2011年12月31日土曜日

がんばっぺし

考えごとがあって、うっかり最初ママチャリに乗るときのようにしてつんのめる。
そうだこのスポーツ車は雄犬がオシッコするときのようにして乗らなければいけない。

ペダルを踏んでいれば、釣り人が糸を垂れているような心境になれる。
久しぶりに頭をからっぽにしよう。

数の子を粕漬けにしようということで、林の向こうの北田酒店に行く。上等の酒粕はあるかと尋ねたら、そんな人のためにと裏から持ってきた。純米酒粕。スーパーで買うのとは3倍の値段だ。ところで、「ゆずどん」はあるかと訊いたら、ああ鹿児島川内のと、知っていた。姉妹品の「梅太夫」ならあると持ってきたのでこれも買い求めた。

邦雄さんからの魚は朝一番に届いた。まるで玉手箱のように海の幸が入っている。さて、どうしようか。

三男は友達との付き合いで中国の旅行に行った。二男はつれあいの実家に新幹線で出発した。病み上がりの長女はひきこもっているらしい。長男だけが泊りで来ると連絡してきた。ただし、チカさんに付き添っているので夜の10時ごろだという。

新幹線で岡山を過ぎたあたりだという二男から連絡がくる。長崎に帰省した友人が二男宅にブリを送った、それで送り先を急きょ我が家に変えてもらったからと。おおあわてになる。
それが3時ごろに届いた。みごとなブリだ。 しかし、どうしようか。

今年にかぎって。

こういうことって男の人が普通はやるのよねぇっていいながらつれあいが出刃包丁で悪戦苦闘する。私は掛け声をかけて励ますことしかできない。三枚に卸し、血合い・ハラスを丁寧にとり、柵をつくる。刺身、ごまブリ、ブリ大根、アラは鍋に、幽庵焼に利用することにした。捨てるところは内臓と骨と尾だけだ。

居間の掃除だけ、カレンダーの取り換えだけ私がした。

理事長をやっている友人から暮れの挨拶のメールが届く。全部の店まわりを終えて帰宅し今は紅白をみているところだと。

つれあいは今日いちにちへとへとになった身体をお風呂で温める。先に食べておいてという長男からの連絡に、ようやく9時ごろになって二人っきりでブリとアワビの刺身でビールを空ける。紅白にする。千昌夫の「北国の春」につれあいは涙がこみあげてくる。父親の秀雄さんのカラオケの持ち歌で自分からはこれしか歌うことはなかった。

いただいた「ゆずどん」を今開けた、家族にとっても評判がいい、美味しいと陸前高田の(つれあい)の姪っ子からつれあいにメールがきた。職場でも宣伝すると。「がんばっぺし」「きばっど」と私からメールした。つらいことも何も話さない無口な看護師の頑張り屋さん。介護士の夫とともに高台に家を建てることをもう目標にしている。

10時前に長男が到着しようやく豪華な鍋を囲み食べろ食べろ、飲め飲めと勧める。

いろいろありましたねぇ、と振り返っているうちに大晦日が静かに更けていきました。
こんな頼りない私をみとめてくれるみんなに感謝しながら・・・

2011年12月30日金曜日

お買い物

無理にプリンター買って高いインク代払うよりもコンビニにメディア持って行って印刷すればいいじゃないと息子に言われていた。

今日は銀行の年内最終営業日。もう!手順が違うのだからとつれあいにあきれられる。今朝まで何やってたのよと。その通りだ。必要な書類ができていない。いやな仕事はあとにまわす性格。朝一番に銀行に行くつもりが出発できない。「泥縄」!これを地で行く。ようやく必要と考えられる書面を形ばかりなにがしか整えた。印鑑や身分証明書などを持ち、途中のコンビニに立ち寄り書類を印刷して銀行に向かおうと出発した。使い方がわからないので、若い店員さんに教わりながらコピー兼FAX兼印刷機を操作する。ところが、USBフラッシュメモリを挿入するもそんなデータは認識できないとの画面表示。さては、慌ててデータを入れ損ねたかと引き返す。念のためSDカードにも入れて再度持って行く。再度操作して画面をよくみてわかった、ワードやエクセルには対応しないのだ。書類は印刷できないことが判明した。

仕方なく書面も無しに、銀行に。さぞかし混雑と思いきやそうでもない。案内係の人が親切に対応してくれる。趣旨と私の身分を聞き対応は可能だが書類を確認させてもらえないことにはと当たり前の応え。しかし、対応は可能だということが確認できた。

喪中ということでとくにお祝いごとのお節はつくらぬことにした。そうは言っても昆布巻きがほしいだの煮しめは要るだのあれやこれやと所望し、お正月の買い物に。うちはほとんどすべて手作りだ。そのついでに足を延ばして電器量販店に。

手持ちのプリンターが作動しなくて使えなくなったとき、C社のだけは買いたくないと思った。派遣切り格差社会の象徴的企業そしてモデルチェンジで買い替え使い捨ては当然だといわんばかりの対応。にもかかわらず買ってしまった。シンプルな機能で一番安かったからだ。あれこれ機能がついていても使いこなせない。たいした値段の差ではないのだけれども、あんなに簡単に壊れしょっちゅうモデルチェンジされているのなら、値段の高い機種にはつきあいきれないと思った。それでいつどうなっても惜しくないのにした(それも抵抗があるのだけれども)。しかし安いのはいいが、むしろ後日のインクの補充代の方が機体よりもなんと高いこと。ちゃんと儲かるようになっている。
しっかし、昨日プリンター買っていればとも思った。

それでよかった。慌てて整えた書類、内容に無理がある。これもシンプルにしなければいけなかった。じっくり練り直すことができて、むしろよかった。

明日はいよいよ大晦日。
と、そこへ邦雄さんから電話。正月は居るかと。魚いろいろ送ったからと。え~!

2011年12月29日木曜日

むずかしい呼吸

そんなに悪い条件でもなく、また、面倒にもなって今の銀行に引き続き預けることにした。心情という側面からすれば、相対しての営業というのは必要なんだなと改めて思う次第。朝一番で連絡をし、来訪を受ける。契約を済ませ、今日から年末年始の休みになったつれあいと二人で娘の病院へ。退院手続きを済ませる。

暮れの大掃除など私が手つかずになってしまったので、「なんで?」と言われながらつれあいが始める。好きなことしかしないんだからと、いつもの言われよう。

手続きの済んだ通帳を持って再び来訪された銀行の担当者としばしお茶飲み話。ひとまわりぐらい年下で、専門学校生のお嬢さんと中学生の男の子がいておつれあいの両親とも同居していらっしゃるというご婦人。私たちが4人育てあげたということをしきりに感心する。私の手元にあった校正中の文書の標題がちらっと目に入ったらしく、今どんなお仕事をされているのかときた。それで、これこれこういう方法で福島県飯舘村支援のボランティアを手掛けようとしている話を展開し、つい熱がはいる。話が長いとつれあいに止められる。この人も、社会への関心やお子さんが小さいときアレルギーがあって食べ物には関心があるらしい、仕込み味噌もつくったことがあると。それでやろうとしている味噌づくりはどれほどのこだわりかとも、つい熱が入ってしまった。

3時が過ぎた。銀行に行き損ねた。プロジェクトの振込先になって且つ会計上の口座を開きたいためだ。私も馬鹿だ。目の前に銀行ウーマンがいたのに、その方法について彼女を通して照会すれば済んだものを。

夜はストレッチの代行のレッスンということで、ジャイロなんとかという教室に行く。年末のせいか混んではいない。インストラクターの先生はバレリーナらしく身体がしなる。雰囲気といいフェイスといいイチローさんを若い女性にしたような感じ。とても魅惑的に見えた。しかし初めてのこととて呼吸法とかしなり方とかなにがなんだかよくわからないままレッスンが過ぎた。

さて、なんとか年内に目途をつけたい。明日は銀行に相談に行こう。
呼吸を整えて。

2011年12月28日水曜日

ひねもす画面とにらめっこ

仕事のときのように9時とか定時に始めてお昼休みをとるとか定時に終わるとかけじめをつけたらいいのにとつれあいから指摘される。月曜日に一端文書のたたき台を出したものの、稚拙であり、また、人をして納得させる体裁をなしていない。その点をやんわりとメンバーからも指摘されて昨夜から今朝にかけてなんとか文体をつくる。今日もほとんどパソコンとにらめっこ。

昨日の生保の担当者から昨夜連絡があって、契約書の私の名前の文字の入力を間違えたという。それで慌てて今朝は訂正の手続きに来訪され応対した。こんな漢字もあるものだと感心するぐらい似ているから気付かなかった。だが、普通この漢字には転換されないはずなのだがと、怪訝に思いつつも実際間違っているので訂正に応じる。昨日は世間話に退職後はどんなお仕事をと訊かれて、雲を眺めて暮らしてはいるが少しだけこれこれこういうことを手掛けていると紹介していた。訂正を終えて一息、昨日の世間話の続きを訊かれて私たちが今やろうとしていることに触れた。玄関にお見送りして、そうそうこれが仕込んだ今年の味噌なんですよとお見せする。そんなボランティアの方法があるのですねと、お愛想かもしれないが手ごたえはよい。

銀行によっては退職金をとりこむために、何かの商品とくっつけて3か月間だけ優遇の金利をつける定期預金がある。退職金を手に入れるなんて生涯もう2度とない。運用するにも預貯金ぐらいしか能はない。寝かせておいても仕方がないのでとりあえず入れておいた。この満期がすぐにきた。自分のお金で勝手なのに、追い詰められた感じがしていた。さあ、どうするのと銀行が言ってくるなと、今日がその日だ。違う銀行のそういう金利の定期に移そうと考えていた。しかし銀行に行っている暇はない。そういいながら、別件で昨日は銀行に走った。年末の長蛇の列も垣間見た。案の定、両方の銀行から引き合いの連絡が来る。それで、現在預けている銀行からちょっとだけ会って欲しいというから来訪を受けて応対する。

プロジェクト提案の下書きができたが、プリンターが壊れていて何度やっても印刷できない。紙面で推敲したいアナログ人間だ。それで仕事中のつれあいにこっそりたのむ。つれあいは今日が最後の合同忘年会。しかも幹事だ。気が付いたら真っ暗、そして寒い。 娘に今日はお見舞いに行けないと連絡する。明日午前中の退院が決まった。

ジムから帰ってきたら9時前だ。帰りしなサクメ老人から私は今日が今年最後ですからと丁重な暮れのごあいさつをいただく。そういえば、この大先輩も“男の料理教室”をやっていた御仁。協力者になっていただけるやもしれぬ。先日、どこぞのブログにも今日が今年最後のお料理教室とアップしてあった。面識はないのだが、日頃からすばらしい食育活動をなさっているこの方にもご支援をお願いする方法がある。などと、あれこれ考える。昼間につくっておいたコーンスープを温め、冷凍えびピラフをチンして夕食。石油ストーブを点け、炬燵にひとり入ってパソコンに向かっている。

一区切りつけて、缶ビールを飲む。2次会の世話までして遅くなるかもしれないつれあいの帰りを待てずに、ふとんに入って寝てしまった。

レールを敷くのは一苦労だ、機関車を動かすのはまた難儀だ。人事をたいして尽くしていないから、冬のうちの天命を待てない。足りないのは自分の努力と胆力。

2011年12月27日火曜日

南奔北走

前夜は先生の事務所の忘年会。急きょ娘の入院先へ駆け付けたために、ふたりで30分遅れで参加。私にとっては今年最後の忘年会。みんなあまり飲まないので静かな宴会だが、先生のお孫さんが大きくなった。

お金は増えるにこしたことはない。ところが、日常品の安い高いは気にするくせに、利殖にはなんの興味もない。株だの投資だのそもそもわからない。なにかそういうことは恥かしいことだとさえ思っている伏しがある。「・・は食わねど高楊枝」のような。しかし、もう私はムショク、無収入だ。出ることはあっても、入って来ることはない。さほどの贅沢をしなければなんとか生きていけることを見越して離職をしたが。

一日中パソコンに向かって在宅していることが多くなった。有志の人たちとボランティアを立ち上げようと差し迫ってきての腰をあげつつあるからだ。日中はお歳暮の宅配便があったりするのでチャイムがなると出ざるを得ない。ところが、それが営業の売り込みだったりする。ずっと気がかりでなかなかできていなかったボランティアの一案件をいったん昨日で区切りをつけた。そのせいか、ひょんなことで生命保険を買ってしまった。年末のこの押し迫ったときに何もそんな買い物などしなくてもいいものを。

寒風の中、一軒一軒営業所長さんと一緒に回っていたらしい。最初はインターホーン越しに断った。ほんとに忙しかったからだ。次は居留守を使った。ところが、つい数日前、宅配便と間違え出てしまった。誠実に追い返すつもりが、つい話を聞いてしまった。そしたら続けて訪ねてこられた。ただでさえ、追い詰められている感があるものを、昨日は来たら断るつもりで、現にそのように断った。ところが、買いたかったらこちらから連絡するからと言ってしまった。余韻を残してしまったらしく、明日を最後にしますからもう一度だけ設計書をポストに入れさせてほしいと言われた。どうも女難の相に陥っているのではないかとさえ頭によぎる。

保険商品になんの興味もない。つれあいによくよく相談すれば条件もさほどは悪くないらしい。自分で考えればと言われ、少し付き合うことにするかと今朝こちらから電話した。ところが、名刺も設計書もちゃんとした会社のものだが、ふと新手の「オレオレ詐欺」ではないかとの思いがよぎる。少しとはいえ私には大金だ。それで契約はこちらから営業所の方に出向いて、実在を確かめた上で買うことにした。隣町の駅前だ。好天が続く。自転車を駆っていくと気分転換ができていい。そして、いざとなったら少しのつもりが目いっぱい買ってしまっていた。小心者のバンカラだ。

契約したお金を振り込むためにさらに隣の町の銀行駅前支店へ行く。行内は長蛇の列だ。振込手続きは窓口で案外早くできた。歳末の商店街。よく考えてみたら、娘のお見舞いというか差し入れのパジャマなどはこの駅前のデパートで買えばいいことだ。昨夜ウェットスーツかと言ったらつれあいに笑われた、スウェットスーツですよと。そういうタイプのホームウェアというかパジャマがいいそうだ。婦人服売り場に行くも娘に合うサイズがない。ならば、違うフロアのブランド売り場にあるはずだと案内される。たまたまあった「XS」。私のからだにあててみて確かめて、上も下もおそらくぴったりだと思われた。お見舞い用にラッピングしてもらう。スーパーではこうはいかない。室内履きのいいのが目に入ってこれを求める。昨夜はもらいものの景品のタオルを渡していたが、ちょっとかわいい“にゃん”のデザインのタオルがあったのでこれも求める。父からのお見舞いとする。せっかくきれいに包装されたものを持って帰るには背中のリュックに詰め込まざるを得ない。

家に帰って、お昼をカップめんで済ませ、差し入れの荷物を整える。トレッキング用にと買い求めていた少し大きめのリュックに何とか詰め込む。また、ペダルを踏んで今度は逆方向に走る。いい天気だ、なにかこうずっとペダルを踏んでいたい。

病室に着けばひと目みて顔色が悪いと思った。それなのに明日の検査結果がよければ退院だという。おいおいそれは君の方からお医者さんにでも頼んだのかと訊く。医者の判断だと言う。

また、パソコンに向かえばあっという間に夜。つれあいも地域のボランティアで遅くなる。申し訳ないと言いつつ、あわてて生協のインターネット「安い屋」で買った冷凍ピラフで夕食にする。つれあいはいいよ、いいよと言ってくれるが。

みなに悪いと思いつつ根を詰める。レールを引いて釜を炊き機関車を動かしさえすれば、あとは何とかなる。そのレールが敷けない、釜が炊けない。

東奔西走が足りないだけだ。

2011年12月26日月曜日

入院



その報せが来たのは午後5時過ぎでした。緊急入院。不摂生な生活をしておるようでしたから、娘もこれまでかと思ったわけです。土曜日にはやつれ果てておりましたから。原因不明ならなおさらのこと病院に行き診察を受けるようにと言っておいたのですが、なんの返事もありませんでした。自分への過信、人へは迷惑を掛けないと言いながらこの始末。入院先はその昔私も結石で集中治療室に入ったことのある病院でした。昔のこととて、場所はうろ覚え。でも、たしか入り口がわかりにくかったはず。夕方のラッシュにもかかるし、車ではなく自転車で急行することに。電車で一駅分。入院保障費の現金や洗面道具その他をリュックに詰めて。またも夕暮れ時の出立、寒さと暗闇が不安。左手に三日月より小さなお月様と富士山のシルエットをみて、一路北の方面へ駆け飛ばします。そこはさすがにスポーツ車。すいすいと行きますが、注意しなければ危ない。東口とかいうよくわからない入り口に着く。そそくさと手を消毒して入り、これこれこういうものが本日入院したはずですが部屋はどこでしょうかと尋ねる。2階の何号室だと言われて、迷路のような院内を探し行き、部屋にたどりつくもベッドの上に本人の形跡はあるもののいない。さて、どこに行ったものかと探し回れば、休憩室みたいなところにちょこんといる。点滴さげてこっちをみても、頭も下げない。つれあいも駆け付け、病室に。あれやこれやしているところに、お医者さんがたまたま回診。原因は特定できませんが、腸炎を起こしておりましたとのこと。先ほどよりは顔色がよくなりましたと。しばらく入院して様子をみましょう、ここで年を越すことになるかもしれませんねと。とりあえず大事にはいたらぬ様子で一安心したのですが、不用心でした。ここの面会は二時半から八時まで、明日も通います。

2011年12月25日日曜日

週末のクリスマス


昨日は我が家の忘年会をしました。
今年は暦がよくて家庭で土曜日のクリスマスイヴを迎えた人が多かったのではないでしょうか。

うちの子どもたちといっても大人だし孫はまだ赤ちゃんだし、クリスマスの鶏肉は今年いいかなと思って生協の個配でもとくに注文しませんでした。人数分にしたら冷凍庫に入りきれないからです。シホさんに聞いたら彼女の持ち寄りはローストビーフにすると言うし、本格的なスモークサーモンもあるしパエリアやディップもあるし盛りだくさんに揃えましたから、鶏肉はパスと考えておりました。ところが、夜の11時前でしょうか、金曜日です。センターのようやく仕事を終えて帰る道すがらの二男からの携帯の電話です。明日のメニューを訊いてきたではありませんか、鶏肉は当然あるものというニュアンスでした。いいおっさんになったとはいえ、我が“子”です。それで慌てて当日の朝一番に、生協のお店に買いに行きました。値段が同じでしたので調理してある鶏肉(ローストチキン)を人数分買い揃えました。出来あいを買ったのはおそらく初めてだったのではないでしょうか。あとはすべて手作り料理です(私は配膳担当)。

ところがです、ハプニングがふたつ。
この日を楽しみにしておりました娘が激しくお腹をこわしている様子。二日目だそうで、頬もげっそり痩せて現れました。張り切っていたサラダづくりやケーキづくりはおろか、何も口にすることもできませんでした。気の毒でしたが、座敷童がおるようでした。

もともと長男はチカさんを見舞ってから参加するので遅くなると言っていたのですが、この日の夕方に起きた私鉄の脱線事故による不通に遭遇してしまいます。タクシーを乗り継いでも渋滞に遭い、1時間かかるところを2時間半かかってようやく到着しました。その間、車で迎えに行くため私もお酒を飲むことができませんでした。

チカさんは8ヶ月目、ベビーたちは元気だそうで1600g、肺ができてきている段階だそうです。普通なら出産前のお腹の重さ。そのお腹がとてもおおきくなってきたそうです。私たちのクリスマスカードを喜んでもらえたそうで、世間ではクリスマスだったんだとも。入院経験のある私にも実感があります。長男もずっと出産のことを按じておりましたが、目の前のソータローのかわいい振る舞いやぐずる様子を見ながら、二人だったら大変さはこんなもんじゃないという話題におよびました。え~!おくるみ二人分つくってくれるの、それお願いしようかな(つれあいはおやすい御用だといいます)。お祝いには双子用のベビーカーがいいとか言える余裕がすこし見えてきておりました。

今日は先に長男を駅まで送っていったのですが、二人で出て行ったとたんソータローが豹変したというのです。単なるグズリかと思っておりましたのに、居なくなった途端、家の中をかけずりまわるは、おかあさんにからだごとぶつかっていくは、のびのびとした子どもになっておりました。どうやら伯父さんのことを人見知りして、それなりに緊張していたのだということがわかりました。ジジババのことは3日間一緒でしたので人見知りはなかったのでしょう。

今朝は陸前高田の甥っ子から、夜は都内に住むひとり暮らしの別の甥っ子からお礼の電話がかかっておりました。つれあいの身内。生協のギフト企画にみつけて、私が元気出してねという意味で「ゆずどん」という鹿児島のスパークリング焼酎を送っていたからです。つれあいも久しぶりに声を聞けて、あらためて励ましてくれておりました。

金曜日のことだったでしょうか、ふとみたらつれあいの頬がこけてきたように思えました。よくみれば目もくぼんできているように見えます。歳を重ねたからでしょうか、要するに“歳のせい”。でも、このひとにはああいうことがありましたからとも思ってしまいます。口では、どこか悪いところでもあるんじゃないのと脅してはみせますが。

ほんの少し会わないだけで孫は成長しています。保育園でいろんなことも教わるようです。おっさんになったとはいえ、クリスマスに型どおりのチキンを期待していたふしのある我が子。かわいい盛りの孫、大食いで酒飲みの我が子たち。

静かになった居間で眠気が覚めたら、寝るまでにとせっせと編み物をしております。

とくべつの意味合いのあった一年、
どうやら結びつきを皆それぞれに感じ、
それぞれに結びつきがあるよということを確かめたかった、
そんな年の瀬の週末のクリスマスだったのではないでしょうか。
みながこころのサンタさんのように

2011年12月24日土曜日

武雄さん



つれあいの母親陽子さんの姉の子。一番年長の従兄弟だ。母方の実家の当主。
生まれてすぐに父親は出征して長く帰って来なかった。復員して帰ってきても長いこと懐かなかったらしい。そんな不憫な武雄さんを娘時代の陽子さんはよくかわいがったそうだ。武雄さんの母親も父親も早くに亡くなり、叔母である陽子さんを慕った。陽子さんは面倒見がよく誰をもかわいがり誰からも慕われたけれども、幼いときのこともあって武雄さんはまた特別だった。

母方の実家は、一関と気仙沼の中間ぐらいにある。このたびの突然の被災と不幸に武雄さんはいくら甥っ子とはいえ、我が身のことのようになって走りまわった。あのときのことだ、ガソリンも電気もなかった。長い時間並んでわずかなガソリンを手に入れ被災地を往復した。避難所生活をしていた義兄に替わって何から何まで世話を焼いた。しかも、皆の前ではいつも控えめに振る舞いあくまでも縁の下の力持ちに徹した。口数少なく、わたしにはいかにも「東北の人」然としてみえた。

それであのときのお礼にと「恵那の栗きんとん」を送った。つれあいのお気に入りで上品なお菓子だ。相手の負担にはならぬようにと高額のものではない。お礼の電話をもらって気持ちだけだからと、お返しは要らぬからと念を押した。それにもかかわらず、地元で取れたりんごからつくったという缶ジュースを選んで送って寄越した。四月にうちの息子たちが支援に行った時おいしいと言っていたからと。地元JAのブランドだ。しかし、このジュースがまた本当においしい。私は仕事柄、昔いくらでも食味をしたことがあったが、こんなおいしいジュースに出遭ったことはあまりない。

あのときの武雄さんの献身的支援、まさに我がことのように考え我が身になって行動していた。地元どうしの気持ちでかゆいところに手が届くそれ以上の支援だった。
被災地の支援、被災のことを我が身になって考える。そのことだ。

2011年12月23日金曜日

大鍋屋



大鍋屋、去年泊まった旅館の屋号。
つれあいの実家の並び。
港の側の部屋で両親と食事をとって私たちはそこに初めて泊まらせてもらった。
そして3月のあのとき、二階を残してみな流された。

北九州の坂口さんから素敵な絵葉書で礼状をいただいた。達筆で冒頭にお悔やみも述べてあった。東北に縁故もない故、思いもよらなかったと。

よく考えてみたら、昔、私もカレーぐらいはつくっていた。大鍋ふたつぐらいも。食べ盛りのころは、「6人家族は大家族」の実感があった。そんなことで子どもたちもだいぶ大きくなってからだけれども、食洗機を買った。塩でも洗剤替わりに使えるという特徴も気に入って。便利だよと年配のご婦人たちからつれあいが常日頃うかがっていてその気になった。ところが、いざ使ってみたら意外と食器を並べるのが面倒くさい。時間もかかった。わかっていたことだが、お湯も電気も余分に使う。いつしかつれあいは手洗いの方が手っ取り早いと言って使わなくなっていた。そして家族も減っていった。

追い詰められた“にゃん”のように、なんでも切羽詰ってからやるもんだ。
それで、日がな一日パソコンに向かっている。もう数日経つ。そうなのに一向に埒が開かない。学校のときの8月31日のようだ。日数はいくらでもあったのに。毎日、明日が来るのにできていない。考えが袋小路に入る。中断する。

在るのに見えていない存在になっていた。広いシンクのはずを、塞いでしまった食洗機。暮れの大掃除で、つれあいはこの場所取りの代物を食器カゴの替わりで使い始めることにした。かつて、うちは大家族であったこともあらためて思い出した。

暮れの大掃除は引き受けるつもりでいた。それなのに手も付けていない。
それで、仕事はまだ現役のつれあいが休日にいつもの年のように黙ってこなす。
換気扇はずして、ガスコンロの五徳はずして、粉石けん使って。
食器カゴはずして、クエン酸使って。
何も語らぬそのうしろすがたが怖い。

カレーならつくれる。半額処分にひかれて焼き肉用牛肉を二パック買ってきて、これでいいわいと昨日カレーをつくった。大鍋分いっぱい。そうして自転車を駆って隣町に行った。暮れてからこのスポーツ車に乗るのは初めてだ。昼間は慣れた道とはいえ、林道は真っ暗だ。たよりないLEDライトと感だけが頼り。一年ぶりに東京演劇集団風の公演。演目は「ヘレンケラー」。待ち合わせてつれあいと娘と三人で観劇した。すごい熱演、いつもこれが好きだ。たまらない。「ヘレンケラー」の公演は今季今宵が最後だったそうだ。興奮を胸に帰路を突っ走る。T、e、a、c、h、e、r Teacher!
夜遅く帰宅後、どうだと大鍋のカレーをふるまった。

今日が休みではない共稼ぎの息子夫婦。それで孫を預かった。かわいい盛りだ。
寒い、外はなおさらだ。シホさんが夕方迎えにきて、「一人も増やせなかった、それであったかいセンターにいるセンター長からどうするんだよと詰められた。」と言って帰った。

今日は朝昼晩カレーになった。それでも、まだ残った。
大鍋をさげてもっていくつれあいのうしろすがたは何も語ってくれない。

どうするんだよっていろんなことを夢見そうだ。みんなの鍋は大きく、私の器量は小さい。

2011年12月22日木曜日

お誕生日



今日は何の日、何曜日。まだボケていない。

朝一番に長男にメールをいれた。事務所では先生と呼ばれて、もう中堅だ。

「おめでとう。来年はいよいよ家族ができるね。33年前の私たちがそうだった。(君が生まれて)うれしかったよ。」

明日から昼間が長くなる。鬱っけのある私にはそれがありがたい。でも、春はもっときらいになってしまったな。

2011年12月21日水曜日



忙しくなってきた。

時間と経験(力量)があるようでない。考え込めば、寝不足をしている。

2011年12月20日火曜日



あれからもう一年経ったのか。いや、まだ一年しか経っていないのか。

赤い糸は必ずあるものだ。
冬、昨年の今頃の沖ヶ浜田の行き帰り。初めて訪れた種子島。北部の東側の海岸。出遭った人。手で刈るさとうきび。ほとんど廃れてしまった人の手も手間ひまもかけた黒糖づくり。すべってころんだ夜の海岸。チャーターしたマイクロタクシーのなかに早くも私らにはなんとなく赤い糸が絡んでおるのが見えておりました。
春、思いもかけぬ春。
夏、佐渡を訪れたときにはご本人たちが既にその糸をたぐり寄せていたようでした。
秋、とはいえ、ひとの仲はわからぬもの。
もし壊れてしまったら気まずいなと思ってあのときの港で撮ったふたりのツーショットは今日まで渡さずにおきました。
再びの冬、そうかよかった。ほんとによかった。

いつまでも手をつなぐことはできるもの。
今宵の彼はいつものカゲキハ風のやんかぶった感じはなく、びしっと決めてましたね。気合が入ったお洒落なタヌキの感じ。
久しぶりに再会した彼女はいつもよりもっときれいになっていましたね。
お世辞ではなくそう口に出てしまったよ。ひと目みてあれっ!て思ったもの。
こころを通わせいくつになっても手をつないで歩みましょうよ。

腫れた惚れたに歳は関係あるものかい。
きっとどこかにいるものだ。
今までの長い人生で出遭えなかった分。
とりもどすようにこころとからだをぎゅっと抱きしめあえばいい。

んなことってあるものだ。万歳!

2011年12月19日月曜日

名刺



あるとき名刺をつくろうと考えた。
それで、肩書はどうする?ということになった。

ないからこそおもしろい肩書つけようとふたりで考えた。
「自由人」「世捨て人」「はぐれ人」ん~ん、どれもこれも「イカの煮物」だ。

幾日か経って、「いいのがあったよ」とつれあいが真面目に考えてくれた案、

「夢追い人」

なんと…(そんなふうに見ていてくれたの)。絶句に近い。
せっかくの提案だけれども、これじゃいくらなんでも、おもはゆい。それにウソだ。
いかにもオメデタ人だと自らいわんばかりだ。却下。

あるとき、あった、浮かんだ!
これがいいということになった「ヒョーロンカ」。
行動力のない実態を言い表してピッタシなのだけれども、いざとなれば洒落なんか通じない野暮天がいて、誤解を与えかねない。詐称、不見識となりかねない。

それでほったらかしていた。
そしたら、初対面の人と会う機会が出てきて意外と名刺がないのも不便になってきた。いったい幾らかかるのだろうとWebで調べてみたら、たいして高いものでもない。とかなんとかあって、結局肩書はなにもつけないことにして昨夜ネットでたのんだ。カラーで写真入り100枚870円。振込手数料100円。

元サラリーマンの私が生まれて初めて自分でたのんだ。

2011年12月17日土曜日

寄せ書き



うちの家族みんなで入院中のチカさんへXmasカードを送ることにしました。娘に選んでもらったXmasカードです。

「私はいつか南の島めぐりをしたいと考えています。あてはありません。たとえば吐噶喇列島(とかられっとう)。小さな島々。それは全部船で行かなければいけない。船酔いをすればつらいなと思うのです。でも、船で行かなければ着かない。
『天使も悪魔もこの世にいるってことさ』(寅さん)」

2011年12月16日金曜日

友人からふるさとコープの歳暮(枕崎のかつおのたたき)と志賀島の天日干しが届いた。
 腰を痛めたのか、昨夜一瞬ビビンと来て、それ以来痛みと違和感がある。腰を曲げにくい。腰を痛めることは滅多になかったけれど。身体が硬い、歳と寒さのせいかな。
 なんじゃかんじゃとたまたま連日東京通い。行けばたくさんの人がいる。やっぱり賑やかさも華やかさも組織も仕組みも何でも揃っている。そして、ひとりぼっちも。みんな一生懸命だ。とうの昔にアデューしたのだけれども。帰り着けば、月は今宵もあっちに出ている。上の方がない大きな半月。昨夜も仰ぎ見たっけ。

2011年12月15日木曜日

蝙蝠生活



天気の良い日に限ってダウンしている。蝙蝠のような生活になってしまった。

忘年会というより、ありがたいことに私の退職を祝う会になってしまった。現役は私より年上のSさんだけになってしまった。寂しいではないかと嘆かれる。皆さんからのお祝いに何がいいかと訊かれて、「ドクタースリッパ」を所望していたら、なんとペアでいただいてしまった。私のサイズは予め照会があったが、サプライズのためかつれあいのサイズは訊かれていなかった。このスリッパはLLが標準のようで、私にはLでつれあいにはMをいただいたが、つれあいにはMは小さかった。メーカーさんに相談しよう。

この席でUさんが27年ぶりだといって酒を飲んだ。しかも、日本酒。Uさんは事情があって酒を断った、持病とかの理由ではない。だから、あとの現役時代、酒の席でも一滴も飲まなかった。だが、酒を飲まなくとも赤ら顔で声は大きくテンションはすぐ上がる。すっかりこちらが酔っても、調子は私らと一緒。ふとこの人はシラフなんだよなぁと思うことがしょっちゅうだった。その彼が昨夜はコップを空けたので、ぎょっとした。暴れるか酒癖がよろしくないのではないかと。食事が終わって帰ろうとしたらどうしても帰してくれない。もう1軒行こうと。知っている店があるらしい、冗談かと思ったら本気だ。学生時代はガクランで歌舞伎町を闊歩したらしい、格闘技系のキャプテンで眼光鋭い。単なる昔話かと思っていたら、私たち全員を引き連れ今でも肩で風を切る。

午前様をやってしまった。何年振りだろう。
…起きて慌てて夕食用の味噌汁をつくる。
ジムのサウナにはいる。太ってはいないが、よくみれば腹の皮がたるんでいる。

2011年12月14日水曜日

ペダルを踏んで(2-2)



日曜日、岩手からの帰り道、川越に降りてふと考えた。長男の新居に近いはずだと。まだ昼間だ。試しに連絡をいれた。近いから、迎えに行くと言う。ちょうど見舞に行って30分ほど前に帰って来たところだったらしい。生まれてくる家族のために引っ越してきたが、今はひとりだ。入院中のチカさんはこの新居を知らない。角部屋で窓も各々の部屋についている、今度は和室もある。駅に近いのに閑静だ。それにしても高級なマンションだ。

昨夜は忘年会で金城さんに会った。前に金城さんから自転車の話を聞いていた。それで、影響を受けこのたび自転車を買ったこと、乗って間もないのだがそのことを話題にした。やはり乗る同士でなければ話ははずまない。この仲間で走るのはマラソン派と自転車派がいることになる。

今日は曇って肌寒い。あきらめて机に向かうことができるが、月、火と晴天に恵まれた。絶好の日和だった。長男が一人では食べきれないからといただきもののチョコレートケーキを1箱くれるという。月曜日は会って次の日だったけれども、長男の職場の昼休みのころに取りに行った。片道14km、正味約1時間。車道を直進したらもっと早く着けると考えているが、川沿いの自転車専用道路に出て結局このルートを行った。だが、こんな安全で決められた自転車をぬくぬく行くなんてこれまでの職業人生のようだったので、最初は違う近道を行こうとした。そうしたら途中から畑道になってしまい、ぬかるみに車輪をとられピカピカの新車が泥だらけになってしまい情けない事態になった。ようやく一般道に出て自転車専用道路に行った。

ヘルメットにサングラス、ピチピチのウエア、「最初はカッコから入るでしょ」と金城さんが言う通り、すれ違うクロスバイクの人はみなそういう格好をしている。同好の仲間という目ですれ違いざまあいさつをしてくれる。私はヘルメットだけでウエアはまだだ。あれはイカニモでまだそこまではいっていない。しかし、さすがに汗をかき帰り着けば下着もシャツもびっしょりでジャンバーの裏までじっとりとしていた、あのカッコは寒そうだが合理性があるのだろう。

休憩を兼ねて、河原の公園で自転車の泥取りをしていたら通りかかった小さな子がケイリンの自転車だぁと言って通り過ぎた。ふふふふ、ふ、かわいい子だわい。自販機でもあったら、ジュースでも奢ってやろうかと思ったネ。

これから新宿に出て私の退職祝を兼ねて今夜は忘年会だ。走ること、旅のこと、支援のこと、津波のこと積もる話がある。人の本も買ってもらうけど…。

2011年12月12日月曜日

知恵と勇気



「評論家」余情 半は考えた。

大風呂敷はつかみようがない。しかも開くたびに広がる。いや、広がっている。大風呂敷を結ぶには地に足つけねばならぬ。

そのためには、
・・・
まずは飲もう
・・・次に寝よう
・・・・そしたら自転車に乗ろう

そのうちなんとか・・だろう♪(古っ!)

2011年12月11日日曜日

今日はきれいに晴れたようだ。
私の住む地域にはどこかの地点に富士山のポイントビューがいくつかある。少しづれたらもう見えない、不思議なものだ。自宅への帰りの自転車から茶畑の向こうに夕刻のシルエットが綺麗に見える。



昨夜は皆既月食だった。それが空気の清澄な北の高原地にいたにもかかわらず、すっかり酔って寝込んでしまったらしい。またやってしまった。いつ布団にはいったのか覚えていない。トイレで夜中に起きたときに服もぬがずに寝ていたのに気付いた。まだまだ酔いが残っており再びそのまま倒れるように寝てしまう。8時半に起こしに来られるまで起き上がることができなかった。なんて、馬鹿なんだ、ばかだ、ばかだ、野暮なやつだと心の中で叫ぶ。今朝は早く起きた、散歩をしたとかなんとか言って朝からビールをコップ3杯も立て続けに飲むご婦人の姿にそんな飲みっぷりをみたことがなかったので目が点になった。二日酔いが治まっておらぬようで帰りの車の中ではちょっと込み上げてくるものがあってつらかった。

3日もつれあいと会っていなければあれもこれもと積もる話だらけだ。

メールもこないし、どうせそんなことだろうと思っていたとつれあいになじられる。

そうそう、朗報があったよ(ハナシを逸らさなければいけない)。
へぇ~、ふ~ん、よかったねぇ。決めたのはいつごろのことだったんだろう。
むしろ心配していたのはためらっているんじゃないかって、そうだったらヒロミさんが可哀そうよねってつれあいは思っていたらしい。

一昨日の夜のことだ。ようやく到着して炬燵を囲み一息ついたころだ。このタイミングをみはからったようにさらっと「実は結婚することにしたからね」と発表する。さもありなんと思うも、よくぞ踏み切ったなとも考えた。よかったよかったということだが、鍋の準備で台所に立っていてその場にいなかったMさんがむくれる。理由は「おれには黙っておけというから今まで黙っていたのに、いきなり自分から言うとは何事だ」ということだ。「あちゃあ、ごめん、ごめん」と。Mさんのずいぶん酔いがまわっているときのごきげんな様子、怒りながら、「このやろ、このやろ」とぱっちりした目が笑っている。

春になったら彼女のところでお披露目やるからみんなで来てという。帰りの車の中では、家を開放する、みんなで家をシェアしようと。 彼がかつてニャンを飼っていたなんて初めて知った。カゲキ派であることは知っていたがネコ派でもあったのか。
Kさんとおしゃべりをしながら帰りの車中で考えた。
春になったら、けじめをつけてぶらり旅に出ようと。
日本中に、しかも風光明媚なところに限って原発があって、少し萎えたこともあったのだけれども。
50代で体力のあるうちに退職したのは何のためだったか。


まずはなつかしき九州を旅しよう、そしてかねてから夢想していた南の島へ。
リュックは買った。自転車も考えられる。

山川に拠点ができた、そして種子島にも足がかりができそうだ。

2011年12月8日木曜日

果報者



「12月8日」私が生まれ育ったころは社会に特別の感慨があった。
我が家の暖房は石油ストーブと炬燵。一人の時、ストーブはめったに使わない。
昼間机に向かっていたら吐息が白くなっていた。明日は茨城でも雪になるらしい。

昨日の夜遅くだ。
日付が変わるころだったかな。
おとうさんできましたよと、ふいに声を掛けられた。
何が?と振り向くと、ほら、と。
たたたたっと寄ってきて背中にあてる。
おうOH!(もうできたのか)

まだカノジョだったころ初めて「手編み」をもらった。
マフラーに帽子、手袋にちょっき、どの順番だったか忘れた(全部とってある)。結ばれて、最初の子ができたときにもおくるみを編んでいた(どこにいったのだろう)。
子育てで多忙になって、いつのころからか遠ざかったのだと思う。

津波に呑まれて亡くなった老母の遺品の毛玉、色も年季もまちまちの毛糸。
考えてもみなかった出来事。
母親の遣り残しを引き継ぐように。
悲しみを紛らわすように。
編み物に没頭し始めた。
まちまちを応用してショール(汎用性があってなんにでも使える)が出来上がった。次は孫のフード付きセーターまで。
編み物楽しくなっちゃった、と。

私が長く愛用していたヘチマ襟のカーディガン。くつろぎのカーディガン。
現地で買ってきたお気に入り。アイスランド毛糸のアイスランド製。
袖が少し長くて、いつもひっぱりあげていた。
年月を経てそれで袖に穴があいてきて、それがいよいよひろがってきた。
機能が同じようなセーターをデパートに行って二人でみてみた。
2万円近い値札。
「おとうさん編むよ」というから、急きょデパートを出て本屋さんと毛糸屋さんに。
失敗するかもしれないからと手ごろな毛糸玉で20玉。色柄はちょうどいいと思われる。それに太編み用の編み棒を買い求めた。
好きなことは夢中になれる。なんだかあっという間だったように見える。
「あれっ、ボタンどうしたの?」と訊いたら、「これっ。」
アイスランドのカーディガンのボタンの再利用。
よかった、ぴったしだね。

きっかけは母親の遺品、そして捨てるにもただでは捨てられなかった私のお気に入り。いわばそれらの「遺伝子を繋いだ」形になったのもうれしい。

とても暖かいもの。
ふふふふ、世界にふたつとないもの。

あのころは、○○くんできたよってわたされたな。
つぎは「おじいさんや、できましたよ」って言われるようになるのかな。

2011年12月7日水曜日

小さなクリスマスコンサート

車でまっすぐ南に向かえば今日の会場には1時間もかからずに行ける。

午後から「ゆいのもり 湯川あき 小さなクリスマスコンサート」に向かった。

開演30分前に着き、ちょうど湯川さんも着いたところだった。先に会えたので、増田レアさんの著書『山仕事賛歌』をプレゼントする。福島の手づくり味噌を復興させて希望をつないでいこうと提唱している人が書いた本だという手紙を添えて。

会場の「パン工房:ゆいのもり」はJR昭島駅からそう遠くない旧市街の側にある。少し時間があったので銀行と駅を訪ねていく。毎月の健康保険料の払い込み。そして盛岡への指定席と切符の購入。

湯川さんがここは国産小麦、無添加、天然酵母を使ったお店だと紹介する。湯川さんに促されて、お店の田中さんが知的障害者の就労するお店でパンをつくり販売していると付け加える。湯川さんは続ける。月曜日にコロッケパン42個がお店に並ぶ。1個180円、売上げ1万円にも満たない。これが現実。ほんとうにおいしい、からだにいいパン。このお店は娘がみつけた。「ハミング」というギターのグループもここでコンサートを開いている。それで、ここで地域のコミュニケーションのために歌わせてもらうことにした、今回で4回目だという。地域の人たちの理解が得られなかったらこういうお店は難しい。地域と一体になっていきたいと。

ピノキオがほんとうの人間になりたいという「星に願いを♪」
お得よと言って「♪クリスマスソング・メドレー」
Xマスプレゼントに欲しいものは「♪愛の贈り物」愛はすべてプ・レ・ゼ・ン・ト
~ここのご夫婦ほんとに仲いいのと急に紹介されて、うつむく
子どもが夢を持って育てられる街づくりをしたいもの
~双子のお子さんを連れてきた若いお母さん
~自走車いすに乗った重度の障害者まり子さんは24時間ヘルパーさんの支援を受けて地域生活をしている
命の価値のわからない社会を築いてしまった私たち団塊世代の責任を感じるの。
さだまさしさんの「♪いのちの理由(わけ)」が好きだそうでいつも歌う。浄土宗800年記念で作詞作曲されたもので最初は楽譜もなにもなくて苦労したという。
♪私が生まれてきたわけは、父母に出遭うため。―兄弟に出遭うため。友達に出遭うため。-愛しいあなたに出遭うため。幸せになるために誰もが生まれてきた。
今は幸せをはぎとられる時代になった。しっかり行政をみていかねばならない「♪幸せを売る男」
今上映中の「五日市物語」に出演している新聞記者のご婦人がリクエスト「♪百万本の薔薇」
お店の中の聴衆と一体となって全13曲熱演1時間20分。

帰りに双子のお母さんに声を掛けた。このお母さんも2か月入院して10ヶ月で無事生んだそうだ。生んだあとも大変でおじいちゃんも忙しいですよと言われた。今はとにかく無事に生まれさえすればと願っているのだけれども。男の子二人は来年小学校にあがるとのこと。写真を撮らせてもらった。

帰り間際にもう一度湯川さんと言葉が交わせた。福島県飯舘村で昔ながらのつくり方でおいしいお味噌を農村加工グループのみなさんがつくっていた。だったらそれおいしいお味噌よね、湯川さんが頷く。だけれども原発事故でバラバラになり味噌づくりの継承も危機に瀕していること。去年の材料でこさえたお味噌が残っていてそれを種味噌にしてこのお味噌(つくり)を残したい。あの本はその繋がりのきっかけになったことが触れてある。また、今度紹介します。うんわかった、避難所でもどこでもわたしシャンソン唄いにいくからと。
で、ご主人は写真が趣味なの?あっいやいや…。

帰りは真っ暗で、来た道をひたすら北上する。ナビがあって助かる。都境のような小高いところを越せば街並みがうっすらと見降ろせた。「翼よ」あれが所沢の街並みだろうか。

湯川さんはまじめなひとで、御本よく読ませてもらいますとつれあいに後からメールが入っていた。一昨日のみんなのきらきらした目と逸る顔が浮かぶ。

2011年12月6日火曜日

康人叔父

太平洋戦争勃発の翌年1942年(昭和17年)12月に大学を繰り上げ卒業というから文系だったのだろう。陸軍幹部候補生として志願43年2月1日入隊。久留米予備士官学校で6か月の猛訓練を受ける、実際に死人がでるようなものだったらしい。同年10月鹿児島に配属、内地勤務の後、満州はソ満国境に勤務、後フィリピンに転属。周りの輸送船はほとんど沈められたらしいが運よく上陸。陸軍少尉として前線におっていざとなれば抜刀して突撃隊長となるべきもののさらに悪運強く、偶然が重なり生き残る。ほとんどが戦死。戦場のことを書いている奴がいるが本当のことはわからない、戦後会ったが要領のいいやつだった。復員してきて故郷隈之城の駅に降り立ったとき2つ年上の兄が迎えにきたときは、思わず足があるかと確かめたという。上の叔父は兵隊でひっぱられ、とうとう死ぬまで軍隊の時の話はしなかったらしい。同じ部隊に偶然いた従兄弟が戦死し、母方の叔父からお前は何故帰ってこられたのかとなじられたという。

電話先では自らのかずかずの病名をあげ、叔母も同様に数々の病を持っていると言う。どれもこれも聞けば複雑重篤なる病名の山に聞こえる。すぐにでも会いたいという。年齢からすれば、さぞかし元陸軍中尉を「しっかりせよと抱き起し」という場面・状態を想像して、姉を誘いはるばる2時間半かけて叔父宅を初めて訪問した。

JR最寄駅の改札を出て電話をすれば、1、2番乗り場からバスに乗り4つ目のバス停にて降りよと。指定のバス停にて降り立ち再び電話をすれば、道路より直角なる坂道を上がれ4軒目だという。見上げれば高台、豪邸が立ち並ぶ。えっ、まさかと4軒目の階段をのぼり門扉の表札をみればまさしく叔父の名字。門を入れば芝生があってこじんまりとしてはいるもののりっぱな造り。とはいえ、中に入れば病人老夫婦宅の雑然たる様子かと思いきや、整然たる宅内。叔父も叔母も足腰は弱ったというもののかくしゃくたるもの。物忘れの繰り返し程度で、認知症の気配もなし。おれは元軍人、元役人の癖で胸を張って、そうふんぞり返って生きてきたと冗談ともつかぬことを言っておどけて見せる。母方の叔父叔母のなかでは一番情があっておしゃべりというのが私たち兄弟の評。

いたずらっぽく「お前はおれが死に損なっていると思ってきたのだろう、内ポケットに香典がはいっているのではないか」、そうだといえば、「そうかそうか明日ころりといくかもしれん」とはいう。杖をつき確かに足腰は歳相応に弱っているようだったが、「おれは今でも口は達者、役所でも歯に衣着せなかった、局長でも意見した」と。ところでお前はどうして辞めたのか、「楽をしたかっち考えもした」と薩摩弁で答えるも、ほんとか。まっ、よか、と。この人ペースメーカーを入れてから元気になったのよと叔母は言う。この義理の叔母の雅号は「陽泉」、書道と水彩画をやる。そろそろ昼飯を食いに行こうと玄関を出る。庭で記念写真、見晴らしはいいし叔父さん豪邸ではないかと言うと、叔父はこの方向に富士山も見えると付け加える。おいおい。

駅ビルのフランス料理屋で食事をご馳走になる。ワイン飲むだろう、というから「なんでも」と応える。叔母と姉は飲まぬから、グラスを叔父と私の分で注文し赤ワインをつがせるも、自分ではほとんど口をつけず私によこす。仕事時代はほとんど毎日午前様、田舎に帰れば「焼酎飲んごろ(しょつのんごろ/ヘビーな焼酎飲み)」。酔えばろれつのまわらぬ弟が何を言っているのか姉である私の母は聞き取るのに苦労したらしい。その叔父もさすがに酒は飲めぬようになっていた。で、晩酌をしないかというと大分の麦焼酎を少しやっているらしい。気づけば5時間経過、とりあえず元気であることに安堵し別れを告げる。もう飲まなくなったナポレオンもオールドパーもあるから今度取りに来いという。息子さんたちにあげればいいといえば、あいつらは要らんという。それなら、また今度いただきにあがりましょうと。会えてうれしかったよ、こんどは奥さんをつれてこいと言う叔父叔母と握手して別れ、バス停に向かう姿を見送る。

末っ子(方言で「すったれ」という)である私は、地元には居ない「東京」の叔父叔母親戚たちとは付き合いの必要がなく、私自身も不義理を重ね年賀状のやりとりぐらいでお茶を濁してきた。役人で自民党、高校時代からこの叔父には意見した。それが面白かったらしい。種子島に何度も足を運んだのは公団の総務課長の時代だったらしい、漁民には手を焼いたと。

この叔父夫婦とは学生時代以来の再会で、ここの叔父宅を訪ねたのは初めて。わずか2時間半の距離を今日まで行くことがなかった。麓の出身(士族ということ)で教員をしていた若き叔母を、母の親友である峰森先生と母がみそめお見合いのきっかけをつくったらしい。昔ながらの夫唱婦随を強要して憚らぬ封建的な叔父さん。やんわりと久しぶりにたしなめたが、馬耳東風。

叔父91歳、叔母84歳。思ったより元気そうでなによりだった。

2011年12月5日月曜日

母親の雑煮、つれあいのさんまの開き

現代なら鬱(うつ)のことも精神的戦争傷痍のことも少しはわかるのかもしれない。今朝のNHK朝ドラでの「カンスケ」の状態をみていて思わずふたりでこみあげてくるものがあった。母親の鬼のような形相で訴える姿「強いものだけではない」と。戸惑う主人公。ひとごとや過去の話とは思えない。

続くNHK自転車旅の「こころ旅」の案内に一転してこころ和む。正平さんの「下り坂大好き」もそうだな。いよいよ鹿児島熊本へと進むらしい。背景にうたせ船の帆がみえた。不知火海だろう。

鹿児島県北部の出水(いずみ)・長島あたりでとれた大きなえび(クマエビ)を焼いて天日で干したもの。これを雑煮の出しにする。1尾1000円ぐらいで高価だが惜しげもなく使う。里いもにほうれん草などが入っている。これはつれあいも気に入った。私の母親から習い、一度このエビを入手していつかつくってくれたことがあった。ゆらりゆらりとあのような帆船で獲る。郷土の雑煮はシンプルで豪華だ。

昨日今日と晴れた、暖かい。
さんまの一夜干し、今晩食べごろだ。そう言えば、さんまなんて食べたことなかったな、幼いころ。

あなたも「こころの風景」だしたらいいのにとずっと勧められてきたのだけど。
もう、関東に長い。

2011年12月4日日曜日

有事法がまちにやってくる

忙しくなった。

今年はお歳暮を昨年の倍送った。つれあいの親戚への「絆」の形(今年だけだからと連絡するつもり、もちろんお返しは無用)、私が世話になった人たちへのあらためての御礼のつもり(同様)。虚礼廃止をじわりと進めるつもりでいたのだが逆行させている。それで追加があって昼に生協のお店まで行ったら、住所録を忘れてきた。夕方に再往復。

昨日言われて今日、今季最後の秋刀魚が届いた。大慌てでメニューを考える。子どもたちも集まってくれた。が、長男は相変わらず忙しく夕方も遠くへ接見に行くとの由で加われず。チカさんの容態は良くもなく悪しくもない模様と淡々。秋刀魚は刺身、つみれ汁、塩焼き、梅紫蘇巻・チーズ巻のフライ、骨せんべいなどなど私とソータロー以外のみんなが工夫して調理し腹いっぱいいただいた。つれあいが一夜干しもつくってベランダに吊るしている。しばらく秋刀魚づくしだろう。

そうそう、秋刀魚の刺身丼の昼飯中に奥歯の詰め物がとれた。


ヘルメットを着用しクロスバイクに乗って隣町の会場へ途中の林を抜けて急行した。さすがに軽快に走る。いつもなら、とても間に合わぬところだが、5分遅れで到着。「有事法がまちにやってくる!」の田中隆弁護士の講演に間に合う。気持ちよく晴れてくれた昼間のことだ。

帰ってきたら、Mさんから返事のメールが来ている。思い切って初めて電話をしてみた。ひろがりが大事なので来る人を優先してほしいと。


戦争は突然始められるわけではない。ましてこれを禁じた憲法を持っている。にも拘わらず我が国に軍隊は厳然として存在する。

戦後マッカーサ―が降り立ったのは厚木飛行場。ここは海軍航空基地。陸軍の主要な航空基地は埼玉県の所沢。かつては軍都であった町だ。米軍に接収され返還されたのちそこは航空公園となっているが、それでもなお広大な敷地に米軍の通信基地が残っている。

某国が攻めてきたらのもとに、有事法制・国民保護計画が制定されて訓練が実施されてきた。国民保護法はその美名のもとに全自治体・国民を動員できる。訓練は政府主導のみで今年度までに実動、図上含めて85件あるそうだ、これに各都道府県自治体のものがある。ただ「備え」のつもりが、どこから敵が来てどこに住民を逃がすのかという訓練をどう想定しても現実味がないというのが実感。いざとなれば、軍は作戦遂行が至上命令、国民保護にかまっていられるのか。むしろ、有事法制は国民の徴用・徴発の対象になるという体系。武力攻撃事態に加えてテロ・サリン・原発・公共機関の攻撃など緊急事態対処という本来警察がおこなうべき治安法的性格になってきたというのが有事法制の実態。しかも有事とは侵略を受けるというよりも米軍の侵攻に対する反撃への対処が想定される。

1月28日に所沢航空記念公園の野外ステージ客席において爆発物によるテロが発生したとの想定で「国民保護実働訓練」が行われる。埼玉県と所沢市の共催で国も法律上主催する(らしい)。訓練には救援型ではなくて攻撃型の陸自ヘリも出動する。

想定場所は市民の憩いの場でさほど利用が過密とは思われないところ。あけすけにいうとテロリストがそんなところを狙ったところでなんの効果もないだろうと考えられる地点。標的にしては意味がない、変な話、やるなら都心だろうに。

「危ない国」、「危ない人」、「テロリスト」、「不審者」に備える訓練。とにかく「敵」をつくる、「外敵に備え」「内なる敵を監視」

講師は提起する。外征する日米両軍の兵站を固め、「銃後の守り」をつくることがねらいであると。後方の構築は戦争を容易にする。備えあれば、憂いを生じると。

“これだけ物騒ですからね、そんな訓練も必要ですよね”と返す市民に、「いや、かなりクサイぞ、要は戦争訓練だよ」と伝えるにはどうすればよいかと喧々諤々皆で悩んだ。重たいのではないかという趣旨の意見もあった。

戦争を突然始められるわけではない。じわりじわりと周りを固められる。
「阿久根」、「名古屋」、「大阪」は市民の投票から生まれる。熱狂。


家族6人集まり夕餉を楽しんだ。7時から生協の宅配が紹介されるというのでテレビを点けっぱなしにする。好意的な番組というか、いい宣伝になった。
9時が過ぎてNHK「日本人の戦争・第2回太平洋・絶望の戦場」であった。あまり観ることができなかったが、元将校の人が証言をしていた場面があった。指揮する部隊の200人中生き残ったのは4人。「あれほど死ぬことを勧めてきたのに」「自分だけが遊んでいきていくわけにはいかない」という懺悔の姿勢とそれにふさわしい戦後の生涯をおくったという。この方は毅然と証言を残し取材の3か月のち没した。

叔父の家には明後日、姉と一緒に訪問することにした。高齢でやりとりがやや心許ないのだが、電話の向こうで喜んでいる様子だった。

2011年12月3日土曜日

根っこのこと



熱があるわけでもない。朝には目が覚めたものの起きたのはようやく昼前だ、ここ数年では珍しい。ややだるかった。くしゃみはなんらかの拍子で出る。

9時からのNHKスペシャル「証言記録日本人の戦争」を観る。
この間に放送されてきたもので、今までに観たことがあった。その編集版のようだ。

今にしてようやく語られる貴重なそして当事者にとってはつらい証言だ。
「命令だもの…。」
今にすればむごい任務を負わされた兵士たち。それをそう思わせなかった「教育」。
「命令」は誰が出したのか。私はいつもこのことに考えが及ぶ、根っこのことだ。
偶々か取材上のことか、番組の中では証言をする人たちに元将校は出てこない。

命令を出したもの。
現場の下級指揮官のことではない。駒を指した「キャツラ」のことだ。

にっちもさっちもいかない仕組み、
がんじがらめになっていくもの、逃げだされないもの、
「死」を以て完結されるもの。

過ぎてしまえばそれが巧妙にうやむやになる、いや、「される」。
原子力政策でも米軍基地の問題でもなんどもうやむやにされかねない、草の根っこをはることだ。地域に小さな根っこが張られそうだとつれあいが会合から帰って来た。子を持つ親、若い人、新しい結びつき方を学ぶだけで希望がわく。

2011年12月2日金曜日

足暖快眠

昨夜は就寝後、足のあたりに湯たんぽをいれてもらったのをおぼろげに覚えている。おかげでぐっすり眠れた。朝、目が覚めても布団の中で二度寝をしてしまう。それで今朝も痰が切れた。朝のNHK「こころ旅」を観ながらも半分寝ていた。

姉の誕生日なのでおめでとうのメールを送った。 ついでに叔父の家に行こうと誘う。
カレンダーを12月にしたら案外日程が詰まっている。できるだけスケジュールのない生活に逃げ込もうと考えているのだけれども、できそうにない。
今日も、上京するから忘年会やろうという連絡が入った。それで、Uさんにも連絡とった。今度、相次いで二人目三人目の孫ができるらしい。娘さんたちは「肉食系」だからと、おつれあい様似だと。むははは、はとメールを返す。すっかり“いくじじ”をしているようだ。

朝と昼は風邪薬を服用し、夕方は霧雨の中を自転車に乗り、夜には鍋を準備しそれで焼酎を飲んでいる。床に就く前に、ふと思いついて下重暁子さんの「不良老年のすすめ」を読もうとしたのだが本が見当たらない。

つれあいは今宵も編み物に精を出している。ストーブでやかんが音を立てている。

「津軽のふるさと」を聴く。“猫が横たわったポーズ”を反復してみる。

暖かさを抱きしめる師走。

2011年12月1日木曜日

一週間



昨日は珍しく遅く起きた。朝起きたら痰が切れるようになった。

先週の木曜日は就労支援の講習を受ける。
金曜日にクロスバイクを買い求める。メールが届き、夜は長男の訪問。

夜更かしをするのに、朝も早いということを続けた。
土曜日の朝から鼻水、くしゃみ。ティッシュを消費する。姉と姪とミカちゃんが泊りで遊びに来る日。風邪薬を服用。木々にイルミネーションを飾り付け点滅を開始。とろけるような鯨の刺身とつれあいの手作り料理で接待。日曜日は隣町の天ぷらやで昼食。退職のお祝いにと勘定は姉がもってくれた。公園でミカちゃんを遊ばせ、別れる。夜は子どもたちを招き、たくさん残ってしまった鯨の刺身と鍋料理。

その食事中に叔父から突然の連絡。初めての電話だ。私がかつて年賀状で戦争に行った話を訊きたいとメモしていたからと、いきなり自分の戦争体験を話し始める。学徒動員だったようだ。将校の道を選び訓練を受け、満州およびフィリピンへ行かされ九死に一生を得たという。つれあいの両親と自分たち夫婦は両方とも同じ歳だったと。約40分近い長電話。91歳で聞けば身体のあちこちに故障があるらしい。生前はお前の父親とも懇意にした。横浜に住んでいるから一度訪ねて来いと言われ、不義理をしたままだったので約束をした。

鹿児島のTくんからお悔やみと現職時代を慰労するメールを金曜日にもらいながら、返信のメールが遅くなった。緩慢になった。

月曜日は職場の先輩と会う。退職してから5年経ち今は年金生活というから、それ以来だ。早く終わりたいからと夕方4時半から飲み始めたが、結局遅くなった。ほとんど昔話に終始した。しかも仕事のときの話。今どうしていて、これからどうしたいという話題にもっていきたいのだが、どうしても済んだ思い出話に帰る。とうとう5時間ほども飲んで、焼酎を1本空けてしまった。積もる話で懐しく、再会できたことはうれしかったが、別れて後やや徒労感が残る。これからも、旧職の関係の人と会えばこうなりがちだろうなと想像した。

陽が照らなかったので火曜日の午前中は家にこもる、沖縄の一報に憤慨。午後からホームセンターに行って自転車カバーを買う。曇りながらも暖かかったので、ようやく新車に乗って再び出かける。自転車屋さんへ行き、ヘルメットを求める。黄色いのにした。帰途は日が落ち、装着したライトを照らす。

水曜日は好天で暖かい。編み物を続けたいというつれあいを無理矢理誘いサイクリングへ。一度行ってみたいと思っていた隣町のインド料理店でランチ。公園でつれあいにも新車に試乗してもらった。私より足が長いので苦にはならない、ちょっとお尻が痛いと言っていた。二人で遠出をしたいが、彼女にそういう気はない。BSで映画『切腹』を途中から観てしまった。

酒をときどき飲みながらも、途切れ途切れに風邪薬を服用している…。

2011年11月29日火曜日

防衛局長更迭

品の悪さは言うに及ばずだが、無意識の本音ポロリということだろう。報道10社ほどが懇親の場にいて、地元琉球新報社は問題性を看過しなかった。あとの9社も聞き逃さなかったはずだが、聞き逃したことにした。空気の呑み方が違う。沖縄の問題、軍隊の問題、米軍駐留の問題これらに通底する感性の違いだ。温度差では済まされない。そのとき地元記者には、鳥肌がたつような嫌悪感とはらわたが一瞬にして煮えくり返るような気分が襲ったのではないか。
自衛隊内部で起きている女性隊員へのセクハラ事件、これも氷山の一角であるがその根っこにある体質、日本軍的DNAとでもいうべきか。

「犯す前に犯しますよと言いますか」

人への、女性への、県民への「蔑み」発言。蔑むこころ。

そして、ただちに琉球新報は田中沖縄防衛局長処分を号外(琉球新報社ホームページより)で出した。

2011年11月26日土曜日

スポーツ車

 ちょっと遠出をしたいだけなんだけど、スポーツって気はまだないのね、足も短いし、うんたらかんたらと及び腰で店主に声をかけてみた。スポーツ車は私には競輪の選手の車ぐらいに見える。カゴも欲しいしライトもスタンドもつけたい、鍵も。そしたら、シティサイクルぐらいでいいのではないかと暗に相談してみた。それじゃママチャリの延長上、走る面白さがわからない、ときっぱり。どうでも初心者用のスポーツ車にすべきだと忠告された。「客」に媚びる気はない。醍醐味を知るなら迷うことはないといわんばかりだ。ここにあるのはお客さんの体格にも合うよ。ライトもスタンドもつければいい、カゴはいらないリュックで充分と言われる。ところで、この店は現金かと訊いたら、カードは扱っていないという。それが火曜日。

 それで試乗できるかと訪ねて行った。展示してあるうちの2台にペダルをつけてもらって乗ってみた。こういうのに乗るのは初めてだ。案外乗れるものだ。ひっきりなしにパンクのお客さんが来て、あんまり私の相手をしてくれない。それで、いいよというから陸橋を上ってひとまわりしてきた。値段の高い方の乗り心地がよかった。乗ったことのないタイヤの細い自転車だ。えいやで、言い値(ほぼ定価)で買った。重さは約12kg、21段変速、Tハン。

 自転車に乗って来たので、買ったそれは夜配達してもらうことにした。帰り、自分のママチャリに乗って店主の言っていたスポーツ車との違いがわかった。身体の使い方が全然違う。

 7時に届けてくれる約束で、晩酌もせずに待っていたが8時になっても来ない。店に電話をいれると、こちらは名乗りもしないのにこちらの名前をよんで、今タイヤに空気いれているところすぐに届けるからと。まるで蕎麦をたのんだようだ。「待ってるよ」と電話を切った。私も少しだけ人間がおおきくなったものだ。

火曜日にお店に出かけ♪金曜日に自転車買った♪
テュラテュラテュラ、テュラテュラテュラリャラ♪

2011年11月25日金曜日

夜空に祈る



18歳のとき兄の住む町で病に倒れ入院生活を送った。見ず知らずの関西の市民病院で頼りは兄しかいなかった。当時兄の子どもは幼く兄も仕事が忙しかった。兄は仕事を終えた夜間に私の着替えなどを持って見舞に来てくれた。あるとき、「頑張れよ」と横たわった私の両手で手をぎゅっと握りしめてくれた。

 亡き母の生涯で辛かったことは3つあるだろうと考えている。最初の出産のときの難産、戦争による全財産の喪失、老いて後の独り住まいの孤独。

 第1子である兄が戸籍など自分の出自を調べてわかったらしい。双子だった。もう一人は助からず兄も弱い子だった。兄は虚弱児で育てるのに苦労したという話は母から何度も聞いたが、双子であったとはとうとう一度も聞いたことがなかった。我々兄弟誰も知らなかった。

 先週末から容態がさらによくなく、副作用も加わって辛い状態にあるらしい。息子は往復2時間以上をかけてほぼ毎日見舞に通っている。事務所を夕方6時に出るので周りは楽をしているとみられるよなぁと言う。日頃の働きぶりは「来る者拒まず」の姿勢で仕事を請け負っている状態で、家に仕事を持ち帰り休日もこなしている。「母子がリスクのある状態」だということで、その報告に今晩病院から我が家に立ち寄った。部屋で一服させて一目見て顔のやつれがわかった。お腹の子は今「にんげん」になりつつあるところでなんとかもちこたえなければいけない。医師や病院はその手助けをする。結局は自らの生命力しかないが、今それを癒し励ますことができるのはつれあいの支えである。あなたが頼りだろう。その支えが倒れてしまっては目も当てられない。仕事を減らすしかないではないか、母子三人の生命と健常を保つことが最優先、人生の一大事ではないかと諭す。ホントならずっと寄り添っているべきだ。長男はうんと一言うなずいて12時前に帰って行った。昨日と今日、彼は新しい家族を迎えるために引っ越しをした。

 放射冷却現象。昼間は快晴でお日様を受けていれば暖かかったが、陽が落ちてから一段と冷え込む。夜空に祈る。

2011年11月22日火曜日

音信

吊り上げるように眉と目を見開き、下あごを下げるように口を大きく開け舌も出し、両手はパーに開き受け容れていた。幼き頃そんな友達関係から始まったのだと思うのに…。だから、また、そんな人間関係になっていきたい。

 この歳になると親が亡くなった、孫ができたという音沙汰が届くようになってきた。今年はそれに、あの震災に関わった、或いは思うところあったという内容も加わる。

 Oさんからすぐに連絡をいただいた。すでに年金生活者とのこと。おつれあいの実家も宮城県だったそうだ。今回のことでお互いに初めて知った。隣接する町で今は広域合併で同じ市になっている。海岸の近くで津波によって家ともども流されてしまった。幸い家族は無事だったそうだが、仮設住宅住まいとのこと。被災当時、連絡もずたずたになって、確認したり助け合ったりしたのは旧市・旧町の感覚だったと思う。つれあいも未だに同じ市内だという実感はない。Oさんから誘いがあって近いうちにお会いすることにした。

 私の友人はイニシャルにするとタ行の人が多い。だからどの人もT君になる。隣町に住むT君から電話が来た。12月の予定が先週生まれたらしい。初孫は男の子だ。来年の12月が誕生月で定年だという。会社の業績がよくない、おれの意見を聞かなかったからだという。社内では干されているらしい。根はいいやつで有能だとは思うが自信家で浮いているのだと想像している。同僚のころはもっぱら聞き役にまわっていたので今まで付き合いが続いている。定年までがんばれやと伝える。おしゃべりで17分も聞いていた。お人好しなのに、ひとには誤解されやすい性格だ。

 熊本のT君からも電話をもらった。身体のあちこちの故障が著しい。休職がちだ。聞いていると傷ましいほどだ。彼も長い電話で、またも聞き役にまわる。経済的なこともあるだろうからなんとか定年まで頑張ったらどうかとすすめる。話はどうどうめぐりをするのだけれども、つまるところ職場ではいじめられているらしい。ならば、思い切って辞めることをすすめる。先に辞めた私が言うのであれば踏ん切りがついたとは言うのだが。彼は心身に故障を抱えているので、迷わずほんとにゆっくりできることを願っている。

 姉から家電に電話がくる。どうしているのと。雲でも眺めて暮らしいていると応える。そう、と。口にはださぬが、受話器の向こうで心配してくれているのか、あるいは興味があるのか。身ごもったチカさんがずっと入院していて心配だと知らせれば、私も入院したのよ、なんとかなるよと慰められる。

 大酒飲めるうちにみんなを訪ねて行こう。…あっ、控え目にやるんだった。

2011年11月21日月曜日

佐須虎捕太鼓11・19&20演奏



雨の土曜日は遅れて銀座の会場に到着しました。ちょうど「佐須虎捕太鼓(さすとらとりだいこ)」の始まるところでした。女性の皆さんだけで太鼓を演奏する、なかなか見事なものに見えましたが、原発事故でみながばらばらになり練習ができなくなって…とのことでした。不本意さがにじみでてはいましたが、練習不足を感じさせず見事に感じられたものは、原発事故までに積み上げてきた鍛錬と、非常な困難に直面しての“気合”のせいだったのでしょうか。気迫といいましょうか。

「佐須虎捕太鼓」とは、原発事故の「警戒区域」となった福島県飯舘村の佐須地区というところに伝わる話をモチーフに1998年につくられたものとのこと。この農村地区の女性たちで演奏され「勇壮で華麗」と表現されています。

翌日曜日は快晴のもと、築地本願寺境内の「安穏(あんのん)朝市」で、朝市への参加団体などで作る「飯舘村支援の会」(代表中川誼美さん)主催の招きで公演をしておりましたのがNHKの関東圏のニュースでも取り上げられておりました。

2011年11月20日日曜日

母親の毛糸玉

陸前高田や南三陸町のように何もかもほぼ根こそぎ津波にさらわれていったのではなくて、気仙沼でもつれあいの実家のある町内の津波被害はまだら模様のような様相だった。建物も何もかも無くなったところ、階下が無くなり屋根や階上部分が崩落したところ、建物だけが残ったところ(ただし内部は全壊状態)など、場所によって違う。数軒先は跡形もないというのに、実家はご近所とともに建物だけは残った。二階まで水は来たらしい。長身の義兄は二階で首まで浸かったが寸でのところで助かった。うなぎの寝床のような住まいで、両親のもと居た部屋は二階の奥まった少し高いところにあったらしい。もう日常には使っていなかったようなものがわずかながら残った。それらの中から、つれあいは母親の遺した毛糸玉を遺品にもらってきた。四月の末のことだ。大切になにかの衣類をほどいたものだったりしたのだろうか、毛糸の色はまちまちだが幾つかあった。擦り切れたような毛糸がほとんどだった。母親がいつかなにかに使おうと捨てないでとっておいたものだろう。自分で編んでいればまたほどけるという。どれほどモノを大事にしたことか。そうであろうということを引き継いで、つれあいはもくもくとこれらの毛糸を編んだ。編んで器用に組み合わせてついにストールのようなものを完成させた。いつのまにか、だった…。

 最初は母親の思いをなぞるように、そのうちそれすらも忘れて編み物に没頭するのが心地よいようだった。まとまった色の毛糸玉を使ってソータローのフード付きジャケットも編んだ、あとはボタンを付けるだけらしい。そのボタンを物色している。世界に二つとないクリスマスプレゼントにするという。

 そして、つぎに生まれてくる赤ちゃんのものを編むこともチカさんには約束している。これには新しい毛糸を買う。カード会員には割引セールをやるというので二人でデパートに行った。昔のような紳士用の襟付きのカーディガンがまた流行ってきているらしい。ちょうど飾ってあるのがそういうもので高価だ。つれあいは編み方の本さえあればできるというので、私のためにも毛糸玉を買ってもらうことにした。

 みんなからどうしているのと聞かれる。うまく言えないから「雲を観て過ごしている」という。やりとりをすればつまるところ、みなは働いている方がその方が楽だという。活躍している。ほとんどみなそうだから、私の方がやはり変わっているらしい。いや、なまけものかもしれない。なんだか申し訳ない。私は少年時代にしたように雲を観ていたいから。行ったことのないところに行ってみたい。

 二人暮らしの静かなときが流れる。手編みのカーディガンもいつかそのうち出来上がるだろうか。

2011年11月18日金曜日

青雲の「志」

民主党は今度総選挙があったらぼろ負けするだろう。国民を裏切ったからだ。

村山さんのときの社会党にも通じる。政権につくなり社会党の社会党たる所以をかなぐり捨てて支持者を裏切った。おまけに阪神大震災に遭遇しても迅速で有効な手立てを打てなかった。その教訓からか、菅さんは大震災発生直後の原発視察で大立ち回りを目論んだようだが裏目に出た。事故に際してのもっとも重要な時宜を逸し、被曝の危険から住民を守るための的確な判断をしたとは考えられないからだ。

自民党はそこをねらっている。そもそも格差社会や原発震災を生んだのはどの政権のせいなのか反省もまったくない。民主党をあげつらうことによる政権奪還目的、ただそれだけのことだ。国会での質疑を聞いていれば、民主・自民に攻守が違うだけで、政策に違いはもうない。

ふるさと自慢をするものの、故郷を捨てたも同然で久しい。

いよいよ送ってきた。「後援会」の発足らしい。ほかのDMのように捨てればいいのかもしれない。ただ機械的に高校同窓会名簿から知りえた現住所情報で送りつけてくるだけのことかもしれないが、最近それが送られてくると不快になる。

大柄で快活、スポーツマンで努力家、実行力がある。すでにそのころから将来は人の上に立ちたいという野心は満々だった。よく言えば大志を抱いていた。決して悪いやつにはみえはないのだけれども、話し込めばどこかに弱者を切り捨ててよしとするような差別的な言辞を吐いて平気なところがあって、その点について私は好感をもてなかった。

私のクラスから現役で東大に二人合格した。受験校であったとはいえ地方都市のこと、快挙として当時大ニュースになった。努力と才能と集中力があったのだろうけれども、私もいささか驚いた。東大に合格する人間なんて特別に「違う人種」だと思っていたから。まっ、そういうことだったのだろう。彼は東大卒業後大手の建設会社に就職して、世界に雄飛して活躍いるらしいということを風の便りに聞いてはいた。

ここ近年、高校の同窓会の世話人をしていた。りっぱな肩書もあって多忙だろうに殊勝なことと私も考えていた。まさかとは思っていたが、昨年郷里の選挙区の自民党の支部長に立候補して相手候補を破ったとあった。選挙区の現役は民主党だが、もともと自民党の公認を得られなかった人があのときの勢いで当選しただけのことで、本質に境目はない。こんどは自民党だろう。機会を逸しない計算だ。後援会発足の「リポート」には名だたる経済人、政治家、官僚の名前が連ねてあった。あの古川佐賀県知事の名前まであった。

「日本の将来に強い不安を感じた。それが国政を志す動機になった」と。

東大出、面倒見のいいやつ、世界に羽ばたく郷里の誇り、同郷同窓の誼、人のいい級友たちはそういうことで手足になる。キャラクターは好かれるタイプ。

個人としては魅力もあるのだろう。だが、単なる友人としてはともかく、信条としては組(くみ)することはない。その便りがくるたびに、なんともいえない不快が積もる。本人も取り巻きもベクトルが昔のままだから。

しかし、それが野望であれ、人間一途であることはたいしたものだということを幾つも学んでいる。

2011年11月17日木曜日

喪中葉書

 好天の本日やっとこさ、喪中葉書を投函した。

 プリンターはC社製だ。久しぶりに印刷しようとするとやれピンクが切れているやれ青が切れそうだとの表示が出て、まずは純正のインクを買い揃えた。それで、いざプリントしてみると画像が出ない、色がでないのだ。そんなバカなということで、つれあいが同社のサービスセンターに照会した、インクの詰まりの可能性やあれこれ点検させられた挙句、故障しているらしいが修理はできないという。今年の7月で打ち切ったという。つまり古い型だから買い替えろと言っているのに等しい。
 前のパソコンを買った時に、よくわからずにミーハーで有力ブランドであったC社のカメラ(当時サッカーの中田君がイメージキャラクターをしていた)もセットで買った。パソコンのソフトも画像取り込みなどはC社とコラボだった。ところが、カメラは1年もせずに突然作動しなくなった。買い求めた電器屋さんに持ち込んだら、何日も経ってC社からは何の説明もなくモデルチェンジした同じシリーズの代替品を渡された。修理点検にだしたのにどういう不具合があったのか説明がなくいきなり代替品ですまされたことに、納得がいかなかったが、新品を渡されたので黙っていた。馬鹿にされたような、ブランドにあぐらをかいているようでならなかった。この思いは続いていて、後日あの派遣切りで名を成したときはさもありなん体質と感じた。今度のプリンターの件でもそうだ。耐久商品のはずが使い捨て同様だ。この商品に限らずモノは使い捨て同様になってきた。それがモノをつくるヒトにまで及んでいる。モノは大事にしたいと思うから、実感としてC社は自社で働く人も大切にしなければ、結局消費者の方も向いていないのではないかと不信感を持っている。 驕れるものの行く末があろう。

 とにもかくにもモノクロでの印刷は可能だったのでこのプリンターを使って喪中葉書は作った。カラープリントができず不自由することになる。もちろん、C社のものはもう買うまいと思っている。

 さて、先にT君から喪中葉書をもらっていた。お父さんが秋に亡くなったそうだ。この歳になるとお互いそういうやりとりが増える。余白に、4月に一人娘が彼氏を連れてきた、7月に挙式、12月には初孫と記してあった。ったくもう、最近の若者は…、とはひとのことをいえないなぁ。T君は血圧があがって通院中ときた。ながく会っていない。きっと、電話が来るなあ。

2011年11月16日水曜日

おいしいものを

今日からストーブを点火。寒さにはめっぽう弱くなった。


お昼はお粥にしてもらった。自己嫌悪が湧いてくる。自らを痛めつける気はないのに、なんであんなに無警戒に飲んでしまうんだろう。最後に飲(や)ったウィスキーが芳醇だからか、いや貧乏性で飲んでいなければ落ち着かないからかだろうか。だめだね、こりゃ。いったいどんな飲み方をするのだと、つれあいから今日は一筆とられたが、野田さん並みのはぐらかし、どうにでもとれる内容にした。我ながら言語明瞭意味不明、実に不誠実だ:*@#$%&

米から釜でお粥を炊けばおいしくできるものだ。秋口に支援のお礼にと石巻産の新米を30kgもいただいた。却って恐縮した。あまりの重さで、さすがに宅配便の人が玄関の中まで運んでくれた。生協の予約米を食べきれなくなるので、事情を話してしばらく休止してもらうことにした。あれから何日も経つ、宮城の米はおいしい米だ。

味噌は九州の麦みそを取り寄せていたが、この前買ってきたヤマキの玄米味噌にしている。久しぶりの関東産はしょっぱく感じる。こだわりの味噌だから佐渡のアゴか生協の田舎だしを使う。近所のお友達から野菜をいただく。出荷できない自家用のおすそ分けなので見た目は悪いが、採りたてでさすがに新鮮だ。夜の一品は大根おろしにしてもらった。

胃腸薬はこの前帰って来た三男に全部あげてしまったので買い置きはなくなっていた。この子の職場も長時間労働であるそうだ。買っておかねば。忘年会シーズンの医薬品メーカーの宣伝にのるようでいやだけれども、要るね。それにしても、おいしいものをおいしく食べられるように気をつけましょう。とんだ、一日だった。

*画像は孫の1歳の誕生日の7月に撮ったもの。お里では一升の餅を背負わせるものだとか・・・、シホさんは器用にもパック餅をゆでて溶かせて「一升餅」(1kgしかなかったけれど)をこさえました。

2011年11月14日月曜日

いのちを支える

 カキもハシもカレーも生来刷り込まれたイントネーションは直せない。秋にはいつも、つれあいから陸の柿なのか海の牡蠣なのかどっちだと訊き返される。インドのカレーですか海のカレイですかとくる。柿は好物だ。福島産だというので買い求めた。「みずしらず柿」に見えた。聞けば、福島は柿のブランド産地でそれを畑に捨てているという、くやしさが伝わってきた。会津身不知柿(あいづみしらずがき)。

 一日働いてきたつれあいを出迎える。開口いちばん「聞いて・・・」とくる。
そうだ、たいへんだね、けしからんね、と相槌を打つしかない。
いいの、いいの、聞いてもらえて気が済んだから・・・。
つれあいは気持ちの切り替えができる。

 おじちゃん、また遊びに行っていいかな。
共稼ぎで3歳の子を育てながら、末端の管理職に登用されて早朝出勤深夜帰宅を繰り返す姪っ子は不安とストレスが絶えない。私には逃げてもいいかな、と言いながら自らはしのいできた頑張り屋。

 実は聞き役は苦手だった。人の話を聞いていない、素通りさせてしまう。昔を振り返れば汗顔の至りだ。人の話は聞かず、自分の言いたいことだけを言う、その性癖はまだ残っているだろう。ただ、それに気づくことができるようになった。

 歳を重ねて、たいした人々と出遭うようになり、こちらには深い知識や経験はないから、自ずと聞き役にまわるようになってきた。「うなづきトリオ」あれである。「ふんふん、ああ、そうですか、それで…」。

 聞き役にまわっているといくつかの場合、相談事のように見えて、実はこちらの意見などは期待していないこともあることがわかってきた。聞いてあげて、共鳴することが大切なのだと。その方が多い。気持ちがわかってほしい、こんなことがあるんだよ、こうしたいのだ、それへの同意あるいは背中を押せという場合がある。つい出過ぎたことを言うと疎遠になることもある。見極めが難しい。

 大量生産、大量消費、チープ、大量廃棄、効率・歩留りで人間関係も忙しいばかりで中味がない。好き嫌いがあって、もともと孤独癖があるので、交友範囲は広くない。しかし、来るものは拒まなくなった、むしろ愛おしい。ひとの境遇にうなづけるようになった。といっても、そんなたいしたものではない。人がつらい状態にあるな、迷っているなというのが多少感じられるようになってきた(晩年の母親には及ばない)。

 芸術家。あれほどのすごい演奏をするのにバイオリニストの若林暢さんは、「ぜひお帰りの際には(チャリティーの)募金をよろしくお願いいたします。」と何度も舞台から頭を下げた。にこにことして、そのへんのおばさんのような気さくな人柄に思えた(プログラムにあるのは、あれは若いときの写真だな、いいけど)。目の前の席をとり舞台を見上げて演奏の様子も体感した。聴いているあいだ、痛めている右肩がガンガンした、演奏会場を出てみればそれがない、決して音楽がわかる人間ではないのだけれども不思議なことが起きるものだ。ええ、そんなことってあるのとつれあいも驚き気味だ。

 これまでの被災地の生産者(農業や水産業)の報告ではまわりで自殺者が出ているとを実感としてよく聞いた。10月時点ですでに28,000人を超えているそうだと聞いたが、念のためWebで調べてみると26134人であるようだ。いずれにしても、統計的には毎年32,000人前後で高止まりして久しい。

 「話を聴き、いのちを支えるボランティア」埼玉では、今後以下の催しが予定されている。
■埼玉いのちの電話20周年記念 「クミコ “いのちを歌う”」
日時 2011年11月27日(日)  開場15:00 開演16:00
会場 大宮ソニックシティ 大ホール
■チャリティー映画会「アンダンテ ~稲の旋律~」
2011年3月19日に中止といたしましたチャリティ映画会は2012年3月20日(火/祝日)に開催。上映時間(2回):10:30~、14:00~、 会場 大宮ソニックシティ 小ホール チケット 1,000円

 みずしらずのひとの話を聴き、いのちを支えるのは心身ともにタフで訓練がいるらしい。
 喪中葉書の内容をつくりあげた。なんだか、なにをやるにしてもひとしごとだ。

2011年11月13日日曜日

コンサート「秋に想う」



 もう2週間も経ってしまいました。10月29日土曜日のことです。ブログのアップが緩慢になってしまっています。

 玉川上水や府中なら無理すれば自転車でいけそうだなと踏んでいますが、そんな秋晴れの日、そんな無理はせずに電車を乗り継いで行きました。玉川上水というところは昔むかし福岡から転勤が決まったとき、右も左もわからず総務から送られてきた不動産情報で検討した地でした。なかなかいいところだなという印象が残っています。住宅の広さと家賃さえ合っていればこの地に住んでいたかもしれません。訪れたのはたぶんそれ以来でしょう。

 シャンソンといって思い浮かぶのは越路吹雪さん、美輪明弘さんでした、古いね。そういえば最近ではクミコさんやワサブローさんです。昔、東京への出張に同行した後輩から、銀座に近い新橋のシャンソン喫茶にいつのまにか連れていかれたことも想いだします。

 あのとき、つれあいの両親が津波で犠牲になったということはたちまちのうちにミュージカル仲間にメールで伝わり、お見舞いや励ましを次々にいただき、ついには寄せ書きまでもいただきました。当時、音楽をやっている人たちから聞いて共通していたのは、3・11の直後このまま歌やダンスをやっていていいのだろうかという放心状態だったようです。しかし自分は音楽をやりたい、そのなかでなにか復興に役に立つことをしたいと考え直したそうです。ほかの分野のひとたちも多くはそうであったと思います。

 聞けば両親は満州引揚者で東京下町育ち。結婚して武蔵野に移り住んできたとのこと。東北や三陸にはなんのつながりもないことから、つれあいの話を聞きおよび、そのためにチャリティーコンサートを開きたいと申し入れがあったのは5月のことでした。いてもたってもいられない、すぐ行動する。こういうひたむきな善意の人たちに幾人も出遭ってきました。シャンソン歌手の湯川あきさんもその一人でした。

 音楽大学がすぐ目の前にあって、オーナーはおそらくこの辺の地主さんではないかと思われるのですが、防音施設を備えたアパート群としゃれた喫茶店をもった敷地の一角にコンサート会場(「ホームギャラリー・ステッチ」)はありました。そんなに広くはない会場にぎっしり90人近く、前売り券を買っていただいた人はみな集まりました、当日「俄か受付」を引き受けましたので確かです。この日は、秋の文化祭などが重なり掛け持ちの人もおりましたが、とにもかくにも駆け付けてくださいました。

 湯川さんの家族とこの会場のオーナーそして私たちが裏方になり、「秋に想う」と題した手作り感のあるチャリティーコンサート。人柄の故でしょうか駆け付けたのは多くが湯川さんの長年のファンであるようでした。前段で3分間のあいさつをと言われ、つれあいがみなさんの前で体験と気持ちを語りました。いざとなれば、つれあいもなかなかのものです。清水智子さんのピアノ、松本みさこさんのアコーディオンで歌なしの演奏から始まります。私はクミコさんを聴く以外はシャンソンなど親しんだことがないので、なんかこう都会(パリ)的で「おのぼりさん」のような気分で曳き込まれていきます。でも、歌詞の内容は庶民的なんですね。

 23歳でシャンソンに出遭って40年、歳がばれちゃうねと言いながら軽妙なおしゃべりを添えて、唄いつづけます。「悲しみの終わりに」という曲は、ヨーロッパで起きた洪水のあとの歌なのだそうです。最後の曲「生きる時代」というのは愛があれば生きていけるというモチーフの歌とのこと。一部、二部に分けての熱演、終わればアンコールの嵐。「用意してあるわよ」でつごう21曲ほど、人を泣かせる歌があり、とくにミュージカル仲間は涙もろい人が多いらしく肩をふるわせているのが後ろからみてとれました。つれあいのご近所仲間で駆け付けてくれたMさんもおいおい泣いたと言っていました。40年のなかでは「愛・平和・命」の三本柱で青梅沿線ではチャリティーコンサートも細々ながら続けてきたといいます。『愛の贈りもの』というCDも全財産を傾けてリリースしたとお客さんを沸かせます。

 「心の闇は、ひとはひとでなければたすけられない」という湯川さんの言葉を私は書き留めておりました。

 もう2年も前になる、どうしても壁にぶつかったときがあった。プロの歌手だというプライドを置いて、市民ミュージカルに加わった。それが素人にすぎないつれあいとの出遭いでした。ただそれだけのご縁でしたが、苦楽をともにした皆さんは感情豊かな人が多いように感じます。このたびの催しにはひとりひとりに手紙を書き、入念に準備を積み上げていったそうです。コンサートのあと、私たち夫婦と演奏のお二方とともにご馳走になりながら、そういうお話を聞きました。

 その日の収益金をすべてつれあいの故郷の気仙沼復興支援のために使ってほしいと託されました。後日、被災者である友人とも連絡をとりあい、結局気仙沼市役所の当該の部署に寄付をいたしました。
 
 湯川あきさんはライブ活動をしながら、メモリアルコンサート「金子みすずの詩を歌う」などの司会・ナレーターとしても活動中です。

2011年11月11日金曜日

11・11

本音は見透かされていた。本日、国会の集中審議の最後の質問に立った社民党の福島さんからは「この国会の場で参加表明をせよ」と食い下がられていた。そして、よもや記者会見や外国に行ってこれほどの国の重要な方針を発表することは、国会の軽視であり許されないと。この一点を突いていた。国会で堂々と論戦せよという趣旨だが、首相ははぐらかした。共産党の紙さんは数字をあげて予測される農業への惨憺たる影響を突いた。この国土から農村が崩壊する絵が見えてくる。

 とうとう8時の記者会見で「既定」のTPPの「協議に入る」という言い回しで事実上の参加表明をするという卑怯で狡猾な方法を用いた。一日延ばしてみせるという茶番や「母の実家が農家で」とかという猫だまし的な言辞も散りばめながら、発表は優等生的な美辞麗句を並べている。彼は「事前協議」と言ったのではない。本質は明日からのAPEC協議でのアメリカへの手土産である。

 会見で「断固として守るべき」と言った事柄(日本の医療制度、伝統文化、美しい農村)とは裏腹で、大変なことになる。農業の「業界の不利益」のことではなくて、利益など何もない私たちに振り掛かってくる生活や生き方にかかわることだ。

 「・11」は8か月目になる大震災や原発震災に加えて、またも、国民への惨禍になるような象徴的日付となった。肌寒い雨の一日、このいやな日を忘れない。

2011年11月10日木曜日

思い立って

今は暗くなって寒くなるのはだいたい夕方の4時半ぐらいです。時計を見ましたら2時半でしたから、帰りのルートは有料道路(高速)を使うことにしました。

 甥っ子の哲ちゃんにたのんで、私の軽自動車にETCとカーナビを装着してもらったのは9月の末のことでした。その試運転をしないままに過ごしていましたので、いずれかの機会に試そうと考えていました。それには、旧神泉村訪問もいいのではないかと想定していました。

 地図でみれば我が家から北西へ秩父に進み、北へ転じて山を越えれば群馬県境すなわち旧神泉村の辺りに辿りつける。それがおもしろい、かねてよりそう考えておりました。本日はお日柄もよく、いざ思い立ちました。再会した時にいただいていた名刺の住所を登録して目的地に設定し、我が家を出発したのは朝の9時ごろでした。

 秩父まではくねくねの登り道をひたすら行きます。制限速度は40kmのはずですが、仕事の車でしょうか、みな急ぎます。追い越し禁止の道路ですので流れにのって迷惑を掛けない程度に進みますが、ハンドルを切るのが忙しくてなりません。正丸峠を越えてようやく秩父盆地に辿り着き、街中の見覚えのある秩父神社で右折して北に転じます。そこから先はカーナビ頼りでした。山道には違いありませんでしたが、もっと険しいものを想像していましたので峠を越えたらしいところで神泉村が見えたときには拍子抜けいたしました。山を降りてまいりましたら、見覚えのある交差点で、目的地はすぐその近くでした。

 日中は薄日の射す暖かい日和で助かりました。正門の手前の駐車場に停めましたのが、出発してから2時間15分後。約6、7年ぶりでしょうか、「御用蔵」と称する工場とお店が隣接する施設です。昔懐かしいお味噌の匂いが漂います。ところが、ところがです。門には「本日は閉店しました」の看板が立てかけてあります。そういえば、人影がみえません。今日は水曜日、何も確かめもせずに出てきましたので定休日かもしれません。せっかく来たのにね、と念じながら窓越しにでも覗いて行こうと考えました。確かに人気を感じなかったのですが、入り口のドアに立ちましたらなんと開きまして、店員さんもお客さんもいるではないですか。確かめましたら営業しているとのこと、また拍子抜けしたのでした。

 店内にお目当ての「べったら漬け」をすぐみつけました。「新もの」とPOPがしてあります。今度の土日は、樽から出したばかりのものを称して「生べったら漬け」として、市を開きます。その「下見に」と思い立って来てしまいました。こだわりの料理を出してくれる庵があるのですが、あいにく予約でいっぱいで1時半なら空いているとのことで、あと2時間もあります。バスで団体の人たちが来たようでした。せっかく来たのだし、つまらないところで昼食をとるよりは「こだわりの」という「御膳」を食べて帰ろうということにしました。

 近くのガソリンスタンドで給油をし、そこで三波石峡と冬桜の場所を訪ねました。冬桜は桜山公園がまだ見頃ですぐそこだというので、まずはそこに向かいました。川を渡れば群馬県です。看板が出ていて案内をしてくれるのですが、ここに向かったのが間違いでした。往復10kmもあり、しかもその名の通り山の上で、なかなかの見どころではありましたが、そこだけで時間をとられてしまい、お目当ての三波石峡には行くことができませんでした。

 予約の時間に帰り着き、ようやく「豆々菜々御膳(1,500円)」にありつけました。食材にもこだわっていますが、庵の調度品にもこだわりというか品のよさがあります。再度、お店に立ち寄り見学コースから味噌木樽を見、玄米味噌やべったら漬け、チカさんへのお土産などを求めましたらもう2時半をまわっておりました。

 下見のつもりで、ちょっと行ってすぐ帰ってくる積りでしたのに、こういう展開になってしまいました。マイカーをKカーにして私は高速に一度も乗ったことはありませんでした。関東での高速道路運転は実に久しぶりです。ETCは順調に作動いたしました。ターボエンジンのアクセルを踏み込む足の緊張と、手には汗の感触がありました。

 村の景観、味噌蔵のこと、配管の並んだ食品工場内のこと、ここの水のこと、畑のこと、山羊さんのこと、いろいろ想い出しました。指示を受けて当時スタッフとして種を撒き、今につながっています。土日には「べったら市」もありますが、それも兼ねて大豆トラストの収穫体験もあるように聞いています。

 往きは山越えのルートで2時間15分、還りは高速経由で1時間半(高速料金1000円)。思いがけず、埼玉県の北の端をぐるっと一周してきたことになりました。

 畑にお地蔵様が似合っていました…。
 そう、浅はかな思い立ち政策「TPP」でこの国の成り立ちとなりわいを滅ぼしてはならないと考えています。またしても、アメリカへの白紙委任的「開国」。「開国」ならいいではないかというおめでたさ、または無関心と他人事。我が身にふりかかるころに気付いてもあとの祭り。
 今日から「騒然!ならじ!」

2011年11月8日火曜日

深い呼吸

指圧の先生に、「ひとつ気付いたことがある、呼吸が浅い」と言われた。
細く長く息を吐くと、その分深く息を吸えますからと忠告された。

そうか。

他人と比較をしない。自分をみつめる。内面をみる。深い呼吸。ガス抜きのポーズ。

3・11以来体重が2kg減った。それを維持してきたのに、4kg太っていた。ここのところ、映画を観続けて、疲れては陽だまりで居眠りをし、それを繰り返した。

NHK「こころ旅」を観ては、ゼーゼーハーハーでもペダルを踏むことを夢想している。自転車どれにしよう。風呂に入りながら“オハラゼンサクさん”は少し歩かねばとも考えた、8000歩。

ぷーっ。どなたですか(うちには二人しかいません)。

おかあさん、明日の朝の米は何合研ぎますか、ええ、今日中にお茶碗洗いますから。毛糸編み始めてください。それと0時から、世界ドキュ「ギリシャの悲劇」始まりますよ。ええ、いま洗いますから。

2011年11月4日金曜日

飲み会のあと

 私には「キセノン」が「キャノン」に思えて仕方ありません。ダジャレ言っている場合ではありませんのですが。

 ちかごろ我が家では、私のことを「おはらしょうすけ」さんから「おはらぜんさく」さんと呼ばれるようになってきましたね。・・・。thh、hmm。

 夕方からは夏ものの半そでシャツに相物のジャケット、冬物のズボンを着用して池袋に行ってきました。西口はネオンがきらめき、久しぶりの都内はまばゆいばかりでした。大分のSさんとは、私の退職以降初めてお会いしたからです。いっぱい飲(や)ってきました。突然だったので「驚きましたよ」と何度も言われましたね。

 帰りの遅い電車は久しぶりの立ちっぱなしでした。驚いたことに息子と同じ電車でした。通常だろうが遅番だろうが、帰りはいつもこの電車だというのです。家に帰ればこれから夕食だといいます。「若者の長時間労働」の見本が身内にいます。

 「おはらぜんさく」さんにも言葉がありません。

2011年11月3日木曜日

「被爆者の声をうけつぐ映画祭2011」

 今週末、明治大学で「被爆者の声をうけつぐ映画祭2011」が開催されることを知りました。ドキュメント映画をまとめて観られます。以下、紹介します(ホームページより引用)。

開催日;11月5日(土)・6日(日)の2日間の開催。
会場;明治大学・リバティータワー(1階1011教室) (アクセス:御茶ノ水駅から徒歩3分)
11月5日(土) プログラム1、特別企画、プログラム2
11月6日(日) プログラム3、4、5
主催:明治大学軍縮平和研究所/被爆者の声をうけつぐ映画祭実行委員会
協賛:日本原水爆被害者団体協議会/被爆者の声をうけつぐプロジェクト50
※各回完全入替制、全作品DVD上映
【入場料金】チケットの価格と入手について
※シンポジウムは一律500円
前売り 大人1,000円/学生・こども500円、
当 日 大人1,200円/学生・こども800円
★上映会場は、一プログラムごとの入れ替え制です。
【お申し込み・お問い合わせ先】
共同映画㈱ 03-5466-2311
ウイング・コア 03-3232-7867 (FAX)03-3205-8958

2011年映画祭プログラム

◆(1日目)11月5日(土)
プログラム1 10:00~12:00
・開会の挨拶
・「原爆症認定集団訴訟の記録 にんげんをかえせ」
ドキュメンタリー/2011年/85分/カラー
撮影:磯部元樹 構成演出:有原誠治 製作:原爆症認定訴訟・記録集刊行委員会
内容:「私の病気は原爆によるもの」と主張しても、原爆症と認められるのは全被爆者の中のたった1%未満。アメリカに配慮し原爆被害を絶えず過少評価する日本政府の原爆症認定基準を正すために、被爆者たちが全国で集団訴訟を起したのが2003年。原告たちは病に倒れながらも次々と勝利し続け、国についに認定基準改定を約束させる。被爆者を祖父に持つ青年が、コツコッと撮った貴重な映像記録。

お話:弁護団と原告の代表と制作スタッフ

特別企画 シンポジウム「いま、フクシマは」13:30~17:00(開場13:00)

 2011年3月11日、東日本大震災によって、40年間誤魔化されていた「リスク」が発露した。集団避難、農漁業への深刻な影響、そして子どもたちに突きつけられた放射線「許容量」……。福島第一原子力発電所の事故は、これまでの生活だけでなく、フクシマに暮らす人々の将来をも脅かしている。村の再建を目指す人たち、子どもたちと向き合う親や教師、地元のジャーナリストなど、見えない放射能の恐怖と向き合いながら暮らす人々の声に耳を傾け、フクシマの「いま」を考えたい。


基調講演:「お金の世界から いのちの世界へ」菅野典雄(飯舘村長)
・パネルディスカッション
 パネリスト:菅野典雄、藍原寛子(フリー・ジャーナリスト)ほか
 モデレーター:小林典子(福島中央テレビ報道部長)

 ※参加費:500円(入場先着順)

プログラム2 18:00~21:00
「黒い雨」
劇映画/1989年/123分/モノクロ/監督:今村昌平
内容:今村プロなど製作、井伏鱒二の原作を石堂淑朗が脚色、今村昌平監督が映画化、川又昴のモノクロ撮影も冴え、カンヌ国際映画祭の高等技術委員会賞。広島で被爆した若い女性高村三須子(田中好子)に迫る原爆症の恐怖を静かに見つめる。北村和夫、小沢昭一、三木のり平、市原悦子らの共演。音楽は武満徹。

お話:増田善信(気象学者)

◆(2日目)11月6日(日)

プログラム3 10:00~12:00
「24000年の方舟」
ドキュメンタリー/1986年/33分/カラー
製作:「24000年の方舟」映画製作委員会 製作:鵜久森典妙
構成・監督:高橋一郎 撮影:山添哲也
内容:青森県、六ケ所村の核燃料処理施設の問題点をいち早く追及した。先駆的な問題作。深夜、町を走るパトカーに先導された核燃料輸送車の列、「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故、東海村燃料工場の火災、爆発事故など。核燃料サイクルの危うさを海外の豊富な映像を駆使して伝えている。

「隠された被曝労働~日本の原発労働者~」
ドキュメンタリー/1995年/日本/24分/日本語(英語字幕)
イギリス・チャンネル4制作・イギリス放映、原題NUCLEAR GINZA
日本語版制作:岩佐基金
内容:日本のテレビ界では原発労働の暗部を巡る番組制作は事実上、タブーとされてきた。フリージャーナリストの樋口健二は、放射線に身を曝して働く原発労働の実態と、幾重にもピンハネされる下請け差別構造を取材してきた。イギリス・チャンネル4は、この樋口氏をレポーターとして起用し、闇に包まれていた被曝労働の過酷な実態を暴いた。原発労働で被曝した岩佐嘉寿幸さんの裁判を支える岩佐基金が、日本語版を制作した。

お話:樋口健二(フリー・ジャーナリスト)

プログラム4 13:00~16:00
「六ヶ所村ラプソディー」
ドキュメンタリー/2006年/119分/カラー
監督:鎌仲ひとみ 製作:グループ現代
内容:過疎化と高齢化が進む青森県六ケ所村は、高度経済成長期、巨大原子力産業「使用済み核燃料再処 理施設」の受け入れを選んだ。村人の中には、放射能汚染の無い暮らしを守ろうと反対す る者もいれば、新産業のもたらした恩恵の中に生きる者もいる。国家政策と巨大企業に翻 弄され続けてきた彼らの生活にとって「原子力発電」はいかなる貌をもつのか。六ヶ所村 で響く狂詩曲に、鎌仲ひとみ監督が迫る。

お話:鎌仲ひとみ(映像作家)

プログラム5 17:00~18:30
「棄てられたヒバク~証言・被災漁船の50年目の真実~」
ドキュメンタリー/2011年/57分/カラー
制作著作:南海放送 ディレクター:伊東英朗 チーフプロデューサー:大西康司
ナレーション:戒田節子 朗読:保持卓一郎
内容:1954年、アメリカのビキニ環礁での水爆実験によりマグロ漁船、第五福竜丸が被災してから半世紀以上が経った。当時、第五福竜丸以外にのべ1000隻の被災漁船が存在したことは広く知られていない。被災漁船の実態を25年以上にわたり調査している元高校教師に同行して、ビキニ被爆の実態を取材する。新たに発見された米原子力委員会のビキニ水爆実験の機密文書の内容も紹介。

お話:伊東英朗(ディレクター)

風雲急なりTPP

 2日目にしてカレンダーを11月にようやく取り換えました。どうも所作が緩慢になっています。

 今週の日曜日の朝刊(「朝日」10月30日付)をめくって目をみはりました。
 「知っていますか?TPP」という全面広告が掲載されていましたから。

 この問題に関しては風雲急を告げています。
 現政権は新自由主義的傾向大ですから、「やる気」でしょう。こうなれば狡猾な「小泉構造改革」の再現で、この国の成り立ちが再び破壊されることでしょう。この(意見広告)が提起するように、まさしく、私たち自身に関係する問題です!
 曰く「TPP(環太平洋連携協定)は、農林水産物の関税撤廃による地域経済・社会への甚大な影響にとどまらず、わが国の優れた医療制度や、金融・保険などのあらゆる分野に関係し、私たちの食・暮らし・いのちに直結する重要な問題」ですから。

 掲載をしたのは「TPPから日本の食と暮らし・いのちを守るネットワーク」という組織で「考えてみよう!TPPのこと」というHPも立ち上げています。幹事団体は、全国農業協同組合中央会、全国農業会議所、全国漁業協同組合連合会、全国森林組合連合会、生活クラブ事業連合生活協同組合連合会、大地を守る会、パルシステム生活協同組合連合会、社団法人中央酪農会議、他 で構成されています。農畜水林の生産者と消費者が共同で取り組んでいる形になっています。

 早くからこの問題の本質を敏感に受け取り、一部の政党をはじめいくつもの生産団体や組織が警鐘を鳴らしこの問題に検討を加え批判的態度いや反対を鮮明にしてきました。私たちの食糧や生き方や環境などの根幹に関わることですから、当然のことです。地球の資源と人の労力を浪費し続けなければ「成長」はない資本主義という仕組みの行き詰るところの「一プロセス」に私には思えます。

 かつて私たちの先達たちが、平和や核兵器廃絶の問題は生活や生き方に直結する問題だとして取り組んだ積み上げがあるにもかかわらず、私の前の職場は、少なくとも夏の時点では、この問題(TPP)については論議の素材を提供しようという立場だったように理解しています。(2011年度活動方針)で「TPPなど広域自由貿易協定について、幅広い視点から論議を行い、くらしを守る立場から取り組みを進める」ことを全国に呼びかけてきましたというものです。私には実に緩慢な動きに見えました。これはこのたびの原発事故への姿勢にも同様ものを感じました。そのような傾向が残念であった理由の一端でもあったような気がします。

 とはいえ、生活者にとっては重要な政策でもありますので、前の職場は11月1日に「TPP(環太平洋連携協定)に関する要請書」を政府に提出しました。要請の中味は、全国の仲間の取り組みをふまえ、国民的論議を一層促進していく視点から、「1.プロセスの全体像について明確にしてください。2.国民的論議のための情報発信を強化してください。3.国内農業の再生に向けた政策の具体化を早急に進めてください。」というものです。抜き打ち的にTPPに参画しようとする動きにたいして、幅広い運動にも成りえていない元の職場の緩慢さや不明確さは、大きくなったズータイの小さな脳(考える力)と身体能力という皮肉を描かざるをえません。大量生産(ものの豊かさ)と価格の安さが人間の生活や生きづらさの解決にはならないという、TPPで描かれるものの奥底にこれは見透かされるもので、見抜けなかったのか動かないとしているのか疑問に思っています。

  「知っていますか?TPP」という全面広告は機を逃さない提起になっていました。

2011年10月27日木曜日

ペダルを踏んで(2-1)



 ハローワークは隣町にある。電車で二駅。電車賃がもったいないので自転車で行く。何度か通った。9月には二度ほど帰りに雨に祟られびしょ濡れになった。幹線道路は交通量が多くおっかない。それで段々に脇道抜け道をみつけていった。今日もそうだ、武蔵野の林の中の道と農道。住宅街の中の道。

 震災の直後、停電や「計画停電」があってまともに電車が動かぬと思われたので、量販店ではなく近くの自転車屋さんでブリジストン製を求めた。三段切り替えのママチャリ。やはり国産のブランド品は乗り心地が安定している。つれあいがこれを使って隣町の職場に通ったのは一度だけだった。電車がストップしなかったからである。それで、今は私がたまに使わせてもらっている。ちょっと遠出に使う。

 どこか心の奥底に自分は欠陥人間だという自覚がある。そうでありながら、それを逃れるように自愛している。思えば高校のときからそうだ。そんな自分に北杜夫さんの作品は相性が良かった。「どくとるマンボウ」は洒脱な装丁とイラストに惹かれて手に取り、高校時代夢中になって読み漁った。それなのに、もう中味は覚えていない。本は確かどこかにとってあるはずだけど…。

 昨日はチカさんのお見舞いに電車とバスを乗り継いで行った。久しぶりに地元デパートの本屋さんに寄るがろくな品揃えはないように感じてすぐに飽きる。思えば、私の郷里の本屋さんにもろくな本はなかった。岩波文庫すらなかった、あるのは受験参考書ばっかり。つれあいが編み物を勧めようと入門編の本と毛糸玉を買い求めた。

 2年前にできたばかりの都立の総合病院。今様にできていて勝手がわからない。チカさんのような危険な状態の妊婦さんは即入院となったらしい。ここは彼女の実家からも遠くはない。まだ6か月なのに、細身のお腹がつきでるように目立ってきた。歩くことはできるが、今のところ四六時中点滴状態でいるそうだ。お見舞いに編み物の本と毛糸玉を渡す。読み物はできるらしい。好みがわからないけれど、北杜夫の文庫本でも貸してあげようかと申し出た。ああ亡くなった方ですねと、当日のニュースは承知していた。

 帰ってきて、あらためて地図をみたらその都立病院までは隣町のハローワークまでの距離の倍ある。つまり自転車で、片道約1時間で行ける算段だ。さらに渋谷まではこの2倍ある。ということは約3時間。机上では日帰り往復が可能だ。

 自転車に乗ってさっそうと駆けて行く自分を思い描く。それは高校時代にも夢想していたことだ。実際には汗だくで顎を出して、途中でくたばるのが落ちかもしれない。中高校時代、故郷の町から県都まで片道3時間、車優先の国道3号線を何度か往復した。オンボロ自転車で。気概があった。

 業界は自転車用のナビに力をいれるらしい。関西系の大手の自転車専門店のチラシを捨てずにとっていてたまに溜息をつきながらながめている。

 いい匂いがしてきた。つれあいが今日届いた生協の紅玉でリンゴジャムをつくっている。鼻歌まじりだ。

 段々に遠出をしてみようか。