2011年1月31日月曜日

そのあと

 何も反省はしなかったけれど種子島反省会も終わった。楽しみにしていた茨城のあんこう鍋も食い尽くした。3月の滝打ちは気合がひける。5月の種子島にはまだ日が遠い。ココロが空っぽになってメシも喉を通らない。それで夕食を抜いた。
 …なぁんてウソ。食べ過ぎ。これ以上は無理というところまで食べた。どの料理も手を抜いてなかった。それなのに品数も多く量もあった。だからこちらもひとつ漏らさず食べてしまった。
 それで、宿で朝にも出たが、帰宅しても長い思い出が何本も出てくる。早くも思い出が流れていく。つれあいは思い出をしまったっきりで、ちと苦労している。
 これは一食抜かなければいけないと、家に帰ってきてから呆けていたら、日が暮れてブルッとくる。つれあいが温度計を見てみたら室温が0℃だ。パソコンを開ける、この前買ったばかりのマウスが動かない。早速、先ほど車検で帰ってきたばかりの愛車で購入先の量販店に行く。さんざん待たされた挙句、買い替えてくれという。何故不具合がなどという追究をしてくれる気はないらしい。先に買ったときカード支払いをしていたので面倒な手続きに。かれこれ2時間ぐらいを空しく過ごす。よく考えてみたら、前日は5時起き。当日はアジアカップ観戦に巻き込まれて2時間しか寝ていない。風呂に入って温まり疲れて寝た。
 それで翌日の今朝は、この脱力感に追い打ちをかけるような冷え込みようだ。お湯も出ない。しかし、ぜいたくを言ってはいけない。ドカ雪に悩む地方や、ウイルス禍や噴火の被害に遭う生産者のみなさんに比べれば何程のことでもない。

 あの日の夕方営業先で何事か起きているようだと聞かされて知らないまま、たまたま外勤から直帰してテレビを観て驚いた。「食べるな危険」ずっと夜中までそのテロップが流れた。その後の異動でそのカナリヤの役目についている。あの事件から3年を超えた。ときどき忘れそうになる。被害に遭われた方のことを、第一線の仲間たちがどれほど苦労したことか、忘れてはならない。

2011年1月29日土曜日


 鹿児島空港に降り立ち、見晴らしのいい日には霧島連山を望むことができる。今ぐらいの寒いときがそうだ。

 いつの季節だったか、その霧島から桜島そして彼方に開聞岳を一望できたことがあった。それはすばらしい眺めだった。しかし、同時にこうも想像してみた。この光景から緑を消し去ってみれば、これははるかなる太古の火山群の世界そのものだ。昔観た映画「恐竜100万年」を連想した。

 桜島がしきりに噴煙を上げていたのは学生時代までだった。夜中にドーンという地響きがして、慌てて起きて友人の下宿の窓から見上げれば、夜の帳の中に火柱が上がっていた。そのころ以来桜島はおとなしくなったと聞いている。

 開聞岳の南の海上には硫黄島といって有人島だが、見た目がミニ桜島のような活火山の島もある。周辺の海は赤色だ。霧島からここらに至るも火山帯だ。錦江湾の一部ももとは巨大なカルデラ湖であるらしい。

 霧島山から噴煙が上がるのをあまり見たことはなかった。新燃岳も昨今のニュースで聞くまではシンネンダケだと思っていた。私の故郷に火山灰が降ることはなかった。気づかなかっただけのことかもしれない。灰というから木の灰のようにふわふわとしたものかと長年思っていた。ところが鹿児島市内で経験してみて驚いた。“細かくて重い砂が落ちてくる”そういうことだ。とてもたまったものではない。

昨年の口蹄疫といい、このたびの鳥インフルエンザといい南九州では踏んだり蹴ったりのようでつらい。

銀座で


 昼休みは散歩を心掛けている。今日も天気がよかった。ちと乾燥注意報が続き過ぎている。
夕方、生まれて初めて銀座松屋前で彼女と待ち合わせをした。
「おかあさん、銀座、ギンザ、ほらギンザ」「おとうさん、わかったから声を小さくして」
くるくる目の長野さんに再会して、みんなで銀座の旅館吉水の食事を共にした。こんな小部屋もあったのだ。三澤さんもYさんも飲む気満々だったので、つられた。
夫人同伴で尚且つそう遅くもなく帰ったつもりだったのに、帰り着いたら日付が変わっていた。乗り換えるべき駅をうっかり乗り越した。
明日は、いや今朝は曇るらしい。目覚ましを5時にセットした。

2011年1月26日水曜日

寒さがこたえる

 40代ぐらいまでは暑さ寒さを感じなかった(という気がしている)。ところが寒さがどうも苦手になってきた。何かの拍子に悪寒を感じるときがある。それで今では寝る前の湯たんぽを離せない。今は持っていないが電機敷き毛布もいいかなと思い始めてきた。

 とうとう我が職場でもインフルエンザにかかった職員が出た。去年入った新人だ。

 共同化という名の下にいつのまにか人減らしが進んできた。皆、効率を上げよという目標成果に邁進している。査定が細かいのでみなばらばらに頑張っている。効率が上がれば、詰まるところ人が要らなくなるはずだということになって、人を減らしてコストを下げるという方向に進む。そうしなければ組織が生き残れないなどと言われば、おいそれとはモノがを言えない。文字通り矛盾だ。こちらの方も寒々しい。

2011年1月25日火曜日

種子島紀行Ⅶ

 ツアーの2日目の夜は種子島西之表市の沖ヶ浜田集落の民宿にいた。位置は島の北東海岸にある。サトウキビ畑は島の随所に見られた。サトウキビとその製品の黒糖の産地では、私たちが普通に言う黒糖のことを「砂糖」と呼ぶ。それで、畑で収穫したばかりのサトウキビから黒糖をつくる共同の作業場・工場のことを「砂糖小屋」と呼ぶ。往時(戦後)は島の至るところに300軒余りあったそうだが、今この集落では2軒限りであるそうだ。ちょうど最盛期のころにお邪魔したらしく、夜明け前から作業を始めなければ、夕方には終わらない。その作業場での生産の準備はできているらしい。砂糖小屋はこの民宿の裏手の海岸を臨むところにあるらしいということが判った。

 “台風で難破のアメリカ船、ある秋の凪の夜、貞吉さんが浜の漁に出てみれば、…”の沖田頭領による歓迎の宴での出し物もやんややんやの喝采で終わり、もうみんないい気分になっていて、お開きの雰囲気になる。我がメンバーは早速、工場と浜の様子を見に行きたいとそわそわしている。

 ツアーのみんなで民宿を出て海へ行く。海辺に面した砂糖小屋をみつけて覗く。黒糖をつくる準備がすっかり整っているようだ。設備がどれほどのものでも、整理整頓がされているかどうかで製造に臨む姿勢がわかる。さっぱりと、こぎれいだ。月夜で明るい。海辺へと進む。磯に行こうとして誰かが海藻で足を滑らせる。さらに進むと、月明かりに砂浜が見える。大きく湾曲した形だ。寄せては返す波打ち際より引っ込んだ砂浜に大きな海亀が横たわっている。動かない。確かめると既に死んでいる。かわいそうだからと海へ戻してやったのだが、帰りに見たらまた打ち上げられていた。

 しばらく浜を散歩して宿に戻ってきたら、どこに行っていたのかと、未だ持田さんも沖田頭領たちも地元の焼酎を飲みながら私たちの帰りを待っていた。

 大頭領(おおとうりょう)の持田さんは82歳。昭和4年生まれ。息子さんと甥っ子さんの後継ぎがいる。背筋がピンと伸びて肌の色艶がよい。昔話なのか、素もぐりもやるらしく特産の「とこぶし(ながらめ)」は日に200kgも採ったそうだ。二瓶さんによると、今期限りで引退するらしい。

 持田さんは同じ県内出身だという私のところに来て、実は…と、ホマレさんというお姉さんがいたという話に及ぶ。そのお姉さんは昔むかし私の町に嫁入りしたらしい、しかも嫁ぎ先は私と同じ苗字のところだという。お互いに酔っていたので話は堂々巡りだったけれども、それで親しく話し掛けてこられた。母が元気で生きていたら調べようもあったが、親戚付き合いのない私には、何分古い話でもあり確かめようもない。持田さんとは縁があるのかどうかはわからないが、なにかの結びつきはあるのかもしれないと考えた。酔いがまわって支えられながら12時近くに帰って行かれた。

 私は翌日、帰りのプロペラ機の中で目を瞑り浜辺の夜のことを思い出す。まるで月の砂漠にいた浦島太郎が飛行機に乗って現実の世界に引き戻されていくような不思議な気分だった。

2011年1月24日月曜日

種子島紀行Ⅵ

 中種子町の街中らしきところに入る前を逸れて行きますと旧種子島空港の跡地がありました(空港を二つもつくったのですね、この島は)。その脇に次の目的地であります「薬用植物資源研究センター種子島研究部」がありました。独立行政法人医薬基盤研の一研究センターで、全国に4箇所あるうちのひとつでした。二瓶さんの事前資料によれば、「種子島は他地域と比較し、南限・北限の植物や希少種が多いものの、諸開発に伴い絶滅・減少しています。この中には薬用植物もあり、入手し、保護策を講じている、有益な薬用植物の研究現場」であるそうです。
 休みにもかかわらず研究員の杉村さんが案内してくださいました。私たちのメンバーは農業、植物に興味があり、そして生命に深い思いのある人たちでしたので、杉村さんたちの長いスパンの研究に理解を示すことができたようです。帰京後、二瓶さんを通じて杉村さんから「みなさんに、種子島研究部で保存している熱帯・亜熱帯性植物を中心とした有用植物資源を保存する重要性を認めていただき、とてもうれしかったです。また、自分か関わっている仕事の重要性を再認識しました。」という率直な「お礼」のメールをいただきました。私に理科ができて生き物を観賞したり観察したりする能力や性格があったら、こういうところでそういうことに没頭できる職業人生もいいなと思ったのですが、所詮は「隣の芝生」かもしれません。短史眼的に事業の縮小にさらされているもようでした。この国から基礎的研究というものがどんどん削られて、明日の成果ばかり求められている姿がここにもありました。

 さて、種子島は黒潮と台風の通り道で、船を使えば情報は早く、また難破船の漂着も多かったようです。鉄砲伝来で有名な島ですが、もとはといえば南からの貿易船が漂着したことがきっかけで、なお且つその武器伝来の話(情報)は翌年には紀州や堺に伝わっていたといいます。陸路とは比較にならないほど早く行くことの出来る海の道があったようです。当時、鉄砲を再現し応用させることができる製鉄と技術があって、またたくまに戦争の道具として戦国の武将達にひろまったようです。
 
 カシミヤ号漂着から10年後の明治27年(1894年)にもイギリス船の難破漂着がありました。このときも島の人々はこれを救い世話をしました。そのときのお礼にと船で食用に飼っていた鶏を残していきました。それを「インギー鶏」と呼び今に伝わっています。この呼び名はイギリス人のことを当時「インギーさん」と呼んでいたところからきたものです。島の南に下り、その名物のインギー鶏を昼食にいただきました。最初はしゃれたペンション風のホテルらしきところに着いたのですが、ここではなくて次に南種子町役場、南種子町高校近くの「美の吉(みのきち)」という食堂に案内されました。こちらの女将の陶山さんは、実はここの町会議員さんで西之表市会議員である長野さんのよき先輩でもあるらしいのです。日の当たるポカポカした部屋で、焼き鳥定食、陶板焼き定食を注文。定食には名物のにが竹と鶏の煮物(「竹取物語」という洒落た名前)と生姜のきいた薩摩汁などがセットなのですが、鶏は評判どおりのなかなかの味でしたね。それと、国道沿いに干してあった大根の丸干しと思しき漬物がみなの舌に合い、お代わりを所望したら山盛りでいただきました。先のホテルの方も娘さんがやっているとのことでした。
 食後、陶山さん自身が飼っていらっしゃる養鶏舎と畑を見学させていただきました。400~500羽は飼っていらっしゃるそうです。今では、そういう生産者が22名ほどいるらしいとのことでした。この難破船「ドルメルタイン号」ゆかりの地にある花峯小学校にはこの鶏が飼われておりまして、道路沿いから見ることができました。

 古代、日本列島には大陸と南島から文物が伝わってきたそうで、この島には「赤米」が残っていて貴重なものであるらしい。赤飯のルーツではないかと言われていますが、食べるには硬いもので、「黒米」とはまた食感が違います。それを伝承する「赤米館」というところを訪問しました。北の畑作丘陵地帯に比べて島の南は米作地帯であるようです。この近くの神社には、西南戦争時に出征した種子島士族の顕彰碑が建立してありました。ここぐらいでした、やっと鹿児島県を実感したのは。どこにも鹿児島弁はほとんど聞かれず、言葉も開放的な気質もずいぶん違うなと内心感じていましたから。
 これから、北へ向かうのですが、時間をとって宇宙センターに立ち寄りました。長野さんはやっぱり見てもらいたかったのでしょう。見晴らしがよく広大な土地を使うものだなと思いました、とても風光明媚なところでした。みんなで記念写真を撮りました。

 島の南端へ来ましたから、こんどは一路北上しました。それにしても、ちらりと右側に見える海岸と砂浜の海の風景は美しい。暗くなってきたころ、西之表市内のお菓子屋さんに着き、コーヒーブレイク。店主は酒井さんとおっしゃるのですが、この人も結婚で鹿児島市内から移って来た人でした。種子島特産の黒糖、さつまいもなどを素材に和洋のいくつもの商品を開発されていました。

 このツアーの主たる目的は、「本場の本物」認定品目である「沖ヶ浜田の黒糖」づくりを実地に見学することと、その沖ヶ浜田黒糖生産農家のみなさんとの交流をすることでした。ようやく沖ヶ浜田の民宿に到着し、早速鍋を囲んでお話をうかがい、夜まで過ごしました。そのときの様子を当ブログ「誇りある島Ⅱ」(12月23日)にアップしています。

2011年1月23日日曜日

いとこのケンちゃん

 1か月前のことはなかなか思い出せないのに、50年近く前のことのある断面は覚えているものだ。加齢を重ねている。

 巣鴨の叔父の49日の法事があって参列してきた。集まった人たちは身内であって他人ではないはずだが、最初は誰が誰だかわからない。叔父や叔母と40年ぶりぐらいに再会する。最後に会ったのは君が高校生のころだったかなと言われる。その他にいる初老の人たちはほとんど従兄弟達らしい。東京のイトコ達だから小さいときに会ったぐらいで、あまりわからない。

 故郷のイトコは6つも9つも年上だったので遊ぶことはなかった。東京には同い年のイトコが二人いた。ヒロシちゃんとケンちゃんだ。たまに、叔父さんや叔母さん達が帰ってきて、おばあちゃんの家に泊まっていた。地元の私が泊まることはなかった。

 私は人見知りだったので、叔父や従兄弟の前に出るのは苦手でいつも二階から降りてこなかった。第一、東京弁をしゃべる従兄弟には気後れした。いとこ同士だ、仲良く遊びなさいと言われてもなじめなかったが、ケンちゃんは違った。たぶん田舎に来て退屈したのだろう、同い年の私に積極的に遊ぼうと誘ってきた。引っ込み思案の私でもケンちゃんと遊ぶうちに打ち解けてきた。毎日の夕方「ちろりん村とくるみの木」を欠かさず見ていたのだが、ケンちゃんはこちらのチャンネルが少ないものでつまんねぇと言って、テレビから引き離されたことを妙に覚えている。東京にたくさんのチャンネルがあることがよくわからなかった。民放は一局しかなかったから。ケンちゃんのほうが体を使って遊ぶ子供らしい子で、私は本やテレビが好きで子供らしくない子だったと思う。レスリング遊びをして組み伏せられた。腕力の強いイトコだった。たぶん夏休みのことだったのだろう、楽しく過ごしていたのに、消えたようにいなくなった。もちろん東京に帰っただけのことだけど。取っ組み合いをするような兄弟もいなかったので、そのケンちゃんと楽しく過ごしたことがすごく印象に残っていた。

 昭和ん年生まれですよねと話かけて、あのときの従兄弟だとわかった。
 小学校三年生のときのことだったそうだ。それ以来、そういうことで行ったことはなかったそうだから。後日、叔母さんからレスリングをやっていると聞いたことがあったが、高校時代やっていたそうだ。さもありなんという上背だった。

 こちらはさかんに、いや懐かしいと語りかけるのだが、謙次さんは少しも覚えていないらしい。もの静かな初老の紳士になっていた。

2011年1月22日土曜日

ふるさと行

 ふるさとは「遥かなる大草原の家」というわけにはいかない。港町の中にある。

 駅まで義兄が車で迎えにきてくれた。新幹線が動かなくて遅れたとはいえまだ夕方の6時前だ。ローカル線は律儀に新幹線の到着を待っていてくれて飛び乗れた。夕闇をあきるほど見ながらとことことでようやく辿り着いた。街のはずれにある駅からはずっとずっと商店街が続く。街灯は両腕が伸びたように2灯あって昼白色で明るい。往時は賑やかであったろうことは想像できるが、いくら真冬の日没後とはいえ人っ子一人いない。商店はほとんど閉まっている。まっすぐ行って鉤型に曲がって、また、まっすぐ行って、信号で止まっても人もおらず意味がない。まっすぐ行って、また、同じように曲がる。少し行ったところにシャッターを開けたところがあって、そこで止まる。ああここだった。つれあいの母と父の姿をとらえ、手を振る。

 実家はうなぎの寝床だが、二軒続きの家になっている。隣の家を購入したからだ。北洋漁業で羽振りがよかったのだが倒産して夜逃げ同様にいなくなりいつしか競売にかけられた。二階にりっぱな座敷があるのだが、階段の昇り降りがつらいらしく、階下のトイレに近いところに小部屋の寝室をつくり義父母は暮らしていた。

 姪っ子たちが昔ながらの盛大な結婚式を挙げて早や3年が過ぎていた。男の子が2歳半になっておしゃべりができるようになったばかりらしい。かわいい盛りだ。ひと目見てどこかで会ったことがあると思ったら、目元が結婚式で見た婿殿にそっくりだ。特徴がある。

 つれあいの父母のことをじっちゃん、ばっちゃんと呼び、祖父母になる義兄たちのことはジジ、ババと区別するらしい。若夫婦は3階にりっぱな新居を用意してもらったから、婿さんの「むっすう」はまるで入り婿のようだ。姪っ子は看護士で夫は介護士。
 そういうことで義父母は四世代同居同様に住んでいる。義姉がスーパーのパートに出て、食事は義母がつくっているらしい。具沢山の味噌汁などは、つれあいのルーツがここにあるということがわかるような作り方だ。

 ここはかつて日本一の水揚げ港になったこともある。小学校の社会科で習った頃だ。「トウホク」とはどういうところだろうと思いを巡らしたことがあった。遥か昔のその頃だ。まさかそのようなところの人と連れ添うとは思ってもいなかった。いや、深層心理にねらっていたのかもしれない。

 往年の栄え方はさもありなんと思われる老舗の構えもある街並みだが、今は例外に洩れずシャッター通りだ。バイパスがあってそちらに大型店があるらしい。義姉もバスに乗ってそこに勤めに出ている。
 この商店街のはずれに地元の魚を使いJRの宣伝誌や雑誌などで取り上げられて有名になった居酒屋があった。実家からは歩いて行ける。出来て20年ぐらいらしいのだが、地元の親たちは行ったことがなかったらしい。所望してそこで、ご馳走になった。過疎地の分校が出身のむっすう君も初めてだったらしく、一生懸命ブログ用の写真を撮っていた。

 たたんだお店の入り口にまるで小さな事務所のような小部屋がこしらえてあって、丸椅子や簡易なテーブルが置いてあり、石油ストーブが点けられている。ラジオを流し放しで、義父母は二人で新聞でも読みながら終日ここで過ごしているらしい。実は隣近所のお仲間の溜まり場のために作ったらしい。二人揃って体にどこも悪いところはないらしい。だから高齢にもかかわらず薬を常用することもない。

 それから1週間が過ぎた。ふるさとは閑散としていたが、92歳と86歳の義父母は息災であった。辺鄙なところだし、第一、元気だったし、もうしばらくは行かなくていいね、と言うつれあいを私は諌める。

2011年1月18日火曜日

佐々木夫人の訃報


 宿の夕食をとっているときつれあいの携帯が鳴った。佐々木袈裟美さんが亡くなったという報せだった。つれあいの頬にはもう涙が伝っている。つられてこみあげてくる。給仕の人にさとられないようにする。

 夫の昭七さんは献身的に地域の問題をとらえ地道に活動してきたが、昔気質な人なのか、家の中のことは何もしなかったらしい。袈裟美さんも一緒に活動してきたが、家のことでは女仲間に愚痴をこぼしていたという。何年か前から病に倒れ、お見舞いに行ったこともあった。入退院を繰り返し、大柄な方だったけれども、最後には面影もなかったらしい。一体報われることがあるのだろうかと思わぬこともなかったが、ご本人の気持ちはわからない。文字通り名もなく貧しくだったのかもしれないが、信念と誇りある人生だったと弔ってあげたい。明日の通夜に出席する。

2011年1月17日月曜日

白布温泉行

 米沢駅まで迎えに来ていただいたのは遠藤さんで宿の若い当主さんでした。道中この雪の中の生活のことをいろいろ紹介してもらいました。大雪のあとの町のあちらこちらで、高い屋根の上から積もった雪降ろしをする姿を私が目の当たりにしたのは初めてのことでした。

 宿の母屋の茅葺屋根は、雪降ろしをしたそうですが再び雪が被さっておりました。建てて190年を超すそうです。かつて三軒の宿屋が茅葺屋根を連ねていたのは壮観だったそうですが、2000年3月の大火で残る二軒の茅葺が焼失したそうです。旅館としての茅葺は現在の消防法では認められず復元できないそうです。それで今回の宿泊先がここで唯一残った茅葺屋根とのことでした。宿は昔ながらの日本宿のスタイルでスリッパはありません。宿の廊下は職人さんが作った藤ゴザが敷いてありますが、階段はぴかぴかに磨かれた木でとても冷たいのですが、すごく清潔で美しく保たれています。

 この大きな旅館にどうも私たち以外にはもう一組ぐらいしかお客さんがいないらしくて、いつ行ってもお風呂場はマイ温泉状態でした。

 部屋に案内してくれた番頭さんからうちのお湯は熱いですからと聞いていましたが、熱すぎることはありませんでした。お風呂場は吹き抜けになっていて、屋根こそありますが外気が流れるみたいに露天風呂同様で、上半身を長くは出していられませんでした。その外気は当日マイナス9℃ぐらいだったはずで、お湯も熱すぎなかったものと考えられます。熱い源泉から滝のように落ちてくる「打たせ湯」が3本あって、湯船に次から次と流れ込みます。湯船は御影石とのことで長い年月の間に黒くなったらしく、電燈ひとつの下では境目がよくわかりません。湯船の湯は川のように流れているようで、こぼれ落ちるお湯は風呂場の外の渡り廊下の下をこれまた勢いよく流れます。まるで惜しげもなく思いっきり温泉の湯を捨てているようです。故郷の栗野岳温泉「南州館」のことを想いだしました。

 風呂場には源泉の上がり湯と湯船があるだけで、鏡と蛇口があるような洗い場はありません。湯船から湯を汲むだけの昔ながらの温泉のスタイルです。今どきの若い人は使い方を知らないのではないかな。日頃、痛みを感じている肩に湯を打ちます。じんじんときて、なにか効いているように感じます。

 お風呂の外の渡り廊下に、なんでこんなところに綿ぼこりがと連れ合いが思いましたのは、よく見たら湯気が一瞬にして結晶したものではないかと考えられました。窓の外にはつららが長く下がり、部屋の障子一枚で隔てた縁側に風呂上りのタオルを干していましたら少し経つと凍っておりました。

 当主の若いご夫婦の遠藤さんは十九代目、おしゃべりを始めた二歳の坊やは二十代目ということになります。現代風の快適さではなく、それぞれの木材を使い土壁と障子を用いた建物そして本物の温泉をありのままに提供する。そういう代々引き継いできたことを現代風に「コンセプト」にまとめて案内してありました。少し手を加えながら維持していく後世に残していくことが使命だとも書いてありました。そして、そんな山間にもブロードバンドがケーブルで四月からつながるそうです。工事をしておりました。

 翌朝、山の宿から乗った帰りの路線バスは終点の駅に着くまでとうとう私たち二人だけでした。米沢から福島に出てきましたら、水墨画のような雪景色から、まるでミレーの描く油絵のように風景が一変しました。わずかの乗車時間で景色がまったく違っていて不思議に感じました。

2011年1月14日金曜日

小旅


 私は器が小さいから、ときに取り乱す。私のは見れたものではないが、それではない蝋梅(ろうばい)ぶりが見ごろになってきた。昨年の今ごろ、北茨城の神長さんのお宅の庭先でその花の美しい姿と甘い香りを楽しんだ。神永さんは「奥久慈漆」を復活させようと取り組んでいる。あれからそろそろ一年になる。

 現金なものだ。普段ならしょぼくれているのに、朝から鼻歌が出ている。

 独り暮らしの母に寄り添うことをせず親孝行をしなかったと後悔してみても、「孝行をしたいときには」という状態になってしまった。しかし、つれあいの方は両親とも健在だ。それで、JRのスリーデイパスを使って会いに行くことにした。3日分あるので、一泊はこの前NHKの英語放送で観た山形の白布温泉に初めて行くことにした。

 旅支度をする。こたび、東北に行ってきます。

2011年1月13日木曜日

種子島紀行Ⅴ

ひかり農園

 茶園訪問の次は島をずっと南下する。初日から見た光景だが、今日も沿道のガードレールに2本に組んだ大根が干してある。場所を専有するように。陽がよくあたり風は冷たい。丸干しにするのだろう。それで、公共物であるガードレールにあんなのありかと、訊ねる。当局からのお咎めはないようだ。それどころか、もっと高さを調整してほしいと願い出た人もいたそうだ。こんなところにすらこの島に伝統的なおおらかさが感じられる。本土の薩摩側でやろうものなら。それこそ「おい、こら」だろう。

 中種子町にあるひかり農園を訪ねた。いかにも園芸農家の農夫らしいいでたちの当主、光 時信さんが淡々と応対する。大きくてりっぱな園芸ハウスと露地栽培の畑で、自宅の周りに「まだあるの」というぐらい園地がある。冬に温度を保つためにか封鎖していたハウスの入り口をわざわざ解除して、みな恐縮しながら中に入れてもらう。栽培のことは私にはよくわからぬが、ツアーのメンバーたちはいたく農業に造詣が深い。なるほど、ほう!の連発だ。見ればみるほど、聞けばきくほど「これはプロだな」の感嘆。種子島は渡瀬ラインの北にあって温帯圏であると学校で習って機械的に呑み込んでいた私にとって、亜熱帯系の植物や作物も交錯するように育ち、また栽培されるのだなということがわかった。それでも、さすがにドラゴンフルーツやスターフルーツやマンゴーなどは露地栽培とはいかない。丹念に接ぎ木をしたり蔓を棚に這わせたり相当の手間ひまがかかっているなと私でもわかる。実生からも育てる技術を持つ。ドラゴンフルーツの花は夜(夜の9時から朝の6時ぐらいまで)咲くらしい。「受粉してから何日ぐらいで咲くか」という問いが銘々から3回続いても「50日」といやがらずにさりげなく答える。

 「ほら、もってけ」「食ってみろ」という感じで無造作に、成っているスターフルーツやドラゴンフルーツをもいでナイフで切って食べさせてくれる。お金に換算するのもなんだが、買えば正真正銘の国産品となれば結構高価なものだ。むしゃぶりつく。ハウスを出たところで、つれあいが、なんだその顔はという。なんだと言われてもと応えるが、口のまわりが赤紫色になっているらしい。ドラゴンフルーツ(赤)のせいだ。そんな食べ方する人いませんよと言われる(実は、もう一人いたらしい、クスッ)。季節柄なにもなかったがハウスのブドウ園は経済的には主力商品のひとつかなと考えた。ぶどう狩りもできるだろう。ほうれん草には塩を撒き、そして水を撒くという育て方をするらしい、そうするとアクがとれるらしい。食べてみれば実際、甘い。そのことは翌日昼食をとったお店でも聞いた。自分で漁をした魚と直栽培の野菜を素材にすることが自慢のお店だ。ほかにはパッションフルーツ、パイナップル、アセロラなどなど、まるで植物園を訪ねたようだった。外の庭ではカシューナッツの木というものを初めて見た。
 薩摩は奄美を支配したときに苗字ある家には一文字しか認めなかった。光さんは奄美大島の隣の喜界島からの移住者だと聞いた。
 好きに食べていいといわれたので最後に裏庭の枇杷をもいで食べ、八朔は宿で食べようともいだが、機会を逸し結局持ち帰ってきた。思い出の八朔だ。そろそろ食べようか。

30年目の今日という日


 今朝はいしいひさいちさんが描くワン公をデザインしたネクタイ(by STUDIO GHIBLI)をしめる。いつか娘からプレゼントされたものだ。そして今日からオーバーコートを着用する。

 昨夜0時を回ったところで「おめでとう」のメールを送る。毎年これを送るのだが、自意識過剰なのだろうか無視される。それで「失礼なやっちゃ」と放っておいた。ところが、今年はすぐ返信がきていたようだ。「30周年になります」、ありがとうの絵文字付きで。

 2歳違いで2人目が女の子で生まれたときは喜んだものだった。かわいらしい顔をしていて、二人でやったねと顔を見合わせた。感受性の強い子だった。おしゃべりを始めたころは、出てくる言葉がまるで詩人のようだった。それから、幾星霜、私のせいだか、私に似たからか、素直でなく成長してしまった。大人に成りきれていない。自立を促し今は一人暮らしをしている。「うちのおんなトラさん」と呼び、みなで機嫌を損ねないように、その気まぐれに付き合っている。

 学校を出て資格をとった。就職したが、事実上の派遣労働者だった。振り返れば就職氷河期の最中だった。最初のわずか3ヶ月だけ自転車で通えるほどの自宅に近い職場だったが、すぐに配置換えになった。交通機関もなく自転車で一時間以上もこがねばならない。朝番のときはまだ暗い4時過ぎには出勤せねばならず、では早く帰れるかというとそうではなかった。20歳過ぎの女性には危険も伴い、ぐずぐずしていた自動車免許を大急ぎでとらせた。長時間で過酷な労働だった。だからといって一時金もなく収入がよかったわけでもない。一緒に入った同僚たちは次々と辞めていったが、娘は最後まで残った。
 つれあいはいつも心配で毎週日曜日に入る折込みの求人広告に隅々まで目を通していた。いつか、たまたま条件に合った募集が一人分だけあって運良く採用され晴れて並みの正規職員になった。それから何年か経つ。男性もいる職場でそのうちよい話でもあるかと思っていたがその気配はない。好き嫌いが多く、肩肘張って生きているようだから寄り付くものも寄り付くまい。誰に似たんだか…。

 中川誼美さんの『ちょっと前の日本の暮らし』を読んでもらおうと思うけれど、まず読んでくれるだろうか、わかってくれるだろうか。肩のちからを落として、ひとの力を借りて、そして貸して生きていかねばならないし、それでいいのだよということを。

 今日もどこかでお祝いの食事をしようと誘うが返事も寄越さない。今年も独りぼっちでいるのかなと思ったら、7時前にひょっこり訪ねてきた。こっちも帰宅したばかりだ。あんまり夕食は食べたくはないけれど、自分に誕生日ケーキを買ったので一緒に食べようということらしい。そうは言ってもということで大急ぎで夕食を準備する。♪ハッピーバースデーをやって食事。じゃあ、ということで最近買ったばかりの「男はつらいよ第1作」(『寅さんDVDマガジン創刊1号2011年1月6日』)を一緒に観る。

 昼休みに紀伊国屋書店で物色をしていて何かプレゼントを考えていたのだけれども『寅さんから学んだ大切なこと』(2010年09月刊 皆川一著)がよくて、ラッピングしてもらった。皆川一さんは渥美清氏の元付き人。筋と人間味の通った渥美さんの生き方を、そして人への思い至り方を軽妙に平易で且つ印象的な言葉で伝えてくれる。まずは、今の娘にふさわしいなと考えた。「寅さん」はたまたま重なっただけ、DVDを観たのは成り行きで偶然。プレゼントを用意しておいてよかった。会えないと思っていたから、帰りの電車で今日どうやって渡そうか、アパートの郵便受けに無理やり押し込んでおくしかないなと思案していた。思いが通じたのか、手渡しができてよかった。『ちょっと前の日本の暮らし』はその次にしよう。

参加します

 お土産の袋が多くて手荷物をひとつにまとめ直した。そのためか、出発ゲートに入るときはグループの一番あとになった。長野さんは最後まで見送ってくれて、1月の27日には上京します、じゃあそのときはぜひ東京でとあいさつを交わして別れた。
 お土産が重いのはそのときいただいた自家製の安納芋のせいでもあった。

 それで案内が来た。日程は月末のあんこう鍋ツアーの前夜だ。「反省会」いや「“却下”会」がいいのではないかと参加する旨に添えて返信した。

 ツアーの車中で、あれをやりたいこれをみたいと、日程プランを混乱させるような希望を言う人がいたので、案内者の長野さんはどうしたかというと、聞くだけ聞いて「却下します」とスパっと切った。そのお役所的用語が何とも可笑しくて、しかも連発するものだから、すっかり我々のなかでは流行り言葉になってしまった。長野さんは市会議員でもある。私たちと目線は同じで、見識も行動力もともにある良識派の政治家のようだ。

「勝ちゃあ、
個性派と言われるけれど、
負けりゃあ、ただの我がままよ」(渥美清さん)
を地でいく展開だった。

 さて、再会が楽しみだが、翌朝が早い。はて、どうしましょう。都内の息子夫婦のところにでも泊めてもらいましょうかと言いながら、むにゃむにゃと昨夜は寝てしまった。

2011年1月11日火曜日

種子島紀行Ⅳ

種子島窯

 ツアーの最終日は長い昼食をとったあと、西之表の焼き物のお店につれていってもらった。

 古民家をぶち抜いたようなお店を入っていくと、奥には林を越して睨下すればV字型に海が見える。海峡側の海だ。まるで気の流れがあるようだ。焼き物よりも、まずそのロケーションに魅了される。どうぞと、健康茶のようなものがふるまわれる。

 師走なのによく晴れているので島の昼間はゆったりだ。入り口を入って、平台に用途ごとに焼き物が陳列してある。ちょっと備前焼にも似た焼締めの「変わった」形の容器と、白く焼きあげて同様の形をした容器が並んでいる。棚には何やら芸術品のような焼き物が陳列してあって、なるほど値段も桁が違う。

 実用陶器にはあまり見えない。買って帰ってもどう使いこなそうかと逡巡するから、買うには迷ってしまう。でも、せっかく来たのだからどれか求めて帰ろうとやや無理な選択をしようとする、だから判断に迷う。

 二瓶さんは焼き物にあまり興味がないのか、海側の裏庭に繋がれた犬と戯れている。手作りだという別棟の登り窯を見る。当主の野口悦士さんが丁寧に説明してくださる。

 最後に一番気に入ったコーヒー碗を一客買い求める。野口さんも埼玉生まれで移住してきた人らしい。義父の窯を継いだとのこと。イケメンだ。作家さんから買ったという記念写真を所望して収める。

 実は今、この器を愛用している。つれあいのものとして買ってきたがときどき貸してもらっている。柄のない碗はまた奇妙な形をしているようにも見える。歪んでも見えるので、今度韓国のユゴンが来たら見せてやろうと思う。お店で受けた印象よりも使い心地はよかった。これなら、次に訪問したときの楽しみが増えた。次は、ながらめ、苦竹、鉄砲百合、そしてもう一客この器を求めること。
*大晦日には種子島にも雪が降ったと野口さんのブログで知った。

2011年1月10日月曜日

はぐれものでも


冷え込みが強くよく晴れ渡る。北風が吹く。
小学校のあたりからは富士山が大きく見える。
朝の通勤路からもよく見える、今朝もそうだった。
それで富士山に近づいてみようと農道をその方向に進むのだが、不思議なことに小さくなる、居並ぶ建物でむしろ見えなくなる。
校門あたりが「富士見」というビューポイントであるらしい―――。

無意識に鼻毛を抜いている。見れば、白いモノだ。

息子はすぐ私を「将軍様」風に漫画にして描く。なかなかうまい。
今日は国民の祝日だ。
むふふ、皆が祝ってくれるはずの将軍様は当番で、今日も働いている。
自分だけが忙しいとぼやく。
ぼやきの人生幸朗師匠をめざすのは在日関西人パギやんだ。
すさまじい芸のマルセ太郎さんにもいたく感化されている。
・・・あれっ、話が飛んだ。
何かを極めた、あるいは極めつつある人に動くココロをもってはいるが、私自信は漠然と歳を重ねた。奇人でも変人でもなく、へそ曲がりの凡人として。

昼間から出ていた三日月が星と一緒に輝いている。
月と星、ゴム靴だ。

本屋さんに行って図書カードで『小津安二郎 大全集』のDVDを買ってきた。

お風呂を熱く感じることを故郷の言葉で「痛か」という。
芯まで冷えていて浸かればそういう感じがした。じっくりと入る。
今宵は久留米の日本酒にする。初めてのアサヒガニをむしゃぶる。
所望した炊き上がりの赤飯を食らう。

ふと、風を思い出す。
美しい砂浜の海岸に吹く強い西風を。
アダンの実がなった離れ小島に流れたそよ風を。
若いときに北の港で受けた手のちぎれるような寒風を。
ほとんど形も残らなかった母の焼いたお骨、風になって消えていった姿を。

さっ、風邪をひかないように。
ひとを悲しませないように。頑張るじょ。
おいしいものを食べるぞ。笑ふじょ。

カムサハムニダ、ヘンジハスグニダ。・・・。

2011年1月9日日曜日

イヴ♪


 乗り換えて座席に着けたら、隣のサラリーマンと思しき若い二人組が明日から三連休という話題をしていた。ああそういえば、世間はそうなのだと思ったのが金曜日の夕方の家路。

 昨日の土曜日は長男夫婦があらためて新年の挨拶に来た。種子島から送った水イカなどをつれあいがさばいて刺身にし、飛魚のつみれなどで鍋を囲んだ。安納芋もストーブで焼いてみた。

 明日で五十ん歳になる。二男も私も明日は仕事。三男もたまたま東京で休日出勤らしい。それで、今日のうちに皆で集まり前祝いをしてもらった。夕方から二男のアパートに招かれた。二男がつくるチゲ鍋は本場仕込みの本格派。最後に、かねてから欲しいなと思っていたフォトフレームをプレゼントしてもらった。こうして五十ん歳の最後の日を過ごした。

ありがたいことだ。

2011年1月8日土曜日

種子島紀行Ⅲ

緑提灯で夕食会
 種子島といえば魚がうまいだろうということは想像できた。

 「そこの地域を訪ねて、地元の人が料理したものを、地域の人と食べるのが本当の郷土料理の食べ方」(かごしまよかとこ100選『食彩の旅』)で、そして「愉快な仲間たちと一緒に」わいわいと食事ができること。これも楽しみのひとつだろう。

 そこでとれるもの、そこに伝わるもの、訪れる者にとっては珍しいもの、そしてなんといっても自分で育てたとか、栽培したものなどを素材にしたものをいただき堪能した。これらは「美味しいもの」に通じる。私らは好き嫌いをしたり食べ物を残したりするような人はいないからそれでよかったけれども、それにしても品数も多いなと思っていた。

 事前の打ち合わせの食事会をしたときに、みんなで北茨城のあんこう鍋企画のときの旅館での食事の話をした。会食場のドアを開けてみたら、テーブルの上にお目当てのあんこう鍋だけではなく、他の料理もいかにてんこ盛りで並べられていたか、いかに目を見張ったかの類の話をした。実は、若くて実直な二瓶さんと迎え入れる側の長野広美さんにはこの話がプレッシャーになったらしい。必要以上に気を使わせてしまったようだ、それで合点がいった。我がメンバーには「月に一度ぐらいの暴飲暴食をする主義」の人もいるらしいのだが、私らの年代(仲間)は概して大食いの傾向にある。このように愉快に食べることは楽しいからだけれども。

 それで「食」については「うるさい」(&大食い)と思われたのか、どの食事も質もさることながら、量もそこそこあったなと途中で感じた。

 この島にはよい漁場がある。農業もさかんなようである。自給自足も不思議ではないような気がした。それで案内されたのは「地産池消」の緑提灯のあるお店。地元の産物を堪能することになる。

 最初の夜は西之表の港。海峡に面していて、昔からの玄関口だ。そういう緑提灯を掲げてある居酒屋の座敷。店内はお客さんでいっぱいになっていく。刺身の大皿を目の前に、他のものも次つぎに出てくる。刺身にはこちらのさばや、はがつお、きびなご、水イカ、カンパチ、地だこ等が並ぶが、あとの種類はよくわからない。いずれにしても南方系の魚だ。醤油は地元の甘い醤油とそうでない醤油が置いてある。さすが本場だ、飛魚のスリミの団子が味噌汁に入っているし、飛魚の卵の煮物も出る。地元の醸造元の若い専務さんも歓迎の宴に参加し、自慢の4つ銘柄の焼酎を直々に「試飲」させていただく。地元では100年続くなじみのブランドと、あらたに売り出した種子島むらさき芋や安納芋を使用したブランドだ。痛飲する。さらには途中から地元の飴屋さんの若いご婦人も加わった。二代目らしい。提供していただいた「ラッキョウ飴」は不思議な飴だ。パリパリと食べられる。私は飴・キャンデーの類は齧るタチなのでこれは好みだ。形がらっきょうに似ているのでそういう品名だが、野菜のらっきょうとはなんの関係もない。それがまた話題になる。島中のあちこちのお店に並んでいた。こうして、初日の夕食をご一緒させていただいた地元の側の中に松下さんがいた。

種子島茶
 予め勉強をしていけば本番でも相当理解が深まるものだが、そういうことをしない。いつもぶっつけ本番だ。

 鹿児島でお茶といえばそう珍しいものではない。茶畑もあって当たり前の感覚だ。それで種子島でも茶園と生産組合に案内された。3月から4月に新茶がとれる。日本で一番早い。地理的にそれはそうだろうとわかるのだが、驚いたのはここの生産者(16名)の人たちが100年前に静岡から移住してきて何代目かの人たちということだ。てっきり鹿児島の延長線上で南にあるだけのことかと思ってしまっていた。しかし、事前にいただいた案内書にはちゃんとそう書いてあった。

 長野さんは地元の人でもここのことはあまり知らないのだという。2日目の最初に訪ねた番屋峰という地区。地形が一番高い所で282mだという種子島の細長い地形にあって、ここは島の背骨にあたるところ。比較的起伏のある場所だ。種子島は移住の島。数多くの人々を受け容れてきたらしい。前夜の食事に出た刺身の種類や地元の人たちの言葉や雰囲気に、私はなにか甑島にいる錯覚を覚えたばっかりだった。1886年ごろ東シナ海に浮かぶ甑島は台風の被害に遭い2年間に600戸ほどの人々がこの島に渡ってきた歴史があったそうだ。私の印象もあながちはずれてはいなかった。そして番屋峰集落は1909年に静岡県掛川あたりから数戸の人たちが移住してきたらしい。種子島・屋久島あたりのことを行政的には熊毛郡というが、当時の熊毛郡の郡長が静岡のひとであったらしくその縁で当時これほど遠方への移住が実現したらしい。静岡といえば清水次郎長に「茶の香り」。まさしくそのお茶の栽培をやっている。移住して100年を超えた。その記念碑のあるところで自己紹介を受ける。種子島茶生産組合の人たちを訪ねたのだ。組合員16名、その代表の松下さんが昨夜は参加していた。3代目4代目であるらしい。
 
 案内された園圃はまるで隠し田のような感じで、お茶畑が拡がる。どんどんいけば高台の茶畑の農道から海峡が見える。飛行機から見たあの馬毛島が手にとるように望める。そうなんですよ、あの島はとんでもないことになっているんです。そのことについて私たち本を出したんですよと長野さんが言う。どうも聞いていると長野さんは私たちと同じ立場のようだ。ぜひその本を読みたいというと、「南方新社」から出版したらしい。南方新社から出したというならば、もう間違いはない。鹿児島にある出版社で実に骨のある本を出すので、私は鹿児島に帰るたびにここの出版物を物色するのが常だ。

 鹿児島でお茶といえば産業だ。茶畑ぐらいどこにでもあるように錯覚している。知覧や頴娃の茶畑は美田ならぬ美畑だ。幕末の開国後お茶は輸出品になって鹿児島でも茶業が盛んになったらしい。今は霧島も開墾されて茶畑がひろがる。
 ところが、種子島のお茶はそれらの系統とはまったく違うということを初めて知った。静岡の直の系統だ。温暖な気候で3月に初摘みができるから、日本で一番早い新茶を出荷できる。ただ、悩みも語られる。この3月から4月にかけての40日間の新茶だけが頼りで、ブランド力がない。「知覧」に比べればそうだ。頴娃ですらそうだから、種子島と言ってもたしかにピンとこない。静岡からの在来種、実生を持ってきてその茶を繋いで、あたらしい茶を育成してきたらしい。早生種などあわせて15品種を持っている。種子島みどりというお茶の統一ブランドに「松寿(しょうじゅ)」という品名のブランドを売り出している。松寿院と呼ばれた島津家の出身で種子島家に嫁ぎ、幕末に善政を行ったと伝えられる女性で、篤姫の伯母にあたる。この人から付けた商品名だ。このお茶の製法は浅い蒸し方のようらしい。甘味があって味がよい。地元では730円で売っていた。
 いま、我が家ではそれを嗜んでいるところだ。

2011年1月7日金曜日

種子島紀行Ⅱ

安納芋、さつま芋

 工場見学を終えて、さあ帰ろうというときに芋が焼きあがった。その芋を試食させていただく、それがうまかった。しかも本場で出来たてを食べているのだという気分の充足感もある。丸くて小さな焼き芋だ。小江戸川越で壷焼きをウリにする焼き芋屋さんで食べたものとは明らかに違う。これが「安納芋」だ。この焼き芋は冷凍食品として商品化されている。

 今脚光を浴びていて、もてはやされているのがこの安納芋。実際に関東でも出回っているのは茨城産だ。でもれっきとしたさつま芋の一品種で種子島産だ。種子島は行政区でいえば北から西之表市、中種子町、南種子町で成り立つが、その西之表市に安納という地区が実際にある。もともと種子島に栽培されていたこの芋は、より品種改良されておいしいさつま芋になったらしい。

 うちのつれあいがかねて、安納芋は「ほくほく」していない。「ねっとり」していてそれがそうなのかと疑問に思っていた。売場にある「ほくほく」という商品コピーは間違いではないかとも。実はその指摘で正解だった。
 『調理に際しては、ゆっくりと時間をかけて加熱すると、より美味しくなる。また、掘りたての新鮮なものよりも、3週間から一ヶ月以上熟成させると、最も糖度が上がり美味しくなる。この品種の特徴は、試験場などで粘質性と呼ばれるその食感に有り、クリームのようにトロッとした食感で、在来の焼き芋らしいホクホク感は全く無い。』(WEB検索より)

 現地の人から聞いて、この芋は掘り出してから吊り下げておけばより甘さが増すものだと知った。それで軒先にこの芋を吊り下げている光景をよく目にした。ただし、それはだいたい15℃ぐらいの気候でないといけないそうで、温暖な当地ではできることであって関東ではそうはいかないようだ。種子島ではこの芋の増産と付加価値加工が始まっている。

 自ら栽培もして、加工もしている西田農産さんの集荷、加工、製造加工、貯蔵庫を初日の2番目に訪問し見学させていただいた。焼酎の原料用に様々な原料芋を加工して出荷・移出している。また、社長のアイデアらしいが、様々な工夫をされていた。芋の焼き方に関しては溶岩プレートを自ら開発しこれで焼かれた芋が焼酎の原料になるらしい。市販では確かに焼きいもを原料にした焼酎が販売されている。貯蔵庫は石蔵で川を利用して湿度を調整したつくりだ。柱や梁は地元の木を使って見た目にも美しくりっぱな蔵だ。この蔵でじっくりと貯蔵され甘く完熟される。工場で冷凍食品にする焼き芋の直焼き機には炭を使う。たまたま、冒頭に記したようにこの焼き上がりを食べさせてもらった。

 長野さんから旅の帰りしなに安納芋をおみやげにいただいてきた。この正月に娘がストーブで長い時間かけて焼き芋にした。表面に蜜が浮いてくる。あらためてその商品の特長を知り、島のことを思い浮かべながら食べるとほんとに美味いものだ。我が家は冷えるので今はおがくずの中に入れてとっている。

2011年1月5日水曜日

おめでとう


 これください。初期設定はどうされますか。自分でやります。インターネットは?プロバイダーはどこかをお使いですか。はい。メーカー保証は一年ですが、当店ではお値段の5%の費用で五年保証になりますが。お客様由来ではない機械の不具合などによる故障に対応できます。それお願いします。これはマウスが付いていないタイプです。対応できるのがありますか、えっ、ワイヤレスであるんですか。こちらがレーザーでこれらが光のタイプです。使えればいいので…。これなんかいかがでしょう、USBが出っ張らなくていいですよ。お値段も手ごろで。じゃそれにします。

 一年間さんざんためらった挙句、ケーキ屋さんでポテトパイを買うように「これください」で買ってしまった。本日限りの新春特価の59,800円。10万円前後とリサーチしていたので、試しに見に行った。ところが、売り場のどこにも見当たらない。そういう特売品といえば、エンドに陳列してあるか、通路に積み上げてあるか、目立つPOPがあってもいいものだが、みつけられない。メーカーごとに陳列してあるので探すがわからない。長い品番を照らし合わせてみて、ようやく一致するものが通常の売り場にあった。それなのに、新春特価の張り出しはない。売り場は閑散としているし、売り場の担当らしき人は他のお客さんの対応中だ。ようやく女性の店員をつかまえて、これがチラシの商品かと訊ねれば、こともなげにそうですよと応える。何にお使いですかと訊かれて、いや、その…、メールとインターネットと年賀状ぐらい、むにゃむにゃと答えると。それなら、これで充分ですよと、この商品の単品チラシを見せてくれて太鼓判。特売品だから少し型の古いものかと思っていたのが、意外にも最新式だ。シンプルな機能であるらしい、それで値段が安い、2GBで320GB私には充分、しかも軽量だ。普段は、いつもは優柔不断、二の足踏みの私があっさり「これください」に至る。いいの、そんなに簡単に決めてとつれあいが念を押す。いい。

 やったね。ついに買ったね。るんるん。

 昔、買ったときはどっさり解説書だか取扱説明書だかがあって、私自信はまったく読まず、息子か誰かにセット、接続してもらった。Maid in China である箱を開けばなんと、なんとシンプルな、紙媒体はほとんどない。それでも取説を読まぬ自分を反省し、それで「ガイド」の「はじめに」から読み「パソコンの準備 Windowsのセットアップ」に沿って立ち上げた。それは難なくできた。様々なマニュアルはパソコンの中にあるらしい。

 次にインターネットへの接続を試みる。画面にある無線LANルーターの「押せ」というボタンの在りかが早くもわからない、マークが違う。ルーターは6年も前に買ったものだから、形式が古いものかと不安に思い早速、メーカーのフリーダイヤルへ。ようやく繋がり、あれこれ個人情報を聞かれた上で、ルーターのメーカー名と機種は判るので告げるが、ルーターにあるはずのID番号を訊かれたもののそれらしきものがみつからない。それでは、話にならないらしい。挙句、持っているルーターがWindows7や64bit版に対応できるかどうかわからないのでルーターのメーカーへ訊いてほしいと言われた。これはてっきり“対応できない周辺機器”ではないかと心配になる。ルーターも買い替えるべきだったと考えてしまった。それでパソコンを買った電機屋さんにすぐ行かなければとなった。その前に、買い換えなくとも光回線の無線LANを契約すれば新しいパソコンに対応できるはずと考え、その費用はどのくらいかかるものか問い合わせた。すると、今度対応した人は今のルーターでも対応できるはずだと言う、だがIDがわからないと言うと、ルーターを立てている台の間にあるはずだという。あっ、確かに台がはずれる。ルーターの底にIDと思しき記号と番号が書いてあった!そして親切なことにパソコン画面のどこそこを開いてという具合に、実にわかりやすく説明をしていただきその通りにしたら接続することができた。

 「お問い合わせ」の対応とはこういうものだと感じ入った。前者と後者の対応の違いは、場数(ケース)をいかにたくさん踏んでいるかの違いではないのかなとも考えられた。どう困っているかということを的確につかみ様々なケースをアドバイスできることが解決の糸口にもなるし、誠実に対応することになる。恐らく向こう側の“プロ”にとっては当たり前のことでも、こちら側にとっては「わからないこと」だ。だから訊いているのだけれども。目線を同じくすることで、対応ができる可能性があると教えられた。

 とにもかくにも、パソコンを新しくしたどぉ~!これまでと違って格段に反応が早い。これでブチっと切れていた「あったかキャッチ」のブログが開ける。容量が違うことを実感する。ただし、まだ使い慣れていないから今日のブログ入稿はこれまでのパソコンを使用しているのだけれども。

 あれ皆さん遅くなりましたが、
 開けまして違った、「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」

2011年1月4日火曜日

種子島紀行Ⅰ


 初めての地に行って、そこならではのものを見聞しながら美味しく食べられるのはうれしいものである。しかもそれをつくっている人々と接することができる「食の旅」はツァー冥利に尽きる。

 出発する前に打ち合わせと称して皆で集まり食事会をしたときに、その年の1月に行った北茨城の旅館で出た夕食の品数とボリュームがいかに多くて感激したかということを話題にした。

 これがいけなかった。このたび種子島ツァーを企画立案そして案内をしてくださった二瓶さんと地元の長野さんへのプレッシャーとなったようだ。このおじさんおばさんのグループはどうも大食いであるらしい、と。

 人間いい歳になったら「食べる」のはそれ相応の量に転換し始めたほうがいいのだろう。食べ過ぎは身体への負担になる「年ごろ」になる。質を問うべき年ごろであろう。しかるにだ、にもかかわらずだ、戦後の飢えを体験した年代でもないのに、たまたまかもしれぬが、このメンバーに好き嫌いもなければ食べ残すこともほとんどない。他に何の楽しみがあろうと言わんばかりの食欲旺盛な人生の人ばかりだ。We are hungryだ。他人のことを言っているのではなく、私自身がそうだからだ。だから、楽しいメンバーだと言える。ひとときではあるが「同じ釜の飯」を食う。

 この旅が印象に深かったのは「食」の枚挙に暇がなかったこともそのひとつだ。

2011年1月3日月曜日

宴の後

 ぞくぞくときたらしい。夕食時から食欲がなくなり、とうとう、つれあいは熱を出して寝込んでしまった。「冷えピタ」を額に貼り、湯たんぽを差し入れる。キッチンに立ってあまりしたことのない食器洗いをする。

 家族が集まり、飲んで食べて他愛のないテレビを観て、“お客様をする”いい歳をした子どもたちを、ただただ接待したことを悔やんでいる。何を話し合うでもなく、過ぎてしまった。
 我が子を不憫に思うこともある。明日からみな仕事で気を抜けなくなる。つらいこともあるだろうから親元で息も抜かせたいし、ゆる~く過ごさせたいとも思うが、何か違う。そのことを三年前の正月あたりから考えているのだが、お嫁さんも加わったり赤ん坊もできたりで、てんやわんやで過ぎてしまった。
 お節の素材のなんたるか、今年の調理の苦労や工夫はと母親が話すが上の空でそれまでだ、まるで「滅び行くローマ帝国の貴族の宴会」のようにひたすら飲み食いを続ける。この日のための暴飲暴食ぶりだ、それも悪くはないのだが。我が家の気風、文化みたいなものがなかったことに気付く。久しぶりに集った家族の絆というものに理屈もへったくれもないものとは思うし、現にみな集まってわいわいとやっていることだけで充分とは考えられるが、いまひとつ大人になれていない…、親である私という人間ができていないことをそのまま反映しているように。私は小さいとき「たまに美味しいものを欲しいだけ食べたい」とは確かに思っていた。今、お金さえあればそれはいつでも実現できる。世代間の価値観のずれもあるのだろうが、欲望を実現するための安楽な生き方あるいは守りの生き方、それをひたすら追い求め(させ)ているように感じられて、考え込んでしまった。ある意味、贅沢な悩みでもあるのだけれども。

2011年1月2日日曜日

帰ってきた年賀状


 息子たちは朝から中学時代の2学年が集まって野球をしたそうだ。
 夜、二男は親友と飲み会に。正月休みはここぞとばかりに食って飲む。一方、三男は熱を出して寝込んでしまった。みんな4日から仕事だ。

 陽射しがあって暖かい昼間。基地の近くの小高いところにある一軒家。今年もお誘いがあって餅つきイベントに行ってきた。基地のフェンスが行き止まりで、近所は住宅地。そうと知っていなければ来られないちょっと隠れ家のようなバーだ。薪ストーブがあって西部劇にあるようなつくり。常連さんと思しき人たちが集まる。子連れの若い夫婦も多い。

 原田さんへ出していた年賀状が宛所不明で帰ってきていた。新婚の10年間住んだ2階建て住居の下の階に住んでいたご夫婦。子沢山だった我が家に優しく接していただいた。あのころ50代だったと思う。確か長男が学生時代の夏休みに自分の生まれ育ったところを訪ねて行って前触れもなくお伺いしたことがあった。そのときからも10年ぐらいが過ぎている。その後引っ越された。年賀状のやり取りは続いていたが、息災であればいいのだけれども。

2011年1月1日土曜日

賑やかに

  二男夫婦、三男が泊まりこみ、娘が通いで、お正月を迎えました。赤ちゃんがひとりいるだけで賑やかなものです。我が家は食欲自慢。我が家のお節は蒲鉾以外みな手作りです。おいしいもののためには手間ひまを厭いません。ありがたいことです。今年は志保さんの作品もコラボしましたので、なかなかのものになりました。昼間から飲みましたら、年末の疲れが出たせいか、ついお昼寝をしてしまいました。そうしている間に長崎からブリが届いたそうで二男が三枚に卸し、つれあいとお嫁さんで調理しました。お節にブリ料理が加わります。
我が家は穏やかなお正月となりました。

 家族六人暮らしの約30年間。そのあとの二人暮しはたった2年間ですが、ちょっと家族が戻ってきただけの賑やかさですのに、やや慣れないものを感じています。老いつつあるのかな。