2011年10月27日木曜日

ペダルを踏んで(2-1)



 ハローワークは隣町にある。電車で二駅。電車賃がもったいないので自転車で行く。何度か通った。9月には二度ほど帰りに雨に祟られびしょ濡れになった。幹線道路は交通量が多くおっかない。それで段々に脇道抜け道をみつけていった。今日もそうだ、武蔵野の林の中の道と農道。住宅街の中の道。

 震災の直後、停電や「計画停電」があってまともに電車が動かぬと思われたので、量販店ではなく近くの自転車屋さんでブリジストン製を求めた。三段切り替えのママチャリ。やはり国産のブランド品は乗り心地が安定している。つれあいがこれを使って隣町の職場に通ったのは一度だけだった。電車がストップしなかったからである。それで、今は私がたまに使わせてもらっている。ちょっと遠出に使う。

 どこか心の奥底に自分は欠陥人間だという自覚がある。そうでありながら、それを逃れるように自愛している。思えば高校のときからそうだ。そんな自分に北杜夫さんの作品は相性が良かった。「どくとるマンボウ」は洒脱な装丁とイラストに惹かれて手に取り、高校時代夢中になって読み漁った。それなのに、もう中味は覚えていない。本は確かどこかにとってあるはずだけど…。

 昨日はチカさんのお見舞いに電車とバスを乗り継いで行った。久しぶりに地元デパートの本屋さんに寄るがろくな品揃えはないように感じてすぐに飽きる。思えば、私の郷里の本屋さんにもろくな本はなかった。岩波文庫すらなかった、あるのは受験参考書ばっかり。つれあいが編み物を勧めようと入門編の本と毛糸玉を買い求めた。

 2年前にできたばかりの都立の総合病院。今様にできていて勝手がわからない。チカさんのような危険な状態の妊婦さんは即入院となったらしい。ここは彼女の実家からも遠くはない。まだ6か月なのに、細身のお腹がつきでるように目立ってきた。歩くことはできるが、今のところ四六時中点滴状態でいるそうだ。お見舞いに編み物の本と毛糸玉を渡す。読み物はできるらしい。好みがわからないけれど、北杜夫の文庫本でも貸してあげようかと申し出た。ああ亡くなった方ですねと、当日のニュースは承知していた。

 帰ってきて、あらためて地図をみたらその都立病院までは隣町のハローワークまでの距離の倍ある。つまり自転車で、片道約1時間で行ける算段だ。さらに渋谷まではこの2倍ある。ということは約3時間。机上では日帰り往復が可能だ。

 自転車に乗ってさっそうと駆けて行く自分を思い描く。それは高校時代にも夢想していたことだ。実際には汗だくで顎を出して、途中でくたばるのが落ちかもしれない。中高校時代、故郷の町から県都まで片道3時間、車優先の国道3号線を何度か往復した。オンボロ自転車で。気概があった。

 業界は自転車用のナビに力をいれるらしい。関西系の大手の自転車専門店のチラシを捨てずにとっていてたまに溜息をつきながらながめている。

 いい匂いがしてきた。つれあいが今日届いた生協の紅玉でリンゴジャムをつくっている。鼻歌まじりだ。

 段々に遠出をしてみようか。

2011年10月25日火曜日

夢中なもの

 ストレス解消になるという。夢中になれるらしい。

 たしかにあっという間に編み上げて、そろそろ完成に近い。器用なものだ。この間、うちにとってあるボタンを合わせてみたが、いいものがなかった。

 私は付きあっていたころ、実家に残してきた愛猫の話をよくした。それで、それをモチーフにして「♪夜なべをして、手袋編んでくれた」のはもう40年くらい前のことだ。もちろん大事にとってある♡。

 実家の支援に帰った初夏のころ、亡き母親が遺した編みかけの毛糸を引き取ってきていた。これを使ってできあがりつつあるのは、ソータロー用の「フード付きジャケット」だ。この前、また熱を出して預かったときに身体に合せてみた。少し大きかったみたいだ。いや、孫の方が小さいわけだ。食が細いようだから。

 私のお気に入りの毛糸のカーディガンがさすがにくたびれてきた。アイスランドから買ってきたものだ、もう20年ぐらいにもなる。それで、私にもそんなものを編んでくれないかとせがんでいる。

 つれあいは長男ところの生まれてくる赤ちゃんのおくるみも引き受けてしまった。ただ、二人分だ。

 入院中のチカちゃんにも編み物を教えてあげたらいいねという。
 明日は二人でそのお見舞いに行く予定だ。夕方にはソータローも預かることになっている。おっと、その前にハローワークにも行かねばならない、これはユウウツ。

 つれあいはせっせと編み物をするのが好きらしい。そういえば、そうだった。

義兄のお土産

 訪ねてきた義兄からお土産をいただいた。「笹かま」だ。重い宅急便だったので、なにか他の荷物でも入っているのかと思ったら、支援をしてくれたのでうちの子どもへもそれぞれ渡してほしいという人数分だった。「東北人はこういうことに義理堅い(司馬遼太郎風表現)」。

 南町の蒲鉾屋さんがようやく製造を再開した、その最初の製造品だという。他の蒲鉾屋さんはまだ再開しておらず気仙沼では最初の復旧品だからという特別の思いがある。義兄の上京にまるで合わせるかのように、お土産には意味のある最適品になった。

 気仙沼の南町は旧市街の一の繁華街で飲食店も多い。津波の被害がもっとも甚大だったところのひとつだ。先日のNHKでも報道されていたが、復興への意欲は大きい。それに比べて、隣の我が町は「ないね、そういうこと」と義兄はいう。

 甥っ子はビールなんて飲んだことはない、いつも発泡酒だという。うちの息子もそうだよ、あたりまえだと言って返す。金色をした缶のヱビスビールをふるまいながらみなで、わさび醤油でその笹かまを味わったのは土曜日のことだ。そして、みなが来てみなが去っていった。


 次の土曜日に都内で、シャンソン歌手の湯川あきさんがチャリティーコンサートを開いてくださる。つれあい繋がりで、収益金は気仙沼支援に寄せるという話を紹介してチラシをみせた。忘れられていないんだね、「そういう話が一番励みになるの」と義兄は言っていた。

2011年10月22日土曜日

21年目の約束




 二人の母親は12年ぐらい前に亡くなった。つれあいの姉だ。

 つれあいの実家に家族全員で訪ねた21年前の夏休み。義父母が週末の隠居のように使っていた田舎の家に寄り集まった。姉の子は毎年夏休みいっぱい実家に預けられていたという。うちの子4人、兄の子3人、姉の子2人、頭はセイコちゃんが中学に上がりたてで、小学生から未就学児まで9人。振り返ってみればそれが最後だった。川遊びをしたビデオを撮った。

 姉の子はセイコとユウジ。母親は夫とともに食堂を営み朝から晩まで働いていて、夜明けから夜更けまで二人の子を実家に預けっぱなしだった。それで祖母である陽子さんがまるで育ての母となった。一念発起、独立して関東に出てお店をもったものの半年で失敗した。聞けばユウジくんが小学生のときであったらしい。仙台に舞い戻り、両親は一からやり直すはめになったが、夫婦間に不和が起き、働き過ぎの母親は病に倒れついに帰らぬ人となった。それはユウジくんが17歳のときだったということを、駅まで車で送っていくなかで聞いた。

 父親と諍いを起こし、家を飛び出してきたと言って、叔母である我がつれあいを頼って突然上京してきたのが11年前だった。着の身着のままだったので長い人生のことを諭し返した。ユウジくんとはそれ以来音信不通だった。

 このたびの大津波で、二人は育ての親にも等しい祖父母を失った。その遺産相続の話し合いで、相続人であるつれあいの兄、甥姪が我が家に集まった。そのつれあい達の話し合いが終わり、鍋を囲みささやかな宴を終えたのち、昔のビデオを披歴した。ずっとこの姉弟たちに見せたいと思っていた。そこには純真無垢な子どものときのいとこどうしがいる。ユウジが一番元気だった。画像のなかで「ユウジくん、大きくなったらこのビデオ見せるよ」と言っていた。そのシーンで思わず目を合わせた。

 結局、家出して以来父親のもとには帰っていないらしい。都内に住むユウジくんはどんな生活をしてきたのだろう。

2011年10月17日月曜日

赤胴鈴之助似のくるくる目

 漫画家の武内つなよしさんが描く「赤胴鈴之助」似のくるくる目。立て板に水の雄弁。あのときの印象のままだった。9月の末の前回の会議で6年ぶりぐらいに再会した。そのとき会議の終わったあと焼鳥屋さんでみなと一緒に飲んだ。「わずか3kgの種味噌だけど・・・」に始まって、いかに意義のあることかと見通し、熱き思いを理路整然と語る。途中、8時までにはここを立たないと家に帰り着つかないと言うので退席をする。会えてうれしかったと握手を求めれば、思わず固く握りかえされる。

 当時、いつものおおげさな表現で「埼玉のチベット」というところに行くぞと執行役員から誘われた。夜の内に入り翌朝から行動する。同行相手はもう一人、大学の教授、行き先の生産者を引き合せてくださる。公用車を使うというから本来は平職員の私がハンドルを握らなければいけないのだろうが、運転に自信はない。免許をとったのは30代後半。業務で使う経歴もなかったし、普段も遠出はしない。構わんよと言われて執行役員の運転で大学教授は助手席に座り二人で親しげに語りながら、私は後部座席に小さくなって座って行った。

 平成の広域合併で今はなくなったが、神がかり的な名前の村で、村をあげて環境保全と有機農業や林業の振興を行っていた。埼玉県とはいうもののほとんど群馬県との境で、国道を進めば上野村にも通じる。その醸造メーカーはここのそういう施策の中心的な企業ということだった。ここの山に湧く水がいいということで、わざわざ工場を移転してきたという。そしてこのような事業を展開するこのメーカーのキーパーソンだというのが彼の印象だった。もとは商社マンだったという、語学も堪能らしい。若くして生き方を変え、この埼玉の片隅で醸造業の管理職を務め、我々を案内して説明するにしても穏やかであるが見識は広くまた深かった。

 窓口になるようにといわれて2年ほどお付き合いをして、つないだ。そして私は帰任した。今でも撒いた種はつながっている。いつだったのだろう、紅葉と特産の三波石の映える川面が見事なときだった。その美しさを覚えている。これからの時期になる。

 当時一緒に親しく飲んだ記憶はない。今日は遅くなったから飲むことなく別れたが、酔えば2時間ぐらいはしゃべりますよと言っていたが本当だろう。穏やかな口調だが、中味は柔軟かつ豪快、人の生き方として筋が通っているから人をして納得させる。

 また、めぐり合えたとは不思議な縁を感じる。相性がいいというのだろうか。
 赤胴鈴之助似の人懐っこいくるくる目。

2011年10月16日日曜日

川越まつり

 明け方まで激しい雨が降り後は晴れていった、そして気温がぐんぐん上昇した。天気予報のとおり9月初旬並みだという。その異変のせいか、午前中は我が家のまわりを多数の蜂が飛び回っていた。普通の蜜蜂のようではなくスズメ蜂のようにみえる。外に出入りすることがあって玄関を開け放しておく時間があったら、室内に蜂が入り込んでしまっていた。例によって大きな窓にぶつかるばかりで、外に出て行くことができないでいる。また放っておけば朽ち果てる。短時間に数多く迷い込んでいたので追い出すのに苦労した。

 来週は人が泊まりに来るので布団が三組あったか確認する。あった。布団を干すなどしておかねばならない。その点は、今の私に時間的問題はないので、晴れさえすればいい。

 チカさんが入院したらしい。出産までずっと入院している可能性が高い。母子ともに無事であることを願う。そういうお見舞いのメールを送ったら、お腹のなかの二人の赤ちゃんは元気そうで、点滴を打ったら不調はおさまりましたと返信がきた。

 夕方、といっても5時過ぎでもう暗い。電車に乗って川越祭りに行く。昨日は雨で行けなかった。山車の「曳っかわせ」という見どころがあるらしい。山車が曳かれて、山車どうしがすれ違うとき正面を向き合わせてお囃子の儀礼打ちをするという。こちらに、引っ越して来て25年近くにして初めて見物した。関東は女の人も山車を曳く、それがいいねとつれあいは言う。すごい人出だった。最近歩く時間が減っているせいか長時間の雑踏のなかの歩行で膝が痛む。深窓に居てはあきまへんな。

 日記をつけることはあるにはあるが、とくに何でもない日々をおくり、ついつい放り出してしまう。後日、何をしていたっけという振り返りができないな。いや、何を考えていたのやら、わからない。考えたがらなくなっている可能性がある。ネガティヴな感情を置く、そうして何も考えていないその境地、それも望んでいたひとつかもしれない。

 人とのつながりはそういうわけにもいかないが…。

2011年10月8日土曜日

家族で祝う会



 昨夜が遅く帰り着きましたので、今日は朝風呂にしました。そうしましたら、指定の集合時間に少し遅れて横着をしてしまいました。そして、本日はお日柄もよく、好きなだけ昼酒に浸りました。川越の料亭で子たち全員が祝う会を催してくれたからです。「お疲れ様と新しいスタートを祝う会」ということで。さすがに料亭、みんなが揃って総勢9名でもお部屋がゆったりで庭もりっぱです。渡り廊下には猫もやってきまして、障子窓からこちらを覗きこみます。もう何日も前からこの日程を決めてもらっていたのですが、とくに何の準備もせずにこの場に臨みました。何かの準備とは、あらたまって記念品を配るとか、気の利いた半生記を語るとかということです。確かにそういうことも考えたのですが、途は半ば、あらたまっていたしませんでした。
 
 チカさんは6か月ですがもうお腹が目立っておりました。ソータローはりっぱに人見知りをしておりましたが、半分過ぎたころようやく慣れたようでした。赤ちゃんから幼児になって、久しぶりに会った三男は驚いていましたね。ダーツで招待旅行の行き先を決めるという余興をさせてもらいました。小笠原を当てたかったのですが、広島を当ててしまいました。今のままではおそらく行きたいという発想は起きないと思いますから、これも何かの縁行ってこようかと思います。子たちへのあいさつやけじめもこれで終わりました。みんな社会人になって、母親や父親になってりっぱになっていきます。わたくしは地位も名声も何も持ちあわせることはありませんが、「子は宝」そのことを実感しました。困難な環境になりましたが、孫子たちと健やかに暮らしていけたらと念じています。

 良い天気が続き土曜日の小江戸は人でごった返しておりましたが、来週は川越祭りもっと混雑いたします。楽しみにしていましたこの日、穏やかな日和でありました。

2011年10月6日木曜日

あかんなぁ

あかへん。朝起きたら口から関西弁が出てくる。
朝ドラ見始めたからじゃない、とつれあい殿はそっけない。
そや、そや。

日記(ブログ)をつけなくなったので、いつ何をしていたのか、なにを感じていたのかわからなくなってきた。
ほな、寝よか。

2011年10月2日日曜日

いわば、こう

 なんだったかと思うと「フクシマ」のことを夢にみてしまっているようだ。おじけづく自分とおじけづかないようにする自分がいる。

 山道をのぼりながら考えた。見ず知らずの人たちと一緒にいるのだけれども、山を行く人たちに悪い人はきっといないな、と。ヨガをする人たちにもそういう人はいない感じがするように。こころ穏やかになっている。

 僕は臆病でいけない。
 寒さと強風とそれに岩場。
 頂上付近。大げさに言うと太平洋側から山の頂上を少し越せば日本海側だ。岩場を跨げばその日本海側からの強風が急に吹き荒れる。これまでの登りのルートとは一変する。僕は根っから風が怖い。気温は4℃、予想はすべきだったものの覚悟と準備が足りなかった。芯から冷えて寒い。強風が体感温度をより引き下げる。それ以上に私を萎えさせたのは岩場の連続だ。これから、この尾根伝いに次に目指す頂上に向かう。聞けばあと1時間ほどの行程らしい。山の頂きはガスって何も見えない。苦労して辿り着いたとしても、今日の天候では眺望は何も期待できない。何よりも仮に頂上に行きついたとしても、もう一度その岩場の連続を下らねばならない。尾根の岩場は高所恐怖症で且つ身体の硬い私には、絶壁を降りるようにも感じられるだろうことが容易に想像された。かくのは疲れの汗ではなく冷や汗の方が多いに違いない。

 強風と寒さとガスのミスト状態、視界は悪い、これから更に続く険しい行程。
 すかさずリーダーが全員に声をかける。「引き返したいものは、引き返してよろしい」と。内心ほっとした。いや、気を奮い立たそうともした。しかし自分のことをよく考えてみた。この頂上にたどり着いた岩場を降りるのでさえ自分には難儀だと思われる。リーダーがひとりひとり確かめて歩いたとき私は体面上、即答はしなかったものの、あとだしじゃんけんのように後で引き返す旨の意思表示をした。岩場があることは説明会で聞いていたのでたじろいだのだったけれども、来てみなければわからない。ここまで来られたことをよしとした。あとでリーダーたちからもそう言われた。引き返した人は1/3。前後をサークルの人たちが付き添ってくれた。強風と寒さでの判断だったとはいえ、穏やかな天候であったとしたら私はあの険しい岩場をのりきれただろうか。そう考えれば、やはり冷や汗ものだった。この手の山は登る資格がないのかもしれない。山腹から眺望した青い山並みや木々の美しさを堪能し、よい運動をしたにもかかわらず、最後の達成感を得られず少ししょげてしまった。なにか自分の人生と似たようなところがあるものだ。

 足の筋肉痛はすぐ来たから、肉体はまだ若いのかもしれないけれど、実は緊張の痛みなのかもしれない。

 昨日は山を下りたところの道の駅のような市場で珍しい野菜を買ってきた。なんと、今朝はさんまも届いた。筋肉の疲れをとるために朝風呂に入る。お腹をこわさない程度に刺身をいただき、晩酌をするつもりだ。しばし、オハラショウスケさんにいたる。

 いばらきのひとも、ちばのひとも、ふくしまのひとも、さんりくのひとたちも、しんしょうつぶされるわけにはいかない。そして「フクシマ」のことを思うひとに悪いひとはいないと、こう確信している。さて、問題は…。