2008年9月30日火曜日

希望


ジムの受付で「(ロッカーの)ご希望は?」と訊かれるので、 「(人生の)希望はありません」と答える。

伸びをする、思いっきり伸びをする。 (硬いけど)やわらかいと思うことにするとホントに少し伸びるらしい、伸びてみよう前向きに。

徐々に「腹十二分」の食生活態度から腹八分にもっていく。

妻殿がお正月に放り出した「3年日記」、私が決意したら始めようと思っていたのだが。

1月に2年先の定年を待たずに退職された知人、思うところがあったと考える。3月に上京されてささやかな励ます会を催し、「5年日記」を記念品に差し上げた。思った以上に喜ばれた。

今のところ希望はない、「美しい山を仰ぎ、穏やかなさざなみの音を聞きながら、湯にひたり放題」の生活といえば笑われるから、とくに希望はない。

2008年9月29日月曜日

水産資源研究会(通称:さかな研)


 地図を見て行ったが道に迷った。冷たい雨も降っていて、時間に間に合いそうにない、焦った。手押し車を押して走っていた佐川急便の人に声を掛け尋ねてみた。いやな顔もせず全然違う方向なのに手押し車を押しながらそのビルがある通りまでわざわざ案内してもらった。仕事中だったからその人は傘も差さずに走って去った。名前も聞かなかったが、その親切に頭が下がった。

 ビルといっても小さな建物で、案内してもらわなかったらきっと気づかなかったに違いない。もっと広いところでもう少し多勢で報告討論会をやっていて端っこで聴いていられるかなというイメージでいたが、こじんまりとしたところで内心慌てた。自己紹介なんぞもさせられた。初めて飛び込みで参加させていただいた。

 明日だけど案内を転送するから参加してみないかと水俣のTさんに誘われた。明日か調整してみるか、29日ん?今日ではないか!よく見たら日曜日の昨日いただいたメールだった。

 『日本とアジアにおける持続可能な水産資源利用に関して調査・研究を行っています。 2008年度は、特に、地域社会と漁業者、消費者の協力があって有効となっている漁場環境保全の事例を国内外で調査しています。この間、国内調査2つ(千葉・勝浦、北海道・野付)と、海外調査(インドネシア) が終了いたしましたので、それぞれの調査の報告、および結果についての討論の会を9月29日に企画いたしました。』

 学者、研究者、活動家のみなさんの発表で、おもしろかった。ただちょっとついていけないかもしれない。ずっと以前にこんな機会に出遭っていれば、もう少し違った仕事ができていたかもしれなかった。もっとやりがいがあったかもしれない、闘えたかもしれない、いややはり現実との溝に悩んだかな。
 次の調査は10月が気仙沼、室根山、あの畠山さん(なんと奇遇な!)、11月が大分県の姫島(これもなんという奇遇だ!)、12月がマレーシア(ペナンならまた奇遇!)とのこと。ちょうど今朝、年休の余りを計算したばかりだった。もうちょっと無理・・・。

*画像はこの間、伊豆で食べた秋漁の生桜えび、うまかったぁ!!

2008年9月28日日曜日

さんまを食べよん♪


 秋刀魚は北の魚です。その昔、沖縄の魚の仕入れの担当の大城さんは秋刀魚を見たことがありませんでした。「いわしか?」と言ったそうです。私も沖縄の魚は知りませんでしたからお互い様です。沖縄の赤い魚や青い魚を見て「金魚か?」と思ったものです。

 もともと、野菜の産直とか、優良な牛乳を飲む会などを母体に仲間を集めていってできたのが我社我がグループの有力な一員でした。40年近く前になります。そういえば、牛乳の水増しは我が国にもあったわけですが、まさかメラミンを添加するまでの悪質さはなかったので幸いでした。これはいくらなんでも禁じ手でした。

 当時、「商品開発」と称するものにも「常識」に挑戦するような提案をしたいという活力があったような気がします。例えば歯磨きからは発泡剤を抜いたとか、世に問う商品を出したものでした。卵、牛乳、米、野菜、肉、など基礎的な生鮮食品がなんとかなって、さて魚をどうしようとなったときに、ちょうど冷凍技術が普及してきたころで、私たちの供給する水産物は最初からほぼ冷凍品でした。

 関東では脂の乗った秋刀魚はポピュラーな魚だったと想像しますが、関東の沖を越した秋刀魚は急に脂が落ち、伊豆や和歌山で獲れる秋刀魚は丸干しという加工方法でおいしく食べられます。これらの地方では脂の乗ったサンマは好まれないというふうに価値観が変わります。

 名古屋あたりでは汐サンマで大量に流通しました、値段はかなり安くなければなりませんでした。西日本では生鮮ではあまり流通するものではなかったように考えられます。列島の果て鹿児島では珍しい魚で、沖縄では見たことのない魚でした。これが30年近く前までの話です。

 秋刀魚は小骨も内臓も少なく、丸ごと塩焼きでも食べやすくとてもおいしい魚です。ラウンドのまま凍結して供給するにはもっとも適した魚でした。ただ、これを水揚げ産地で一尾ずつ急速凍結をしてもらうという態勢ができていませんでした。産地である北海道や東北、関東の漁港では大量に水揚げされトラック単位で荷捌きされる仕組みで、手間隙のかかるこの作業を引き受けてくださる加工屋さんはなかなかいませんでした。漁期の後半から加工用の原料として凍結する仕組みと装置(急速に冷凍できる設備)はありましたが、当時は鮭もさばもいわしも大量に揚がりてんてこ舞いでしたから、相手にしていただける加工屋さんはいませんでした。

 冷凍さんまというのは加工用(サンマの開きなどにします)または餌用(延縄漁などに使います)のために、まとめて冷凍しますので、使用するときは解凍しなければなりませんでした。それで、魚を並べてもらうときにひと手間加えて、原料を解凍しなくとも凍結されたサンマが一尾ずつ離せる仕立て方を工夫してもらいました。迅速に多量のサンマを捌かねばならない水揚げ時にこれを引き受けてもらうのは加工屋さんにとっても難儀なことでしたが引き受けていただくことができました。そうして3尾パックとか4尾パックという製品をつくりました。事実上の産地1回凍結で鮮度を保ち、周年でなお且つ遠隔地でも供給できる商品をつくりました。今と違ってまだ水産流通が津々浦々まで及んでいなかったときに、冷凍サンマの製品は西日本、とくに九州、なかでも鹿児島ではよく売れたという印象的な経験がありました、今から四半世紀ぐらい前の話です。ちょうど共同購入という無店舗供給の発展と軌を一にしていました。

 日本近海を回遊するいわしやさばが激減した中で、秋刀魚は今でも恵まれた資源のひとつです。漁師さんの苦労のお陰で、それも採算に合っていないように思われますが、ふんだんに食べられて安い魚です。お米が取れるときに、出回る青魚です。流通技術が特段によくなりましたから鮮度のよいものは刺身でも食べられます、昔は産地でしか食べられませんでした。

 さんまをおいしく食べましょう、この日本の海の恵まれた資源のひとつです。「魚種交替」という現象があって、今はたくさん獲れる魚でも急に獲れなくなることがあります。何十年または数百年の単位で起きることのようですが、いわしがそのひとつで、ついこの間まで400万トンぐらい獲れていたのがパッタリいなくなりました。現在の日本人が経験したことです。

 *ブログ『お野菜を食べよん! http://oyasai-tabeyon.no-blog.jp/ 』で「秋刀魚の味噌煮♪」が紹介されていました。
 *画像は我家の手作り‘女川お取り寄せのさんまの開き’と‘大分のたこの一夜干し’の夕食

2008年9月27日土曜日

どこに住もうか


 伊豆半島ははるか昔日本列島に衝突した島であることを学校で習いました。山また山で海にストン、こんなところによく人が住んだもんだという地形。研修を終え、足を延ばして西海岸には初めて行きました。昨日は特急バスで行きました。よくコレだけ造ったなというトンネルの連続で、人の生きている気配がなくて風景もつまらなかったのです。今日の帰りは普通バスでした。昨日のロードがトンネルで繋いだバイパスだとすれば、そのバイパスから海に落ちるように狭い道路を降りて行き、各所に漁村集落があって、そういったところの停留所にいちいち停まってお年寄りや生徒の乗降がありました。これっていいな、「あじ寿司」とかいう看板をみればぶらり途中下車をしたくなるような、文字通り津々浦々を巡ったという感じの路線でした。

 風も強く曇っていて沈む夕日を見られませんでした、時化でしたから刺身もどうもいまひとつものでした。今朝は凪いでいるように見えましたが、洞窟巡りの遊覧船も欠航でした。日が差してはきましたが富士山を展望できませんでした。高級そうなホテルに飛び込み日帰り入浴ができるかと訊いたらそろそろできるというので、温泉につかりほっとひといき、駿河湾をみながら二人でジョッキを空けて、ちょっと酔って岬めぐりのようなバスに乗って、乗り継いで新宿に帰ってきました。

 帰って来るところが羽田だったり、東京だったり、新宿だったり、大宮だったりしてそこを経由して我家へ帰りつくそんな生活で22年。ここで育った子供達にはもはやここが故郷。こころここに在らずのようで、生活拠点がここにあります。なるがままに中途半端に生きてきたような気がしなくもありません。

 これから、というのは現職をリタイア後、どのような「夢のプラン」をもつのかということを、あらためて考えさせられました。昨年「海が近くて、山がきれいで、温泉もある」ということを言ったら、不動産屋の社長に「みなさん、そうおっしゃいます」と言われました。さて、どこに住もうか。

2008年9月25日木曜日

うまくいったね


さんまの開き、うちのかあさんが初挑戦。 私は掛け声をかけました。

3日間の断酒を終えました。これを肴に発泡酒で乾杯。

よし、減らそう体重3kg、めざせサラサラ血管、締まる下腹。

夕焼けにして


長男の次には娘が生まれた。やったね。

あるとき、添い寝で寝かしつけながら、もういいかなと思ってそっと「電気を消すよ」と言ったら娘は「夕焼けにして・・・」と言った。

娘はあるとき自分の頭より大きな筍をいただいてきた。

なにかを考えているときは、娘の頭の上に、目の方向に「吹きだし」がみてとれた。

「なん言いおんしゃると?ランドセルかろうて行くと?」引っ越してきてこちらの小学校に入学した娘は、はっと気づいたらしい。みんなと言葉が違う。

トトロを映画館で観たのは封切りだったのだろう、もう一度観ていくかと訊いたら娘も息子も思いっきり「うん」と頷(うなづ)いた。目がお星様になっていた。

自分にはサンタさんがきたのに、お友達のカヨちゃんは自分よりいい子なのに、なんでサンタさんが来ないのだろう、と娘は真顔で言った。

2008年9月24日水曜日

秋刀魚は旬


昨日のこと。
お取り寄せの秋刀魚、これを刺身で、お取り寄せの大分のカボスでいただく。これは合う。二人とも赤飯は好物で、これで昼食。

昼間は秋刀魚の開き作り。

夜は娘を呼んで秋刀魚尽くし。塩焼き、刺身、つみれの味噌汁、甘露煮。娘はビールを2杯、焼酎をオンザロックで。酔い覚ましにと、歩いて帰った。

秋刀魚は旬がよい。
お彼岸、今日から夜が長くなる。あまり好きでない

2008年9月23日火曜日

ほんやら堂の

 群馬県の起業家は優秀だ、いまのところ成功している。長年参入が難しかったマグロ屋さんも何故か群馬県だ。たこ焼き屋さんもそうだ。いずれも「有力」ブランドを創り、チェーンストアを展開(ただしF C)、中国加工に依拠する。ブランドには「銀座」を冠し、フランチャイズで個人起業家を起用、中国加工だが国内仕上げ。ザーサイや山菜の加工のような中国素材と群馬県は、長く繋がりがあった、その地域的素地があったからだろうか。ペガサスクラブの提唱する典型のような成功例。

 その群馬県の「ほんやら堂」の「ポカタン」(過熱式湯たんぽのブランド名)に使用しているあたたかパックは電子レンジで加熱して利用するものらしい。発火する場合があることが判明した(3件の事例)とのことで本日から自主回収するそうだ。「お昼寝ポカタンくたねこたま」「抱き枕ポカタンぽかぱんだ」とかナントカいう商品名がずらりだ。レンジメーカーは食品以外では使わないでと迷惑そうだし、自主回収とは穏やかではないが、妻殿はテレビで読み上げられる語感につい苦笑してしまった。ちなみにこれも中国製だった。 0120(フリーダイヤル)の「ポカタン回収係」とやらでのやりとりを想像すると事故と商品名の落差がなんやらおかしい。

2008年9月22日月曜日

節酒


飲まないからといって、長男が日本酒2本を置いていった。

酒を飲まなければ身体の具合がいい。
しかし飲まなければ今度は頭の具合が悪い。

さて、どちらを選ぶかだ、中庸をしらない。

4年ぶりの胃カメラだったのであと2日間禁酒を言い渡された。「血がどろどろ、何もしなくても症状はありませんが、脳梗塞、心筋梗塞になれば治療は大変ですよ」とも。今ごろは痙攣(けいれん)しているかも知れないキムジョンイルさんのことを考えれば、食と生活と体重を変えなければいけないのかなぁと考え直す機会になった次第。少し経てばよく忘れる姿勢だけれども。

リーマン違いだが


 金融危機というが、証券会社や銀行がどうしても「虚業」に見えて、それが破綻するのは、それはそうだという思いがある。働いてもいないところには富が集まる世界の仕組み。お金の火遊びの仕方に知恵を絞ってきた、とくに拡散することを、それが右往左往してこける。使命をないがしろにし、モノをつくるところに真面目に投資していないからだ、投機はしたが。

 リーマン破綻がどうしてもサラリーマン破綻に見える。語呂のこととは言え。
俸給生活者としては食の崩壊、物価の高騰、年金の不安、介護の負担、職場の不安、ひとそれぞれ様々な危機に直面しているから。
 製造業も流通業も検査、検査となる。生業(なりわい)の場が丸い土俵だと思っていたら四角いリングだったということだし、どんな危険があるかわからないから企業内に監視カメラを張り巡らせなければならないかも知れない。文字通り「信じられない」仕事が付加されてきた、シャレにもならない。「そなえます」ということだろうけど、社会が浮き足だっているのが実感。

 起業するひとは製造業なんてやっていられない。原材料が信じられない。良いものをつくるよりも、不安でないものをつくることに心血を注がねばならない、しかも安く簡単便利に使えるように。起業はモノを転がすこととしか発想できなくなりかねない。

 自己防衛だからと言って自給自足をしようにもつくり方を知らない。この列島では、大地や海から幸をもたらす人は人口の2.6%しかいない、「明日飢える」そんな事態だ。

 食品加工業の企業数は20年前に比べて大幅(たしか半分以上)に減った。倒産、廃業、大企業の傘下に入った、いずれかである。生き残っている企業も中国産の原材料や加工品(仕掛品)に30%以上依存しているのは現実だ。現瞬間、売れないから製品輸入を凍結しているだけの話で中国加工がなければ成り立たない構造になっている。安くて簡単便利である以上、中国加工を抜きにしてはこの列島にモノを供給できない。

 その前提から脱出する姿勢と覚悟、方法。きれいごとではない課題が多くて取り組み甲斐があるというもの。世の中を変えるという。

2008年9月21日日曜日

メラミン


 時節柄のことですが、「メラン」と「メラン」は言葉が似ているだけで、全然違います。
 ある冷凍食品に斑点が発生する苦情(事象)があって、それは調べてみるとその原因は温度変化(冷凍保管状態が適正でない)などの作用による原料由来の場合があります。メラニン色素が生じた現象です。見た目が似ているのでよくカビに誤解されて、そのことで心配が寄せられます。この場合は喫食しても人体に害はありません。とくに夏の終わりにはよく起きる「お問い合わせ」です。
 ところが今回の事件のことで、「メラニン」色素のことを回答しているのに、「メラミン」と読み間違えられる可能性を予想します。そのことで仕事上(「誤認、早とちり苦情」とでもいうのでしょうか)、苦労することになりそうです。

2008年9月20日土曜日

シゴトチューだった


 6ドアの大型冷蔵庫を再び買った。主な理由は年間消費電力が小型のものとさして変わらなかったから。あれこれの機能がついていて、たくさん入るし、売れ筋のようで価格もリーズナブルだった。ダウンサイジングは投げ捨てた。『雀のお宿』のおばあさんなら大きい葛篭(つづら)を選ぶ性格。

 前の冷蔵庫からは、調味料が30種類も出てきた。私が冷やして食べようとして詰め込んでいたデザート缶も、幾缶も‘発掘’された。積み重ねられて、何回も妻殿から問い詰められた、「こんなに入っていたが・・・」と。『冷蔵庫で食品を腐らす日本人』(朝日新書、著者:魚柄仁之助さん)を地でいく行為であると。

 新しい冷蔵庫が搬入されるときにたまげた。玄関に入るのがギリギリだった。台所へは2つの入り口=関門があって、業者さん2人して、迂回したり斜めにしたり大変な思いをして、ようやく設置をした。

 では、前の冷蔵庫のときどうしたのだろう。ああ、あれは引越しのときだった。そのときの搬入の様子を覚えていない。私はどうしていたのだろう。

 あっ、とんでもないことを思い出した。あのとき私はいなかった。小さい子が4人もいて引越しのとき私はその場にいなかった。シゴトチュー(仕事虫)だった。どこにいてなにをしていたか。職場にいた、居ざるを得ない職場だった。今でいうパワハラが吹き荒れていた。ほとんどビョーキだった。

 そしてホントに病気になった。

2008年9月19日金曜日

敵前逃亡とは言わないのか?


 と思いましたけれど、適材ではありませんでしたね、お二人とも。太田さんは品格という資質がなかったと考えます。白須さんは公僕としての資格がなかったと考えられます。

 ですから、更迭(でしょ?辞任?!)が当然だとは考えますが、責任の取り方は辞めれば済むのでしょうか。ホントは、このままでは戦えないと言う政権与党の選挙対策ではないでしょうか。

 もちろんこのお二人に問題の解決能力と姿勢がないことは明白です。失言ではなくて本音を正直に述べられただけですから。

 公表された377社のみなさんは夜も眠れぬ思いをしているかもしれません。精魂込めてせっかくつくった製品は捨てられます。酒、焼酎、落雁、餅、菓子、でんぷん、薬、などなど。

1) 太田さんは12日のテレビ番組で「人体に影響がないことは自信を持って申しあげられる。だから、あんまりじたばた騒いでいない」と発言しました。
2) 白須敏明農水事務次官は11日の記者会見で「私どもに責任あると、今の段階ではそこまでのことを考えているわけではない」と発言しました。

日本列島では何をしているのか


 AFP電によれば、『国連食糧農業機関(FAO)は17日、世界各地で深刻な飢餓に苦しんでいる人の数が、食糧価格の高騰を受け、2008年初めまでに8億5000万人から9億2500万人に増加したことを明らかにした。
 FAOの統計によると、食糧価格は06年に12%、07年には24%上昇しており、08年は8月までだけで50%も上昇しているという。FAOのディウフ事務局長は、飢餓に苦しむ人の数は今年末までに10億人を超えるとの見方を示した。』 という。

 ある取引先の芋焼酎メーカーは中間取引業者を介し辰之巳(株)から最近この事件の発覚前に、事故米とは全く関係のない国産米16トンを仕入れていた。そして既に使用され全量仕込まれていた。今、これを全量廃棄する方向で、監督官庁の国税局と調整しているとの報告があったという。 辰之巳=三笠フーズから仕入れていたというだけで。

* 米穀卸会社「辰之巳」は三笠フーズの冬木三男社長が社長を兼務する子会社。また、この会社を使って自民党に献金をしていた。

 我社は事故米であるなしにかかわらず、酒類は全商品、アフラトキシン、メタミドホス、アセタミプリドの項目で検査を行うらしい。膨大な費用と時間がかかる。

 火の粉、風評被害を振り払うのはさまざまな手段が必要で、検査をするのも方法だが、今回の被害者でもある中小零細な食品加工業のみなさんにできる負担なのだろうか。
 また、国を提訴するという動きもある。さまざまに国に非があるから、先々弁財することになると考えられるが、それはそれで結局我々の財産である税金が使われる。

 10億にもなんなんとする飢えたる民がこの地球上にいる一方で、我が列島では米やその製品を廃棄する方向で動いている。国のずさんな管理のために、そして金儲けを企み人をだましたヤカラのために。食品加工業の人たちは疑わしきも含めて、企業防衛のために捨てざるを得ない。そう追い詰められている。評論家風に、これが経済成長の果ての21世紀の日本なのか、と言いたくなる。

2008年9月18日木曜日

楠田浩之さん逝く


 木下恵介監督が亡くなったのは、暮れも暮れ12月30日だったのでよく覚えている。98年のことだった。巨匠だったのに年末年始だったので俄かには追悼番組は組まれなかったように覚えている。とはいえ、深夜のNHKで彼の作品が連夜放映された。お正月の真夜中、あらためて「二十四の瞳」に目を腫らしたものだった。若くて希望があること、貧乏で悲しいこと、戦争に翻弄されたこと、仲間がいること、月日は経つこと、ただただ素直に描かれていた。

 その撮影監督であった楠田浩之(ひろし)さんが9月13日にお亡くなりになっていたことを知った。「喜びも悲しみも幾歳月」など当時(1957年)の日本の片隅(灯台守)のきれいな映像を残した。92歳。合掌。

ついに犠牲者


 尾道から「しまなみ街道」をみたことがありましたが、向こう側つまり愛媛県の今治市の話は初めて聞きました。来島ドッグがどうのこうのは昔の話です。「今治市の食と農のまちづくり」というテーマで安井孝さんという方のお話でした。JASMEQの講演企画です。

 みんないい話だったと言っていました。食育30年の実践で、地元の農業つまり産業と結びついた地に足ついた成果。食の崩壊状況から、もう一度子どもたちの「食」の教育をやり返す具体的な歩み。年月を経て「たたいて、うちかえす」と表現されておりました。2時間近くの講演をお聞きしましたが西の言葉はやわらかくていいですね。
 なんだか好きに盛り上がって、東京駅近辺から山手線を1周半して最終電車だかなんだかに乗って帰ってきても最寄り駅ではありませんでした。昔なら多少ジタバタしたのですがおとなしくタクシーで帰ってきました。 不況でしょうか、すぐ乗れました。

 ところで太田誠一さんという人は見てのとおり体格のいい人です。若いときは国会内のヤジで「やかましく」、強行採決のときは体を張った活躍で目立った人です。旧選挙区では山崎拓さんや神崎武則さんなどの大物政治家と競合していたので、機を見て敏、自民党を出て行ったり帰ってきたり(94~95年)、かなり「じたばた」した御仁です。あらためて言動を見ていますと「粗野」なおひとにお見受けします。

 「大臣もダイジンだ」と、さすがの福田さんも苛立ちました。6人の所轄大臣を叱咤し、費者行政大臣の野田さんに火しを命じたそうです。「」の扱い方が違うような気がしますが。

 ついに犠牲者がでました。「業者」さんを区別すべきです。

 とんでもないことをしでかした三笠フーズ(4社)とかブローカー。事実上、野放しにした農水省。事態のわからぬ同事務次官高級官僚、および太田農水相。

 中小卸屋さんは知らずに販売したと考えられます。町のお菓子屋さん、餅屋さん、酒造メーカーも知らずに加工したのです。ものづくりに勤(いそ)しんできたひとたちです。毅然と守るべきです。

2008年9月16日火曜日

ミニマムアクセス(MA)米、汚染米


 もとを辿れば政治判断がもたらした事件です。改革などニセものでした。車やデジカメの工業製品を売って、「農業と食」の売り渡しを促進した現象のひとつでしょう。なんの必要もないお米です。

 農水省というお役所にとって、MA米はさすがに政治からのやらされ仕事でしたから、いかにもおざなりだったと考えられます。それをみてとってボロ儲けを暗躍した者たち、経営者。現場で実行させられた内部告発者に比べて、良心の呵責もなかった手の込んだ手口。案の定、第一声は「現場がやった」でした。内部告発への逆上もあったと考えられます。大臣から官僚、経営者たちの絵に書いたような無責任、他人事。

 死に体とはいえ、福田さんも陣頭指揮を執る気配がありません。それよりも「じたばた」してやっているのは、「政権投げ出し」への目をそらし、総選挙事前運動でしかない身内の総裁選の方です。庶民は「惣菜(食べ物)」をナントカしてくれと投書、反撃を始めています。元課長のちんまい接待事件のリークなんぞでめくらましなどされません。

 現場のひとたちの人生。加工屋さんたちの具体的な経済的損失と信用回復のこれからの悲惨な努力。膨大な量のお酒の廃棄のもったいなさ。

 高まる不安と不信。やがて時間差で各売り場に押し寄せてきます。こうなれば「仕様書」をいくら検索してもホントのことがわかりません。「証明書」「誓約書」など詐欺師にかかればいくらでも書いてくれるものです。“不自然に安い”このことにいつも疑念をもつ必要があります。それを知りながら、利益が上がるから採用したのではないかと、ある給食業者大手のことを私は疑ってもいます。

 大半の若い社員を契約や派遣としてしか雇わず、長時間労働で巧みに使い捨て、お年寄りの介護市場にのしあがってきた業界大手です。この会社の名前が納品先(被害者)としてあがったのをみて、おやっと疑念を抱いたしだいです。

2008年9月15日月曜日

老いる


母方の祖母は大学時代に80代後半で亡くなった。母もそのぐらいかなと秘かに覚悟していたが、96歳で健在だ。母の5人の弟妹つまり叔父叔母たちもみな健在。聞けば母の実家は長生きの血筋。90代まで生きたひとがいくらもいた。

母は努めてよく歩いた。母が町のあちこちを歩き回っている姿は、市のケアマネージャーの間では有名な光景だったことを、その人にお世話になって聞いて知った。想像はついていた。一日に歩いた距離は半端ではないようだ。私の故郷ではお墓の花は欠かさないが、その場所はかなり遠い。歩くのは足腰が弱らぬようにと、人のお世話にならぬようにとの気丈夫さからだったが、歳を経るにつれ何度も転んだらしい、深刻なダメージをそのたびに受けていた。

末子の私が家を出て以来、独り暮らしだ。米寿のころだったか、母は父の33回忌を執り行った。同居の話もしたが、それぞれうまくいかなかった。私たち子どもも叔父叔母たちも関東関西在住で、故郷には叔母ひとりしか身寄りはいない。その叔母も独り暮らしだった。

あれこれあってケアハウスに入居できたのも束の間の数年、認知症が進み、一時期兄弟で途方に暮れたが、施設(特別養護老人ホーム)になんとか入居できた。ついこの間のことだ。杖も車椅子もいやがっていたが、足腰を鍛えていたので、歩行は自分でできる。昼も夜もなく介護をしていただく職員のみなさんには頭がさがる。

顔と姿が父親、つまり夫に似ているらしく私に会えば喜ぶ。それでも認知症が進んでいてたまにしか帰らない私たちだから、誰だか判らないときもある。状態は「まだらもよう」と施設の人が言う。我が妻の名前は前の前に帰ったときにはなかなか思い出せなかった、この前はすぐに思い出した。友人達は親がいるだけいいではないかと言う、確かにそうだ。

夏休みを別のことで使った。兄からの連絡によればいろいろな病状がすすんでいるらしい。来月久しぶりに会いに行く。

その母といるときは宇宙空間にいるようだ。会話は繰り返しで、どこかを漂うような、どこにいるかわからないような、今はいつなのかもわからなくなる。いつも施設を去るとき、母は見送りをしたいと言う「こころを鬼にして」しか帰れない。

のざわな蕪四季会社の配湯


 次男が昨年の冬、野沢温泉の民宿に行った際に知って、今春この会社の蕪主(かぶぬし)になった。3かぶ分出資で、これは初任給での私達親へのプレゼント。それでこのたび「野沢菜一番間引き(摘み菜)」と茗荷、「配とう」として野沢温泉の生源泉100%の化粧水が送られてきた。
 「野沢菜一番間引き(摘み菜)」とは一番目の間引きの摘み菜を源泉の「麻釜(おがま)」で茹でたもの。うまかった(下の画像のだんごの隣がそれ)。

 収穫期には蕪主総会も開かれるという。本番の野沢菜漬けを楽しみにしている。
 
 出資をするなら生協かこういう会社にするもの。皆の衆、決してオイルやバイオエタノールに投機などしてはいけない。それほど持ってない?できるわけない。

2008年9月14日日曜日

はなつまんだだんご


 確かお盆のころの宴で出されていたものだ。これは母のお里だけのものだったのか、我が郷土の一般的なものなのかわからない。お月見の団子ではない。

 米粉で団子をつくり、その名のとおり、鼻をつまんだ形に仕上げる。あんこをつけて食べる。小さいときこれだけは楽しいから進んで手伝った。妻殿にこれを伝授していたので、中秋の名月の今夜、久しぶりにつくってもらった。

 昔、空き地はどこにでもあったからススキの穂は手に入って一升瓶に刺した。さつまいものことは「おいもさん」と敬語で呼んでいた。梨、栗、柿、あと何をお月さんに供えたのだろうか。縁側に置いた。いま、思い出したらどれほど小さな縁側だったのだろうか。網戸もなにもなかった住宅構造だった。

 息子の残念会もかねてお月見名目のビールの飲み会。冷蔵庫を買ったときの景品の「泡旨ビールカップ」(陶器製)での試飲。素焼きの部分でクリーミーな泡が立つと、たしかに。
 居間からもリビングからもお月様は見えない、眺望の楽しさのない我家、お隣しか見えない。

 ホントはお祝いに準備していたが、残念会の激励プレゼントになった。次男は料理ができる。個配システムで「叩き上げの強さ」の御託が気に入ったこだわり道具の中華なべ(国産)。人生、挫折はある、能力が足りないときもある、ひとに認めてもらえないときもある。少しは励ましになったのだろうか。表向きケロッとはしているが。

久米島のモズク(天然)

 叔母さんは女子師範に進みながらひめゆり部隊で亡くなられたそうだ。両親がそれぞれの苗字を組み合わせて新しい姓をつくったという進歩的な家庭だったことが窺える。だから琉球でも珍しい姓だという。得意先の元専務は久米島のご出身だった。

 久米島は沖縄本島のはるか西方にある離島。中国からみたら蓬莱島にも見えたのだろうか、島の名前はどういう由来なのだろう。久米島絣があってネクタイを買い求めた。決して安くはないものだったが、ノーネクタイになって締める機会がない。

 島の東側はきれいな白洲がつづき美しい観光地だ。ちょうどその裏側を東へもっといくと、そのあたりにモズクが自生する海域がある。昔から伝えられてきた場所。4月ぐらいが収穫期でまとめてとれる大きな産地だ。天然だから毎年どれだけ採れるかはわからない。

 春には楽天イーグルスがキャンプを張る。
日本航空はリストラでホテル経営を撤退したらしい。地元の財閥と呼ばれる人が経営を継いでいた。この人は海ぶどうの養殖も手掛けていた。

 久米島も恩納村漁協の技術と指導をルーツとしてモズク養殖の有力産地になった。みんな熱心で漁協の構成員も若いひとが大勢いる。

 ようやく、個配で企画が採用されて利用できてよかった。早速注文して味わってみればそれなりに太めの食感があって個性的だ。おもしろい商品ができたと思う。

 ただし「天然だからいい」と思わせる企画は困る。とくにお江戸は大消費地だ。天然志向で「安定供給」を追求されると産地は刹那の繁栄に目がくらみかねない。そうすれば漁場はつぶれる、獲りすぎだ。獲り尽くしてしまうこと、この愚を世界中でやった。かっさらっていけば、そこには何も残らない。
 
 環境と調和して持続性が可能な養殖技術がモズクでは確立している、いやモズク養殖は海の環境を保持しなければ成り立たない。天然は少なく希少だ、その生息地のある環境を‘まるごと守ること’、このことと連動する企画の立場が必要。「美しい海、貴重な天然もの」という上手なコピーの商業主義ではだめだ。「たまに食べられるぐらい」がちょうどいい。
 提案をしたい。高く買うこと、高く売ることを。産地と共に生きていくという哲学があり、適正な量を引き受け、高く買い高く売ることができれば、産地は信頼する。理想を言うようだが、資源を次の世代に残すにはこのシンプルな方法しかない。

 「バングラディッシュの天然のえび、タイで加工しました。」の企画もある。天然だからいい、(且つ中国加工ではない)、という風に受け取れる。その裏側を、仕入れ担当はよく覗いてみてほしい。商品部はよく考えてほしいと願う。バングラディッシュの海と、タイの加工業になにが起きているのか。

 「安くて簡単便利」このコピーが溢れている。
ひとを批判しながら、自分のところでもそれがみられるといけない。

2008年9月13日土曜日

永久保存にしたい


舅どのは姑さんの陰に隠れている。

大正製薬は昔、道の水たまりを飛び越せなくなったね、という中年男性のための「だから栄養ドリンク」とかいうCMを流した。中年男性とは大正生まれで兵隊に行って働き尽くめという筋立て。舅どのがそうだ。中国戦線、ベトナムにひっぱられていたそうだ。すべて姑さん経由でおもしろおかしく脚色されて聞いた話。このひとは「馬耳東風」という趣旨のことを姑さんは言う。どこでも眠れるそうだ。右を向いていろと言われればいつまでも向いていられるような耐えることが平気だという。夜間行軍中どこかで小休止したときつい寝込んでしまい、起きたら置いていかれたらしく蒼くなって追いついたという話は何度も聞いた。船が沈められたときカナヅチで飛び込めず却ってそれが幸いし九死に一生を得た話も。

「三十六色の色エンピツと名画の塗り絵」セットを敬老の日にということで送るのを妻から請け負った。何も考えず手帳に書いてあるままに舅殿を宛先に書いた。妻は母親に贈ったつもりだったらしい。ちょうど外出をしていて留守電が入っていた。姑さんからのお礼の内容だったが、傑作なのは、「録音だからしゃべらいん」という小さく促す声があって、舅どのの声が入っていたこと。録音とはいえ、電話に出て‘面と向かって’話すということは滅多にない人の声が入っていた。これは永久保存版もの。

姑さんは大柄でほがらか、ふとっぱら。その昔、舅どのはよく番頭さんですかと問われたらしい。舅どのは家業を継いだ二代目。実直、生真面目そのものの人生。それが姑様にはちとつまらないらしい女心。算術は抜群。それにしても大人しい東北人。

数年前に戦友会でも健常なのは舅どのだけになってしまい解散したらしい。来年は卒寿。元気で長生きしてほしい。住みやすい世の中にしなければ。

2008年9月12日金曜日

こぶしの持って行き方

 毎週なにがしかのゴミ出しの日があって出すのは私の役目。通勤路をややはずれる。大きくはないが、がっちりとした体格のオスネコによく出遭う。どうやら縄張りの朝のお散歩コースらしい。態度があまりかわいくない。いつしか「トキ」(おおきな声では言えない)と名づけていた。

 インドネシアATINA社から都留さんスナルトさんエイブラハムさんらが来日して、昨夜お食事会にお呼ばれした。このあいだ、ご一緒した一行のなかの理事さんたちにも再会した。「同じ場所で同じようなものをほぼ同時にともに食べる」のが親近性を高める人間の行為。という理屈を食育で学んで、あらためてそういうことなんだと思った次第。
 忙しいなかを職員のYさんは千葉から駆けつけた。通常ではこんな時間には仕事が終わるはずがない、やりくりしてきたらしい。現場では所長さんだが、我々の一行のなかではひょうきんで通っている若者。やまなしの職員のTさんは茨城の帰りがけで30分だけ参加して帰った。理事さん達も遠い人はイバラキから駆けつけた(右のサブレーをいただいた)。時間はあまり経ってはいないけれど旧交を遅くまであたためた、みんな帰れただろうか。
 
 事故米の不正流用はひどい話。
そもそもそんなものを輸入しなければいけない仕組みがある。政治の判断、ミニマムアクセス米この根本を問題にしなければいけない。
そしておざなりな行政。三笠フーズらのあぶく銭つかみのやり口。ばれないようにと巧妙な手口。その不正行為を実行させられた現場の人の、心の葛藤。ついに勇気をふりしぼって内部告発をした人がいた。行政に放置されたうえ、その挙句が全員即刻解雇。被害を蒙った取引先の数々の食品加工業者。

2008年9月10日水曜日

我家の稲穂


方言で「ほがない」という。「ほのなかこつ」(ほがないこと)というふうに使う。あてにならない、中身がないこと、とかいう意味だと理解している。

「ほ」は「穂」だと思っていたが、「帆」でもあてはまる。穂の場合、穂には実が無い。

この列島では古代国家の成立から幕府政権まで主税(祖、年貢)はコメだった。水田稲作を奨励し営々と隅々まで田園をつくりあげさせ、支配者に米を上納させてきた。大石内蔵助の長男は大石主税(ちから)。国家財源の基礎のコメは「ちから」の源とされた。米はおいしく栄養価も優れた食糧として社会の真ん中にあった。食としては米と魚これが長く日本人を形成してきた。これを土台に文化をつくりあげてきた。

「バケツで米づくり」、花が咲かなかったように思うが穂ができているのに今朝気がついた。実は無いように思う。収穫祭の案内がわざわざ来たが、残念だ。なんの努力も執着もしていないのだから何もいえない。

この列島で人生50年の平均寿命が明治か大正まで続き低迷する、まして戦争もあった。豊葦原瑞穂国でありながら、戦前から日本は長く米の自給ができなかった。ようやく自給できるようになり、長寿にもなったのは歴史的にはつい最近のことと言える。ようやくそうなったのに、こんどは飽食の挙句食い物を捨てたり、「後期高齢者」などといって収入もない多くのお年寄りから徴税したりもする社会をつくりあげてしまった。この解決に取り組むことが課題になる。

2008年9月9日火曜日

無事帰宅


「♪自衛隊へ入ろう」を残して高田さんは自然死した。我社を守るより、国を守ればと言いたくなるような身構えた人と会議で「楽しい」対話をした、それが昼間の馬鹿なストレス。

酔えば自転車は真っ直ぐに進まない。若いときは素直に下り坂の溝に落ちた。顔から。

寝込んで起きれば息子の友達が飛んで帰った。無理して東京に向かえば空港で厳重なボディチェックを受けた。顔は腫れ上がっていても、若くて元気だったから危うく体が反応しかけた。

M線はこっちの方向だといわれて多少不安だったが確かにそうだった。超近代的な首都のビルの1階だが地下で別れて、その方向に進んで言われた通りに乗ることができた。

大企業の傘下に収められた中小企業と、中小企業の協同とは天地の差があるだろうということで意見が一致した。

それで3人のそれぞれが役割を認め合ったように思う。ただし、そのときは芋焼酎でかなり酔っていた。といっても実行力ある3人。なんとかするだろう!

これから千葉県の果てまで帰るという一人と、途中まで帰る一人。

楽しい酒(芋焼酎)とはこういう酒をいうのだろう。酔って別れた。20年経っても我々の中身は青年だった、ははは。

あっ、カメラ持って行ったのに写さなかった、またがあるかな?南の果てでまた飲もうと約束した気がするし。

三笠フーズの被害にあった西酒造の「宝山」が偶然飾ってあった。で、それを飲もうとなって飲んだ。別の話題になって「晴耕雨読」「鉄幹」を飲んだ。いずれも芋焼酎、酔える。

気の許せるひとと飲むとたいがい私はゴジラをするのだが、今日は無事だった。

2008年9月8日月曜日

冷蔵庫


どうしても見に行きたいというので車を出した。そしたら買ってしまった。

学生時代にリポビタンDの小さなショーケースをゆずってもらった。それでビールを冷やしていて、4畳半の学生アパートで飲み会をした。今考えれば、レアものだったがあれはどうしたのだろう。

就職したら先輩からお古をいただいた。どうも連綿と譲られてきたシロモノだったようで丸い外見をした年代ものだった。2ドアだったが、冷凍庫は霜だらけで入れるスペースはあまりなかった、しかもドアが勝手に開いた。

結婚しても使っていたが、子どももできたころ、さすがに買い換えた。というより、初めて買った。

そして下の子が幼稚園のときに6ドアに買い換えたらしい、かれこれ18年。冷凍庫からは冷気が洩れ、滴になっていた。二人で田中優さんの本を読んでさすがに買い換えようと考えていた。

二人になるのに、大きくても小さくても消費電力がそんなにかわらないというので、また大きいのを買った。個配を利用していると冷凍庫はどうしても大きいのが欲しい。透明な氷ができるという、それが楽しみだ。

2008年9月7日日曜日

未だアナログ


 うちはNHKに「アナログ」表示がでます。「うるせぇ」と思っていますが、そう思うこと自体が向こうの思うつぼなんでしょうね。操作されるのはこわい。新婚の息子のところは地デジの確か38型だったようですが、テレビはテレビのように見えました。多情報も双方向も結構ですが、何か生活が変わるのでしょうかね。うちの娘は当時の最新型パソコン買ったのに肝腎のパソコン機能は使う気もなく、専ら地デジのテレビ機能を使っているようです。

 ムービーもカメラもテレビもパソコンも何を売っているのか、買っていいのかわかりません、とくに必要もないのにたまに気まぐれで見に行くことがあります。売り場に行くとちんぷんかんぷん、へとへとでカタログひろってスゴスゴと帰ってきます。新製品や機能に付いていけないのですが、老化ですかね、もともと苦手?シンプルイズベスト。「これです!」と言い切る「ジャパネットたかた」が売れるはずだと思っています。要は本質的な機能の追究なのですが、それでも新規用語、多機能がわからない。しかも日本語ではない。

 しかし、3年しか経っていないパソコンの修理で経験しましたが、アフターサービスがなっていませんね。制度はあるのですがメーカーサイドです、消費者本位ではありません。売り場も売るときだけ一生懸命で、修理は二の次が実態でしょう。あきらめさせられ、使い捨てをさせられかねません。まず対応不愉快、買い替え促進、ポイント還元のリピート誘導型です。あれっ!どっかの仕事にも似ているなぁ?

2008年9月6日土曜日

前向き その2


 以下は銚子の加工屋さんの『メルマガ』の孫引き

 『困難な仕事に立ち向かったり、成果がなかなか上がらない時、悩みの多い時、夜眠れないことがある。こんな時は考えるのを停止し「よし、明日の朝考えよう」と割り切って出来るだけ早く寝てしまうことだ。朝集中して考えようと自分で決めれば寝られないことはないはずだ。第一、夜考えてもろくな考えは浮かばない。「朝は夜より賢い」という格言がある。朝の考えは積極的で行動への意欲に満ちている。 一般的な心の健康という面では、 人に会うという行為は大切なことである。人に会うのが苦手だとか嫌いだとかいっている人は一般的に暗い印象を受けるが 暗さはすなわち心が不健康な証である。逆に言えば心の健康イコール明るさであろう。そしてその明るさは多くの人と接し、前向きの話を交わす中から生まれてくるものである。したがってできるだけ前向き志向の人に会うようにしたい健康とは精神と肉体が生き生きとしている状態である。このようなときこそ何事にも積極的にチャレンジしていけるし、情熱的になり最高の能力が発揮できる。想像力もそこから生まれてくるし、よい仕事もできるものである。』孫引き以上、出典は知らない。

 私は夜更かしと早起きの両方をしてしまうのでへとへと、後ろ向き、汗を流して飲めば酔う、酔えば寝て、覚めれば起きる。自由人またはガキと謂われる。他人様から「ご主人は自由業ですか」と妻殿に問われるのは毎度のこと、もっともこの場合風貌からのこと。

 分子生物学では「生命とは地球環境にある分子が、生命体のなかの分子と絶えず入れ替わるという流れそのもの」「生命とは時間をもつものであり、その流れは決して後戻りすることはない」「死とは物質の環境と生命との交換の流れが停止したとき」ということだそうです。新書『食べるって何?』原田信男さんの著書からの引用。

 前向きな人がたくさんいるもんだ。「分子」ではなかろうけど、その「意気」、「呼吸」を取り入れよう。いつも置き去りにされる職場を、たたかう職場にしようとみんなに呼びかけている。

茨城ご縁

 首都警察は「いも」に支配されているといって辞表を叩きつけ、故郷に帰って食品加工業を起こした社長の昔話を聞いたことがある。この肥後のお人がいう「いも」とは水戸と薩摩。なるほどとは思うが、未だにそんな実態が、とも思う。首都警察はわが国、草莽期(そうもうき)の自由民権の芽をつぶした実行機関。幕末テロの水戸脱藩士と一撃必殺の薩摩剣士、意地の会津元藩士などが力を合わせて権力を行使したらしい。初代総監は川路利良(かわじとしよし)、薩摩の郷士出身。反骨の士が権力を握ると一徹で恐い。

 その水戸藩すなわち、茨城県はおおきく3つに分かれるのだとあるときの車中で聞いた。仕事柄、那珂湊とか日立とかの人との交流があったので皆あんな方言かと思っていた。「天下が徳川の世になり佐竹の殿様は転封になった。すなわち追い払われたので、そのときの腹いせに常陸の国の美人をみんな秋田に連れて行ったらしい」と日立出身の御仁がいつも言う。真偽は知らない。

 初めて茨城県というところに足を踏み入れたのはビスケット屋さん、そして浅草に本社があって工場は牛久で、洒落た束子(たわし)や洗浄道具を製造する家庭用品屋さん。当時はどこまでが東京でどこからが茨城かわからなかった(今でも)。東京に転勤してきて上野から特急に乗って水戸の先までいって、みなさんと会話をして「これがイメージの茨城だっぺ」と実感した。それが3つに文化や言葉が分かれるそうで、そういう「だっぺ」言葉を使わない人がいることに最近納得できた。ちなみに学生時代の男女ふたりの友人が当地のご出身だった。他県の人と話したことがなかったので初めて聞く方言まるだしが珍しくておかしかった。お互い様だっただろうが。一人は筑波山の麓、もう一人は水戸のひとだった。

 最近なにかというと茨城の人とお知り合いになることが多い。この間産地にご一緒したご婦人も難しい漢字を連ねる苗字で当地では由緒正しい家柄らしい。しかも旧姓は「エビちゃん」で生まれも嫁ぎ先も全部イバラギだと相棒のご婦人がばらしていた。

 職場に人が大勢補充されて総勢18人になる。大のお得意先と一体化することにしているので、こちらからの出向の人達で占められる混成部隊。昨夜歓迎会を催したら、茨城県出身および現役のひとがなんと結構いた。ローカルの地名と独特のイントネーションが飛び交う。

  「イバラギ」がブランド化するかもしれない。米は新潟を超えているかもしれないし、芋もある意味鹿児島を越えている。少なくとも「たこ加工」は日本一。ひそかに「いも連合」でもつくるかなと思っている今日このごろ。

 *画像は輪島漁港の「まだこ」を冷凍原料にして、蒸しダコに那珂湊で加工したものの試作品。タコの加工は常磐地方の“モノづくり”の技術で一歩秀でている。もとはこの一帯が水揚げ産地だったのだが。

2008年9月5日金曜日

ほんとうの


横湯園子さんの『ひきこもりからの出発』(岩波書店)のあとがきの最後に紹介されていたナンシー・ウッドという人の詩です。孫引きです。

「 友達は来ては去る、恋人が往々にしてそうであるように。晴天のときだけいて天気が変わるとき消えてしまう人もいる。
ほんとうの恋人は日が射さなくなっても留まる。ほんとうの友達は一緒に雨を受けてくれる。
偽りの友達は雨なんか降っていないよと言う、こっちは身体に雨を感じているのに。
ほんとうの友達は何人必要だろうか?一人で十分。でも四人いればなおいい。あなたの進む方向に合わせて一人ずつ。
       東:調和
       南:明晰
       西:冒険
       北:愛  」

2008年9月4日木曜日

家内


 遠い昔のこと。傘には「蛇の目傘」と「こうもり傘」の区別があった。こうもり傘は高いが丈夫でランクが上だった。その名の通り“ジャバラバラッ”と鈍い音を立てて開くのが蛇の目傘で、油が酸化した独特の匂いがした。この匂いが「油の酸化臭」として私の記憶に刷り込まれた。安かったが、やがてすたれていった。時代劇の傘張り浪人を、昭和30年代の内職仕事を想起する。今は観光地などでお土産のように売られている。我家にも反対を押し切って買ったものがひっそりとある。

 小学生のとき今のような「置き傘」というものはなかった。下校時、雨が降っていれば友人の母親達は学校に迎えにきた。働いているうちの母親にはそれを望むべくもなかったので、町の家の軒先を伝いながら帰った。無駄な努力だったので途中から「ままよ」と濡れて帰った。年末になれば友人の家庭では正月の準備に余念がなかった。勤め人の家の母親はたいがい専業主婦だった。

 この前は盆休みで、今度は遅れの夏休みということで妻殿が長く家にいる。いそいそと台所のことをしてくれて食卓の品数の手が込んでいる。家もきれいだ。

 ホントは「妻は家庭で、亭主は外で仕事」を望んでいたのかもしれない。「家内」にしたかったのかもしれない。自分の気持ちが自分でわからない。

2008年9月3日水曜日

海士町

久しぶりに夏の終わりの陽射しだった。また、雨になるらしい。

またかよ、の福田さんの投げ出し。小泉さん、安倍さんが冷酷無比にやったことに比べれば穏やかなやり方ではあったが。泣き言は一緒だった。

「海士町」と書いて「あままち」と読む地区は輪島漁港にある。たどれば400年の歴史があり、発祥は九州筑前の鐘崎町に行き着く。航海と漁法にすぐれた人たちで、日本海と瀬戸内海沿いに進出して各地に「海士町」を残しているらしい。「かいしちょう」と読むのが隠岐島。対馬暖流沿いにあるこの島も佐渡島も漁場としては秀逸。つまり、ブランド、高嶺の花。だが、隠岐島の場合、離島の悲哀。いかによい魚や珍しいものが獲れても境港に運ぶまでのハンディに甘んじてきたと聞く。

 この隠岐に奥田さんという人をキーマンにして第3セクターで水産冷凍加工場を立ち上げて3年。CAS(キャス)凍結を導入した。凍結しても細胞が破壊されず、解凍後に鮮度が生き生きとよみがえるという新しい技術らしい。輸出にも活路を見出しているらしい。

 いい魚がある、珍しいだけでなく旨い。離島の一次産業である。海外で認められている皮肉。要するに、今の主流の小売業(スーパーチェーン、我社グループ)には「価格が高すぎる」のだろう。しかしそうかな?価値があるのではないかな?

今日は早く帰宅してラミ先生の教室、汗をかいた。

「蒼天之夢」故郷の仲間から送ってもらったこだわりの芋焼酎。38度。当地の我がグループでしか手に入らない秀逸品。飲んで酔った、寝る。

2008年9月2日火曜日

OPEN FORUM参加録 その2


例外なくエビに忍び寄る病気の危機、シドアルジョという世界的にも有名な産地はSOSを発していましたように思います。民衆交易の出番(人の投入)と、技術と専門性の検討の投入も必要です。のんびりしておれないというのが所見です。この病気はへたをすれば産地をまるごと潰滅させます。種苗が、もはや、たくましい天然ものではありませんでした。生産を取り巻く環境が都市化のなかで悪化しておるように見受けられます。収穫量をかなり落としているように聴きました。そのようなことも背景にあって「内紛」にも及んだような印象をもちました。より深い対話が必要です。生産者のひとりは日本側(代表団のこと)のモラルを感じると言っていました。
 
右は富士山かと見間違うような山:スメル山3,676mだと思う、機中から撮影。

私は今、「所見」をあらためてまとめてみました。

ひとことで言うと「危機が忍び寄っているな」という心証でした。
「エビから世界がみえる」ということです。

さまざまな事象の再確認をしつつ、より一層、現地のみなさん(生産者、ATINA社)との対話を重ねることが肝要と認識しました。

生産者と工場とそして理念を守らなければなりません。
私達自身のためにも。


伝統的えびの粗放養殖の危機、それは以下の2点です。

1) 忍び寄る病気 ⇒ 産地シドアルジョの危機 
2) 「食べる国」の食の変化 ⇒ ブラックタイガーという品種の危機(以下B/Tと略す)

現場(池)でもFORUMでも生産者が訴えていましたのは次のようなことでした。
1. 生産量(反収にあたる)の激減
2. 病気への対処の苦難(伝統的な対処でもできない、土や水の分析を日本で支援して)
3. 価格への正当な評価を
4. 環境をよくしたい
5. もっと話し合いを、池に来て


1) エビの病気と産地
1980年代後半から90年代前半の10年間にかけて、台湾・中国・タイの有力産地が相次いで潰滅しました。病気による大量斃死のためです。
エビを買い付ける側の日本はそれらの産地を捨てて、他へ移ったまでのことです。それはベトナムであり、広大なインドネシアの未開の島々でした。ベトナムのメコンデルタはほとんど手付かずの豊かなエビの産地でした。またインドの天然エビの漁場開発をします。

そして、どうしても斃死のリスクのあるB/Tはやがて見捨てられ、バナメイという種類になる。このエビは比較的病気に強く早く育ちます。しかし、B/Tほどおいしくなく、小さい。

そうして、開発の方法もより大掛かりになります。台湾方式の社会分業型、家内工業型ではなく、大資本による首尾一貫した垂直型の生産方式になります。つまりエビの交配から、孵化(ハッチェリー)、養殖、飼料生産、加工輸出までやってしまう「フルインテグレーション」という方式の採用です。

これがこの20年間の流れです、そうして現在に至っています。

インドネシアのスラウェシ島での日系企業による大型開発の事例、また中東における財閥企業とのジョイントの超大型開発(「紅海の海水養殖エビ」と呼ばれる高級なエビ)の事例も始まっています。

2) 食の変化とエビの品種
 B/Tはバナメイより確かにおいしいのですが、それは焼いたりボイルにしたりすると顕著にわかりますが、そのようにしてエビを食べる日本の家庭は少ないと考えます。利用方法はフライ、天ぷら、チリソースなどがあると考えられますが、味は衣や味付けにも左右されます。それも、加工済み或いは調理済みの冷凍食品が求められています。例えば「フライ用衣つきエビ」です。
 人気が出てきたのが、たっぷりエビの入ったカツレツです。それに求められるのはふんだんなエビの数です。味付けは衣でできますので、エビが旨いかどうかはあまり問題ではありません。バナメイはそれに適合し、B/Tは高くて適しません。
 おいしさで優位のB/Tといえども、必ずしもマーケットにいつまでも適合しているわけではありません。

3) 産地シドアルジョ、伝統的えびの粗放養殖産地の危機
 病気はうつります。元気で体力のあるはずのエビも水質・水温などの環境が悪化すれば耐えられません。
 他の集約型養殖の産地が次々と潰滅、後退していったのに、シドアルジョ、グラシックのような数百年も続く伝統的な粗放養殖産地が健在なのは自然と調和し、自然の力を借りるその素朴な生産方式の健全さにあるのではないかと考えていました。つまりエビにチカラがあると。確かにそうでしたから21年ぶりに訪れても産地は健在でした。
 
しかしながら、病魔と自然環境の悪化の影響は例外ではありませんでした。インドネシア第2の都市スラバヤに隣接する産地の都市化の波は押し寄せていました。インドネシアも工業化にひたすら走りました。車とオートバイと工場の数は見た目にも増えていました。下水道の整備や環境汚染防止が十分にとられてきたとは思えません。

この産地の収穫の激減の傾向は、①稚魚が弱くなった②水温の変動(高くなっている)がある③川の水の質が悪くなった(水質汚染)④水質の酸性化ではないかと生産者自身が分析していました。彼ら自身、「テクノロジー」のやりかた(抗生物質の投与か)よりも、伝統的な生態系によい方法でやりたい、何が水を悪くしているのか目を向けたいと表明しています。

自然の海水、汽水、川の水を利用するこの養殖方法は環境保全がなによりも大事なこと。ですから、ここの生産方式を持続、発展させることは、突き詰めれば「私たち自身の問題」にも通じるのです、「エビから世界がみえる」のです。 ~つづく~

2008年9月1日月曜日

どう呼ぶべきか


『つれがうつになりまして』は重い内容を軽妙に描き、かなり読まれたようだ。この本の中で夫婦間の相手のこと(妻→夫)を「つれあい」と呼んでいる。無難な呼び方のようだが、新鮮に感じ、かつほほえましく感じた、こんな呼び方もいいもんだ。

で、改めて自分の配偶者のことを対外的にどう呼ぶべきか、考えてしまう。

日本語としては一応謙遜語を使うことになるが、これを「家内」などというと「家制度」を反映させることになる。「うちの嫁(呼び捨て)」と言う人がいるが、これも似たニュアンスがある。したがって、フックをくらうことになる。

「奥方」、どこが「奥」だ?なるほど。9月1日付けブログ『農と島のありんくりん』。

封建的な夫婦の関係を言葉にひきずらず、そして対外的には謙遜という日本語的な奥ゆかしさを残しつつ、配偶者のことを尊重して呼ぶには、ということで男の方は気を使ってしまう。

封建臭のする言葉は避け、謙遜語も投げ捨てる、その結果「妻殿」「女房殿」「彼女」「うちのかあちゃん」「かあさん」「同居人・相方」「(名前)さん」。

ひと(他人)は「カミさん」(刑事コロンボ、ブログ『農と島のありんくりん』)、「うちの嫁さん」とも呼ぶ。

うちの妻殿は、相手の夫の呼び方に戸惑うという。「おつれあい」というには言いにくく、つい「ご主人」などと。

*たった1個収穫できたスーパーゴーヤ約15cm