2011年3月31日木曜日

ようやく


 つれあいの母には妹がいる。岩手の農家に嫁いだので腰が曲がっている。この人は顔立ちも性格も義母に少しも似ていない。その叔母から連絡があった。明日から大船渡線が気仙沼まで開通するらしい。テレビにも出ていないから最新の情報のようだ。明日の早朝には一関にいるはずだから、交通手段の選択肢が増えるのはありがたい。    

 今日は晴れているが突然春の嵐になったりする変わりやすい天気だという。実際にそうだ。日が照れば春の日差しで暖かい、雲行きがおかしくなると寒々とする。つまり、東北はこの寒々とした朝晩であろうことが想像される。  

 私の郷土ではあまりみられないのだが、つれあいの東北地方ではみな屋号をもつ。つれあいの父方も母方も兄嫁もみな岩手県南部の中山間部にルーツを持つ。祖父が開けた港町気仙沼に出てきて身を起こした。それでつれあいはそこに生を得た。    

 今度の未曽有の被害に遭遇してその親戚たちがいち早く立ち上がった。母方の親戚、父方の遠い親戚(本家だという)、兄嫁の親戚、姪の婿の親戚(陸前高田にもかかわらず高台のところらしく難を逃れた)、一族の親戚縁者たちが駆け付けてくれたらしい。  

 灯油とガソリンこれが不自由な中、そんな中を駆け付けて支援をしてもらっているらしい。往復して市内を駆け巡ったらそれだけで夜中から並んで手に入れた限定的なガソリンを使ってしまうにもかかわらず。一泊二日でひきとられお風呂にもいれてもらえたらしい。  

 町はところどころライフラインが復旧しつつある。日増しに変わる。    

 昨日の朝いちばんに義姉から伝言が入っていて平服で来てほしいと。もとよりそのつもりだ。あまりにも同じ境遇の人々が多すぎて、両親を一度に失ったこと、家族・親類たちがあの大きな災害を蒙ったこと、なにか遠く過ぎ去ったことのように錯覚する。本人はそういうことはないのだろうが…。  

 駆け付けられずにいじいじしていたが、心が晴れやかだ。深夜バスでようやく被災地へ行ける。    

 桜が咲いた。花桃の先っちょが咲いた、こら、もう咲いたか。これから始まる連続テレビドラマのヒロインは「太陽の陽子」というらしい。うちの陽子さんは、花桃の咲くのを見ずに逝ってしまったよ。こういうことを言うとまたうちのお母さんが泣いてしまう。    

 帰ってきたら4月だから、カレンダーをもうめくっておく。私たちには未来しかない。

ヒトとして


 人間に差別があってはならないとの信条から、私はその制度に納得しない。しかしながら、以前からアキヒトさんの心情・行動をそれとなく理解することができる。そこがこの人の父親への感情とは違う。

2011年3月30日水曜日

手編みの帽子


 名もなき我々が、今、していることを、感じていることを、それぞれの立場と目線で淡々とつづり伝えることが、いずれ困難に立ち向かうことになるだろう。だから、起きたことにことさら目をそらさない。やはり犠牲や被災を悼むし、そして支援しようとする。それが「頑張ろう」という激励の前提だと考えている。

 ご近所の斉藤さんが訪ねて来、お仲間からのお見舞いを届けてくださった。そして、手編みの帽子を3つもいただいた。心のこもったもので本当にありがたい。斉藤さんもこの前つれあいを亡くされた。

 お見舞いの電話をいただく。メールも入っているようだ。

 みんな、何かしたいと思っている。
 このたびは、いただいたご香典やお見舞いが思わぬ多額になった。ただし、現金で持って行って渡すには、避難所暮らしでは管理ができない。目録と香典袋あるいはお見舞い袋を渡して、多くは振り込むことにした。

 「葬儀に間に合ってよかったですね」と善意で声を掛けられるが、被災地で葬儀ができる状況ではない。火葬の日は行政が機械的に振り分けたもので、たまたま被災地に行ける期間がこれに重なるが、周りの人は葬儀に行くのだと取り違えている。広い意味では葬儀になるから、そういうことにしているがリアルな事情は当事者でなければ理解され難い。

 ともあれ遺影ができあがった。平時なら葬儀屋さんに任せるのだろうけれども、実家では写真が流されたから、いちばんにやって欲しいこととして頼まれた。
 何年か前に両親が我が家に来たときにとった画像からつくった。できるだけ、普段のままの、そして明るい表情のものを選んだつもりだ。

 こんな額縁の中に入っちゃって、信じられない…。

 語りかけたら笑い声と一緒に返事が返ってきそうだ。

 出発の荷造りをした。多量の荷物になった。担げるかな。

拾い

おそらくみな重苦しいのだと思う
あるいは空元気に明るい

いちばん軽いギアにして坂道をくだっているようだ
凝視していたけれども、もう目をそらしたい、いや目をそらしつつある

マスクがみあたらない、あっ、あごに下げていた
しっかりしなさい

治りかけたかさぶたをはがすように
つれあいの両親のことにふれる
軽く受け取ってくれるときはいい
真顔になりかけたら、ハナシをそらす、あるいは逃げる

昼休みは気仙沼の詳細な地図を紀伊國屋に買い求めに行った、品切れだった
広瀬隆さんの本もそうだった

前の日は、混み合った電車の中でハンカチを拾ってあげた。

今朝は駅に行く道で、前を歩く人が落とした手袋を拾ってあげた。

今度は何を拾ってあげられるかな

2011年3月29日火曜日

むっすうくんへ

どうしたのだろう
毎日のぞいているけど、更新がない
そっとしておいたほうがいいのかもしれないけれど、
そろそろコメントをいれる

介護の仕事はほとんど公務に近い労働であり人間の尊厳への奉仕でもある
それで多忙でへとへとで更新する暇がない、それどころではない
というのなら、その通りで、ねぎらいの言葉しかない

もし、あのとき3・11の出来事で、失ったものやつらい思いがあって、やりきれない思いがあるのなら、ありのままでいい。それでいい。
そっとしておきたい。
ただ、つらい思いがあるのなら誰かに聞いてもらうだけでもいいことがある。吐露した方がいい場合もある。叔父さんにも経験がある。

そうではなくて、
もし気力があるのなら、今の日常を描け。これまでどおりに描いたらどうだろう。大震災の前と以後では違う。そこは稀にみる被災地のひとつで、歴史的な災難を蒙ったところに、むっすうくんたちは生き残った。そして生き延びてほしいと思う。

誰がこんな経験をすることがあると考えただろうか。
むっすうくんたちが今体験しつつあることをありのままにつづっていったらどうだろうか。そして育ちゆくこうちゃんに伝えよ。その子に、そのまた孫に、そして子孫に、千年に一度の出来事であったのなら、千年分の子孫たちに起きたこと(これを君は先のブログで見事に描いた)、今起きていることを残そう。

じいちゃんばあちゃんたちは心の中にいる。
ばあちゃんは、じいちゃんの弟妹たち、自分の子供たち(叔母さんはそのひとり)、幾人かの孫たち(あなたのつれあいも)を育て上げた。
従兄弟のセイコちゃんなんてほとんどばあちゃんの背中で育った。

きっと、あの詩のように、千の風になっている ふたり仲良く
叔父さんはそう思っている。

「だいじょうぶだぁ」(ばあちゃん)「んだねぇ」(じいちゃん)

2011年3月27日日曜日

準備の買い出し

 土曜日はへとへとに疲れていた。何をしてきたわけでもない。からだがふわふわする。日記もつけず眠った。夢をよくみた。覚えてはいない。

 今日の日曜日しかない。何を買い出しにいくか朝からリストアップした。被災地に行くのはいいが、迷惑をかけるわけにはいかない。持って行ける限度もあるし、我々は一時期のことだ、別に食べられなくてもいいとは思うから食糧は最低限のことにする。さすがに水は重いし限度がある。どうせ着替えられないだろうからそれも最低限にする。作業用には皮手袋がいいらしい。衛生用品、薬などを揃え、あとは被災地に届けられるものを考える。

 73年の石油ショックの買い占め騒動を体験した。洗剤と紙製品に始まってモノが店頭からなくなった。モノが出てきたのはいいが、たった1週間で価格がほぼ倍になった。狂乱物価、便乗値上げだった。今回は驚いたことにそれがまったくない。メーカーも流通も実に冷静で誠実な対応をしている。マネーファンドと投資家以外の、社会的進歩を実感する。首都圏の人々の買いだめも一巡したのか、それとも供給が追い付きつつあるのか、店頭にはモノが並んでいて落ち着いて必要なものを揃えられる。よかった。こういう時は、レジャーキャンプ用品や介護用品に陳列してあるようなものが必要になる。午前中は久しぶりに車を出してこういう買い出しをした。

 沖ヶ浜田黒糖生産組合の沖田頭領が入院中と聞いた。3月11日のあの日たまたま東京にいた。「本場の本物」関連の会合に出席していて地震に出遭った。数少ない種子島人の大震災体験者となった。余震で当夜は眠れなかったという。甘いものが好きらしい。我が家の畑で作ったサトウキビを一族の手作業で刈り取り、自分らの共同の作業場で作った黒糖ができたから、うちのを送るよと組合事務局長の長野さんから連絡があった。それならば被災地の誰それに送ってもらえないかと依頼してみた。レターパックならば避難所でも気付で、しかも早く確実に送れる。快く引き受けていただき早速送ってもらっていた、こういうときなのでお言葉に甘えた。昨日は私の職場宛にも送ってきた。それで、午後は自転車で隣町に行った。御礼とお見舞いの手紙を添えて川越の最中を種子島に送った。今日中に発送してもらえるらしいので助かった。  

 ついでに西友をのぞいたら、水道水の放射性物質検出のために買いだめ騒動のあったミネラルウォーター2Lがエンドにきちんと並んでいる。ハウスのブランドでしかも92円だ。一家族一本の制限はあるが誰も買い占める様子はない。ここに限らず不当に値上げされたものはない。むしろ特売価格すら維持されている。あらためて感心した 。

 「もん」からは昨日初めて連絡がきた。泣いた。そして今日も夕方黒糖が届いたと連絡がきた。もう孫もできた歳だが、幼なじみは今でも「ちゃん」付けで呼び合う。「…ちゃん、ひとくち食べてれば、元気がでるんだよねぇ。ほんものだよねぇ」と。こういうときは語らずとも本物だとわかる。ひとの情けがあるから。
 もうひとりの送り先であだ名は「サンダー」。海辺であるが高台であったがために津波の難を逃れた。それで皆が身を寄せた。にもかかわらず、自宅被災であるがために救援がなく、当初水も食糧も何もかも不自由した。彼女からも届いたよとの電話があったらしい。

 種子島「沖ヶ浜田の黒糖」はわたしたちの本物であると同時に、同胞の絆の産物でもある。

 気になっていた遺影の準備もできた。持っていくものも揃えた。バックパックや寝袋も息子の友達らから借りた。あとは何をどうもっていくか取捨選択するだけだ。そう思ったらほっとした。夜はビールを飲んだ。

2011年3月25日金曜日

悲しみのサンドイッチ


 日々刻々と変わっています。

 小泉さんが弱体化させた日本郵便もレターパックでは健在です。21日に5個送ったレターパックが翌日の朝には着き、それは一部だったようでバラバラに着いているようです。向こうは毎日届くのでより一層感激してもらっているのですが、うれしい誤解です。着けばいいと思っていたのですが、レターパックは速達扱いなのでこんなときにも早く着きました。「良いお役所仕事!」たいしたものです。義兄たちは市役所の施設の一部に避難しているので移動しなければならないのかと想像していますが、身軽にしなければいけないためストップしてくれと言って来ました。通信が回復し助かっています。郵パックも局留めならば被災地に届くようです。
 気仙沼市内の一部、被災しなかったところは水・電気が復旧しつつあるようです。もちろんまだら模様で、詳細はわかりません。姪が看護士、その夫が介護士で被災のその日から奮闘しています。二人とも車で行く距離を歩いて通っています。

 当日はこの若い二人も九死に一生を得たことを知りました。生死の明暗を分けたのは紙一重だったことがわかってきました。とっさの判断、行動、そして運。犠牲者の中に、我が身の長い人生の経験(ごとき)から津波を甘く見、動かなかった人、逃げなかったひとたちが多勢いることが判ってきました。「昭和の津波でも、チリの津波でもたいしたことなかったぁ、だいじょうぶだぁ」というやつです。「陽子めっ!」(母親の名)とつれあいはつぶやきます。悲しみと怒りと悲しみのサンドイッチ。残された義兄も兄嫁も姪っ子の夫もじいちゃん、ばあちゃんを助けられなかったと悔いているようですが、むしろそのことの方をこちらは最初から心配しています。このたびは一族が被災したので、消息を確かめ合う絆、とにかく生きのびさせる方策をみんなで助け合う姿、それを目の当たりにし、感じています。ありがたく思っています。ましてや、他人の温情が身にしみます。

 私たちが模索した限りでは被災地に行ける状態にはなく、また、仙台あたりの親戚からも来られる状態ではない、待て、ということが続きました。刻一刻と変化しています。ようやく、花巻まで行けるバスの席を確保できました。それも来週です。長男も仕事を開けて一緒に行けるというので3人で往ってきます。

 最初メールを送ったら「誰ですか?」と訝しげな返信を送ってきた姪も、今では絵文字入りで「届きました!」とか、「明日を生きよ」「頑張れ」と伝えれば「ハイ、頑張ります」と返ってきます。

2011年3月24日木曜日

無「計画停電」


小さいころ実家は水道を引いておらず電動ポンプで地下水を汲んでいたので停電になれば、明かりがつかないこともそうだったが、水が出でなくなることが一番難儀だった。そして回復して部屋にパッと明かりがともり、蛇口から水が出たときのうれしさはひとしおだった。とうちゃん、かあちゃん。ねえちゃん家族みんなで顔を見合わせた。停電は頻繁にあったものだ。

職場で聞いてみたら「計画停電」に遭っていない人がほとんどだった。不公平だという噂がこの近所ではとびかっている。

今日は確か4回目の停電だった。夜は2回目だ。我が駅に着いたら駅以外は真っ暗だ。いつもは道を照らしているのかいないのかわからない我が自転車のライトが頼もしい。見直した。我が家の方向は駅から南に向かうので遥か東京と思しき方角の空は明るい。が、目の前はまるで田舎の畑の中にいるように暗い。市境に住んでいるので茶畑の向こうに見えるあたりのビルは煌々と明かりが点いている。隣の市の方向だ。やっぱり不公平はホントではないかと疑心暗鬼になる。家に帰って停電がわかっていながら、ついリビングの明かりのスイッチをパチンと押してしまう。蝋燭は高い位置に置くと照らす範囲が広がるのだとあらためてわかった。「キャンドルナイト」の企画で買った、さも頼もしげな太い蝋燭が明かりをとるには少しも役に立たないことが判った。高いだけの代物だった。それに比べてお仏壇の灯明用の安い蝋燭の方が実に役立つことを実感した。明かりがとれて、それで夕食をとる。手持ちぶさたで、またテレビのリモコンを手にとってしまい、あっと思い出す。じゃあ、CDでも聴くかと考えるのだが、これも電気だった。

そうこうしているうちに、突如インターフォンがピンポンとなる。宅配便かと反応して受話器をとり返事をしてしまうが、実はそれが通電したときの現象。電話兼ファックスがガガガと動き出す。電源が入ったときの反応だ。もう少し長く停電が続くと思っていたので拍子抜けする。オール電化などもともと考えてもいなかったけれど、そうは言ってもすっかり電気に頼り切った生活をしている。

停電をやむをえないこととは受容するが、いまひとつ公平に、そして弱者に弊害が及ばぬよう丁寧にやってほしい。節電は信条であるから平気だが、あらためて個人および社会的生活を見直したい。
冷え込みが厳しい。

2011年3月23日水曜日

できることから


関東でも夜、一時雨が雪になった(微量とはいえ放射性物質が含まれていることだろう)。被災地は雪模様で氷点下だと聞く。

無意識に目を掻いている。こんなときでも花粉が飛ぶのだろうか。でも、判るだけましだ。春の風は強くて怖い。これに今度の天災人災のことが加わった。
春がすっかりきらいになりそうだ。
いやはや私の日記の暗いこと(苦笑)。

被災地の状況は刻一刻と変わっている。
自宅に被害はなく在宅のため、却って食糧・水などの救援が来ず昨日まで不自由を訴えていた友人のところに、ようやく自衛隊の救援が入り突然食糧の不足が解消したと今日は連絡がきた。遅かったとはいえ、まだ市内だから何とかなったとは思うが、まだまだ所によりけりだろう。この友人は現瞬間、不足しているのは「電気と水、それにガソリンと灯油」と言ってきている。これは個人的にはいかんともし難い。

さすがは「お役所仕事」だと感心した。
レターパックは速達扱いだと知った。それがたとえ被災地であろうと、規則を守り宛先さえきちんとしていれば規定のとおり翌日には届けられた。小泉さんはこのように役に立つ郵便制度を破壊する必要は何もなかったはずだ、利益優先の事業でできる芸当ではない。避難所であっても住所さえ判れば「気付け」で届くことを確認した。ちなみに、21日に送り22日の午前中には届いた。場所にもよるとは思うが、驚異的だ。レターパックはA-4サイズで厚さ3~5cmぐらいまで入る。重量は4kgまで。

つれあいは、今日は休みで買い出しに行き、被災地と連絡をとり合いあれやこれやのレターパックをこしらえて居場所のわかった身内や友人に送った。焼石に水かもしれないが、なんとか気持ちを形で届けたいと思っている。姪から感謝のメールが届いた。

警察の検分も済んだのだろうか、本日の『朝日』(「亡くなられた方々」欄)に両親の名前が出ていたよと従兄妹から連絡があった。

もん

今日の今日まで安否がわからなかった。
気仙沼の市街でつれあいの実家からは歩いて行ける距離だ。中華料理屋を営む。高校を出て家業を支えた。婿を迎えたと聞いていた。
あだ名は「もん」。
つれあいの同級生で仲のよかった友達。
結婚のあいさつに行って「こんないいだんなさんと一緒になってぇ」と初対面で言われた。
あふれかえる悲劇がとびかう。
場所柄、津波をまともに受けたはずだ。
10日を過ぎてもずっと行方がわからなかった。ほとんどあきらめていた。
パーソンファインダーを今朝開けてみて目を瞠(みは)った。
なんとかというお寺の避難所の名簿にあったという確認情報が書き込んであった。
同姓同名の間違いでなければという断り書き付きで名簿そのものも掲示してあった。
今晩、つれあいと一緒にもう一度確かめたら、お子さんと思しき人の名も掲載してあり間違いではないだろうと確信できた。
よかった。生きていたらしい!

生死を分けたのは皆紙一重であったことが、被災地からの知らせでわかってきた。

万一のことに考えが及び、あのとき訪ねておけばよかった、あのとき一緒に写真を撮っておけばよかったと要らぬ後悔をした。だから、今度落ち着いたら、訪ねていき抱擁し、一緒の写真を撮っておこうと思う。もっとも、もう万一のときのためになんてまっぴらごめんだけれども。生きているうちに、生きている人と会い、せいぜい馬鹿言いあっておこう。精一杯生きておこう。

何も死ななくてよかったばあちゃんとじいちゃんの教訓のような気がするよ。

有難きかな

 出会ったころはぷっくりして笑窪が可愛かった。筑波山のどこか麓あたりから出てきたらしく彼女から当時茨城弁というものを初めて聞いた。本人は標準語のつもりだったのだろうけどまるだしだった。水戸からきている内山はそうでもなかった。その学生時代の友人から突然電話があった。つれあいが出た。最初誰だかわからなかったらしい。つれあいのお里を知っているから心配して電話をよこしたのだ。だめだったの、とつれあいは応える。ヒロセさんってあの広瀬さん?うん、なんだかすっかり声が変わっていてわからなかった、京都弁になっていて。
 朋遠方より通信を寄越す、また嬉しからず也。

2011年3月22日火曜日

翌日には届いた

これは驚いた。長男が昨日早速レターパックを避難所にいる私の義兄家族に送ったら、今日の午前中に届いた。携帯用の電池式の充電器を手に入れ、水の要らないシャンプー(ドライシャンプー)などを買い揃え、レターパック5つにして送ったそうだ。いつ届くかわからないだろうと決めつけ、届くだけましと考えていたら、ん、日本郵便頑張っているな。

2011年3月21日月曜日

何が要る

 昨夜、被災地にいる姪からメールが通じた。今朝からは兄嫁の携帯が通じ始めた。電源がなかったらしい。岩手県にいる母方の従兄弟たち、同じく岩手県にいる兄嫁の兄弟親類たちが駆け付けたとのこと。ガソリンは夜中から並んでようやく手に入れ、それも往復で無くなる分であるらしい。食糧も持ってきてくれたそうだ。本当に有難い。幸い家は残った、その後片付けが難儀だそうだ。水と呼んでいるけれど海水だ、ヘドロだ。

 最初はホントに4人でおにぎりひとつぐらいだったそうだが、避難所では食糧は行き渡り始めたらしい。 しかし、つれあいの親友によれば、幸いにして自宅が無事だったが、なんの配給もなく逆に難儀しているとのことだ。一番に水、そして食糧。

 それで、義姉に必要なものは何かと問えば、写真が流された。遺影がほしいという、あっ。

2011年3月20日日曜日

穴を埋める


 刻々と事態が変化しています。
17日朝、auが通じ気仙沼の義姉(兄のつれあい)と連絡がとれました。
18日の昼、女川の知人から「生きているよ」との電話が携帯から携帯にあり生存を確認しました、実にあっけらかんとしていて拍子抜けしました。
19日の朝、実家の甥っ子(姪の夫)のブログが再開しました、携帯で入れているのかな。
家族、一族、社会の絆を感じています。
 通信は部分的に回復しつつあるようですが通じにくい状態です。ブログにはコメントを書き込めるので彼がそれを見ることができれば、連絡がとれることになります。また、パーソンファインダーも連絡手段にはなりそうです。
 その他の生活インフラはまだで、とくに水に不自由しているようです。

 つれあいは今、被災地の気仙沼市立病院で夜勤をしている姪と携帯メールの連絡がとれました。励まします。

 本日の朝刊によれば、「レターパック」(日本郵便)は被災地に届く可能性があることがわかりました。確かに、あの壊滅した志津川で郵便を配達している郵政労働者の姿をニュースで見ました。日数がかかるとは思いますが届く可能性があります。とりあえずこれを使うことにしました。

 被災地に駆けつけられるのは、どうもガソリンの供給事情次第のような情勢のように思えます。もちろんそれだけではなく、拙速は自重せねばならず、慎重を期すが故、はがゆい思いをしていました。考えるに今回の場合は犠牲者・被災者の数倍の関係者があり、この多人数が被災地に殺到すれば、また、収拾のつかないことになります。

 本日家族で集まり、さまざまに情報を集め検討した結果、車で行くことを断念しました。バスが花巻まで行くことがわかりました。JRは青森から一関あたりまでは開通したようです。花巻から一関には南下できそうです。そして、一関から気仙沼まではバスが2便はあるらしいのです。このルートで父母の火葬には間に合うように手配をしているところです。行って逆に迷惑をかけるわけにはいけません。用意と覚悟を練ります。
 「手をこまねいているしかない」これがこの10日間近くのイジイジでした。

 もちろん経験はしていませんが、父母たちが乗り越えてきた「戦後」の体験をまるでなぞっているようです。父母たちの当時の事情に比べれば、なんちゅうことはありません。

 家族、一族、社会の絆・連帯これを実感しています。我が子どもたちよ、ありがとう。
義兄さんたち申し訳ない、もう少し待っていて。

* 身内のことばかり構っている間に、身内(被災者)のこともそうなのですが、社会とも切れています。沈み込んでいるひとつの原因はそこにあります。明日から立て直そう。
* 今日は暖かくなりました、我が家の梅の花が満開です。お友達のみなさん、ごめんなさい、泣き言ばっかり伝えて。

思い及ぶこと

 私の故郷は九州の南です。この時期すごい北西の風が吹きます。これがやむころ南国の春になります。その故郷を離れてから、私の生まれ故郷には火力発電所、原子力発電所、自衛隊、新幹線が誘致されました。両発電所は松林と砂浜の風光明媚なところをまるまるつぶし鉄条網を張り巡らしました。そういう“生き方”をふるさとの行政は選びました。当時、原子力発電所誘致に反対するような者はごく少数の異端および共産党でした。まだ、少年でしたがその光景をよく覚えています。

 震災の当日に知人からご心配のメールをいただき、突然の切迫した私どもの事態(父母が逃げ遅れたらしい)をみんなに返信し、またその結末を再び送りました。結果的に同情を強要したような形になり後悔しています(励ましの返信をいただきながら申し訳ありません)。

 私のつれあいの父母、親戚の被災は、このたびの数ある中の悲劇のひとつです(「すぎない」とは言いたくありません)。まして「天罰」であろうはずがありません。あまりにも規模が大きく且つ広域で、ひとつひとつの災難が「ありふれて」きて、悲劇がひとつひとつであることがかすんでしまうことを恐れています。そういう意味で私たちのこともお知らせし、知人のみなさんからのことも進んで知りたいと考えました。

 気仙沼、志津川(南三陸町)、陸前高田は注目されているだけまだ「まし」で、しかも父母・叔父の遺体は早くに発見されその知らせが届きました。東北以外の茨城や千葉も被害が甚大であるにもかかわらずほとんど報道されていません。当初、いかにも「絵」になる報道の傾向がみられ、当事者および関係者に必要な情報(例えば生存している被災者の姿、および被災者どうしの所在や消息)が伝えられませんでした。徐々に改善されつつあります。

 イマージンというのでしょうか。「思い及ぶこと」今、まさにこれが必要です。

 この突然の災難に両親がたとえ生きながらえたとしていても、故郷の地獄のような惨状をみなければいけなかったと思います。それを見ずに済んだのだとも、つれあいは考えています。

 家族や一族の絆を思いました。叔母の孫だという人、兄嫁の姪だという人、岩手に住む従兄弟、誰それの誰それだという人と思いもかけず連絡がとれ、協力して連絡をとりあいました。被災地の近隣にいる従兄たちがガソリン入手も困難な中、何時間も並んで手に入れ支援に入り込んでいるそうです。

 刻々と変わる原子炉の危険。
 まだ続く余震の恐さ。震源がなんとなく南に降りてきているような不気味さ。
 街が壊滅という実態。
 私たちはこれからも地獄をみないとは限りません。

身のまわりで、できること

首都圏に在住して健在な私たちにできること。
今「不必要(不用不急)をしない」ことに尽きます。
車で出かけない。政府に言われずとも節電、省電。
浪費を見つめ直す。
巨人戦、中日戦、横浜戦、ヤクルト戦を見に行かない。
買いだめをしない、買占めはもってのほか。
生協の配達のお兄さんお姉さんおばさんおじさんにありがとう、笑顔を返す。欠品を受けとめる。その事情をこそ受けとめる。あらゆる「配達・配送・運輸」の人々をはじめ、被災地および後方で公務・職務に就いている人々の献身的奮闘に頭をさげる。
そして、原発を直視する。立場はどうあれ、この事態を先々決して忘れない。
原発では現瞬間、進行中の命がけの仕事に思いを馳せる。

ファイト!の掛け声の前に、まずは犠牲者を追悼したい(無念だ)。
そして頑張ろう!だ。
被災者への救援・支援にそれぞれができることで立ち上がる。

同胞の危機だ、絆・連帯(普天間、辺野古、馬毛島のことだってそう思っている)。

2011年3月18日金曜日

七日目


 つれあいの父母は今日で初七日ということになる。
 津波に呑まれた。逃げ遅れた、…逃げなかったのではないかもと思っている。

 岩手から駆け付けた従兄弟二人が兄とともに安置された亡き父母に対面してきた。納棺され4月3日に火葬に付されるという。さまざまな事情はまだわからない。

 行方不明を知って動揺し、遺体発見の知らせに泣き崩れたつれあいの涙はもう乾いた。今日は電車に頼らず、元気に新しい自転車で通勤した。その時間には深い黙とうを捧げた。

 当初、消息の確かめようがなく一刻も早く安否を知りたいつれあいは、避難所の名簿(つまり生存者およびその所在)をマスコミに公開すべきだという趣旨を日曜日には『朝日』に投稿していた。早速に採用の連絡があって本日、金曜日に掲載することになっていた。なんでそんな遅くにと思ってはいたが、結局その要望は実現されたため掲載には至らなかった。手元に幻の紙面(ゲラ)がある。

 いろいろな人からお悔やみと励ましをいただき、本当にありがたかった。ご心配をいただく向きもあるがもう元気だ(見かけは)。まだら模様ながら故郷の友人知人とも連絡がつくようになった。ライフラインが何も復旧していない中、一部の固定電話が先に復旧したらしい。津波に遭遇したかしないかは、人によっては紙一重だったことがわかってきた。他郷にいる旧友からもお悔みをいただく。つれあいの同級生たちはよく泊まりにきて母のことをよく知っていたので我がことのように悲しむ。

 グーグルパーソンファインダーにて消息を尋ねていた。
 今日つれあいには祖母の「なを」さんから直接電話があった。なをさんは祖父の後添えつまり義理の祖母にあたる、もちろん家族同然だ。姪ごさんがパーソンファイダーで探していることを知って、その人から電話が掛けられてきて本人に替わった。
 思いもかけず邦雄さんの携帯から私の携帯にかかってきた。拍子抜けするほどいつもの声の調子だった。避難先に居るようだが、女川の自宅も工場も無事だったそうだ。それにしても、ようやく生きていることをこの耳で確かめることができてほっとした。

 もう梅が咲き、クロッカスの花が咲いている。悲報は早く届き、朗報が昨日あたりから届いている。
 義父母の生きた証(あかし)を認(したた)めたい。

2011年3月17日木曜日

春の強風


揺れが春の強風のせいなのか、余震なのか、めまいなのかよくわからない。

ブログを日記にしようとしているが、今こそこの記録を付けるべきときなのにすすまない。眠られず一気にメモを書いてもいるがブログにしていない。

今日からつれあいは出勤した。もう電車は当てにならないから、自転車通勤にしたらどうかと提案した。あんなところ私にとっては30分程度で苦にはならないが、普段ならいやがる彼女も覚悟を決めた。今日は電車で行ったので、それで私が近所の猪俣サイクルに購入に行った。今日は定休日だったがたまたま開いていた。国産(ブリジストン)の丈夫そうなのにした。支払いをしてお釣りをもらおうとしたら、レジが開かない。計画停電が始まっていた。試乗を兼ねて大きな道路に出ると信号が作動していない。大きな信号に行くと警察官が発動機で信号を動かしていた。テレビで見た品川区が姉妹都市宮古宛ての救援物資の中にいれていた発動機と同じものだった。それにしても風が強い。本日、計画停電は2度あった。被災地のことを思っても、自分の生活スタイルを考えても苦にはならない。しかし、インターネットがつながらないのは不自由だ。KDDIの事業所はグループが違うらしく、停電が回復してももう3時間はつながらない。

強震に、津波に生き残った人たちは、今度は生きのびなければならない。この寒さだ。ガソリン、灯油をはじめ物資不足だ。血流ともいうべき物資が届かないらしい。被災者は着の身着のままが実態だ。疲弊、ストレスで亡くなる人たちのことも報道され始めている。

今朝、初めて兄嫁から自分の携帯で電話があった。気仙沼の避難地からつながったということだ。情報がなくて周りのことはなにもわからないという。今は行きたくても行けないといえば、援助してもらえるようになったら欲しいものは何でも言うからと、気丈だ。娘婿の通くんの陸前高田の一家は無事だったらしい。通くんが自ら行って確認してきた。娘のかおりは市立病院の看護士、通くんは唐桑半島の施設の介護士だ。通常なら車で通うべきところを歩いて通い勤務している。職務柄とはいえ頭がさがる。

大震災直後からグーグルパーソンファインダーに登録して安否、消息を尋ねていた。我々の世代以上ではやはり利用者は少なく、若い人と思しき人からの登録、情報入力が多い。若い人の芋ずるにわかってくる。女川の邦雄さんが生きているという情報を「息子」さんから入力してあった。あの壊滅と報じられた女川で生きていたというのが事実なら奇跡的だ。その途端うれしさで涙が溢れてきた。志津川の叔父の牧男さんは遺体で発見されたと四男の従兄から連絡があった。そのほかの家族(妻、三男、長男家族)の消息はわからない。仙台から二男たちが被災地に入ると言ってきた。

長男がお母さんは元気かと心配してくる。つれあいは仕事に行けばまぎれると言っている。長男と救援に行くことで情報を交換する。今、仕事にはならないから一緒に行けるという。交通事情から職場にも行けたり行けなかったりとのことだ。二男は何がなんでも行かなければならない職務なので自腹を切って車で出かけている。しかしガソリンがいつまで続くやら。

物流が開けなければいけない。

なにか揺れているような気がする、みしりとくる、春の風か、地震か、めまいなのか。

2011年3月14日月曜日

3・11

 つれあいの兄から連絡がありました。気仙沼の避難所から市役所の特別な電話を利用したようです。母と父の遺体が相次いで見つかったそうです。津波に逃げ遅れたと考えられます。逃げなかったのかもしれません。自宅の1階から発見され仲良く一緒に亡くなっておりました。あれほど多くの犠牲者なので警察の検死がいつになるかわからないそうです。つれあいに兄嫁が助けられなくて申し訳ないと悲嘆しておりましたが、つれあいはすこしもそうは思いません。実の娘以上に長く父母と暮らし尽くしてもらいました。でも、両親同時に亡くしたことと、むごい死に方をしたショックにつれあいは泣き崩れます。くやしいと。
 兄の家族(兄夫婦、娘夫婦と一子)が生き残ったことは確認することができました。まだ消息がわからない親戚がいます。報道の映像を見れば「志津川のおんちゃん」の家の跡形がありません。

 東京大空襲は3.10でしたが、このたびの3.11も忘れられない日になりました。

2011年3月13日日曜日

安否不明

 そういえばと夕方にスーパーを見に行った。うわさに聞いていた通り、パン、飲み物、カップめん・インスタントラーメン、一部の菓子の売り場はガラガラだった。カセットボンベも売り切れたと息子から聞いた。73年の石油ショックのときの売り場の姿を思い出す。

 発生当日、実家の姪の夫のブログ(18:28)によれば、「(気仙沼)市内は壊滅的です 三階建ての自宅の2階まで浸水してもう終わり 石油タンクが爆発して内湾は火の海です」と急迫した臨場を伝えてあった。その後の避難所からの書き込み(20時過ぎ)によれば「祖父母が逃げ遅れた」となっている。つまりつれあいの両親が行方不明であるらしいことで終わっていてそれ以降更新されていない。つれあいがそれをみつけたのが当日の深夜で、私は帰ることができずまだ職場にいた。ようやく通じ始めた携帯電話で知らせてきた。職場にはテレビがないことがあらためてわかった。別のフロアにパソコンでテレビを観られるセクションがあってそこに行ってようやく報道の映像を見ることができた。そして、その夜の上空からの気仙沼一帯の火災の様子を見て息を呑んだ。つれあいは「どういうことよ」と電話のむこうで泣きじゃくる。

 一切の安否はわからない。両親のことについては悲観的にならざるをえない内容だが確かめようもない。

 上の姉から電話があって、いきなりあっけらかんと「気仙沼から連絡あった?」と訊くものだから、ムカッときて「連絡取れる訳ないでしょ!:*@#$%&」と答えてしまった。昔から回路が一本ずれている人だ・・・。今は壊滅的状況の被災地へも、また、被災地からも連絡のとりようがない。報道を見ていてわかると思うのだが、こういうことを想像して理解できない人だ。もちろん、姉は心配して言ってきてくれるのだけれども、こういうとき「大人の対応」が私にはできない。

 事情があって長く音信不通だった姪っ子(つれあいの亡くなった姉の子)から昼前に連絡があった。避難所に設置された固定電話からかけてきたようだ。家(アパート)が無くなったと。藁をもすがる思いだろう。名取にいたようだ。被災地では携帯も電話も通じず、テレビもパソコンも何もないから、我々が遠くから報道で見て知っていることは何も知らない。そもそもライフラインがほとんどない。当事者たちに情報はない。

 地震の日から風呂に入っていなかった。そんなことは屁でもないが、あの日も翌日も仕事と通勤で疲れた。あのときの戦争を除けば、今我が国は未曽有の不幸と困難に直面している。そのことに思いが及ばないらしく、こころないことを言う人がいて、土曜日は無理して仕事に出て来なければよかったと嫌な気分になっていっそう疲れた。

 本日あたりから報道陣が被災地に入って現在の画像が見られるようになって、実家の家族の姿や名前がないかと目を皿のようにして探す。下の姉や長男がしきりと電話をくれて「今、何チャンネルで映っているよ」と知らせてくれる。当日の津波が襲ってきた映像も見ることができる。当日は雪が舞っていたようだ。どんなに寒かったことだろうことか。

 考えられることは津波に呑み込まれたか、火災に巻き込まれたか。今日の夕方、不用意に最悪の場合の趣旨のことを言ってしまって、つれあいが顔を真っ赤にしてくしゃくしゃにして泣き出す場面があった。いや、可能性のことを言っているのだ、覚悟も必要だと言い繕うのだけれども、「そんなことわかっている」と言われる。もしそうなら「どんなに怖かったろう」と更に泣き出す。どうしていいかわからない。それでもしばらくして、気を取り直す。

  少なくとも津波に襲われ住むところがないことははっきりしている。とにもかにくも、無事でいてほしい。

2011年3月12日土曜日

消息がわからない

 JRが動かないので1時間以上都内を歩いて駅に着き、私鉄は動き始めていたので午前3時過ぎにようやく家に帰ってきた。誰しもが経験したことがない揺れだった。

 気仙沼、南三陸町、陸前高田、仙台にはつれあいの実家がありおよび親戚がいる。気仙沼と南三陸町は今、町が燃えている。実家の家族、叔父家族がいる。まさにそこにいる。もともと陸の孤島的なところだ。消息がわからない。都内にいる姪っ子からも連絡がとれないと不安のメールがくる。女川には邦夫さんの家族がいる。心配だ。

 こうしている間も三陸沖の巨大地震の余震に加えて長野、関東の地震警報、地震速報が次々に入る。

 息子たちがいろいろ手段を尽くしてくれるが、消息がわからない。つれあいが間欠的に泣き出す。

2011年3月10日木曜日

「ショージとタカオ」


 昨日のことだ。
 定時で退社し、地下鉄にとび乗った、それで霞ヶ関までで20分もかからないとは驚いた。すぐそこなんだ。B1の出口を出ると会館につながっている。一気にエレベーターをのぼったが、主人公の桜井昌司(さくらい・しょうじ63歳)さんと杉山卓男(すぎやま・たかお64歳)さんの挨拶を聴くには間に合わなかった。青木和子弁護人と井手洋子監督の話は聴けた。そうして特別試写会であるドキュメンタリー映画「ショージとタカオ」(158分)を観る。

 井手洋子監督は撮影に14年を要したが、茨城県で起きた強盗殺人事件(布川事件)の犯人とされてそれまでの二人の獄中29年に比べれば、何ということはないと言う。映画は1996年の二人の相次ぐ仮釈放の場面から始まる。「普通のおじさんになりたかったのに、なれなかった。」どういうことなのか、あるときあなたは42日前に何をしていましたかと訊かれて即座に答えられますかとは、青木弁護士のこの映画への紹介。2010年キネマ旬報文化映画ベスト・テンの1位に輝いた。この映画は3月19日から一般公開される。

 ここ数年、私たちはドキュメンタリー映画を観る機会に恵まれ、また、それに凝っている。そして、ドキュメンタリー映画の監督が女性であることが多いという印象もある。

 3月16日には、この「布川(ふかわ)事件」の再審判決が予定されている。

 そして3月28日(月)には日弁連主催でシンポジウム及び院内集会が催される。以下、日弁連からの案内

「作られた自白、失われた29年
 -布川事件再審判決は何を明らかにしたか-」
 本年3月16日、布川事件(1967年に茨城県で発生した強盗殺人事件)の再審判決が予定されています。本事件では、近年明らかとなった足利事件、厚生労働省元局長事件などと同じく、虚偽自白を強いる取調べや証拠隠しなどの違法捜査が行われたことによるえん罪であることが明らかになっており、日本における密室取調べや代用監獄の弊害を露呈しています。

日弁連は、本判決を機に、布川事件とは何であったのか、改めて総合的な検証を行うために、40年以上にわたってえん罪を訴えてきた桜井昌司氏と杉山卓男氏ほかをお招きし、密室取調べの終焉を展望するとともに、取調べの可視化(取調べの全過程の録画)の必要性を訴えるためシンポジウム及び院内集会を開催いたします。ぜひ御参加ください。

【院内集会】
日時 2011年3月28日(月)12:00~13:00(開場11:45)
場所 衆議院第二議員会館1階多目的会議室(東京都千代田区永田町2-1-2)
参加費等 参加費無料・どなたでもご参加いただけます。※入館手続きを行うため、事前のお申込みが必要。

内容(予定)
1、布川事件とはなにか
2、布川事件の問題点
桜井昌司氏、杉山卓男氏(布川事件)
3、再審判決の報告
青木和子布川事件弁護人(第二東京)
4、国会議員からのご発言

【シンポジウム】
日時 2011年3月28日(月)18:00~20:30
場所 弁護士会館2階講堂クレオBC(千代田区霞が関1-1-3 地下鉄丸の内線・日比谷線・千代田線 「霞ヶ関駅」B1-b出口直結) 参加費等 参加費無料・申込不要・どなたでもご参加いただけます。

内容(予定)  
第1部 布川事件が明らかにしたこと
1、布川事件とはなにか
2、布川事件の問題点
桜井昌司氏、杉山卓男氏(布川事件)
3、再審判決の報告
青木和子布川事件弁護人(第二東京)  
第2部 パネルディスカッション「密室取調べの終焉へ」
■パネリスト
桜井氏、杉山氏、青木弁護人、宮崎誠弁護士(大阪)、小坂井久弁護士(大阪)
■コーディネーター
秋田真志弁護士(大阪)
主催 日本弁護士連合会
共催 東京弁護士会 第一東京弁護士会 第二東京弁護士会(予定)
問合せ先 日本弁護士連合会 法制部法制第二課
TEL:03-3580-9481  FAX:03-3580-9920

2011年3月9日水曜日

思い出したけれど


 カメヤマさんって誰だったっけ?するとYさんが言う「ほら、@*#$&

 「『雪女っていうのはいい女じゃないとだめでしょ。私は雪ダルマならできるけど、雪女は出来ません』って断ったの。」(「高峰秀子」キネマ旬報社、2010年3月刊)

 ついつい思い出してしまった。誰にというわけではないけれど、申し訳ない。・・・。

「本人」様


 留守をしている間にたまった新聞紙の間に宅配便の不在票が入っていた。見れば送り主は「本人」となっている。はて、まったく身に覚えがない。懸賞にでも当たったのだろうか、そうだとしても本人名義で送ってくるはずがない。もしや。

 それをようやく、月曜日の夜受け取った。兄からだった。神戸名物の「小女子の釘煮」だった。兄嫁の筆跡だ。そんな季節だった。神戸あたりから淡路島にかけて一斉に漁になる。小女子干しに加工したり、神戸あたりではこうして生炊きにしたりして釘煮をつくる。昔、仕事で見に行ったことがある。これから伊勢湾・三河湾と続き東上、北上して最後には北海道に行き着く。それは5月ごろのことだ。寿都湾でも生炊きにしてお土産物にしている。

 それにしても、苗字はいっしょだから仕方がないが、名前だって住所だって違うのに「ご本人様」とはそそっかしい配達人だ。

 ひょっとしてそうではないかとは思っていた。早速、お礼の電話を入れた。副作用ですっかり毛髪は抜けたらしい。髭剃りしなくていいよと、声だけは元気そうだった。

2011年3月8日火曜日

だめよ


 不覚だ。しかも意志が弱い。昨日まで腹を壊していて、今日は大人しく帰ろうと思っていた。それなのに、人数が少なく断るのもそれもなんだなと思って、それならビールぐらいで済まそうと思っていたのに、焼酎の雲海ぐらいではどうもだめで、みなさんと同じ日本酒にする。この日本酒がまた酔う。まだ、8時過ぎですから酔うはずがありませんと店主のおばさんは言うが、結局は酔っている。みんな酔いたくて酔うのだし。

 今晩のハツネさんのヨガ教室に行き損ねた。まっ、日本の壊国TPPには反対だから、気炎を挙げられた。今宵催された我が社のオーナーとも言うべき人の話を聞かず、それに対峙するトップのアジも味があるし、そもそも面と向かって聞けるのは有難い。私たちは地に足付いた立場でなければならない。それでもって農業漁業をぶち壊してはならないと考えている。ただこれだけだ。このことに不覚はとれない。

2011年3月7日月曜日

富士山の傘


 都内でもまさかとは思ったけれども、みぞれから雪になった。昨夜遅くに河口湖方面から帰って来たので、一日違えばエライ目に遭うところだった。あちらはチェーンが要るほどの雪になったらしい。

 富士山の近くにあるリゾートマンションを週末に貸していただけることになった。それでつれあいは嫁のシホさんと、休みの日の水曜日に打ち合わせと称して、カラオケに行き発散もしたらしい。世代が違うのでお互い何を歌おうが関心を示さず自分の趣とするところを次々に歌ったらしい、およそ想像がつく。

 息子たちはインターネットで調べて食事処や買い物、メニューなんぞを考えていたので任せた。吉田うどんは名物であるそうで、まるで団子を食べているようなうどんでお腹いっぱいになった。

 富士山に傘がかかった翌日は天気が崩れると予報でいっていたが、ものの見事にそうなった。

2011年3月6日日曜日

膝の上


 膝の上で寝ていたら起きても泣き騒ぐことはなくて、しばらくしたらまた寝るんです。

 2泊3日の旅の最後に寄ったりっぱな構えの中華料理屋さんには運良く座敷があった。繁盛しているようで満員だったけれども、そこが偶々空いていて座れた。ちゃんとした中華料理屋さんのようで、そうしたら思いっきり普段食べたことのないメニューを注文する。シホさんはエビが好きなのでたっぷりエビ料理もいただいた。調度品も何もかもいかにもという立派なもので、お値段もいかほどかと思ったけれど良心的な内容だった。車に同乗させてくれた息子夫婦への慰労も兼ねて、ここは私のポケットマネーで済ました。

 その間、孫のソータローはシホさんの膝の上でぐっすり寝ておりました。

 帰りの車の中で、亡くなった母のことを思い出す。
 あるとき、歳老いて縮んでしまったような母親の姿を見て、私はこんな小さな人から生まれたのだとつくづく感心したことを。こんな小さな女の人におんぶしてもらって、抱っこしてもらって、手を引いてもらったのだと。でも、それは広いひろい世界だったような気がしている。

 現役のシホさん、四人育てたつれあい、私を生み育てた母、命を抱く母親は偉大だ。

 渋滞を避けて夜遅く出発したら、ほとんど高速道路ばっかりだったとはいえ、なんと河口湖から一時間余りで帰り着いた。

 私にも膝の上できっと、ぐっすり寝ていたときがあったのだろうと思う。

2011年3月3日木曜日

春なんだ


仕事に追われると季節感を失うことがある。今日はひな祭りだったんだ。

右肩が痛むのは、頻繁なクリックのし過ぎではないかと考えるようになってきた。

最近眠れないということはなかったのだが、昨夜、遅く床に就いても目が冴えてとうとう眠れなかった。仕事が増やされてのプレッシャーのせいだろうか、そうだとしたらとりあえず立ち向かうしかないので、さっさと起きて早朝出勤をした。あとで、カクッとくるのはわかっているのだけれども。意識が覚醒したままだ。

ここのところ通勤時間を変えているので、駅まで同じルートを通るのに光景が違う。ほぼ定位置で、乗車するのだが車両の中も雰囲気がまるで違う。6時前にもかかわらず、もう夜が明けている。くしゃみがでる、なみだがでる。春なんだな。

2011年3月2日水曜日

彼女派


 その同級生は大山君と言った。小学校のいつのときか転校してきて、中学のいつのときまでか一緒だった。こちらの方言を話さず、しかも言うことはずけずけといつも本音だった。

 あるとき由美子ちゃんと靴箱の前で遭遇した。すると、上履きを持つ手が震えた。大山君は、それを見つけて「そうなんだよな」とはっきり言う。まさしく皆その通りだったから、本人の前でどぎまぎした。見れば、大山君も生意気なことに震えていた。

 皆があこがれて、それゆえに距離を置いた。それが、本当の本物、アイドルというものだったのだろう。いい歳こいて、今でも胸がキュンとなる。

 長じて、クラスには久美子派と美智子派があった。もちろん掛け持ちもいた。 そういう対象になっていなかった彼女は超然としていた。尚且つ、未だに憤慨している。

 私は旗幟を鮮明にせず、ひたすらただひとり彼女派として尽くしたので、今がある。他の級友たちは誰一人として久美子さんも美智子さんも射止められなかった。

 遠い昔、昔の話だ。それにしてもアイドルというものはいたものだ。
勇気を持って、参戦することはなかった。
 ただ、昔から大勢には順応しようとしなかった。それがよかったのかもしれない。

2011年3月1日火曜日

先に立たず


 スカイタワーなんてひとごとだ。んで、交差点に出て見上げてぎょっとした。聳え立っている。

 実は浅草より向こうに行ったことはない。いや、あまりないように思う。
 夕方の会議がちんたらと長引いた。その方面は行き先としては聞いたことがあったが降り立つのは初めてだろう。「急行久喜行き」とか言われていったいどこをどうやって行くのだろうと不安になる。それでなくても時間が押し迫っている。なるほどそれで「押上」か、なんてつまらないダジャレを言っている。

 ん、亀戸!?僕たち千葉方面ですからと先ほどまで一緒に飲んでいたお二人とプラットホームで別れて、逆方向に乗る。全部各駅停車で乗り継いで、最後は愛想のいいタクシーに乗ってようやく辿り着いた。…という風に今宵は帰ってきた。毎度のことながら、日付が変わっていた。思い返せば、なかなかいい食事処で、あとは天神様などを案内していただいた。いいものだ。

 昨日は母の誕生日だった。母は百まで生きるといつも言っていた。百まで生きたらどうするのと尋ねたら、そのときはそのときよ、とも。

 後からだったら何とでも言える。

 年齢のせいもあったのだろうけれども母が認知症になったのは独りぼっちにしていたせいだと思う。

 母が87歳のとき、父の33回忌を催した。これからどうするのと、こちらにも妙案がないまま、兄姉みんなの前で母に尋ねた。独りで生きていくよ。あなたたちには家族があるから、そちらを大事にしなさい。迷惑をかけないと。

 兄は阪神大震災で被害を受けてままならなかった。そうでなくとも嫁姑の関係では無理だと思っていた。姉たちは嫁いだ立場だからと言うし、私もまだ子育ての最中であった。同居はできないけれど、近所に家を借りて住まないかと提案したが、それはこちら側の都合乃至気休めで、母はのってこなかった。母の気丈夫さをいいことに、独居状態を放置した。何の根拠もなく、なんとかなるだろうと。

 定期便のように毎月欠かさず食べ物を送った、併せてこちら側の様子を手紙にして写真を添えた。そういうことで済ませてあまり母のもとへ帰ることはなかった。たまに帰っても、まとわりつくように話しかけてくるので根負けして2階に逃げ込みあまり相手をしなかった。その辺が兄や姉たちとは違った。たまたま訪ねてきた人と2時間も話をしたと聞いたら、その人に迷惑をかけるからそんなことをするんじゃないと説教をするそんなヤツだった。

 一日中誰とも話すこともない。新聞やテレビの言うこともわからなくなる、興味もなくなる。どれほど寂しく、不安になっていったことか。医者の前に出ればシャキッとしても、認知症は忍び寄っていた。

 言い訳はできるが、まだ母が元気なうちにもっと足しげく、もっとふむふむと応対してあげればよかった。

 後になってみれば、なんとでもキレイごとは言えるものだ…。