2011年11月29日火曜日

防衛局長更迭

品の悪さは言うに及ばずだが、無意識の本音ポロリということだろう。報道10社ほどが懇親の場にいて、地元琉球新報社は問題性を看過しなかった。あとの9社も聞き逃さなかったはずだが、聞き逃したことにした。空気の呑み方が違う。沖縄の問題、軍隊の問題、米軍駐留の問題これらに通底する感性の違いだ。温度差では済まされない。そのとき地元記者には、鳥肌がたつような嫌悪感とはらわたが一瞬にして煮えくり返るような気分が襲ったのではないか。
自衛隊内部で起きている女性隊員へのセクハラ事件、これも氷山の一角であるがその根っこにある体質、日本軍的DNAとでもいうべきか。

「犯す前に犯しますよと言いますか」

人への、女性への、県民への「蔑み」発言。蔑むこころ。

そして、ただちに琉球新報は田中沖縄防衛局長処分を号外(琉球新報社ホームページより)で出した。

2011年11月26日土曜日

スポーツ車

 ちょっと遠出をしたいだけなんだけど、スポーツって気はまだないのね、足も短いし、うんたらかんたらと及び腰で店主に声をかけてみた。スポーツ車は私には競輪の選手の車ぐらいに見える。カゴも欲しいしライトもスタンドもつけたい、鍵も。そしたら、シティサイクルぐらいでいいのではないかと暗に相談してみた。それじゃママチャリの延長上、走る面白さがわからない、ときっぱり。どうでも初心者用のスポーツ車にすべきだと忠告された。「客」に媚びる気はない。醍醐味を知るなら迷うことはないといわんばかりだ。ここにあるのはお客さんの体格にも合うよ。ライトもスタンドもつければいい、カゴはいらないリュックで充分と言われる。ところで、この店は現金かと訊いたら、カードは扱っていないという。それが火曜日。

 それで試乗できるかと訪ねて行った。展示してあるうちの2台にペダルをつけてもらって乗ってみた。こういうのに乗るのは初めてだ。案外乗れるものだ。ひっきりなしにパンクのお客さんが来て、あんまり私の相手をしてくれない。それで、いいよというから陸橋を上ってひとまわりしてきた。値段の高い方の乗り心地がよかった。乗ったことのないタイヤの細い自転車だ。えいやで、言い値(ほぼ定価)で買った。重さは約12kg、21段変速、Tハン。

 自転車に乗って来たので、買ったそれは夜配達してもらうことにした。帰り、自分のママチャリに乗って店主の言っていたスポーツ車との違いがわかった。身体の使い方が全然違う。

 7時に届けてくれる約束で、晩酌もせずに待っていたが8時になっても来ない。店に電話をいれると、こちらは名乗りもしないのにこちらの名前をよんで、今タイヤに空気いれているところすぐに届けるからと。まるで蕎麦をたのんだようだ。「待ってるよ」と電話を切った。私も少しだけ人間がおおきくなったものだ。

火曜日にお店に出かけ♪金曜日に自転車買った♪
テュラテュラテュラ、テュラテュラテュラリャラ♪

2011年11月25日金曜日

夜空に祈る



18歳のとき兄の住む町で病に倒れ入院生活を送った。見ず知らずの関西の市民病院で頼りは兄しかいなかった。当時兄の子どもは幼く兄も仕事が忙しかった。兄は仕事を終えた夜間に私の着替えなどを持って見舞に来てくれた。あるとき、「頑張れよ」と横たわった私の両手で手をぎゅっと握りしめてくれた。

 亡き母の生涯で辛かったことは3つあるだろうと考えている。最初の出産のときの難産、戦争による全財産の喪失、老いて後の独り住まいの孤独。

 第1子である兄が戸籍など自分の出自を調べてわかったらしい。双子だった。もう一人は助からず兄も弱い子だった。兄は虚弱児で育てるのに苦労したという話は母から何度も聞いたが、双子であったとはとうとう一度も聞いたことがなかった。我々兄弟誰も知らなかった。

 先週末から容態がさらによくなく、副作用も加わって辛い状態にあるらしい。息子は往復2時間以上をかけてほぼ毎日見舞に通っている。事務所を夕方6時に出るので周りは楽をしているとみられるよなぁと言う。日頃の働きぶりは「来る者拒まず」の姿勢で仕事を請け負っている状態で、家に仕事を持ち帰り休日もこなしている。「母子がリスクのある状態」だということで、その報告に今晩病院から我が家に立ち寄った。部屋で一服させて一目見て顔のやつれがわかった。お腹の子は今「にんげん」になりつつあるところでなんとかもちこたえなければいけない。医師や病院はその手助けをする。結局は自らの生命力しかないが、今それを癒し励ますことができるのはつれあいの支えである。あなたが頼りだろう。その支えが倒れてしまっては目も当てられない。仕事を減らすしかないではないか、母子三人の生命と健常を保つことが最優先、人生の一大事ではないかと諭す。ホントならずっと寄り添っているべきだ。長男はうんと一言うなずいて12時前に帰って行った。昨日と今日、彼は新しい家族を迎えるために引っ越しをした。

 放射冷却現象。昼間は快晴でお日様を受けていれば暖かかったが、陽が落ちてから一段と冷え込む。夜空に祈る。

2011年11月22日火曜日

音信

吊り上げるように眉と目を見開き、下あごを下げるように口を大きく開け舌も出し、両手はパーに開き受け容れていた。幼き頃そんな友達関係から始まったのだと思うのに…。だから、また、そんな人間関係になっていきたい。

 この歳になると親が亡くなった、孫ができたという音沙汰が届くようになってきた。今年はそれに、あの震災に関わった、或いは思うところあったという内容も加わる。

 Oさんからすぐに連絡をいただいた。すでに年金生活者とのこと。おつれあいの実家も宮城県だったそうだ。今回のことでお互いに初めて知った。隣接する町で今は広域合併で同じ市になっている。海岸の近くで津波によって家ともども流されてしまった。幸い家族は無事だったそうだが、仮設住宅住まいとのこと。被災当時、連絡もずたずたになって、確認したり助け合ったりしたのは旧市・旧町の感覚だったと思う。つれあいも未だに同じ市内だという実感はない。Oさんから誘いがあって近いうちにお会いすることにした。

 私の友人はイニシャルにするとタ行の人が多い。だからどの人もT君になる。隣町に住むT君から電話が来た。12月の予定が先週生まれたらしい。初孫は男の子だ。来年の12月が誕生月で定年だという。会社の業績がよくない、おれの意見を聞かなかったからだという。社内では干されているらしい。根はいいやつで有能だとは思うが自信家で浮いているのだと想像している。同僚のころはもっぱら聞き役にまわっていたので今まで付き合いが続いている。定年までがんばれやと伝える。おしゃべりで17分も聞いていた。お人好しなのに、ひとには誤解されやすい性格だ。

 熊本のT君からも電話をもらった。身体のあちこちの故障が著しい。休職がちだ。聞いていると傷ましいほどだ。彼も長い電話で、またも聞き役にまわる。経済的なこともあるだろうからなんとか定年まで頑張ったらどうかとすすめる。話はどうどうめぐりをするのだけれども、つまるところ職場ではいじめられているらしい。ならば、思い切って辞めることをすすめる。先に辞めた私が言うのであれば踏ん切りがついたとは言うのだが。彼は心身に故障を抱えているので、迷わずほんとにゆっくりできることを願っている。

 姉から家電に電話がくる。どうしているのと。雲でも眺めて暮らしいていると応える。そう、と。口にはださぬが、受話器の向こうで心配してくれているのか、あるいは興味があるのか。身ごもったチカさんがずっと入院していて心配だと知らせれば、私も入院したのよ、なんとかなるよと慰められる。

 大酒飲めるうちにみんなを訪ねて行こう。…あっ、控え目にやるんだった。

2011年11月21日月曜日

佐須虎捕太鼓11・19&20演奏



雨の土曜日は遅れて銀座の会場に到着しました。ちょうど「佐須虎捕太鼓(さすとらとりだいこ)」の始まるところでした。女性の皆さんだけで太鼓を演奏する、なかなか見事なものに見えましたが、原発事故でみながばらばらになり練習ができなくなって…とのことでした。不本意さがにじみでてはいましたが、練習不足を感じさせず見事に感じられたものは、原発事故までに積み上げてきた鍛錬と、非常な困難に直面しての“気合”のせいだったのでしょうか。気迫といいましょうか。

「佐須虎捕太鼓」とは、原発事故の「警戒区域」となった福島県飯舘村の佐須地区というところに伝わる話をモチーフに1998年につくられたものとのこと。この農村地区の女性たちで演奏され「勇壮で華麗」と表現されています。

翌日曜日は快晴のもと、築地本願寺境内の「安穏(あんのん)朝市」で、朝市への参加団体などで作る「飯舘村支援の会」(代表中川誼美さん)主催の招きで公演をしておりましたのがNHKの関東圏のニュースでも取り上げられておりました。

2011年11月20日日曜日

母親の毛糸玉

陸前高田や南三陸町のように何もかもほぼ根こそぎ津波にさらわれていったのではなくて、気仙沼でもつれあいの実家のある町内の津波被害はまだら模様のような様相だった。建物も何もかも無くなったところ、階下が無くなり屋根や階上部分が崩落したところ、建物だけが残ったところ(ただし内部は全壊状態)など、場所によって違う。数軒先は跡形もないというのに、実家はご近所とともに建物だけは残った。二階まで水は来たらしい。長身の義兄は二階で首まで浸かったが寸でのところで助かった。うなぎの寝床のような住まいで、両親のもと居た部屋は二階の奥まった少し高いところにあったらしい。もう日常には使っていなかったようなものがわずかながら残った。それらの中から、つれあいは母親の遺した毛糸玉を遺品にもらってきた。四月の末のことだ。大切になにかの衣類をほどいたものだったりしたのだろうか、毛糸の色はまちまちだが幾つかあった。擦り切れたような毛糸がほとんどだった。母親がいつかなにかに使おうと捨てないでとっておいたものだろう。自分で編んでいればまたほどけるという。どれほどモノを大事にしたことか。そうであろうということを引き継いで、つれあいはもくもくとこれらの毛糸を編んだ。編んで器用に組み合わせてついにストールのようなものを完成させた。いつのまにか、だった…。

 最初は母親の思いをなぞるように、そのうちそれすらも忘れて編み物に没頭するのが心地よいようだった。まとまった色の毛糸玉を使ってソータローのフード付きジャケットも編んだ、あとはボタンを付けるだけらしい。そのボタンを物色している。世界に二つとないクリスマスプレゼントにするという。

 そして、つぎに生まれてくる赤ちゃんのものを編むこともチカさんには約束している。これには新しい毛糸を買う。カード会員には割引セールをやるというので二人でデパートに行った。昔のような紳士用の襟付きのカーディガンがまた流行ってきているらしい。ちょうど飾ってあるのがそういうもので高価だ。つれあいは編み方の本さえあればできるというので、私のためにも毛糸玉を買ってもらうことにした。

 みんなからどうしているのと聞かれる。うまく言えないから「雲を観て過ごしている」という。やりとりをすればつまるところ、みなは働いている方がその方が楽だという。活躍している。ほとんどみなそうだから、私の方がやはり変わっているらしい。いや、なまけものかもしれない。なんだか申し訳ない。私は少年時代にしたように雲を観ていたいから。行ったことのないところに行ってみたい。

 二人暮らしの静かなときが流れる。手編みのカーディガンもいつかそのうち出来上がるだろうか。

2011年11月18日金曜日

青雲の「志」

民主党は今度総選挙があったらぼろ負けするだろう。国民を裏切ったからだ。

村山さんのときの社会党にも通じる。政権につくなり社会党の社会党たる所以をかなぐり捨てて支持者を裏切った。おまけに阪神大震災に遭遇しても迅速で有効な手立てを打てなかった。その教訓からか、菅さんは大震災発生直後の原発視察で大立ち回りを目論んだようだが裏目に出た。事故に際してのもっとも重要な時宜を逸し、被曝の危険から住民を守るための的確な判断をしたとは考えられないからだ。

自民党はそこをねらっている。そもそも格差社会や原発震災を生んだのはどの政権のせいなのか反省もまったくない。民主党をあげつらうことによる政権奪還目的、ただそれだけのことだ。国会での質疑を聞いていれば、民主・自民に攻守が違うだけで、政策に違いはもうない。

ふるさと自慢をするものの、故郷を捨てたも同然で久しい。

いよいよ送ってきた。「後援会」の発足らしい。ほかのDMのように捨てればいいのかもしれない。ただ機械的に高校同窓会名簿から知りえた現住所情報で送りつけてくるだけのことかもしれないが、最近それが送られてくると不快になる。

大柄で快活、スポーツマンで努力家、実行力がある。すでにそのころから将来は人の上に立ちたいという野心は満々だった。よく言えば大志を抱いていた。決して悪いやつにはみえはないのだけれども、話し込めばどこかに弱者を切り捨ててよしとするような差別的な言辞を吐いて平気なところがあって、その点について私は好感をもてなかった。

私のクラスから現役で東大に二人合格した。受験校であったとはいえ地方都市のこと、快挙として当時大ニュースになった。努力と才能と集中力があったのだろうけれども、私もいささか驚いた。東大に合格する人間なんて特別に「違う人種」だと思っていたから。まっ、そういうことだったのだろう。彼は東大卒業後大手の建設会社に就職して、世界に雄飛して活躍いるらしいということを風の便りに聞いてはいた。

ここ近年、高校の同窓会の世話人をしていた。りっぱな肩書もあって多忙だろうに殊勝なことと私も考えていた。まさかとは思っていたが、昨年郷里の選挙区の自民党の支部長に立候補して相手候補を破ったとあった。選挙区の現役は民主党だが、もともと自民党の公認を得られなかった人があのときの勢いで当選しただけのことで、本質に境目はない。こんどは自民党だろう。機会を逸しない計算だ。後援会発足の「リポート」には名だたる経済人、政治家、官僚の名前が連ねてあった。あの古川佐賀県知事の名前まであった。

「日本の将来に強い不安を感じた。それが国政を志す動機になった」と。

東大出、面倒見のいいやつ、世界に羽ばたく郷里の誇り、同郷同窓の誼、人のいい級友たちはそういうことで手足になる。キャラクターは好かれるタイプ。

個人としては魅力もあるのだろう。だが、単なる友人としてはともかく、信条としては組(くみ)することはない。その便りがくるたびに、なんともいえない不快が積もる。本人も取り巻きもベクトルが昔のままだから。

しかし、それが野望であれ、人間一途であることはたいしたものだということを幾つも学んでいる。

2011年11月17日木曜日

喪中葉書

 好天の本日やっとこさ、喪中葉書を投函した。

 プリンターはC社製だ。久しぶりに印刷しようとするとやれピンクが切れているやれ青が切れそうだとの表示が出て、まずは純正のインクを買い揃えた。それで、いざプリントしてみると画像が出ない、色がでないのだ。そんなバカなということで、つれあいが同社のサービスセンターに照会した、インクの詰まりの可能性やあれこれ点検させられた挙句、故障しているらしいが修理はできないという。今年の7月で打ち切ったという。つまり古い型だから買い替えろと言っているのに等しい。
 前のパソコンを買った時に、よくわからずにミーハーで有力ブランドであったC社のカメラ(当時サッカーの中田君がイメージキャラクターをしていた)もセットで買った。パソコンのソフトも画像取り込みなどはC社とコラボだった。ところが、カメラは1年もせずに突然作動しなくなった。買い求めた電器屋さんに持ち込んだら、何日も経ってC社からは何の説明もなくモデルチェンジした同じシリーズの代替品を渡された。修理点検にだしたのにどういう不具合があったのか説明がなくいきなり代替品ですまされたことに、納得がいかなかったが、新品を渡されたので黙っていた。馬鹿にされたような、ブランドにあぐらをかいているようでならなかった。この思いは続いていて、後日あの派遣切りで名を成したときはさもありなん体質と感じた。今度のプリンターの件でもそうだ。耐久商品のはずが使い捨て同様だ。この商品に限らずモノは使い捨て同様になってきた。それがモノをつくるヒトにまで及んでいる。モノは大事にしたいと思うから、実感としてC社は自社で働く人も大切にしなければ、結局消費者の方も向いていないのではないかと不信感を持っている。 驕れるものの行く末があろう。

 とにもかくにもモノクロでの印刷は可能だったのでこのプリンターを使って喪中葉書は作った。カラープリントができず不自由することになる。もちろん、C社のものはもう買うまいと思っている。

 さて、先にT君から喪中葉書をもらっていた。お父さんが秋に亡くなったそうだ。この歳になるとお互いそういうやりとりが増える。余白に、4月に一人娘が彼氏を連れてきた、7月に挙式、12月には初孫と記してあった。ったくもう、最近の若者は…、とはひとのことをいえないなぁ。T君は血圧があがって通院中ときた。ながく会っていない。きっと、電話が来るなあ。

2011年11月16日水曜日

おいしいものを

今日からストーブを点火。寒さにはめっぽう弱くなった。


お昼はお粥にしてもらった。自己嫌悪が湧いてくる。自らを痛めつける気はないのに、なんであんなに無警戒に飲んでしまうんだろう。最後に飲(や)ったウィスキーが芳醇だからか、いや貧乏性で飲んでいなければ落ち着かないからかだろうか。だめだね、こりゃ。いったいどんな飲み方をするのだと、つれあいから今日は一筆とられたが、野田さん並みのはぐらかし、どうにでもとれる内容にした。我ながら言語明瞭意味不明、実に不誠実だ:*@#$%&

米から釜でお粥を炊けばおいしくできるものだ。秋口に支援のお礼にと石巻産の新米を30kgもいただいた。却って恐縮した。あまりの重さで、さすがに宅配便の人が玄関の中まで運んでくれた。生協の予約米を食べきれなくなるので、事情を話してしばらく休止してもらうことにした。あれから何日も経つ、宮城の米はおいしい米だ。

味噌は九州の麦みそを取り寄せていたが、この前買ってきたヤマキの玄米味噌にしている。久しぶりの関東産はしょっぱく感じる。こだわりの味噌だから佐渡のアゴか生協の田舎だしを使う。近所のお友達から野菜をいただく。出荷できない自家用のおすそ分けなので見た目は悪いが、採りたてでさすがに新鮮だ。夜の一品は大根おろしにしてもらった。

胃腸薬はこの前帰って来た三男に全部あげてしまったので買い置きはなくなっていた。この子の職場も長時間労働であるそうだ。買っておかねば。忘年会シーズンの医薬品メーカーの宣伝にのるようでいやだけれども、要るね。それにしても、おいしいものをおいしく食べられるように気をつけましょう。とんだ、一日だった。

*画像は孫の1歳の誕生日の7月に撮ったもの。お里では一升の餅を背負わせるものだとか・・・、シホさんは器用にもパック餅をゆでて溶かせて「一升餅」(1kgしかなかったけれど)をこさえました。

2011年11月14日月曜日

いのちを支える

 カキもハシもカレーも生来刷り込まれたイントネーションは直せない。秋にはいつも、つれあいから陸の柿なのか海の牡蠣なのかどっちだと訊き返される。インドのカレーですか海のカレイですかとくる。柿は好物だ。福島産だというので買い求めた。「みずしらず柿」に見えた。聞けば、福島は柿のブランド産地でそれを畑に捨てているという、くやしさが伝わってきた。会津身不知柿(あいづみしらずがき)。

 一日働いてきたつれあいを出迎える。開口いちばん「聞いて・・・」とくる。
そうだ、たいへんだね、けしからんね、と相槌を打つしかない。
いいの、いいの、聞いてもらえて気が済んだから・・・。
つれあいは気持ちの切り替えができる。

 おじちゃん、また遊びに行っていいかな。
共稼ぎで3歳の子を育てながら、末端の管理職に登用されて早朝出勤深夜帰宅を繰り返す姪っ子は不安とストレスが絶えない。私には逃げてもいいかな、と言いながら自らはしのいできた頑張り屋。

 実は聞き役は苦手だった。人の話を聞いていない、素通りさせてしまう。昔を振り返れば汗顔の至りだ。人の話は聞かず、自分の言いたいことだけを言う、その性癖はまだ残っているだろう。ただ、それに気づくことができるようになった。

 歳を重ねて、たいした人々と出遭うようになり、こちらには深い知識や経験はないから、自ずと聞き役にまわるようになってきた。「うなづきトリオ」あれである。「ふんふん、ああ、そうですか、それで…」。

 聞き役にまわっているといくつかの場合、相談事のように見えて、実はこちらの意見などは期待していないこともあることがわかってきた。聞いてあげて、共鳴することが大切なのだと。その方が多い。気持ちがわかってほしい、こんなことがあるんだよ、こうしたいのだ、それへの同意あるいは背中を押せという場合がある。つい出過ぎたことを言うと疎遠になることもある。見極めが難しい。

 大量生産、大量消費、チープ、大量廃棄、効率・歩留りで人間関係も忙しいばかりで中味がない。好き嫌いがあって、もともと孤独癖があるので、交友範囲は広くない。しかし、来るものは拒まなくなった、むしろ愛おしい。ひとの境遇にうなづけるようになった。といっても、そんなたいしたものではない。人がつらい状態にあるな、迷っているなというのが多少感じられるようになってきた(晩年の母親には及ばない)。

 芸術家。あれほどのすごい演奏をするのにバイオリニストの若林暢さんは、「ぜひお帰りの際には(チャリティーの)募金をよろしくお願いいたします。」と何度も舞台から頭を下げた。にこにことして、そのへんのおばさんのような気さくな人柄に思えた(プログラムにあるのは、あれは若いときの写真だな、いいけど)。目の前の席をとり舞台を見上げて演奏の様子も体感した。聴いているあいだ、痛めている右肩がガンガンした、演奏会場を出てみればそれがない、決して音楽がわかる人間ではないのだけれども不思議なことが起きるものだ。ええ、そんなことってあるのとつれあいも驚き気味だ。

 これまでの被災地の生産者(農業や水産業)の報告ではまわりで自殺者が出ているとを実感としてよく聞いた。10月時点ですでに28,000人を超えているそうだと聞いたが、念のためWebで調べてみると26134人であるようだ。いずれにしても、統計的には毎年32,000人前後で高止まりして久しい。

 「話を聴き、いのちを支えるボランティア」埼玉では、今後以下の催しが予定されている。
■埼玉いのちの電話20周年記念 「クミコ “いのちを歌う”」
日時 2011年11月27日(日)  開場15:00 開演16:00
会場 大宮ソニックシティ 大ホール
■チャリティー映画会「アンダンテ ~稲の旋律~」
2011年3月19日に中止といたしましたチャリティ映画会は2012年3月20日(火/祝日)に開催。上映時間(2回):10:30~、14:00~、 会場 大宮ソニックシティ 小ホール チケット 1,000円

 みずしらずのひとの話を聴き、いのちを支えるのは心身ともにタフで訓練がいるらしい。
 喪中葉書の内容をつくりあげた。なんだか、なにをやるにしてもひとしごとだ。

2011年11月13日日曜日

コンサート「秋に想う」



 もう2週間も経ってしまいました。10月29日土曜日のことです。ブログのアップが緩慢になってしまっています。

 玉川上水や府中なら無理すれば自転車でいけそうだなと踏んでいますが、そんな秋晴れの日、そんな無理はせずに電車を乗り継いで行きました。玉川上水というところは昔むかし福岡から転勤が決まったとき、右も左もわからず総務から送られてきた不動産情報で検討した地でした。なかなかいいところだなという印象が残っています。住宅の広さと家賃さえ合っていればこの地に住んでいたかもしれません。訪れたのはたぶんそれ以来でしょう。

 シャンソンといって思い浮かぶのは越路吹雪さん、美輪明弘さんでした、古いね。そういえば最近ではクミコさんやワサブローさんです。昔、東京への出張に同行した後輩から、銀座に近い新橋のシャンソン喫茶にいつのまにか連れていかれたことも想いだします。

 あのとき、つれあいの両親が津波で犠牲になったということはたちまちのうちにミュージカル仲間にメールで伝わり、お見舞いや励ましを次々にいただき、ついには寄せ書きまでもいただきました。当時、音楽をやっている人たちから聞いて共通していたのは、3・11の直後このまま歌やダンスをやっていていいのだろうかという放心状態だったようです。しかし自分は音楽をやりたい、そのなかでなにか復興に役に立つことをしたいと考え直したそうです。ほかの分野のひとたちも多くはそうであったと思います。

 聞けば両親は満州引揚者で東京下町育ち。結婚して武蔵野に移り住んできたとのこと。東北や三陸にはなんのつながりもないことから、つれあいの話を聞きおよび、そのためにチャリティーコンサートを開きたいと申し入れがあったのは5月のことでした。いてもたってもいられない、すぐ行動する。こういうひたむきな善意の人たちに幾人も出遭ってきました。シャンソン歌手の湯川あきさんもその一人でした。

 音楽大学がすぐ目の前にあって、オーナーはおそらくこの辺の地主さんではないかと思われるのですが、防音施設を備えたアパート群としゃれた喫茶店をもった敷地の一角にコンサート会場(「ホームギャラリー・ステッチ」)はありました。そんなに広くはない会場にぎっしり90人近く、前売り券を買っていただいた人はみな集まりました、当日「俄か受付」を引き受けましたので確かです。この日は、秋の文化祭などが重なり掛け持ちの人もおりましたが、とにもかくにも駆け付けてくださいました。

 湯川さんの家族とこの会場のオーナーそして私たちが裏方になり、「秋に想う」と題した手作り感のあるチャリティーコンサート。人柄の故でしょうか駆け付けたのは多くが湯川さんの長年のファンであるようでした。前段で3分間のあいさつをと言われ、つれあいがみなさんの前で体験と気持ちを語りました。いざとなれば、つれあいもなかなかのものです。清水智子さんのピアノ、松本みさこさんのアコーディオンで歌なしの演奏から始まります。私はクミコさんを聴く以外はシャンソンなど親しんだことがないので、なんかこう都会(パリ)的で「おのぼりさん」のような気分で曳き込まれていきます。でも、歌詞の内容は庶民的なんですね。

 23歳でシャンソンに出遭って40年、歳がばれちゃうねと言いながら軽妙なおしゃべりを添えて、唄いつづけます。「悲しみの終わりに」という曲は、ヨーロッパで起きた洪水のあとの歌なのだそうです。最後の曲「生きる時代」というのは愛があれば生きていけるというモチーフの歌とのこと。一部、二部に分けての熱演、終わればアンコールの嵐。「用意してあるわよ」でつごう21曲ほど、人を泣かせる歌があり、とくにミュージカル仲間は涙もろい人が多いらしく肩をふるわせているのが後ろからみてとれました。つれあいのご近所仲間で駆け付けてくれたMさんもおいおい泣いたと言っていました。40年のなかでは「愛・平和・命」の三本柱で青梅沿線ではチャリティーコンサートも細々ながら続けてきたといいます。『愛の贈りもの』というCDも全財産を傾けてリリースしたとお客さんを沸かせます。

 「心の闇は、ひとはひとでなければたすけられない」という湯川さんの言葉を私は書き留めておりました。

 もう2年も前になる、どうしても壁にぶつかったときがあった。プロの歌手だというプライドを置いて、市民ミュージカルに加わった。それが素人にすぎないつれあいとの出遭いでした。ただそれだけのご縁でしたが、苦楽をともにした皆さんは感情豊かな人が多いように感じます。このたびの催しにはひとりひとりに手紙を書き、入念に準備を積み上げていったそうです。コンサートのあと、私たち夫婦と演奏のお二方とともにご馳走になりながら、そういうお話を聞きました。

 その日の収益金をすべてつれあいの故郷の気仙沼復興支援のために使ってほしいと託されました。後日、被災者である友人とも連絡をとりあい、結局気仙沼市役所の当該の部署に寄付をいたしました。
 
 湯川あきさんはライブ活動をしながら、メモリアルコンサート「金子みすずの詩を歌う」などの司会・ナレーターとしても活動中です。

2011年11月11日金曜日

11・11

本音は見透かされていた。本日、国会の集中審議の最後の質問に立った社民党の福島さんからは「この国会の場で参加表明をせよ」と食い下がられていた。そして、よもや記者会見や外国に行ってこれほどの国の重要な方針を発表することは、国会の軽視であり許されないと。この一点を突いていた。国会で堂々と論戦せよという趣旨だが、首相ははぐらかした。共産党の紙さんは数字をあげて予測される農業への惨憺たる影響を突いた。この国土から農村が崩壊する絵が見えてくる。

 とうとう8時の記者会見で「既定」のTPPの「協議に入る」という言い回しで事実上の参加表明をするという卑怯で狡猾な方法を用いた。一日延ばしてみせるという茶番や「母の実家が農家で」とかという猫だまし的な言辞も散りばめながら、発表は優等生的な美辞麗句を並べている。彼は「事前協議」と言ったのではない。本質は明日からのAPEC協議でのアメリカへの手土産である。

 会見で「断固として守るべき」と言った事柄(日本の医療制度、伝統文化、美しい農村)とは裏腹で、大変なことになる。農業の「業界の不利益」のことではなくて、利益など何もない私たちに振り掛かってくる生活や生き方にかかわることだ。

 「・11」は8か月目になる大震災や原発震災に加えて、またも、国民への惨禍になるような象徴的日付となった。肌寒い雨の一日、このいやな日を忘れない。

2011年11月10日木曜日

思い立って

今は暗くなって寒くなるのはだいたい夕方の4時半ぐらいです。時計を見ましたら2時半でしたから、帰りのルートは有料道路(高速)を使うことにしました。

 甥っ子の哲ちゃんにたのんで、私の軽自動車にETCとカーナビを装着してもらったのは9月の末のことでした。その試運転をしないままに過ごしていましたので、いずれかの機会に試そうと考えていました。それには、旧神泉村訪問もいいのではないかと想定していました。

 地図でみれば我が家から北西へ秩父に進み、北へ転じて山を越えれば群馬県境すなわち旧神泉村の辺りに辿りつける。それがおもしろい、かねてよりそう考えておりました。本日はお日柄もよく、いざ思い立ちました。再会した時にいただいていた名刺の住所を登録して目的地に設定し、我が家を出発したのは朝の9時ごろでした。

 秩父まではくねくねの登り道をひたすら行きます。制限速度は40kmのはずですが、仕事の車でしょうか、みな急ぎます。追い越し禁止の道路ですので流れにのって迷惑を掛けない程度に進みますが、ハンドルを切るのが忙しくてなりません。正丸峠を越えてようやく秩父盆地に辿り着き、街中の見覚えのある秩父神社で右折して北に転じます。そこから先はカーナビ頼りでした。山道には違いありませんでしたが、もっと険しいものを想像していましたので峠を越えたらしいところで神泉村が見えたときには拍子抜けいたしました。山を降りてまいりましたら、見覚えのある交差点で、目的地はすぐその近くでした。

 日中は薄日の射す暖かい日和で助かりました。正門の手前の駐車場に停めましたのが、出発してから2時間15分後。約6、7年ぶりでしょうか、「御用蔵」と称する工場とお店が隣接する施設です。昔懐かしいお味噌の匂いが漂います。ところが、ところがです。門には「本日は閉店しました」の看板が立てかけてあります。そういえば、人影がみえません。今日は水曜日、何も確かめもせずに出てきましたので定休日かもしれません。せっかく来たのにね、と念じながら窓越しにでも覗いて行こうと考えました。確かに人気を感じなかったのですが、入り口のドアに立ちましたらなんと開きまして、店員さんもお客さんもいるではないですか。確かめましたら営業しているとのこと、また拍子抜けしたのでした。

 店内にお目当ての「べったら漬け」をすぐみつけました。「新もの」とPOPがしてあります。今度の土日は、樽から出したばかりのものを称して「生べったら漬け」として、市を開きます。その「下見に」と思い立って来てしまいました。こだわりの料理を出してくれる庵があるのですが、あいにく予約でいっぱいで1時半なら空いているとのことで、あと2時間もあります。バスで団体の人たちが来たようでした。せっかく来たのだし、つまらないところで昼食をとるよりは「こだわりの」という「御膳」を食べて帰ろうということにしました。

 近くのガソリンスタンドで給油をし、そこで三波石峡と冬桜の場所を訪ねました。冬桜は桜山公園がまだ見頃ですぐそこだというので、まずはそこに向かいました。川を渡れば群馬県です。看板が出ていて案内をしてくれるのですが、ここに向かったのが間違いでした。往復10kmもあり、しかもその名の通り山の上で、なかなかの見どころではありましたが、そこだけで時間をとられてしまい、お目当ての三波石峡には行くことができませんでした。

 予約の時間に帰り着き、ようやく「豆々菜々御膳(1,500円)」にありつけました。食材にもこだわっていますが、庵の調度品にもこだわりというか品のよさがあります。再度、お店に立ち寄り見学コースから味噌木樽を見、玄米味噌やべったら漬け、チカさんへのお土産などを求めましたらもう2時半をまわっておりました。

 下見のつもりで、ちょっと行ってすぐ帰ってくる積りでしたのに、こういう展開になってしまいました。マイカーをKカーにして私は高速に一度も乗ったことはありませんでした。関東での高速道路運転は実に久しぶりです。ETCは順調に作動いたしました。ターボエンジンのアクセルを踏み込む足の緊張と、手には汗の感触がありました。

 村の景観、味噌蔵のこと、配管の並んだ食品工場内のこと、ここの水のこと、畑のこと、山羊さんのこと、いろいろ想い出しました。指示を受けて当時スタッフとして種を撒き、今につながっています。土日には「べったら市」もありますが、それも兼ねて大豆トラストの収穫体験もあるように聞いています。

 往きは山越えのルートで2時間15分、還りは高速経由で1時間半(高速料金1000円)。思いがけず、埼玉県の北の端をぐるっと一周してきたことになりました。

 畑にお地蔵様が似合っていました…。
 そう、浅はかな思い立ち政策「TPP」でこの国の成り立ちとなりわいを滅ぼしてはならないと考えています。またしても、アメリカへの白紙委任的「開国」。「開国」ならいいではないかというおめでたさ、または無関心と他人事。我が身にふりかかるころに気付いてもあとの祭り。
 今日から「騒然!ならじ!」

2011年11月8日火曜日

深い呼吸

指圧の先生に、「ひとつ気付いたことがある、呼吸が浅い」と言われた。
細く長く息を吐くと、その分深く息を吸えますからと忠告された。

そうか。

他人と比較をしない。自分をみつめる。内面をみる。深い呼吸。ガス抜きのポーズ。

3・11以来体重が2kg減った。それを維持してきたのに、4kg太っていた。ここのところ、映画を観続けて、疲れては陽だまりで居眠りをし、それを繰り返した。

NHK「こころ旅」を観ては、ゼーゼーハーハーでもペダルを踏むことを夢想している。自転車どれにしよう。風呂に入りながら“オハラゼンサクさん”は少し歩かねばとも考えた、8000歩。

ぷーっ。どなたですか(うちには二人しかいません)。

おかあさん、明日の朝の米は何合研ぎますか、ええ、今日中にお茶碗洗いますから。毛糸編み始めてください。それと0時から、世界ドキュ「ギリシャの悲劇」始まりますよ。ええ、いま洗いますから。

2011年11月4日金曜日

飲み会のあと

 私には「キセノン」が「キャノン」に思えて仕方ありません。ダジャレ言っている場合ではありませんのですが。

 ちかごろ我が家では、私のことを「おはらしょうすけ」さんから「おはらぜんさく」さんと呼ばれるようになってきましたね。・・・。thh、hmm。

 夕方からは夏ものの半そでシャツに相物のジャケット、冬物のズボンを着用して池袋に行ってきました。西口はネオンがきらめき、久しぶりの都内はまばゆいばかりでした。大分のSさんとは、私の退職以降初めてお会いしたからです。いっぱい飲(や)ってきました。突然だったので「驚きましたよ」と何度も言われましたね。

 帰りの遅い電車は久しぶりの立ちっぱなしでした。驚いたことに息子と同じ電車でした。通常だろうが遅番だろうが、帰りはいつもこの電車だというのです。家に帰ればこれから夕食だといいます。「若者の長時間労働」の見本が身内にいます。

 「おはらぜんさく」さんにも言葉がありません。

2011年11月3日木曜日

「被爆者の声をうけつぐ映画祭2011」

 今週末、明治大学で「被爆者の声をうけつぐ映画祭2011」が開催されることを知りました。ドキュメント映画をまとめて観られます。以下、紹介します(ホームページより引用)。

開催日;11月5日(土)・6日(日)の2日間の開催。
会場;明治大学・リバティータワー(1階1011教室) (アクセス:御茶ノ水駅から徒歩3分)
11月5日(土) プログラム1、特別企画、プログラム2
11月6日(日) プログラム3、4、5
主催:明治大学軍縮平和研究所/被爆者の声をうけつぐ映画祭実行委員会
協賛:日本原水爆被害者団体協議会/被爆者の声をうけつぐプロジェクト50
※各回完全入替制、全作品DVD上映
【入場料金】チケットの価格と入手について
※シンポジウムは一律500円
前売り 大人1,000円/学生・こども500円、
当 日 大人1,200円/学生・こども800円
★上映会場は、一プログラムごとの入れ替え制です。
【お申し込み・お問い合わせ先】
共同映画㈱ 03-5466-2311
ウイング・コア 03-3232-7867 (FAX)03-3205-8958

2011年映画祭プログラム

◆(1日目)11月5日(土)
プログラム1 10:00~12:00
・開会の挨拶
・「原爆症認定集団訴訟の記録 にんげんをかえせ」
ドキュメンタリー/2011年/85分/カラー
撮影:磯部元樹 構成演出:有原誠治 製作:原爆症認定訴訟・記録集刊行委員会
内容:「私の病気は原爆によるもの」と主張しても、原爆症と認められるのは全被爆者の中のたった1%未満。アメリカに配慮し原爆被害を絶えず過少評価する日本政府の原爆症認定基準を正すために、被爆者たちが全国で集団訴訟を起したのが2003年。原告たちは病に倒れながらも次々と勝利し続け、国についに認定基準改定を約束させる。被爆者を祖父に持つ青年が、コツコッと撮った貴重な映像記録。

お話:弁護団と原告の代表と制作スタッフ

特別企画 シンポジウム「いま、フクシマは」13:30~17:00(開場13:00)

 2011年3月11日、東日本大震災によって、40年間誤魔化されていた「リスク」が発露した。集団避難、農漁業への深刻な影響、そして子どもたちに突きつけられた放射線「許容量」……。福島第一原子力発電所の事故は、これまでの生活だけでなく、フクシマに暮らす人々の将来をも脅かしている。村の再建を目指す人たち、子どもたちと向き合う親や教師、地元のジャーナリストなど、見えない放射能の恐怖と向き合いながら暮らす人々の声に耳を傾け、フクシマの「いま」を考えたい。


基調講演:「お金の世界から いのちの世界へ」菅野典雄(飯舘村長)
・パネルディスカッション
 パネリスト:菅野典雄、藍原寛子(フリー・ジャーナリスト)ほか
 モデレーター:小林典子(福島中央テレビ報道部長)

 ※参加費:500円(入場先着順)

プログラム2 18:00~21:00
「黒い雨」
劇映画/1989年/123分/モノクロ/監督:今村昌平
内容:今村プロなど製作、井伏鱒二の原作を石堂淑朗が脚色、今村昌平監督が映画化、川又昴のモノクロ撮影も冴え、カンヌ国際映画祭の高等技術委員会賞。広島で被爆した若い女性高村三須子(田中好子)に迫る原爆症の恐怖を静かに見つめる。北村和夫、小沢昭一、三木のり平、市原悦子らの共演。音楽は武満徹。

お話:増田善信(気象学者)

◆(2日目)11月6日(日)

プログラム3 10:00~12:00
「24000年の方舟」
ドキュメンタリー/1986年/33分/カラー
製作:「24000年の方舟」映画製作委員会 製作:鵜久森典妙
構成・監督:高橋一郎 撮影:山添哲也
内容:青森県、六ケ所村の核燃料処理施設の問題点をいち早く追及した。先駆的な問題作。深夜、町を走るパトカーに先導された核燃料輸送車の列、「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故、東海村燃料工場の火災、爆発事故など。核燃料サイクルの危うさを海外の豊富な映像を駆使して伝えている。

「隠された被曝労働~日本の原発労働者~」
ドキュメンタリー/1995年/日本/24分/日本語(英語字幕)
イギリス・チャンネル4制作・イギリス放映、原題NUCLEAR GINZA
日本語版制作:岩佐基金
内容:日本のテレビ界では原発労働の暗部を巡る番組制作は事実上、タブーとされてきた。フリージャーナリストの樋口健二は、放射線に身を曝して働く原発労働の実態と、幾重にもピンハネされる下請け差別構造を取材してきた。イギリス・チャンネル4は、この樋口氏をレポーターとして起用し、闇に包まれていた被曝労働の過酷な実態を暴いた。原発労働で被曝した岩佐嘉寿幸さんの裁判を支える岩佐基金が、日本語版を制作した。

お話:樋口健二(フリー・ジャーナリスト)

プログラム4 13:00~16:00
「六ヶ所村ラプソディー」
ドキュメンタリー/2006年/119分/カラー
監督:鎌仲ひとみ 製作:グループ現代
内容:過疎化と高齢化が進む青森県六ケ所村は、高度経済成長期、巨大原子力産業「使用済み核燃料再処 理施設」の受け入れを選んだ。村人の中には、放射能汚染の無い暮らしを守ろうと反対す る者もいれば、新産業のもたらした恩恵の中に生きる者もいる。国家政策と巨大企業に翻 弄され続けてきた彼らの生活にとって「原子力発電」はいかなる貌をもつのか。六ヶ所村 で響く狂詩曲に、鎌仲ひとみ監督が迫る。

お話:鎌仲ひとみ(映像作家)

プログラム5 17:00~18:30
「棄てられたヒバク~証言・被災漁船の50年目の真実~」
ドキュメンタリー/2011年/57分/カラー
制作著作:南海放送 ディレクター:伊東英朗 チーフプロデューサー:大西康司
ナレーション:戒田節子 朗読:保持卓一郎
内容:1954年、アメリカのビキニ環礁での水爆実験によりマグロ漁船、第五福竜丸が被災してから半世紀以上が経った。当時、第五福竜丸以外にのべ1000隻の被災漁船が存在したことは広く知られていない。被災漁船の実態を25年以上にわたり調査している元高校教師に同行して、ビキニ被爆の実態を取材する。新たに発見された米原子力委員会のビキニ水爆実験の機密文書の内容も紹介。

お話:伊東英朗(ディレクター)

風雲急なりTPP

 2日目にしてカレンダーを11月にようやく取り換えました。どうも所作が緩慢になっています。

 今週の日曜日の朝刊(「朝日」10月30日付)をめくって目をみはりました。
 「知っていますか?TPP」という全面広告が掲載されていましたから。

 この問題に関しては風雲急を告げています。
 現政権は新自由主義的傾向大ですから、「やる気」でしょう。こうなれば狡猾な「小泉構造改革」の再現で、この国の成り立ちが再び破壊されることでしょう。この(意見広告)が提起するように、まさしく、私たち自身に関係する問題です!
 曰く「TPP(環太平洋連携協定)は、農林水産物の関税撤廃による地域経済・社会への甚大な影響にとどまらず、わが国の優れた医療制度や、金融・保険などのあらゆる分野に関係し、私たちの食・暮らし・いのちに直結する重要な問題」ですから。

 掲載をしたのは「TPPから日本の食と暮らし・いのちを守るネットワーク」という組織で「考えてみよう!TPPのこと」というHPも立ち上げています。幹事団体は、全国農業協同組合中央会、全国農業会議所、全国漁業協同組合連合会、全国森林組合連合会、生活クラブ事業連合生活協同組合連合会、大地を守る会、パルシステム生活協同組合連合会、社団法人中央酪農会議、他 で構成されています。農畜水林の生産者と消費者が共同で取り組んでいる形になっています。

 早くからこの問題の本質を敏感に受け取り、一部の政党をはじめいくつもの生産団体や組織が警鐘を鳴らしこの問題に検討を加え批判的態度いや反対を鮮明にしてきました。私たちの食糧や生き方や環境などの根幹に関わることですから、当然のことです。地球の資源と人の労力を浪費し続けなければ「成長」はない資本主義という仕組みの行き詰るところの「一プロセス」に私には思えます。

 かつて私たちの先達たちが、平和や核兵器廃絶の問題は生活や生き方に直結する問題だとして取り組んだ積み上げがあるにもかかわらず、私の前の職場は、少なくとも夏の時点では、この問題(TPP)については論議の素材を提供しようという立場だったように理解しています。(2011年度活動方針)で「TPPなど広域自由貿易協定について、幅広い視点から論議を行い、くらしを守る立場から取り組みを進める」ことを全国に呼びかけてきましたというものです。私には実に緩慢な動きに見えました。これはこのたびの原発事故への姿勢にも同様ものを感じました。そのような傾向が残念であった理由の一端でもあったような気がします。

 とはいえ、生活者にとっては重要な政策でもありますので、前の職場は11月1日に「TPP(環太平洋連携協定)に関する要請書」を政府に提出しました。要請の中味は、全国の仲間の取り組みをふまえ、国民的論議を一層促進していく視点から、「1.プロセスの全体像について明確にしてください。2.国民的論議のための情報発信を強化してください。3.国内農業の再生に向けた政策の具体化を早急に進めてください。」というものです。抜き打ち的にTPPに参画しようとする動きにたいして、幅広い運動にも成りえていない元の職場の緩慢さや不明確さは、大きくなったズータイの小さな脳(考える力)と身体能力という皮肉を描かざるをえません。大量生産(ものの豊かさ)と価格の安さが人間の生活や生きづらさの解決にはならないという、TPPで描かれるものの奥底にこれは見透かされるもので、見抜けなかったのか動かないとしているのか疑問に思っています。

  「知っていますか?TPP」という全面広告は機を逃さない提起になっていました。