2011年6月24日金曜日

Earth-Be in AMIGO!



 去る6月3日金曜日のことになってしまったが、綴っておこう。
 西武池袋線の所沢を越して飯能に行くまでの間に仏子の駅はある。「ぶし」と読む。降りて北へまっすぐ行って大きな道路に突き当たるT字路に「アトリエAMIGO!」はあった。「埼玉県繊維工業試験場」の跡地で、堅牢な骨組みの木造の建物が「文化創造の場」として活用されているらしい。ここが会場で、もうたくさんの観客で埋まっていた。ほとんど若い人たちで女性が多い。Dance Troupe「Earth-Be in AMIGO! 2011初夏」の公演の夜の部に訪れた。

 ミュージカルのご縁で、主催される石橋寿恵子先生からつれあいがご招待いただいた。夫婦ペアでお出でくださいと。このたびのことで両親をいっぺんに亡くしたつれあいへのなぐさみの意味もあったのだろう。

 「2ヶ月前に決めた。(あのときから)身動きがとれない状態だった。こんなとき踊っていいのだろうかと。踊れない日々が続いた。3週間ほどして、みなで顔を合わせた。踊ろうと、踊ることで元気がでるんだ。(私たちは)踊ることが好きなんだ。みんなに伝えよう。元気の出るような中味で。」と石橋先生は挨拶された。

 堅牢な骨組みで、木造の建物の中そのものが舞台兼観客席だから、30人ぐらいのダンサーと観客はほぼ一体となる会場だ。舞台美術として楮(こうぞ)作家の加茂孝子さんの制作になる造形和紙が配置・装飾してある。ダンスは17の創作メニューで次々に観客席から踊り子たちが出現して披瀝する。プログラムによれば、この10年間に発表された企画のエキスのようだ。舞台になる床にどっかりと腰をおろしてまるでかぶりつきのように観る。

 「エネルギーを伝えたい」という趣旨だったが、そのとおりで、なんとなく元気が出てきた気がしたとアンケートには答えた。公演のお祝い(とお礼)に差し上げた種子島焼の小さな器について、あとからつれあいに「なんだか縄文土器を連想させる器で気に入りました」と先生からメールをいただいた。気に入っていただいてよかった。

 本日明け方から気仙沼へ向かう。100日目の区切りとのことでようやく両親の葬儀を執り行うことになったからだ。息子たちの車2台で出かける。それで女川の邦夫さんのところへもお見舞いに行ける。

2011年6月23日木曜日

梅雨の晴れ間なれど

 沖縄戦のことを思い起こす。そして現在の状態。
震災も癒されず、どさくさのままに沖縄へは自民党の延長線上の菅政権の沖縄への仕打ち。なんのためらいも恥じらいも感じられない基地の押し付けと普天間の危険の放置。新たな馬毛島への基地押し付けも。現政権の不快そのもの、醜悪だ。奪還をねらう自公も同じ。

 梅雨にもかかわらず昨日は晴れ渡り今年一番の暑さになった。仕上がった洗濯物ものからはお日様の匂いがあふれでているようで心地よい。それでストレッチで汗をかいた。夏至は昼間が長いからご機嫌なので1日をもう少し味わいたかったのだが、ほんのいっぱい飲んだら、いや飲み進んだら、キャンドルナイトもせずに、ころりと寝てしまった。たまった疲労が抜けない。肩頚腕に痛みが続く。おまけに酔っ払い寝で身体を冷やしたのかお腹をこわしてしまった。ここのところ日記もさぼりがちだ。晴れ間と暑さは今日も続いた。

 我が家では2代目の鉄砲百合が咲いた。種子島より1か月遅れのようだ。

2011年6月19日日曜日

凡人としての幸福と平穏

 ふるさとの父親があの折り畳み傘を使ってくれているだろうかと言っていた。つれあいが昨年の父の日に贈ったものだ。そして、それが最後になった。

 粋な柄のダウンボタンシャツと涼しげな帽子を送って寄越した。御礼の写メールを息子夫婦に送るとすぐ家電(いえでん)に電話がかかってきて、着用姿が大受けでスーパークールビズなのだから職場に来て行けという。こちらは、せめて来月の佐渡行きぐらいにはいいかなと思っていたのだけれども。
 下の子からはかんぴょう麺でできた中華そばと冷やし中華のセットが送ってきた。この息子は毎度、地場産のものをテーマにして送ってくれて、まるで下野に生まれ育ったようであるとこれも写メールで御礼を返した。すると、なんだか南国のノリですねと返してきた。
 近くに住む息子夫婦からは、ニット帽をいただく。こころはユルブリンナーのつもりでいても、スタジオの総鏡でみる姿は波平さんだ。それでいいのだけれども、ちと若者のするあのニット帽というものをして格好をつけてみたいとかねて所望していた。それでなくとも帽子に関しては試行錯誤、ごまんとあってちと、贅沢が過ぎるのだが。

 これから、その息子夫婦のアパートを訪ねて焼肉を食べる。孫はつかまり立ちをしてはパチパチをするのがご機嫌らしい。この人間社会にとって歴史的に深刻な年に、ささやかな幸せのなかで平穏そうな日曜日を過ごしている。

種子島再訪記 1



 韓国の人と日本人の価値観の違いに、焼き物の器の形への評価があるらしい。前者は左右対称きちんとした形でなければならないのに対し、日本人はちょっとこうゆがんだような不揃いなところに美というか安心感を見出すというようなところがあると何かで聞いたことがある。

 旅の記念に私はなにがしかのものを買い求めてくる。それが焼き物ならなおさらだ。でも、初めて長野さんに陶芸家の野口悦士さんのお店につれていってもらったとき、どうしようかと思った。初めてみた種子島焼きというのは釉薬を使ったものもあったけれども、ほとんどが焼締めで、且つ器の形も芸術的というか実用性においてどうなのだろうかと考えてしまった。表現すれば有史以前の土器のようにゆがんでいる、敢えていえば完成形でないようにみえた。淵が欠けているようにも見えるがよくみればそうではない。飾っておくのならいいが、日用使いにはどうなんだろう。それで、おっかなびっくりでつれあいが気に入ったのを1個だけ買って帰った。それが半年前のことだったのだけれども、これが使ってみて案外気に入った。形がかたちで使い途がわからなかったのだけれども、そこは勝手でコーヒーを飲んだり、お茶を飲んだりしてみれば心地いい。そんなことで存外、実用性もあった。そんなことで、ふたりとも気に入ってしまったけれども、ひとつしかなかったから、種子島再訪の折にはお店に立ち寄らせてもらって、そして、もし残っていればまた1個買い求めたいと望んでいた。

 5月の末の種子島再訪では、メインの日程が1日がかりで馬毛島を訪れる予定だった。ところが、台風に遭遇してしまい断念せざるをえなかった。予定されていた日程はすっかり狂ってしまった。そういう意味では、日程に選択の幅ができ、長野さんの粋な計らいなのか、希望を言ったことへの配慮なのか、最終日に再び野口さんのお店につれていってもらった。それとも、最初からの予定だったのかな。朝おにぎりを用意し、お店では観光ボランティアをしている年配のご婦人方に種子島料理を用意していただいていて、民家風の広いお店の中でみんなで昼食をとった。

 野口さんのところには、お店と登り窯と工房がある。そこは少し高台になっていて、吹き抜けのお店からは北西の方向に海が展望できる。両側の森を挟んで遠くに見えるので、海は逆三角形のように見える。まるで風水で計算されたような立地で、ここにいれば気持ちいい。

 数日後には、石橋寿惠子先生から主催するDance Troupe「Earth-Be」の公演に招待されていた。それで、ご挨拶に花をとも思っていたが、野口さんの焼き物に相応しいものがあったらそれにしようとも考えていた。そうしたら、つれあいが気に入るものがあって小さな器を買い求めた。ちょっといいものだったと思う。ならば、若い作家先生に画像メッセージをということで写真を撮らせてもらった。右上の画像はそういう意味で多少“やらせ”っぽい。

 昨年買い求めた焼締めのものはもう無くなっていて、ただちょうど同じ形の釉薬を使ったタイプが1個あったので迷わず買い求めた。それでようやくペアになって、今はそれをふたりで楽しんでいる。日によって取り換えっこして。まるで温泉宿の女湯と男湯が日によって変わるように。それと、皿として使える容器も今度はペアで求めた。形は一緒ではない。使ってみると、なんでもない調理品が生える。これが器というものなのだと思ってしまう。今度、これらの器を息子の友人で韓国人のユゴン君に見せてみようと思う。

種子島再訪記 序



航路であれ空路であれ、島には「別れ」を表現できる。
18:00発のプロペラ機で帰路に着く。たっぷり楽しんだ文字通り波乱万丈の三日間だった、台風直撃のおかげだ。12月に初めて訪れたときも同じ便だった。あのときは冬至前、真っ暗で何もわからなかった。こんどは夏至前で、いくらでも明るい。
別れのあいさつのあとのチェックインゲートの向こうでも、そして飛行場の金網フェンスの向こうでも長野さんはいつまでも手を振っていた。見えるのか見えないのか知れないが飛行機の中から、こちらも手を振った。
再訪した今回は、新たに加わったメンバーもいたけれども、前に一緒だったメンバーが皆は揃わなかった。
そのせいか、次はいつ来るとは決めなかった。心に残った。
5月30日のことだった。

2011年6月16日木曜日

ちいさな至福



 それでなにがうれしいって、ここのところ山菜づくし。わらび、山ウド、うるい、しいたけなどだ。飲み疲れたところを、また飲みたくなる。
 なにもないのが至上のオヨロコビのたぬき御殿からの帰り。三澤さんたちのところの農場のご好意で、まるで“持ってけドロボー”、きのこや山菜を収穫させていただきヤマホド持ち帰った。おまけに、盛岡駅に着けば「がんばれ東北」で青森のねまがり竹まで売っていて、これも買い求めた。それらがずっと食卓にあがっていた。今は漬け込んだのをいただいている。

2011年6月15日水曜日

たぬきどうよう



雉も鳴かずば撃たれまい、で、かつてうたれた
それでこれまで鳴かず飛ばずできた

たぬき御殿ならぬたぬきの山小屋のお披露目に招待された
それでいってきた
たぬき庵といっていた
ちばさんがこつこつつくった
ちばさんはとちゅうどくがからだにまわる大病をして死にそこねた
またかんぞうがんもわずらって手術もした
にもかかわらず、持ち直した
お披露目の日に間に合わせて、三日間でりっぱな三角屋根の厠をつくった
それをうちのつれあいがこけらおとしした、たまたまだ

たんたんたぬきはここまでよくぞ撃たれもせず、また、罠にはまることもなく、
いや、打たれ強くも生き延びてきたものだ、それどころか、施主となって隠れ家のような庵までつくらせた

お披露目の宴には一芸をやれとたぬきに化かされていた
“♪おどま薩州”をやったが、宿題を発表する真面目生徒のようにやったので化かされたうえに茶化された、やむをえないシチュエーションだった

たけださんが食事の世話などしてくれたが、山小屋のたった一夜のことで水と電気のない暮らしというのはすごく緊張するものだと実感した、
脱原発は心情となってはいるが、信条とするにはまだまだ学びがたらぬ

先週末の二泊三日のことだ

2011年6月8日水曜日

あざみの佃煮



今日もあざみの佃煮がお弁当のご飯の上に乗っかっている。
種子島の食堂の「美の吉」の陶山さんから分けてもらったものだ。あざみは浜の植物でそれを自分の畑で育てている。手作りで1パック300円。もともと売り物だけれども、まだパックはされていなかったものをどうしてもと言って、別れしなにパックしてもらった。あざみの佃煮は種子島の産品のひとつではあるけれども、市販品をみたら添加物が使ってあるので、こちらで分けてもらってよかった。日持ちはしないのだろうけれども、手作りが手に入るのはありがたいことだ。そもそも味が良い。
その種子島を再訪してから10日が過ぎた。心には情景が残っているのに、長く日記をつけなかった。絵心があるなら絵に描く方法もあるのだろうけれども。いくら心に残っていても忘れていってしまう。でも、重いものがある。

「週刊金曜日」の田中優子さんのコラムを読んでいて、はっと思った。佐高信さんが言っているらしい。内省していてはだめなんだと。東電や政府が反省しているかと。黙っていたらキャツらの思うツボだと。

そういうときなのだ。
だめなりに、私は私なりに書くしかない。