2009年12月31日木曜日

年の節目に


 四人のうちの二人の息子は今日まで仕事、来られないという。それで娘と息子とが来て四人で大晦日の夕食。それでも四人だと揃える皿が多いなと久しぶりに感じる、昨年の今ごろはまだ息子が同居していたので普通のことだったのだが。今度のお正月は喪中ということでとくに本格的なおせちは用意しないことにした。そして、何かあればいつでも出て行けるようにはした。だから、大掃除程度でさほど忙しくない年の瀬だった。
 年越し蕎麦、それに東京桧原村の「とろ刺身こんにゃく」、宮城の牡蠣を使ったフライ、つぶ貝の炊き込みご飯。片付けは我家では“ロビタ”と呼んでいる食洗機をこれまた久しぶりに使う。

 今朝起きたときは未来社会のことを考えていたのだがすっかり忘れた。何か大事なことをいつも先送りして生きてきたように思う、「明日にしよう、いつかやろう」と。それでいいときもあるが、いつも中身もなく急いで生きてきたように思う。悪循環に陥っている労働と経済事情で来る年も平穏だとは思えない。しかし、少しでもよくなるようにと願う、私自身何ができるわけでもなく微力でしかないが。一日一日を大事にしなければとあらためて思う一年の終わりの日だ。

2009年12月30日水曜日

我家の振り返り


 職はおろか住処を失った多くの人たちのことに、いたたまれない気持ちで今年は明けた。目の前で聴いた湯浅誠氏の「恐い話」と主張が頭にこびりついている。自公政権が退場したのは溜飲が下がる思いだったが、本質的に働くひとのための政府が必要だと思っている。

 「大きな家に車が2台」の生活で幸せになれなかったとはアイスランドの首相の言葉。この国は金融バブルが破綻した。私の知るのは漁場豊かな水産物と地熱発電とそして米軍基地経済の90年代。初めて訪れた時の印象は「木のない国土」だった。三菱製の車が走り回っていた。それでその債権の替わりにというのか、あまり豊かではないこの国からは主に三菱系の商社が水産原料を多く輸入していた。素敵なセーターがあってペアの柄を買ってお土産にもってきたのを今でも重宝している。その後のアイスランドにそんな金融バブルの時代があったとは想像ができない。
 「幸せ」をお金で買ってしまったのかもしれない。ミレーの晩鐘、のような畑仕事を終えた姿をイメージした。そして見上げれば立錐型をした岳、そして温暖な気候と豊富なお湯。積み上げもつながりも持っていない。

 普段、いろいろな仕事を引き受けてこなしていたようで、長男に「裁判員裁判」の仕事が偶々早くにまわってきて注目を浴びた。組織力を持つ検察にたいして、クライアントとの連携をしっかりさせ、市民である裁判員へ伝えることの斬新さをつくりだしていた。終わってから、我家に報道された新聞記事をどさっと持ってきたのには「おやおや」と苦笑してしまった。

 そうこうしているうちに高齢の母を亡くした。とくに孝行をしたわけでもない、むしろ逆だっただろう。ながい長い独り暮らしを気丈に過ごしたが、気ままだったのだろうが寂しくもあっただろう。晩年、認知症が進んだころはその気持ちを素直に示すようになった。たまに帰るしかないのは仕事があってしかたなかったが、帰るようになったら対話にはならなかった。とうとうその母に寄り添うことはなかった。

 二男が正月に家を出て二人暮しになった。二人になったから暮らし方、考え方に変化が生じた。二人で生きていくことのこれからのあり方を展望するようになった。扶養者がいなくなったせいか「軽く」なった。それと確かに食生活が量から質に変わりつつある。それもストレートではなくジグザグに。カレーをつくれば3日分もあることもあり、逆にそんじょそこらでは手には入りづらい「心のこもったもの」も食卓にあがる、人とのつながりのお陰だ。お金では買えない。
 拘束するのは夫婦お互いだけになったから、妻殿の一念発起、ミュージカルの応募出演を応援した。案の定、可能性と「やりがい」そして新しい「人とのつながり」に目覚めた。

 出て行ったはずのその二男がダブルハッピーとやらで、都内の新居を探していたはずが、予算の関係でたまたま近くに住むことになった。まるで旅に出て行った雄猫が家族を連れて還ってくるようだ。順調に行けば義理の娘と親戚が増え、孫の顔が見られることになる。人と血のつながりが増える。

 憎らしいほど・・・な相方と生きていく。さて、お金で買った「幸せ」をどうしよう。

2009年12月29日火曜日

仕事納め


それで、帰宅したら今宵は三陸産のほたて、あわび、つぶ貝づくし、生協のベーコンと牡蠣とほうれん草の炒め物。娘を呼んで少し酒盛り。芋焼酎、黒糖焼酎はいただいた。

2009年12月28日月曜日

変わった


 ここ最近は古着屋さんで済ませていた。ところが久しぶりに生協のカタログでスラックスを買った。裾も上げてあって2,500円。それが宅配便で届いた。すると、この原価はいくらなのだろう…。
 ご近所のリサイクル屋さんが全国チェーンのFCから離れて独立した。それでは立ち行かなくなったらしく、今度はブランドリサイクル屋さんとかに模様替えをしてガラリとイメージを変えてしまった。前はつなぎ服を着た若い店員さん達が立ち働いていたが、今度はスーツに身を包んだ見知らぬ店員さんたちがほほえみながら待ち構えている。私にとってはつまらないブランド品がガラスのショーケースに並べてあるちゃらちゃらしたお店になったような気がする。まあ、頑張ってくれ…。

2009年12月27日日曜日

解決、未解決


 日曜日の休みの夕方にお風呂に入りながら考えた。人間いつかは必ず死ぬ。身上潰すほどのものもないが、無理することもない。全国の不安だ、心配だという声に向き合い、職場では上昇泳ぎをする平目を横目で見て「むふっ」としたりとか、より早くもっとたくさんと旗振る勘違いの参謀さんをやりすごすように心身管理をしたりしている。

 光ファイバーに変えたとき、無線LANもそれに対応するように切り替えなければならなかったようだ。コールセンターにかけまくり、ルーターのメーカーの有料の案内にたどりついて解決した。回線を変えたときに、そういうことを一言助言してもらえればよかったと思うが、なんの案内もなかった。コールセンターにかけてもその原因の可能性には言及はなく、何度か照会するうちにその助言になった。結局、つながりづらいインターネットを開いて検索してメーカーの相談室にたどりつき、あっさりと解決した。その間インターネットにつながらないということは、この世と人とのつながりがまるで切れてしまっていくような不安を覚えた。パソコンもインターネットもよくわからねぇと言いながら、実は錯覚に陥っていたような気がする。

 「よく懐きます、3ヶ月」という子猫の里親募集のビラを電柱にみつけ、考えあぐねた。一匹は黒でもう一匹はトラだ。団地のなかの元薬局のお宅が貸家になって、尋ね先は東京の電話番号の張り紙があった。 「怯えの時代」(内山節/09年2月/新潮選書)を読む。
 政権が変わったからといって格差不穏の社会が解決したわけではない。時代はいっそう厳しくなっている、沖縄の海兵隊の基地の問題は解決しない方向のようだ。そんなことで年を越そうとしている。

2009年12月26日土曜日

臼杵せんべい


 昔2大政党と言えば自民党と社会党だった。
 九州を北から南に終着駅の「西鹿児島駅」(現在は鹿児島中央駅)まで行くのは2通りあって、西回り(西海岸を行くルート)が鹿児島本線、東回り(東海岸を行く)のが日豊本線。
 東京にでも就職してしまえば乗る機会はめったにないだろうと考えて、大学を卒業して最後の帰郷のルートはわざわざ日豊本線をとった。小倉までは夜行、そして乗り換える。初めて見る車窓の風景。彼女は初めての九州。延岡で途中下車して当時まだ残っていたローカルの高千穂線にも寄り道した(ほどなく廃線されたので貴重な経験になった)。
 ところが皮肉なことに、就職して赴任先が博多、そして営業先が主に大分・宮崎だった。それでいくらでも日豊本線にはお世話になることになった。今のJR九州の列車は実にセンスがいいが、当時の特急は味も素っ気もない黄土色の車体の特急、乗車時間が恐ろしく長く何度も乗ればひどく退屈に思えた。今ほどの快適さは何もなかった。
 得意先に行けば社会党の代議士さんのポスターが実に堂々と貼ってあった。労働組合(地区労)が母体になってできた得意先がこの沿線には多数あって歴史を背負っていた。また、九州のあっちこっちの旧炭鉱地帯には炭労を母体にした得意先があって往時がしのばれた。社会党にはレッキとした派閥があって同じ得意先で隣同士でも実は仲が悪かった。大分は瀬戸内海に面しているせいか、同じ九州人でも性格が穏やかに感じる。昔この本線沿いには、特急が止まる駅ごとに得意先があったそうだが、私が赴任したころには幾つかになっていた。臼杵は古い城下町で実に閑静な街並みだった。古くは戦国大名の大友宗麟の居城だったところだ。得意先の拠点があったので何度も通った。若くて元気が良かったので、あるとき専務さんから名物のふぐの刺身をご馳走してもらった。ここでは肝も出す。プロが調理するので問題はないが最初はひけた。透けるほど薄く切った切り身を丸い絵皿に放射状に広げて盛り付ける。それはどこでもそうだが、それが大変大きな丸皿で出てきたので、その皿と同じくらい目を丸くした。この世にこれほどうまいものがあるのかと思った。「どうだ参ったか」「恐れ入りました」まさにその境地だった。
 あとで考えればそれほど年は離れていなかったのだが、仕入れ担当の板井さんは高校を出て働いていたからベテランに見えた。穏やかな性格で、値切られもしたが相談にもよく乗ってもらった。臼杵は実に静かな街という印象が強く残っている。
 山本さんの故郷の佐渡の集落では「山本」と「臼杵」姓が古い家であるらしい。それで、何か所以・由来があるのではないかと、山本さんの兄上ははるばる臼杵まで訪ねて行ったそうである。こういうとき自治労仲間は役に立つ。母校の大学では網野善彦さんの歴史論の薫陶を受けたらしい。臼杵市そのものに「臼杵」姓はなく、その周辺の郡部に見つけられたらしい。「臼杵」にしても「高千穂」にしても佐渡にあったり、信州にあったり、何か古代の勇躍・つながりを想像できておもしろい。臼杵も佐渡も冬の魚が旨い…。
 「臼杵せんべい」なつかしい名物。たまたま臼杵の方から送っていただいたその日に、二男が大分生まれの大分育ちの彼女を連れてきて皆で頬張る。大分からは初めての社会党の総理が生まれた。そしてその社会党は無くなった(現在の社民党が後身だが)。得意先も県内で合併してひとつになって、杵築も臼杵も津久見も行くことはなくなった。
 「豊の国」古代・中世では仏教文化を育んだ先進地域だったようだ。

2009年12月24日木曜日

弱った・・・


クリスマス・イヴだ。ストレッチをするのだが、あいかわらず妊娠したネコみたいに前屈ができない。つらいけどやったあとは清々しい。足の裏は様々なツボがあるそうで刺激をするといいそうな。

インターネットに接続しなくなった。コールセンターにかけて助言を得るが不具合が直らない。だましだまし繋ぐがリンクを開けたりするとブチッと切れる。無線LANのせいでもないようだ。パソコンのせいでもないような気がする。最近、ADSLから光ナントカに換えたばかりだ。ほとほと弱ったものだ。

2009年12月23日水曜日

月と…

「月と6ペンス」ならかっこよさそうな小説だが、「月とスッポン」ではサマにならない。これまでによく見聞をし、深く考え、芯をつくり、世間を渡り合ってきているので昨夜の二人が月、こちとら右顧左眄、それを見上げるスッポンだ。社会的実力が違う。

「平行線」を定規で引いたようだった。何かの間違いで少し角度が内側に違っていてくれればと願ってもみたが、何の虚実もないそのまま絵に描いたような平行線だった。こちとら口をあんぐり。

同じ池袋発だとしても、丸の内線と有楽町線は乗り場が離れている。引っ越してきたころはよく乗り間違えた。もっと大きな違いは行き先の方向だ。一方はブーメランのように還って来てはすぐそこの新宿を越す。もう一方はまっすぐ東京のはずれ新木場に行く、乗り換えればそのもっと先まで行く。ところが両路線とも実は銀座付近で交差はする。そうなのに直接乗り換えることはできない。だから、銀座あたりで降りて駅を出て乗り換えなければならない。

以前から二人のそれぞれの知見についていけない。ああ言われればそう思うし、こう言われればそうも思う。難しい知識の山のことはわからない。

かねて聞いてはいたが、違いがよくわかった。たいしたものだ、おもねるところもない。行き先が違う。起点が一緒で、しかも交差するのに。こっちを向いて話すのなら、面と向かって口角泡を飛ばすまで話してほしいなと考えた。若かったときとは、もう違うか。帰り際に訊いてみたら、一方は面白かったと言っている。

酔って銀座で放り出されれば迷子になりかねない。丸の内線に乗ろうかそれとも有楽町線にしようか。いや、山手線にしよう、ぐるぐる回れる。

ザッツ東京、九州から出てきたらやっぱ、銀座、六本木。友達はそこ案内してほしいっていいますよ。高円寺、吉祥寺っていわれても、それが‘通’ってわかんないっす。東京2年目の二男の彼女はそういう。東京に出てきても行きたいところは人によっても生まれによっても違う。

さて、月はどっちに出ている?三日月だ。

2009年12月22日火曜日

愛甲先生


私は高いところは苦手でいつも低いところにいる。常に地位は低い。だから、いくらおだてられても木に登ることはしない。

小学の、5年のときの担任は愛甲先生といった。とにかく絵のことを誉められた。図画工作の時間はきらいだったのに、まるで魔法にかけられたようだった。書く絵、描く絵を展覧会や品評会に出してもらった。表彰状がみるみる増えていった。あるとき、県で2等賞をとった。それではるばる県都まで母と二人で表彰会に出かけていった。よそ行きを着て行った。主催したのは県内では誰もが知っている銀行で、その本店の講堂が会場だった。まるで壊れかけた久留米人形(仕掛け人形)のようにぎこちなく大勢の前に出て行って並んだ。いずろ通りの山形屋デパートに行くのは夢のようなことだった。売場に並んでいるものや雑踏はこの世のものではないように思った。ご褒美に食堂でガラス容器に入ったアイスクリームか何かをおごってもらった。父は生きていたはずだが記憶に出てこない。もう身体が弱っていたはずだから家にいたのかもしれないし、そういうことに関心が無いほど気難しくなっていたのかもしれない。県都に行って帰ってくるのはひと仕事だったが、あこがれの都会だった。大きな階段のある駅。立ち並ぶビル。路面電車。そしてなによりも噴煙立ち上げるあの桜島を仰ぎ見るのが好きだった。子どもの目線からは果てしなく雄大に見えた。あのとき入選した絵のことは覚えている、子ども心に技巧を凝らしたなと、ちょっと恥ずかしい思いがあった。あこがれは夢見心地だった。

小学6年生になって担任が替わった。学業成績はまだ悪くはなかったが、激しく体罰先生だったので、性格が捻じ曲がってしまった。絵の腕前も価値では無くなってしまったので、どこかへ行ってしまった。もともとたいした才も無かったのかも知れない。数十年経ってそんな面影も欠片(かけら)もない。相変わらず木には登れない。

今日はゆず湯とかぼちゃの冬至、そして長男の生まれた日

2009年12月21日月曜日

どんな家庭に


私は自由人なので歌を唄えば音程は変える(世間一般では“はずれる”とも言う)、歌詞は変える、そのうち違う歌を合体して終わらせる、そういう才があるようだ。コーラスなんてとんでもないことだ。

「笑い声と歌声が絶えない家庭」唄えば自ずとハーモニーになる。そんな家庭を築くのが妻殿の夢だったそうだ。ところがどっこい、私には音楽の素養がない。どうも父親ゆずりのようだ。ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年公開)に出てくる「トラップ大佐の家族」のような家庭にはならなかった。(申し訳ない)という負い目がどこかにある。夢のことはいつも聞いて聞かぬふりをしていた。

「あたしカラオケ大好き、歌好きなんです」会うのは今日で3回目「あいさつ」に来るというので来たら、「住むところは…」と二男が切り出す。「違うだろ」一緒になりますという親へのあいさつ、けじめだろと切り返す。それでこれからどうやって二人で一緒に生きていくのか、どんな家庭を築くのか、社会とどう関わっていくのか、抱負を語れと言ってやった。そしたら二人とも目が星になってしまった。『ゼクシィ』(リクルートが発行している結婚情報誌)によれば、「レストランウェディング」というジャンルがあってパッケージになっているらしい。いわゆる「人前結婚式」だ。そのなかには、「お急ぎ婚」「Wハッピー婚」とかもあるらしい。とくに悪びれずにいるところがどこか可笑しくなってくる。どうやら「日陰」ゴトではないらしい。こっちがおたおたする気持ちだ。

彼女は30歳になるまでに子どもが3人欲しいという。唯一聞いた抱負らしい明言だ。ほう、それでいい。息子に言わせれば「お母さんよりアバウト」という。天真爛漫な娘さんのようだ。で、住むところは「家賃だ、条件だ」といろいろ検討していたら、物件はなんとすぐ近くではないか。舅・姑とは名実ともに距離を置くものだと考えていたらそんなことには頓着しない。また可笑しくなってくる。

さてさて、1月は本場イバラキにあんこう鍋を食べに行く予定の土日があるが、それをはずして家族を招集することにした。
爬虫類ヘイキ。学科では鳥の解剖やっていました。我が家に異質のキャラクターが加わることになりそうだ。

2009年12月19日土曜日

志のものづくり


 私は両国の土俵のある割烹「吉葉」のちゃんこ鍋で、妻殿は立川でムツゴロウ・ミュージカルの解散式で、それぞれ飲み会。で、今どこですかと帰りにメールをしたらなんと!同じ電車、どうしても「赤い糸」で結ばれているらしい。むふふ。

 今のことはよく知らない。上野から常磐線でビジネス特急に乗ると終点は水戸ではなく何故か勝田。そこで茨城交通線に乗り換えてとことこと那珂湊に行くことができる。すとーんと落ちるように海に出るような印象がある。違ったかな。ここに昔、湧いてくるほど魚や蛸が獲れたときのことを知らない。ただその名残りがあって今でも水産加工の拠点である。那珂湊から少し南に行くと大洗でここは少しリゾートのような垢抜けた雰囲気がある。私たちは「那珂湊の先」、洒落でいつも「大洗」(大笑い)しようと言っていた。

 「網を伝って湧くほど」と表現されていたのが西アフリカ沖でとれるタコだったらしい。このタコを山ほど持ってきて埼玉・群馬・そして長野の「海無し県」に「ゆでだこ(または蒸しだこ)」を売った。大阪のひとたちも蛸好きだが、この関東の「海無し県」の人たちも“親の敵”のように食べる。同じ蛸好きでも文化が違う、そして加工の仕方・こだわりが違う。関東の加工産地は那珂湊・大洗近辺だった。明け方ごろから加工の準備をし、手間ひまかけて多量のたこを加工した。回転式の木樽がいくつも並んで壮観だった、そんな現場に付き合って仕入れを経験したことがある。そして今はそのころからとは一世代下のひとたちとお付き合いをしている。

 こんな蛸(国産の蛸を生から加工したもの)をつくったからと、暮れのあいさつにいただいた。それでお礼のメールを土曜日の夜遅く職場に入れたら、まだ働いているらしく、「うれしい悲鳴です」と返礼がくる。タコは年末商材だ。国内に留まっていてよかったね。手間ひまかかる、つまり人手のかかる工程を経るのでこの業界の主なところは中国加工に進出して行った。そして挫折した。たまたま彼のところは躊躇して行かなかった。父親が急逝したので、彼は30歳そこそこで3代目として跡を継いだ。私とはわずか一年の付き合いだったが、当時「食」のものづくりに「志」あれと若い彼に心から訴えた。難しい経営もあるのだろうが、その「志」(使命)に応えてくれているような気もする。がんばれ!中小企業、モノづくり。

訃報


 一昨日連絡をいただいたそうです。この前ミュージカルにキャストとして出演した方のつれあい様が急死なさいました。47歳だったそうです。一昨日がお通夜で昨日がお葬式だったそうで妻殿が参列してきました。私たちから言えば、若死にでした。ミュージカルの練習も見に来たり、出演を支えた夫だったそうです。「奥さんが大好きだった」そんな人だったらしいのです。私と一緒ではないか、神も仏もあるものかと思う次第です。合掌。

 これを逃せば二度とスリランカなんかにはいけないですよと、ヒガさんに言われれば動揺するではないか。というかみんなもう行くことに決めているらしい。

2009年12月17日木曜日

礼状


 朝起きたら、トントントンという包丁とまな板の音がして、おいしいお味噌汁をいただいていた。そんな懐かしい味がします。いただいたお味噌とてもうれしいです。こだわって、手づくりで、人の顔が浮かぶ、なにかその「食べもの」に「ちから」があると私は言うのですが、そんないいものをいただきほんとうにありがとうございました。「あごを出しながら」フックだパンチだとへとへとになっていた土曜日の夕方とT様のことを懐かしく思い出します。「もの」をつくる人とのお付き合いをしているのですが、人が大事にされることこれを痛感しています。これが「もの」・「商品」に現れます。
 実際には大量生産、多量消費そして浪費という資本主義の仕組みのなかにどっぷりと浸かっています。安くて簡単便利、安全安心をみんなで必死になって追求していて、実はへとへとの生活をおくっているのが現実です。「食」が変わる、後退・退化しているのですが、止めることはできません。ものをつくることこれが大事だなぁと考えていますが、実は自分自身がなにもつくったことは無くて、さあ人生どうしようかと考えているところです。
 いつだったか、NHKでT様のことをお見受けしました。ご活躍のようで、またT様らしく、拝見しました。よかった。そのうち二人で遊びに行きます。JR東日本の「大人の休日倶楽部」か何かで。

2009年12月16日水曜日

寒波来襲


東京には何でもあるものだ。インターネットで探してお店を見つけとうとう買ってしまった「ドクター・アッシー」。ほかにゼイタクをしたことがあるだろうか(ある)。それで昼休みの外出には寒さを感じなかったのだろう、実はとても寒い一日になった、寒波が来ているらしい。これでまた歩き回ろう。足の部位はさまざまな内臓とリンクしているらしい。なんと天気図をみれば故郷の方が気温は低い、いつかあの地に帰ることをどうしよう。つれあいが仕事上のミスをしたとかで落ち込む、お互い様でなぐさめあう。味噌汁を沸騰させてしまう。灯油が残り少ない、こんなときに限って売りにこない。礼状を書かねば。アドレスを変えたことを連絡しなければ。それで何もしないで、ストレッチをしたらとても眠たくなった。家では缶ビール1本で眠たくなった。私はほったらかすことが多い。寝よう。ぐっすり眠ることにしよう。雲泥の差のことを考える、どうしてこういう人生になったのだろう。一途に努力をしてこなかったそのツケがまわってきたのだろう。「比較してもしょうがない」とはいわれるが。演劇とは、舞台とは、自然とはすごいものだ。あたりさわりなく生きてきてしまった。外に出てイルミネーションを消さねば、目が覚めるような寒さだが…、さて。くしゃみが5回出る。

2009年12月15日火曜日

『星守る犬』


 おいしいお味噌汁をここでもいただいた。今我家でも楽しんでいる、昔、朝起きたときに飲んでいた懐かしい味、あれだ。カマスの塩焼きもやけにおいしかった。
 銀座の旅館「吉水」の中川代表が私たちのお見送りをしながら「ここよ、ここが裏から出入りできて、ここに並べて売るのよ」と、先ほどの話の場所を教えてくれる。なるほど歩道から90センチほど引っ込んでいる空間、そこは私有地、そこで何を売ろうと構わない。その代わり9階建てがその分だけ全部引っ込んだというのは銀座では豪気な話だ。確かめて気に入った本物の食品をここで女将自ら売るらしい。だから話が早く、しかも剛毅だ。

 で、その銀座からほろ酔いで、半分満員の電車で帰りながら、「ビッグイシュー(日本版)」の読者プレゼントページを何気なく見やれば、「有機野菜と平飼い卵のセット」とか「パンの詰め合わせ」とかどこかで見覚えのある景品が並んでいる。なんだか当ててみたいと思う次第。それはともかく月曜日からもう疲れている。昨夜のことだ。

 コミック雑誌を読まなくなって久しい。いつしかコミックの単行本も買わなくなった。最近の作者の名前も知らない。「ビッグイシュー(日本版)」09.12.1号の雨宮処凛さんのコラムを見て無性に買いたくなって昼休みに探しに行った。コミックコーナーはホントに久しぶりだ。その本がどの辺にあるかわからない。小学館、講談社、集英社、秋田書店などがメジャーだったのを思い出す。双葉社のコミック本なんか少ししか置いてない。「ナニワ金融道」や「鎌倉物語」もここだったのだ。次の店の紀伊国屋書店でようやく見つけた。思っていた本の大きさや装丁が違った。こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』(04年)も双葉社だったのだ。それで一番下の棚に見つけた。
 『星守る犬』(村上たかし 09年7月刊)もう7刷になっている。
 「あとがき」のフレーズを雨宮さんは紹介している。2冊とも、たまらなくなる、こみあげてくる。

 本屋さんに並んでいたこうの史代さんの『この世界の片隅に』上・中・下も欲しくなった。そうだ、クリスマス・プレゼントにして、おさがりを読もうっと。
 息子のお嫁さんの実家の富山からカニが届いた。腹いっぱいになった。ずっと外にほったらかしていたイルミネーションの電源を入れてみた。点いた。よかった。

2009年12月14日月曜日

捨てたけど


12月は「燃えないゴミ」の分別収集が2度ある。履き慣れ親しんだ靴をとうとう捨てた。世界長というメーカーの「ドクター・アッシー」というブランドだ。販売力がないらしく、以前に買ったお店ではもう扱っていない。6年も前になるが職場が変わるときがあり、緊張を和らげるためにこの靴を選んだ。実に履きやすかった。私には信念があって、靴はボロボロになるまで履きつぶす。めったなことでは捨てない。さすがに靴底がボロボロになって危険になったので思い切って捨てた、ありがとうと言って。

2009年12月13日日曜日

新しい住まい


 仕事のストレスのせいではないかと考える。腹の具合にきている自覚がある。
 昨日と違って今日は寒い日になった。

 旧市街の側ではない駅の裏側の方に大きな集合住宅が続く。ダイエー、イオン系のベルクの大型店舗が向こう側とこちら側に建ち、そのなかに新しい集合住宅があった。完売したらしい。どうしてこんな広い土地があったのだろう。それでもう一棟南側に建つ準備が進んでいる。ここの7階の一角を子どものいない姪夫婦はこの初夏に手に入れ、そこを初めて訪問した。車で通う職場にも近いらしい。関東平野を一望できて、広く日当たりがよく暖かい。南西の方のマンションがなければ富士山も見えるらしいのだが。姉夫婦、二女の親子も来ていてお呼ばれにあずかった。彼氏の里からは松葉ガニが届いている。今時の集合住宅はまた進歩している。セキュリティーはもちろん、トイレ、照明、キッチン、空調、いずれも安全・快適なようにできている。この棟にあるキッチンハウスを借りて皆で食事をし、別にゲストルームがあって琉球畳のある和室に泊めてもらう。昔はどんなところだったのか知らないが1階あたりにはカメムシが出るらしい。便利さや今時の仕組みに、よくできてはいるのだが、どうも人工的な不自然さを感じてはしまう…。

 朝、二男から新居探しを始めているとメールがはいる。家族で住むのだから都会的便利さだけではなくて環境など様々な条件を加味するように言っておいたが、幸い彼女も雑踏の中の住まいではない方がいいらしい。そうすると私の家に近い範囲になったようだ。帰りはちょうど探索中の辺に昼過ぎに到着するので駅で落ち合うことにし、なじみの「天弥」で揚げたての天麩羅をふるまう。正式な挨拶というか紹介には今度の日曜に我が家に来るという予定だったが、既成事実が先行する。それぞれが1Kから始めて、次は部屋が複数あるアパート暮らし、家財道具もとくには持たない。聞けば3LDK8万円以内の予算という。これから新しい生活を始めるという二人だ。

2009年12月12日土曜日

約束のお味噌


函館で農業に従事しているボクサーの長谷川照美さんからかねて約束のお味噌が届いた。もう雪が降っているらしい。お礼の電話をかけたらボクシングの引率で札幌にお出かけ中とのこと。寒仕込みで1年も熟成させたらしい。鶴の子大豆だけでつくった味噌で、黒豆入りタイプの2種類。信念があって、無農薬・無化学肥料で育てた豆。そうだ今年は夏前の日照不足を聞いていたが、収穫はできたとの由。それで自ら作った味噌。ありがたい。あじの煮干が合うのかな。

これから東鷲宮の姪御夫婦のところにお呼ばれで行く。素敵なマンションに住んでいるらしい。一度お邪魔したいものだと姉に言っていたら、姉からいかがですかと、みんなで集まることになった。関東は日替わり定食のように天気が変わる。今日はいい天気、暖かくなるらしい。どこかで気の利いたものでも買って行こう。

2009年12月11日金曜日

寝汗


連日寝汗が続く。飲みすぎもある。
おしまいかもしれないと悲嘆するのは性格のせいだ。

戦前社会を調べれば調べるほど、現在の北朝鮮社会を笑えない。

30年ぶりかな、家永三郎さんの「歴史の中の憲法 上」(77年刊/東京大学出版会)を借りてきて目を通す。ていねいな実証に基づいて記述されている。治安維持法下の想像を絶する人権侵害、取り調べ。藤原彰さんの遺作「餓死した英霊たち」(01年刊/青木書店)を読む。無謀な作戦の下に激戦地に投入された兵士の戦い方は装備もなく銃剣突撃しかない。待ち受ける十字砲火で体が粉砕される。人間の形を留めない。兵士たちには補給がない、そして飢える。栄養失調と病に冒される。飢えて歯のかぶせものが浮いてとれる。歯さえも日々栄養を必要とするものだと実感する――と地獄を味わった兵士の手記にある。

管理が進む。我社で事細かな個人別成績が数値で公表されるようになったのは90年代半ばから。この仕組みを導入して得々としていた幹部は役員になった。そして「惜しまれつつ」癌で死んだ。今度は個人別経費管理が進む。誰が何をどう使ったか、隅々にまで及ぶ。IDコードがなければコピーひとつできない。人間の知恵をこういうところに惜しみなく使う。きっと毎週ミーティングで発表するのだろう。

田中暢さん脚本のミュージカル・ムツゴロウラプソディの「数えられないものがある」の台詞(せりふ)が、とにかく心に残る。それだ!と。

管理社会が進む。非国民が炙り出される。仕組みをつくったもの、操ろうとするものは後ろにいて、国民が国民を監視する、いたぶりあう。

コード、コード、コード、総背番号。みんなおとなしく従う。

2009年12月10日木曜日

迷走とおめでた


 ビールから始まる。瓶だったのでいつまでも注がれれば飲まぬわけにはいかない。ここはロシア料理店、次は当然ウォッカだ、40度。古酒(クース/泡盛)で度数は慣れているからどうということはない。そのうち話し声が遠くに聞こえるようになる、という類のことを自ら話す。疲れもあって、酔いが回っているということを周りに伝え、自らにも自制を促す。もうそれ自体が酔っているあがき。隣でロシア産の赤ワインをたのんでいる。試しに飲むとこれがいけると皆の意見。注いでもらってこれにも口をつけるお調子者。「ちゃんぽんは危ない」と頭をよぎる。
 店を出たらまだ早い。誘われたような誘ったような勢いで、偶にはだとか、忘年会だということでくりだす。相変わらず賑やかなお店で、もう水割はどうっていうことはない。そのうち、この時間に出ないと今日中に帰り着かないと促され二人で席を立つ。普段はここで、はっと自分がどこに居るのか判らず危ないのだが、一緒に地下鉄まで連れて行ってもらう。逆方向で別れる。あとは帰巣本能。
 帰り着いたら茶の間に明かり、まだ起きていたらしい。ぎょっとするも、コートすら脱ぐこともできず、ダウンタウンブギウギバンド。その後どうなったか知らない。火曜日の夜のことだ。

 話があるからと予約を受けていた。夜遅く次男が訪ねて来る。用意していた夕食をペロリとたいらげる。一瞥して痩せたように感じたが、体重は変わっていないという。ならば引き締まったのだろうか。営業だ、苦労しているのだろう。

 松本清張原作の「黒い画集 あるサラリーマンの証言(60年/東宝、堀川弘通監督)」をBSで観る。小林桂樹演じるところの主人公のことをこの小心者が!とか思いながら、ハラハラしつつ目を離せない。こういうのを観るとあとで夢にみる可能性がある。何もそんな思いをしてまでもと思うが、松本清張ものは奥が深くて引き込まれてしまう。

 要するに結婚するのだという。この間あわただしく連れてきた娘さんだ。どうやら我々は初孫に恵まれるらしい。私の雷もしくは説教のひとつも覚悟していたらしい。この子にはお調子者、やや場当たり的なところがあるので、その辺のことを質す。こんどのお正月休みは3日間しかなく、向こうの親元にあいさつに行くという。昨夜のこと。

「デット・エンド・キッド」


 先生たちの主任手当て拠出の運動はもう30年にもなるそうだ。学校現場の厳しさが一層進んでいるらしい。上意下達、教育に最もふさわしくないこと。
 その催しで、東京演劇集団「風」の「Touch~孤独から愛へ」(原題「ORPHANS(孤児たち)」/原作ライル・ケスラー)を観る。3名の出演者で、たっぷり2時間。プロのすばらしい演技に圧倒される。「デット・エンド・キッド(行き止まりの子どもたち)」というセリフがくりかえされる。幾度となく公演が繰り返されてきたらしい。

2009年12月7日月曜日

落ち着いた


 どなたかのものであるDVDを、股借りした。それで映画「同胞(はらから)」をようやく観られた。この名作がレンタル店になくて困っていた。期待通りいい映画だ。

 ミュージカルを主催するかしないかという前段のストーリー。実際にあった話。実にながながと決まらない、もめればもめるほど、うまくいくもの。そして最後に腹が据わった人がいればいい。強いリーダーの威光や意向で決まったことは挫折することが多いとも、と山田洋次さんは「自作を語る」で述べる。そうだなと実感している。


 ソフトだが実質トップダウンだ。ぶれるくせに決めたことを降ろしてくる。口を開いたところでなんになる、面従ナントカだ。長くはないな、と今日も考えた。EARL GREYをすする。

2009年12月6日日曜日

男児たるもの


一週間になる。
東京だからできるのかなあ、ミュージカル、管弦楽、…。
佐渡みたいなところには芸能がある、昔からの。そして継承されている、つまり守られている。しかしそういうものがとくにないところ(地方)は寂しいのだろうか。

大昔、東京へ転勤が決まったとき、妻殿は2日間お腹をこわした後、すっかり気分を切り替えた。1歳、2歳、6歳、8歳の四人の子を引き連れて、引っ越さなければならなかった。ミュージカルが終わって、妻殿は快調だった便通が2日ほど止まった。みなぎったのはお腹だったのかと茶化した。そしてすっかり気分を切り替えたようだったのかと思えば、ぬけがらのようでもある。

私はと言えば、妻殿たちが吹き込んだCDを聞いて、「習わぬ門前の小僧」をやっている。音程がはずれるらしく、「ちょっと違う」と背後から水をさされる。そういうところがある。気分よくやっているのに。

実行委員長の方の「この舞台がライブで観られる最後になります」という開演前の挨拶に実は胸がジーンときた「二度と観られません」。6回公演の最後だから当たり前なのだけれども。この1時間40分が終わってしまえば、「思い出」になってしまうと思うと胸が詰まった。思いっきり拍手をしようと思った。「亭主バカ」をした。しかしながら、あとでいろいろなブログの中に同じように「家を守り」内助の功を為した亭主さんたちがいたことを知った。日本男児ここにありだ。

BSでNHK松本清張生誕100年傑作ドラマアンコール「けものみち」(和田勉演出)を二人で観る。あれから一週間目の日曜日になる。紅葉も散り終わった。

2009年12月5日土曜日

みんなで「第九」を


早くから即ち7月から丹念な練習を重ねてき、初心者もベテランも、10代から80代のみなさん200数十名のみなさんが気持ちを盛り上げてきたという実行委員会委員長のご婦人のあいさつに、隣に座る妻殿は「わかります」とうなずいていました。26回になるそうです。旧渋谷公会堂は2,000人を超える聴衆で埋まりました。渋谷交響楽団と渋谷第九合唱団の「みんなで『第九』を」鑑賞しました。
師走です、昨夜中にぎりぎりで歳暮の手配、あと喪中はがきを出さなければ。

2009年12月4日金曜日

さら戦2009


ヒトが始めたものはヒトが終わらせればいいということで始めた「さらば戦争!映画祭」は今年で5回目だ。若い人が中心になってやっていた。例年11月ぐらいに開催していたが、今年は12月12日(土曜日)に開催される。この日はちょうど姪御夫婦のお呼ばれに重なり観ることができない。いい催しだと思う。以下、紹介。

「さらば戦争!映画祭」とは
戦後60年を機に始まり、今年5回目をむかえる「さらば戦争!映画祭」。
戦争の被害だけでなく加害も伝える作品の上映を通して、戦争に「さらば」を告げるにはどうしてゆけばいいのかを、様々なルーツや年代のメンバー、ゲスト、参加者と一緒に考えていきます。

■■■さら戦2009年のコンセプト■■■

戦争や植民地支配によって翻弄され移動をよぎなくされた人々―
語られなかった・語れなかったことを伝えようとする人々―
その言葉を受け止め、つなごうとする人々―

それぞれのまなざしが交差するとき
記憶は過去の遺物ではなく
現在へつながる道の起点となる
そこからのみ、未来を創造する道が見える

■日時;2009年12月12日(土) 10時開演 20時半閉会(予定)
■場所;在日本韓国YMCA 9階 国際ホール
■上映作品 (タイムテーブル)
『パリのモスク』:デリ・ベルカニ
A forgotten Resistance : The Mosque of Paris
Dir. Derri Berkani
(1991/フランス/カラー/26分)
『花と兵隊』:松林要樹
(2009/日本/カラー/106分)
『るんみの場合』:佐々木芳彦
(2009/日本/カラー/28分)
『朝鮮の子』:朝鮮の子制作委員会、在日朝鮮映画人集団(1955/日本/モノクロ/30分)
『ヒロシマ・ピョンヤン』:伊藤孝司
(2009/日本/カラー/90分)
『記憶にございません~きのこ雲を探して~』:国本隆史
(2009/日本/カラー/70分)

他 お昼に満蒙開拓団の短編ドキュメンタリーを上映。

■チケット(メールまたはFAXでお申込み下さい)前売り券2000円 当日券2500円途中入退場可、全席自由。障害者手帳提示で1500円(付添い1人まで1500円)、被爆者・中国残留邦人の方 当日申告1500円

<映像の中の炭鉱>上映中!


「文化資源 としての<炭鉱(ヤマ)>展 Part-3特集上映<映像の中の炭鉱>」が11/28(土)から12/11までポレポレ東中野にて開催されています。 開催中にはトークイベントも実施!詳しくはポレポレ東中野HP http://www.mmjp.or.jp/pole2/  をご覧下さい。

予告編はこのYouToubeで見られます。http://www.youtube.com/watch?v=fclqi8xKsrM

★タイムテーブル ( 15:20~、 18:00~)
11月28日 土 炭鉱&はじけ鳳仙花*上映後イベントあり 1h21 、女ひとり大地を行く*上映後イベントあり 2h12
11月29日 日 にあんちゃん 1h41 、日本女侠伝 血斗乱れ花 1h47
11月30日 月 三たびの海峡 2h03 、闇を掘る 1h45
12月1日 火 浮草日記 1h46、 爆裂都市 1h56
12月2日 水 荒木栄の歌が聞こえる 1h:35、 おとし穴 1h38
12月3日 木 三池 終わらない炭鉱の物語 、1h43 炭鉱にいきる*上映後イベントあり 1h10
12月4日 金 日本女侠伝 血斗乱れ花 1h47、 三たびの海峡*上映後イベントあり 2h03
12月5日 土 プ*上映後イベントあり 1h32、 三池 終わらない炭鉱の物語*上映後イベントあり 1h43
12月6日 日 爆裂都市 1h56 、炭鉱&はじけ鳳仙花 1h21
12月7日 月 炭鉱にいきる 1h10 、荒木栄の歌が聞こえる 1h35
12月8日 火 女ひとり大地を行く 2h12 、にあんちゃん 1h41
12月9日 水 三池 終わらない炭鉱の物語 1h43、 浮草日記 1h46
12月10日 木 闇を掘る 1h45 プ*上映後イベントあり 1h32
12月11日 金 おとし穴 1h38 女ひとり大地を行く 2h12
■料金 ;当日:一般1400円/大・専1200円/中・高・シニア1000円
 前売:一回券1200円/三回券3000円
※本特集の半券2枚提示で目黒区美術館【’文化’資源としての<炭鉱>展】招待券  を一枚プレゼント!※【‘文化’資源としての<炭鉱>展】の半券1枚提示で<映像の中の炭鉱>の1プログラムを200円引き(小学は除く)でご鑑賞いただけます。(一般1400円⇒1200円/大・専1200円⇒1000円/中・高・シニア1000円⇒800円)

2009年12月3日木曜日

秩父夜祭の想い


今日は冷たい雨になった。私にとっては昨日でなくてよかったが。今宵は秩父夜祭のクライマックス。団子坂を提灯で飾った屋台が勢いよく曳(ひ)き上げられる勇壮さ、そして屋台が勢ぞろいしたところに花火が冬の夜空にあがる。悪天候は気の毒だがそれも12月の風情かもしれない。

小学生のころだ。漫画週刊誌などに煽られ切手収集に夢中になったのは。10円で売っていたはずの切手がいつのまにか魔法のように例えば「60円」と評価してあった。高値で上がっていく伝説的な「見返り美人」切手に嘆息しつつ、記念切手のカタログ(定期発行の評価誌)を何度見たことか。小学生だったのに欲に目がくらんでいたのだろう。記念切手の発行日には学校帰りに郵便局に跳んで行った。親に頼んで朝から並んで買ってもらった友達もいる。うちではそれはできなかった。少ない小遣いから町の郵便局で買った記念切手を、将来の値上りを楽しみに、丁寧にセロファン紙で包み、切手帳に収めた。大切に扱った。その姿は強欲老人が銭壷のゼニを数えているようにも見えたのかもしれない。でも、純粋だった。要するに操られていたのだろうが、成長するにつれ醒めていった。

そのときの懐かしい記憶にあるのが「日本三大曳(ひ)き山祭」というシリーズの切手。京都の祇園祭、飛騨の高山祭、それと秩父夜祭。いずれの地も訪れる機会に恵まれた。飛騨の高山祭はまだ観たことがないが、こういう町衆のエネルギーや粋がつくりあげられたこと、そして引き継がれることの大事さを知るようになる。

確か茶箱(木でできていて内装はトタン)の奥深く少年時代の切手帳をしまっていたはずだ。換金することもなく40年以上思い出をしまっている。大事な小遣いの使い途を誤っていたような気もするが。秩父夜祭といえばそういう想いがある。

2009年12月2日水曜日

秩父夜祭宵宮昼間

  休みをとって秩父夜祭の宵宮の昼間に行って来ました。本当に久しぶりです。初めて行ったのが20年ぐらい前。大通りの屋台を見て夜は妻殿の当時の職場で予約した団子坂の飲み屋さんの2階で花火を観たのを覚えています。また数年前には観覧席を予約して妻殿の両親を招待して楽しみました。
 今日は好天気に恵まれました。秩父神社では中町屋台で「曳き踊り」の“清元 子守”を観ました。越後から江戸に子守奉公に出てきた娘の人気曲。骨董の皿を買ったり、珍しい大根や獅子ゆずやゆず、椎茸を買ったり、並んで‘すまんじゅう’を求めたり、行き当たりばったりです。店頭で名物のちちぶ餅を食べたり、肉屋さんの揚げたてのメンチカツを頬張ったり、最後におそばのセットで遅いお昼をとるなどして、のんびりしました。帰ってきたら釣瓶落としの夕暮れに冷え込みを感じましたが、大きなお月様が出ておりました。

農業者が声をあげている


日曜日、月曜日と深酒をしてしまい今日はもう金曜日ではないかと錯覚してしまう。

密室で政治屋のボスや族議員がやっていたのであろう予算の分捕りあるいは削減を、公開のもとにさらした積極性はよかった。しかしながら、中味だろう。積年の「お役所仕事」、仕事のための仕事、ポストのための財団法人への予算の配分などなどのインチキを暴き、そういう本質的な無駄遣いを省いてほしいと国民は望んだはずだ。

今までバッサバッサと切ってきた事業仕分けは、防衛費や駐留米軍への「おもいやり予算」へは「政策判断」と言うて、あの蓮舫さんが途端に及び腰になったのがみてとれた。「おもいやり予算」の仕分け判断といえば米軍への湯水のごとき無駄使いを俎上にあげるのかと思いきや、米軍基地で働く労働者の時間給が周りに比べて高いなどというまったくのすり替え。自公政権流の手口。しかもその時間給たるや沖縄県においての比較、全駐労の委員長が怒るのも無理もない。案の定の限界といえば、そういうことだが、やはりおかしい(ただし「蓮舫何様」とかいうバッシングには組しないが)。「有識者」という仕分け人には見識と立場に疑問のある人たちというか、行革推進会議につらなるメンバーが相変わらず、やれ効率だ、民間へ、というベクトルを振りかざす。こういう人たちの跳梁跋扈をいつまで私たちは許していいのだろうか。私たち国民は懲りている、この人たちがつくった新自由主義的社会を。先に有識者の「仕分け」をすべきではなかったのか。切るなら政党助成金だってそうだ、憲法にいう個人の「思想信条の自由」に明確に違反する300数十億円のお金を支出している、このお金こそ仕分け・返上すべき筋の通らない国民のお金だ。そういうことは棚に上げておいて、あまりに機械的、知見なしにやったのではないか。そういうことではないか。

不当に仕分けされたのは医療、保育、教育、科学技術などいろいろある。
例えばその実例を、農業の立場から、とりわけ営々と有機農業を築いてきた濱田幸生さんたちが異議を唱えている。不当な「仕分け」であるとの抗議の声を集めている。このひとのブログ(*)にここのところ、ときを追って詳細な内容が展開されてきた。そして様々なひとたちの投稿も寄せられている。「仕分け」ひとつのことではなくて、新政権の農業政策についての疑問や意見や分析を展開してここに来ての流れだ。
*「農と島のありんくりん」http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/

的確に言い当てているわけではないが、民主党は「都市型政党」だと考える。だから、農作物輸入にしても、FTAにしても、「金で済ます」程度の見識および性格が色濃い。票の数で判断しているのではないか、あの小沢さん流の政略では。

ぴりっと澄んだ冬空にお月様と星が美しい。
日付が変わってしまった。

2009年11月30日月曜日

カーテンコール


鴎外なら舞姫、ドガなら踊り子、三浦浩一、村下孝蔵も踊子、川端康成、JR伊豆特急もそうだ。知り合いのコイズミさん流にいえば「ミュウジカル・スタア」。

燃え尽きたのではと言われるが、違う。みなぎったのだ。

やってみればぁ。否、やれやれ! ん、やってみるかぁ、で参加した。土日つぶれるけど?なんの問題もない、気にしないで。生協で冷凍食品たのむから。後半は生協でたのんだ白菜の鍋にしたけれど。

緞帳(どんちょう)と呼ばれる荘厳な幕が開(あ)く。光があたり、ライトのなかにおかあさんを見つける、きゃあ!なんてことを「夢みていた」。それは別の世界のことで、才能と機会に恵まれた人のやること、そう思っていた。違うどこかの世界。

一念発起、やるだけやってみる。最初の方は十分参加できなかったのでおたおたした。やめるとは言わなかったから、続けるしかないのでは、で腹を決めた。夏の練習に、部活帰りの女子中学生のように帰ってきた。山田洋次さんがきてプレ企画が催されて、パフォーマンスをみた、あれなんていうの?「でい、でい、でい(泥、泥、泥)」これは楽しそうなミュージカルになると直感した。

見せてあげたかった。元気な時の私の母親。そのかわり姉たちが見てくれた。上の姉はコーラスに毛が生えたぐらいのものと思っていたふしがある。そして、小林和恵先生。生きていたら下の姉と同じ歳だ。「採用します」の電話を私が受けたことを今でも覚えている。妻殿にとっては人生の画期になった。わずかの歳月しかご一緒できなかったがすごい影響を受けた。今の私たちよりずっと若くして、癌のためにあっという間にお亡くなりになった。生きていれば、きっと自分のことのように喜んでくださったことだろう。その息子さんも一回目は実行委員長として、三回目の今回は事務局長として獅子奮迅の働きを見せた。ひとのこころをつかむ、その影響力はやはり小林先生のDNAなのだろうか、器が並ではない。

あれほど大きな舞台。市民会館はハコモノでりっぱなもの、文字通り「おおぶたい」を踏んだ。みんなに観に来てもらい、晴れ舞台を飾った。光と音楽、舞で、‘非日常世界’に誘(いざな)った。「楽しかったよぅ」と感想をもらった。ミュージカルは「先ずは水門を開けること・海流は左に渦を巻く・その流れに」「森からの真水が有明に流れ込む、・・・必ずやまた干潟は蘇る」などのメッセージを送った。「考えさせられました」を生協の飲み友達からもいただいた、仲間だ。

びしっ、ばしっと後姿から聞こえていた堤さんを紹介していただいた。裏方の立役者のひとり。ミュージカルは成功させなければいけないの信念を実務で体言したひと、子どもの出演者のおかあさんだと聞いた。

昨夜はその日のうちに帰りつけなかった。観に来てくれた長男夫婦を誘って立川の和楽にまた足を運んだ。日曜日の9時だというのに店内は満員だ。ボクシングの世界戦を中継していた。内藤の顔がぼこぼこで勝負の行方がわかった。

来てくれたのかなと会場を見回していたら、なんと一番前の席から立ち上がったのがコイズミさんだった。来てくだっさったのだ、なんてこったカブリツキに陣取っていた。声もかかったらしい。昼は二階席まで満席にし、夜は一階席を満席にした。ライブのミュージカルは反応までもみな違うらしい。5会場6公演都合6000名ぐらいの人がこのミュージカルを観てくださり万雷の拍手をいただいた。そして終わった。

次につながる、人につながる希望を演じたのだと私は思う。燃え尽きたのではなく、みなぎったのだと考える。すごい体験を妻殿はした。それを応援できた。ひととのつながりがひろがった。

2009年11月28日土曜日

最後の稽古


我家の紅葉は今ぐらいがピークのようだ。枯れ葉の掃除が一段と大変になる。
最後の稽古と宣伝を終えて帰ってきたうちの「ミュウジカル・スタア」は白菜鍋を食べ焼酎を一緒に飲んで今しがた寝た。明日は2回公演。カラダを張る。この時点で夜の公演が埋まっていない、スタッフも必死だ。券を買ってもらってご来場いただいていない人がいる、「もったいない」の一心で手分けして一声かける。どの会場のことも映画「同胞(はらから)」を地でいく必死さだ。気にしないわけにはいかない。

HIGATA(干潟) 歌詞・曲:Matsunobu

普賢岳のたなびく煙 海は満ちては引いて
河が運ぶ森の恵み 時を刻み土を洗う

海は子宮 地球の肺
子を孕み 呼吸する 命のゆりかご

GATA HIGATA 満ち潮
GATA HIGATA 引き潮

---で、ミュージカルが始まる。明日が千秋楽。
私から券を買って観てくれた人ですら正直に言った「たかが素人の、と思っていたらびっくりした、本格的でした、すばらしかった」と。私から券を買ってくれた人たちに明日も楽しんでもらいたい、明日は天候が厳しいようだ。息子のお嫁さんの御両親にも挨拶せねば。

『ルポ諫早の叫び』(長尾俊彦著、岩波書店、05年6月刊)、『有明海の自然と再生』(宇野木早苗、築地書館、06年4月)、『宝の海を取り戻せ』(松橋隆司、新日本出版社、08年4月)で勉強する

佐渡で人口繁殖されたトキが放鳥され(9月)、また一部のトキが本日中国に還されたそうだ。「自然を復元する」という努力が続けられている。サドのトキさんたちの仲間も頑張っている。ただその一方で、干潟が潰されているし(沖縄)、諫早・有明では干潟と宝の海がつぶされたままだ。トキもコウノトリもツル(鹿児島県出水)も干潟の野鳥も、共に生きていけなければやがて人間にとてつもない不幸が覆いかぶさってくるということに気付いているのに。

満ちゃん


 人懐っこい性格でみんなから「満ちゃん」と呼ばれた。外語大でドイツ語を習得し、「モーやん」(西郷輝彦が主役で演じた70年代の関西の人気テレビドラマ。猛烈に働いて立身出世する浪花の商人の物語。)のような働きをもとめる商社にはいり、世界を股にかけて活躍した。言語学を学んだ教養から人類の歴史にも詳しかった。南米出身のご婦人と恋に落ちスペイン語も習得した。小さくてかわいい白人の奥さんだった。仕事は熱心なうえに誠実で同い年だったので仲良くなり、あるとき我家にも泊りがけできてもらった。欧米人のマナーで会話にはいつもジョークを欠かさなかった。そして、誰にでもどんなときにも「なんの問題もありまへん、気にしないで」が口癖だった。「ノン・プロブレム、ネバー・マイインド」と首をふりながら繰り返すのが常だった。ただ満ちゃんは京都人だったから真に受けていいのかいつも迷った。
 有名商社マンだったから収入はすごかったと思うが、忙しすぎた。奥さんの事情で、いつか商社を辞めて大西洋上のラス・パルマスにいると聞いた。いちど国際電話をかけたことがあったけれどつながらなかった。満ちゃんはいま、どうしているのだろう。

2009年11月27日金曜日

あと3日


 大先輩のコイズミさんは若い、そして積極的だ。息子さんに片方の腎臓も提供した。気に入ればみんなに吹聴する。「このひと、ミュウジカル・スタアなのよ」招待券を渡してでも最初の公演を観て貰えばよかった。思い切ってお誘いしたらしい、そしたらまだ観てもいないのに、みんなに宣伝してくれる。「これはケンポーなんだってよ、そりゃぁ、ベンキョーしなくっちゃね」口を開けば話題にして人に勧めてくださる。それで何枚か売れた。

 熊本を過ぎて北上すればやがて左車窓に普賢岳が見えた。地図で見れば有明海はお腹にいる赤ちゃんの姿のような形にもみえる。福岡から鹿児島に行く飛行機のなかからは天気がよければ干潟の泥の色をみることができる。

 幕があがり、映像とナレーションが続いたあと、高い音程「フゲンダケのたなびくケムリ♪」で踊りが始まる。

 最後の公演、夜の部がまだ埋まっていないと檄がとぶ。泣いても笑ってもあと3日。
「立川、夜へ」誘(いざなえ)え、と。

2009年11月26日木曜日

◎一歩前へ

明治大学の校舎(と言うにはあまりにもりっぱな高層ビルだが)では「一歩前へ」と書いてある。鹿児島空港では「◎」が記してある。きれいに使うのは公共心だ。で、このユーモラスが自覚を促す。ご婦人には少しわからない実例。

2009年11月25日水曜日

芽が出る


種も球根もいつか芽が出る。
めきめきと芽が出て育ってきた。ただ、季節が早いような気がする。

商品を通じて環境を守り雇用を促進する、提携が成ったようだ。ただ、ここの干潟のことも忘れずに触れてほしい。もずくの芽はここで育てる。いわば海の苗床。猪突のごとく明日の成果を追うばかりではなかろう。足元をみながらと思うのだが。
 *Hさん、Sさん、Oさん、で会う。

2009年11月24日火曜日

協同してあたる

大手の圧倒的なシェアのもとで、菊水堂のポテトチップスはどこで買えるのか?
普通の消費者は知らない。ところが、何気なく付き合っていた私も知らなかった。どうしても灯台の下は暗い。

なかなか黒字を出せない状況では気心のしれない企業に仲間になってくれというのは忍びないというK理事長の深謀遠慮があった。

規模の小さな企業は大企業の傘下に入るかさもなくば系列化で支配されるかの情勢のなかで、独立と独自性を保ち、なおかつ品質管理や商品開発の社会的期待に沿うには協同してあたろうと志した。とはいってもそう甘くはない環境だ。まして納入先の創業第一世代が去れば規模が小さかった時から共に歩んできたという庇護はなくなる。 切って捨てられる可能性すらある。

態勢を整えたとしたら、事業を構築するにあたって商品開発は、今その同志的身内にこそ求めるべきではないか、これが第一点(これは顧問のYさんが言ったこと、同感)。優れた開発力もしくは技術力をもつ中小規模の企業をこそ共に商品開発をして仲間にいれるべきではないかこの二点。いわば撃って出ること。「アドバイザー」なのだからと急に振られて、ついそう言ってしまった。名ばかりだったのに。

この論議と戦略的選択。これをすぐやろう、ということになった。はて。

あられは嗜好品です、おいしいものを追究していったら、この道にたどりつきましたという精華堂あられ本舗の三代目社長の話を聴き、懇親した。少人数の発表会でも求められればこの話をして、やっていることを伝える、これを積み重ねることの方が確実とも。

それが真骨頂だろうなと実感している。

大量宣伝、大量生産、大量販売したところでいったい何が残る。忙しさ、食い散らかし、どこまでも満たされなさ、資源と心のすさみ。…かもしれない。

*画像右:精華堂の「柿の種」のタネ、左:精華堂の「柿の種」製品、 もちを手でのして、それを静置して自らの重さで三日月型になったものをカットして「柿の種」のタネにする方式の作り方。百社百様のつくり方があるらしい。

2009年11月23日月曜日

花束


今日は武蔵野公演

昨日から泊り込みで来ている姉から朝一番に「花束」はどうやって渡せばいいのかとのメール。専用のレセプションがあるよと知らせる。終了後のキャスト全員による送り出しのときに直接手渡しの方法もあるよ、と。○○番のナニガシさん、花束が届いております。行ったことはないがキャバレーの控え室を連想する。うちは大部屋キャストで、トウは立っているが今年入った駆け出しもん。届けば大喜びする類(たぐい)。

根が九州もんで某理科系有名大学の元少林寺拳法部キャプテンのUさんは今日のミュージカルに一番に並んだらしい。それで携帯に開幕二時間以上も前にメールがきた。熱しやすく冷めやすい、好き嫌いのはっきりした“肥後もっこす”を薩摩人は不用意に敵にはまわせない。次々と並ぶ人たちとわいわいやっているらしい、いい人たちばっかしだと知らせてくる、まるで今放映中のNHK5回連続ドラマ「48時間」だ。どうもUさんまで花束を用意していただいた様子だ。「よっ、○○屋!」とか声をかけるわけにはいかないけれど、どうしたら?とか言ってくる。私は冷静に「タイミングのよい拍手と最後のスタンディングオーベーション」をリクエストする。

今日の公演は、ご近所お誘い合わせ組、いとこ・はとこ、飲み友達、私の一族、私の職場の仲間、がそれぞれ押し寄せた。ありがたい。初冬の合間をぬって公演は天候に恵まれる、「満員札止め」にした。

私の当番の仕事は、まっ、仕方がないか。誰かがやらなければいけない。

本日芝公園での催し

 ターミナルでなければ休日の都心にはウソのように人気(ひとけ)がない。1時までに帰らなければいけない(過ぎているのだけれども…)。シンデレラの気分でした。かぼちゃになってしまう。かぼちゃになったら魔法はとけない。

 精神の路頭に迷うことは稀にありますが、今日に限って時間がないのに道に迷いました。後ろめたい人生は歩んでこなかったつもりですが、今日は道をはずしました。地下鉄の出口を出て、通りを1本間違えたようでした。芝、増上寺のあたりは幕府の庇護を受け関連するお寺がいくつもあって迷いこんでしまい東京タワーに出てしまったので違う方向だとわかりました。

 行ったらすぐ帰ってこなければいけない。昼休みにJRと地下鉄に乗れば行ける。

 東京の芝公園4号地で「派遣村村民同窓会・有志の会『フレンドシップ』」の主催の集いが本日(11月23日(月)祝日11:30~15:30)行われるというご案内を昨夜遅く‘bianca様’からいただきました。以下はその内容(昨日のコメントから)

 『フレンドシップ』の構成メンバーは、「年越し・派遣村」に救いを求め集まった元村民で構成しています。「派遣村実行委員会」が6月に解散し、その後実行委員会、元村民、ボランティアで「派遣村村民同窓会」が結成され、さらに「派遣村村民同窓会」内の有志で結成したのが『フレンドシップ』です。
 元村民は、昨年末の大不況によるいわゆる「派遣切り」で雇用と生活を奪われ、生きる元気を失っていた時に「年越し・派遣村」で救われました。現在、元村民の大半は「生活保護」の受給を受け、住居を確保し、現在就職先を安心して探す活動をしていますが、なかなか次のステップ(就職など)へとは繋がっていない状況です。仲間と語り合いながら、助け合いながら「寄り合い的」な場所として『フレップ』は活動しています。
 私たちは「派遣村」での助け合いの気持ちに感動と勇気を頂きました。私たちの身近には助けを必要とする方たちが大勢います。そこで「自分たちも何か出来ないか?」と話し合い、下記のイベントを開催することになりました。内容は以下の通りです。
開催(企画)内容
1)食事配布 11:30~
2)集会イベント 13:00~ (1時間予定)
〈内容〉 ・主催者あいさつ 
     ・各界からのあいさつ 国会議員・地方議員・市民団体
     ・「緊急雇用対策」のお知らせ ※コントあり
     ・ミニライブ
     ・当事者の声など
3)テントブース 医療、生活、就労各窓口 等
 それで国会議員の皆さんにも集会への出席を要請されたようです。会場でいただいた資料のなかには鈴木宗男さんからのメッセージがありました。

弱者の声を政治に届けよう!
「緊急雇用対策」の目玉!! 第2のセーフティーネット
『ワンストップサービスを使いたおそう!』の集い

 昼休みに行って帰っただけでした。せめてイベント開始の冒頭には居ようと考えましたが、段取りが少し遅れているらしく「ふかしいも」の配布が始まったらイベントを始めるとのことで引き返さざるをえませんでした。
 バンダナにPALのエプロンの方とお見受けしました、お名前も書いてありましたので。生来の人見知りなのでお声はおかけしませんでした。すみませんでした。集会の様子をまた投稿いただければありがたいと考えます。

2009年11月22日日曜日

日曜日

起きたら8時半だった。久しぶりに妻殿がいる。練習も公演もない中日(なかび)だから。

間食をやめていたが、久しぶりに紅茶といっしょに、昨夜買った百円のスナック菓子をボリボリと頬張る

あれ、あれ。あれ持ってきて。どれ、どれのこと。あれだよ、あれ。という関係になった。寒い日だからどっかと座り込めば、おいそれとは立ち上がれない。どっちが取りにいくかは、じゃんけんか「こけし独楽」で決める。男尊女卑がなかなかできない。

立ち上がるときは「よっこらしょと、どっこいしょ」と声を出していいんだよとジムの先生は言う。“枯れススキ”にはまだ早い。

今日は語呂合わせで「いい夫婦」の日だとかニュースで言っていた。おおきなくしゃみをする。

で、どうだった?


 お客さんがとってもあったたかったの。
 公演が終わってお客様を送り出すときに、客席から舞台に熱気伝わりました?と言われた人がいたのね。 開場前からもうたくさんの人々が並んでいた。金曜日の地元紙にも取り上げられた、それには会場になる飯能市在住の出演者の名前が紹介してあった。少し「有名人」になった(?)。 花束がどっさりきた。 埼玉で以前に10年間もやっていたのでもう一度観てみたいという要望と地元の実行委員会のなにか手作りな感じと熱気が実を結んだ結果になった。 満席で埋められた。 ミュージカルに出られるだけでも何か秀でたものがあると思われるのに、加えて達筆な人がいた、飯能版「立看(たてかん)」を手作りして盛り上げた。

 市民会館の会場は3月に確保した。抽選ではなくて先着順だ。徹夜で並んだ、それを事務局長の善(zen)さんは公演が始まる前の緊張のなかで思い出した。苦労が報われた。そのことを話した。

 親子で出演する‘あいるのかーち’さんが親子ふたりで司会をした。‘あいる’ちゃんがとてもかわいかったのよ。まず、それで会場が温かくなった。 西武池袋線の終点で、秩父線の起点の飯能の四分の三は森だ。「森と海、干潟」自然とともに生きていこうという、通じるもの。これに触れた飯能の実行委員長の方のあいさつがこころに響いた。そして演技中キメルところで客席からひとつひとつ拍手がくる。

 市民のミュージカルは客席と一体になること。演出の田中暢さんはずっと強調していた。 今そこで演じる生身の人間と、音楽と光、歌と踊りと表現を感じてもらう今日来たお客さんとその場で今つくりあげる関係のことだ。演目は同じものでもひとつひとつが違う。それはライブの妙というものだ。

 そうだ、自然と人間の営みの関係、人間の事業と生き方、生き方と自然との関係。そういうメッセージをもっている。今の憲法は戦力に頼らずして平和に生きること、そして皆と(国民として、世界の市民として)幸せを求めて生きること、それを最低限社会(国)が保障すること、そのための「生き方」を提起している。その「生き方」から「自然との関わり方」を潟、干潟、生き物、生きる人を通してミュージカルは提起していると考えられる。そのことを発散するように、稽古を積んだ市民100人が演じられる。こころの粋だ。

 手話通訳をする3名の方たちは歌をもう覚えていて演技者以上の通訳をした、すばらしいものだった。

――ということを迎えから帰る車のなかで次々と聞いて、そして手にとるように私にも熱く伝わった。
あさっての武蔵野会場、札止めになったの。
 私の一族郎党、友人知人がいちばん集中した日だ。みんなにメールを飛ばす、当日は早めにお越しくださいと。私はあいにく仕事の当番で駆けつけられない。
 次は最終日の最後の公演埋めなくちゃ、と考える。

 限定純米酒「ゆめところ」でとりあえずの祝杯をあげる。所沢の米で造った酒だ。醸造は「天覧山」という銘柄をつくる飯能の酒造元だ。ここいら辺一体は狭山丘陵と呼ばれるところで水田はほとんど見当たらない。有名な茶所で茶畑ならいくらでもある。これはかつてあった所沢の地酒を復活させたいという願いと農家の頑張りでできた酒。今日の祝杯にふさわしい。日付がかわっていた。

2009年11月21日土曜日

お出迎え


 朝から晴れ渡る。

 さあスポーツをしようなどというアウトドア派ではない。農作業をしようという機会ももっていない。
 洗濯をしたくなる。粉石けんを溶かしてふんわりと仕上げてみたいと思う。スイッチを押せば全自動でやってくれるから、たいしたことではないし、好きでやっている。家事を分担していることになっている。晴れ渡った日の物干しは楽しい。そういうときは家にいたい、細切れのぶつ切りの仕事なんか辞めたくなる。
 さて落ち葉をどうしよう。さるすべりを刈り上げてもいい、ローマ遺跡のポツンと立つ石柱のように。しかしそうするには伸び放題にしてしまった。梯子と高枝切りをもってきて、へっぴり腰で真上を仰ぎながら、高枝を鋏み落とす。お向かいの若旦那から「大変ですね」と声をかけられても真上を向いたまま応える。少しゆらゆらしながら、ぐっしょり背中に汗をかいた。いつもこういうときは、バチカンの天井画を描いたミケランジェロたちのような絵描きの苦労を連想する。もみじが上から紅葉してきた。姉にみせてやりたい。

 「満席でした」そして飯能駅を出たというCメール。最寄駅まで車で迎えに行かなければいけないから、一風呂浴びたがアルコールは飲まないで待機していた。ちあきなおみさんをBSで聴くのを中断して、行かなければならない。

 今宵の公演で折り返しを過ぎた、あと2会場3公演。ミュージカルはライブでなくちゃ。彼女がふろを浴びたら、もう遅いが飲もう、戻りかつおで一杯。

2009年11月20日金曜日

泣かない子


ワンセグが欲しかったらしい、よく計算をして、あまりお金のかからない方法で最新式に取り替えた。いちにちふつかは操作に手間取ったようだが落ち着いた。機嫌がいい。私にはそういう新しいものに挑もうという気がないからいつも見習う。

「武蔵野夫人」(1950年、大岡昇平)の舞台となったところあたりを、あっちへ行きこっちへ行くことになった。玉川上水に出たり国分寺へ出たりしている。不案内だから、新宿から中央線を辿ってくるとどの辺になるのか地理的感覚を実感して、遠方より訪ねて来る人にも案内しなければならない。

悔いが残らないようにと配信メールで檄が飛ぶ。その様子をブログにどんどん書き込めばいいのにと思う。どこそこで駅頭パフォーマンス(宣伝)といえば、観に行こうかどうかと迷っている人にも参考になるし、無論知らない人にも目に留まる。公演月はあっという間に過ぎるというのが経験者の実感だったらしい。行ってくるからとメールを残して行った。私はラップをしてレンジアップすることを覚えた。

「泥の精」が抱く赤子は、泣かない子だ、不思議だ。

2009年11月19日木曜日

やめる


崩れた空模様が雪になっても不思議ではないほど冷え込む。

森永卓郎さんの『やめる』を新書版(09年6月刊)でもう一度パラパラと読む。実はいつでも「やめてやる」を胸に秘めている、いや「やめたい」の弱気の方だろうか。

「トリイステーション」は昨年の沖縄訪問のコースに入っていた。これは米軍基地のひとつである。秘密諜報組織(つまりスパイ組織)と謀略部隊であるグリーンベレーが駐留しているらしい。米軍および軍属による様々な傍若無人の所業を沖縄の人たちから聞いていた。印象によく残っている。そして、ここに所属する兵士が県民をひき逃げした。激しいスピードで跳ね飛ばし救助もせずに逃げたとしか思えない。そして「日米地位協定」に守られている。欧米列強による19世紀の不平等条約のことや植民地支配を想起する。そんな日米関係ならやめていいのではないか、もういいかげんに。

デフレに陥っているのを職業で実感している。流通業にとって「今を耐えればなんとかなる」という展望はない。トップは来年になれば、再来年になればなんとかなるだろうということはないと自覚している。とにかく売れなくなったから価格訴求に突き進む、つまり安売り合戦だ。そうでなければ競争に負ける、倒産すれば元も子もない、ともに路頭には迷えない。製造者も悲鳴を上げる。価格の引き下げ、協賛金の「自主的」アップを迫られているらしい。製造装置を稼動させなければならないから「売れないよりマシ」というジレンマに陥り値下げに応じる。流通業も製造者も今度はなにを削るか、人件費だ。物件費はもう鼻血もでないほどにカイゼンが進んでいる。人件費を削るから人々はまた家計の節約をせねばならず購買力は一層後退する。限られた次元・空間のなかでみんな一生懸命なのだけれども、つくり続け、売り続け、買い続けなければ経済が成り立たないという。恐慌がずっと続いている状態で資本主義が立ち行かなくなっている。
「やめる」「たちきる」のうねりが必要なのだけれども、共同社会、価値の転換、未来社会がさまざまに描かれつつある。

2009年11月18日水曜日

観に来て


村に住んでいるわけではない。もうこうなれば同胞(はらから)だ。
乗り過ごした、いったいどこで寝たのだろう。今日は2枚売れた。Aさんが帰り際に2,500円寄こすから、義理で買うのではないよね、必ず観に来てくれるよねと言って、売った。雨が降ったようだが、星がきれいに見られた。帰って来たのは真夜中だ。ぜったい、つながり。

2009年11月16日月曜日

手応え


Yさんのお兄さんは知る人ぞ知るヒトだ。で、それがどうしたと言うぐらい普段は苦虫をかみつぶし、とくに喜怒も哀楽も出さず、もうこれ以上俺の人生ほど面白くないものはないといった顔をして仕事をしている。で、その彼に営業した。関心を示すようでもないので、渾身のお手紙、いやメールを送った。根負けという感じで、お義理で1枚買ってくれた。実は夫婦で観に来て欲しかった。快活な奥さんも知っている、そしてその世界では有名なお兄さんにも。きっと気に入ってもらえると思うし、気に入ってくれれば吹聴してくれるだろうと。

お世辞はおろか愛想のひとつもくれぬそのYさんから朝一番にメールがきた。ミュージカル良かったと、で奥さんはどの役やっていたのと。やったね。いや、ウチのはその他大勢ですから、ほら手をカマキリのようにして舞台上手(かみて)に迫る踊りが始まったときの一番端にいた熟女、あれ。と答える。

昼休みにはUさんに市民がつくるミュージカルのこと、有明の海のこと私たちの故郷につらなる干潟のこと、メッセージのこと、歴史のこと、諫早の地元の民主党のこと、そしてあらすじを話した。夫婦で観に行ってくれる。

3枚お願いしますとKちゃんからメールが入った。手紙は出していたけど反応はなかった。階段ですれ違って、またお勧めし、じゃメールくださいということでご案内のメールを送っていた。で、また返事がなかったので無理を言ったかなとあきらめかけていた。飛んでいって前売り券3枚お渡しし代金をいただいた。家族でいってくれる。

ものごとには手応えがあるとうれしいものだ。