2010年12月31日金曜日

大晦日


 昨日とは打って変わって穏かな日和。

 NHKで柴田トヨさんをとりあげた朝の番組「“くじけないで”」はすがすがしかったな。

母娘で一日がかりでつくったお節が、志保さんが夕方もってきたお節と合体してお重に収まった。お正月お迎える準備が整った。

 旧子ども部屋をなんとか片付け、掃除をして、布団をかき集めてみればなんとか3人分はあった。7時のニュースを聞けば最後に高峰秀子さんの訃報、86歳だったらしい。いつかの年末の木下恵介さんの訃報のことを想い出す。みんなで、紅白を観る。さて、家族が増えてやはり賑やかな大晦日になった。HY、クミコがよかったな…。

 なんだか、「ごく平凡な」と思ってしまう一年のしめくくりになった。

2010年12月30日木曜日

冷え込み

 冷え込んだ。お風呂に入ってもしばらく温まらない。

 掃除、片付け、正月飾りつけするが少しも能率があがらない。冷え込みのせいで身体が固まるようだ。要領が悪いのは歳をとったせいもあると考える。それでも、つれあいはもくもくと御節の準備をしている。この人はいつも安定している。食欲もりもりの息子たちがくる。三段重を2セット用意することになる。種子島から買ってきたトビウオの卵を数の子代わりに初めて使うことにした。臭みがあるので生姜を多く使うようにと聞いてきたらしい。その生姜も種子島で買ってきた。食材は種子島でも仕入れるほど買ってきた。その種子島ネタも頭に詰まったっきり出てこない。

 家族が増えていくのはいいことだ。近所に住む二男夫婦は泊まりで来ると言うてきた。布団も持ち込むからと。腰を据える気だ。大晦日まで働いているから労ってやろう。おっと、部屋はあるがほとんど物置状態だ。明日も掃除、片付け、最後の買出し。どうもゆっくりできそうにないな。休みにはやろうと思っていた資料と本の整理。やれそうにない。

 夕食後、桂文珍独演会のDVDを観る。

 明日、東京は晴れるようだが、鹿児島は吹雪で積もるらしい。佐渡は雨のようだ。趙博さんのCD「百年節」を聞きながら気合をいれてやろう。CD「ベストオブ正月」は準備した。
 来年の今頃はどこでどうしていることだろう。

迎春準備


 あ、~日付を超えてしまったが、29日の日記~

 種子島から帰ってきて10日が過ぎた。
 すれ違って二三歩行ってから、ん!と、つい振り返ってしまう“いい女”に出会ったときのような余韻が残っている。譬えが悪いかもしれない。

 それはそれとてお正月は迎えなければならない。皐月はそのずっとあとの楽しみだ。
 リビングの大きなテーブルと椅子で食事をするのはいいがどうも膝が冷える。和室でコタツがいいと考えた。しかし、家具屋さんで買った丸い炬燵を持ってはいるが、6人も7人もは座れない。もう一つあるコタツは機械が壊れていて今はテーブル代わりに使っているだけだ。考えあぐねていたら、はたと思い出した。我が家には造り付けの掘り炬燵があったことを。それで和室の模様替えをすることにした。その部分の畳をあげて、久しぶりに掘り炬燵をセットした。暖房部分も機能する。2006年日付の新聞が出てきたのでそれ以来使っていなかったらしい。使わなくなった理由は場所をとるのと、眠くなったときに足を伸ばして横になれないからだった。高さが違うのだけれども一つでは足りないので二つ炬燵を並べて正月はこれで過ごすことにした。

 長男夫婦はお嫁さんの両親の実家の富山へ行く。あとは大晦日から集まる。今年は家族が増えた。志保さんも少し御節をつくるつもりだ。それでつれあいが重複しないように電話で聞いた。筑前煮をつくるというからさすがと思ったら、これからインターネットで検索して初めてつくるという。筑前煮はやはりつれあいが主導してつくることにした。しかし、さすがに大分の人でぶりの照り焼きをつくるとういうからそれは任せた。あとデザートも任せた。二男は大晦日まで配達業務だが7時までには帰宅できそうだという。

 志保さんに“おぶひも”は持っていないのかと訊いたら持っていないらしい。おんぶしたら台所仕事もできるし、それに久しぶりにおんぶしたいからと“おぶひも”をリサイクルショップに買いにいく。それで御節の準備の補充も兼ねて混まぬうちに買い物へ。昔の“おぶひも”とは違うが新古品がちょうどあった。生協のお店では恵比寿ビールに景品が付いているのでそれと、別に瓶ビールも買う。今日はなんやかやと部屋の模様替えと大掃除とまではいかないお掃除をして日が暮れた。おっと祝箸を買い忘れている。今年は御節をつくるおもしろい相棒が増えた。寒波が来るそうだ。

2010年12月28日火曜日

空白


 長らく“日記”をつけていない。

 23日が休日だったので阿部さんはその日に着くように送ってくれたようだが、あいにくレイバーフェスタに終日出かけており不在だった。結局、手にしたのは24日の夜。思わぬクリスマスプレゼントになったが、生ものなので大慌てで賞味する段取りに。たまたま長男夫婦が訪ねて来ることになり、クリスマスの飾り付けそのままに25日の夕食会となった。アワビは届いたその日に刺身で食べた。ビンチョウマグロと鯨の刺身、小走さんからいただいていた鳥取産のながいものトロロと麦ご飯、生協で買い求めていたパエリア(パエリア鍋も)の豪華メニュー。食後には故郷の友人Tさんから届いていた桜島小みかん、そして志保さんの手作りケーキ&長男夫婦が手土産に持ってきたクリスマスケーキ。二男は風邪で寝込んでしまい、来れなかった。長男夫婦、娘、二男の嫁と赤ん坊で、だいぶ冷え込んだが、賑やかな週末の夜だった。

 日曜日は年賀状の宛先印刷。これにてこずった。新しい人の登録および変更登録を入れるのだが何度も失敗する。そのたびに不思議なことに入力したつもりの情報が失われ、一からやり直す。「保存」という機能がわからん。こんなことで、午前中をアホみたいに過ごし、午後一番で投函。パソコンを買い替えなければいけないのだが。
 午後は午後で、うっかりしていた。いただいたお歳暮のお返しをと考えWEB検索するのだが年内に着くものはない。それで電車に乗ってデパートに行ったら、とっくの昔にお歳暮売場はなくなっていた。途方にくれて、試しに地下の食品売場をのぞいてみたら、サイボクハムが間に合った。31日に先方に着くそうだ。それで午後は終わり。

 くたびれた一日の気持ちをほぐすために、息子たちが楽しみだと騒いでいたM-1を観ることにした。沖縄出身というスリムクラブ、ミニ旋風を巻き起こしたようだ。あれは「傾聴の技術」というものではなからうかと思った次第。マシンガンのようなスピードが速い展開が多いなかで、忘れてしまったような「あなたの言うことに耳を傾けます」という間(ま)のとり方は、まさしく傾聴に値した。人間関係のとり方だから。決勝に進んだ3組とも初回とそう変わらないものを演じて、ややシラんだが、さすが沖縄のスリムクラブ、中味に「民主党」を持ち出したのは絶妙だった。それにしても、笑いは人間への温かさともっと権力や世相への風刺とを含んでいいと思うのだが。テレビにそれを言うのも無いものねだりなのだろう。

 月曜日は忘年会に招かれ、そんなこんなで、「ゆる~い」数日を過ごしてしまい、長らく“日記”をつけなかった。

2010年12月23日木曜日

レイバーフェスタ2010


 帰りは夜遅くなるので昼と夜の分もお弁当にしようということになって、お重におにぎりや手羽先の唐揚げなんぞを詰めて出かけた。お重は2段重でしっかりしたものだから重い。それに銘々のポットに熱いお茶を詰めて持っていった。

 今日も朝から晩まで、飯田橋の会場で「レイバーフェスタ2010 ~百年の 歌がはじけて 垣根超え~」に二人で参加した。今回で9年目を迎えるそうだ。

 既成の大きなユニオンが建前論議や闘争もどきのスケジュール消化だけで実感と御利益(ごりやく)がない。ところが、ここに集う事例を見聞していると、いまどきそんな信念と良心に従って独りでも数人でも立ち向かう、そんなすごい人たちがいるということに驚く。そしてまた、そこに歌や芝居や映像や川柳などの文化がある。連帯があって、視野と行動は海外にも及ぶ。「インターナショナル」ってこんなに美しかったっけ。久しぶりに聞いた。

 趙博(Cho Bak)さんのライブ「百年を歌う」は、その体格のままにすごい迫力だ。自分のことを「在日関西人」だという。『百年節』は15分もある、そのサワリ。100年経てば山河も変わる。変わらぬのは不服従。他郷暮らしのはかなさ、楽しさ♪

 映画「海を越えた初恋—1989スミダの記憶」(パク・ジョンスク監督)はできたばかりだ。監督は若い女性だ。5年前に日本でひょんなことでスミダ争議のことを知ったそうで、5年の歳月を費やしたらしい。「さらば戦争 映画祭」に出展された映画の監督も若い女性だったねえと二人で話しながら飯田橋をあとにした。

誇りある島Ⅱ


 時は明治18年9月、所は種子島北東部。伊関村の貞吉さんは深夜いつもの通り、松明と突き棒を持って磯の魚を獲りに行く。寝込みを襲うそういう漁であるらしい。そのしぐさがおかしい。すると、どうだ!棒の先に柔らかい固まり。なんと!人ではないか。しかも、見慣れぬ風体。…という「カシミヤ号」難破救出の場面。やんやの喝采だ。

 沖ヶ浜田黒糖生産者組合「大(おお)頭領」持田さんの歓迎のあいさつに続いて乾杯の挨拶に立ったのが沖田頭領。彼が演じてみせる再現劇だ。我々一行への歓迎の宴もたけなわのころ、それをやれと、やってほしいとみんなからねだられるのだが、まだ沖田さんは興にのっていない様子。酔いが足りないのだろう。そこは東京近辺からわざわざ8人も来てのたっての所望、まだシラフという感じではずかしがりながらも「タネ弁」でサダキチさんは凪の夜…、これ松明ネ、こっちは棒、と一人解説入りで演じ始める。「タネ弁」は「かごっま弁」ではない、標準語に近い。

 種子島といえば鉄砲伝来が有名で学校でも習った。外との交流の多い島、黒潮の流れの真っ只中にある。この島から「海流瓶」を流せば本土、ハワイ、アメリカ、対馬、韓国、南西諸島、フィリピン各地に漂着するらしい。台風に出遭って遭難したアメリカの運搬船「カシミヤ号」もそのひとつだったらしい。これを砂糖小屋のあるこの浜の村人たちが救出し手厚く介抱して国に帰した。船乗りたちはこの親切に感激し種子島のことを伝えた。それでアメリカ議会と大統領は感謝状と金一封といっても5,000ドルという大金を送ってよこしたそうだ。それを村では当時の文部大臣大隈重信の指導もあって村の教育基金に充てた。村ではこのことを長く顕彰し、あの戦争中でも絶やすことはなかったらしい。

 あれが私の実家、その道を折れて左手が運転手の長野さんのお宅。運転手の長野さんは従兄。しばらくいくと右手にあれが母校の伊関小学校。そこに大きな「カシミヤ号」顕彰碑が立っている。ずっと案内してくださった地元の長野広美さんは素敵なご婦人だ。感激のあまり「おお、種子島には少なくとも年に3回は来よう」と言い始めたのは我々一行の中心人物のひとり。我々一行はみな「船頭」なのですさまじい。行程中、長野広美さんが順追って解説をしてくれるのだが、見学の脈絡とはちとはずれる自説を展開する人や、さっき聞いたでしょと思われる質問をする人などかしましい。ところがこれがまた、種子島の理解に繋がっていくという不思議なことになる。長野広美さんも長野さんでそう負けてはいない、島自慢をきちんと展開する。ただし、話の腰は折られるのだけれども。みんなが種子島を気に入ったのは、出遭った人々や景色風土、仕事ぶりに魅了されたのもあるが、もっとも大きな理由は長野さんの俄かファンになったせいだと考えられる。

 このたびのツアーの目的のひとつは、「沖ヶ浜田の黒糖」づくりの現場を見学にきたこと。そしてそれをつくっている人々とふれあいたかったこと。ここの人たちはさとうきび農家それを自ら製糖する。冬場に収穫しこの収穫期に製糖する。製糖は協業作業だ。それは砂糖小屋と呼ばれる。「31号の4名です、こちらは34号の3名です」と自己紹介があったとき、なんだ?それはまるで囚人番号のようだと思ったのだけれども、政府にとって砂糖は貴重な収入源で税務署への申告でこのような不粋な番号制であるらしい。だから、種子島には最盛期300もの製糖小屋(工場)があったらしい。

 宿にした民宿の座敷に組合の皆さんに来ていただきみんなで鍋を囲んだ。あいさつと自己紹介をしてみんなわいわいと交流をした。この辺の区長もしている沖田さんの寸劇の出しものなどで歓迎していただいた。

2010年12月20日月曜日

誇りある島Ⅰ

 帰りの便は18時5分発だ。旅もまもなく終わる。空港へはまだ時間があるらしい。「最後に」と寄ってもらったのが、国道58号線を右斜めに逸れて入った海辺の集落。住吉というところらしい。目の前に東シナ海が広がる。ここは南北に細長い島だ。

 車を横付けした建物の左側に入り口があって奥に入ると転じて2階への階段がある。最初に入ったKさんが、入り口が二段に重ねた木の上がり口になっていてフロアも木であったものだから靴を脱いであがったらしい。あわてて小柄なマスターと思しき人がそのままでおあがりくださいと案内に出てくる。入ると、とくに何もない。椅子とテーブルと観葉植物ぐらい。とてもシンプルなつくりだ。あるのは、窓だらけの景色。すぐに、窓の向こうの海と空と夕日が目に飛び込んでくる。

 3つしかない小さなテーブルのうち、細長いメインテーブルは海側の窓にくっつけてあり、外の景色に向き合うようになっている。何か日本ではないところの港町のショットバーにでも入り込んだ感じなのだが、バーでもないらしい。確か入る前に見た看板には「カレー」とか書いてあった。「この間までインドカレーをやっていたのですがねぇ、今はタイカレーを出しています。」目が林家正蔵さんにちょっと似ている印象。ぐっと小柄で細くした感じ。そして思いっきり人懐っこさを感じるのに、存外スキはない。

 私はチャイを注文する。「みなさん、どちらから。」「実は私は山形なのですよ。どなたか佐渡とかおっしゃるので新潟の方もいらっしゃるのかと思いまして。」なんだ、なんだ、山形だったら「私の」工場もあるよと、受け応えする人もいる。意外なところで山形かと盛り上がる。「人を訪ねて来てみたら気に入っちゃって、居着いたんです。」「…流れ者です」。このさりげなく恥ずかしそうな言い方が「いかにも」言わずもがなで、世界中を放浪した人らしいということが判る。「この店に10人も一度にお見えになったのは初めてです。」全然飾らない人柄でもあるらしい。この2階の小さなお店の空間とマスターと客の存在がなんの違和感もなく溶け込んでいる。なにか遠くにいた昔馴染みの様子をみんなで訪ねてきたみたいに。

 今日は温かくて晴れた。夕日が見られる。そして東シナ海に沈む夕日をこのロケーションからは見ることができるだろう。帰る前の時間との兼ね合いも考え、ここをセットした地元の長野広美さんの粋な計らいだ。これでもかと(少しもそぶりにはないけれど)島自慢のところを案内していただいた最後の駄目押しみたいなものだ。

 お店始まって以来の大繁盛なので、なかなかコーヒーもお茶も出てはこない。いつのまにかマスターの奥さんも加わった。この人も山形だ、似たもの夫婦なのだろう。もとは農協の建物だったらしい。長い水平線が見える。目の前の漁港からは、漁船が出て行く。出て行くためには、港から長く横に延びた堤防に沿って突端をターンして外海に出るようになっている。沖合にはミズイカ漁をしているらしい小型の漁船が見える。17時15分あたりからやや大きな夕日になったが、残念ながら水平線には雲がかかり、水平線と空とに引っ張られるような大きな夕日、日没を見ることはできなかった。

 この島には様々なきっかけで移住してきた人が様々にいるということを知った。「種子島の人はね、除け者にしない、なんでも参加させてくれるのですよ。」というマスターの言うことが、わずか3日間の旅で嘘ではないだろうと素直に受け取れた。なにか豊かな島、外から来ても住むことのできる島、お会いした人々になにか自信と余裕があるように受け取れた。誇りある島なのではないかと考えた。

 マスターは虚空を見るように「息を呑むような夕日を年に何回か見ることがあります」と言った。その夕日を見たい…。心の底からそう思っている。

2010年12月16日木曜日

足をのばす

 スタジオでジャズを聴きながらストレッチ。できるだけ足を伸ばす。すると身体が硬いからそのうち膝ががくがくと震え出す。息を吐きながらストレッチ。ふう~っと。しかめっ面でやるのではなくて、笑ったほうがいいらしい、笑うとは弛緩することでより伸びるとのこと。

 今週はなんだか、ぱっとしないことが多かった。

 足を延ばすといえば、明日から初めての種子島。屋久島のガイドは書店にいくらでもあったが種子島はなかった。赤米伝来、鉄砲伝来、唐芋(かいも)伝来、宇宙ロケット、安納芋、豚、飛魚(トッピー)、サトウキビ、インギー鶏、サーファーズ・パラダイス、なんだっけ。「沖が浜田の黒糖づくり」だった。

 ココアをすする。今日は芯から冷える。明日は始発に乗る、早く寝なければ…。あっその前に旅の支度。みんなで行くので遠足の前の日のよう。みんなで笑いたいね、寿命が延びるよ。

2010年12月15日水曜日

年賀状


 年賀状をつくった。以前プリンターの調子がよくなかったので心配していたが、いいできではないにしろまぁなんとかなった。昨年は喪中欠礼の葉書だったから、内容は2年分の近況報告とした。形式だけでやりとりしているのは、失礼にならない限りやめていくことにした。明日は宛先印刷ができるかな。

2010年12月14日火曜日

欠礼


 私の母は少し出来がよかったらしい。一番下の叔母によると、幼いときひとまわり以上歳が離れて、大人であった母は職業婦人で凛として恐かった印象があったらしい。祖母は三人も続けて女の子を産んだ、四番目にしてようやく待望の長男が生まれた。母は二番目の子で、姉とすぐ下の妹は若くして或いは幼くして亡くなったので、実質一番上の子として育った。実家は戦前地主であったのだが祖父の代で没落した。祖父は坊ちゃん育ちであったらしく、ひとの借金を背負って財産を失くしたらしい。そういう絵に画いたような話を聞いた。

 母は本当のところは男に生まれたかったのではないのだろうか。度量は恐らく父よりもあったはずだ。しかしながら根強い男尊女卑の中に育って躾が身にしみていたと思う。何事も父を立てるしかなかった。くやしいと思う心と分限が共存していた明治のひとであった。

 母の実家は薩摩の中心にあって鎌倉の時代から続く武家で、その支流の宗家であるらしい。中世古文書の保管で有名な入来院家も同族である。その母の実家の跡継ぎの叔父が亡くなった。92歳の大往生だったと考える。東京に出てきて東京で暮らし、とうの昔にお墓も移していた。母の実家はもう故郷にはない。
 今日はその総領とでもいうべき叔父のお葬式だった。兄や姉は出席したが、末っ子の私は仕事に託けて欠礼した。ただ、冥福を祈るのみ…。

2010年12月13日月曜日

境目のなさ唐突さ


 民主、自民、みんなの党などに境目がなく、選挙の票がいったりきたりしているだけで現状の打開にはならないように考えられます。だからといって、もう自公政権の時のような冷たい世襲政治には帰りたくないのですね。
 菅さんは政権にのぼりつめることだけが目的化してそれを達成してしまい、深い政治思想や理念がなかったものだから、その場の思いつき考えつきで、「消費税、TPP、朝鮮半島の自衛隊出動」など、くちがあんぐりと開いてしまいそうなことを唐突に打ち出す見苦しさを感じます。「変えてくれ」(生活とヒトの生き方をまともにしてほしい、世界の金の亡者やひとでなしの支配からとりもどしてくれ)という国民の要求をカン違いしていますよね。小沢さんとの権力闘争ではなくて生存の危機や貧困との闘いに取り組んでほしいのです。行き当たりばったりの恐さを感じます。

2010年12月10日金曜日

叔父の訃報


 母方の系統は長寿の血筋のようだ。昭和の初め頃に母の祖父や曽祖父は90歳代まで長生きしたらしい。父方にはそれはないから私自身のことはわからない。母は97歳まで生きたが、母の弟や妹たちもみなそろって長生きで健在だった。それが、母の次の弟、巣鴨の叔父が亡くなったと今朝、姉から連絡があった。叔父は母の実家の長男で、東京で事業に成功した。それで、東京に出てきた兄や姉は若いころ世話になったらしい。末子の私はそういうことがなかったので、私が小さいころたまに帰省してきたときに会うぐらいだった。東京弁しかしゃべらない宗光ちゃんと呼んでいた従兄も還暦を超えた歳だ、もう長く会っていない。

2010年12月9日木曜日

併合100年 Ⅲ


 朝鮮半島のこの100年。朝鮮半島の人々にとっては日本の植民地支配に始まる。韓国「併合」は幕末の国学思想に源流を発し明治維新後に政権内で白熱した「征韓論」の歴史的完成版ともいえる。

 11月23日に北朝鮮は韓国の民間人居住区を砲撃して人を殺傷した。米軍原子力空母ジョージ・ワシントンを中心にした軍事演習が黄海や東シナ海、日本海、西南諸島沖で続く。ミサイルの安全装置ははずされているから演習はそのまま実戦に突入できる。それを目の当たりにする仮想敵国にとっては脅迫(少なくとも威嚇)されているにも等しい。それぞれ米韓、米日の合同演習というが、米日には韓国軍将校もオブザーバー参加している。事実上の米韓日の軍事同盟化だ。北朝鮮の砲撃による民間人の犠牲、目と鼻の先での大掛かりな軍事演習、まかり間違えば一発触発だ。

 朝鮮半島での緊張を日本列島の空気は文字通り対岸のことと受け止めながら「もし、北朝鮮が追い詰められた挙句、ミサイルでも打ち込んできたらどうするのだ」ぐらいのことしか考えていないように見える。我が身よければのことしか考えていないような論調だ。だからアメリカに守ってもらおう、今こそ日米軍事同盟の強化、アメリカの機嫌を損ねてはならないという卑屈な根性を発揮している。軍事同盟・アメリカの核の傘に居ようとしながら、そのことは有事の当事者になることにも通じることなのにひとごとのようにピンときていない。

 中国外務省の姜瑜(Jiang Yu)報道官は「自国の保有する兵器を振りかざして国力を見せ付けようとする国々の措置が認められているのに、中国が 提案する6カ国協議の緊急会議の開催は非難されている」云々とこぼす…(12月2日)。彼女の髪型と眼鏡がお洒落になったなぐらいしかみておらず、耳を傾けない。
 喧嘩腰で熱くなっている北、米、韓は、今話し合いの席につけるときかということらしい。北の謝罪が先だという韓国世論の沸騰もそのとおりだろう。火の粉がふりかからぬように、戸締り用心という次元でしか考えていない日本政府は毎度米国追随で無力だ。 仲裁どころではない。

 康 宗憲(カン・ジョンホン)さんの『死刑台から教壇へ 私が体験した韓国現代史』(角川学芸出版 、2010年9月22日)を読み終った。拷問の描写に息を呑み、死刑判決13年後、釈放の瞬間のページに涙ぐむ。しかし、題名はそういう印象を受けるが著者はそれを言いたいのではない。姜尚中さんとほぼ同じ年で、同じく祖国および「在日」という立場への思慮は深い。彼の場合は、「北のスパイ」などという朴政権当時のまったくのでっち上げによる獄中体験もあって、淡々と語る。韓国社会の長い民主化の流れによってようやく康宗憲さんにたいして、政府はでっち上げで重大な人権侵害事件であったことを認め、再審を進め和解のための適切な措置をとる必要があることを決定した(2010年7月)。今は亡きノ・ムヒョンさんの政権のときに設置された「事実・和解のための過去事件整理委員会」の作業の成果である。

 日本列島には北朝鮮への積極的には制裁と圧力そしてバッシング、或いは消極的には北朝鮮の体制の崩壊を待つそのために何もしない。そういう流れがある。拉致、核、ミサイル、砲撃そのたびに、北への制裁、国の備え、日米安保こそ国の基本、ということが声高に流される。沖縄の普天間ぐらいのことでアメリカを怒らせるなということにも通じる。そして、「在日」への白眼視、いやがらせ、朝鮮高校を無償化からはずせ、不当だということに飛躍する。北朝鮮への制裁の強化(北「朝鮮征伐」だと姜尚中さんは表現する)、そして八つ当たり的な在日へのバッシング。

 姜尚中さんも北との対話・交渉をいくら訴えても、その逆風時には抗しきれないという。それでも、その方策を訴えるという。そのことについて康宗憲さんも具体的に提言していて非常にわかりやすい。紹介した著書は広い視点で示唆に富み一読の価値がある。

 朝鮮半島における半世紀以上の根強い敵意・不信による敵対関係、核武装(北朝鮮は核保有国になったが米国はずっとそれ以前からの核保有超大国である)、軍事的緊張の繰り返し(北朝鮮の無法な砲撃も、1年も前から準備されていた米軍の軍事演習も、双方からみたら挑発行為に等しい)を解消すること。そして、さらには長く続く民族的分断を解消すること。日本の世論は北朝鮮を脅威だと感じている。しかし世界の認識は唯一の軍事的超大国アメリカが世界平和にとって最も脅威となる国とされている。米朝にも日朝にも外交関係はない。小泉訪朝で交渉の糸口はつくられたが拉致問題で挫折したままである。現在の軍事的圧力も含めて、制裁と圧力を強めていく方向では手詰まりであることは、拉致問題ひとつとっても、朝鮮半島における戦争状態の解消にも繋がっていないことは現実である。

 韓国「併合」から100年後の我々にとって歴史的事実を直視すること、不信と対立を解きほぐすこと、朝鮮半島の正常化(平和と統一)に寄与すること、そのために過去に目をつむり、朝鮮半島の北側とはこのまま対話も交渉もせず、なおかつアメリカの軍事的「平和」の傘下からものを考え生きていくことが、東北アジアでいつまでも可能であるものか見直すことが必要であると学びつつある。

2010年12月8日水曜日

「生きていていいのかな」


夜半から冷たい雨になった。
返信が到着した。今年の大晦日はNHKホールで「クミコ~!*#$%&」と声援をおくるつもりでいたかったが、かなわなかった。759,480通の応募があったそうだ。

サダコさんは生きたかった。折り鶴を千羽折ったのに、かなわなかった。

映画「夕凪の街 桜の国」で平野皆美は(自分は)「死んでしまえばいい」と思う。会社の同僚の打越から愛を打ち明けられた。生き残った被爆体験からそういう言葉が出てくる。そうして26年の生涯を閉じる。皆美は言う「原爆は落ちたんじゃない、落とされたんよ」

仲間を殺されたらね、カッとなっちゃう。殺っちゃうよ。家を焼いてね。戦争だもの。

会いたくないと電話で言ったそうだ。だから、神直子さんは取材では会えないと思っていたそうだ。盛岡の駅に着いたら、駅に待っていたそうだ、朝の7時に。ほかの人との取材の約束があって、話は聞けなかったのに。「顔だけ見に来た」そうだ。元皇軍兵士の葛藤。

戦場体験を話し終えたあと、ふと、このまま「僕はまだ生きいていいのかな」と声にもならない声でつぶやく。

虐待を受けて短い命を閉じた幼子はどう言えたのだろう。
いじめを受けて自死した子はどう言いたかったのだろう。

小走さんからお礼の電話がきた。今月で88歳になるという。彼も軍国少年だった。満州で兵士にとられ、シベリアから帰ってきた。その日から食べなければならなかったが、シベリア帰りは誰も雇ってくれなかった。だから身を起こした。今、身体のどこも悪いところはないという。意気軒昂だ、ただ会話の中に「生き残り」ですからとひとこと。

今日は日米開戦の日だ。

歴史を見据え、「平和を生きのびること」(清水真砂子さん/児童文学者・翻訳者)、生きていていい社会をともにつくること、そう考える。

『殺したらいかん』(益永スミコ/影書房/2010年5月刊 630円)を一気に読み終わる。

2010年12月7日火曜日

フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ


 自嘲するとき、後悔するとき、人間笑ってはいけないのに(ひきつるような)笑みが浮かぶことがある。「一度殺しあってみなさいよ。撃った弾がどうなるか知らない。…。人を殺すことができるんだよ。戦争は毎日人が死ぬということ。一日でも延びたら人が死ぬ。」フィリピンにいた元日本軍兵士。それぞれもう高齢だ。80代後半より上。もっといろいろな証言があった。NHKでもなんでもない。

 私たちの親は戦争体験世代。例えばつれあいの父親は1939年12月入隊。中国北部および現在のベトナムに連れて行かれそこで終戦を迎える。日中戦争および太平洋戦争を兵士として現役で体験し生き残った。戦後、「戦友会」には最後まで出ていた。兵隊としての体験談は断片的には家族も聞いている。苦労話や失敗談として何回も聞いている。しかし、娘であるつれあいはもっとどんなことを体験したのか言えないようなことも聞きたいと思っている。しかし、そういって訊いたことはないし聞けないようだ。それで、婿の私に訊けという、いちど訊ねたことはあるが、ひととおりのことで心の奥襞までは聞けるものではない。

 若い実行委員のひとたちが一所懸命になってやっている「さらば戦争!映画祭」は今年で6年続けている。前の方に席をとったので、後ろを振り向き、席の埋まり具合を見回すのだが芳しくない。とくに若い人の参加が少ないようだ。それでも、若い人を見つけたと思っていたら、後で登壇してきたNPO「Bridge For Peace」代表の神直子さんだった。1978年生まれだそうだ。私たちの長男と同じ年だ、つまり子の世代。「さらば戦争!映画祭 2010」に『Bridge For Peace~フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ』 (2009/日本/33分)を提供し、この映像を紹介するためのトークに出席した。彼女たちは戦争体験者の孫世代にあたる。そして、世代によっての戦争のとらえ方があるという。
 
 私たち子の世代は「だったら何故戦争をとめられなかったのか」と言わんばかりに責めるらしい。そう言われればそういう気分感情がある。とくに若いとき戦争話を聞かされたときにそう反発した経験があると思う。神さんたち孫世代は客観的に――とそういう視点になってくるという。「じいちゃん」とうちとけた我が子の小さいときの義父とのやりとりを想い出す。

 代表の神直子さんはNPO法人「Bridge For Peace」(略称BFP)の活動の目的をそのパンフレットの中で次のように述べている
 『2000年、大学生のとき訪れたフィリピンで、未だ戦争の傷が癒されない人々の苦しみをぶつけられました。夫を亡くした未亡人は、「日本人なんか見たくなかったのに何であんたはフィリピンに来たんだい!」と泣きじゃくりました。2003年、帰国した日本で、自分が関った残虐行為を、亡くなる直前まで老人ホームでうわごとのように嘆き続けた方もいたと知人から聞きました。
ぶつけるところのない怒りが未だに渦巻いているフィリピンへ、元兵士の想いをビデオメッセージとして届けたい、いつしか私はそう思うようになっていました。ビデオ撮影のために元日本兵の方々に過去の体験を語って頂く中で、私たちは多くを学ぶことができます。
フィリピンと日本をむすぶビデオメッセージが少しでも人々の心をなぐさめ、平和が広がっていくことを願って活動しています。』

 歴史認識で常に声が聞こえてくるのは韓国・朝鮮と中国からだ。なおかつ、ひどいことをしたという事例は幾つも聞いたことがあるが、たしかにフィリピンのことは抜けている。考えてみると、大岡昇平などの小説を通じて、また「ロラ・マシーン」など従軍慰安婦の問題などで知らぬでもないが、よくは知らない。
 そこが、神直子さんの言うところだ「フィリピンで戦争中 何があったか」
 フィリピンの人は声高には叫ばない――「国民性」もあるという。「戦争なんか終わったこと、いいよ」と。 ところが、上映会のあと、どんなひどい目にあったかとワッとと出てくるという。ただ、もっとひどい目にあった人は(日本人のいるところには)出てこないとも。

 戦争体験を残す活動(取材)を精力的に進めていきたいという抱負を語られていた。それにしても、やはり取材は大変なご苦労があるようだ。取材の対象者は人づてに聞いたり名簿(戦友会の?)を辿ったりして探し当て、手紙を書いたり電話を掛けたりして連絡をとるらしい。訪ねあてていっても家族の反対にあったり、やはり話せなかったりすることもあるらしい。会話を終えて元兵士の老人がつぶやく「僕はまだ生きていていいのかな…」。

・今後、新しいプロジェクトを立ち上げていくらしい。中国、韓国、インドネシアなどと日本を結ぶ。戦争や社会を様々な側面から見るための勉強会(「寺子屋BFP」)や他国の歴史教科書から学ぶ「教科書プロジェクト」
・地域で元日本兵やフィリピンの方々のビデオメッセージの上映会を開催していく。
・カンパなど支援をしてほしい。
・パンフレットの配布をして、活動を広める手伝いをしてほしい。

 ~そんなメッセージが(パンフとともに)伝わりました。

2010年12月6日月曜日

「死んどるヒマはない―益永スミコ86歳」


 「さらば戦争!映画祭」(12月4日)は魔法瓶に熱いお茶を入れたのを持って行き朝から晩まで観た。右端の一番後ろにいらっしゃるご老人の顔を見て、チラシに載っている本日最後の映画の主人公、その人だとわかった。この人も朝からずっと観ていた。くたびれた様子はない。益永スミコさん、今年87歳。ドキュメンタリー映像の中でも、ご本人の質疑応答形式のトークでも、口調と内容は明晰である。プラカードを首から掛けて一人街頭宣伝をする。今日もその姿で登壇し「動くプラカード」だと紹介された。大分の出身であること、今は私と同じ市内に住んでいることがわかって驚いた。

 どうしてそんなに元気なのか、何故エネルギーが出てくるのかと問われて、「従わない」ことにしたという。生まれてきて、親に、地域に、国に、天皇に、夫に、職場に、こんどは子に従えという。それをやめた。従いっ放しでは世の中おかしくなる!「従わない」ということは刃向かうことで、ろくでもないと言われる。しかし、従わない生き方をすることにして自分の頭で考えることにした。

 映画は国会前の抗議行動の場面から始まる。前の教育基本法が自公政権によって葬り去られようとしていたあの2006年12月のことである。人間を謳い優れた人間観そしてそれこそ「美しい」法律だった。このころ私は人生のつらい時期で、なおかつこの教育基本法があの安倍政権によって葬り去られたことでよけい落ち込んだのでよく覚えている。そのときに、この小さな益永さんは体を張って頑張っていたのだ。同じ思いのひとがいる。このときは、大分からわざわざ上京してきて参加していた。

 戦前戦後、貧乏で今日の食うことしか考えていなかった。この人が生き方を変えたのは、ベトナム戦争とその後の自分の職場に労働組合をつくったことだった。47歳のときだ。ベトナム戦争の報道を見て「かわいそう」だと思った。なにかしたい、それでお坊さんが募っていたカンパを自分の働く病院の職場に広め、お金を送った。それを職場で咎められた。では、なんなのだろうということと、ほとんど無権利で働かされ、なおかつ「看護の間引き」というまともな医療がなされていないという主張から、なんとかならないかとオルグの支援も受けて女の仲間達で労働組合を立ち上げる。その闘いのなかから、社会的な仕組みにも目覚めていくという絵に描いたような闘士になっていく。女として助産婦として戦前は男達を戦場に送り出していた、そんな教育勅語で育ち「軍国少女」だったらしい。初めてまともに憲法を読んだのも1970年、着目したのは9条、武器もとらぬ、戦争はせんと世界に約束をしたんだから、その通りにせにゃいかん。

 益永さんは私の親の世代である。ベトナム戦争が人生の転機をつくった。私もベトナム戦争に教わったと考えている。あれをベトコンと呼びまるで人間扱いをせぬ政府や新聞やテレビのような当時の通念よりも、穴倉に身を潜め落とされる爆弾を避けている人々の側につくべきだということを学んだ。

DVD「死んどるヒマはない―益永スミコ86歳」 いま一番心配なのは憲法9条!より、
『益永スミコさんは、1923年大分で生まれた。教育勅語で育ち「軍国少女」だった彼女は、助産婦として病院に勤務していた当時、多くの兵士を戦地に送り だした。戦後は食べることに追われ、社会のことを考えるゆとりもなかったが、47歳で労働組合を作ってから、本当の歴史を学び、どのように生きるかを学 んだ。それは「二度と戦争をしない」を基本に、平和な社会、人間が人間らしく生きられる社会を目指すことだった。その後、アムネスティの活動から死刑囚 の母にもなる。人権擁護、死刑廃止、憲法9条を守る運動などに献身的にかかわる益永さんは、86歳の今もひとりで街頭に立ち人々に呼びかけている。』
(2010年5月制作・70分、4,500円、監督:松原明、佐々木有美 制作:ビデオプレス)

 映像には彼女がひとりで街頭宣伝、署名活動を行う場面がいくつも出てくる。マイクを使わぬ声はよくとおり、内容は明瞭だ。大分の緒方に住んでいた時代は定期券を買い日豊線を一時間かけて通い、大分駅前で、繁華街のトキハデパート前で、行う。2名分の署名がとれれば大成果だ。誰も聞いていないようにみえる。私ももし、その場を通りかかったら変なおばあちゃんとひいてしまうかもしれない。いつもやっていることで、しかも堂々としているから、そういう度胸の座った人なのだと思ってしまうが、監督の佐々木有美さんによると街頭宣伝は実はすごく緊張しているのだという。お昼に買ったお弁当が胃の緊張で受け付けないときがあるという。右翼のひとも声を掛けてくれる。戦争に行った人も声をかけてくれる。立場も名前も住所も明かしてはくれぬが、戦争で体験したことをぼそぼそと教えてくれるそうだ。それを益永さんはあとでメモをして記録している。本当のことは家族にも語れない、かといって何かにも残せない。街頭で教育勅語のいう通り男達を戦場に送り出した経験と、憲法9条を守れと一人で訴える同年代の益永さんにまるで「言葉を託す」ようだ。声を掛けてくれる人は思いやりもかけてくれるそうだ。

 この人は日本社会があいまいにしてきた天皇制、戦争責任に真正面から立ち向かうと、佐々木監督は紹介する。だから、一見「変人」のように見える。しかし歴史的にも、国際的にも「変な」のは今居る私たちの社会の方だと考える。

 どうしてそんな勇気があるのですか、という問いに、気の向くままやっているのが一番あっているのではと。言いたい放題のことを言って、聞いてくれる人がいる。いつも街角でやって聞いてくれる人はいないが、今日は会場でたくさん聞いてくれる人がいてありがたいと結んだ。

2010年12月4日土曜日

レイバーフェスタ2010


 このような催しが東京でありますので、そのまま紹介します。

 2008年9月のリーマンショックから激動を続ける世界と日本。政権交代もあったが、社会の閉塞感と生きづらさが相変わらず。はたらくものの雇用と生活はいっこうに改善のきざしはありません。そんななか、今年もはたらくもののお祭り「レイバーフェスタ」を開催します。今年は「韓国強制併合百年」の年、そこでサブテーマを「百年の歌がはじけて垣根超え」としました。浪速の巨人・趙博さんが「百年」を歌い上げ、日韓労働者の熱い連帯を描いた映画「海を越えた初恋—1989スミダの記憶」を上映します。そして、おなじみの参加型企画「3分ビデオ」「レイバーソングをつくろう・歌おう」「ワーキングプア川柳」など豪華メニュー。「労働問題なんか関係ない」と思っているあなたも、心に響く作品や歌声に触れることで、新しい何かが始まるかもしれません。閉塞状況を打破するのは、私たち市民やはたらくものの「運動」と「文化」です。さあ、12月23日は東京しごとセンターで、つくろう! 変えよう! 楽しもう!http://laborfesta.exblog.jp/

12月23日(休)10.30〜20.30

●午前の部 たたかう世界の労働者
10:00 開場
10:30 トルコの労働映画「抵抗者」(50分)上映
     解説=イナン・オネル
11:30 朗読 浅田次郎作「ラブレター」
     よみ手=白銀由布子

 休憩60分(12時〜13時)

●午後の部 つくろう!わたしたちの文化を

13:00 演劇「母さんが教えてくれなかった八月」(企画・制作「憲法寄席」創作集団)
13:40 レイバーソングをつくろう・歌おう
    (宮下公園文化パフォーマンスもあり)
15:00 3分ビデオ 25本一挙上映
16:50 Go Go ワーキングプア川柳 ゲスト=尾藤一泉
17:20 休憩(40分)
●夜の部  百年の歌がはじけて垣根超え

18:00 趙博ライブ「百年を歌う」
18:35 映画「海を越えた初恋—1989スミダの記憶」上映
    パク・ジョンスク監督のトークと歌
20:30 閉会挨拶(終了後、懇親会あり)

*ロビー企画「壱花花の風刺漫画展」「レイバー報道写真展」ほか

さらば戦争!映画祭 2010


 昨日は変な天気で、今日は一転してよい天気でした。今日は二人で映画を観に東京まで行きました。よい天気でしたから、練馬の高架を通っているあたりから筑波山が遠望できましたね。丸の内線の後楽園で降りて、水道橋の在日本韓国YMCAの会場へ向かいました。昨年は姪っ子の家に招待された日と重なり行くことが出来ませんでした。今年は楽しみにしていました。朝から晩まで、映画やドキュメンタリー三昧です。なんというか、いい映画や考えさせられる映画はとにかくおもしろい。それと、同じ思いを持った人たちがいるのだなと自分らを元気付けてくれます。ず~っと涙腺が緩まずにはおれませんでした。

「第6回 さらば戦争!映画祭 2010」~人間がはじめたものは、人間がやめればいい~
■日時:2010年12月4日(土) 10時開演 20時閉会
■場所:在日本韓国YMCA 9階 国際ホール
■上映作品 
『夕凪の街 桜の国』:佐々部清(2007/日本/118分)
『太陽をなくした日』:前田 稔(2002/日本/20分)
『クロッシング』:キム・テギュン(2008/韓国/120分)
『ロラたちに正義を(予告編)』:竹見智恵子(2010/日本/20分)
『Bridge For Peace~フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ』:神直子 (2009/日本/33分)
『死んどるヒマはない-益永スミコ86歳』:松原明、佐々木有美(2010/日本/70分

 もっと事前にこのブログでも宣伝をすればよかったと反省していますが、率直に言って「入り」が少なかったというふうに感じています。また、私たちがそうですが年配者が多く、若い人たちが少なかったように思います。以前はそうではなかったと記憶していますが。ほとんど若い人たちが中心になって実行委員会形式で運営されていますが、相当の赤字と負担が出るのではないかなと心配されます。今後とも存続することを期待します。

2010年12月3日金曜日

併合100年 Ⅱ


 併合とは言うが、日本が韓国を併呑して今年は100年の節目にあたる。植民地支配である。この100年を韓国・朝鮮の人の立場からみると、被植民地支配35年、祖国分断65年の歴史であり安穏な100年ではない。100年もの間、民族としては不正常な状態にある。その間に、植民地時代における土地収奪、強制連行、従軍慰安婦、解放後の同族殺しあう朝鮮戦争、南の軍事独裁による蛮行を経験し、北には金世襲支配が続く。

 祖国を離れた人々で日本・中国・ロシア・アメリカなどに在住しているコリアンは現在500万人を超えると言われている。

 姜尚中さんの著書は氏の幅広い教養のせいか引用が多く難解な印象をもっていた。『在日』(姜講談社2004年)を読み終わった。自伝的著書ということもあって平易には読める。
 「在日」というのは特異な言葉であって、我が社会では永住権を持つ韓国・朝鮮籍の人々のことを一般的には言うのだろう。決して肯定的なニュアンスではないと考えるが、当事者のひとりである姜さんの自分自身の軌跡からの「在日」の語り方だ。彼なりの(くどい言い回しに感じるのだが)、この社会と東北アジア、歴史とグローバルを語る。うまくは言えないが姜さんには熊本人の気質も感じる。そして、姜さんにはバッシングも多い。

 朝鮮戦争は終結したのではなく、53年以降の停戦状態であって、戦時態勢は解かれていない。米朝、日朝の間には国交もない。しかしながら、この間、南北国連同時加盟(1991年)、南北首脳会談(金大中・金正日/2000年6月)、日朝首脳会談(小泉首相・金正日/2002年9月)も行われ、さらには6カ国協議(2003年~)も積み重ねられてきた。

 11月23日に北朝鮮が韓国に向かって砲撃をした。翌朝のワイドショーはたちまちに反北朝鮮的内容、日米安保軍事同盟の強化の内容に彩られた。「世論」が煽動され、街頭インタビューはそう編集される。古い話だが私は毛沢東による金門島砲撃(1958年)を連想した。巷間言われるように独裁者の子と孫による政治的意図があるようには解釈する。北朝鮮の蛮行であり、擁護の余地はない。少なくとも日本政府には経緯の事実の確認は必要だと考えられる。黄海における原子力空母を含む米韓合同軍事演習は、北朝鮮の立場からみたら玄関先で出刃包丁を振り回され威嚇されているようなものだ。中国もそう思っているだろう。

2010年12月2日木曜日

併合100年Ⅰ


 故郷にある暮川(くれかわ)は、南北に続く商店街の北の端にあった。暮川はごく小さな川なのにしょっちゅう氾濫した。佳山さんは背の高い女の子で小学のときの同級生だった。笑窪のかわいい子だったが、気の強い子でいつも参った。今から思えば、あの辛淑玉(シン・スゴ)さんに少し似ている。佳山さんの家は暮橋を渡った国道沿いに面していて商店を営んでいた。まだ両隣などがなく、ポツンと建っていて廃品回収業を生業(なりわい)としていて当時羽振りがよかったように記憶している。いつか母があそこは「チョーセンジン」だと言ったのを覚えている。

2010年11月29日月曜日

はたらきアリさん


 片道1時間半の通勤はいつしか苦でもなくなった。本も読めるし、座れれば居眠りもできる。しかし、トラブルによってダイヤが乱れるとつらい。数日続いて起こる。過密なダイヤを安全にしかも大量の輸送に従事する人々のご苦労はいかばかりかとも思う。

 何かこの巨大な都市生活の中にいることの不思議さを感じる。そしてどっぷりと浸かりこんでいる。諦念と慣れの成せる業なのだろうか。

 アリさんとアリさんがごっつんこするような人込みを難なく歩行でき、絶妙なタッチで時刻掲示板を見上げたまま人の顔も見ず瞬時に改札を通り抜けることができる。訓練された犬のように整列に並び、解き放たれた猛獣のように席をとる。席取りゲームに負けても人生の転落ではないから、何事もなかったかのように揺られながら一路、朝は職場、夜は我が家をめざす。すべてを黙々とこなしている。いくら羽目をはずして酩酊していても二、三度の乗り換えを難なくこなす帰巣本能をも身につけている。都心で放り出されても、ひとたび真夜中であることを認識すれば、迷わずタクシーに乗車し我が家に向かい命の危険から逃れる。もう若くはない。後部座席で寝込んだところを起されても、我が家への道案内を正確に示すことができる。万札が飛ぼうとも、悔いても詮無きことと考えることができる。

 そうやって初老を迎えた私が、望む田舎暮らしをできるだろうかという疑問にとらわれている…。

2010年11月28日日曜日

紅葉の小江戸


 「私は東京の丸の内でパンプスを履いて働きたかったのよ」ということを初めて聞いた。
 下の姉は高校を出て東京の企業に就職した。母校からは初めての就職先であったらしく、同じ高校からは三人がその企業に勤めパイオニアとなり、その後、後輩たちが続いたらしい。姉が言うには、そこは東京の郊外でまだ都市化が進んでおらず町育ちの姉にはとても不便なところであったらしい。聞けば、ゲゲゲの女房が結婚して「東京」に出てきた状況とまるで同じだ。専門力のあるその企業は今その業界では世界的企業になっている。そこのOBの同窓会があったといって上京し帰りに我が家に泊まっていった。かれこれ40年ぶりだったらしい。その興奮もあってか、もともとおしゃべりだったのかよく話した。何かこう久しぶりに実家に帰ったときの、長い一人暮らしの母親のよくしゃべる様子に似ているなと連想した。やはり母に似てきた。東京では三畳一間の共同流し共同便所のアパート暮らしで家賃3000円。すぐ横を電車が通りよく揺れるようなところだったらしい。製造工場で朝が早いという薄弱な理由でそこを辞め、執念で「丸の内」の職場を見つけたらしい。そうしているうちに、若者同志で企業を立ち上げるというので粋に感じそれに参画しそこで義兄に出遭ったという。高校のときは演劇部にいて、何かそういうこともしたかったらしくその方向も追い求めたがかなわなかった。10歳近くも離れた姉のことで知っているようで知らない。両親は上級の教育を受けさせたかったらしく、毎夜説得していたが、姉はとにかく東京に早く行きたかったのだろうか泣いて抵抗して、結局親が折れた。あのころの断片的な記憶がずっと頭の中にある。姉がいなくなって、兄姉が使った代々の勉強机とたたみ1畳ぐらいの「勉強部屋」を占有できるようになったときの、うれしいような寂しいような春のことを覚えている。

 我が家の今が盛りの紅葉とつれあいの手料理を堪能してもらい、今日は日柄もよく、小江戸見物と洒落込み、長男に紹介してもらったお店の懐石を三人で楽しんだ。私の姉だけあって歩くことを苦にしない。本日の歩数12,877歩。

 沖縄知事選では、伊波洋一さんは及ばなかった。日米安保条約を平和友好条約に転換させるという機会はひとたび足踏みすることになる。伊波さんは有徳の人材だ、幅広い支持層とともに淡々とこのことの追究を続けることだろう。勝てなくとも負けることはない。北朝鮮の無法な砲撃と原子力空母ジョージ・ワシントンが黄海に出動する事態は北朝鮮にも沖縄にも軍事的意味合いからの影響を及ぼした結果になった。

 NHKBS1では明日23:00からシリーズ「ベトナム戦争」が始まる。

2010年11月26日金曜日

ネオポリス国家志向


国家を牛耳る政府が「都市国家群」をめざそうとしているのではないかとさえ考えられます。そういう潜在意識があるのではないかと感じています。

それは、後期自民党、都市信心層に依存する宗教政党、そして政権交代を目的化してそれを果たした民主党にみられる本質或いは通底のものとみています。

捨象して言えば「田舎生活を捨てる、都市生活でよい」という流れの終着点です。

便利な生活、人工的快適さ、それでよいという国家の方向へどんどん突き進んでいるような気がします。

人口の圧倒的多数も都市生活者ですから、これを支えてもいます。

そこにスパーンと抜けているのが、人間および自然観です。いや、むしろ「神に選ばれた人間」、「自然から超然とした人間」という観念にとらわれているのではないかと考えられます。今がよければいい、人間はなんでもできる、と。

現状の成り行きは2つの危機と無責任に通じています。

 ひとつは、対外成り行き任せのTPP安請け合いの方針。農漁民が圧倒的に少ないという数字勘定だけで追い込まれた末の「判断」とみえます。これは間違いなく農業の破壊と国土荒廃を招きます。食の崩壊を促進します。格差の助長につながると直感しています。

 ふたつめは、普天間基地撤去と辺野古移転案への対応です。都市国家からみればあいかわらずの辺境のどっかそこらに軍事基地があればよいということで、都市本土に住む私たちはもののみごとに、今その関心を削がれています。沖縄の進路を決める県知事選挙が今闘われています。争点が隠されていますが、実は私たち自身にも降りかかってくることです。真正面から取り組みずっこけてしまった鳩山さんが辞めてから、菅さんもメディアも事実上知らぬふりですが、いつにも増して重要な選択と考えます。

2010年11月25日木曜日

ブラボー


 クミコさんが紅白に初出場することが決まった。昨日のNHKのニュース(自己の番組宣伝だ)でとりあげられていたけれど、彼女にはスポットがあてられなかった。若い出場者が多い中で、彼女だけが我々とほぼ同数のシワを顔に有していた。

 例にもれず、実力はあるがプロとして泣かず飛ばずの歌手生活をおくってきたらしい。シャンソン歌手であるから、銀座のお店に出演したら聴き手はたった一人だったという夜も経験したらしい。離婚のことすら明るくトークのネタにしていた。別れた亭主の苗字を捨てたと、それがただの「クミコ」の所以であると。ついこの間、紅白のことはかなわぬ夢のように冗談めいてとりあげていたが伏線だったのだろうか。

 「INORI~祈り」の出遭いのためだろう。これが幅広く共感を呼んだ。

 だけれども、彼女にはほぼ同年代かそれ以上の厚い主婦層のファンがいる。このファンの心をつかんで離さない人柄がある。

 私は俄かファンだが、あなたの歌とメッセージがどれほど多くの普通の人を照らし出してくれたことか!「ありがとう♪」(いきものがかり)だ。同世代のクミコさん、目尻のカラスの足跡はうちのつれあいと同じくらい美しい年輪さ、へぇい!おめでとう!

あら!?


 ブログもつくれず昨夜は倒れるように寝てしまった。どうも、睡眠時間が足りない。朝早く起きるからだ。

 久しぶりに書店で立ち読みをしていたら見つけた。「ちょっと前の日本の暮らし」が中川誼美さんからいつも出てくるスローガンみたいなフレーズだが、そのままの題名の本を中公新書ウクレで出版していた(『ちょっと前の日本の暮らし』2010年11月10日、777円)。彼女は築地本願寺「安穏朝市」(ちょっと前の日本にどこにでもあった「売る人」と「買う人」のやりとり)の提唱者で運営委員会メンバーでもある。「食」のネットワークと実行力は半端ではない。

以下はご本人のウエブからコピーしてお借りしたものです。 本の画像も。
 「ちょっと前の日本には、思い出すときりがないほど、現在にはない人々の暮らしの姿があり、懐かしいと思うだけでなく、何故なくなってしまったのかと考えずにはいられません。(中略)過去は良かった、と思い出だけに頼るわけにはいきません。ちょっと、ほんのちょっと前に日本に当たり前にあったさまざまな光景を、もう一度見直して、「今」の暮らしの中に取り入れる。それによって、温かい暮らしを取り戻したい。そう願って、私の思いを文章にいたしました。 (「はじめに」より)」

2010年11月23日火曜日

天空の一本道


 ビルの中から東の空が広く虹色がかっているのが見える。昼休みに外を歩けば明るい陽射しが刺すのに空からはいくらでも雨粒が落ちてくる。どうやら狐が嫁入りしている最中のようだが、見あげれば休日の東京の街を勢いよく行き交っているのはカラスだけだ。

 ひたむきに生きる人たちのことを知る。

 あらためて、私には何ができるのだろうと考えた。

 この夏、蝉が我が家で脱皮していたのだ。

2010年11月22日月曜日

マオ下巻


 どうしても読み進めなくなるところがある。それは、劉少奇氏がマオさんの指しがねでむごたらしく迫害を受けるあの一連の「文化大革命」と称する狡猾な復讐劇を綴ったページだ。劉さんはそれまでの人生でなんどもマオさんには屈したらしい、それでも最後には屈しなかったという。同じく迫害を受けた妻の王光美氏の支えもあった。もちろん作者の描き方によってどうにでも変わる。しかし、どうやら事実のようだ。

 周恩来氏の立ち回り。「銃口から権力が生まれる」という激しい暴力と恐怖と屈従。そして必ず出てくるお追従。洗脳のように入ってきた「走資派」批判キャンペーン。当時、あの個人崇拝への肌で感じた嫌悪、噴飯ものの作り話や落とし穴を嗅ぎとっていたつもりだが、それでもわからなかった。人がたくさん傷つき死んだ、同時代にあったあの事実。

2010年11月21日日曜日

賛歌


 本州一寒いところと聞いていたので、季節柄どれほどかと着込んで行ったが、好天で拍子抜けするほど穏やかな日和に恵まれた。

 私のような九州育ちには東北の人の話はもごもごとこもるように聞こえる。まして、小さな声であればなおさらよく聞き取れない。しまった、カメラを忘れた。

 しかしながら、いやぁ、いい話を聞いた。ずいぶん以前に案内をいただいていたので何のテーマだったか忘れていた。「山仕事賛歌」という発表会。

 九州でも2番目に大きい川の下流域に育ったので、音を立てて流れるような上流域の山間部、中山間部の暮らしを経験的に知らない。

 農業や山仕事を楽しくやっていきたいとの来賓あいさつに続いて、茨城県北部奥久慈から来られた「山方漆ソサエティ」の神長さん(1月に訪問して私もお会いしていた)、福島県西部の奥会津から来られた菅家(かんけ)さんの「三島町生活工芸運動のあゆみ」と題したお話、岩手県北部軽米町から来られた兼田さんの「山仕事を中心とした地域おこし(木炭)」と題したお話が続いた。みなさん人前で話すのは初めてとかおっしゃっていたが、内容は濃いもの。3地域とも7割から8割は森林という山間地そして高齢者がほとんど。そこで、それぞれ、「漆の里」づくり・地域づくり(地域の宝の再発見、交流)、昔から伝わってきた山からの資源を使っての生活工芸品づくり・楽しみながら生活のための道具を自由につくり地元に人を呼ぶ高齢者による地域活性化、硬くて火力があって火持ちのいい炭という軽米の木炭の需要の掘り起こしや普及をして里山を守っていこうという「軽米町白煙会」の活動などをうかがった。
 最後に主催地の「藪川開拓の歴史と今」と題しての佐藤さんの、戦後の開拓入植からのお話をうかがった。岩手県藪川というところは盛岡から車で1時間ほど行った中山間地である。三澤さんは藪川で20年になるそうだ。「イーハトーブ農場」を経営している。その三澤さんから佐藤さんの話に先立ち、入植して、こどもをつくり、教育をして、この村をつくり今日に至った佐藤さんの話を後世に伝えようと考えたという趣旨のことを紹介された。

 「日本の中山間地の地域の価値を高めて行くには、今どのような、技が残り、地域・人としての活動がされているのか」お願いしたと資料の「はじめに」にある。帰りの車の中で、あれは増田さんの人柄だよね、こんなところまで皆さん話にきてくれたの、と三澤さんが言う。みんなそうだよねと納得。私も二日と車の酔いに沈み込んでうなずくだけだったけども。

 菅家さんが紹介した「三島町生活工芸憲章」。
一 家族や隣人が車座を組んで
二 身近な材料を用い
三 祖父の代から伝わる技術を生かして
四 生活の用から生まれる
五 いつわりのない本当のもの
六 みんなの生活の中で使えるものを
七 生きる喜びの表現として
八 真心こめてつくる
九 それを生活の中で活用し
十 みずからの手で生活空間を構成する

 大切な人のためにつくったモノのことだ。
 実際にマタタビザル、ヤマブドウ細工、ヒロロ細工を見せてもらった。マタタビって、ヤマブドウって、ヒロロって、そして山のことについてもっと詳しく夕食会が終わったあとも私たちの部屋でお話されたそうだが、うかつにも先に布団も敷かずに私は寝てしまっていたらしい…。

2010年11月19日金曜日

沖縄の知事選挙


 行き詰まっている、どころか弛緩とアメリカの成り行きに相乗りの政権運営の観がある。

 劣化した自民党からまるで細胞分裂をするように年月を経てできてきた民主党は、結局は権力を引き継いだだけだ。先天的なDNAで繋がり、後天的に都市型消費型の乾いた形質をもつ。国民が「構造改革」路線で痛めつけられ、自公政権から政権獲得を託されたにもかかわらず、前政権の失政を是正していない。それどころか、継承しているようにも見える。後期高齢者医療制度、障害者自立支援法、労働者派遣法など解決の糸口すら見えない。そして、普天間基地撤去にしてもしかり、沖縄のひとびとの期待・依託を裏切った。TPPなどかつての自民党ならもっと後ろめたくやりそうなものを、あっけらかんと取り組みを表明している。農業を切り捨てることに、口とは裏腹にためらいはないようだ。昔、政権についた社会党のように国民から見放され、三たび自民党の系譜に政権が奪われるのではないかと考えられる。民主党が見放されるのは勝手だが、置き土産がひどいものだと考えられる。結局は、民主・自民とみえない糸でつながっていた大連立的なやりたい放題だったということになりかねない。

 そういう意味では民主党が独自候補もどっちにつくこともできなかった沖縄知事選挙の構図はこれからの日本の針路を占うことになる。アメリカ海兵隊基地の「辺野古移転問題」という当事者の名護市長の稲嶺さんはぶれていない。海兵隊基地の県外移設とくにグアム移設を求める県知事候補の伊波さんははっきりしている。現職候補の仲井真さんは普天間基地の県外移設を言い、謂わば争点をぼやかす抱きつき戦術をとっている。このことを大手メディアは「違いがない」などと言っているが、はっきりしている。政党の構図をみても、明確だ。共産、社民、社会大衆、そうぞう、国民新、新党日本VS自民、公明、みんな。民主がいなくてむしろすっきりした対決だ。

 地元の琉球新報によると「序盤情勢は、無所属現職の仲井真弘多氏(71)が一歩先行し、無所属新人で前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)が追い上げる展開」となっているそうだ。

 伊波さんが勝てば、間違いなく日本の歴史を動かす糸口になる。軍事同盟、軍事対決、基地負担をなくす方策をさぐることの方が道筋だから。

2010年11月18日木曜日

ささやかな決心


 高校を出るまでは午後の9時を過ぎれば飲み食いをする習慣がなく、食べられなかった。胃が受け付けなかった。そんな体質だったのに、それが親元を離れてから崩れた。無茶な飲み食いをするようになった。しかも、食べたいだけ食べるという風になって、抑制が効かなくなった。就職してからは、帰宅が遅くなって不規則になり、夜の9時10時に食べるということもざらになった。昔は9時が過ぎたら食べられなかったのに、という意識がいつも頭の片隅にあった。だから、ふと、これを思い出した。夜の9時を過ぎたら飲み食いすまい、と。つれあいにも宣言した。夕食が9時を過ぎるようだったら、抜く。夜のティタイムも9時まで、以降はしない、と。そして、実践して3日目。見も心も消化器も夜には休みが必要だ。だから、9時を過ぎたら食べない、飲まない。

2010年11月17日水曜日

安心して食べられなくなること


 父は晩年胃を全部切り取っていたのでスタミナがなかった。栄養補給といってミルクキャラメルをいつも愛用していた。煙草も酒も嗜なまず、子どもの私からすればいい大人がそんなものをしゃぶっているのがおかしかった。というよりそのキャラメルが欲しかった。そんな訳で、文字通り親の敵のように私はキャラメルが好物だ。あと、餅と柿。

 本日、右上の奥歯もさんざんに削られた。左上の奥歯と併せて惨めになった。好物のせい、歳のせい、歯が破損していくのはつらいものだ。おせんにキャラメル、餅に柿、思いのままに食べられなくなるのはうらめしい…。歯は元には戻らない。

 と、そんな些細な問題どころではないぞ、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)。これは、えらいことだ。これほど安直で軽薄な選択と、ごく近い将来の深刻な打撃が想定される「政策」はない。国内の農業漁業という多面的な機能を売り渡す「政策」にほかならない。結局はアメリカの主導と輸出企業への政策だ。お金で済ます無機的な都市機能と景観だけが残り、水と緑と野山の田舎が加速度的に破壊される。そしてそれは必ず都市にはね返る。

 身近な食べ物、国産の農水産物、食べ物にまつわる文化も、田舎の景観も機能も、みんな打撃的になくなっていく可能性。すでに農業者が声をあげているが、よ~く考えてみたら消費者こそ他人事ではない。安心して食べられなくなることひとつとっても、とりかえしのつかない「喪失」と考える。今以上に格差も貧困も恐らく広がるだろう。

2010年11月16日火曜日

飯盛山


 薩長に攻められて少年隊士が自刃したのが白虎隊で有名な飯盛山(いいもりやま/会津)。今日登った山、こちらは「めしもりやま」と読む。ほとんど山梨県に近い長野県南佐久郡南牧村の標高1,643mの山。どちらも、ご飯を盛ったような山だからということらしい。全国にこの名の山はあるようだが、「めしもりやま」と読むのは珍しい。

 登山口の辺りの野辺山駅(JR小海線)は標高1,375mでJR鉄道最高地点。そしてこの辺りが分水嶺のひとつ。一方は千曲川に注ぎ千曲川は信濃川となって日本海に流れる、また一方はやがて太平洋に流れる(どの川だろう?笛吹川-富士川)。いずれにしても、ここだったんだ。

 リーダーで案内役の上原さんは短い歩幅でスタスタと歩く健脚だ。出発のあいさつで、「追いつこうと頑張らない、前に追いつくより後ろの人を置いていかない、お互い援け合い励ましあっていきましょう」と述べる。これって、今の世の中に言いたいフレーズだなぁと感心しつつ、装備を点検する。結局、たいした困難もなくハイキングの類ではあったけれども、山を愛する人柄のいい方だった。

 天気に恵まれた。周囲の山の近辺の雲を除けば、見上げる限りでは雲ひとつ見られなかった。この冬一番の寒さとのことで、道は霜柱、仰げばところどころ樹氷。あまり風もなく、寒さをそれほど体感しなかった。南アルプス、目の前には八ヶ岳、遠く浅間山、南には連なる山と雲の上に富士山、なるほど宣伝文句の通り360度のパノラマ。南牧村の方向を見下ろせば、なるほど村長さんが高原野菜と牧畜、農業で生きている村だと胸を張った景観が見渡せる。帰りには地元の野菜を少し買って帰った。

 歩いた歩数は17,148歩。

2010年11月15日月曜日

柿食えば


 天気予報の通り午後から雨が降った。冷え込む。明日は晴れるらしいが、師走並みの冷え込みとの予想。リュックの用意もできた。靴の点検も済んだ。足元が滑るのが一番苦手だ。目先の緻密さばかりで、職場はつまらない方向に進んでいく、自らの潮時を考える。明日は少し山に登る、久しぶりのトレッキング。朝は早いもう寝る。右腕、肩が痛む。放流時。

2010年11月14日日曜日

ご招待


 花を飾ればなにか心が豊かになった気がする。ただ、買えば高いのであまりしたことがない。

 果物を盛ればなかなか洒落た気になる、新潟のおけさ柿そして青森の林檎。
食器を凝って二人で相談して決めた。料理の盛り付けは妻殿任せ。
間接照明にして、とっておきの蝋燭を灯す。茶の葉を焙る。
ホットカーペットで足元を暖める。

 昨日、故郷のM君から初めて手紙が届いた。高校の同窓会の幹事になったらしい。人柄のいい友人だったことを思い出す、それが文面に漂う。高校のPTAの会長もしていたらしい。現住所の確認と他の人の住所を知っていたら知らせてほしいと卒業時のクラス全員の現住所の一覧表が同封してあった。個人情報がどうのというご時勢に、あっけらかんと名簿になっている。一瞬違和感があったが、級友が今どこにいるかということがわかった。1クラス51人もいたのだ。県立の進学校で成績順にクラスは編成されていた。同窓会には大学のときに出たっきりでご無沙汰している。進学一辺倒の高校時代だったので名前に覚えはあっても、個々の級友のことをよく覚えていない。そもそも誰が同じクラスだったのか、この名簿を見るまでよく覚えていなかった。同じ学年であった他のクラスの友人のことを混同していた。多くの女子は苗字が変わっていた。個々の一瞬の表情かしぐさが印象にある人の名前は思い出せた。還暦あたりになったら、みな集まるのだろうな。高校までは地縁だから、離れていても回帰志向というのか懐かしくもなるものだ。

 今朝、熊本のT君からお礼の電話。母のお悔やみをいただいていてついお返しが遅くなっていたものをようやく送っていたから。彼は理科系進学だったので3年生のときのクラスは違ったのだった、昨日の名簿でわかった。あれこれ身体を壊しているようだが、聞けばお子さんがいまちょうど大学生あたり。お金がかかるときだ。

 今日は長男のお嫁さんの両親と長男夫婦を招いて、妻殿の手作りの料理でご接待。あちらは我々よりもひとまわり上の年代。聞けば現役時代は猛烈社員だったようだ。今は悠々自適。ご夫婦それぞれの興味あるところを別々に楽しんでいらっしゃるご様子。それが、よく聞くパターンのようで、我が家のようにいつもほとんど何でも一緒にやろうと志向するのは少数派なのかな。そうでもなくなっているとは思うが。

 お向かいの御隠居さんから自分の畑で育てたというお花をたくさんいただいた。ありがたい。

 二男のところに届けものを持っていけば、ソータローはぐっすり睡眠中。こんどは、あちらのお母さんが12月初めに来られるそうだ。

2010年11月12日金曜日

病老死


 モニター画面でこうなってましたよと、金属の被せをとった奥歯を見せられる。なるほど、真っ黒だ。30分ほどウィーンと削られた。神経(歯髄)はとうの昔にとられていたので、治療中も痛くはないのだがのけぞる。その神経がなくなっていたのがよくなかった。歯の痛みは耐えられないものだが、ここまで虫歯が進んでいることを気付かなかった。この様子をつれあいに話ながら、ふと思った。癌の病巣もひょっとしたらああなのではないかと。

 腕が上がらないわけではないけれど、肩にこれまで以上の凝りと痛みがあって、肩がうまくまわせない。布団に入って掛け布団を上に持ち上げるのもままならない。コタツに入って立ち上がるのにも手をつけば痛みが走る、やや不自由だ。

 人間は平等なのだと住井すゑさんは言う。
何故ならばと。何故ならば、どんなに権威を持っていようとも、どれほど権勢を誇っていようとも、いかに権力を振り回していようとも、いずれ人は老い、病み、死に至る。誰も避けられない。だから人は平等なのである、と。人は生まれながらにして、畏き人、卑しき人なんていないんだと。明快である。

 古代中国の皇帝も不老不死の薬を求めて蓬莱の島へ使者を使わしたらしい。過剰な権力欲と性欲の実践者だったマオさんも、身辺警護と健康管理には小心な関心を払っていたらしい。幾多の人々を死に至らしめた現代の皇帝も病老死には勝てなかった。お隣の“国防部長”さんもそういうことで、ようやく三代目を指名したということなのだろう。

 人は何故生まれてきたのか、人はどうして病と老いと死から免れないのか、こういうことをお釈迦様は考えたらしい。詮無きことと思わないでもないが。「縁起」「無常」すべてのものはつながっている、関係している。変わらぬものはない。執着を捨てよと、それで救われると。

 老人ホームに居た母が、介護士さんに声をかける。認知症であることはみな知っている。ところが、落ち込んでいるときに何気なく声をかけてくれる母に、元気をもらったと、その男の介護士さんは通夜のときに語ってくれた。あの状態なのだなと、「悟り」とは、「アーナンダ」と思った。

 人に身分の格差や差別はない。

2010年11月11日木曜日

いつもの反省


 ううん!?と気付いたら見知らぬところ。駅の構内ではあるようだが、わからない。どうも、寝過ごしたらしいということがわかるのに時間がかかった。駅員さんに起こされたのだろうか。もうみんな降車して、改札階へ上がっていくところだ。乗り過ごしたのなら上りの電車に乗ればいいととっさに思い、ホームをみるがそれらしきものがない。なんで?そもそもここはどこだ。駅の照明が消えていく。あわててエレベーターを上り改札階へ行く、あきらめきれずに帰りの電車はないのかと訊ねると「終わりました」とそっけない。その代わり、「そっちではなくて右の方」だと、タクシー乗り場を教えてくれる。げっ、ここは終着駅ではないか。こちらの終着駅まで乗り越したのは初めてだ。さっさとタクシーに乗る、そういえば並んでいなかったな。酔ってはいるが気は確かだ。なんて我が家は遠いのだろう。行く道は運転したことがあったので、的確に行き先を案内するのだが無愛想な運転手さんで一言も口をきいてくれなかったな。あちらの終着駅で目が覚めたことはあったが、なんとこちらは初めてだったなどと、むなしい感激なんぞをして、大枚を払い最寄り駅の駐輪場まで送ってもらった。降りた途端に酔いがまわり、こみあげてくるものがある。トキ(りんごの新種)を食べましょうなんて明け方洒落ていたら、その夜トキに飲まれてしまった。うかつだった。久しぶりだったので、うれしかったのだけど。確かに最後の店では水みたいに飲んだ。振り返ってみればそういうことだ、分相応の飲み方ができない、この状態でいつも失敗している。こんな日記書かねばいいのにと思うが、書いて懺悔。同居人にたたみかけられる。もう二度とお酒は飲みません、しばらくは。

2010年11月9日火曜日

ひとには言えて、私にはできないこと

お礼のメールが来ていた。

①非常識で無神経な人間との付き合いができない。②人をうまく操れない。簡単に言うとそういう2つの悩みに聞こえます。普通、誰だって悩みます、当たり前のこと。気を楽に。①その人の言いたい事って何だろうと受けとめ復唱しできれば共鳴してあげる(相手を認めること、言い分ではない)、カリカリをやり過ごすこと。いちいち反発していたら、解決はありません。身ももちません。②とにかく人にやらせてみること。プロセスが自分にはないものが見えてきます。なるようになる、これでいく。結果を把握すればいい。褒め上手、振り方上手になること。

そう、助言して返した…。

きっと、うちのつれあいに表題のように言われる、しかもきつく。目に見えている(汗)。

他人を認めることのできる自分に変わっていくこと(成長かな)。できないなぁ。

2010年11月7日日曜日

二日間


 てっちゃんは上の姉の子で、だから甥っ子。小さいときから『科学』(雑誌)が好きで、長じて技術者になった。そしていろいろなマニアだ。例えば車のことも。うちの二男にもいろいろ助言をしてくれて、それで秋葉原に寄ったあとこちらにきた。実に久しぶりだったので、我が家の息子夫婦や娘も集まり夕食の鍋を囲んだ。話好きでその話がまたマニアックでおもしろい。

 上の姉の長女は私の通う私鉄の同じ沿線に住まいしている。てっちゃんの妹だ。今朝その姉から電話があって、娘の家に来ているから我が家に寄りたいと。それで姉と長女とその娘のミカちゃんと一緒に昼間に訪ねて来てくれた。久しぶりなのに、2日続けて重なるものだと苦笑する。急なことだったので、慌てて買い物に行き、今日も昼間から鍋にした。姉の長女は勉強が好きで、学業優秀だった。それで団塊ジュニアで就職氷河期の世代ながら、大手企業の総合職で出産後も頑張っている。立場は管理職の末端にあって悩みもストレスも抱えこんでいるようだ。一時期、肺炎を起こして即入院という事態もあったようだ。ミカちゃんは、前に来たときはまだハイハイをしていたが、2歳半になってすっかりおしゃべりができて、自分で靴下も履ける。ブランコの高いのも平気だ。ブランコを漕がせながら、仕事のことなどの話を聞く。私は「(ヒトのことを)受け止める」「やりすごす(技術)」「頑張らない」を説く。

 てっちゃんは40になった。まだシングルで今は母親と同居している。外出するのにいちいち行き先までは言わない。それで、姉は前夜てっちゃんが我が家に来たことは知らなかったらしい。

 2歳半のミカちゃんと生後3ヵ月のソータローとご対面した。新しい命、若い息子たち、中年に近づきつつある甥、姪っこ。ロッテ対中日の日本シリーズも2日続けてなかなかの熱戦ながら、我が家も思わぬ賑やかな2日間だった。さて、来週はチカさんの両親を招待している。

二度目の


 土曜日は娘が我が家でケーキをつくらせてほしいというので早めにやってきた。焼きあがったのはかぼちゃのチーズケーキ。それが義理の妹のシホさんの遅ればせながらのハッピーバースデーケーキになって、夕食のあと、またもサプライズのお祝いをした。それにしても、よく食べる我が家ではある。

2010年11月6日土曜日

納車

 大根っ葉の刻んだ炒めものが好きだ。そしてなんか得した気がする。

 二男が中古車を買った。それで本日、納車されたようだ。うきうきしている様子。

 私たちが結婚したてのころ、新居への引越しを手伝っていただいた職場の先輩にママゴトみたいな道具だなと言われた。当初冷蔵庫も持っていなかった。ただ、生活には邪魔なほど、本だけは多かった。息子たちの住まいに行くとあの当時の生活道具の殺風景を感じる。段々に揃えていくのは楽しいものだ。あのころは免許を持っていなかったので、車のことは念頭にはなかった。今では、モノの充足だけでは、むしろもの足りないことを感じ始めているのだけれども、若いときにはそんなことはわからない。

 車のことならプロで、甥っ子のT君が明日来ることになった。息子から知らせがあった。

2010年11月4日木曜日

天気晴朗なれど虫歯あり


 風呂から帰ってきて濡れたタオルを干す。ベランダから見上げれば今夜は星がきれいだ。きっと冷え込むことだろう。昨日、植物を室内に入れておいてよかった。

 妻殿は冷え性で、寝ていても足先が冷える、腰が冷たいというので、布団に装着して使える足温用電気毛布、電気あんか、上等の毛布などを買ってきてプレゼントした。ずっと以前のことだ。いつのまにか、そういうものが要らなくなって放っておいた。ところが、今度は私が突発的に寒気を感じることがあるようになって、足温用電気毛布などをひっぱりだして私に用意してくれるようになった。そのうちこれに湯たんぽが加わる。もう心頭滅却すればの気合だけではだめだ、相応に対処していかなくては。ただ、電気や灯油を過剰に使って部屋全体を暑くするような贅沢をする気はない。つましく対応する気ではある。

 奥歯に多少痛みを覚えるようになって、診て貰った。レントゲンの結果、なんとその歯よりも金属を被せてある別の奥歯の方がすっかり虫歯になっていたことが判明した。土台もなくなるほど蝕まれていたそうな。難解な治療になると脅された。

 星がきれいだといっては、まるでオオカミのように空に向かって感嘆し、河原をむやみやたらに走り出したのは、あれは10代のころ。霜が降りそうな冷たい真夜中でも平気だったのだけれども。星にとっては瞬く程度のわずかな時間だろうが、その間は人間にとっては40年という半生にも及ぶ。美しい星をもっとみていたいと思うのだけれども、それが煩悩にもなり意欲にもなる。

 さあ、今風に言うとメンテナンス、英語でいうとリペアして、健やかに生きながらえて愉快な仲間と大笑いしておいしいものを食べよん♪、あっ違った、食べよう!このパソコンの向こう側で夢中になって栗を食べている同居人がいる。この屋根の下、我が家は幸せなひとときが流れる。

2010年11月3日水曜日

へたな生き方


 昼までは晴れたが、夕方からは曇ってきた。朝のうちにリサイクル屋さんに行く。ガラクタをいくつか買い求める。印伝の小銭入れなんか気に入った。…。気を紛らしただけで、そういうことではないのだ。
 問題を先送りする。今日でもできることを明日以降に持ち越す。そして明日もやらない。次の日は考えなくなる。もう考えない。そうやってきたことがたくさんある。煩悩を捨てさえすれば済む話だが、並みの人間であってそれができない。

2010年11月2日火曜日

いかん、弛緩、考えない


 なにも割らない。なにも足さない。気張らない。欲張らない。なぁんにも考えない。明日は休みだ。

 下の息子にたのまれた「郷土かるた」(1982年/県教育委員会)がみつかった。ものもちはいい。

 右肩をひねり、のばし、ゆるめる。次はうさぎのポーズ。

 14日にすることで長男と決めた。なんにしましょう、とつれあいは考える。メニュー考えるのが楽しいと。でも、あしたにしましょう。

2010年11月1日月曜日

穏かな朔日

 2箇月めくりのカレンダーならあと1枚の11月になった。

 郵政公社になって外勤の職員の人は年賀状の販売に走らされているように聞こえてくる。せめてそれにお応えしようとそれで、お願いしていたのが3日に宅配されるはずだ。今年は喪中で出せなかったから、2年分の消息をしたためようと考えている。義理だけで出していて顔も覚えていないようなやりとりはこの際清算してスリム化しようと目論んでいる。2年分の我が家に起きて他人にお知らせするようなこと、そのためにそろそろ我が家の2010年の重大ニュースのノミネイトにとりかかる。昔はこれと前後してアルバムの整理にかかっていたのだけれども。

 歯の治療が必要かなとこのごろ感じる。やっかいだ。LADYGREYをすすりながら、そうだ“マオさん”のこの腹の立つような処世、だれかに似ているなと思っていたらあの“前原さん”だ、と連想する。

 借りてきたDVD『西部戦線異状なし』(1930年 アメリカ)をこれから鑑賞する

2010年10月31日日曜日

土曜日の台風

 粛々と仕事をする。ノルマを凌駕する。そういうときには目がテンになっている。やっかいな案件をひとつ片付けると、登り道の曲がり角の先に出たような気がする。違う展望があるはずだと心はずむ。が、しかしそこはさらなる登り道だったりすることは往々にしてある。単なる登り道になんの見晴らしもない。凌駕するのは量だが、出来もなかなかだ。経験も蓄積をすれば質もあがる。ただ、量の計測では質は記録されない。報われなくともいいが、誰かの役には立っているのだろうと考える。

 風雨吹きすさぶ様子の街を見下ろし、昼休みにその街にでれば、あの何かによく似ている。映画『台風クラブ』(1985年 監督相米慎二)のシーンが頭を巡る。台風と一緒に変化が訪れるという期待の、あの雰囲気を想い出す。

 手作り製のりっぱな傘を手から離さずに、予約しておいた切符をエキネットで引き出す。窓口は混んでいたが自動券売機には誰もいない。うまく操作できた、というより簡単だった。案外ということだ。特急指定席料金が御褒美のように正規料金より多少割引になっている。これで盛岡までは行ける。「おめでとう」とメールがくる。

 湘南新宿線は止まった。風雨のなか無事に走る通勤電車の中で、ちょっと分厚い本だがユン・チアンの『マオ(上巻)』(2005年 講談社)を読み始める。個人崇拝されたあの「英雄」のことをとりあげている。私が中学時代に起きたあの動乱。繰り返し「リュウショウキ」という人がどれほど悪人であるか、ラジオをつければ鮮明に入ってきたあの放送。晩年は同時代に生きていた人だ。政治的に敵視する人、建国の父・人民解放の英雄として崇拝する人、しかもそれを押し付ける人、冷静に批判する人、若いときはこの人物の同時代的評価を通して「ものの見方、立場」を学んだ、一方で彭徳懐の生き方も知った。洗脳される危うさも知った。時代を遡り実証主義的でおもしろい本だ。

 帰り着くころは拍子抜けするほどひどい風雨も収まった。傘も丈夫だ。おいしい手料理が待っていていっぱいやった。しばらく風邪で控えていたので、久しぶりですぐに酔いがまわる。

 台風が近づき、そして去っていった土曜日のことだ。

2010年10月29日金曜日

恐怖の体験


 昨夜床に付こうとした瞬間のことだ。ぶるっときて全身に寒気が走り、身体が硬直して震えが止まらなくなった。どうしようもなくなった。以前にもあったことだ。寝ている最中にも起きたことがある。心筋梗塞とか脳梗塞とか異常事態はこういう風に襲って来るのではないかと想像された。昨夜はさすがに命の危険を感じ、つれあいに訴え、さすってもらったりしてなんとかおさめた。「♪もうわか~くないさと、言い訳していたねぇ」だな。寒さが心構えよりも早くきているのか、気よりも先に身体が老いているのか。しまっていたパネルヒーターを早速とりだして使うことにした。定期健診のたんびに梗塞で倒れたら家族に迷惑かけますよと医者に言われている。休みの日にストーブも出そう。肩もつらい、2度目の五十肩かなぁ。暑さ寒さにうまく付き合っていかなければ、しなやかに。

2010年10月28日木曜日

ささやかな

 昔、まだ福岡に住んでいた時、母の誕生日に合わせて実家に帰ることがあったので、妻殿にたのんでケーキを焼いてもらった。電車とバスに乗って、飛行機に乗って、またバスに乗って注意して持ち運んだつもりだったが、無理があった。開けてみたら丸いケーキがつぶれていた。それでも、母はケーキなんかつくったこともなかったから、感心して嫁の手作りのケーキだといって喜んでもらった。二人で食べた。そんなことをふと想い出した。

 今日は二男のお嫁さんの誕生日だったので、帰りにちょっとデパートに寄った。その売り場にはバースデープレートとローソクサービスをするというPOPがあったので、「今だけの限定販売」とかいうリンゴタルトというのを買って帰った。雨降りを自転車で帰らなければいけない。普通のケーキならつぶれそうな気がしたのでそれでよかった。それで二人でジムの帰りに彼女にはサプライズで立ち寄った。蝋燭を5本立て♪ハッピバースデートゥユーで、ささやかなお祝いをした。それを携帯で撮影したのに保存せずに閉じてしまっていた、あれれ。

 息子も早く帰宅していて、二人の今晩のメニューはエビフライとステーキだったそうな。

2010年10月26日火曜日

晴れない


 多少、ムラッ気のある私にはこの天候は得意でない気分だ。暗くなるのが早いのも重い。

 朝、公民館でトレッキングの説明会と申し込み受付があり、本人でないとだめだというので、この際休んだ。疲れてもいる。見渡すと皆さんリタイアされた方ばかりで私たちが一番若い。いつものことだ。仕事も大事ではあるが、一生にしなければいけない仕事でもない。本番のトレッキングではもう一度休まなければいけない。昼からは晴れるという予報を信じて洗濯物を干す。10時にお茶を飲み、昼は主婦めし、すなわち残りもので済ます。口が寂しいので、甘いものを頬張る、つい、とことん口にする。証拠は隠滅しなければいけないドジな検察幹部とは違う。3時過ぎにお茶。洗濯物をとりいれるも、乾いておらず、爽快感なし。台所の洗いものを終え、慌てて部屋の片付けにとりかかる。子育てを終えた私たちは単なる共同生活だ。茶の間を自分のものにするな、パソコンも資料も本も新聞もいつもその都度片付けろと厳命されていた。炬燵布団もセットしなければ、明日から寒くなるらしい。3年分の雑誌を捨てる。玄関に積む。結婚以来ずっとアルバムを作り続けていたが、デジカメになって止めていた、その最後のアルバムが出てきた。2006年1月2日で終わっていた。さて、夕食当番だが、どうしよう。ブログどころではないのだが。

 リタイアしたら、きっと太るな、そして矢のように時間が過ぎていきそうだ。うむ。
 *画像のクッキーはみんなが集まったとき娘が焼いてくれたもの、今日食べたものではない。念のため。

2010年10月24日日曜日

曇りのち雨


 花壇の花を植え替える。こんなところにナメクジが潜んでいたんだ。曇り空。昼間はホットカーペットの上で毛布を被ってうつらうつらする。薬の服用によって咳がおさまる。昼過ぎに二男宅へうちで不要になった2畳用のホットカーペットを届けた。広げて使用したらちょうどよい、そして暖かい。ソータローは日々成長している。早めの夕食をとり隣町へ映画『いのちの山河』を観に行く。出かけようとしたらあいにく雨になったので電車で行くのをやめて車で行った。帰ってきてから地図帳を開けて岩手県(旧)沢内村の場所を確認する。つれあいはポケットに入れていた定期をどこかで(たぶん会場)で紛失してしまったようだ。落ち込んでいる。本日は曇りのち雨、映画のおかげで私の気分は青空。つれあいは失くし物のせいで天気と同じ。

2010年10月23日土曜日

ホットカーペット


 米の値段が暴落している、加えてこの夏の猛暑で米のランクが落ちて生産者の収入が一段と減る、というニュースが報じられる。

 ご近所のTさんは独り暮らしだったが、息子さん夫婦のところで同居するというのでこの春引っ越された。それでどうせ捨てるものだからと、三畳用のホットカーペットをいただいていた。それを敷いてみた。りっぱなもので、ほかほかとして電機を入れなくとも今のところ暖かい。歳を重ねるにつれ、暖かいものはありがたい。朝晩の冷え込みに、この夏はそんなに暑かったっけなどとついつい思ってしまう。

 大学に入るために家を出て以来、私は母親と暮らすことは一度もなかった。

 ろくに親の面倒もみず、お米や野菜をつくる生産者の苦労も知らぬいい加減な私にバチがあたった。右肩イタタ。ゲホゲホ、ズルズル。「早く寝ろ」と言われる。