2009年1月31日土曜日

昼の講演、夜の公演

 雨があがってよかった。

 ちょうど今ぐらいのころではなかったろうか。「本官は転属になりました」「はぁ?」10年以上も前のことだ。診療が終わりかけたころそう言われた。そういえばここは防衛医大付属、昔風に言えば相手は軍医様。転勤とはいわないんだ。それでどちらですか。広島です。広島にもあるのですか。これは愚問だった、相手は国家機関だ。お世話になりました、お元気で。その若い医官は親身になって診てくれたような気がして名残惜しかった。

 「ご卒業なさっても、決して戦禍の中ではなく、平和な社会の中でそのすばらしい演奏を続けてください」とアンケートには記した。夜は弦楽アンサンブル部の卒業コンサートを拝聴した。防衛医大のみなさんは学校の性格上みんな何かのスポーツの部活に所属するらしい。だから弦楽アンサンブル部は決して大きな部活ではないけれどという紹介だった。今年は3人の卒業生を送り出すコンサートだった。そのうちの一人は5歳のときにバイオリンの先生にこのバッハの曲に句読点を入れなさいと言われたそんな思い出話を演目の由来で紹介してくれた。想像するに家庭は医者かまたはそのような裕福なところに育ったのではないだろうか。みんなすばらしい弦楽の演奏ができてしかも医者のたまごだ。最後は「翼がほしい」をアレンジした曲でしめくくっていたが、楽器を演奏しながら卒業生を送り出し、それに応えるとはなかなかいいものだった。

 昼間は「貧困と教育・そして平和」と題して湯浅誠さんの話を聴いた。
 痩せたのかな、髪形のせいかなと思った。毎年、路上生活者の支援のために年末年始は同じことをしてきたのに、むごい派遣切りと寮からの即刻の立ち退きで行き場を失い年末年始を路上で生活せざるをえない人々のために、みなと一緒に創意工夫の「派遣村」を立ち上げ村長に推されたちまち時の人となった。それより少し前に著書の「反貧困」が賞をとりその意味でも注目をされた。身辺を探られるなどいやな思いもしたらしい。『何かしら、学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした』(坂本政務官の1月5日の総務省での発言の後半部分)と恐れられたというか警戒もされているのが時の権力の本音だろう。しかしその政権与党が今起きている本当の実態を彼から聞かねば、なにが起きているのかもわからない状態だ。彼は言う、坂本さんは航空写真をみている(上から目線で)、「建物も道路もちゃんとあるのに、何故その道を歩いて建物へ行かないのだ」と。その道を歩いてみるがいい、穴ぼこだらけで歩けないのだと。首切られても寮追い出されてもその人は「貯金をしていなかった」のかと世間は言う(実は元契約社員のうちの娘も言った)。かれは貯金ができなかった派遣会社のからくりを詳らかに説明する。
 彼のレジメがあって、9ページを説明すると場内がざわつく、資料がいくつか挿んであって、どこに9ページがあるかわからないという雰囲気を察して、彼はそれに気づき丁寧にユーモアを交えて説明をやり直す。この手の集会の高齢化の側面だ、別に私も若くはないが若い仲間を集められない。この事態の当事者は若者たちそのものなのだが。まだまだ広がりをつくっていかなければならない。彼流にいえば「他流試合」、垣根を越えること。反対の立場にあるように見えて対話ができる人、その対話が必要だ。いがみあっている場合ではない。

 人間らしく生きたいということは、不当な待遇・処遇に対して「ノー」と言うこと。せめて言えるように押し返そう、と呼びかけている。 

 「時の人」だから会場の看板はいつもより大きかったように思うが、話し始めた湯浅さんにそんな気負いはない。いつものようにという印象だった。遠くから来てくれた人もいるようだった、参加者は150人ぐらいだったように思うが、講演後の休憩時間に回されたNPO「もやい」へのカンパは154,000円だったそうだ。金の多寡が本質ではないにしろ、これはすごい額だ、世の中捨てたものではない証拠だ。

2009年1月29日木曜日

勉強会


 1月31日(土)に小手指で湯浅誠さんを講師に招いて勉強会があります。会場は池袋から電車でわずか30分あまりのところです。目の前で彼の話を聞いてみませんか。
テーマは「貧困と教育・そして平和」、場所は小手指公民館分館2Fホール、資料代が300円、時間は14:00~16:00。垣根を超えて是非ご来訪を。必聞の価値あり。

 彼の話を聞くと我々の組合で飛び交っている話がまるで屁理屈、きれい事にすら感じる錯覚に陥ります。そのぐらい「選択肢がなく貧しいまま困窮」している人々の多き事態を、貧困が切迫していることを淡々と伝えてくれます。じゃあどうすればいいのか、まだこんなことができるだろう、小さな民間(NPO「もやい」)でさえ実際こうすることができる。まして政治ができる領域、すべき責任であると主張します。「天網恢恢疎にして漏らさず」のごとき視野で、ひとつの視点に偏ることはなく、そのセーフティネットに大きな穴が開いていると警鐘を鳴らしています。彼は垣根なくどんなところとも協働はしていますが、既存の組織(大きな政党や労働組合といった実は弱者には身動きのとれない組織)には一種の「さめた」目をもっているように見えます。それなら新しい組織・ネットワークをつくろうという柔軟さ幅広さと、直面する現実への行動力をもっています。

2009年1月27日火曜日

T君、M君


 脳内のセロトニンが循環しなくなっただけで苦しんだ。こころの持ちようから始まったのかもしれないが、また理屈は理解できたが、そんなことはどうでもよくて辛かった。新聞が読めなくなったでしょ、テレビに興味がなくなったでしょと言われて気づいた。一種の恐さ、つらさ、罪悪感が襲ってくる、表現が難しい。薬の相性もあってときには副作用もつらかったように思えている。「うつ状態」程度ですらこうだった。

 高校時代の友人のT君はいつもニコニコ、にこにこしていたという印象がある。お姉さん達だけのひとり息子で期待がかけられていたように思うが向学心が強く努力の人だった。地元の国立大学に進み獣医の資格をとった。結婚式に出てきてくれ、そのとき様子がおかしいとは思ったがその後消息が一時期絶えた。いつからか故郷で独り暮らしの母を訪ねてきて声をかけてくれることがあったらしく、連絡がとれるようになり交際が復活した。資格を活かし公務員となっていた。偶に上京して我家に泊まってくれたりもして行き来した。そのころはまだ元気だったが、とりとめのない長距離電話を繰り返しくれるようになったり、休職を繰り返すようになったりした。いつか統合失調症であることを聞いた。当時どれほどつらいものかはわからなかった。同情はしたが、いつしか私もやりすごすようになった。治療に専念し晴れて軽快して復職を果たし、出張で上京することがあってまた泊まってくれたが、衰えは隠せなかった。言語が明瞭でなく、若い頃筋骨たくましかったT君とは思えぬほど体力が著しく衰えていた。今はほんのたまに電話をもらうことしかなくなったが、病とつきあいながら衰えつつ生きているように思う。よくはわからないが、私自身のその後の経験からつらい病だと考えられるようになった。

 親戚のM君はうちの息子たちより年下だ。ひきこもりになって長い。逃げ回り手に負えなかったと聞く。お母さんはこのことになれば泣き崩れるので、ごく近い身内の周囲でも触れられなくなっていた。月日が過ぎ、最近になって容態が急変した。ぐったりして身の回りのこともできなくなった。そのことでようやく医者に診せることができて統合失調症と診断されたらしい。筆談だが意思の疎通ができるようになり薬が飲めるようになったそうだ。家業が傾き父親は外に働きに出たはいいが難病にとり付かれた。祖父母は健在だが高齢になった。結局母親だけが大手スーパーのパートに出てわずかな収入を得ている。「すべり落ちる」その危機の淵でまだなんとか生きている。

 T君もM君も「競争なんかできない優しい」人だという共通点を私は感じている。

 「うつ」は7人にひとり、「統合失調症」は100~120人にひとり。治療によって軽快することができる。ただしそれには社会的サポート、周囲の支えが必要だ。そのことも少し経験した。

2009年1月26日月曜日

まんじゅう


昨夜ETV特集「女たちの地上戦」を観た。幼子二人をつれ7ヶ月の身重で沖縄中部から南部へ80日間も戦火の中を彷徨い、逃げてきてガマ(自然の壕)を見つけた、日本軍に追い払われながらも、隙をついて入り込んだ。真っ暗な中で落ち着くと子どもたちが空腹に耐えられない。ご飯を食べたい、お芋を腹いっぱいたべたい、まんじゅうを食べたい、と思う。何日かの後に子どもは衰弱して死ぬ。平和学習で一瞬だけ体験したがホントに真っ暗だ、ガマに入る前の子どもの顔を思い出しながら、暗闇のなかで子どもの顔をなぞったという。少し記憶が混同しているかもしれないが、ともあれ秀作だったと考える。

2009年1月25日日曜日

なんでも


 年が明けてから、胃だ、大腸だ、にポリープがみつかった、とらなきゃならない、再検査だ、という話を立て続けに知人3人ぐらいから聞いた。そりゃ、「癌だ」なんだ、「癌に決まっている」とか、つきあって生きていけばいいとかは他人の言い草。リスクが考えられる、当の本人にとっては恐怖だろう。

 人生40年も50年も過ぎて、癌などのリスクは大きい。DNAに組み込まれていたりして地雷原を行くようなものだ。

 50という歳を「あるところ」で越して何年か経った。この経験は強烈だった。型にはまった人生を歩んできて給料日には増えることのなくなって久しい減少気味の給与が入る。「食う、寝る」には困らぬ生活をつくってきた、人並みの子育ても終了した。

 サザエさんのお父さんは54歳という設定、定年前。その時代は55歳定年制が一般的で60歳代が平均寿命だったそうだ。今は養生や運がよければ80でも90でも100までも生きられる、生きやすいかどうかは別にして。その波平さんの歳を越したが風貌も似たようなもので、群れず離れず平穏安寧、人畜無害。

 世のため人のためと考えて仕事に就いたが、いつのまにか多量消費システムの中の生けるマシーンに組み込まれたともがいている。考えていた「豊かさ」がずれてきていた。「社会」も脆そうに感じる。自分たちが食うに困らぬ給与をもらうためにしがみついてきたが、食うに困らぬというよりも生きるに困るようになった。気づいているが、お金がなければなんにもできない。それでいいと思っていた伏しがあるが、「木を見て、森を見」ているつもりながら「林がわからない」。ときにはミイラになったり、重箱の隅で迷子になったりしている。

 「なんでもみてやろう」は古いフレーズでその作者も一昨年亡くなった。いまいちど遅ればせながら、そうしてこなかった人生を広げなくてはいけない。まじめにはたらく側の立場の目線これだけは変えない。引っ込み思案を私なりに無理をせず変えていこう、なんでもきいてみよう、みてみよう。もう一度考えよう。

2009年1月24日土曜日

星を見上げて


本日息子が独り立ちするために出て行った。今日から夫婦二人暮らしとなった。思えば最初の子にめぐまれてあれからちょうど30年と少し。「不自由なく食わしていこう」と決意してそのようにしてきたつもりから、めぐりめぐって再び二人きりになった。子供達には自立を促してきた、悪く言えば追い出した。そうは言っても子ども達の居るところは電車ですぐそこだ。逆にいつか私(たち夫婦)自身が子ども達から自立しなければならないだろう。さて、いまいちどどこにどのように住もうか。夜の星を見上げていこう。

2009年1月22日木曜日

できることのひとつ、ふたつ


「生きさせろ」は現代において頭から離れないフレーズだ。

「殺すな」はベトナム戦争時のフレーズだったが、パレスチナでもイラクでもアフガニスタンでも使える。

「お金があるひとはお金を、ちからのあるひとはちからを、知恵のあるひとは知恵を」は五四運動(中国の反帝国主義運動、具体的には日本の不当な要求にたいするもの)のときのスローガンだったが、ホーチミンも南北ベトナムでこれを使った。そして、日本のべ平連のような市民運動もこれにならったらしい(小中陽太郎)。

「もやい」というのは「舫」と書いて船と船をつなぎあわせる、船をつなぎ止めておく綱のことを言うらしい。嵐のときにちからを発揮する。

派遣切りで難儀をしている人たちの支援方法はいくつかある。

根本的には社会的仕組みを正すこと、ただそれをいいながら進行中の事態への対処を無為に先送りすることになりかねない。年末からの国会の与党と民主党の政治(局)的駆け引きがそうだった。
同情を寄せるひとにも「働く気がホントにあるのか」「貯金ができなかったのか」「まっ、なんとかなるのでないか」・・・まだまだそのような空気が感じられる。

難しいことではなくて、
1)マスコミがとりあげるからではなくて、知ることから始めたい。
岩波新書「ルポ貧困大国アメリカ」(堤未果)、岩波新書「反貧困」(湯浅誠)これらの本に触れて読んでほしいと周囲に勧める。

2)反貧困ネットワークのシンボルキャラクター「ヒンキー」くんのバッジは200円だ。これの共同購入を呼びかけている。そして着用しよう、と。うれしいのは、その日の服にコーディネイトできるように2色あってこのバッジを着用して、おしゃれも演出できる。「そのバッジはなんだ?」「実はねぇ・・・」で話のきっかけができる。すべり落ちるのは、正規職員でも明日は我が身だ。

3)年会費5,000円でNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」のサポーター会員になれます。「もやいニュース」が送られてくる。
例えば、※サポーター会員になっていただける方は、郵便振替口座の振込用紙通信欄に「サポーター会員」、資金カンパの方は「資金カンパ」と明記するのだそうだ。
*ゆうちょ銀行振替口座 No.00160-7-37247 口座名「自立生活サポートセンター・もやい」
 そのことによって、自立をめざす生活困窮者(何故、そうなったかということを“貧困問題”で知ってほしい)新たな出発を支援できる。 お金が世のため、まじめに働くひとのためになる。
 
 以下、
「もやい」のホームページhttp://www.moyai.net/modules/m1/index.php?id=1&tmid=7からの引用。
<もやい>は、アパートで新生活を始める人々の、暮らしの基盤づくりをお手伝いします。
経済的に貧しく、人とのつながりにおいても孤立している。このことが今、路上・公園・施設・病院など、広い意味での「ホームレス状況」に置かれている人々にとって、 自立をさまたげる大きな要因となっています。そしてその「人間関係の貧困」を象徴するのが、 「アパートに入居したくても連帯保証人が見つからない」という問題であると言えます。

私たちは、アパート入居に際して連帯保証人を提供するシステムを構築すると共に、共通の課題を 抱える当事者同士の交流を通じて、社会的な孤立状態の解消をめざします。 そして、人間関係を新しく紡ぎながら、安心して地域社会での生活を築けるよう、専門家の協力も得ながら、 「困ったときにはお互いさま」と言えるつながりを作っていきます。

「自立」とは、ひとりで生きることではなく、つながりの中で生きること・・・人生の再出発を迎える皆さんと一緒に、 新生活の基盤づくりをお手伝いする。そして、誰もが排除されることなく、安心して暮らせる社会をつくっていく。 それが私たちの活動指針であり、理念です。

2009年1月21日水曜日

グッバイ、ブッシュさん


昨年末イラク人記者がブッシュさんに靴を投げつけたのは痛快だった。
ひとつは銃や刃物によるテロではなく、「靴を投げる」という侮辱行為だったということ。
目と目があったブッシュさんがそれをよけ、記者の靴が正確にブッシュさんめがけて投げつけられたこと、それが二度繰り返されて、投げた方もよけた方も「お見事」だったことに変に感心した。
そして何よりも道理の無い戦争、殴りこみの戦争で命を奪われ傷ついた人たちの気持ちを代弁した行為だったことだ。
記者は報復の拷問を受けているらしいと聞いた。
そのブッシュさんがようやく権力から去った。胸をなでおろしたとはこういうことを言う。このひとはなんだったのだろう。サッチャーさんから始まったこと。ブッシュさんが出てきてやったこと、小泉さんや安倍さんがやったこと、なんてことだったんだ。踊らされた人々、それどころかあまつさえ熱狂的に支持さえしたこの現実社会。
それが途絶したわけではないが、さて、これからだ。

奥歯の詰め物がとれてしまった、5年ぶりの歯医者通い。昨夜は久しぶりに歩いてみたが、それにしてもあの辺の春日通りには異常に歯医者さんが多かった。

2009年1月12日月曜日

いいものだ


 いただいた翌日にタンスの上に並べてみた。うれしかったから。

 多量につくられるもの、規格基準に(多分)あてはまったもの、たくさん売るからと言って買い叩くことを使命として仕入れてきた。まぁまぁおいしいものだったようには思う。こころの動くものがなかったわけではないが、経験を積むにつれ、寿命の短いただ忙しいだけの「商品」の品揃えの気風ができていくのに心が離れた。机上で、いやメールとパソコン上で価格を競わす手法にやりがいがめげた。脳内セレトニンが循環しなくなりつらい日々をすごしたことがある。

 年末は「こだわり酵母パン」をいつもの倍の2パック買っておいたところに「ゆずジャム」などをいただいた。ダイナミック、なんと言うのだろう、私はこういうとき「力がある」と表現する。個性があって、うまさが違う。「おいしい」とかではなくて。

 初めて正月に帰ってきた息子は、このパンを食べたかったという、そしてたまたまこのジャムにも出遭った。おせちは妻殿のほぼ手作りだが、こちらのことはあまり言わない。これはこれでとっても貴重なのだけれど。

 たまごはまず「生たまご」で食った。ケーキが、おせちの伊達巻が、山ほどつくれると踏んだ。伊達巻はその通りたくさんつくってもらった。オムレツも食べた。

 誕生日には「たまご丼」を所望した。息子が送ってくれた宇都宮ギョーザと一緒に食べた。宇都宮ギョーザは初めて食べた。普段、モノに不自由しない贅沢をしているが、こころの贅沢もさせていただいた。

「チェチェンへ」


 渋谷のホテル街を行かなければその映画館へは入れない。ここの通りは変わりつつあるようだ。
 ソクーロフ監督の「チェチェンへ」はなんとも不思議な映画だった。戦闘シーンのない戦争映画、たしかに。そのロシア軍駐屯地がどこなのか映画ではわからなかったが解説をみるとチェチェンの首都グロズヌイ。上映中ほぼずっと軍隊。
 チェチェンゲリラと一緒に暮らしたジャーナリストの常岡浩介さんの20分間のトークショー。イラクでもガザでもみな注目する。ただアフリカやチェチェンで起きていること(戦争)は報道されないから、無茶苦茶な殺戮がなされているという。現在進行中の戦争。 『ロシア語られない戦争』08年7月刊の著書がある。

2009年1月10日土曜日

さて、今日から


 お前を縁側で生んだと母からは言い聞かされて育った。
 お産婆さんは木下さんといった。私が挨拶できる年頃には腰が曲がっていた。そのお孫さんは同級生で背の高いえくぼのかわいいひとだった。中学で同じクラスになった。
 母は小柄なのにお腹は目立たなかったらしい。着物に割烹着が普段着で冬にむかい、40を過ぎてからだったので人にもいわなかったらしい。安産だった、手がかからなかったという。
 第一子の兄は戦前病院で生まれている。写真もたくさんあったようだ。兄は体が弱く苦労して育てたという。兄はそのことと引揚げの事情があって学校にあがるのが3年も遅れた。そして体が小さい。
 三畳間と四畳半に縁側、便所と、それに土間式の台所、縁側の向かいにポンプ式の井戸があって洗面所と五右衛門風呂、お隣に囲まれた三畳ほどの広さの庭があった。土間の水周りにはいつも蟹がいた。ねずみも捕まえることがあった。
 その縁側で母は産んだ。えっ、あんなところでと思っていた。6人家族、四畳半は茶の間で客間、そして寝室だった。ムダな空間はなかった、というより何もなかった。
 もの心ついたときには「ぴんこちゃん」と呼ぶ黒い老いたオス猫がいた。「シロ」と呼ぶ犬も飼っていたそうだが記憶には無い。母は動物を可愛がる人ではなかった。父は「生き物は死ぬから」といって飼いたがらなかった。それでも猫がいたのはねずみが出るからだったのだろう。
 私が生まれた年に二階を増築した。六畳四畳半だった。記憶はそこから始まる。兄姉たちは二階に、赤ん坊の私は父母と一緒に茶の間兼寝室に寝た。ただし17歳も年の離れた兄とは一緒に暮らした記憶がない。中学に入ったときに庭と風呂をつぶしてまた増築した、そこは三畳間と押入れにしかならなかった。その年に父は事故で亡くなった。引揚げてきて、紆余曲折があって戦後ようやく建てた家が父母の「我家」で、継ぎ足しをし、私を何不自由なく育ててくれたという。確かにそうだ。しかし麻生太郎さんや安倍晋太郎さんとは違う。純粋無垢、幼い弟を年の離れた姉二人は可愛がった。兄姉たちはモノのない戦後を生きたのでお金はさほどなくてもたくましい、今ではけたたましい。
 その「純粋無垢」に面影は無い。
 斜(はす)に構え、この世に正義は無く人生は常に絶望的だと称し自分以外はみな批判するそんなヤツになってしまった。捻じ曲がり元には戻りそうに無い。大きいもの、力でくるもの、金持ちが好きではない。という好きな人生を歩んできた。これは裏返せばそれに阿(おもね)りかねないモロさも孕(はら)んでいる。それもいやだ。「過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる」とトキさんに言われる。ダメかもしれないと嘆きつつ、さて、あらためてどうやって生きていこう。

  蛇足;大きいものはきらいながら、おおきい女性はなぜか好み。

2009年1月5日月曜日

つながりの社会へ

 年が明けてやたらに人身事故での鉄道の乱れがテロップで流されていたという印象があったが、はからずも帰宅途上でこれに遭遇した。ほぼ「人身事故」とは自死すなわち自殺のことだと考えられる。年間3万数千人の自殺者が毎年絶えることがない。数万人のひとびとにとって「死ぬしかない」社会であるとしたら、なんとかしなければいけない。

 「アキハバラジケン」についての社会的分析が進みつある。言うまでもなく無差別殺傷のよいはずが無い。あのとき犯人の親(の育て方)を問い詰めるかのような報道の仕方に違和感と疑問を持った。
 つまるところ、その後年末に起きたトヨタ系列の派遣切りの先駈けで、犯人の怒りの持っていき方のお門違いの「破れかぶれ」な犯行だったということができる。

 「誰でもよかった」というフレーズは、実は「戦争」の殺傷行為にも通じる。

 壊れていく社会を、押し返す方法の創意工夫を「テント村」に学びつつある。

2009年1月2日金曜日

初夢願望


 現在の軍事同盟の「日米安保」では危険です、「日米平和友好条約」を締結してはいかがでしょうか。韓国、中国、台湾、できれば北朝鮮とも、北東アジアでの共同体をめざしたらいかがでしょうか。ご近所づきあいを深めるのです。ありのままに過去現在未来に向き合うことは不可欠です。核兵器使用禁止・平和・食の安全・環境・経済での共存を検討し、そして東南アジア、さらに世界とつながるのです。

 働いてつくりだした富ではなく、さすがに世界の半分ちかくが投資投機の金融による富では実態がありません。このことによって貧困と飢餓、環境破壊が拡大しつつあります。これがグローバル化の正体です。いっしょうけんめい働いているのに貧乏、いっしょうけんめい働いてきたのにお払い箱。道理に合わぬ社会は壊れていきます。自己責任ではなく政治の責任です。ひとはモノではありません。

  「チェンジ」すべきでしょう。

2009年1月1日木曜日

ともし火


大晦日も元旦もなく働いたことがあるが「食うため」ではなかった。

大晦日を路面電車に乗って下宿に帰りひっそりと静まった部屋でささやかにカウントダウンを楽しみ、元旦は山門を仰ぎながら職場であるお店に向かった、古都の朝は寒かった。

京都南禅寺の門前は湯豆腐が名物料理だ。

有名な店だったがいくらの時給だったか忘れた、昼飯付きで年末年始皆勤すれば一万円の上乗せが付くなどに魅せられて応募した。こき使われた。昼飯とはカップヌードルだった。昼休みもなく立ったまま食べた。最後は意地で働いた。人使いの荒いのは経営者のお譲さんとおぼしきひとだった、私はよく働いたので最後はこの人にスカウトされたような気もするが、ゴメン蒙ったのだと思う。今でもテレビに出てくる有名店だ、あのとき応じていれば人生が変わっていたのかもしれないと秘かに思い出す。

母子家庭だったので奨学金にはあぶれず、また母は教育費だけは蓄えていたので仕送りが途絶えたこともなかった。だから苦学をしたわけでもなく、正月もなく稼いだのは単なる「学生アルバイト」で、結局本代に使ったような気がする。だからと言って、買った本の中身を頭に入れたのではなく「本のコレクター」だったような気がする。

あんな“苦労”はたんなる「お遊び」だった。
昨年、しかも歳の瀬に唐突に働く職場を放り出され、あまつさえ住処(すみか)も失くした数多くの働く仲間たちの境遇を考えれば、言い切れない思いでいっぱいだ。日比谷に「テント村」が開村され、こころある人たちが越年支援を続けている。そして立ち上がっている、輪がひろがりつつある。村長の湯浅誠さんも身体と論陣を張っている。独特の口調と詳らかな表現力をもっている。この社会の良心の糸であり希望の灯であるだろう。

国会や年末の姿を具(つぶさ)に見ていて二大政党(つまり自由民主党と民主党)にはこの社会の将来を任せられないなと考えている。