2012年10月30日火曜日

福島県双葉町の井戸川克隆町長によるスピーチ“福島からの声


ジュネーブで開催中の国連人権理事会のUPR(普遍的定期審査)に合わせ、ジュネーブの国連施設内で日本の人権NGOの主催によるサイドイベントに出席した福島県双葉町の井戸川克隆町長によるスピーチ“福島からの声”

今回の事故について申し上げます。
事故防止対策がされていないなか起きた事故です。人災と言っても過言ではございません。我が国の野田総理大臣は昨年12月21日事故の収束宣言をしましたけれども、これは誠に間違っております。まだまだ事故は継続中でおります。

私は今年の3月に現場に入って事故が進行中であることを確認しました。しかも4号機は何時壊れても不思議ではありません。大きな地震が来れば壊れてしまう事が確実に考えられます。ここには1500本もの燃料棒が収納されております。これが壊れると日本中が住めなくなります。

その規模は広島原爆事故の4000倍とも言えるようなものと思えます。事故は終わったように言われる方がいますけれども、まだまだ終わっていません。この事故処理を考えますとその費用は天文学的な金額になると思っております。

1号機の爆発についてご説明もうしあげます。
初期避難を一生懸命やっておりましたけれども、間に合いませんでした。保健施設等、一般の方々が避難を遅れておりました。

ドーンという大きな音の後に我々がいるところに空から爆発をしたものが降ってまいりました。

200名ぐらいおりましたけれども、みんな一瞬声がありませんでした。
私も、「もうこれで終わりかな」と思ったことがあります。
その時、後から聞いたんですが、みんなも「もうこれで終わりだな」というふうに思ったとのことです。

望んでいない被ばくをさせられていても私たちは誰からも謝罪を受けることはありません。
この思いは決してたえることはありません。許せない大変殺人的な行為だと思っております。

ここで、パワーポイントで双葉町の状況をご説明申し上げておきます。

これは津波の状況の写真です。4時頃やってきました。40戸ぐらいの住宅が一瞬のうちに流され125名の方が亡くなりました。

これはただ今申し上げましたけれども、1号機が爆発する直前の写真でございます。

一人では逃げられない方々を、警察官、あるいは自衛隊員、そして私たちの職員が避難のために車に載せようとしているところです。

この後、ここに放射能を含んだ埃が舞い降りてきました。

この写真は私どもが一番先に避難した川俣町の状況です。私たちが被った放射能の濃度を調べに来た方々の姿です。私たちは普通の姿ですけれども、この方たちは重装備で来ました。私たちは自分が被ばくしたその線量も知らされることなくこういう検査を受けていた訳です。私たちは自分が被った放射能の濃さも分からずに、測る方がこのような姿をして来たのです。いまだに正確な情報は頂いておりません。

これは避難している状況です。これも同じです。

これは一時帰宅という事で故郷に帰った時に自分のお墓にお墓参りしている町民の姿です。

いろいろまだまだいろんな事をご説明したいんですが時間の関係上ここで割愛させていただきます。

私たちは、被ばくを小さくするために遠くへ避難しました。この事を私は広島のような思いを町民にさせたくないと思い決断いたしました。町の形を守るより、子どもたちの生命健康を第一に考えました。チェルノブイリの事故のあの悲劇を私たち町民が味わいたくないという思いでございます。

皆様にお渡ししましたこの資料は私が関係者の資料から引用させていただいております資料でございます。チェルノブイリの方々のどうされたか実態が分からない私たちが、福島のこのような高い基準じゃ駄目だという事で私はチェルノブイリ基準を強く主張しています。政府は、これを受け入れようとしません。私たちに20ミリシーベルト年の線量で住めるという事を言っております。

そこで私はその政府関係者に「あなたの家族と一緒に住んで下さい」とお願いをしております。彼らは誰一人として「住む」という人はいまだにおりません。危険な事が分かっているのでしょう。

いま、このような思いをしている私ども以外の多くの県民が県内に住んでいます。さまざまな経済的な理由で避難ができずに本当に困っている住民がいます。どうか皆さんの大きな声で救ってやっていただきたいと思います。

レベル7という世界最大の大きさで4つの原子力発電所が壊れております。

これだけ大きい事故にもかかわらず、福島県立医大には「にこにこ笑っていれば放射能の影響は受けない」というような教授がおります。私は正しくないと思っております。
精神論だけで事実が隠されているのです。やがてその嘘が証明されることの無いことを願っております。私は被ばくの関係かどうか分かりませんが、喉にのう胞があります。もし、後5年後まで生きられれば、放射能の影響でないことが証明されると思います。

ここに福島県の地図を用意しております、これは放射線管理区域を示した地図です。通常の放射線管理区域であれば人は住むことはできません。

もう1枚のこの紙が、放射能が飛び散った状態を示しております。

もう1枚の地図、これは、福島県内でとれる自然からの贈り物、食べてはいけない、取ってはいけないものを示したものです。

このデータは新聞に示したマークをみなさんにご説明いたしたものでございます。この地図を見ますと、自然は大きく汚されている事がお分かりかと思います。被ばくに安全はありません。被ばくを避けること以外に安全なことはありません。こういうところに住まわせておくことは人権を無視していると思います。

次に検査について申し上げます。
双葉町には全国一高い放射線量の放射線によって被爆をさせられました。昨年3月から国、県、東京電力に被ばく検査を申し入れておりますが、まだ積極的にされていません。200万県民の数からいうと、極めて僅かな子どもの検査しかされていません。

多くの病気が発症をしない事を願っております。チェルノブイリからなにを日本の学者は学んだのでしょうか?県民の健康と高い  で、悪質な治療の にある病院が阻んでおります、分かりません。

こんな状態にいる私たちを世界のみなさんから大きな声を出していただいて助けていただきたいと思います。
わたしたちは、難民なんでしょうか?
人権がないんでしょうか?
事故を起こしたのは東京電力です。
それなのに私たちは責任を負うような立場に追い込まれております。

このような発言の機会を頂いてありがとうございます。
どうかみなさん助けていただきたいと思います。
今日はありがとうございました。
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2497.html

福島原発告訴団


 遅ればせながら資料を入手し、夫婦で話し合いそれぞれの判断で共に福島原発告訴団・関東に入会することにしました。昨日入金を済ませました。大急ぎ(_;)陳述書を書き郵送しました

『私の妻の実家は気仙沼。津波に襲われ両親が亡くなり、実家も家屋全壊で喪失しました。陸前高田、南三陸、仙台にいる親類も被災し5名が亡くなり家屋財産も失いました。地震と津波これだけでも、甚大な被害で測り知れない喪失感があります。また、その後の東北へのこころない風評被害にも心が傷むばかりです。しかしながら、福島第一原子力発電所の事故による放射能の災禍はこの比ではありませんでした。実相が明らかになるにつれ、これは理不尽な人災であることを確信しました。

 太平洋沿岸部の激震と大津波の被災に加えて、福島では福島第一原発の事故による放射能禍。避難指示の小出しによる不適切な対策。着の身着のままで逃げまどい、挙句の果てに降り注ぐ放射能を浴びたことが後から判明した不誠実。住居を一瞬にして失い、職と故郷を失うことになった警戒区域や計画的避難区域の住民の無念さ、そして損害。そもそも原子力発電事故の起こりうる対策を怠り、あまつさえも最悪の事故を起こしながら住民の安全な避難誘導もせず情報も出さず、いざというときのオフサイトセンターに至っては3日で逃げ出したという無責任さ。私は福島支援に携わりながら、いまだに様々な条件の被災者に寄り添い誠意をもった支援も賠償も遅々として進められていないことに強い憤りを覚えています。

 この事故を起こした当事者東京電力、無理な原子力政策を進めてきた行政諸機関等の事故を起こした重い過失、被曝・一家離散等の障害と人的損害の責任、住居等を奪った財産の損害の責任、事故が発生した後の不誠実・無策、自己保身について責任とけじめを厳しく追及したいと考えます。』

「福島原発告訴団」告訴声明   2012年6月11日

 今日、私たち1324人の福島県民は、福島地方検察庁に「福島原発事故の責任を問う」告訴を行いました。事故により、日常を奪われ、人権を踏みにじられた者たちが力をひとつに合わせ怒りの声を上げました。
 告訴へと一歩踏み出すことはとても勇気のいることでした。
 人に罪を問うことは、私たち自身の生き方を問うことでもありました。
 しかし、この意味は深いと思うのです。

・この国に生きるひとりひとりが大切にされず、だれかの犠牲を強いる社会を問うこと
・事故により分断され、引き裂かれた私たちが再びつながり、そして輪をひろげること
・傷つき、絶望の中にある被害者が力と尊厳を取り戻すこと。

 それが、子供たち、若い人々への責任を果たす事だと思うのです。
声を出せない人々や生き物たちと共に在りながら、世界を変えるのは私たちひとりひとり。

 決してバラバラにされず、つながりあうことを力とし、怯むことなくこの事故の責任を
問い続けていきます。

「福島原発告訴団」告訴人一同



2012年10月28日日曜日

NHK ETV特集「被災農家を救え」


NHK ETV特集被災農家を救え~若きビジネスマンが挑んだ農業再生550日」2012年10月28日(日) 夜10時放送

 東日本大震災で国家の無力さが露呈したとき、農業の再生に立ち上がったのは、被災地に縁もゆかりもない一人の若きビジネスマンだった。
 西辻一真さん(取材当時29歳)。2007年に京都で農業ベンチャー•マイファームを起業。会社の理念に掲げたのは、農家が耕作をあきらめた農地「耕作放棄地」をなくすこと。京都大学農学部で土壌学や経営学を学んだ知識を活かして「耕作放棄地」を「体験農園」へと作り変えるビジネスモデルを考案する。起業から4年で体験農園の数は60を超え、年商は2億円近くに達する。
農業界に新風を吹き込んできた西辻さん、震災直後から挑んだのは、津波の被害を受けた塩害農地の再生。震災から半年もたたないうちに宮城県岩沼市でトマトの栽培に成功させ、立て続けに仙台市でキャベツ、岩手県陸前高田市でハツカダイコンと成果を上げる。多くのマスコミで西辻さんの活躍は取り上げられ、被災地の農業を救う救世主と称されるようになる。
 そして今年、被災地を回り続けていた西辻さんは、一向に変わらない農家の暮らしをなんとか出来ないか模索を開始する。「農地の再生」から「人の営みの再生」という次のステージへの挑戦だった。
 舞台となったのは宮城県亘理町。日本有数のブランドイチゴの産地として知られていたが、震災以降、被災した農家はガレキ拾いのアルバイトで生計を立てていた。彼らが再び農業に歩み出し、昔のような営みが取り戻せるよう、西辻さんは独自のプランで勝負をする。
 しかし、立ちふさがったのは被災地が抱える厳しい現実。一向に進まない行政の復興計画。そして、思いもよらない農家の反発。
 もがき苦しみながら「復興」という言葉を信じて挑み続けた若きビジネスマンの550日。被災地の農業再生に賭ける日々を追った。

2012年10月23日火曜日

福島の被災地支援のボランティアに参加(その2)

4.南相馬ボランティアセンター


 私たちが滞在した南相馬ボランティアセンターは国道6号線沿いにあって、立ち入りが禁止されている浪江町の境界までは約10km、福島第一原子力発電所までは20数kmのところにあります。今は海が見えるのですが震災前までは松林が続き海は見えなかったそうです。3・11の激震、直後に襲った大津波による被害は三陸沿岸部と同様です。そして違うのは、福島第一原子力発電所の事故による放射能禍。10km圏内、20km圏内に相次ぐ避難指示、30km圏内屋内待機指示、そして集団避難。着の身着のまま(緊急・長距離・長期・家族バラバラ)の避難生活を経ての現状。地震、津波、原発事故による放射能禍の三重の深刻な被災地。これが、福島県北の沿岸部です。
非常に大雑把な表現になりますが、現時点での当地の空間放射線量は南相馬市原町(はらのまち)区(ボランティアセンターのあるところ)で私の住む埼玉の約10倍、小高(おだか)区の高いところで50~100倍でした。高いところは別にして、それでも内陸の福島市や郡山市よりも低い状態にあるそうです。当時の風向きで北西の山間部(浪江町、葛尾村、飯舘村および近辺)から内陸部をどれほど放射能が襲ったのかが推し測られます。

5.仮設住宅訪問活動
福島県北部の沿岸部には仮設住宅が南相馬市に22か所、相馬市に9か所、新地町に8か所あります。私たちはボランティアセンターから北に車で50分ほど行った相馬市の仮設住宅を訪ね、支援者からいただき埼玉から持参してきたお米とジャガイモを持ち、手分けして一軒一軒訪問して歩きました。あいにくの小雨。独居のお年寄りが多く「閉じこもり症候群」が起きている、物資の支援から心のケアが必要、「とことんお話をうかがってこよう、お話し相手になってこよう」と臨みました。この仮設住宅は9ブロックあって全体で980戸、そのうちの162戸は飯舘村の皆さんのブロック。私たちのチームのKさんは聞き上手。人によっては約1時間お話を聞くことができました。地震による家屋の倒壊、津波による家屋の喪失、原発事故避難指示による住居の喪失、それぞれが違う条件で、しかし皆さん3・11以降転々としてようやく入居に至ったとのこと。公的な支援や施策がそれぞれの条件に沿っていないこと、実態をつかんだきめ細かい被災者への支援がなされていない実態をあらためて実感しました。自分たちはこれからどこに行けばいいのか、子どもには地元のものを食べさせたくない、被災直後からお父さんは収入を得るために土木瓦礫作業に出ている「被災者が土木事業に行っている!」これってなんなのとおっしゃったお母さんの言葉が印象に残りました。

6.福島第一原発事故の収束?
「野田さんはそう吹聴(20111221日「収束宣言」)していますが、ここの実態を観ていってください。マスコミにも取り上げられません。福島第一原発からは今でも毎日放射性物質が吐き出されています。何も終わってはいない。」そう、福島県の南相馬ボランティアセンターの宮前さんは訴えていました。だから、知らせてほしい、と。
1沿岸部は激震を蒙った。
2沿岸部は一瞬にして津波に呑まれた。
3そして広範囲に被曝をした。
4着の身着のままの避難を余儀なくされた。
地震・津波の被災状況は三陸同様深刻でありましたのに、放射能禍によって復旧もできず、訪問した被災地福島の南相馬市一帯はまるで時間が1年半も止まったようでありました。行政は国も地元(相馬市、南相馬市の市長の評判は悪かった)も通り一遍のうわべの対処で、被災者へのきめ細かい救援になっておらず、放射能対策も定まらない。復旧事業がゼネコンのくいもののような予算の使われ方になっている。等々。


2012年10月22日月曜日

福島の被災地支援のボランティア参加(その1)


 1.安達太良SAにて
 福島の被災地支援のボランティアに参加してきました。参加を決めて申し込んだのはわずか3日前。主催者の辻さんに沖縄連帯の集会で出くわしたからです。間に合うそうで、思い切って決めました。そのことを告げたら、つれあいも喜んでいました。
月曜日の早朝の通勤電車に乗る、34年間のサラリーマン生活のせいでしょうか、気が引き締まるのを感じました。7時に所沢を出て関越・北関東・東北自動車道を通って西福島ICを降り、福島市の渡利地域、川俣町、飯館村を経て目的地の南相馬市に到着したのは午後3時ごろでした。参加者は各地から乗用車4台に分乗、軽トラ1台(支援物資の米とじゃがいもを積載)を連ね総勢20名でした。
東北道では1時間ほどの工事渋滞に巻き込まれました(往復ともそうでした)。東北道の安達太良SAに昼食休憩も兼ねて集結したのですが、偶々食堂は機動隊の若い隊員のみなさんでごった返しておりました。そうしましたら、いつのまにか機関銃を装備ができる自衛隊の武装装甲車両も駐車しておりまして、ぎょっとしました。機動隊の若い隊員のみなさんと違って、こちらはいかにも屈強そうな隊員の人たちでした。あの車両はなんだったんでしょう。

2.経路の飯舘村の荒れ野
南相馬市は福島市から行けば阿武隈山地を越した海沿いにあります。その阿武隈山中にあるのが飯舘村です。川俣町から登りの山道になり飯舘村に入ります。村の真ん中あたりを東から西に横断して行きますと、今度は急な山道を降りて行きますので飯舘村が山里であることを実感します。飯舘村は福島第一原子力発電所の事故当時、風向きのために大量の放射性物資が降り注ぎました。「計画的避難区域」として全村避難。今年の七月まで立ち入ることが厳しく制限されておりました。現在は通過することができる無人の村です。事故前は水田か畑だったと思われる沿道の土地は、ススキかセイタカアワタチソウに覆われ荒野原と化しておりました。画像は帰路の臼石小学校のあたりで撮ったものです。

3.訪問地南相馬市および福島県北部沿岸部のこと
 南相馬市は福島県の沿岸北部に位置します。北から鹿島区、原町(はらのまち)区、小高(おだか)区から成り、旧3町の「平成の大合併」で誕生(2006年)しました。「相馬野馬追」で有名です。南相馬市の北は相馬市、新地町でさらにその北は宮城県(山元町)になります。南は浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町と海沿いに自治体が続きます。双葉町と大熊町の境目に福島第一原子力発電所があり、さらに富岡町と楢葉町の境目に福島第二原子力発電所があります。
 3・11当時震度6弱を観測。同日15時35分ごろ津波襲来。これに加えて福島第一原子力発電所事故による放射能被害を受けます(20kmおよび30km圏内)。地震、津波、原発事故の三重の被害を受けます。12年9月現在、死者972人(うち震災関連死336人)。市は警戒区域(20km圏内=ほぼ小高区)、計画的避難区域、緊急時避難準備区域(20km~30km圏内=ほぼ原町区)に指定され、多くの市民が着の身着のままで避難。現在は原町区以北が居住可能とされています。3・11以前の人口が約7.1万人でしたのが12年10月時点で約4.5万人となっておりました。

2012年10月21日日曜日

入曽の獅子舞


 今日の昼間は、年に一度の地元「入曽の獅子舞」が野々宮神社に奉納される日でした。繰り上げお誕生日会をしておりましたので観ることができませんでした。この獅子舞の特徴は、儀式の流れに神仏混淆の名残をいまだに留めているところにあります。また、水に不自由した土地柄の雨乞いの祈念でもあるそうです。来年こそこころして観たいと思います。

繰り上げお誕生日会

さんま尽くしをメインに手づくりメニュー

 今日は良い天気。息子の嫁のシホさんの繰り上げお誕生日会をしました。それでみんなに集まってもらいました。孫のふたごちゃんがつかまり立ちをします。
 
 明日から三日間、縁あって福島県南相馬市の仮設住宅避難者の支援活動に参加することになりました。近隣3か所から車4台と軽トラ1台に分乗し明朝早く出発します。これまで足腰と体幹を鍛えてきました。わずか三日間でなにほどのものでもないかもしれませんが、微力でも人の役に立てればと思います。

2012年10月20日土曜日

大菩薩峠に登る

 今朝は4時10分に起き、私にはおにぎり3個つくってもらいました。
 
 下界に降りてきたら今日は晴れて穏やかな天気だったようですが、山の上はガスと強風で、寒かったですね。山梨県の大菩薩峰(2057m)、大菩薩峠(1897m)は9℃前後。トレッキングで一足早い紅葉を楽しんできました。

 帰着して、山を愛するサークルのみなさんと我が町の焼肉屋さんで一杯(三杯でしたが)やりながら、山の話、植物と写真の話、サークルの活動の話、菜園の話などを聴きました。

 今宵は川越祭りと入間万燈祭りでした。明日は入曽獅子舞の奉納もあります。秋祭りたけなわ。


 帰途入間川に架かる富士見橋を通るときバスの車窓からみた富士山と、皆と別れて歩いて帰る夜道から見上げる三日月がきれいでしたね。

高良鉄美琉球大教授 憲法と沖縄を語る


帽子姿の教授のスタイルには意味があります
NOオスプレイ・憲法改悪を許さず沖縄と連帯する所沢集会」10月19日(金)18時~21時

2012年10月19日金曜日

カーミーズ 沖縄を歌う


NOオスプレイ・憲法改悪を許さず沖縄と連帯する所沢集会」に参加してきました。

左から長希さん、啓子さん、長一郎さん
 高良鉄美(たから てつみ)琉球大教授の講演の前に、沖縄出身東村山在住の亀谷さんファミリーバンド「カーミーズ」の沖縄の唄をききました。73年生まれの長希さんが、三線の父長一郎さん、ボーカルの母啓子さんを紹介します。沖縄返還活動のなかで両親は出遭った。長希さんは沖縄の復帰(1972年5月15日)後、沖縄県になって生まれた。両親は1995年の沖縄少女暴行事件のとき東京にいた、それで歌い始めた。

 ボーカルの啓子さんはこころにしみる美しい歌声でした。

 最後に、長希さんは沖縄が沖縄県民に返還されていない実態を語り、安保が国民的議論にのぼってもよいのではないと訴えておりました。

沖縄の基地の縮尺的実感

 普天間基地は沖縄にある米軍基地のひとつにすぎません。沖縄本島に存在する米軍基地の割合を「本土」に仮にあてはめてみたらこのようになります。

 このことを琉球大学の憲法学者高良鉄美さんの講演で学びました。同じ縮尺にしてみると視覚的に実感できます。

 青森、宮城、千葉、東京、埼玉、神奈川、静岡、愛知、石川、富山、大阪、京都、徳島、山口、福岡の各県は全部外国軍基地に取り上げられたという仮定になります。

 基地とは騒音、轟音、振動、核・化学・通常兵器、電波障害、環境破壊と汚染、等々の障害そして墜落・落下、外国軍兵士による暴力やレイプ、日常的疑似戦場の危険と隣合わせで生きていくということです。

 まして狭い沖縄、どこにどうやって住みどうやって生きていきますかということを、沖縄の人は訴え続けています。感性以上のものが必要だと考えます。

2012年10月18日木曜日

制服向上委員会


 深夜起きておりました。制服向上委員会の番組(午前2時10分から1時間)を観たからです。集会ではよく見かけておりましたが、あんまりよく知らなかったので認識をあらたにしました。

 それにしても寒くなりました。起きてみれば、今日はしとしと雨。先週の木曜日も週間天気予報では雨でしたが、晴れました。長野県との県境にある群馬県の妙義山に登りましたのは一週間前のことでした。

 それにしても、原発のある私の生まれ故郷では衆院鹿児島3区補選および市長選がありますのに原発再稼働に反対する声があまり聞こえてきません。結局共産党の候補者の方の孤軍奮闘に頼らざるを得ないのでしょうか。米兵によるレイプのひどさが報道でもわかってきますのに、やはり「沖縄の問題」にされているように感じられます。声をあげるときだと思っています。

 脱・原発と、基地をなくせ、安保をなくせと。

 今日はおでんにしました。

2012年10月17日水曜日

埼玉県狭山市入曽地区の史跡・文化財散策


 私の住むところは武蔵野台地の北端に位置します。江戸時代は川越藩入間郡水野村といいました。「水野村」とは皮肉な名称で、水にはかなり不自由した土地柄。古代文学に出てくる「ほりかねの井」はこの一帯のことを指すと言われています。実際「堀兼」という地名もあります。そのようなことで、なかなか農民が住めなかったところ。川越藩によって新田が開墾されたのは1666年以降。水にまつわる苦労は並大抵のことではなかったようです。

史跡「七曲井(ななまがりのい)」埼玉県指定文化財
 人は住みにくかったものの、ここは古代、武蔵国府と上野国府を結ぶ国道(官道)が通っていた交通の要所のひとつでした。「いりまじ(万葉仮名で伊利麻路と書く)」といいます。それが中世には鎌倉街道上道(かみつみち)という「いざ、鎌倉」の国道幹線道路として引き継がれます。現在の所沢=狭山線の道路です。ここには往きかう役人や旅人(商人)のために、官製の「水飲み場」が設置されます。いわば昔の「道の駅」のようなもの。それがこの地区に残っている史跡「七曲井(ななまがりのい)」というところです。近世以降の深堀井戸とは違い、形は大きなすりばち状になっていて、上淵部の最大径が26m、深さが12m近くあったものです(1970年に発掘調査)。最初は稲妻状に降りて行き、最後はらせん状に降りて行ってやっと水にありつけるという古代の井戸です。そして、18世紀まで使われたと考えられます。

 そんなこんなの地元の史跡・文化財を狭山市立博物館前館長の高橋光昭さんのご案内で散策して歩きました。今日は夕方から雨になりましたが、晴れた午前中の三時間半、距離にして4.5kmほどでした。奥の深いものです。

2012年10月16日火曜日

お孫ちゃんの成長


 夕方、シホさんは仕事で定時に帰ってこれなくて、つれあいが孫のソータローを保育園に引き取りにいきました。今日はおしゃべりもできて「ママオシゴトォ?」と言います。連れてくるときはウルウルとしていたそうですが。つい、買い置いていた木製の汽車ぽっぽを与えてしまいました。鮭とごはんを食べてお腹を満たし、絵本を読んであげたらよく笑いました。「ママ、オシゴトォ」と自分を納得させる術も身に付きつつあるのでしょうか、ときどきこのフレーズを発します。それでも電話がかかってきますと「ママ?!」と反応します。ようやくママのお迎えがきて、私たちに保育園で覚えた「バイバイ」とタッチをして帰って行きました。別の双子の孫たちにも会っておかなければすぐ大きくなっちゃうねと、二人で話しておりました。

2012年10月15日月曜日

「午後の遺言状」のDVD

右側が妙義山の道の駅で買ってきたプチダリア

 よく晴れて暖かかった。ようやく筋肉痛がおさまった。山登りのときの手洗いものを済ませた。ニスを買いに行った。レンタルビデオ屋さんが今日をもって閉店したところに遭遇した。「午後の遺言状」を借りようと思っていた矢先だった。もう「東京原発」も借りられない。気の重いことが多いものだ。

2012年10月14日日曜日

ノルディックウォーキング


 午前中、基地の隣の稲荷山公園に集合し、ノルディックウォーキング(の触り)を教えてもらいました。もちろん初体験です。肩の力は抜くそうです。

 隣街では市長選をやっておりました。見覚えのある顔の候補者がおりました。

 就寝前に、BS3NHKプレミアムドラマ「最後のカチンコ~新藤兼人・乙羽信子~」を観ました。加藤武さん演じる新藤兼人さん、大谷直子さん演じる乙羽信子さんがそれぞれそっくりなので最初は本人なのかなと錯覚しました。よくできた作品だったと思います。新藤兼人さんは乙羽信子さんが69歳で亡くなったあと、18年間生き今年の5月29日100歳で亡くなりました(ちなみに生きていれば母と同じ歳でした)
 ふたりで感銘を受けた余韻と併せて、どちらか残されるのはいやだね、一緒に死にたいものだと話し合いながらしばらくは眠れませんでした。

 内容(NHKのHPより);映画監督・新藤兼人と女優・乙羽信子夫妻の最後の作品にかけた愛の物語。ガンを患っていた乙羽さんだが、新藤さんは撮影に踏み切る。ふたりは映画に命をかけたのだった。 映画監督・新藤兼人と女優・乙羽信子夫妻の作品にかけた愛の物語。ふたりの最後の映画となった「午後の遺言状」。当時82歳の新藤監督がこの作品に込めたのは、ガンを患っていた妻への思いだった。“女優人生を全うさせたい”。新藤監督は妻に余命を告げず、撮影に踏み切る。残された時間との闘いの中でも妥協をしない監督、そして命を振り絞るようにカメラの前に立ち続けた乙羽。ふたりのプロの愛と絆をドラマ化。 出演:加藤武大谷直子水谷八重子水橋研

2012年10月13日土曜日

夕餉の手料理


 豆乳とにがりで作った豆腐、これに枕崎の本枯れ節を削って掛ける。いただいた銀杏と妙義山の道の駅で買ってきた野菜のてんぷら。ごぼうは個配の生協でいつも買ってるやつ。なんておいしいんだろう。感謝。また、飲んでいた。

 パソコンがインターネットを通じて他人に操られる。身に覚えがないのに「証拠」があって犯人に仕立て上げられる「自白」。ふたつのことが怖い世の中だとあらためてわかった。


 夜は見るでもなくNHK「日本アルプス大縦断!最も過酷な山岳レース」(19:30~20:45)を観てつい引き込まれてしまった。ひとつ山に登るだけでも大変だと思うが、それを日本海側から太平洋側まで3000m級の山々、峰々を8日以内に踏破しなければならない。そのドキュメント、息を呑む、息が詰まるそんな内容だった。

☞NHKHPより;8月、日本海・富山湾をスタートし、日本アルプスの3000メートル級の山々を越え、太平洋・駿河湾をめざす、「トランス・ジャパン・アルプス・レース」が開かれた。わずか8日間以内で約415kmを駆けぬける、「日本で最も過酷」と言われる超人的な山岳レースだ。28人の選手に襲いかかるのは、心身の疲労と睡眠不足、そして大自然の猛威。雄大な日本アルプスを舞台に、自らの限界に挑み続ける選手たちの姿に密着した。

2012年10月12日金曜日

後悔


 二日酔いと筋肉痛でした。前夜、急きょ東京に出ました。私の席では、あまりハナシがはずまなかったので、仕方なく日本酒をがぶ飲みしました。よせばよいのに…ということです。

 今朝から胃薬を服用し、ヨガをやり、お風呂にゆっくり入りなんとか持ち直そうとしました。なんど失敗しても懲りません…。太ももの筋肉痛はハイキングの余波です、これは仕方ない。

2012年10月11日木曜日

妙義山ハイキング


 埼玉から関越道を左に折れて上信越道を行き、群馬県から長野県に入るころ左手に見えるギザギザの山、それが妙義山です。1100mぐらいのたいして高くはない山なのですが、見るからに岩が林立、直立している印象ですぐに覚えられます。妙義山は3つの峰からなりますが、実際に頂上のコースは非常に険しく上級者向け登山道だそうです。滑落事故多く危険と警告してありました。

 私たちが行きましたのは「中間道」と呼ばれる中腹を行くコースです。これが一般登山道で、名付けて「関東ふれあいの道」と言うんだそうです。この企画には応募者が多く総勢40名、大型観光バスを仕立てて中腹にある大駐車場まで行き、そこからいきなり145段の神社の石段を登るところから始まりました。標高およそ720mから350mぐらいの目的地までの約6時間(途中昼食休憩等を含む)、全体としては下っていくコースなのですが、起伏の多い道でありました。ところで登山の前に、下りで人と行き交うときは山側に避けよと注意を受けておりました意味がわかりました。なだらかな坂道はひとつもなく、ほぼ断崖絶壁のような、ようやく山や岩に道がくっついているようなところだったからです。

 事前の週間天気予報では木曜日は雨、前日の予報でもそうでした。したがいまして、雨具を装備して行ったのですが、幸いにも晴れました。寒くはなく暑いほどでした。私は基本的に高所恐怖症で汗かき、登りと違って下りの山道は自分の身長の分だけ着地が低く見えて恐く感じるそうです。それで、汗と冷や汗でぐっしょりになりました。着替えを充分に持って行きましたので役に立ちました。
「第4石門」から見える「大砲岩」

 妙義山は岩の山。奇岩や岩肌絶壁がいたるところにありました。一行のなかでは私たち夫婦は若い方でしたが、みなさんお元気で無事に楽しく踏破することができました。急峻な下り道で緊張して歩いたせいもあって、また、ふだん使わない前側の太ももがその日のうちから筋肉痛になってしまいました。

2012年10月10日水曜日

準備

うちらは足が同じサイズ、なにかのときは便利

 ミカンも買った、飴も揃えた。

 雨具が要るな…、重くなるけど仕方ない。汗をかくかもしれないし、逆に寒さを感じるかもしれない、微妙。そうだお湯も持って行こう。

 アタシは高所恐怖症。ハイキングというのだけれども、岩場もあれば、クサリ場もあるらしい。通らないのかな。

 リュックはどれにしよう。靴底は大丈夫かな。明日は朝も早(はよ)からダ。

2012年10月9日火曜日

しっかりしなくちゃ


 デスクトップ型PCを本日引き取ってきました。りっぱなものです。しかし、インターネットがつながりません。毎度、これらの作業は大変なのですが、おそらく無線ランの能力の問題ではないかと考えられます。

 昼間外に出ておりましたら、今日が何曜日なのか一瞬判らなくなっていました。木曜日のような水曜日のような気がしておりました。現役でありますつれあいの休みの次の日は月曜日か木曜日であるため、混乱というか錯覚に陥ったようです。一日調子が悪かったようです。昨日の体力テストで筋肉痛も出てまいりましたようです。しっかりしなくちゃ。

「領土」という国家の「欲の塊のような概念」に仮にこだわるとすれば、原発による福島の荒廃はまさに領土を広大に失いつつあると言っても過言ではないはずです。さらに、沖縄の外国軍による「使用」は領土の蹂躙と言えます。オスプレイの配備・使用はその象徴というか極まれりというものです。尖閣や竹島が「領土問題」「国家の威信」として先鋭化するのであれば、国民にとって福島という広大な領土の荒廃、沖縄の蹂躙・侮辱こそ問題にすべきです。これらのことについてはまるで「他人事」として取り扱われ、犠牲になってくださいと言わんばかりの「無関心」という混乱というか錯覚に陥いらされているようです。みすえなければいけないと考えます。

2012年10月8日月曜日

沖縄と連帯する所沢集会


NOオスプレイ・憲法改悪を許さず沖縄と連帯する所沢集会」

日時;10月19日(金)18時開場 6時半開会
会場;ミューズ マーキーホール(埼玉県所沢市/西武新宿線航空公園駅下車 徒歩10分)
参加費;999円

イベント:カーミーズ沖縄の唄(沖縄出身東村山在住の亀谷さんファミリーバンド)
講演:「憲法を巡る状況と沖縄からみた憲法」高良鉄美琉球大教授(「憲法行脚の会」呼びかけ人)

なくてはならないもの


 つれあいのノートパソコンが常々調子が悪いと言っておりました。日本語転換ができないとか。それで、さる電気量販店の店舗改装前処分セールのチラシが入っておりましたので、見に行かないかと誘いましたところのってきました。それで、結局、展示品のデスクトップ型PCを「処分価格」で買いました。土曜日のことです。

 今朝つれあいが脈絡もなく携帯を操作し始めましたので、どうしたのと訊きましたら水の中に落としたとのこと。作動せず、夕方販売店に行きましたところ修理ということになりました。

 いつのまにか「なくてはならないもの」になっていましたねぇ。お金がかかるものです。

 今日は体育の日、両親が仕事なので孫のソータローを終日あずかりました。気候がよかったので近所の公園に連れて行き、覚えたてのボール遊びなんぞをいたしました。おかげでお昼寝をよくしてくれました。

 夜は夫婦で体力測定をやりました。数値が昨年より落ちておりました。鍛えておったのですが。なくてはならないものですから。