2010年12月31日金曜日

大晦日


 昨日とは打って変わって穏かな日和。

 NHKで柴田トヨさんをとりあげた朝の番組「“くじけないで”」はすがすがしかったな。

母娘で一日がかりでつくったお節が、志保さんが夕方もってきたお節と合体してお重に収まった。お正月お迎える準備が整った。

 旧子ども部屋をなんとか片付け、掃除をして、布団をかき集めてみればなんとか3人分はあった。7時のニュースを聞けば最後に高峰秀子さんの訃報、86歳だったらしい。いつかの年末の木下恵介さんの訃報のことを想い出す。みんなで、紅白を観る。さて、家族が増えてやはり賑やかな大晦日になった。HY、クミコがよかったな…。

 なんだか、「ごく平凡な」と思ってしまう一年のしめくくりになった。

2010年12月30日木曜日

冷え込み

 冷え込んだ。お風呂に入ってもしばらく温まらない。

 掃除、片付け、正月飾りつけするが少しも能率があがらない。冷え込みのせいで身体が固まるようだ。要領が悪いのは歳をとったせいもあると考える。それでも、つれあいはもくもくと御節の準備をしている。この人はいつも安定している。食欲もりもりの息子たちがくる。三段重を2セット用意することになる。種子島から買ってきたトビウオの卵を数の子代わりに初めて使うことにした。臭みがあるので生姜を多く使うようにと聞いてきたらしい。その生姜も種子島で買ってきた。食材は種子島でも仕入れるほど買ってきた。その種子島ネタも頭に詰まったっきり出てこない。

 家族が増えていくのはいいことだ。近所に住む二男夫婦は泊まりで来ると言うてきた。布団も持ち込むからと。腰を据える気だ。大晦日まで働いているから労ってやろう。おっと、部屋はあるがほとんど物置状態だ。明日も掃除、片付け、最後の買出し。どうもゆっくりできそうにないな。休みにはやろうと思っていた資料と本の整理。やれそうにない。

 夕食後、桂文珍独演会のDVDを観る。

 明日、東京は晴れるようだが、鹿児島は吹雪で積もるらしい。佐渡は雨のようだ。趙博さんのCD「百年節」を聞きながら気合をいれてやろう。CD「ベストオブ正月」は準備した。
 来年の今頃はどこでどうしていることだろう。

迎春準備


 あ、~日付を超えてしまったが、29日の日記~

 種子島から帰ってきて10日が過ぎた。
 すれ違って二三歩行ってから、ん!と、つい振り返ってしまう“いい女”に出会ったときのような余韻が残っている。譬えが悪いかもしれない。

 それはそれとてお正月は迎えなければならない。皐月はそのずっとあとの楽しみだ。
 リビングの大きなテーブルと椅子で食事をするのはいいがどうも膝が冷える。和室でコタツがいいと考えた。しかし、家具屋さんで買った丸い炬燵を持ってはいるが、6人も7人もは座れない。もう一つあるコタツは機械が壊れていて今はテーブル代わりに使っているだけだ。考えあぐねていたら、はたと思い出した。我が家には造り付けの掘り炬燵があったことを。それで和室の模様替えをすることにした。その部分の畳をあげて、久しぶりに掘り炬燵をセットした。暖房部分も機能する。2006年日付の新聞が出てきたのでそれ以来使っていなかったらしい。使わなくなった理由は場所をとるのと、眠くなったときに足を伸ばして横になれないからだった。高さが違うのだけれども一つでは足りないので二つ炬燵を並べて正月はこれで過ごすことにした。

 長男夫婦はお嫁さんの両親の実家の富山へ行く。あとは大晦日から集まる。今年は家族が増えた。志保さんも少し御節をつくるつもりだ。それでつれあいが重複しないように電話で聞いた。筑前煮をつくるというからさすがと思ったら、これからインターネットで検索して初めてつくるという。筑前煮はやはりつれあいが主導してつくることにした。しかし、さすがに大分の人でぶりの照り焼きをつくるとういうからそれは任せた。あとデザートも任せた。二男は大晦日まで配達業務だが7時までには帰宅できそうだという。

 志保さんに“おぶひも”は持っていないのかと訊いたら持っていないらしい。おんぶしたら台所仕事もできるし、それに久しぶりにおんぶしたいからと“おぶひも”をリサイクルショップに買いにいく。それで御節の準備の補充も兼ねて混まぬうちに買い物へ。昔の“おぶひも”とは違うが新古品がちょうどあった。生協のお店では恵比寿ビールに景品が付いているのでそれと、別に瓶ビールも買う。今日はなんやかやと部屋の模様替えと大掃除とまではいかないお掃除をして日が暮れた。おっと祝箸を買い忘れている。今年は御節をつくるおもしろい相棒が増えた。寒波が来るそうだ。

2010年12月28日火曜日

空白


 長らく“日記”をつけていない。

 23日が休日だったので阿部さんはその日に着くように送ってくれたようだが、あいにくレイバーフェスタに終日出かけており不在だった。結局、手にしたのは24日の夜。思わぬクリスマスプレゼントになったが、生ものなので大慌てで賞味する段取りに。たまたま長男夫婦が訪ねて来ることになり、クリスマスの飾り付けそのままに25日の夕食会となった。アワビは届いたその日に刺身で食べた。ビンチョウマグロと鯨の刺身、小走さんからいただいていた鳥取産のながいものトロロと麦ご飯、生協で買い求めていたパエリア(パエリア鍋も)の豪華メニュー。食後には故郷の友人Tさんから届いていた桜島小みかん、そして志保さんの手作りケーキ&長男夫婦が手土産に持ってきたクリスマスケーキ。二男は風邪で寝込んでしまい、来れなかった。長男夫婦、娘、二男の嫁と赤ん坊で、だいぶ冷え込んだが、賑やかな週末の夜だった。

 日曜日は年賀状の宛先印刷。これにてこずった。新しい人の登録および変更登録を入れるのだが何度も失敗する。そのたびに不思議なことに入力したつもりの情報が失われ、一からやり直す。「保存」という機能がわからん。こんなことで、午前中をアホみたいに過ごし、午後一番で投函。パソコンを買い替えなければいけないのだが。
 午後は午後で、うっかりしていた。いただいたお歳暮のお返しをと考えWEB検索するのだが年内に着くものはない。それで電車に乗ってデパートに行ったら、とっくの昔にお歳暮売場はなくなっていた。途方にくれて、試しに地下の食品売場をのぞいてみたら、サイボクハムが間に合った。31日に先方に着くそうだ。それで午後は終わり。

 くたびれた一日の気持ちをほぐすために、息子たちが楽しみだと騒いでいたM-1を観ることにした。沖縄出身というスリムクラブ、ミニ旋風を巻き起こしたようだ。あれは「傾聴の技術」というものではなからうかと思った次第。マシンガンのようなスピードが速い展開が多いなかで、忘れてしまったような「あなたの言うことに耳を傾けます」という間(ま)のとり方は、まさしく傾聴に値した。人間関係のとり方だから。決勝に進んだ3組とも初回とそう変わらないものを演じて、ややシラんだが、さすが沖縄のスリムクラブ、中味に「民主党」を持ち出したのは絶妙だった。それにしても、笑いは人間への温かさともっと権力や世相への風刺とを含んでいいと思うのだが。テレビにそれを言うのも無いものねだりなのだろう。

 月曜日は忘年会に招かれ、そんなこんなで、「ゆる~い」数日を過ごしてしまい、長らく“日記”をつけなかった。

2010年12月23日木曜日

レイバーフェスタ2010


 帰りは夜遅くなるので昼と夜の分もお弁当にしようということになって、お重におにぎりや手羽先の唐揚げなんぞを詰めて出かけた。お重は2段重でしっかりしたものだから重い。それに銘々のポットに熱いお茶を詰めて持っていった。

 今日も朝から晩まで、飯田橋の会場で「レイバーフェスタ2010 ~百年の 歌がはじけて 垣根超え~」に二人で参加した。今回で9年目を迎えるそうだ。

 既成の大きなユニオンが建前論議や闘争もどきのスケジュール消化だけで実感と御利益(ごりやく)がない。ところが、ここに集う事例を見聞していると、いまどきそんな信念と良心に従って独りでも数人でも立ち向かう、そんなすごい人たちがいるということに驚く。そしてまた、そこに歌や芝居や映像や川柳などの文化がある。連帯があって、視野と行動は海外にも及ぶ。「インターナショナル」ってこんなに美しかったっけ。久しぶりに聞いた。

 趙博(Cho Bak)さんのライブ「百年を歌う」は、その体格のままにすごい迫力だ。自分のことを「在日関西人」だという。『百年節』は15分もある、そのサワリ。100年経てば山河も変わる。変わらぬのは不服従。他郷暮らしのはかなさ、楽しさ♪

 映画「海を越えた初恋—1989スミダの記憶」(パク・ジョンスク監督)はできたばかりだ。監督は若い女性だ。5年前に日本でひょんなことでスミダ争議のことを知ったそうで、5年の歳月を費やしたらしい。「さらば戦争 映画祭」に出展された映画の監督も若い女性だったねえと二人で話しながら飯田橋をあとにした。

誇りある島Ⅱ


 時は明治18年9月、所は種子島北東部。伊関村の貞吉さんは深夜いつもの通り、松明と突き棒を持って磯の魚を獲りに行く。寝込みを襲うそういう漁であるらしい。そのしぐさがおかしい。すると、どうだ!棒の先に柔らかい固まり。なんと!人ではないか。しかも、見慣れぬ風体。…という「カシミヤ号」難破救出の場面。やんやの喝采だ。

 沖ヶ浜田黒糖生産者組合「大(おお)頭領」持田さんの歓迎のあいさつに続いて乾杯の挨拶に立ったのが沖田頭領。彼が演じてみせる再現劇だ。我々一行への歓迎の宴もたけなわのころ、それをやれと、やってほしいとみんなからねだられるのだが、まだ沖田さんは興にのっていない様子。酔いが足りないのだろう。そこは東京近辺からわざわざ8人も来てのたっての所望、まだシラフという感じではずかしがりながらも「タネ弁」でサダキチさんは凪の夜…、これ松明ネ、こっちは棒、と一人解説入りで演じ始める。「タネ弁」は「かごっま弁」ではない、標準語に近い。

 種子島といえば鉄砲伝来が有名で学校でも習った。外との交流の多い島、黒潮の流れの真っ只中にある。この島から「海流瓶」を流せば本土、ハワイ、アメリカ、対馬、韓国、南西諸島、フィリピン各地に漂着するらしい。台風に出遭って遭難したアメリカの運搬船「カシミヤ号」もそのひとつだったらしい。これを砂糖小屋のあるこの浜の村人たちが救出し手厚く介抱して国に帰した。船乗りたちはこの親切に感激し種子島のことを伝えた。それでアメリカ議会と大統領は感謝状と金一封といっても5,000ドルという大金を送ってよこしたそうだ。それを村では当時の文部大臣大隈重信の指導もあって村の教育基金に充てた。村ではこのことを長く顕彰し、あの戦争中でも絶やすことはなかったらしい。

 あれが私の実家、その道を折れて左手が運転手の長野さんのお宅。運転手の長野さんは従兄。しばらくいくと右手にあれが母校の伊関小学校。そこに大きな「カシミヤ号」顕彰碑が立っている。ずっと案内してくださった地元の長野広美さんは素敵なご婦人だ。感激のあまり「おお、種子島には少なくとも年に3回は来よう」と言い始めたのは我々一行の中心人物のひとり。我々一行はみな「船頭」なのですさまじい。行程中、長野広美さんが順追って解説をしてくれるのだが、見学の脈絡とはちとはずれる自説を展開する人や、さっき聞いたでしょと思われる質問をする人などかしましい。ところがこれがまた、種子島の理解に繋がっていくという不思議なことになる。長野広美さんも長野さんでそう負けてはいない、島自慢をきちんと展開する。ただし、話の腰は折られるのだけれども。みんなが種子島を気に入ったのは、出遭った人々や景色風土、仕事ぶりに魅了されたのもあるが、もっとも大きな理由は長野さんの俄かファンになったせいだと考えられる。

 このたびのツアーの目的のひとつは、「沖ヶ浜田の黒糖」づくりの現場を見学にきたこと。そしてそれをつくっている人々とふれあいたかったこと。ここの人たちはさとうきび農家それを自ら製糖する。冬場に収穫しこの収穫期に製糖する。製糖は協業作業だ。それは砂糖小屋と呼ばれる。「31号の4名です、こちらは34号の3名です」と自己紹介があったとき、なんだ?それはまるで囚人番号のようだと思ったのだけれども、政府にとって砂糖は貴重な収入源で税務署への申告でこのような不粋な番号制であるらしい。だから、種子島には最盛期300もの製糖小屋(工場)があったらしい。

 宿にした民宿の座敷に組合の皆さんに来ていただきみんなで鍋を囲んだ。あいさつと自己紹介をしてみんなわいわいと交流をした。この辺の区長もしている沖田さんの寸劇の出しものなどで歓迎していただいた。

2010年12月20日月曜日

誇りある島Ⅰ

 帰りの便は18時5分発だ。旅もまもなく終わる。空港へはまだ時間があるらしい。「最後に」と寄ってもらったのが、国道58号線を右斜めに逸れて入った海辺の集落。住吉というところらしい。目の前に東シナ海が広がる。ここは南北に細長い島だ。

 車を横付けした建物の左側に入り口があって奥に入ると転じて2階への階段がある。最初に入ったKさんが、入り口が二段に重ねた木の上がり口になっていてフロアも木であったものだから靴を脱いであがったらしい。あわてて小柄なマスターと思しき人がそのままでおあがりくださいと案内に出てくる。入ると、とくに何もない。椅子とテーブルと観葉植物ぐらい。とてもシンプルなつくりだ。あるのは、窓だらけの景色。すぐに、窓の向こうの海と空と夕日が目に飛び込んでくる。

 3つしかない小さなテーブルのうち、細長いメインテーブルは海側の窓にくっつけてあり、外の景色に向き合うようになっている。何か日本ではないところの港町のショットバーにでも入り込んだ感じなのだが、バーでもないらしい。確か入る前に見た看板には「カレー」とか書いてあった。「この間までインドカレーをやっていたのですがねぇ、今はタイカレーを出しています。」目が林家正蔵さんにちょっと似ている印象。ぐっと小柄で細くした感じ。そして思いっきり人懐っこさを感じるのに、存外スキはない。

 私はチャイを注文する。「みなさん、どちらから。」「実は私は山形なのですよ。どなたか佐渡とかおっしゃるので新潟の方もいらっしゃるのかと思いまして。」なんだ、なんだ、山形だったら「私の」工場もあるよと、受け応えする人もいる。意外なところで山形かと盛り上がる。「人を訪ねて来てみたら気に入っちゃって、居着いたんです。」「…流れ者です」。このさりげなく恥ずかしそうな言い方が「いかにも」言わずもがなで、世界中を放浪した人らしいということが判る。「この店に10人も一度にお見えになったのは初めてです。」全然飾らない人柄でもあるらしい。この2階の小さなお店の空間とマスターと客の存在がなんの違和感もなく溶け込んでいる。なにか遠くにいた昔馴染みの様子をみんなで訪ねてきたみたいに。

 今日は温かくて晴れた。夕日が見られる。そして東シナ海に沈む夕日をこのロケーションからは見ることができるだろう。帰る前の時間との兼ね合いも考え、ここをセットした地元の長野広美さんの粋な計らいだ。これでもかと(少しもそぶりにはないけれど)島自慢のところを案内していただいた最後の駄目押しみたいなものだ。

 お店始まって以来の大繁盛なので、なかなかコーヒーもお茶も出てはこない。いつのまにかマスターの奥さんも加わった。この人も山形だ、似たもの夫婦なのだろう。もとは農協の建物だったらしい。長い水平線が見える。目の前の漁港からは、漁船が出て行く。出て行くためには、港から長く横に延びた堤防に沿って突端をターンして外海に出るようになっている。沖合にはミズイカ漁をしているらしい小型の漁船が見える。17時15分あたりからやや大きな夕日になったが、残念ながら水平線には雲がかかり、水平線と空とに引っ張られるような大きな夕日、日没を見ることはできなかった。

 この島には様々なきっかけで移住してきた人が様々にいるということを知った。「種子島の人はね、除け者にしない、なんでも参加させてくれるのですよ。」というマスターの言うことが、わずか3日間の旅で嘘ではないだろうと素直に受け取れた。なにか豊かな島、外から来ても住むことのできる島、お会いした人々になにか自信と余裕があるように受け取れた。誇りある島なのではないかと考えた。

 マスターは虚空を見るように「息を呑むような夕日を年に何回か見ることがあります」と言った。その夕日を見たい…。心の底からそう思っている。

2010年12月16日木曜日

足をのばす

 スタジオでジャズを聴きながらストレッチ。できるだけ足を伸ばす。すると身体が硬いからそのうち膝ががくがくと震え出す。息を吐きながらストレッチ。ふう~っと。しかめっ面でやるのではなくて、笑ったほうがいいらしい、笑うとは弛緩することでより伸びるとのこと。

 今週はなんだか、ぱっとしないことが多かった。

 足を延ばすといえば、明日から初めての種子島。屋久島のガイドは書店にいくらでもあったが種子島はなかった。赤米伝来、鉄砲伝来、唐芋(かいも)伝来、宇宙ロケット、安納芋、豚、飛魚(トッピー)、サトウキビ、インギー鶏、サーファーズ・パラダイス、なんだっけ。「沖が浜田の黒糖づくり」だった。

 ココアをすする。今日は芯から冷える。明日は始発に乗る、早く寝なければ…。あっその前に旅の支度。みんなで行くので遠足の前の日のよう。みんなで笑いたいね、寿命が延びるよ。

2010年12月15日水曜日

年賀状


 年賀状をつくった。以前プリンターの調子がよくなかったので心配していたが、いいできではないにしろまぁなんとかなった。昨年は喪中欠礼の葉書だったから、内容は2年分の近況報告とした。形式だけでやりとりしているのは、失礼にならない限りやめていくことにした。明日は宛先印刷ができるかな。

2010年12月14日火曜日

欠礼


 私の母は少し出来がよかったらしい。一番下の叔母によると、幼いときひとまわり以上歳が離れて、大人であった母は職業婦人で凛として恐かった印象があったらしい。祖母は三人も続けて女の子を産んだ、四番目にしてようやく待望の長男が生まれた。母は二番目の子で、姉とすぐ下の妹は若くして或いは幼くして亡くなったので、実質一番上の子として育った。実家は戦前地主であったのだが祖父の代で没落した。祖父は坊ちゃん育ちであったらしく、ひとの借金を背負って財産を失くしたらしい。そういう絵に画いたような話を聞いた。

 母は本当のところは男に生まれたかったのではないのだろうか。度量は恐らく父よりもあったはずだ。しかしながら根強い男尊女卑の中に育って躾が身にしみていたと思う。何事も父を立てるしかなかった。くやしいと思う心と分限が共存していた明治のひとであった。

 母の実家は薩摩の中心にあって鎌倉の時代から続く武家で、その支流の宗家であるらしい。中世古文書の保管で有名な入来院家も同族である。その母の実家の跡継ぎの叔父が亡くなった。92歳の大往生だったと考える。東京に出てきて東京で暮らし、とうの昔にお墓も移していた。母の実家はもう故郷にはない。
 今日はその総領とでもいうべき叔父のお葬式だった。兄や姉は出席したが、末っ子の私は仕事に託けて欠礼した。ただ、冥福を祈るのみ…。

2010年12月13日月曜日

境目のなさ唐突さ


 民主、自民、みんなの党などに境目がなく、選挙の票がいったりきたりしているだけで現状の打開にはならないように考えられます。だからといって、もう自公政権の時のような冷たい世襲政治には帰りたくないのですね。
 菅さんは政権にのぼりつめることだけが目的化してそれを達成してしまい、深い政治思想や理念がなかったものだから、その場の思いつき考えつきで、「消費税、TPP、朝鮮半島の自衛隊出動」など、くちがあんぐりと開いてしまいそうなことを唐突に打ち出す見苦しさを感じます。「変えてくれ」(生活とヒトの生き方をまともにしてほしい、世界の金の亡者やひとでなしの支配からとりもどしてくれ)という国民の要求をカン違いしていますよね。小沢さんとの権力闘争ではなくて生存の危機や貧困との闘いに取り組んでほしいのです。行き当たりばったりの恐さを感じます。

2010年12月10日金曜日

叔父の訃報


 母方の系統は長寿の血筋のようだ。昭和の初め頃に母の祖父や曽祖父は90歳代まで長生きしたらしい。父方にはそれはないから私自身のことはわからない。母は97歳まで生きたが、母の弟や妹たちもみなそろって長生きで健在だった。それが、母の次の弟、巣鴨の叔父が亡くなったと今朝、姉から連絡があった。叔父は母の実家の長男で、東京で事業に成功した。それで、東京に出てきた兄や姉は若いころ世話になったらしい。末子の私はそういうことがなかったので、私が小さいころたまに帰省してきたときに会うぐらいだった。東京弁しかしゃべらない宗光ちゃんと呼んでいた従兄も還暦を超えた歳だ、もう長く会っていない。

2010年12月9日木曜日

併合100年 Ⅲ


 朝鮮半島のこの100年。朝鮮半島の人々にとっては日本の植民地支配に始まる。韓国「併合」は幕末の国学思想に源流を発し明治維新後に政権内で白熱した「征韓論」の歴史的完成版ともいえる。

 11月23日に北朝鮮は韓国の民間人居住区を砲撃して人を殺傷した。米軍原子力空母ジョージ・ワシントンを中心にした軍事演習が黄海や東シナ海、日本海、西南諸島沖で続く。ミサイルの安全装置ははずされているから演習はそのまま実戦に突入できる。それを目の当たりにする仮想敵国にとっては脅迫(少なくとも威嚇)されているにも等しい。それぞれ米韓、米日の合同演習というが、米日には韓国軍将校もオブザーバー参加している。事実上の米韓日の軍事同盟化だ。北朝鮮の砲撃による民間人の犠牲、目と鼻の先での大掛かりな軍事演習、まかり間違えば一発触発だ。

 朝鮮半島での緊張を日本列島の空気は文字通り対岸のことと受け止めながら「もし、北朝鮮が追い詰められた挙句、ミサイルでも打ち込んできたらどうするのだ」ぐらいのことしか考えていないように見える。我が身よければのことしか考えていないような論調だ。だからアメリカに守ってもらおう、今こそ日米軍事同盟の強化、アメリカの機嫌を損ねてはならないという卑屈な根性を発揮している。軍事同盟・アメリカの核の傘に居ようとしながら、そのことは有事の当事者になることにも通じることなのにひとごとのようにピンときていない。

 中国外務省の姜瑜(Jiang Yu)報道官は「自国の保有する兵器を振りかざして国力を見せ付けようとする国々の措置が認められているのに、中国が 提案する6カ国協議の緊急会議の開催は非難されている」云々とこぼす…(12月2日)。彼女の髪型と眼鏡がお洒落になったなぐらいしかみておらず、耳を傾けない。
 喧嘩腰で熱くなっている北、米、韓は、今話し合いの席につけるときかということらしい。北の謝罪が先だという韓国世論の沸騰もそのとおりだろう。火の粉がふりかからぬように、戸締り用心という次元でしか考えていない日本政府は毎度米国追随で無力だ。 仲裁どころではない。

 康 宗憲(カン・ジョンホン)さんの『死刑台から教壇へ 私が体験した韓国現代史』(角川学芸出版 、2010年9月22日)を読み終った。拷問の描写に息を呑み、死刑判決13年後、釈放の瞬間のページに涙ぐむ。しかし、題名はそういう印象を受けるが著者はそれを言いたいのではない。姜尚中さんとほぼ同じ年で、同じく祖国および「在日」という立場への思慮は深い。彼の場合は、「北のスパイ」などという朴政権当時のまったくのでっち上げによる獄中体験もあって、淡々と語る。韓国社会の長い民主化の流れによってようやく康宗憲さんにたいして、政府はでっち上げで重大な人権侵害事件であったことを認め、再審を進め和解のための適切な措置をとる必要があることを決定した(2010年7月)。今は亡きノ・ムヒョンさんの政権のときに設置された「事実・和解のための過去事件整理委員会」の作業の成果である。

 日本列島には北朝鮮への積極的には制裁と圧力そしてバッシング、或いは消極的には北朝鮮の体制の崩壊を待つそのために何もしない。そういう流れがある。拉致、核、ミサイル、砲撃そのたびに、北への制裁、国の備え、日米安保こそ国の基本、ということが声高に流される。沖縄の普天間ぐらいのことでアメリカを怒らせるなということにも通じる。そして、「在日」への白眼視、いやがらせ、朝鮮高校を無償化からはずせ、不当だということに飛躍する。北朝鮮への制裁の強化(北「朝鮮征伐」だと姜尚中さんは表現する)、そして八つ当たり的な在日へのバッシング。

 姜尚中さんも北との対話・交渉をいくら訴えても、その逆風時には抗しきれないという。それでも、その方策を訴えるという。そのことについて康宗憲さんも具体的に提言していて非常にわかりやすい。紹介した著書は広い視点で示唆に富み一読の価値がある。

 朝鮮半島における半世紀以上の根強い敵意・不信による敵対関係、核武装(北朝鮮は核保有国になったが米国はずっとそれ以前からの核保有超大国である)、軍事的緊張の繰り返し(北朝鮮の無法な砲撃も、1年も前から準備されていた米軍の軍事演習も、双方からみたら挑発行為に等しい)を解消すること。そして、さらには長く続く民族的分断を解消すること。日本の世論は北朝鮮を脅威だと感じている。しかし世界の認識は唯一の軍事的超大国アメリカが世界平和にとって最も脅威となる国とされている。米朝にも日朝にも外交関係はない。小泉訪朝で交渉の糸口はつくられたが拉致問題で挫折したままである。現在の軍事的圧力も含めて、制裁と圧力を強めていく方向では手詰まりであることは、拉致問題ひとつとっても、朝鮮半島における戦争状態の解消にも繋がっていないことは現実である。

 韓国「併合」から100年後の我々にとって歴史的事実を直視すること、不信と対立を解きほぐすこと、朝鮮半島の正常化(平和と統一)に寄与すること、そのために過去に目をつむり、朝鮮半島の北側とはこのまま対話も交渉もせず、なおかつアメリカの軍事的「平和」の傘下からものを考え生きていくことが、東北アジアでいつまでも可能であるものか見直すことが必要であると学びつつある。

2010年12月8日水曜日

「生きていていいのかな」


夜半から冷たい雨になった。
返信が到着した。今年の大晦日はNHKホールで「クミコ~!*#$%&」と声援をおくるつもりでいたかったが、かなわなかった。759,480通の応募があったそうだ。

サダコさんは生きたかった。折り鶴を千羽折ったのに、かなわなかった。

映画「夕凪の街 桜の国」で平野皆美は(自分は)「死んでしまえばいい」と思う。会社の同僚の打越から愛を打ち明けられた。生き残った被爆体験からそういう言葉が出てくる。そうして26年の生涯を閉じる。皆美は言う「原爆は落ちたんじゃない、落とされたんよ」

仲間を殺されたらね、カッとなっちゃう。殺っちゃうよ。家を焼いてね。戦争だもの。

会いたくないと電話で言ったそうだ。だから、神直子さんは取材では会えないと思っていたそうだ。盛岡の駅に着いたら、駅に待っていたそうだ、朝の7時に。ほかの人との取材の約束があって、話は聞けなかったのに。「顔だけ見に来た」そうだ。元皇軍兵士の葛藤。

戦場体験を話し終えたあと、ふと、このまま「僕はまだ生きいていいのかな」と声にもならない声でつぶやく。

虐待を受けて短い命を閉じた幼子はどう言えたのだろう。
いじめを受けて自死した子はどう言いたかったのだろう。

小走さんからお礼の電話がきた。今月で88歳になるという。彼も軍国少年だった。満州で兵士にとられ、シベリアから帰ってきた。その日から食べなければならなかったが、シベリア帰りは誰も雇ってくれなかった。だから身を起こした。今、身体のどこも悪いところはないという。意気軒昂だ、ただ会話の中に「生き残り」ですからとひとこと。

今日は日米開戦の日だ。

歴史を見据え、「平和を生きのびること」(清水真砂子さん/児童文学者・翻訳者)、生きていていい社会をともにつくること、そう考える。

『殺したらいかん』(益永スミコ/影書房/2010年5月刊 630円)を一気に読み終わる。

2010年12月7日火曜日

フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ


 自嘲するとき、後悔するとき、人間笑ってはいけないのに(ひきつるような)笑みが浮かぶことがある。「一度殺しあってみなさいよ。撃った弾がどうなるか知らない。…。人を殺すことができるんだよ。戦争は毎日人が死ぬということ。一日でも延びたら人が死ぬ。」フィリピンにいた元日本軍兵士。それぞれもう高齢だ。80代後半より上。もっといろいろな証言があった。NHKでもなんでもない。

 私たちの親は戦争体験世代。例えばつれあいの父親は1939年12月入隊。中国北部および現在のベトナムに連れて行かれそこで終戦を迎える。日中戦争および太平洋戦争を兵士として現役で体験し生き残った。戦後、「戦友会」には最後まで出ていた。兵隊としての体験談は断片的には家族も聞いている。苦労話や失敗談として何回も聞いている。しかし、娘であるつれあいはもっとどんなことを体験したのか言えないようなことも聞きたいと思っている。しかし、そういって訊いたことはないし聞けないようだ。それで、婿の私に訊けという、いちど訊ねたことはあるが、ひととおりのことで心の奥襞までは聞けるものではない。

 若い実行委員のひとたちが一所懸命になってやっている「さらば戦争!映画祭」は今年で6年続けている。前の方に席をとったので、後ろを振り向き、席の埋まり具合を見回すのだが芳しくない。とくに若い人の参加が少ないようだ。それでも、若い人を見つけたと思っていたら、後で登壇してきたNPO「Bridge For Peace」代表の神直子さんだった。1978年生まれだそうだ。私たちの長男と同じ年だ、つまり子の世代。「さらば戦争!映画祭 2010」に『Bridge For Peace~フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ』 (2009/日本/33分)を提供し、この映像を紹介するためのトークに出席した。彼女たちは戦争体験者の孫世代にあたる。そして、世代によっての戦争のとらえ方があるという。
 
 私たち子の世代は「だったら何故戦争をとめられなかったのか」と言わんばかりに責めるらしい。そう言われればそういう気分感情がある。とくに若いとき戦争話を聞かされたときにそう反発した経験があると思う。神さんたち孫世代は客観的に――とそういう視点になってくるという。「じいちゃん」とうちとけた我が子の小さいときの義父とのやりとりを想い出す。

 代表の神直子さんはNPO法人「Bridge For Peace」(略称BFP)の活動の目的をそのパンフレットの中で次のように述べている
 『2000年、大学生のとき訪れたフィリピンで、未だ戦争の傷が癒されない人々の苦しみをぶつけられました。夫を亡くした未亡人は、「日本人なんか見たくなかったのに何であんたはフィリピンに来たんだい!」と泣きじゃくりました。2003年、帰国した日本で、自分が関った残虐行為を、亡くなる直前まで老人ホームでうわごとのように嘆き続けた方もいたと知人から聞きました。
ぶつけるところのない怒りが未だに渦巻いているフィリピンへ、元兵士の想いをビデオメッセージとして届けたい、いつしか私はそう思うようになっていました。ビデオ撮影のために元日本兵の方々に過去の体験を語って頂く中で、私たちは多くを学ぶことができます。
フィリピンと日本をむすぶビデオメッセージが少しでも人々の心をなぐさめ、平和が広がっていくことを願って活動しています。』

 歴史認識で常に声が聞こえてくるのは韓国・朝鮮と中国からだ。なおかつ、ひどいことをしたという事例は幾つも聞いたことがあるが、たしかにフィリピンのことは抜けている。考えてみると、大岡昇平などの小説を通じて、また「ロラ・マシーン」など従軍慰安婦の問題などで知らぬでもないが、よくは知らない。
 そこが、神直子さんの言うところだ「フィリピンで戦争中 何があったか」
 フィリピンの人は声高には叫ばない――「国民性」もあるという。「戦争なんか終わったこと、いいよ」と。 ところが、上映会のあと、どんなひどい目にあったかとワッとと出てくるという。ただ、もっとひどい目にあった人は(日本人のいるところには)出てこないとも。

 戦争体験を残す活動(取材)を精力的に進めていきたいという抱負を語られていた。それにしても、やはり取材は大変なご苦労があるようだ。取材の対象者は人づてに聞いたり名簿(戦友会の?)を辿ったりして探し当て、手紙を書いたり電話を掛けたりして連絡をとるらしい。訪ねあてていっても家族の反対にあったり、やはり話せなかったりすることもあるらしい。会話を終えて元兵士の老人がつぶやく「僕はまだ生きていていいのかな…」。

・今後、新しいプロジェクトを立ち上げていくらしい。中国、韓国、インドネシアなどと日本を結ぶ。戦争や社会を様々な側面から見るための勉強会(「寺子屋BFP」)や他国の歴史教科書から学ぶ「教科書プロジェクト」
・地域で元日本兵やフィリピンの方々のビデオメッセージの上映会を開催していく。
・カンパなど支援をしてほしい。
・パンフレットの配布をして、活動を広める手伝いをしてほしい。

 ~そんなメッセージが(パンフとともに)伝わりました。

2010年12月6日月曜日

「死んどるヒマはない―益永スミコ86歳」


 「さらば戦争!映画祭」(12月4日)は魔法瓶に熱いお茶を入れたのを持って行き朝から晩まで観た。右端の一番後ろにいらっしゃるご老人の顔を見て、チラシに載っている本日最後の映画の主人公、その人だとわかった。この人も朝からずっと観ていた。くたびれた様子はない。益永スミコさん、今年87歳。ドキュメンタリー映像の中でも、ご本人の質疑応答形式のトークでも、口調と内容は明晰である。プラカードを首から掛けて一人街頭宣伝をする。今日もその姿で登壇し「動くプラカード」だと紹介された。大分の出身であること、今は私と同じ市内に住んでいることがわかって驚いた。

 どうしてそんなに元気なのか、何故エネルギーが出てくるのかと問われて、「従わない」ことにしたという。生まれてきて、親に、地域に、国に、天皇に、夫に、職場に、こんどは子に従えという。それをやめた。従いっ放しでは世の中おかしくなる!「従わない」ということは刃向かうことで、ろくでもないと言われる。しかし、従わない生き方をすることにして自分の頭で考えることにした。

 映画は国会前の抗議行動の場面から始まる。前の教育基本法が自公政権によって葬り去られようとしていたあの2006年12月のことである。人間を謳い優れた人間観そしてそれこそ「美しい」法律だった。このころ私は人生のつらい時期で、なおかつこの教育基本法があの安倍政権によって葬り去られたことでよけい落ち込んだのでよく覚えている。そのときに、この小さな益永さんは体を張って頑張っていたのだ。同じ思いのひとがいる。このときは、大分からわざわざ上京してきて参加していた。

 戦前戦後、貧乏で今日の食うことしか考えていなかった。この人が生き方を変えたのは、ベトナム戦争とその後の自分の職場に労働組合をつくったことだった。47歳のときだ。ベトナム戦争の報道を見て「かわいそう」だと思った。なにかしたい、それでお坊さんが募っていたカンパを自分の働く病院の職場に広め、お金を送った。それを職場で咎められた。では、なんなのだろうということと、ほとんど無権利で働かされ、なおかつ「看護の間引き」というまともな医療がなされていないという主張から、なんとかならないかとオルグの支援も受けて女の仲間達で労働組合を立ち上げる。その闘いのなかから、社会的な仕組みにも目覚めていくという絵に描いたような闘士になっていく。女として助産婦として戦前は男達を戦場に送り出していた、そんな教育勅語で育ち「軍国少女」だったらしい。初めてまともに憲法を読んだのも1970年、着目したのは9条、武器もとらぬ、戦争はせんと世界に約束をしたんだから、その通りにせにゃいかん。

 益永さんは私の親の世代である。ベトナム戦争が人生の転機をつくった。私もベトナム戦争に教わったと考えている。あれをベトコンと呼びまるで人間扱いをせぬ政府や新聞やテレビのような当時の通念よりも、穴倉に身を潜め落とされる爆弾を避けている人々の側につくべきだということを学んだ。

DVD「死んどるヒマはない―益永スミコ86歳」 いま一番心配なのは憲法9条!より、
『益永スミコさんは、1923年大分で生まれた。教育勅語で育ち「軍国少女」だった彼女は、助産婦として病院に勤務していた当時、多くの兵士を戦地に送り だした。戦後は食べることに追われ、社会のことを考えるゆとりもなかったが、47歳で労働組合を作ってから、本当の歴史を学び、どのように生きるかを学 んだ。それは「二度と戦争をしない」を基本に、平和な社会、人間が人間らしく生きられる社会を目指すことだった。その後、アムネスティの活動から死刑囚 の母にもなる。人権擁護、死刑廃止、憲法9条を守る運動などに献身的にかかわる益永さんは、86歳の今もひとりで街頭に立ち人々に呼びかけている。』
(2010年5月制作・70分、4,500円、監督:松原明、佐々木有美 制作:ビデオプレス)

 映像には彼女がひとりで街頭宣伝、署名活動を行う場面がいくつも出てくる。マイクを使わぬ声はよくとおり、内容は明瞭だ。大分の緒方に住んでいた時代は定期券を買い日豊線を一時間かけて通い、大分駅前で、繁華街のトキハデパート前で、行う。2名分の署名がとれれば大成果だ。誰も聞いていないようにみえる。私ももし、その場を通りかかったら変なおばあちゃんとひいてしまうかもしれない。いつもやっていることで、しかも堂々としているから、そういう度胸の座った人なのだと思ってしまうが、監督の佐々木有美さんによると街頭宣伝は実はすごく緊張しているのだという。お昼に買ったお弁当が胃の緊張で受け付けないときがあるという。右翼のひとも声を掛けてくれる。戦争に行った人も声をかけてくれる。立場も名前も住所も明かしてはくれぬが、戦争で体験したことをぼそぼそと教えてくれるそうだ。それを益永さんはあとでメモをして記録している。本当のことは家族にも語れない、かといって何かにも残せない。街頭で教育勅語のいう通り男達を戦場に送り出した経験と、憲法9条を守れと一人で訴える同年代の益永さんにまるで「言葉を託す」ようだ。声を掛けてくれる人は思いやりもかけてくれるそうだ。

 この人は日本社会があいまいにしてきた天皇制、戦争責任に真正面から立ち向かうと、佐々木監督は紹介する。だから、一見「変人」のように見える。しかし歴史的にも、国際的にも「変な」のは今居る私たちの社会の方だと考える。

 どうしてそんな勇気があるのですか、という問いに、気の向くままやっているのが一番あっているのではと。言いたい放題のことを言って、聞いてくれる人がいる。いつも街角でやって聞いてくれる人はいないが、今日は会場でたくさん聞いてくれる人がいてありがたいと結んだ。

2010年12月4日土曜日

レイバーフェスタ2010


 このような催しが東京でありますので、そのまま紹介します。

 2008年9月のリーマンショックから激動を続ける世界と日本。政権交代もあったが、社会の閉塞感と生きづらさが相変わらず。はたらくものの雇用と生活はいっこうに改善のきざしはありません。そんななか、今年もはたらくもののお祭り「レイバーフェスタ」を開催します。今年は「韓国強制併合百年」の年、そこでサブテーマを「百年の歌がはじけて垣根超え」としました。浪速の巨人・趙博さんが「百年」を歌い上げ、日韓労働者の熱い連帯を描いた映画「海を越えた初恋—1989スミダの記憶」を上映します。そして、おなじみの参加型企画「3分ビデオ」「レイバーソングをつくろう・歌おう」「ワーキングプア川柳」など豪華メニュー。「労働問題なんか関係ない」と思っているあなたも、心に響く作品や歌声に触れることで、新しい何かが始まるかもしれません。閉塞状況を打破するのは、私たち市民やはたらくものの「運動」と「文化」です。さあ、12月23日は東京しごとセンターで、つくろう! 変えよう! 楽しもう!http://laborfesta.exblog.jp/

12月23日(休)10.30〜20.30

●午前の部 たたかう世界の労働者
10:00 開場
10:30 トルコの労働映画「抵抗者」(50分)上映
     解説=イナン・オネル
11:30 朗読 浅田次郎作「ラブレター」
     よみ手=白銀由布子

 休憩60分(12時〜13時)

●午後の部 つくろう!わたしたちの文化を

13:00 演劇「母さんが教えてくれなかった八月」(企画・制作「憲法寄席」創作集団)
13:40 レイバーソングをつくろう・歌おう
    (宮下公園文化パフォーマンスもあり)
15:00 3分ビデオ 25本一挙上映
16:50 Go Go ワーキングプア川柳 ゲスト=尾藤一泉
17:20 休憩(40分)
●夜の部  百年の歌がはじけて垣根超え

18:00 趙博ライブ「百年を歌う」
18:35 映画「海を越えた初恋—1989スミダの記憶」上映
    パク・ジョンスク監督のトークと歌
20:30 閉会挨拶(終了後、懇親会あり)

*ロビー企画「壱花花の風刺漫画展」「レイバー報道写真展」ほか

さらば戦争!映画祭 2010


 昨日は変な天気で、今日は一転してよい天気でした。今日は二人で映画を観に東京まで行きました。よい天気でしたから、練馬の高架を通っているあたりから筑波山が遠望できましたね。丸の内線の後楽園で降りて、水道橋の在日本韓国YMCAの会場へ向かいました。昨年は姪っ子の家に招待された日と重なり行くことが出来ませんでした。今年は楽しみにしていました。朝から晩まで、映画やドキュメンタリー三昧です。なんというか、いい映画や考えさせられる映画はとにかくおもしろい。それと、同じ思いを持った人たちがいるのだなと自分らを元気付けてくれます。ず~っと涙腺が緩まずにはおれませんでした。

「第6回 さらば戦争!映画祭 2010」~人間がはじめたものは、人間がやめればいい~
■日時:2010年12月4日(土) 10時開演 20時閉会
■場所:在日本韓国YMCA 9階 国際ホール
■上映作品 
『夕凪の街 桜の国』:佐々部清(2007/日本/118分)
『太陽をなくした日』:前田 稔(2002/日本/20分)
『クロッシング』:キム・テギュン(2008/韓国/120分)
『ロラたちに正義を(予告編)』:竹見智恵子(2010/日本/20分)
『Bridge For Peace~フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ』:神直子 (2009/日本/33分)
『死んどるヒマはない-益永スミコ86歳』:松原明、佐々木有美(2010/日本/70分

 もっと事前にこのブログでも宣伝をすればよかったと反省していますが、率直に言って「入り」が少なかったというふうに感じています。また、私たちがそうですが年配者が多く、若い人たちが少なかったように思います。以前はそうではなかったと記憶していますが。ほとんど若い人たちが中心になって実行委員会形式で運営されていますが、相当の赤字と負担が出るのではないかなと心配されます。今後とも存続することを期待します。

2010年12月3日金曜日

併合100年 Ⅱ


 併合とは言うが、日本が韓国を併呑して今年は100年の節目にあたる。植民地支配である。この100年を韓国・朝鮮の人の立場からみると、被植民地支配35年、祖国分断65年の歴史であり安穏な100年ではない。100年もの間、民族としては不正常な状態にある。その間に、植民地時代における土地収奪、強制連行、従軍慰安婦、解放後の同族殺しあう朝鮮戦争、南の軍事独裁による蛮行を経験し、北には金世襲支配が続く。

 祖国を離れた人々で日本・中国・ロシア・アメリカなどに在住しているコリアンは現在500万人を超えると言われている。

 姜尚中さんの著書は氏の幅広い教養のせいか引用が多く難解な印象をもっていた。『在日』(姜講談社2004年)を読み終わった。自伝的著書ということもあって平易には読める。
 「在日」というのは特異な言葉であって、我が社会では永住権を持つ韓国・朝鮮籍の人々のことを一般的には言うのだろう。決して肯定的なニュアンスではないと考えるが、当事者のひとりである姜さんの自分自身の軌跡からの「在日」の語り方だ。彼なりの(くどい言い回しに感じるのだが)、この社会と東北アジア、歴史とグローバルを語る。うまくは言えないが姜さんには熊本人の気質も感じる。そして、姜さんにはバッシングも多い。

 朝鮮戦争は終結したのではなく、53年以降の停戦状態であって、戦時態勢は解かれていない。米朝、日朝の間には国交もない。しかしながら、この間、南北国連同時加盟(1991年)、南北首脳会談(金大中・金正日/2000年6月)、日朝首脳会談(小泉首相・金正日/2002年9月)も行われ、さらには6カ国協議(2003年~)も積み重ねられてきた。

 11月23日に北朝鮮が韓国に向かって砲撃をした。翌朝のワイドショーはたちまちに反北朝鮮的内容、日米安保軍事同盟の強化の内容に彩られた。「世論」が煽動され、街頭インタビューはそう編集される。古い話だが私は毛沢東による金門島砲撃(1958年)を連想した。巷間言われるように独裁者の子と孫による政治的意図があるようには解釈する。北朝鮮の蛮行であり、擁護の余地はない。少なくとも日本政府には経緯の事実の確認は必要だと考えられる。黄海における原子力空母を含む米韓合同軍事演習は、北朝鮮の立場からみたら玄関先で出刃包丁を振り回され威嚇されているようなものだ。中国もそう思っているだろう。

2010年12月2日木曜日

併合100年Ⅰ


 故郷にある暮川(くれかわ)は、南北に続く商店街の北の端にあった。暮川はごく小さな川なのにしょっちゅう氾濫した。佳山さんは背の高い女の子で小学のときの同級生だった。笑窪のかわいい子だったが、気の強い子でいつも参った。今から思えば、あの辛淑玉(シン・スゴ)さんに少し似ている。佳山さんの家は暮橋を渡った国道沿いに面していて商店を営んでいた。まだ両隣などがなく、ポツンと建っていて廃品回収業を生業(なりわい)としていて当時羽振りがよかったように記憶している。いつか母があそこは「チョーセンジン」だと言ったのを覚えている。