2011年4月27日水曜日

復興支援へ

 21時48分つれあいは息子の車に同乗して気仙沼に旅立った。今晩はとりあえず宇都宮に住む下の息子の家に行って泊まり、明朝あらためて3人で出発する。
 義兄からベトナムズボンとチョッキが欲しいと連絡がきたのは日曜日の夜十時過ぎだった。おいおい、昼間のうちに言ってくれよと思いつつ、ホームセンターやワークショップを探す。節電の影響で閉店時間が7時半とか8時に早まっている。月曜日は早く帰って来れず、結局火曜日が出勤遅番の息子が朝のうちに買ってきてくれた。ワークショップにはいろんな珍しい品ぞろえがあって感心していた。ついでに買ったツナギを着て今日は出発した。義兄からは3階にあって被災を免れた家具類運びだしの力仕事を頼まれている。
 私は地震津波の万が一の際の心得を山下文夫さんの著書からの受け売りでつれあいに念を押して送り出した。留守を預かる。

2011年4月25日月曜日

美術館行き

日曜日は、朝早く起きてごそごそしていたらお腹を冷やしてしまったらしい。お腹をこわして難儀する。シホさんが帰省したので手土産の最中を送る。午後は二人でちひろ美術館に行き和む。まったりしていたかったけれど、震災の影響で4時閉館とは知らなかった。帰りにネコが描いてあるマグカップを求める。夜は栃木のイチゴワインを二人で飲む。映画「若者たち」を観る。お腹の調子はなんとか、…。また、夜更かしだ。

2011年4月22日金曜日

いまさらながら向き合うこと



 地震、津波(キラーウェーブ)、原子力発電(原子力エネルギー利用)、これまでこれらのことに触れれば思考が停止した。知れば知るほど考えれば考えるほど恐ろしい事態になることが漠然と見通せた。どれほど恐ろしいことになるか、それで思考が停止した。考えないことにしようと。目をそらすように面と向かってこなかった。
 地震、津波のような自然災害と、原子力発電のような政策・経済行為(金儲け)禍とは違う。今回はこれがいっしょくたに来た。しかも、従来から指摘されていたことだった。

2011年4月21日木曜日

三陸海岸



 背骨があってあばら骨があるように三陸の漁港に行くには内陸にある東北本線(新幹線)沿いの駅から、ローカル線に乗り継いで東へ、つまり海側へ出ざるをえなかった。中山間部を這うように行くのだが、若かった私にはそれはひどく時間がかかるたいくつな出張の旅路に感じられた。北から山田線、釜石線、大船渡線である。もう四半世紀も前の話になる。

 三陸沿岸は世界でも有数の漁場に臨む。豊かな海の恵みがある。鮭があって、イクラがあって、イカがあって、サンマがあった。わかめなどは肉厚で一級品だった。九州生まれの私がサンマは刺身で食べられるものだというのを知って感激したのは釜石の居酒屋のカウンターで30代半ばだった。仕事で三陸を訪れる機会が幾度かあった。

 あるとき唐丹(とうに)の人に女川まで車で送って行ってもらったことがあった。
 そうでなければ、釜石から花巻まで列車で出て東北新幹線を仙台まで南下し、さらに乗り換えて仙石線を石巻まで出てそのまた先の女川まで行くのは難儀だと考えた。地図でみれば逆「コ」の字を行く行程で不合理に見え、この三陸海岸を真直ぐに南下しさえすれば、やがて女川に着くだろうにと思った。それで、車で送ってくれるというのをそう遠慮もせずに乗せてもらった。
 本来リアス式海岸の浦々は孤立している。陸路を行くとなれば、上り坂下り坂の曲がりくねる難所を経ねば隣の浦には行けない(奄美もそうだ)。昔は「九十九曲り」と呼ばれるような難所(綾里町)がいくらでもあったそうだ。その名残りがあって道は1本なのだが、決して真直ぐではなく、幾重にもくねくねと曲がる道が続いた。もともと車酔いする性質だったから、これには参った。後悔した。ようやく旧北上川の流れる平地に出てきてほっとした。そして遥か遠い道のりを送ってくれた人はこれをまた引き返さなければならない。初めから判っていたことだったが、これは軽々にもこのような遠いところを送ってもらって悪いことをしたという二重の後悔の念が湧いた。
 昔のことだが平時ですら、このような道筋である。それが南北につらなる国道45号線だ。そのときのことはほとんど忘れてしまったのだが、いちどあのころに北から南に縦断したことのある三陸の町々が、このたびの巨大な津波に呑まれてしまった。このような甚大な被災に遭い、復旧に時間がかかった地形や道路事情がこのときのわずかな体験でも少し理解できる。

 山下文男さんという名はどこかで聞いたことのある名前だとは思っていた。三陸生まれで津波に関する研究と著作がある。また、自らも少年期に昭和三陸津波を経験し、またしても今度の津波を体験し九死に一生を得た。その著作のひとつ『津波の恐怖―三陸津波伝承録―』(2005年3月、東北大学出版会)をもうすぐ読み終わる。

2011年4月20日水曜日

美学



 つめに火を灯すような生活をこそしてはいないが、これまでの人生、生活の「始末」はつけてきた、つもりだ。日頃1円2円のことを気にしている。節水節電は他人や政府に言われなくとも実践してきた。我が家の水光熱費は人聞きが悪いほど少ない。もちろん、一方で私達らしい「贅沢」もしている。我が家のお金には何かのときのためのそれぐらいの余裕はある。

 それで、我が身内と我が同胞に「いざ」というときがきた。
 こんなときに、ポンとお金を使う。どうだ!

 どうも、そういうDNAが我が息子たちにも発露してしまっているらしい。沸騰している。私にとっては「義理の」ということになるが、この子たちにとってはかけがえのない祖父母に起きた不幸。伯父一家の被災、従姉妹の困難に直面していることになる。
 それで分不相応の見舞金や社会への義捐金を拠出している。
 長丁場だ、冷静にと私はむしろ制御にまわる。

 長男は時間をやりくりして資格を生かしたボランティアをする。下の息子たちは職務をまっとうしたうえで、忌引きをとってこのたび被災地に向かう。夜を徹して行き夜を徹して帰ってくる計画だ。

つながり仲間

つれあいはひと月を超した今でもお悔やみやお見舞いをいただく。
つれあいの出身地をふと思い出してひょっとしてと・・・、
あるいはうわさを聞いて・・・、
ある人からは聞いていたたまれない気持になってとお花をいただく。
我が家にとくに仏壇や祭壇はないが、遺影に飾る。
その花カサブランカの匂いでくらくらするほどだ。
ある人たちからはメールがとびこむ。感性の強いひとたちが多い。
山梨で市民ミュージカル「ドクター・サーブ」(中村哲さんがモデル)を開くそうだ、5月8日の日曜日なので私も行くことにした。

●作・演出/田中 暢 ●振付・演出/石橋寿恵子 ●音楽/Matsunobu
公演日◆2011年5月8日(日)
時 間◆昼公演:開場13:00 開演14:00
夜公演:開場17:00 開演18:00
場 所◆山梨県民文化ホール(大ホール)

2011年4月14日木曜日

復興を

 もう電気の無い生活には戻れないかもね、と同僚が言う。だって40階の部屋に歩いて上れないものと。

 いったい自分は世のため人のために役に立っているのかと思っている。

 このひと月がずいぶん長い間だったような気がする。第2火曜日の「会議」に出て、例会のように食事をともにする。要するに呑み会に加わる。それで、自分が何か実際に役に立っているのかという実感は無い。

 復旧ではないと考えている。復興だ。今までとは違う生き方で違う住まい方で。
 これからはそういう挨拶にする。

2011年4月11日月曜日

止まった壁時計

 報道に見る陸前高田や志津川のあたり一面跡形もない光景と違い、気仙沼市街はまだら模様のように跡形もない区画と家の外観だけが残った区画が入り交っている。 外観も含めて残った家の中も津波によって破壊されている。そしてヘドロとがれきの山が残ったらしい。 非番だったのか義理の甥のむっすう君が実家に入り、一階茶の間の壁時計に気付いた。「3時32分」これが父母の最後になったと考えられる。 2時46分に大地震が発生し、直後の大きな余震が続いたとしても、津波が襲ってくるまで30分ほどあった。警報も鳴っていたはずだ。家の裏に逃げれば高台はあった。「もん」は2階から物干しに逃れた、「さきちゃん」は船会社兼自宅の3階に逃げてそれぞれ助かった。近所の茶飲み友達「武山のご隠居さん」も隣の「タマキ」のおばさんも逃げて助かった。このへんが一帯平地の陸前高田や志津川の一家全滅、地域丸呑みとは違う。 逃げずにそしていざとなって逃げ遅れた可能性を考える。なにも死なずにすんだのではとも。 (画像はむっすうくんのブログから借用した)

2011年4月10日日曜日

セイコちゃん

 お昼近くの一関行きで帰途につく。がんばってねと別れを告げる。義兄は熱を出している。

 気仙沼駅を出れば少し雪が舞う。沿線は来たときと同じくのどかだ。花巻に向かう。    

 大きなリュックを貸してくれた二男の友人やお見舞いをいただいた人たちへのお礼に出来るだけ地元のお土産を買って帰ろうと思った。息子が探していた「かもめのたまご」はなかった。被災したからだ。

 つれあいの携帯にメールが入っていた。
「帰りのバスの中でしょうか

昨日はお世話様でした。
ばあちゃんじいちゃんときちんとお別れ出来て後悔することなく気持ちも整理出来たので行って良かったです。
私たちが心配かけないように生き抜くことが何よりの供養だと思うので、こちらはこちらで踏ん張り、あちらで二人も頑張っていて欲しいと願っています。

おじさま、おばさま、沢山お見舞いを戴いてしまい、申し訳なかったです。おまけに従兄たちからも沢山お見舞い戴いて、ビックリしました。 …私なんて大したことない被災者なのに
それにこんな世の中、お互いに大変なのにお気づかいありがとうございました。
ありがたく大事に必要なものに使わせていただきます。

本当にありがとうございました!!

昨日は少しの時間でしたが、みなさんに会えて嬉しかったです。いつか、また遊びに行きたいです。

それまで頑張ります。

気を付けてお帰り下さい。」

永久の見送り

 気仙沼だけの慣習なのか知らない。この地ではまず火葬に付してから葬儀に及ぶ。だから故人をひと目見てお別れをしようと思えば、まずは火葬場に急行しなければならない。そのせいか、山の中腹には広い駐車場らしきところがあった。父母の火葬の当日、そこではやむなくあとから遺体が発見された人たちの土葬が始まっていた。どこか外国のメディアがその様子を撮影していた。  

 火葬場は鹿折を奥に行った山の上にあった。市内からはバイパストンネルを通って鹿折には入れた。カメラに収めても、その惨状は表現できない。さほど大きくもない鹿折川に小型の漁船が打ち上げられ、車がひっくり返っていたり沈んでいたりする。両岸はえぐられたようになっていて、木材などのガレキが続く。

 陽子さんの背中におんぶされ育った孫のセイコちゃんは、朝3時に起きて娘のトモカちゃんをつれて車で駆けつけた。自分も名取市で被災した。ひと目会いたいとその足で遺体が安置してある白山小学校まで足をのばして対面してきた。白山小学校は上鹿折(かみししおり)という陸前高田の方にいったところにある。何の因果か、父母はここに隠居の家を持っていて週末を過ごしていた。セイコちゃんは父母の初孫で、うちの長男よりもひとつ年上。13年前に亡くなった姉の子だ。両親はポートで食堂を営み朝から晩まで働いていたので、ほとんどばあちゃんにあずけっぱなしだったのを覚えている。セイコの弟のユウジからもつれあいの携帯に連絡が来ていた。明日の火葬には行きたいけど行けないからと。東京あたりに住んでいるらしい。ユウジはうちの長女と同じ年だ。  

 父母は洗礼を受けてはいなかったが、祖父の茂七さん祖母のなおさん、弟妹たちがクリスチャンだったこともあって牧師さんの立会いによる「火葬の式」が慌しく執り行われた。賛美歌を唄う。最後のお別れをし、二人仲良く火葬に付された。約2時間半の後、骨をひろう。義父は小柄な人だったがりっぱな骨格であったことがわかる。ただちに、納骨のためお墓に向かう。お墓は実家の近くの、海の見える高台にあった。つれあいが通った坂の上の小学校の前にあった。祖父以来の納骨になり、墓石の下の納骨堂を掘り返し苦労して収める。とてもシンプルで素敵な墓石だ。これを揮毫したのは従兄の牧人さん。「志津川のおんちゃん」の三男で家族とともに未だに行方不明だ。達筆であったという。たまたま、昨年の夏、予告なしに叔父の家を訪ねていき再会したばかりだった。

 一番年長だからと母方の義理の叔父があいさつする。落ち着いたらいつか必ず「偲ぶ会」をやろうと。  

 ふるさとの墓地に父母は眠ることとなった。父の父母、夭逝した弟妹たちと一緒に。海の見える市街地の中の閑静な丘の上に。  

 もう夕暮れが迫っていた。駆けつけた親戚たちと別れを告げる。

語り伝えの忘却と街の「発展」

 被害が甚大だったと聞いた鹿折地区に行こうとした。    

 旧45号線を辿って行って、魚町三丁目のはずれの浮見堂の見晴台を越せば入れる。潰れた軒並みを進めば、道路は通行止めになっていた。歩いては行けるので行けるところまで行ってみたが、結局道路を塞いでいるのは数々の船であった。  

引き返してくるとき地元の老人に「どこから来たの」と呼び止められ話かけられた。表札をみれば三丁目の鈴木さんとおっしゃるらしい。「あの日は逃げなかったの。高台だから、逃げてくる人13人を預かったよ。昔は鹿折・高田に行く道はこっちだったの。」耳が遠いらしく、こちらは聞く一方になる。「レグズ」をみればわかる。先祖は農耕民族だから古町にいたの。気仙沼は魚がとれたから降りてきたの。私は「レグズ」という何か文献があるのかと思った。  

「レグズ」とは歴史のことだとしばらくして判った。

 鈴木さんの教授することを解釈していえば、気仙沼の町名の歴史と由来が想像できた。三陸では歴史的に何度かこのような大津波に襲われている。それが「貞観」以来の千年に一度のこのたびの大津波なのだったのだろう。年寄りも含めて、伝承と経験での知見は1896年の明治三陸地震、1933年の昭和三陸地震、そして1960年のチリ地震による津波だろう。とくにチリ地震が気仙沼では「波が“ちゃぷちゃぷ”程度だった(50cm)」という記憶が「津波」を甘くみた可能性が大きい。年寄りは異口同音にみなそういうことを言っていた。実際、志津川駅前にあるチリ津波のメモリアルの高さは1.9mである。それ自身でも甚大な被害を蒙ったのだが、今回はこの比ではなかった。街の中心にあった病院の4階をも越えている。    

おそらく、人間の民間伝承では忘れられただけのことであって歴史的に三陸は壊滅的な被害に幾度も遭っているものと考えられる。3月13日付の『河北新報』によれば「慶長三陸地震津浪」というのがあって、江戸時代初期に甚大な被害を蒙ったことが記録に残っている。  いつしか当地にはそういう地震津波による壊滅的な状態があって、中山間部から下りてきた農民たちは今の気仙沼駅の周辺に集落を構えたことが想像できる。もう少し海の方に進出していってここが「新町(あらまち)」となる。旧集落は「古町(ふるまち)」と呼ばれるようになった。当地は天然の良港だ、商業交易が盛んになる。市が立った「三日町」、「八日町」ができる。今の市役所あたりだ。そして魚が揚がる「魚町」が形成され、南に向かって「南町」ができる。魚町は魚で大いに栄え、繁華街となり大正・昭和の一等地であった。つれあいの祖父は行商から身を起こしこの一等地に店を構えた。      今回の3・11の大津波ではこの魚町、南町、八日町を壊滅させた。水は三日町にまで及んだ。古町までには水は及ばなかった。「レグズ」が確かに教えている。旧市街の南の平地に形成された新市街地も広く壊滅させた。気仙沼湾の奥、鹿折川に沿って奥深くまで津波は及んだ。船がごろごろ陸(おか)にあがっているという景観を呈している。

気仙沼記・2

 もう先々週の土曜日のことになった。朝7時54分に駅前から避難所のケー・ウェーブに行く循環バスがあるというのでこれで行くことにした。日に2本しかない。有料バスで450円もした。利用者もうちの家族とあと二、三人しか乗っておらずどれをとっても不合理に思えた。このバスは新市街地、南気仙沼の方を行く。こちらの惨状も表現のしようがない。いくらでもデジカメにとるのだが、あとで見ても臨場感はない。8時半前には着いた。大きな体育館だ。  

 義兄の頭の中を占めていたのは「生活再建」ということだったのだろう。当然のことだ。        

 今の今まで三世代、孫が生まれたので四世代で暮らしていた。まだ頼りにしていた両親を一度に亡くした。「遺産相続」をしなければいけない、「名義をどうするのだ」いろいろな不安が頭をよぎる。住めなくなった家をどうするのか、収入は…。思いつめているように見えた。    

 家の近くで街の中にあって被災以来3週間近くいた避難所を退去するようにいわれ郊外の体育館の避難所に越してきたのは30日、つい3日前のことだ。大きな体育館の一角でご近所のみなさんと一緒だったとはいえ、ここでは新参者になった。北側の端で、「開かずの扉」の先は遺体安置所になっている。来たばかりのせいか、パーテーションもなく一人一畳分のスペースで何かモノを置けばそれだけで狭くなる。バカでかい天井でうすら寒い、訪ねたときは午前中で厚くカーテンが閉められており、光がいかにも競技用の光線で生活に似合う光ではない。私には陰気臭く感じられた。日中は、動けるものはみなここを離れ、なにがしかしており、残ったものは年寄りぐらいのもので、それもまだうまくコミュニケーションが出来ているようにはみえなかった。衝立もなくぎこちないご近所付き合いが始まっていた。        

 ともかくも5人で面と向かい、慰みを伝え持参した物資と香典および見舞金の袋とそれを一覧にした目録を渡した。中味は後日連絡を受けて振り込むことにした。私の親戚から住む家の提供の申し出があって、これも伝えた。金沢と鹿児島である。鹿児島のことは当初本気で考えたそうだが、現実にはできない相談だった。当座を凌ぐだけのことであれば、我が家でもどこでも来てほしいと申し出たが、どうもそのことは頭にはなかったようだ。息子がやおら大きなファイルを取り出し、法的な支援(金)の見通し、実際の手続き、を知らせた。実はこのたびのような境遇への支援策への知識と情報がなくて困っていたそうだ。灯台下暗しで行政からの情報がはいらない、新聞は提供されるが早いもの勝ちで入手しづらい、様々な不安が募っていたようだ。段々に判ってきたが、義兄は家計を仕切っていた父の実印や通帳やカードを家の中のガレキとヘドロの中から探し出そうと必死になって毎日無理を重ねていたらしい。心にゆとりはなかったように見受けられた、無理も無い。慰め、やり方を伝え安心させようとするのだが、それらのことに固執してしまって目がテンになっている状態だった。すぐ後で決まったことだが、津波で1階の天井以上が浸かったところは「全壊」とみなされることになった。      

 この間ずっと親身になって支援に駆けつけてきている母方の従兄(岩手県)と、明日の納骨の準備をすることになった。その「準備」の意味するところがわからなかったが、それは当日になってわかった。

       
 息子の準備してきた法的支援策ないし手続きや見通しは、それこそこの避難所にいる人々の知りたいあるいは相談したい内容だと考えられた。息子は福島から一時的に避難してきたさいたまアリーナでもボランティアを引き受けた経験を既に積んでいた。身分証明書は持っていたので、この避難所の運営事務局に申し出て無料法律相談をかってでることにした。残って13時から20時まで、翌日は8時半から火葬に間に合う10時半までこれをこなした。相談に来る人は朝か夕方しかいないということでそういう設定をした。ニーズはやはり多かったようだ。帰りは足がなく、駐車場にいた人たちに片っ端から声をかけてそれで帰って来られたらしい。ばあちゃんが生きていたら、人の役に立つことをして「たいしたもんだぁ」と褒められたことだったろう。『三陸新報』を見て、法テラスが仮設の事務所を開き活動を再開するということを知り、帰る日に報告と挨拶によってきたそうだが、全ての記録が流されてしまい困り果てていた様子だったのこと。    

  私たちはもう一人の友人「サンダー」に連絡をとって会うことにした。エースポートという桟橋で待ち合わせすることにしたら、そこに残っていた3階建ての白いビルは同級生の「さきちゃん」の実家でこの人も3階に逃げてなおかつ家が流されず助かった。家の後片付けの最中に鉢合わせしたらしい。みな、すっぴんで恥ずかしいというが、そんなことに構っていられる状況でないとも思っている。「サンダー」も「さきちゃん」も同級生どうしで結婚している。もちろん実際の被災地は電気も水も来ていない。この後片付けは難儀だ。前の道路が舗装ではなくなっているのでどうしたのかと訊いたら、沈下したのだそうだ。港を回る道路なので早くに土を盛って復旧させたらしい。そもそもどこの道路も当初はガレキや車や場所によっては船!が道を塞いで近づくどころではなかったらしい。息子が歩いてきたところによれば、新市街地はそんなところがまだ残っているという。義姉によれば、魚の腐敗臭、重油の臭いが粉塵とともにいたるところにあるらしい。        

 サンダーの家にお邪魔することになった。道すがら、二人は話しているのだけれども、道の脇に船があっても、車がひっくり返っていてもまるでもうどうってことはないかのように自然に歩いていた。湾を見下ろす高台にある。それで家は難を逃れた。また、唐桑半島および大島の亀山に火の海を見た。「船がくるくるまわってそれに油で火が点いているの」(お母さん)。当夜は崖の下の都市ガスのタンクが爆発しないか生きた心地がしなかったそうだ。水も電気もそれっきりである。津波が来てから雪になった。雪をかき集めて風呂場に貯めた。トイレに使おうとしたが、いざ使うにはシャーベット状で溶けなかったそうだ。あまり持っては来られなかったが、電池式のランタンや即席食品を差し入れる。水は自衛隊が給水タンクで持ってくるようになって難儀しなくなった。しかしながら、当初、避難者を受け容れたものの家が残った自宅避難にはなんの救援もなくそれこそ飲み食いに困ったらしい。今でも水と電気が復旧していないので、明るいうちに夕食を終えただ寝るばかりだという。        

 次に被害が甚大だったと聞いた鹿折地区に行こうと考えた。

2011年4月9日土曜日

魚町一丁目二丁目三丁目

  つれあいの実家は魚町一丁目、大正時代から高度成長期までは商業の一等地。その名の通り、昔はここに魚市場があった。現在の魚市場もほんの少し南に行っただけの造成地のようなところにある。      

 実家の並びの五軒の建物は仲良く残った。ばあちゃんがいつも冗談で風が吹いてもここはいつも支えあっているのと言っていた。二階まで、背の高い姪の夫によればほぼ胸のところまで水が来た跡があったという。津波によって内部が破壊され、そしてガレキの山に襲われた。実家の向かいは鍵屋さん。みな屋号で呼び合う。酢・味噌・醤油を商っていた。流されて跡形も無かったが、「みんな無事」との立て札が立っていた。その隣は木田屋さん。りっぱな瓦屋根だけが残っていた。実家も古くからいる人には屋号で言えば「ああ、あそこの…さん」で通じる。      

 武山米店は実家の並びの角。ここに至る数軒が流されてガレキの山しかない。ここの建物はいかにも老舗の造りで市の登録文化財に指定されていた。かろうじて建っていたが、危険な状態。中の破壊はすさまじいもの。でもみな無事だった。別の地区にある倉庫で営業を再開しているとの札がぶら下げてあった。実はここの女将さん親子に姪は助けられた。当日、姪は非番で、所用があって子どもをつれて一関に車で行っており、その帰路に地震に遭遇した。すぐに家に電話をかけ、ばあちゃんの声を聞いている(これが最後になった)。実家に急行し、そして津波に襲われた。すんでのところで車を捨て、駆け出したところをこの米屋さんに「早く上がりなさい」と救われたそうだ。夫の「むっすう」くんは命の恩人だと言っている。    

 武山米店と二軒隣のヘアサロンの御隠居さんたちが、つれあいの母の茶飲み友達だったそうだ。    

 道路は三陸海岸を縦に貫く45号線。    

 旅館大鍋屋さん。三年前の姪の結婚式のとき、式の後、ここで両親と我々夫婦水いらずで(私が入ってそういうのかな?)食事をし、私たちはここに初めて一泊した。それで思い出深い。ここの息子さんは養子にいったらしいが、若くして自民党の代議士を務めている。    

 二丁目は海岸に面している。この海岸に面した通りを「魚町屋号通り」と称して町興し・観光資源にしようとしていたらしい。 気仙沼観光桟橋(エースポート)。大島航路の発着地。ここから見た実家の方向に地元酒造メーカー「男山」、崩落した事務所の二階部分が見える。これも市の登録文化財に指定されていたもの。






気仙沼記・時計塔

 つれあいの友人「もん」の住む市街地・南町(湾はすぐ近く)の中の時計屋さんの時計塔。画像は普通の街角のように見える。しかし、建物は残っているが、二階部分まで水に浸かっており内部は破壊されている。あの日の2時50分ごろを差している。だから、地震の影響で止まった事例かと思う。そして、話によれば津波は3時30分前後に襲ってきていると考えられる。

2011年4月8日金曜日

気仙沼記

 毎日余震だもの、来たらびっくりしますよと、予め義姉から聞いていた。事実そうだった。そして会った人たちもみな一様に言っていた。無い日は「地震さん、今日は来ないんですか」とも冗談で思うほどだったそうだ。

 それが、昨夜(23:32から)の強烈な余震だ。生きた心地はしなかっただろう。復旧しつつあったものが振り出しに戻っていなければよいが…。

 駅に降り立った限り、一関からつながる284号線を緊急車両や支援車両が通る光景を除けば、ただののんびりとした地方の駅前風景だ。ちょうど郵便局があって、入ろうとするが扉が開かない。時間の感覚がなくなっていた。まだ、9時前だった。慌てて出て来たので、持ってきた見舞金をATMで入金する。避難所住まいで大金は受け取れる状態にないと判断した。当座の金は渡せる(それも無用心だから要らないと言われた)。

 駅から歩いて10分ほどで祖母のなおさんの家に辿り着く。独り暮らしで地震が起きてから妹さんの家に避難していたと聞いている。事前に「米も味噌もある、電気も来た、水も出る、安心して来い」とは聞いていて、荷物から2Lの水や缶詰は置いてきた。そうは言っても心配かけまい、やせ我慢ではないかと思い、自分らの食べる分ぐらいと寝袋は持ってきたが、取り越し苦労だった。なおさん自身が準備した食べ物と、我々の分、あとから到着した仙台の叔父夫婦との食糧などと併せて、とくにパンなどは溢れかえった。布団は誰かから借りてくれたらしく、ちょうど人数分あった。4畳半二間に我々5人が逗留させてもらうことになる。なおさんは87歳、祖父の後添えで子はできなかった。叔父も私のつれあいも血はつながっていないが、親子・孫同然だ。なおさんは竹を割ったような性格でお料理が上手だ。孫の私たちには優しいが、叔母の美重子さんには「これ、嫁」と手厳しい。美重子さんもよくつくす。

 連絡があり所用があるということで兄の家族とは夕方近くまで会えないことになった。ようやく駆けつけたというのにと怪訝に思ったが仕方ない。姪夫婦も勤務があって会えない。とにもかくにも歩いて街に行くことにした。1月に来たばかりだったが、ここ古町から歩いたことはない。遠いからと、駅からは車でいつも迎えに来てもらっていた距離だ。気仙沼の市街地は、駅から一本道だ。旧45号線に沿って旧市街地は長く続く。1月に来たとき果てしなきシャッター通りと感じたところだ。狭隘な平坦地に沿って海(港湾)に続く。この道は市街のあちこちで突き当たりになって鍵状に曲がる。このたびはなんども往復して海に向かって緩やかに坂道になっていることを実感した。そして海に向かって右手にはところどころに高台があることも。リアス式海岸に沿う大きな港町のこの複雑な地形が、高田や志津川のような平坦な地形で全滅に近い光景とは一線を画した。「壊滅」したのはこの高台の向こう側の新市街、昔は何も無かったというところに開発された平坦で広い区画だ。ここには全国どこにでもあるような大きな量販店が軒を並べて街の賑わいはこちらに移っていた。海岸に近いところには水産の設備や加工場が数多くある。「壊滅」のもうひとつの地域は鹿折地区、旧市街の魚町の向こうだ。湾の奥に沿って平坦地が続く。いずれも川があって津波はこれを怒涛となって遡った。そして津波を被ったのは旧市街だ。「大正屋号通り」と銘打って観光開発しようとしていた。つれあいの実家もこの中にあった。地元の老舗は港近くのこの伝統ある一等地にお店や事務所を構えていた。そして繁華街・飲食街もここにあった。漁船が寄航し船員が馴染みの銭湯、日用品を供給するお店、そして旧赤線も魚町の奥にあった。静かな湾とはいえ海は目と鼻の先だ。しかし、志津川のように走って逃げても間に合わないような地形と違って高台は遠からずあった。

 原発の深刻で日々憂慮すべき事態の進展とは違って、地震と津波の被災地は日々復旧しつつある。あれほど言われていたガソリン事情は訪問する直前に好転した(我々の住む居住地とほぼ同じだ)。もうガソリンスタンドに並んではいない。何もないだろうと想像してきた商店やスーパーにはモノは揃っていた。米もパンも納豆もペットの水もトイレットペーパーもガスボンベすらもあった。日々変わっていく。やはり無いのは乾電池ぐらいのものだった。

 私たちが到着したのは四月一日だ。この日をひとつの目処に復旧に努力したあとがうかがえる。鉄道がそうだ、新聞がそうだ、電気・水がそうだ、そして個人の蕎麦屋さんもそうだ。営業を再開した。一関発気仙沼行きの一番列車に乗った。『三陸新報』これは気仙沼だけの地元紙だ。すべてが流された。それでもコピーB4版裏表で発行を続けた。同業者の支援を得て、ペラ1枚だが新聞の体裁を整えて発行を再開した。いま、地元で知りたいことが書いてある。『河北新報』は宮城県の地方紙だ、被災者を励まし続けてきた。電気が51%、水が44%復旧したらしい。古町のなおさんの家は早くにこの恩恵にあずかった。ただ、東北沿岸の自治体の下水道処理施設はほぼ一様に海岸沿いにあって壊滅した模様だ。これが深刻だ。現在、いや長いこと垂れ流しの状態にあると考えられる。3日には行政から各個配布があって、排水を控えること、トイレの紙は燃やせるゴミで出すようにとの協力要請の内容になっていた。海岸に近いところの町中のマンホールがあふれ出す危険性にも触れていた。

 気仙沼に向かう車両の中で思った。穏かな日和であることを、まるでウソのようだと。どこかに、「日常」と「非日常」の境目があるはずだと。やがて、この一帯の目印の山である室根山が見えてきて、線路は緩やかに下っていくのがわかる。道路には災害派遣の自衛隊の車列が見えてすれ違う。室根山はあの様子をきっと見ていたに違いない。海の怒りのような津波を。「火の海」を。  


 ガソリンが手に入ったとたん街は車で溢れかえった。旧市街は一本道だからながく長く渋滞する。私たちのように歩いたほうが早い。大分・別府の自衛隊車両、大阪ガスの工事車両、どこそこの工事車両や緊急車両が駆けつけて来ているのがわかり、すこし胸が熱くなる。コープみやぎの車両も健在で街中を行き交っている。

 学生時代「ここのピーナッツせんべいが名物なの」と自慢して、彼女がお土産に買って来てくれた「小山大(おやまだい/屋号)」のお菓子屋さんが営業を始めていた。ここら辺まで水は来ていた。ピーナッツせんべいは工場がだめで再開できていないらしい、そのかわりどら焼が出来上がっていた。飛ぶように売れている。私もなおさんのところと、これから訪ねる被災者の友達へのお見舞いに菓子折りで買い求める。

 気仙沼はよくとりあげられその惨状が映像に流されるが、北の「陸前高田」と南の「旧本吉町(現在、気仙沼市)」、「南三陸町(志津川)」の「あたり一面壊滅」とは、違う様相だろうと考えられた。どこかに天国と地獄の境目があるはずだ、どうもここら辺であるらしい。あれから3週間を過ぎている。畳が積み重ねてあった(翌日には無くなっていた)。帰り道で聞いたことだが、市役所近くの駐車場の空き地には姪っ子が乗り捨てて命拾いした車が積み重ねてあった。さらに進めばがらりと劇的に光景が変わっていく。「もん」のお店はこちらだとメイン通りを曲がってその商店街に入っていく。建物はほぼ残っている。だが、中は壊滅だ。ガレキは山となって歩道に積み上げてられてある。歩くことができる。乾いたヘドロ。天気がよくって粉塵がすごい。ドブ臭がする。ふた昔前の、東南アジアのどこかの田舎町に迷い込んだような光景を想像する。彼女は避難所にはおらず、お店にいるというのでそのお店の脇から入って訪ねていく。隣との境の高いブロック塀が歪んで残っていて今にも崩れ落ちてきそうだ。息子さんがいてお店のなかを片付けている。大きな声で呼んでようやく「もん」と再開する。初めましてと挨拶される。そうか、私は禿げ頭になったし昔の面影はない。「もん」もそうだ、ショートカットにしていっぺんに老けて見える。いや、このたびのストレスがそうしたのだろうとあとから思った。「涙の再会」を予想していたが、そんなことはなかった。会う人会う人みんなそうだった。みな気が張っていて、気丈もしくはあっけらかんとしていた(ように見えた)。もちろん、話し込むうちにお互いの不幸と困難に涙ぐんだのだが。当事者にしてみれば泣いている場合ではなかった。

 犬を抱いて3階にあがって干し場から逃げたの。あのとき道路に出ていたら助からなかったという。そして、水が引いてすぐ上にあるお寺の避難所に逃げたという。寒かった。暗くなった。煙があがった。愛犬とははぐれ避難所の下で、一晩中鳴き声が聞こえたという。犬とはつきあったことがないが、思いっきり撫でてやる、そのときは大人しくなるが離れようとすると吠えられる。躾ができなかったようで他人にはよく吠える。ポポという名らしい。別れにお見舞い金とどら焼の菓子折りを渡す。「甘いもの食べたかったのぅ」と心から喜ばれる。

 つれあいが「こっちの方向」と指す方向に実家をめざす、すぐそこだ。時計屋さんの時計塔が2時50分あたりを指して止まっている。地震で何故ああいう風に止まるのだろうといつも不思議に思っているのだが、その現物を目の当たりにした。  


 車が建物の中に突き刺さっている、ひっくり返っている、船が陸にあがっている、重油タンクが湾に浮かんでいる、どれもこれもそのうちに不思議に思わなくなってしまう。それでも、つれあいは区画、区画ごとに変わり果てた故郷の姿に息を呑み、その光景に嘆き悲しむ。

 『男山』は地元の清酒だ。この銘柄は各地にあるように思うが、少し山手の工場と蔵は残った。ポートに面するりっぱな石造りの事務所は崩落した二階部分だけが残った。6日のニュースによれば元気を取り戻そうと充填を再開したらしい。港側に面した「白馬」という大きな鉄筋3階建てのスナックと、他の家の頑丈そうな石造りの土蔵が残った(土蔵は街中でも比較的残っていた)。港側にあるこれらの建物に守られたのかしらないが、実家の区画は建物だけは残り、二階まで水をかぶり内部が破壊された。実家の3軒向こう以降の区画は流されたようで跡形もない。また、お向かいも二階部分だけが落ちて残っているだけである。要するにぺしゃんこ。「水を被った」と表現するけれどもこの「水」はただものではなかった、ヘドロだ。実家では建物が流されなかった分だけ、上の階には遺り物があってそれを掻き分けて貴重品などを探している。今は会えないはずの義姉と姪と甥っ子にたまたま遭遇する。中を見せてもらう。少し表の光が入って見ることができる。これから、義兄の友人宅にお風呂をもらいに行くところらしい。

 メイン道路に沿って古町へとまた長い道のりを辿って行く。

 結局、夕方になって義兄とはなおさんの家の玄関先で会っただけで、明日こちらから避難所に行くことになった。なおさんが美味しい味噌汁をつくってくれて、ありあわせのもので夕食にした。なおさんも叔母もクリスチャンで食べる前のお祈りをした。

 なおさんの家では風と余震と何かの振動で、身体が揺れるのを幾度も感じた。

2011年4月7日木曜日

被災地気仙沼へ

 とにかく何とか一番早く確実に被災地に行く方法はないかと息子に検索してもらって、花巻まで行く深夜バスがあることを知り、それがあと3席ということで押さえたのは20日のことだった。出発の前日、岩手県摺沢の叔母さんから電話があって花巻まで行かずとも水沢で降りればいいということと、大船渡線が気仙沼まで開通するという情報を得た。    

 池袋駅西口7番バス停。着いたときにはまだ誰も並んでいなかった。集まってくる客に私たちのような重装備の人はいない。一緒に行く長男と合流。イーハトーブ号22時40分発。バス停の案内を見て、気付いた。このバス停からは通常ならば、気仙沼経由釜石行きの深夜バスがあることを。そういえば、義父母は朝早く我が家に来て、夜に帰ることがあった。深夜便のバスを使っていたんだということを、そして発着場がここであったことを、初めて知った。なにも歳なのだから、新幹線でくればいいといつも説教していたのだけれども。二人とも持病は一切なく、車に酔うこともなく、またどこでも眠れたようだった。

 3列のバスは初めてで、厚いカーテンがあって眠れるように座席がぐっと傾く。狭いようだがトイレもあって、運転手が交代する以外は目的地まで途中止まることはない。その交代要員の運転手の寝所は下の荷物置き場の横にあった。閉めてしまえばどこにあるかわからない。  

 水沢駅前に着いたのは早朝5時20分。到着してみれば、バスは3台だった、増便したのだろう。それを考えれば、もっと早く行く日にも増便していたのかもしれない。初めて降り立つ駅だが、なにかの因縁だろうか、関東大震災後の復興に東京市長として腕をふるった後藤新平の故郷であるらしかった。上りの一関行きは6時半発だ。窓口で気仙沼行きの切符を買う。窓口では一関駅に電話をしてくれて本日開通することを確かめてもらった。途中、濃霧で列車が遅れたが、一関に着けば向かいの乗り場が気仙沼行きだ。7時19分発。食べ物も飲み物も持ってはいるが、買えるところで買っておこうと息子にお弁当を買いに行ってもらう。列車は2両編成で復活第1号だとは思うが、さほど乗ってはいない、また、被災地支援で行くのではないかと思しき人たちもさほどいない。私たちは、バックパックにリュック、登山靴、に寝袋という「いかにも」といういでたちである。

 出発してまもなく息子が、カメラが見当たらないことに気付く。弁当を買いにいったときに慌てて落っことしたと考えられた。女の車掌さんが乗っていて届け出る。間もなくして、駅でみつかったという知らせをいただく。確か宮沢賢治が勤務した鉱山の工場がある駅だと思うが、ここで降りて、引き返す。ちょうど、上りと下りが行き合うところで待たずに引き返せた。あとで合流することにする。

 水沢に着いてからずっと車中から除く風景は穏やかで、本当にあんな惨状があったのだろうかと不思議に感じた。気仙沼に近づくにつれ列車は地形を下っていく。並行して走る道路に自衛隊の車列を見つける。さてどうなっているのだろうと、いよいよ臨場感を抱き始める。近づくにつれ、徐行をしながら走っていた列車は10分ほど遅れて気仙沼駅に無事到着する。被災地は「壊滅」と聞いていたから、何日も前に仙台の叔父とつれあいが連絡をとったときに、「ホテルに泊まれば」とか、「タクシーで移動すればいい」とか、言っていたので何をとぼけたことをと思ったのだが、現実には駅前には何台もタクシーが止まっていて、駅前のビジネスホテルも営業している様子だった。 到着の最初の印象は拍子抜けだった。

2011年4月4日月曜日

弔いを申す

三陸の港の町の
海を畏れし土の民
古町(ふるまち)
緩やかな坂を下りて
新町(あらまち)
三日町(みっかまち)
八日町(ようかまち)
湊の繁盛、魚町(さかなまち)

魚町に育った父様(ととさま)の
魚町に嫁いだ母様(かかさま)の

静かな父様の
明るい母様の


御死に顔 拝み申し候

穏やかでは
穏やかではありませなんだ

津波に呑まれた
父様の
津波に呑まれた
母様の
水に打たれた
父様の
水に打たれた
母様の

打ち傷の
唇膨れ
口開き

唇が腫れ
口が開いて
おりました

あな畏ろしや
あな畏ろしや

ひ孫へ伝うべし
そのまた孫へ伝うべし

讃美歌に送られ
白い骨になりました
海を見おろす家族のお墓に
二人揃って
納まりました