2012年2月29日水曜日

雪中行


仕事中のシホさんからSOSがきた。雪で配達の応援に出なければならない。それで、ソータローを時間までに保育園に迎えに行けないかも知れない…と。よっしゃ、わかった。私も忙しいが、なんとかなる。朝から月末の締めの準備をしてみたら、現金も口座もぴったしあって安心したところだった。朝から雪がしんしんと積もる。傘をさすわけにはいかないから、防水可能な帽子にレインコートにおぶひも、ストールを持って自転車で向かう。幸いご近所の人たちも夕方には道路の雪かきを終えていた。それにやわらかい雪だから滑ることはまだない。保育園の先生に孫をおぶひもの中に入れてもらって背負い、足にはストールを巻く。我が家に引き返す。しゃっしゃっと雪をかき分けて通る車に反応して背中のソータローは奇声を発する。もうすぐしゃべりだすな。明日は晴れるらしい。

2012年2月28日火曜日

今日という日

「味噌の里親」プロジェクトから味噌づくりセットが届きました

母が生きておれば今日で百歳でした。
母は百歳まで生きると意欲的でした。それが合言葉のようになっていました。
百歳でなくとも白寿でおおいにお祝いをしようと義兄と話し合っておりました。

生前は母の誕生日に前後してお祝いをするために努めて帰郷しました。
南国ですので、この時期は柑橘類が種類多く出ておりましたので、詰め合わせにしてよく人に贈りました。姪の名前と同じ「はるみ」はもう関東でもよくみかけるようになりましたが、文旦の一種である「サワーポメロ」などは珍しく喜ばれました。

亡くなって三年、足が遠のいてしまいました。

今年は二月がもう一日多くあります。

2012年2月27日月曜日

初めての鍼灸


今朝は双子ちゃんの写真を額に入れて壁に飾りました。

今週注文の生協で布団をやっていましたので、敷布団の2枚組を三男のために買いました。直接送ることができるそうなので、センターに連絡して送り先を三男の住所にお願いしました。昨年、うちの家族が被災地支援に行くために三男のアパートに前泊した折、粗末な布団しかありませんでした。昨日確認したところ、あのままの布団しかもっていないことがわかりました。それじゃ彼女もできないな(?)と慮って、買ってやることにしました。

二男が今日は休みだと昨夜聞いておりましたので、昼飯食べに行こうやと誘いましたら既に焼うどんをつくっているとのことでした。それで、アパートに駆け付けてご馳走になりましたが、お腹いっぱいになりました。しかし、私が行かねばこの3人分の焼きうどんを息子は一人で食っていたことになります。ストレスを食べることで発散しているとのことでした。長時間労働これが日頃のストレスの要因です。

左ひざが痛みます。昨日は駅の階段の昇り降りもつらいものでした。
元子ども部屋は昼から日差しが入ります。少しは暖かいので、ここを事務局とみなし、壊れたコタツを持ってきて作業机にしてきました。朝から、気が付けば真夜中までパソコンに向かって、座りっぱなしでした。もう3か月ぐらいになります。あぐらで座っているわけですが、そのせいかどうかわかりませんが、立ち上がるのがつらく階段がつらくなりました。

それで初めて鍼灸というものを体験しました。はじめはマッサージのつもりでしたが、そういう症状だったらということで勧められました。タオルで目隠しのような状態でしたので、どうしてもらったのかはわかりませんでしたが、針が刺さる感覚、ちょっとぴりっと痛い灸の感じがわかりました。それで、すこし痛みが緩和しました。

元息子の部屋の散らかりように、久しぶりに帰ってきた三男も苦笑しておりました。少しづつ暖かくなってきますので、椅子と学習机のある日当たりの悪い「私の書斎」に帰りましょう。そこは長男が自分の部屋にしてしまった元ダイニングルームです。何?訳が分からない?そう、我が家は6人家族だったのでユニークな使い方をして、今もそのままです。

2012年2月26日日曜日

孫が3人


久しぶりに帰ってきた三男と待ち合わせて、
長男のお嫁さんの実家に双子ちゃんに会いに行ってきました。
二十数年ぶりにミルクを飲ませました、4人もミルクを飲ませたのでカンは取り戻せました。ゲップをさせる動作まで思いだしました。生まれてまだ4週間。
いつも二人で頭を同じ方向にして寝ています。
似てはいますが、一卵性ではないのでそれぞれ外観の個性があります。

夜は夜で三男の歓迎会を我が家でやりました。
王子様のソータローをいれて7人。ソータローにも席があります。

昨日から断乳をしたそうで、そのせいかよく食べましたね。

2012年2月24日金曜日

テキはサルもの、ダンアツシャ


案の定来た。

木曜日は生協の配達日で、今は無職の私が取り入れている。証拠隠滅はある程度可能だ。私には買い物依存症が多少ある。それとほんの少し任侠も。あいにく昨日は終日出かけていた。

それで、案の定、うちの同居人、我が家の主たる生計者から厳しいご指摘をいただいた。

なんですか、この328円もするナンタラかりんとうは、えっ?!
少ししか入っていませんけど…。

あっ、いや、その…。ワタシもね、高いからやめようと思ったの。それが、あの人柄のいいウチヤマさんが、いい吹き出しで勧めていたのよ。言っているでしょ、いつもウチヤマさんのこと。だから、応えてあげなきゃ、注目していただいてって喜んでいたのよ、どうのこうの…。

それにね、あの麹ブーム仕掛け人で有名な「おのみさ」さんのおじさんのところの扱い品だから、ああだこうだ…。

しかも、これはほれ、キノシタさんの関わりの重米だか軽米だかのあれほれ…。東北の…。

みなさん、とかく、御託だとか信念だとか希少価値とか、受難に遭うものです。

(あなたは無収入で、私のパートのわずかな収入で生きているんだから、とまでは言われませんでしたが…)

余韻


ご協力者様

参加者(支援者)の皆様から「楽しかった」と言っていただくのが今日の目標でした。本日はほんとうにありがとうございました。4日も15日も21日も23日も来月3日も、感謝です。名もなく美しく、あたたかく。久喜あたり、はっと気付けば帰りの電車から夕暮れの富士山のシルエットが望めました、高く突き出てきれいでした。あれっ、昨日のことになってしまいましたね。

2012年2月22日水曜日

ささくれ


日曜日に東京湾で貝を採るところを見せてもらうために、船に乗せてもらった。木造の釣船だった。乗って戸木(へき)を触った拍子に、木の細いささくれがひょいと手のひら、指の付け根近くに刺さって入り込んでしまった。細くて小さなささくれでたいしたことはないのだけれども、固い皮膚の中に入り込んで取り出せない。しかし気になるもんだ。家に帰ってきて、針でもって追い出すようにとり出そうとするが、敵もさるもの、くいこんでいて取り出せない。翌日になったら、ここのところが何かの拍子にあたってぴりっと痛い。手はもちろんのこと、顔も洗いにくい。炊事やお茶碗洗いもしにくい。このときのためにと買っておいた刺抜き用のピンセントを思いだした。それをみつけだして試みるがうまくいかない。外科に行ったらというんで、その気になったが、月曜日は忙しくって期を逸した。そこだけが赤くなっている。夜になってみると、刺さったところから少し汁が出ているのに気付いた。我が60兆の細胞のさる部隊が侵入者に対して闘い始めたのではないかと直感した。刺さっている先の方から思い切って、痛いほど押し出してみた。すると、どうだ、出てきたではないか。5ミリほどの黒っぽいささくれが形のままに出てきた。ずっとあった不快な感じがいっぺんに晴れた。一種の免疫力が備わっていると実感した瞬間だった。それで炊事の主夫を続けられている。昨夜はお米が無いので、鍋焼きうどんをつくった。

2012年2月21日火曜日

念願の


自分用のB社の自転車(ホーム用というらしい、俗にいうママチャリ)を近所の自転車屋さんで買った。念願だった。

いつだったか。つれあいが後ろのタイヤの空気が抜けちゃったというから、見たら明らかにパンクしていた。それで、それを引きづって自転車屋さんに行ったらタイヤが擦り減っていてタイヤそのものをとりかえないとダメだといわれた。しかもフレームがいくつも折れていた。それでゆがんでまわっていた。これは三男がずっと使っていたのを、就職して出て行ってからつれあいが通勤用に使っていたものだ。どこかの量販店で安く買ったものだが、考えてみれば、相当の修理費を使っていた。大事によく使ったし、もう、廃車にするしかないと考えた。

つれあいは、それで今度買う新車は自分のものだという。それはそうなのだけれども、私のボロボロのママチャリを敢えて譲った。例のおまわりさんに呼び止められたやつだ。今のつれあいのように通勤用に使えば、駅の市営で無料の駐輪場で雨ざらしになる。盗難のリスクとてある。それは忍びない。私のを使ってもらうことにした。これまでに新車を買えばいつだってつれあいに譲り、私はそのお古を大事に使っていた。敢えて今度は逆にしてもらった。

B社の製品を買うのは度目ぐらいだと思う。最初の自転車は良く使いこなした。つれあいが自転車に乗り始めたころだ。本人がまだこわいというから24インチだった。新婚のころのこと。そうして、子どもができて、前にも後ろにも乗せて走った。引っ越しのときも持ってきた。つれあいに新しいのを買ったとき、私が譲り受けて使った。とにかくもうボロボロになるまでその自転車にはお世話になった。2台目は震災の直後につれあいの職場用として買った。それで乗り心地の良さを確かめている。

自転車はどんどん安くなっていって、ほぼ正価で売る街の自転車屋さんではだんだん買わなくなった。以前の我が家は家族6人。なにしろ人数分の自転車が必要だった。通勤通学で使うので、ほとんどの時間を駐輪場で野ざらし同様に留めて置く。ときには盗まれたりいたずらで壊されたりすることもあった。それで、安い自転車を気軽に量販店で買うようになった。「使い捨て」のような感覚になってしまった。盗まれたり壊れたりしたら買えばいいと。だが、モノを粗末にするのはやはり違和感があった。また、パンクや修理は近所の自転車屋さんに持ち込むのに、製品はその自転車屋さんで買わないというのも後ろめたさがあったりした。長くに使えば使うほど、結局は高いものについた。1万円もしない値段で買って、それと同じぐらいの修理費を結局使っている。車輪やタイヤ、ライト、鍵など、チャチだったからそのうち壊れた。

今回買ったB社の自転車は、量販の安いもので買えば4台分ぐらいの値段に相当する。1,800円はまけてもらった。現役だったら、まだ買わなかったかもしれない。退職金で買った念願の自転車ということになる。もちろん、ちょっと遠乗り、気分転換にはクロスバイクを使う。ただあれは荷物が運べない。今度の新車はちょっとお買いもの、郵便局へ、ジムへと乗るのに使う。屋根のある我が家でシートもかぶせて大事に使うつもり。なにしろりっぱなものを買った、荷台は27kgまで大丈夫だからチャイルドシートが可能だ。つまり、孫が乗せられる。昔はそんなこと、安全性なんて考えなかったなあ、普通に子どもを乗せていたっけ。子育てに夢中だったころだ。

使用頻度からいえば、つれあいにこそ譲るべきで矛盾するのだけれども、そのへんもおいおい考えたい。

10年後には無くなるであろう退職金で、私は今、贅沢をしている。

2012年2月15日水曜日

お陰様で

大成功!
ひとことで言うとそういうことです、今日のこと。遅い晩御飯をとりましたら眠くなりました。
加えて感激!古河の会場は26名になったと、うれしい悲鳴。携帯にきた連絡は、またも、この時ママチャリ運転中でした。ポリさん通らなかったけでど。
トイレの暦に書いていたのでつれあいから言われました、明日はハローワーク。すっかり忘れていました。明日はゆっくりできると思っていました。
本日の様子、明日、ここを書き換えて記入する予定。
今日来ていたメールも電話も明日できるだけ返事します。
寝ます。
感謝です!

2012年2月14日火曜日

爆竹や!


いつか福島で買ってきたお雛様。女雛の方が大きくてウけています

 昨日のことです。

 齊藤さんのお宅のポストに明後日の受付名簿などプリントアウトしたものを届けて、そのまま駅方面に向かおうとしました。すると、ポケットに入れていた携帯が鳴ります、メールです。路上でママチャリを止めてそれを確認します。すると、急ぎ電話で知らせなければいけない内容でした。そのとき、すーっとヘルメット姿のバイクが通り過ぎました。後ろに白い荷台があって埼玉県警と書いてあるのが目に留まりました。それが2台も通り過ぎたので心に留まりました。携帯をいくら鳴らしても相手が出てくれません。仕方ないやと思って、チャリに乗って出発しましたところ、今度は携帯電話がかかってくるではありませんか。また、路上で急きょ自転車を止め応対します。もちろん自転車は端に止めます。マナーは心得ています。道路はまっすぐな道でところどころに家のある茶畑に囲まれたところです。見通しがよく、さっきのバイクに乗ったふたりのお巡りさんが、向こうの農家に入っていくのが見えました。あれ~、なんの用事なんだろうと思いました。自転車に乗っている最中もメールだ電話だと忙しいこっちゃわいと思いながら再出発し、そのお巡りさんたちが止まっているところを横目に見ながら、なんかあったのかなぁと思いつつ通り過ぎていきました。

 右折して、夕方の通勤時間帯で車の多いところを走っていますと、うしろからす~っとバイクが寄せて来て私を止めるではありませんか。よく見れば先程のポリさんです。ちょっとお話をうかがいたいときましたよ。後ろにはもう一人のポリさんです(囲まれたんでしょうか)。「この自転車に鍵がついていませんが、どうしていますか」ときました。それはもうこのチャリはガタがきてとっくの昔に鍵は壊れて自転車屋さんでとりはずしてもらっていましたから、今は立派なチェーンを使っていました。それで、「鍵はなくてこのチェーンを使っています」と、前籠の荷物にしているバックの下から取り出して見せます。なんだか、それで私の自転車の車体番号なんぞをメモして、住所氏名電話番号まで尋問されてしまいました。私も急いでいるし権力さんとトラブルしたくないので素直に応えましたけれども、気分がいいはずがありません。ああ、あのときの路上でママチャリを乗ったり降りたり、連絡を慌ただしくとったりしている姿が怪しく見えたのでしょう。「お役目ご苦労様です、ワクタシ怪しくみえましたか」と二人のポリさんに尋ねたのですがそれには応えてもらえませんでした。

今日の糸子さんところでは、爆竹鳴らしていましたね。ほんまにもう…そやそや。

事務局長、いよいよ不審尋問にひっかかるの奮闘記、これにておしまい。

2012年2月13日月曜日

50ん回目の


 19歳のあたりから一緒に祝ってあげましたから、かれこれ何年になるのでしょう。今日はひとつ違いのつれあいの誕生日でした。

 みんな仕事を持っていて今日は困難だということで、昨日、前夜祭と称してお誕生会を催しました。シホちゃんが幹事を買って出てくれて準備をし、夕方街はずれの中華屋さんに集まりました。座敷席はほかにお客さんもなく貸切状態。

 ソータローは座敷中を元気に走りまわります。電車が通るたんびに「ん?ん!」と窓の方を見みます。なにしろ、すぐそこを線路が走っているものですから、すわっ地震かと思うような振動です。シホちゃんは親バカまるだしで突進してくる息子をかわいがります。
向こうの実家に入りびたりのところを、駆け付けてくれた長男は長男で、マコとリコの話ばかり。全然みんなの会話がかみあっていないのですが、これがまた楽しい。ええっ?誰の誕生日だったっけと言う感じ。つれあい様御所望の保温鍋3Lをみんなでプレゼントいたしましたから、彼女もご機嫌でした。

 それにしても、シホさんってずっと昔からうちの娘であったような錯覚に陥ってしまいます。手づくりのチョコとクッキーを一足早くバレンタインプレゼントにいただきました。

 家族が増えるといいものですね。

2012年2月12日日曜日

正風さん


せいふうさん、本名だ。道産子でかっこいい。もとは会社員でエライさん。でも好きなことをしたくて辞めた。らしい。

今日のメニューという白色ボードにはなんでも書いてあるのでどうしようかと思った。トリアエズ・ビールをたのみ、ゴーヤのたまご炒めやギンダラ味噌焼き、レバーの塩漬けなんぞをたのむ。忙しくって昼飯は抜いてきた。

つれあいが昭島でミュージカルの同窓会があって終わりが7時ごろになるというから、急に思い立った。じゃあ、一緒にお店に行こうと。待ち合わせて案内の通りに訪ねて行った。

2年ぶりにメールをいただいた。表紙に載っていた名前をみて、ひょっとしてと。ずっと以前にもお店に来てくださいなと誘われたことがあって不義理をしていた。2年ぶりに会った彼女はなんだか痩せて見えた。ぺちゃくちゃ話しかけてくれるのかと思いきや、よそよそしい。仕方ないからこちらの方から話かける。

どうみてもご主人はかっこいい、お歳を訊いたり、歳の差がある二人のなれそめを訊いたりした。そういえば、確か串焼きが専門だったはずだと思い起こし、上の定番メニューからそれらを注文する。彼女が炭を熾す。たれか塩かと聞かれるから、そちらのお勧めに任すと応える。それで、これは塩でこれはタレだとご主人が勧める。それでおいしい。そんで、今日はこれだね、とご主人がネタを勧めてくれ始めたから、それをたのむ。あたりだ。なんだ、最初からそう勧めてくれたらと思うのに、シャイなんだな。ビールはジョッキで2杯飲んで、無難な宮崎の焼酎のお湯割りを飲んでいたが、そのうちこんなのがあると言って珍しい黒糖焼酎を出してくれる。なんだ、それだって初めから勧めてくれたらいいのにと思いつつ、今度はこの場合オンザロックだと出してくれる。これが、またうまい。濃いめがいいか薄い目がいいかと訊かれるから濃いめをたのんだ。

おいしいつまみにおいしい焼酎をいただきました。それで料金が安かった。すっかり酔ってしまってよく覚えていませんが。聞きだして、こだわりの食材やっていることがわかったし、人柄の良さもわかって気持ちよかった。でも、電車だけで正味40分、ちょっと行きつけにするには遠いかなと思いました。

この武蔵小金井に1軒みつけられてよかった。立川にも若いご夫婦がやっているお店がある。今度からこちら方面に来たらまた行きましょう。

店の名前は「風の庵」。営業は午後6時から。定休は月曜日と第2か第3日曜日。ちなみに2月の休みは13日(月)、19日(日)、20日(月)、26日(日)、27日(月)と変則。最寄駅はJR中央線 武蔵小金井駅 南口の蛇の目通りを新宿方向に徒歩3~4分。

二日酔いこそしませんでしたが、飲みすぎました。土曜日の夜のことです。

2012年2月11日土曜日

「3.17大行進」の計画


「さよなら原発in所沢 ~子どもを守ろう3.17大行進~」の計画
3月17日は土曜日です。この日に所沢中央公民館前広場で午後1時から集会をもち、2時からパレードを出発させ所沢市内を歩き「さよなら原発」を訴えます。公民館が判らない人は西武鉄道所沢駅西口も通りますのでそこからも参加できます。個人で参加する催しです。めいめいの思いを楽しく表現できたらと考えます。さまざまな立場の人たちが集まってこの準備がすすめられています。次の会合はまた今度の土曜日。手づくりです。

「大行進」って言っていいんだろうか。いいんです、だって「101匹大行進」って言っているんですからって、うちのつれあいさんの発言。見直しちゃいますね。

ささやかだっていい。言うことを言うぞ。

パレードっていうけどそれってデモじゃないですか、そこまではいやです。それもありだ。だって、子どもの将来をなんとかしたいんだから会合に変わり番こで出てきてもらったんだし。それだけでもじゅうぶん。そのときに、楽しく自分のやり方で訴えればいい。

シュプレヒコールなんてなし。ただし掛け声あり(どう違う?ぜんぜん違う)

原発にさよならを言える方、所沢に来られる方、17日は時間のある方、ぜひご参加ください。

(昨年の9月10日にもこのような催しが開かれました。この様子はWeb検索でみることができます。こどもを守れ、原発要らない、と市民が声をあげました。)

2012年2月10日金曜日

こちらこそ!ご無沙汰


おはようさん、でしょうか。

そちらは日本に比べれば緯度の高いところですね。寒いとはいえ、そろそろ春です。陽光が明るいのではないでしょうか。お便りと画像ありがとうございました。お元気なご様子、安心しました。

デンマークからだと、DanskEnglishで来るんじゃないかと、それできたらどうしようかと思っていましたよ。語学はからっきしだめ。日本語でよかった。アドレスもそのままだったんだ。

今年はバルト海の異常低温がめぐりめぐって日本へ影響しているとのことで、こちらは例年にない寒さと日本海側の大雪です。やはり、そちらもそんなに寒いのですねぇ。

いただいた画像は高緯度の平地の光景。空が高く冷たく乾いた印象。実は私も見た覚えがあるのです。こんな光景、最初はオランダだったと思うけど。

TOKYOに比べれば、そっちは時間がゆったりと流れる錯覚に陥りませんか。人との距離感とか、光とか、風とか。 ネオンやまして自動販売機なんてないし。

私は30代後半、水産を担当しヨーロッパのししゃも、あじ、さばの状況視察や検品を経験しました。アイスランドはちょうど今ぐらいから、ノルウェイは3月に入って。ノルウェイのいちばん北の端、キルケネスというところにいって-30℃以上を経験しましたよ。風も強くて、寒いんじゃなくて「痛い」って感覚でしたね、あれは。当時のソ連が目の前でした。

デンマークはそんな仕事でコペンハーゲンに一泊した覚え(素泊まり、トランジットだったのかな?)と、北の端のSkagenに行ったはずです。添付の画像はそのときに港の漁具屋さんで買ってきたものです(年季が入っているでしょう)。だから、2度ほど行ったことがあるようなないような。よく覚えていない。田舎のバスに乗ったときデンマーク人(農民?)の顔の大きいことに驚いた印象がありますよ。そういうことありません?とにかく顔がでかいの!半島のAlborgから飛行機でノルウェイのKristiansandに渡ったのですが、8人乗りぐらいの小さなプロペラ機でした。国際便だから律儀に食事が慌ただしく出るのですがね、上昇したらすぐ下降するような距離で客室常務委員のおばさん(失礼)も慣れたそぶりながら大変そうでした。

私は当時免許とりたてで(車には興味なくて遅かったのです)、一応国際免許の手続きもしていきました。左ハンドル全然だめでした。練習で、すぐ雪の中に突っ込んでしまい、恐怖でした。パニックですよね、ワイパーが動きだしたりして。ブレーキのつもりがアクセルだったりして。そうですか、そんなことにも慣れたのでしょうね。気をつけて運転してくださいな。

画家のいわさきちひろさんはすっごくアンデルセンが好きだったそうです。ふたりとも異能、すぐれた才能が曳きあったのではないかと、夫の松本善明さんの話を聞いたことがあります。月並みだけれども、「マッチ売りの少女」あれがいいですね。子どものころ、なんであの子が死ななければいけなかったのかとずっと思いつつ、そのまま私は老人になりつつあります。そんな可哀そうなことがあっていいのって。

3・11がもうすぐで、今日は11ヶ月目。「原発はいらない」ただそんな思いで3月17日に所沢でパレードをやります。めいめいで好きな格好をしてそれぞれのパフォーマンスで歩きながら訴えます。誰でも参加できますって今風のやつ。私が初めて仕事でヨーロッパに行ったのはチェルノブイリ事故の翌年、ユトランド半島方面にもセシウムが降り注いだはずです(もっとも多かれ少なかれ世界中に降り注いでいるのですが)。でも、当時は他人事でしたね。ただ、北海やドーバー海峡の漁獲される魚に影響がなければいいと思っていただけでした。目をそらしていましたね、考えればとても恐ろしいことですから。

そこでつくられる「食べ物」がみんなの食卓に運ばれる、そういうことを想像しながら身の引き締まる思いで勉強してくださいな。商売の種ではなく、人を生かす「食べ物」に関わっている使命感というのでしょうかね。私らを通じての「日本人の声」も伝えられ、現地の人たちと理解し合えたらいいのですがね。難しいことを易しく伝える、私にはできないのだけれども、頑張って。えっ?説教が長いって。ごめん。

そうでしたか、糠床も。夏に帰ってきたら、寒仕込み味噌の手返しのイベント、秋にはみんなの味噌の持ちより品評会、冬にはまた寒仕込み。待ってますよ。

2012年2月9日木曜日

ご多忙さん


今日が生協の配達日で表紙を見てぎょっとしています。
ゲラはみていたのですが、まだ2月3回だと思っていたから。
現役を離れると、おおぼけです。
これから、ハローワークと税務署に行ってきます(電話が重なって結局行けませんでした)。
また、ゆっくりメールします。

2012年2月8日水曜日

いざ、かまくら


つい考え込んでしまう。いろんなことが遅くなる。

鎌倉街道の上道(かみつみち)と言えば当時の国道だと池原昭治先生はおっしゃる。
鎌倉から放射状にのびた「いざ、鎌倉へ」の軍事道路だ。
「当時の国道」とはいえ、馬一匹通るのがせいいっぱいのところもあった、そういう交通事情だ。この辺り一面、平地は野っ原と丘陵地は雑木林であっただろうと当時の景観を想像できる。そこに鎌倉街道が走り、ときには数万の軍勢による合戦も繰り広げられた。北西部の広大な武蔵野だ。水の便が悪く、江戸時代も後期に入ってようやく新田開発ないし開拓が始まる。それでも緑豊かな奥武蔵野だったはずだ。

私の住まいは1960年代以降に有名な大手のデベロッパーによって開発された住宅地だ。里山であった貴重な雑木林をつぶして住宅団地が造成された。いわゆるトトロの森がつぶされていっている実態は今も変わらない。まわりから林がどんどん無くなっている。ここは老舗の住宅団地である。バブル期などは億円で取引された例もある。私は右も左もわからずそのバブルの真っ最中に九州から引っ越してきた。もう四半世紀になる。御多聞に洩れず地域のことはほとんど知らないというかほぼ無関心できた。最初にこの団地に入居された人たちは、もとはと言えば文京区に住んでいましたとか、東京の23区内に住まいされていた人たちが多い。そういう江戸っ子が多い。その最初の先輩たちはとっくにリタイアされて70代になっている。高齢者で二人暮らしあるいは独り暮らしの人々が多い。

訊けば協力者の齊藤さんも、その世界では名の通ったお江戸の職人の娘であったらしい。頼まれたことは納得するまで聞く、聞いた以上は本人以上に親身になって引き受けてくださる。亡くなったご主人は新潟出身でサイトウさんというらしい。ある人から別のサイトウさんのことで、サイの時はいろいろあるから失礼のないようにと忠告を受けた。別の人は齋藤さんだった。それで目の前の「さいとう」さんに訊ねてみた。そうなのよね、うちは二本線の「齊藤」なのよ、いいわよ気にしないで。とても書けないので「斉藤さん」で勘弁してもらっている。

案外味噌づくりをしている人たちは多かった。とてもいいことなんだけれども、味噌づくりをして支援してくれという立場からはこれが障害になった。それでも、被災地を支援したいその一点でみななんとか協力したいと申し出てくださった。多くは年金生活だ、人によっては経済的にはギリギリの生活をしている。そんな人に限って、支援をしたいとおっしゃる。斉藤さんと相談して予想していたことだった。4,000円は大変な負担だったが、そこは一組という形で組んでもらうことにした。二人で組めばひとり2,000円になる。4人で組めばひとり1,000円になる。日程の都合もあった。その日は出られないけど是非支援したい、でも2,000円でと。そこから先は齊藤さんがすごい。もう味噌はいらないけれど味噌づくりの応援はできる、生活がカツカツで労力は出せるという「応援者」を募った。それを組み合わせた。それが人数的にはぴったしになった。

なんて私たちは「上から目線」でいたんだろうと「目から鱗」だった。自分の生活さえままならない人こそ人の困難が見える、だから協力を申し入れる。それに高いハードルをつけてしまった。良い材料を使うのだからコストは仕方ない、そのお金を出せなければ参加できないのはしょうがない、そう考えていた。経済的に余裕のある人たちに4,000円というのは大して抵抗はない。それも事実だ。だけれども人の善意にお金の格差をつけてしまって気付かないでいたこちらの不明。これを恥じる。良い材料を使いたい、このことに物怖じはしない。だけれども、進め方に粗雑さがあった。しかし、実地にやって丁寧にやることによってそれを学習した、ひとの本当のやさしさを学んだ。私らのやることはママゴトではない。公民館の調理室が満杯になってわいわいがやがやになるそのことが想像できた。きっとすごいことになる。

支援するのよ、楽しくやれるわよ、斉藤さんはまだ連絡のよくとれていない人と連絡をとってみると膝の悪いところをかばいながら我が家を去って行った。

サイトウさんにもイトウさんにもみんなにお世話になっている。サはない。「までい」にやる。あきらめない。

2012年2月7日火曜日

ひとりひとりに


今どきの病院はさっさと退院させるものだ。
チカさんとマコとリコが退院して、実家に行った。手編みのおくるみに包まれた双子の画像が息子から送られてきた。つれあいが夜なべをして編んだ。息子には末永く大事にしろと言っておいた。ふたりとも2千数百グラムでほんとうに小さい。妊娠中お母さんは参っていたのに、お腹の赤ちゃんはいつも「元気です」と言っていた。活発な子のようだが、どうも「糸子」さんところの「ユウコ」と「ナオコ」を連想してしまっていけない。オオモノになればいいけれども。チカさんは10月以来のシャバダバダ。さあ、これからが大変だ。

ひとつ違いの双子の女の従兄弟、王子様のソータローは将来タジタジだなって、みんなでそう思っている。この歳で私は3人の孫、年の離れた兄や姉たちに一気に追いついた。

昨日、銀行のSさんから留守電が入っていた。支援の「玄米味噌づくりセット」を購入していただいた第1号のご婦人だ。すわ、なにか不都合でもと連絡をしたら、味噌はうまく仕込めましたとのことでほっとする。年末の契約書で電話番号に向こう側の間違いがあって、訂正印を押さねばならないとのことでわざわざ訪問を受ける。一緒に来た若いOさんも北海道のお母さんにと購入してくれた。

ご近所のSさんから電話が入る。これこれこういう具合に人が集まった、まだ勧めたい人がいるけれどもと。そろそろ集約しようということで明日お出でいただくことにした。人数にすれば20人は超した。それでも、まだ足りないかねぇと心配していただく。引き受けた以上なんとかして支援をひろげたいというこの粘り強さ。ありがたい。

出かけなければいけない日に限って天気がくずれる。
レインコートにリュック姿でママチャリ。雨はひどくなかったので途中から傘がじゃまになり、リュックにさす。なんだか、みる人が見たら「裸の大将」のような雰囲気。送金をしたというので郵便局に行くも入金はされていなかった、振替口座かもしれないがここ二日ほど通知は届いていない。まるで、資金繰りに綱渡りの零細企業の社長のような気持ちだ。神奈川の彼女に領収書と払い込み表、そしてもっと販売やカンパをしてほしいと資料を送る。

まるで500円やそこらのモバイルパソコンを買ったときの毎月の経費のように、プリンターは機械の価格よりその後のインク代つまり維持費の方がはるかに高い。なんだか、うまい商売のように感じる。インクを電器量販店で買う。不具合があるといけないと思い純正を買うが本体を買った値段よりインク代の方が高い。用紙はホームセンターで買う方が100円安いからそちらに向かう。人からもらっていた用紙もさすがに残り少なくなってきた。私もインクもこんなに消耗するなんて、なんてね。

帰りに生協のお店でクッキーを買う。頭を使うと甘いものが欲しくなる。

留守電が入っていた、味噌づくりセットを買いたいと。ただ、お名前も電話番号もはいっていなかった。夕食後メールを開ける。味噌づくりセットを買いたいと。留守電の人と同じひとだったらいいのだけれども。

主夫に努めて戻ろうとしている。心を入れ替えて掃除をまじめにやる。残りご飯に納豆。冷蔵庫の傍らに残りものの漬物や惣菜、忘れていたやつだ。匂いを嗅いで、うんいいやと食べる。これが主夫の昼食。夕食をつくる。今日はうどんを茹でた、いったい何年振りだろう。田舎だしと岩手の干し椎茸を使う。干し椎茸は風評被害で売れなくなったらしい。それならと、秋にしこたま買ってきた。お米を10kgいれる袋にどっさりある。私も仕事柄目利きはできる。いい出しがでる。夕食の後片付けをする。つれあいにはじっと座っておいてもらう。食後のクッキーとコーヒーを振る舞う。一時期、24時間365日営業のコンビニのような状態になった。迷惑をかけてしまった。

ひとりひとりにていねいに向かう。困っていればたすけあう。不当があればはねのける。

偉そうにはいえなくて、そう努めているところだ。もちろんニンゲンはできていない。

2012年2月6日月曜日

2日遅れの豆まき


主催者の方から、
鬼はうちにいた方がいい、鬼も大事。だから「鬼は外」は言いません。
福だけを入れましょう、「福は内」!

「不老川」
池原昭治さん
地元のひとは「としとらず」と読み、「かわ」も略します。
「としとらずがわ」「ふろうがわ」と読んでもいいそうですが。
かつて(1980年代)日本一汚い川と名指しされた歴史をもつ川です。

「不老川をきれいにする会」主催で公民館後援の「第17回節分の日の小さな旅」に初めて参加してきました。昨日のことです。
地元の旧跡をめぐり、私のご近所に住む童画作家の池原昭治さんのお話を聞きました。

伝説、昔話、民話、歴史的なことにどうつながるのか、
古い地名にも貴重なつながりがあります
「空気感」そこに立つ、路傍の石にもなにかをみつけることができます
と、池原昭治さんの貴重なおはなしをたっぷり聞くことができました。なにしろ、童画作家ですから黒板に描く解説が文字通り絵になっていくのです。

私の住む地域に伝わる話も聞きました
1~10日までに生まれたのを「ネコ」というそうです。ふつうにねずみをとるそうです。
11~20日までに生まれたのを「トコ」というそうです。とりもとれる、ちょっと強い。
21~31日までに生まれたのを「ヘコ」。へびだろうと何だろうととっつかまえる。
 猫にも性格があるというハナシ。
ここを 覗いているあなた、あなたきっと「ヘコ」でしょう?!

~埼玉県狭山市のサイトより~
むかしのお話です。
 狭山に入曽(いりそ)というところがあります。この入曽という地名は、金剛院(こんごういん)の古文書(こもんじょ)には「入磯村」と書かれていたそうです。この入曽には不老川という小さな川が流れています。この川は、おとなりの入間市の狭山丘陵地帯を源流として、藤沢を通って入曽に入り、堀兼(ほりかね)をぬけ川越へと向かっています。
 不老川には、数多くのむかし話や伝説が語られています。その中でも一番有名なものは「豆まきの晩に不老川の橋の下で一晩すごすと、としをとらない」といわれている「としとらず伝説」です。
 また、不老川には次のような、むかし話も語られています。そのむかし、この川にはきれいなすきとおった水が流れ、魚もたくさん住んでいたそうです。
 ちょうど今の航空自衛隊入間基地の滑走路のすぐ下あたりが、ちょっとした淵(川が深くよどんだところ)になっていて、そこでは、たくさん魚がとれました。ある日のこと、近くに住んでいた「まごえもん」という人が魚をとっていて深みに落ち、なくなってしまいました。それからこの淵のことを「まごえもん淵」とよぶようになり、村の人たちは、淵にクイを打ち子どもたちが近づかないようにしたといわれています。
 次にこの川ぞいで何といっても有名なものは、史跡、県指定文化財として残る、全国でもめずらしいマイマイズの井戸「七曲井(ななまがりのい)」です。
 この井戸は、旧鎌倉街道(県道所沢・狭山線)と不老川が交差するところに残っています。
 また、この小さな川もむかしは、たいそうなあばれ川だったといわれています。それもそのはず、この川は地質学的にいうと、「古多摩川」のなごりの川だそうです。
 不老川には、まだまだたくさんのむかし話や伝説が残っています。

6月16日、場所は玉川上水


コンサートのチケットを申し込んだ。
「金子みすゞの詩を歌う」
3月2週目の金曜日の昼間。西武新宿線東大和市駅下車6分だ。初演は昨年の3月11日。しかし、中断した。5月から再演。


それで、そのコンサートでは朗読を担当するシャンソン歌手の湯川あきさんから返信がきた。

「気仙沼保育園・スペース「つぼみ」。震災で流された保育園。七名の保育士が立ち上がり、保育を開始したという情報を得た私のファンの方からのチャリティーコンサートの依頼が来て、受けました。6月16日、場所はホームギャラリー ステッチです。」

*ホームギャラリー ステッチは、2009412日にオープン。コンサートや展示ギャラリーとして利用可。玉川上水と欅の緑に彩られたホームリビングで、季節ごとの催しが開催される。
190-0004 東京都立川市柏町4-77-1 TEL 042-535-9881 http://www.t-stitch.com

握れば指のあひだより落つ


伝え方が悪い、受け手が悪い、両方が悪い、伝えようがない

おおよそこの4通りかもしれない。

おいおい誤解だよ、そんなこと訴えてないよと言いたいのだけれども、それがまた、誤解をうみそうで考え込む。だんだん貝になる。貝は打ち上げられて、砂になる。

砂山の砂にもたれて、ぱぴぷぺぽ。
そうだんですよで、はっぱふみふみ。
こりゃ、巨泉の盗作にもなっていないな。

ことさらに燈火を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと(啄木)

うんにゃ、オオ様のミミはろばのミミ。

こんどの土曜日


「反貧困フェスタ in ふくしま」
 フクシマからふくしまへ ~被災地から貧困を問う~

【日時】2012211日(土)10:0016:30
【会場】福島大学(福島県福島市金谷川1番地)
【アクセス】JR東北本線「金谷川駅」下車 徒歩5分
【主催】反貧困ネットワークふくしま、福島大学災害復興研究所
【協力】反貧困ネットワーク
【お問い合わせ・ご連絡】福島大学災害復興研究所 TEL&FAX. 024-548-8272

◇◆◇チラシのダウンロードはこちらからどうぞ◇◆◆

*参加無料。可能であればカンパをお願いします。
*昼食は各自でご用意ください。
*手話通訳の情報保障をいたします。

3月11日の東日本大震災により、福島県は、地震・津波の自然災害に加え、福島原発事故による未曾有の大規模複合災害に見舞われました。現在、福島県では15万人が県内外に避難生活を余儀なくされ、6万人以上が県外に避難をしています。災害の被害は決して平等ではなく、社会的に困難のある層に被害が大きく降りかかることが今回の災害でも現れました。
一方、災害の復興過程において様々な面で被災者の生活再建にひずみが出てきています。被災者の生活再建に寄与しない大規模復旧・復興事業、沿岸部の被災地における大規模生活保護打ち切り問題、社会的格差の拡大など、福島県そして東日本大震災の被災地が抱える問題は、日本社会の構造的な矛盾の象徴と言えます。
原発事故によって「fukushima」や「フクシマ」として世界中に認知されるようになった福島県ですが、本当の復興は人間が人間らしい生活を取り戻す「人間復興」であり、もとの「ふくしま」だと考えます。
「フクシマからふくしまへ」は、そうした災害によって奪われた日常を取り戻すための復興のあり方をともに考える場にしていきたいと考えます。

【プログラム】
1000 開会式
◆開会挨拶
◆来賓挨拶 宇都宮 健児(反貧困ネットワーク代表)
1030 分科会
1.こども・若者の視点から見たふくしま
2.福島から「女性の雇用問題」を考える
3.福島で働くということ(原発被害の実態)
4.福島における生活保護打ち切り問題
5.震災後の外国籍住民の現状
6.被災者支援のネットワークにむけて
7.映像とトークで考えるウォール街占拠
1330 全体会
◆基調報告 渡邊 純(反貧困ネットワークふくしま共同代表)
「被災地から『人間の復興』を考える」
◆記念講演 湯浅 誠(反貧困ネットワーク事務局長)
「東日本大震災からの復興と反貧困運動」
◆パネルディスカッション
「原発事故からの再生」
〈パネリスト〉
佐藤 栄佐久(前福島県知事)
二瓶 由美子(桜の聖母短期大学准教授)
渡辺 淑彦(弁護士・福島原発被害弁護団事務局長)
〈コーディネーター〉
丹波 史紀(福島大学災害復興研究所)

*当日は、反貧困TVによるインターネット生中継があります!〈反貧困TVhttp://hanhinkontv.blogspot.com/

【賛同カンパのお願い】
当フェスタでは賛同していただける方のカンパをお願しています。
●金融機関名:ゆうちょ銀行
●口 座 番 号:02270-0-108844※ 他金融機関からの振り込み口座番号
  二二九(ニニキュウ)店(229) 当座 0108844
★ 通信欄に「反貧困フェスタ inふくしま賛同カンパ」と明記してください。


2012年2月5日日曜日

上映会があるよ、2月20日


『核のない21世紀を』(2001年 監督/片桐直樹 語り/吉永小百合)&『チェルノブイリハート』 (監督/マリアン・デレオ 2004年アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞受賞)

と き;2012年 2月20日(月)
ところ;埼玉会館 小ホール
じかん;
① 10:3011:30 核のない21世紀を
  11:4012:41 チェルノブイリハート
② 14:0015:00 核のない21世紀を
  15:1016:11 チェルノブイリハート
③ 18:3019:30 核のない21世紀を
  19:4020:41 チェルノブイリハート

()048-822-7428 (埼玉映画文化協会)


「核のない21世紀を」 「シネマ・デイスト」サイトより

あらすじ
映画はヒロシマが戦争の世紀の始まりからそれにどう関わり、あの日「194586日」をむかえ、何があったのか?を世界中から集められた記録映像とアニメーションによって歴史的、科学的に検証します。ヒロシマの体験は「核の世紀」の幕開けでした。しかも、人類を破滅に導く時代の幕開けでした。世界の列強は核兵器開発競争に狂奔し、地球を数十回破壊しても余りある核兵器を持つに至りました。それはヒロシマ・ナガサキにつづくヒバクシャを生み出すことだったのです。また原子力を新しいエネルギーとする原子力発電所が各国に建設されます。そこからもまたヒパクシャが生まれました。現在、地球上に数百万人のヒバクシャがいるとも言われています。
映画の中では旧ソ連の核実験場であったセミバラチンスクのヒバクシャたち、今もなおヒバクシャを生み出している状態を伝えるチェルノブイリ原発の姿などが紹介されます。
映画はこうした歴史的事実を重ね、さらに東海村臨界事故、放射能兵器(劣化ウラン弾)といった核被害の実態を明らかにします。
同時に世界の核軍縮に向けた運動や取り組み、原発廃止をすすめる∃一口ツパの姿を紹介し、人類が「核」に翻弄された20世紀を映像でつづることで、21世紀に残されたのは、核兵器だけでなく限りなく発生するヒバクシャであり、地球環境破壊であることを浮かび上がらせます。
世界最初の被爆地である『ヒロシマ』が訴えてきたヒロシマの心は、「核被害を人類共有の体験として生かそう」という呼びかけです。
それは、広島医学界による、世界のヒバクシャ救済活動でありその広がりは、「世界の子ども平和像」の建設に取り組む子供達や、高校生平和集会、原水禁世界大会に活躍する若き世代に受け継がれていきます。

21世紀最初の広島からのメッセージ

「原爆の子」からはじまり数え切れないほどの映像メッセージが広島から発信されてきました。映画で、テレビで、ビデオで-それは広島に生き、あるいは広島にかかわる人々にとって避けえぬテーマでした。
そして21世紀の冒頭、広島から発信された核廃絶のメッセージがこの映画です。

この作品では、これまでの"核兵器"廃絶にとどまらず、人類がそのコントロールの道を見出していない""そのものの危うさに鋭い視点を向けています。
20世紀中に核兵器の廃絶を、という願いは達せられなかった。その願いを21世紀に引継ぐ若い世代に向けたメッセージがこの記録映画である。
製作にあたったのは、それぞれ広島を地元として核にこだわる仕事を積み重ねてきたテレビの中国放送であり、映画の広島映画センターである。

「チェルノブイリ・ハート」【トライワークス】より
1986426日に発生し、放射性降下物の汚染によって旧ソ連の諸地域が汚染されたチェルノブイリ原発事故。それから16年後の周辺地域や病院を取材し、現地住民や子供たちが受け続けている原発被害の実態に迫った映画。

本作は、2004年の第76回アカデミー賞で短編ドキュメンタリー賞を受賞した記録映画だ。チェルノブイリ原発から半径30km以内の地域は、現在も居住が禁止され、北東350km以内にはホット・ゾーンと呼ばれる局所的な高濃度汚染地域が約100ヶ所も点在する。事故以来、穴の開いた心臓など、重篤な疾患を持つ子供たちが生まれており、放射線の影響とみられるこの症状はチェルノブイリ・ハートと呼ばれている。ベラルーシでは現在も新生児の数多くが何らかの障害を持っているそうで、カメラはそんな現場に訪れ、小児病棟や乳児院など、放射線治療の現場を映し出していく。

監督とプロデュースを務めているのは、二度のエミー賞ほか、数々の受賞経験を持つドキュメンタリー作家のマリアン・デレオ。彼女は「フクシマの原発事故は『悪い夢』のように思える」と東日本大震災に端を発する福島第一原発の事故に触れ、「『四半世紀に一度、事故が発生したとしても、それでも原子力発電所は安全だ』と言う人がいる。同じ言葉をウクライナやベラルーシの人々に向かって言えるだろうか? 彼らは何十年間も、残留放射能と共に暮らしている。この言葉を甲状腺がんに侵された何千人ものティーンエイジャーたちに言えるだろうか?」と問題を提起。そして「今はただフクシマが、第二のチェルノブイリになる前に収束することを切に祈る」とのメッセージを寄せている。

決して他人事にはできない衝撃的な現実を、是非その目で確かめてもらいたい。

本日再放送です


311大震災 シリーズ27
「放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして…」(制作 : 南海放送)
放送 : 129日(日)2450 (55分)
再放送 : 25()1100     BS日テレ
       25()1800    CS「日テレNEWS24

1954年。18ヶ所の漁港に鳴り響くガイガーカウンターの音。水揚げされる被ばくマグロ。南太平洋から戻るマグロ漁船の船体や乗組員の衣服、頭髪、そして魚からも、強い放射能が検知された。アメリカが太平洋で行った水爆実験は、広大な範囲で大気と海水と魚などを汚染。「死の灰」は、日本やアメリカ本土にまで届いていた。しかし事件から7ヶ月後。被ばくマグロが続々と水揚げされる中、日本政府は突如、放射能検査を打ち切った。数日後、両国政府が文書を交わし、事件に幕を引いたのだ。人々の記憶から消え、歴史から消し去られた被ばく事件。なぜ、これまで明るみに出なかったのか。そこには、両政府の思惑と人々の切実な思いがあった。8年にわたる取材から事件の全容を浮かび上がらせる。」

2012年2月3日金曜日

追い込み


 湯川さんからお手紙をいただいた。
「金子みすずの詩を歌う」コンサートのお誘いだ。

2011年3月11日が初演だった、一部が終わろうとしたとき、ホールが揺れ中止となった。5月に再演し、一部を震災支援とした。秋にも公演を続け、このたびの案内となった。

2012年2月12日(日)14:00~
小金井市民交流センター  チケット2,500円(当日)、2,000円(前売り)

2012年3月9日(金)14:00~ 
東大和市民会館ハミングホール チケット2,500円(当日)、2,000円(前売り)
 *お問い合わせ;090-4203-2450(清水)

 湯川さんのつれあい様が入院されたそうだ。秋に話しておいたお味噌の話を忘れたわけではなく、協力ができずにとお詫びしてあった。被災地支援で充分にご尽力いただいた。むしろ、こちらが恐縮する。


 考えられる伝手を頼って、なんとかならないかと考える。少し疲れてきたところに、河野さんは忘れていなかった、なんとか職場で10名誘って開催するつもりですと夕方連絡がきた。そういえば、昨日の深夜もリアルタイムでYOKOさんのところに参加するよと投稿があった。お知り合いの人のようだ。きっと目標にこぎつけられる。

「わたし」をどう伝えることができるのか。
それ以上でもそれ以下でもなく。

 つれあいはまこちゃんとりこちゃんの「おくるみ」の仕上げでの追い込みにはいる。
 りっぱなものができる。
 今日は、晴れたけれども、頭がそろそろ疲れてきた。



2012年2月2日木曜日

晴れなかったな、考える


前の日に願書をつくり、本日順番を待って提出したら、これは対象ではないと言われた。ため口、あきらかな上から目線。お役所それはそんなもんだろうと思うが、ここでも話が違った。「いや、前に相談したら私は資格があるといわれ、しかも別の科目を志願しているにもかかわらずこちらだと言われて、その説明会にも赴き納得の上今日その科目を提出した。」と、得心がいかない旨申し立てた。では、といってその女性の係官はあっさりと、前に対応したその係官に振る。文字通りお役所仕事、あちらのブースに行けと言われて移動する。あきらかにその担当官は狼狽しているのだが、いや説明が足りなかったと言い訳する。なんとかならないのかと言えば、法律で決まったことだと言われ、食い下がっても仕方ない。受け付けてはくれるというから、もう仕方ない。私も決めたことだ。これも自腹になるが、「推薦」ということで志願することにした。いずれにしても私は「学ぶ」ことにした。

昼間なのに家の中で吐く息が白い。それが1メートルぐらいある。ゴジラができる。
無邪気だ。
ひとりで暖房をいれるのももったいない。
かと言ってあまりにも寒い。
仕方ないので布団を敷き布団をかぶって、お行儀悪くパソコンに向かっていたら、ついうとうとした。たしかに寝不足も重なってきていた。気が付いたら、つれあいが仕事から帰ってきた。もう一度気が付いたら、晩御飯だよと呼ばれた。主夫失格。

寒いといっても降雪にやられているわけではない。この前わずか5cm積もっただけで関東は大騒ぎのニュースになったのに、首都圏以外の今日の状況はその比ではない。

寝るつもりではなかったから、携帯を枕元に置いていなかった。どこにやっていたかと思えば、外出時に着ていたブルゾンのポケットに入れっぱなしだった。不在着信、登録していない電話番号。

仲間や周りの人、知り合いに呼びかけてみると引き受けてくださった人達の顔を知らない。電話をいただいたので声は知っている。メールでのやり取りもいまひとつおぼつかない方もいる。私にとってはこうして出遭った人たちだ。自分がそう思うからと、他人がそう思ってくれるわけではない。気の合ったどうしでご飯を食べに行こうとか、買い物にいこうとか言う話ではない。他人に呼び掛けているはなしだ。そううまくはいかない。まして、組織を動員できるわけではない個人だ。手を挙げていただいた人たちのその勇気と善意を決して無にしないようにしたい。そのことを考える。

2012年2月1日水曜日

ちか1 ちか2


いとこのMちゃんから前の日に息子に電話があったらしい。彼女も出産はいずれも帝王切開だった。経験をというか心構えを話してくれたらしい。

昨夜帰ってきたらおめでとうってHちゃんからメールが入っていたのだけれども、娘のミカちゃんも生まれたときは2260gだったそうだ。

向こうのお父さんは私よりひとまわり上にして、初めての孫。娘夫婦が長く子宝に恵まれなかったころのこと。悪気はないのだけれども、どこそこの友人は孫がいてとか、ひ孫までできてとか、二人の前で話題にあげて奥さんから顰蹙を買っていたらしい。
それが、このたびはうれしかろう、しかも一度にふたりも。

母親名の1、2って病院では識別されている。あらぁ、ふたごちゃんがいるってほかの人から注目をあびる、よくある光景。長くつらかった妊娠期間を終えて「お母さん、1か月なにもしなくていいかな」って甘えたらしい。「何言っているの、あなたは子育てでしょっ」て実母は厳しい。「ちか2」は少し退院が遅れる。普通の子育ての練習がまずできる。

初めての子、初孫、さあ向こうの実家はそりゃ大変だ。やがて、うちも。
その前に今の「悲鳴」を片づけなければ…。やるだけはやったのだし、なんだか晴れたらいいね。


つれあいの編み物、急ピッチだ、、、

晴れたらいいね


月末を収支の締めにした。

息子がくれたハンチング帽に小さな手提げバック、二重に履いて暖かいけれど穴の開いた靴下、イタリア製の上等だけれどもよく似合わないブルゾン、それにサンダル姿で自転車に乗る。

そんな恰好で郵便局に行く、振替に入ったものを口座にいれる、通帳の記載を確認する。
いつも愛想よく春川さんが対応してくれるけど、ひとつひとつ書類を書かねばならない。

我が身が、締日の零細企業のくたびれたおやじのようだ。仕方ない。

今朝がたゴミだしに行ったときに、とうとういつも使っているママチャリのチェーンがはずれた。兆候はあったけれどもこんな時に限って。郵便局の途中に自転車屋さんはあるが、もう3時前だ。急がねばならず、曳いていくわけにはいかない。別のママチャリで往復する。

チェーンがはずれたぐらいだから自分ではめればいいと思ったが、やってみるととても手に負えない。今度はこわれたそのママチャリを曳いて、同じ道を自転車屋さんに向かう。途中まで来たらあとは緩い下り道だ、ブレーキをよく握って乗っていく。チェーンが伸びていますよとのこと、修理代は1,000円。お願いしたら、ものの5分で終わる。

家に帰り、都内へ行く準備をしてそのママチャリに乗って駅へ行く。やっぱり調子が悪い。乗り遅れたホームから遠くを仰げば、住宅の屋根の向こうに富士山の頭が見えるのに初めて気づいた。こんなところにビューポイントがあったんだ。

困憊して夜遅く帰り着く。こんな時間だ、飯を抜く。お腹はすいていない。喉が渇いた。
ご飯あるけれどもって言いにきてくれたつれあいにいらぬ心配をかけてしまった。布団も敷いてくれる。お腹はすかなくても、肩をすかせばいいものを、僕はなんでこう不器用なんだろう。いい歳して。だめになっていく。
明日はベルトにもうひとつ穴を空けよう、道具は何故か持っている。
いいかげんに願書をつくらなければもう期限がない。出来上がったらハローワークへ相談に行こう。クロスバイクに乗って。

晴れたらいいね♪ だ。