2009年3月31日火曜日

痛みに耐えかねて


私はドジで口もすべらせれば、足もすべらせる。右足じん帯損傷、えらい目にあったことがある、あれから10年になる。

今日はレントゲンをとって「若いのにすり減っているねぇ」と言われた。と言いながら診察室では「歳をとればこうもなるものです」ともフォローされた。とるほどではないが、ひざに少し水がたまっているという。ブチッと注射を打たれた、炎症をとめましょうと。あれあれ、要するに老化現象ではないか。

トトロの森にあるような「○○山」という名前の整形外科が最近できたっけ、駅におりて急に思い出した。保険証ももたずにとびこんだ。

で、どうすればいいのかと訊いたら、激しい運動はだめでしょう、と。私は歩くのが好きだから努めて歩くようにしているし、ビルの13階ぐらいは好んで階段を上り下りしている、が、と言ったら、「エレベーターがあるでしょう」と。

「自殺防止」、昨年の自殺者は32,194人とはNHK教育の「福祉ネット」(夜8時)。実はうつも貧困も我慢してはいけない、社会と個人が危険な領域にきている。

ひざの痛みも、胃の痛みも我慢するのではなかった。日に日につらい、歩きにくい。いやいや我慢しなかったから、診療を受けた。つくづく人間は2足歩行動物なのだと実感している。

あってよかった労働組合、たすけあえる協同組合。両方に所属しているのに、ただただ、ちからがない。誰れのためになっているのだろうか、這うて行く。

2009年3月30日月曜日

家族で話し合い


 そろそろ我家の花桃が咲き始めた。長男を送っていく車中で近いうちに我家で花見の食事会をするから、夫婦でおいでと誘った。平日の夜、次々週の日曜日ぐらいならいいそうだ。

 緊急に子どもたちを集め話合いをもった。娘は「ちょっと無理」とか言って来なかった。あとで対処しよう。久しぶりに息子たち3人が揃えば賑やかだ。早速話し合いに及んだ。長男と三男は性急に決めることはない、父母が「逸(はや)る」ように見えるから、もっといろいろ比較して慎重にことを進めるべきではないかという意見。次男は「びびっ」ときたら、それはそれでチャンスではないかという。長男はまた遠すぎるではないかという。三男はなぜこの話なのか、根拠は、と。
 現在から30年間の先までを表で描いた。先のことは誰もわからない。病や死のリスクは測ることができない、いずれ別れは来る。
 子どもたちの育った家や環境にさほどの執着がないこともわかった。30年経てばオレは60かと長男は言う。今の私の歳を超す。大きな病もせず夫婦健在であればまだ元気だろうと話す。
 その気になり、逸っている心情を悟ったようだが、何も決めたわけではない。長男の事前にみんなに話すべきだという意見で子どもたちを緊急召集した。

 日曜日、日中の外はすっかり春になっていた。長男の責任感からか心配しているようだった。

2009年3月29日日曜日

3・28 反・貧困フェスタ


 都内に長く通っていながら東京をほとんど知らない。昨日「竹橋騒動」と歴史で聞いたことのある地下鉄の竹橋駅に初めて降り立った。「かあさん、ここが東京だ、あれ、あれが毎日新聞か」そこから5分ぐらいのところの中学校を会場に借りて「反・貧困フェスタ2009」が開催されたからだ。主催者発表では1700人の参加者だった。

 いくつもの出版社も参加していて貧困問題に関する数多くの出版物が並んでいた。グローバリズム、成果主義、自己責任論、規制緩和への反論・反撃が活発になされればいいと思った。あれもこれも欲しいと思ったが破産しそうな感じで、4冊買ったに留めた。それでもリュックがずしりとなった。

 反貧困関連の本のなかに「怪しげな本を発刊されるにあたって」とエールが寄せられている本をつい買い求めてしまった。「生協は格差社会の共犯者か」という小気味よさそうな副題。

 ダンさんという魅力的なご婦人に再会した。さるところの専務さんのご伴侶だ。ここのグループは労使で参加している。25人のボランティアでの参加らしい。ここの組織は派遣村にパンを差し入れた。

「パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる」朝日歌壇1月5日

 今日のNHK教育テレビでは夜8時から日本農業賞の番組を放映していた。よそ行きを着て胸に大きなリボンをつけた受賞者のみなさんが栄誉の表彰を受けていた。りっぱな営みがあるのだということを茶の間に居ながら知る。

 昨日のフェスタでも最後のイベントとして会場の校庭で、湯浅誠さんから「貧困ジャーナリズム賞」関連の発表があって、代表の宇都宮健児さんによる表彰式があった。今年で2年目だ。みながこぞって「あの賞をとりたい」という賞になればいいのですがとは、湯浅さんの洒脱な紹介。産経、読売、文芸春秋、朝日、NHKの各報道が顕彰された。ホームレス歌人として朝日歌壇に登場する公田耕一さんも呼ばれたが「所在不明」で欠席。受賞者を代表して文芸春秋編集長「貧困ジャーナリズム賞ならよいがジャーナリズムが貧困にならないようにしたい」、朝日新聞社の記者さんから挨拶があった。まるで、「花丸」をもらうような感じのほのぼのとしたものだったが、10年経ったらホントに権威のある重厚なものになっているかもしれない。「厚生労働大臣賞」とか「人間の架け橋賞」とか・・・。
 
 人間の営みと血とこころを感じる。水道橋の駅ちかくで「ビッグイシュー」を買い求める。いいバッジをしていますねぇ。そう、そこでフェスタがあったの。

2009年3月27日金曜日

本屋さんの観察


 職場の近くの中堅どころの書店では、農業起業関連のコーナーを設けた。03年あたりから現在にかけていくつもの本が出版されている。昨今、週刊経済誌でもこれらを緊急特集している。農業就業へという流れのようだ。若い人が買っていく。
 また、プレカリアートのコーナーも設けてある。「プレカリアート」とはプロレタリアート(独語、「労働者、生産手段をもたない人/カール・マルクス」という意味)とプレカリオ(伊語、「不安定な」という意味)の合わさった造語。社会・経済的に不安定な立場に置かれた人たち。作家の雨宮処凛(あまみや かりん)さんの本が中心だが、多彩な人の本が置いてある。70年代新左翼の本の雰囲気がある。多彩といえば右翼の理論家鈴木邦夫さんの新刊『「蟹工船」を読み解く』まで置いてある(この本は立ち読みだが、つい引き込まれてしまう)
 OECD17カ国中、日本はアメリカに次いで2番目に貧しい国。格差のすごさだ。
 
 ビルのなかの大手書店の店頭には竹中平蔵さんの『竹中式マトリクス勉強法~1の努力で10の成果』(幻冬舎)という本が平積みで4列置いてある。30万部を超えたそうだ。今週の雑誌「プレジデント」誌では「年収1800万の勉強法~時間半分成果10倍の秘訣」とやらでもご登場でいらっしゃる。
 「私が歴史にこだわる理由、このままでは自衛隊は戦えない!」と主張する田母神俊雄前航空自衛隊幕僚長の 著書『自らの身は顧みず』、共著『日本は「侵略国家」ではない』も最初から平積みでベストセラー化してある。講演にひっぱりだことかで、すでに退職金よりも稼いだと伝え聞く。

 カックンカックン、ドタンバタンとひっかかりながら、ぶつかりながらスムーズには生きていけない私には、こういう人たちの生き方がわからない。

 明日は、集え!『反貧困フェスタ2009』だ! 集え、こころあるひとたち。押し返そうよ、不条理。

 以下、ホームページより引用。

 日時:2009年3月28日(土) 10:00~16:30
 場所:千代田区立神田一橋中学校(東京都千代田区一ツ橋2-6-14)日本教育会館東隣り
 地下鉄半蔵門線・都営新宿線「神保町」(A1出口)4分、東西線「竹橋」(1b出口)5分
 入場無料、雨天決行(ただし校庭企画は中止となります)
・一部手話通訳・要約筆記、保育室あり。受付でご相談ください。
・車いす用トイレ(1階)、エレベーターあり。
・会場は使用中の学校です。主催者の指示にご協力いただきますようお願いします。
・上ばき(スリッパ等)をご持参ください。

『今年の「反貧困フェスタ」のテーマは“労働”です。増大する非正規労働者、横行する「派遣切り」、長時間労働を課される正社員たち。「働くこと」が壊されていく…労働の崩壊は目を覆うものがあります。加えて今回の大不況では、40万とも100万とも言われる非正規労働者が職を失うと言われており、その波は正社員や新卒者にも及んでいます。
忙しくて仕事が終わらない正規と、働いても生活できない非正規―「過労死か貧困か」という惨状の中で、「あいつは楽しんでいる」「あいつは守られすぎている」という“労労対立”が作られてもいます。「自分だけは生き残りたい」…しかし、このままで本当にそんなことが可能になるでしょうか。
働く者が生き生きと働き、生活できる社会とはどのようなものなのか。私たちが直面している現実と課題はどんなもので、それをどのように乗り越えることができるのか。さまざまな働き方をするみなさんと一緒に考えてみたいと思います。』

2009年3月26日木曜日

別れ


 日曜日の夕方、フロントで「火曜日は出てくださいな」と言われて(そういえば、久しく出ていない、出なきゃ)と心に留めた。ひざが痛いがプールなら大丈夫と考えた。出てみたらなんとイトーさんの最後のレッスンだった。下の息子と同い年。短大出なのだろうかわずか3年だった。何かほかの勉強をしているらしい。あてがあるのだろうか。
 このジムには30代以上のスタッフがいないように思える。「転勤」といって出て行ったきり、何故か再び帰ってきた人はいない。イトーさんは数少ない職員のひとりだが、その職員がいつかず、若い人ばかりで皆常用のアルバイトのように思える。
 サイトーさんもずっと前にいなくなった、長男と同い年ぐらいだったろうか。サイトーさんもイトーさんも快活な若い女性だった。よく声をかけてくれた。一抹の寂しさ、別れ。

2009年3月25日水曜日

日記的「もめメモ」

・2週間前の金曜日あたりから右ひざが痛む。歩き出しにくい。初めての経験だ。続いている。
・みぞおちあたりに軽い痛み。ときどき感じる。きたかな。呼吸法か。猫のポーズか。西洋医学にゆだねるか、カメラもつらい。
・軽いストレスは必要だといわれるが、強いストレスからは逃げ出したい。逃げの一手。逃げ散る。居なくなる。
・今更ながら居場所をみつけてこなかったので、いい歳こいて、自立がない。木登りできぬのに木の上からの観点だ、地上におりていない。
・地上の楽園を夢見たら、どこかの国のようにえらい目にあうのだろうか。山があって、海がある、温泉があって、空気がきれい。「皆さんそう言われます」と不動産屋さんの社長さん。首都で雑踏なれど便利。田舎で不便なれど、はてどうなのだろう。ハテサテ。
・人間関係を断ち切りたい。いや、逆だ。
・ジコチューでシゴトチューだ。マシンと化している。わかっていながら直せない。

2009年3月24日火曜日

花桃のときめき


 何年にもなる。昔、善光寺さん詣でと温泉の一泊二日で一万円もしないバスツアーがあって、妻の両親も呼んで参加したことがある。そのツアーの2日目最後の道程で、山梨の「神代桜(じんだいざくら)」を巡ったとき、そこの路上で農家の人が花桃の苗木を売っていた。商品札の写真を見れば派手に花が咲くようになっていて、思い出にと買い求めた。バスの狭い座席の前に持ち込める程度の苗木だった。

 大昔、テレビの番組で「♪桜の苗が大きく育つころ、僕らはみんな大人になるんだ」で始まる木下恵介アワーというものがあった。あるとき、ホームセンターで桜の苗木が処分販売されていた。求めようとしたところ、店員さんにそれはへたっていると言われて別のものにした。それぐらい継ぎ木のたよりない細い苗木、いかにも売れ残り品という貧弱なものの中から求めた。だめもとで、うまく育てば我が家でも桜を楽しめると思ったからだ。

 この桜の以前に植えていた花桃は何年も花を咲かせなかった、ああ、みやげ物で一見の客相手のそんなものだったかなと、少しあきらめていた。

 あれから何年経っただろう。

 妻の両親も歳をとってもう東北の実家を出てくることができない。私もへこんだり、くさったりしながら、いい歳になった。

 『梅は咲いたか、桜はまだかいな』でつれあいははしゃぐ。そういう人とつれあっているので、私のへこみもくさりも何とかなっている。花桃も桜も蕾が膨らんだ。思えばよく育ったものだ。幹も枝もすっかりりっぱになった。リフォームして大きくした窓から、リビングに居ながらにして精一杯咲く花桃を楽しむことができる。昨年は孫の出産の手伝いに上京していた大学時代の女友達を招いて昼食会を催した。今年もみなを招こう。

2009年3月23日月曜日

立ち上がった水仙


 去年水仙を買って植えていた。上品なご婦人が商う隣町の花屋さんで求めていたのをすっかり忘れていたが、つれあいは覚えていた。株が残って翌年も咲きますよ、と。それが芽を出し成長して花を咲かせた。ちょうどその並びに私が昨年の「ゴーヤ栽培セット」の土袋を放置していた。それをどけたら寝た姿の黄色い茎が出てきた、倒れているように。芽をだし成長しようとしていたのだ、どけて数日経ったら緑色になってきた。なんとけなげな。・・・というストーリーがあったのに、山椒の木に気を取られ、なんと踏んづけてしまった。そしたら花を咲かせたまま寝たきりになってしてしまった。つれあいも「あっ」と言う間のできごとだった、しばらく非難の目でみられ、寝たきりの水仙に数日、申し分けなく思っていた。 なんと、今朝これが立ちあがっていると写メールが届いた。
 踏まれてもいつかは立ち上がれる、我家の水仙はたいしたものだぁ。

 重石を載せられ蓋を閉められれば、腐るか発酵するか、なのかもしれない。腐ればもうだめで、発酵すれば何か有用なものになるのかもしれない。
 5年は長いと考えられる、腐るかもしれない、と。
 重石を上げ、蓋を持ち上げれば、立ち上がり伸びができるだろうか。しかしながら、もし発酵するなら適度な時間がかかる、具合が肝腎だろう。

 暖かい日差し、それがあればなんとかなるだろうか。

何か望みは?そこをどいてくれ。日差しがほしい。

2009年3月17日火曜日

頑張れ国選弁護人

 いつ被疑者(容疑者)になることがあるかもしれない。いろいろな事情と背景があるかもしれない。不当な取調べを受け、起訴をされるかもしれない。公判になれば相手はプロの検事だ、刑事事件には弁護人をつけなければならない。それが公正な裁判を受ける権利だ。それで資力がないひとのために国選弁護人制度がある。件数が多く、且つ報酬が少ないこともあって、実際はこの担い手の弁護士は身を粉にして働かなければならない。弁護士全体で支えてはいるものの、担い手に負担が偏ってかかっているのも実態のようだ。派手な職業のように見えるが社会を底支えしている地道な活動がある。そういう人たちのなかに名を連ね頑張っているのは大変だろう。身体を壊さなければいいが。

2009年3月16日月曜日

「しんこだんご」


 ご多聞に漏れず故郷の商店街の寂れ方は激しい。
 近辺の農漁村、離島の商業の集積地だったから往年の故郷の町は何か行事があれば人がごったがえした。今ぐらいは早馬際(はやうまさい)だろうか。シャンシャ馬(着飾らされて祭りのために訓練された農村馬)が躍る姿を大人の腰のあたりから垣間見ながら胸がわくわくした。
 鉄道は本線と支線。本線は特急が止まる。大きな川が流れていて町を二分する。川と川原が大きいから大きな鉄橋で、今ぐらいの季節は両岸の堤防から汽笛を鳴らして長い鉄橋を渡っていく列車に無心に手を振る光景があった。北へ向かう集団就職列車だ。誰が乗っているのかは知らないけれど故郷のひとびとは就職列車であることを知っていたから手を振り見送った。それは離島の港で別れの光景にも等しい。廃止になった「はやぶさ」はあこがれの東京行き寝台特急だった(もともとは、熊本ではなく西鹿児島が始発)。
 乗り合いバスは我が町を終発着点として近郷から集まった。ターミナルセンターだったのに、よくこんな狭いところに集まったものだと今では思う。川には木材を満載したポンポン船が遡上してきた。小さいときには遥か彼方と思っていた離島・甑島から来ていた。帰りには日用品を買い込み(とくにちり紙が印象に残っている)また帰っていった。西に沈む夕日は「3丁目」よりもとくに赤かったと記憶している。

 「ちんこだんご」と呼んでいたと思う。
 国道沿いに長広い町には商店の軒先を借りて、道具に炭火を起こし焼き団子を売るおばさんがいた。別々に数人。焼き道具と、団子を入れておく小さくて粗末なガラス戸棚とそれらを乗せる台と椅子があればよかった。頭に手ぬぐいをかぶり、割烹着を着た姿だった。いつも火を起こし先が破れたうちわで煽っていた。1本は子供でも買える安いものだった。軒先ではあったが、雨の日以外はほぼ路上で毎日商売をしていた。ひとりとして小さくとも建物としてのお店を構える人はいなかった。我が町が発祥だと思う、また誰かが始めたのだとは思うがどの人かは知らない。私の育ったころは第一世代のおばさんたちだと思うが、ほぼメンバーは変わらなかった。町中で、各自一人で商売をしていた。雨の日はいなかったと思う。どこから来てどこに帰っていったのだろう。
 どうやらあれは我が町の名物だったようである、というか名物になっていったようだ。町のものはすぐ手に入ったので近郷から来る人の気持ちはわからなかった。近在にはなかったらしい。きちんと構えた町のお店、お菓子屋さんで売られていたのではなかったので、町の名物というには、そうは認めてはいなかった。こげなもん「格下」という位置づけだったように思う。生活に窮した未亡人か誰かが始めた路上の商売が始まりだったようなので軽く見られていた、あけすけに言えば多少差別されていたように思う。日陰の商売、誰も庇は貸すが母屋はとられなかった。しかし、安さとおいしさ、そして収益性には実力があったから、町の外の人たちが「名物」として認め、それを追認した。ま、難しいことはともかく私はこれが好きだった。おもしろいことにどのおばちゃんも愛想がよかったわけではなかった、悪いわけでもなかったが。商売人の阿(おもね)りがなかったと思う。
 米の粉、上新粉の団子だった。小さな団子で5個竹串に刺したあのスタイルである。しょうゆで味付けして焼いたもの。もちろん対面で、焼いて(焼きなおして)、1本から何本でも売ってくれた(原点だ)。
小さいから「ちんこ」だんごだと思っていたしそう呼んで訂正されることはなかった。
 今では「しんこだんご」(上新粉の「しんこ」かな、「ちんこ」では呼び名が憚れたのかな)として我が故郷および近在の「名物」となっている。ホームセンターの中や道の駅など昔のスタイルではない形で残されている。

 私の今の住まいの私鉄の最寄り駅。この駅前の「たかのチェーン」店は繁盛している。不思議なことにと思っている、隣の駅の店は同じような条件なのに売れていなかったからつぶれた。引っ越してきたとき、1本40円で安かった。それが最近60円になった、仕方がない。関東は焼き団子だなとは思う。
 いつしか、ご近所の人が道路に面する庭をつぶして何をするかと思ったら独立したしゃれた家屋をつくり、いきなり団子屋さんを始めた。この団子は大きくて、且つ米の粉だけからつくった真正の団子だ。本格的で手作りだ。1本80円。いつまでもつかと思っていたらもう2~3年にはなるだろう。これがうまい!しかも前はチェーン店の倍の値段だったが、今では大きさグレードから考えれば互角以上だ。

 このお店のことも、あの「しんこだんご」のことも知る人は少ないだろう。

2009年3月15日日曜日

ニュースを聞いて


 中小製造企業の業績が激しく落ち込んでいる。が、しかし、最近の報道を聞いていると、従業員は切らないと頑張っている。頑張ってはいるが、そうはいってもパートさんを待機させたり、休業日を増やしたり、残業はもちろんない。涙ぐましい努力だが、労働者の収入も確実に減っている。それでも社長さんたちは一緒に働く従業員を切らず知恵を絞る、働いている人も納得している。そういう追い詰められたワークシェアリングが機能する。

 今年に入って「国政を操つる社会的地位のある」御手洗さんが提唱し始めたワークシェアリングはいかがわしい。言うなれば、身銭は切らずに労働者に分かち合えと言っているに等しい。そうでなくても、無権利労働者を路頭に放り出しておいて、自治体の対策や生活保護など税金で賄うなりなんなりあとはご自由にと言っているのと同じだ。そして法人税率はこの間、国際競争力とかのためにどんどん引き下げられてきた。しかも「業績悪化」で今後、事実上税金はまともに払わぬ構造になる。
 とにかく身銭は切らず、責任はまっとうしないのに、国民の間にいがみあい(ハケンを甘やかすな、ズにのるな、⇔セイキはぬくぬくしている、取り分が多い)をもちこむ小ずるさが見てとれる。

 戦争の手法にも似ていると妻殿は直感で言う。

 現代兵器はハイテクを用いてひとびとを殺傷し長く苦しめる、ひととモノと自然を破壊する。まさに憎悪的なのだが、ハイテク機器を駆使し何がしかのスイッチを操作すればよいだけで、その感覚はない、しかも悲惨さから離れていられる。あるとすればゲーム感覚だ。罪悪感が伴わないようにできている。これが、御手洗さんや奥田さんたちの手法だろうという。3000人だろうが、15万人だろうが、一瞬だろうが、正月前だろうが、数字でしかなかろうし、彼らの狭い経済構図・経営論理でしかなかろう(もっとも御手洗さんたちの言動に「罪悪感」があるとは少しも思えない)。

 その点、中小企業の社長たちがひとを切れば手ごたえもあって目の前に血をみるし返り血も浴びる。切るにもホントの実力が必要だ。恨みも買えば、後ろめたくもあろう。刀や鉄砲でひとを殺傷するには実力と覚悟がいるのが昔の戦争だ、おいそれとはできないことを知っている。

 遠隔地または鳥瞰図の中のどこかの出来事のように見えるが、実はおきていることは残忍な現代の戦場に似ている。どこに地雷や時限性の爆弾があるかわからない。現代の兵器は継続して恐怖を与え、屈服させることも目的にしている。

 「派遣切り」とは人聞きが悪いと年明けぐらいに経団連の側からクレームがついたそうだ。「契約をまっとうした」だけだというが、無権利な細切れの「契約」を選択の余地なく迫っておいて、身勝手に切ることを「派遣切り」というのだ。その言葉がよく表わしていて、ひとが生きていけなくするということを意味する仕打ちだ。

 中小企業のモノづくりの経営者たちが今度も困窮している。大企業に連鎖した売上不振、大銀行の貸しはがしだが、困窮しつつも、労苦をともにする従業員たちをいとも簡単に首にする手法を選んではいない。

 御手洗さんたちと社会に「切るな」とはその感覚を想い起こさせるために必要だ。

 いかに富と悦楽をむさぼるひとたちがいようとも、権力やお金にガードされていようとも、社会の病理から逃れることは誰もできない。このことを「反・貧困」といっている。経団連も取り組むべし。

2009年3月12日木曜日

できるところから

 破産者などの相談をまずは聞くことができる。あれこれの対処の方法を考える経験を積んでいる。その妻殿に本日のパルシテム・セカンドリーグの湯浅誠さんの話を伝えた。NPO[もやい]の相談が多すぎて電話もなかなかつながらない状態らしい。ボランティア参加を検討してもらった。

2009年3月10日火曜日

3月10日

 3月10日は旧陸軍記念日、戦前のこと。何故そんなことを知っているかと言うと、兄が生まれた日でこれにちなん名前だから。

 紐解けば、日露戦争時の最後の決戦になった奉天会戦でこの日に勝利したという由緒。しかしながら、このとき、もはや日本の国力は尽きており、軍も政府もその辺をわきまえていてアメリカを介して講和に持ち込んだ。後の昭和軍閥の無茶苦茶と違って現実的な判断力があった。ようやく負けなかったというのが実情だったらしい。しかしながら、日本海海戦における目覚しい勝ち戦(砲撃戦)と大国ロシアとの戦争に勝ったということで、その後は決定的に道を踏み外していく(「東郷元帥の果たした役割」)。ついには中国侵略の大儀無き泥沼、米英決戦へと突き進んだ。

 1945年3月9日、日本では「10日の東京大空襲」と記録される。10万人の民間人が焼き殺されたという。犠牲者の多くは女、子ども、老人である。

 飛行機が兵器となり、地上の戦線をはるかに超えて機銃や爆弾で攻撃できることを人類は発見した。これが空爆である。植民地侵略戦争でこの方法を用い戦法を磨いた。本格的な実戦ではスペイン内線におけるナチスドイツ空軍によるゲルニカ爆撃(37年)。この惨状はあのピカソが描き世界に訴えた。日本軍による重慶爆撃(38年~)。第2次世界大戦でのバトル・オブ・ブリテン(ロンドン大空襲)を経て反転攻勢、連合軍によるドイツ各都市への大空襲。ドイツの敗戦はもはや濃厚であった。短期間に技術が進化した。

 古来、戦(いくさ)は武装した者どうしが戦場で力と戦法を尽くして戦い、勝利した側が相手を支配した。都市城砦戦や都市や村落への直接の侵略でなければ、戦場の後方にいる非戦闘員が殺傷される、ましてや虐殺されることはなかった。そうすることは卑怯なことで、且つ後の世まで恨みを買うものだったろう。
戦線を超えて空から軽々と侵入し殺傷・破壊するという「空爆」は、それまでの戦術と戦略これを一変した。
 
 当初の植民地侵略では実態も明るみに出ず省みられなかったが、さすがに非戦闘員を殺傷し生活の基盤を破壊するという行為の道義のなさ、残虐性に気付く。国際的には建前上、無差別爆撃を非難し禁止するが、実際に起きた世界大戦の前には無力と化す。
 
 軍事施設、軍需工場など戦争遂行に限られた爆撃目標の破壊を建前としていたが、実際には精度は高くなく、誤爆も含めて、無差別爆撃の方が戦果の上がる実感があった。「やったもんの勝ち」よろしく民間人に危害をもたらすことへのためらいは無くなっていった。より効率よく集中的に破壊し殺すことを追及したのが焼夷弾と爆弾を組み合わせた夜間爆撃の空襲の集中的仕方で、より人口の密集した東京の下町を目標に周到に用意され3月10日に実現させた。一夜にして10万の死者、傷ついた人々、住居を失った人々をつくりだした。

 空襲は手塚治虫さん、小田実さん、そのほかの人々が迫真の筆致で描いた、伝えた世界で追体験できる。沖縄では44年の10月の那覇大空襲を既に受けていた。カンポー(艦砲射撃のこと、沖縄、八戸、釜石など)、キジューソーシャ(飛行機からの機銃掃射のこと、奄美、「ガラスのうさぎ」で描かれた全国各地でのこと)、クウシュウ(沖縄、台湾を含む全ての都市、国土)を列島に在住していた人々は経験をする。そしてついには史上初めてのピカドン(核兵器)の惨禍を味わう。
 なぜ、ひとびとは惨めに殺されなくてはならなかったのか 。

2009年3月9日月曜日

野(や)だか与(よ)だかの党の人たち

 かつて沖縄の瀬長亀次郎さんが那覇市長に当選したとき直接統治をしていたアメリカ軍政当局はこれを妨害すべく市への援助金をストップした。まだ多くの市民が食うに困っていたときだと考えるが、これを聞いた那覇市民は自らすすんで税金を納めにきたという珍しい現象が起きた。自ら統治すること、自治とはこういうことだと考える。

 政権交代はあってしかるべしと思うが、その民主党に不安を感じている。小沢さんの話はさもありなんという体質で、自民党と民主党の区別がつかない。この時期の官憲発動はいかにも政局にタイミングが良すぎて小沢さんの居直りにも一理を感じる。

 それよりも民主党のもっと怖い側面は前代表の前原さんたちにあるものだ。党派を超えた会合で小沢氏への態度を発言していたが、その発言よりもその会合に参集する中身のことだ。昔の自民党もためらうような国家主義的方向を模索している。

 野心をもつ若い政治家たちの集う方向は先の侵略戦争の禍根をなかったことにして「前向き」に強い日本をつくろうとしているところにある。まだまだ若き前原さんたちは国家権力を、あるいはほかの人たちがとりあえずは各首長(知事や市長)になって政治を動かす、あるいは動かそうとしている。

 自民党では2世3世の世襲坊ちゃん議員、民主党では自民党をあぶれた野心家たちのこれらの野合は、この国と社会を危うくするように見えてならない。うすっぺらな哲学、雄弁詭弁術、松下政経塾仕込みの政治技術を駆使する程度で、その底流には強権的な国家観が見てとれる。この人たちはポリティックパワーでしか動かない。

 知事におさまった上田さん、市長になった中田さん、これから市長になろうとしている河村さん、目のキョロキョロする枝野さん、ガキのけんかに負けたようなあわれな故永田さん、そしてそれを後押しして恥じなかった前原さん。

 上田さんが知事として埼玉で具体的にやっている教育行政での冷たい仕打ち、切捨て。教育の貧困、格差の助長これを強力にすすめてきた。現場のまじめな先生たちの悲鳴、行き場を失いつつある高校生たち。また従軍慰安婦での発言、姿勢も同様だ。民主党系としての反自民とのイメージがあるかと思うがウルトラ右翼との境目はない。ひとびとの多様性を本当には認めていない。

 権力欲の人々に見えてならない。

2009年3月7日土曜日

祝・生還


 下顎(したあご)を大きく開けて喜びを表す、これが我が家の流儀です。確か歩き始めたころの幼き長男がこれをやって真似ました。もともとは妻殿の仕草だったかもしれません。

 さて、かねてより生家にて入院加療中のところ、このたび無事手術に成功、軽快し退院の運びに至り、ようやく我が家に帰ってまいりました。立ち上がれず、動けずという重篤な症状に陥り、かけこみ診断の結果、即入院と相成っておりました。様態が危惧されておりましたが、記憶を無くすことと引き換えに開腹手術を施し、一命をとりとめました。詰め込む、過作動の強要などの虐待を受け、齢5歳にも満たぬ身体を鞭打つ扱いを受けたためと考えられます。
 
 しかしながら帰還したのはよかったのですが、すべての記憶を失ったため、おぼつかなく立ち上がれるも動けずの状態でした。私は10のことを始めるのに5から始めてしまうせっかち、横道もんであります。確かめもせず、またも虐待まがいの扱いをしてしまいました。ところが、さすが我が妻殿は東北人、粘り強く10のことは1から始めます。引き受けてくれまして、まずはしゃきっと立ち上げ、ついには動けるようにしてくれました。要は妻殿は普通、私は異常、ただそれだけのこと言えます。

 ともかくも下あごを大きく開けて言います、「おかえりなさい、ディア・マイ・パソコン!」

2009年3月2日月曜日

大鍋


 我家には径が26cmと30cmの大鍋がある。子どもが育ち盛りのころにはこの2つの鍋でカレーをつくった。米は一升炊いた。さながら合宿所の厨房のようだった。カレーのおかわり2はい、3ばいは当たり前。さすがに娘はあるとき、はっと気付いた。兄や弟たちと競うように食べていたのがはたと止んだ。

 私は、中学以降は母と二人きりだった。母は育ち盛りの私に気は使っていたがそれほど量をつくる人ではなかった。また夜の九時以降あたりからは食べることはなく胃がうけつけなかった。身体は細かった。

 妻殿は大家族に育った。私は結婚して妻殿の分量が多くて少し戸惑ったことがあったが、腹はすく方だったので慣れていった。残業も多くあって夜遅くにも夕食をとるようになった。30歳を過ぎるころ、普通にズボンのウエストだめになった。

 合宿のようなにぎやかな夕食風景が通り過ぎ、ひとり減り、ふたり減り、ふたりっきりになった。それでも妻殿は26cmの鍋にカレーをつくる。とうとう食べるのに3日かかった。この辺のことは“野生のトキ”さんたちが言う通りの変化だ。わかっていながら我が家でも再現している。カタログ「KINARI」(パルシステム)へと誘導されるのだろうが、まだ変えていない。

 たまねぎ、しょうがなどは網の袋に入れて吊るして保管している。昨日のおかずにたまねぎが入っていなかったけど、と何げなく指摘すると、えっと妻殿。生姜はとりに行ったけれど、玉葱は目に入らなかったらしい。天真爛漫なお人。福島の酒蔵で直接買ってきたつくりたての酒粕をふんだんに使った粕汁があと2日は続く。「他の酒蔵と違ってうちはあまりきつく搾らないから湿潤」なのだと紹介されたらしい。甘酒も旨そうだ、つくってもらうつもり。もちろん酒も美味かった。

 妻殿がいると家が明るい。妻殿の実家も姑さんでもっている。昨夜3日間のお留守番で私はどっと疲れ、酒がまわって早く寝た。今日は天気で気分がよかった。