
それは、何か肉桂のようなもので、それで涼しいのだそうだ。
それがタイ南部の地方の町ラノンの工場で、
また首都バンコックの郊外の工場で
みかけたミャンマーの合法的な出稼ぎ労働者のひとびとだった。

 タイでも、もう「汚い、きつい、危険な」仕事には就かない。
西はミャンマー人、東はカンボジア人の出稼ぎ労働者に頼っている。

 人件費が高騰し始め、通貨も高くなり始めた中国から
再び東南アジアへ委託加工が還流しつつある。

私達のモノによるみかけの豊かさは、
  世界の貧しく勤勉な人たちによって支えられている。

2008年5月7日水曜日

はじめこころ

西岸良平の初期作品が好きで、その後は「まぁまぁ」だ。
魚が空を泳ぎ、光が○△◇に描いてあった。
若いとき発売したせんべいの名を「海千山千」とつけた。
デザインに鬼を描いて、魚を飛ばした。
素案を自分で書いて袋屋さんに仕上げてもらった。
鹿屋の馬鈴薯でんぷんを主原料に海幸山幸を使ったから。
できあがった商品を枕元に置いて寝た。

この列島が水揚げ1,000万トンを超え豊漁貧乏であったころ、
準国策で多獲性大衆魚(いわし、あじ、さば、さんまのこと)をもっと
食べてもらおうと、官民一致、協同組合間提携で知恵をひねっていた。
そのひとつ。
とれたてのさんまを産地で急速凍結し1尾ずつ使えるような冷凍パックをつくった。
これを「さんまのまんま」と名づけた。
後年、小心な?後任者はTVに遠慮していち早くこの商品名を廃番にした。

我社我がグループがまだ小さかったころのこと。

(写真は3年前の汗だく公演中の「ヒロ」さん。
  辛らつな笑いを誘う実力派エンターテイメント)

2008年5月6日火曜日

値上げが続いているというのに


 スーパーの店頭でバイキングのような陳列で置いてある焼き鳥は大きくてりっぱだ。中国でつくっている。かつて焼き鳥はタイでつくっているのが主流だったが変わった。人手をかけている。
うなぎは国産で賄えるのは全体の2割程度で残り8割を中国産や台湾産に頼っている。製品の蒲焼で輸入ものはほぼ中国産だ。

 店舗廻りが好きだから、また仕事柄、店頭のことと折込みチラシはよく観察している。
近頃、焼き鳥とうなぎの価格が変だ。
焼き鳥の1串58円、いや50円まで出現している。うなぎは、昨年末は2串で298円、最近は398円498円である。1尾で売る製品も同じような価格だ。つまり破格値だ。

 昨年5月に中国側はほぼ一方的に且つ一斉に畜肉加工品の9月からの値上げを発表した。すわっ、中国もいよいよ人件費高騰かと思われた、それも事実だとは考えられるが理由は明かされなかった。
だから、昨年秋以降は店頭でも値上げが浸透していた。あまりにも以前が安すぎたと思っている。1串店頭価格58~78円が78円~98円ぐらいになった。それで推移していた。

 うなぎはほぼ100%養殖ものである。養殖は卵を孵化して育てる完全養殖の技術がまだ実用化できていないから、自然に生まれた稚魚を捕獲して大きく育てる養殖である。養殖のうなぎを食べるということは、そのうなぎは一度も親にならないということだから、子孫が減るのは理の当然である。しかも大量に食べている。事実、資源は枯渇の方向に向かっている。今年は稚魚が採れていないので国産ものは高騰している。1尾(2串も)1、280~1、480円が相場。

 つまり、現在の中国産の価格はこれらに逆行して異常に安い。諸価格が値上がりしている折、変だ。

 昨年夏、中国産食品にたいしてバッシングが始まった。ちょうどタイミングが夏の土用の丑で、うなぎの中国産はほとんど売れなかった。店頭はほとんど「国産」で並んだ。年間の7割以上を7月に販売し、国産の供給量は2割しかないのに、である。国産偽装が怪しまれ、事実、大手T社は後日摘発を受けた。
 
 8月に量販各社は中国へ職員を派遣し調査をした。中国での進んだ企業での品質管理の仕方、させられ方は水準が高い。それを見てきたのだと考えられる。

 そうして「ギョ-ザ」事件が起きた。真相未解明のまま、中国産がなんでも悪いという流れで今に至っている。

 店頭の現象は、大量在庫の販売期限(賞味期限に基づく、冷凍保管だから1~2年はあると思うが)が迫ってきての処分販売と考えられる。汗水たらして一所懸命つくった中国の人は浮かばれない。

2008年5月5日月曜日

骨はあるんだよという話、子どもの日に寄せて

 かつて利根川は江戸湾に注ぎ込む暴れ河川で、もともとお江戸も湿地帯だった。
 利根川は大工事の末、今のように河口を銚子に改修した。巨大な消費都市お江戸が成立していくなかで、上方から船で大量輸送していた醤油を利根川水系沿いの輸送経由地で製造するようになる。銚子、野田である。原料の大豆と小麦は上流の関東平野が適作地である。上方から伝わった蒲焼という調理方法に「蒸す」という加工を加えて関東型の鰻蒲焼が成立する。
 泥臭く、骨の多い魚だからこの方法で食べやすくおいしくなった。西日本ではみられなかった方法だ。だから、お江戸のうなぎは少し大きかったのではないだろうか。
(右の画像は今年1月に採れたばかりのうなぎの稚魚、はるか南の太平洋から漂着して河川にのぼろうとしたころの稚魚です、許可無く採ってはいけません)
 
 魚の骨はのどにつかえるから、ときには刺さるからそんな工夫をした。工夫をしたといっても、究極的には取り除くしかない。だからあらかじめ親は幼な子のために、長じて子は老いた親のために骨をとってあげた。骨を取るという行為はしぜんな愛情、思いやりを表す行為であった。もはや「かつて」の話なのだろうか。
 
 「魚に骨があった、どうしてくれる」
こういう「許せない」世の中をつくってしまった。
 魚を加工する産地で、もっと細かな加工をしている中国で、ひとびとは額に汗して骨をとっている。私は背中に冷や汗して骨を折っている。みんな神様のような消費者のために今日も精進している。
 
 少しは骨のある子に育てたつもりの次男三男が今年同時に就職して、保険証に載る名前はいきなり私ひとりになった、30年ぶり。
 穏やかなこどもの日、知己のお方に孫ができたらしい、めでたい。うちも次は孫かいな?

2008年5月4日日曜日

一日遅れの憲法記念日



 「泰平」という名の大学時代の友人がいた。生まれた年に朝鮮半島で休戦協定が結ばれたからだという。

 戦国の世の最終的な「もち」を食ったのがタヌキと言われる家康だ。戦国の世が収斂するなかで秀吉の時代には結局数十万の軍隊ができあがっていた。秀吉はこの軍事力をその誇大妄想もあって朝鮮半島へ差し向けた。このときに朝鮮半島の古代中世の文化財がかなり破壊されている。侵略した方の日本側も相当の疲弊を蒙っている。このときの現場部隊と後方司令部の軋轢がその後の関が原での敵味方になった。
 その関が原では数十万の軍隊がぶつかり合い雌雄が決した。政権を握った家康は、肥大化した当時の全国の軍事力を再び海外侵略に向けるのではなく、他藩の軍隊のリストラを実行し、海外進出そのものをやめてしまった。その後これを鎖国策と呼んだ。
 天下泰平260年とは「平和主義に転じた」そういう見方ができる。

 敗軍となった薩摩は幕府への従順の姿勢を示しつつ、一方で徳川の脅威から身を守るべく、ハリネズミのように領内に防備を固めた。各地に麓(=府元)と呼ばれる武士集落を配置し、今に残る他藩に比べ圧倒的に武士の数が多く、しかも地方武士は半農半兵で藩からは何の支給もなかった。痩せた土地柄だったから領内の農民の負担は重く抑圧は相当のものだった。関が原後、直ぐに琉球侵略および支配の承認を幕府から得て実行している。
 島の支配<農民の収奪<地方武士<城下武士という厳しい支配構造をうちたてた。これに被差別部落も存在した。

 時代が下って戊辰戦争でぶつかり合った戦力は数千である。260年前の関が原の動員力に比べればいかにも少ない。内戦がこの程度の動員で済んだというのは平和がどれほど続いたかという証左である。薩長の明治政府は帝国主義の脅威から身を守るべくというよりも自ら帝国主義となって出発し、その後は太平洋戦争で破綻するまで数百万の軍事動員力を持つまでになった。その原型が薩摩にあったといわれている。

 自らとアジア太平洋の人々に多大の犠牲を強いた長い日本の戦争は1945年に終った。そして戦争そのものとその手段となる武力を放棄する憲法を持った。今度は世界にたいしても「平和主義に転じた」ことを公言した。
 
 徴兵制も敷かれず、現在に至っているが、20万の軍事力(士官、いざとなれば下士官となる)を持ち、また5万の外国軍隊=アメリカ軍の支配的駐留がある。人口にたいするこの軍隊の数を軍人密度というが世界有数といわれる。これが実態だ。

 憲法記念日の昨日、行動したかったが仕事を強いられた。メーデーにも何年も出ていない。