2009年7月31日金曜日

選挙目前 !集会


 何度検索しても出てこないはずだ。御茶ノ水に行くのにどうしてもJR御茶ノ水駅に誘導される。千代田線は新御茶ノ水駅だった。それで地下鉄に駆け込んだ。表参道で乗り換えればよい。こんな話をすればあまり東京さ出て来たことのない妻殿は目を星にする。

 7月も今日で終わりだ。陽が照らなかったなぁ。日が当たらぬオレの人生だとかなんとかまたつまらぬことをつぶやく。薬剤禍、食中り、くたばり損ねた。昨年もブログの様子では夏バテしている。でも、社会に目覚めた!とばかりに湯浅誠氏のおっかけをしている、「ミナミハルオでございます」とばかりに出てきたら、キャーと言いかねない、…などとハマタヌ氏は思っているかもしれない。実はその通りだ。

 今日は『選挙目前!!集会「私たちが望むこと」』だった。

 反-貧困ネットワークは07年7月に創立されている。今日の集会が「反貧困全国キャンペーン2009スタート企画」なのだそうだ。定員300名の総評会館の会場にぎっしりと350名が押しかけた。熱気!ひとことで言えばこういうことだった。若者が比較的多く来ていて希望がつながる。
 1)若年・奨学金、2)母子(生保)・DV、3)障害、4)年金・医療(後期高齢者)、5)医療、6)労働・職業訓練、居住・ホームレスなど、7)日系人、外国人労働者、8)官製ワーキングプア、9)中小企業、の各分野の当事者、支援者のひとたちが、つぎからつぎと発言、提言、報告、をした。そしてかけつけた各政党の人たちがその合間にあいさつと報告をした。夜の7時から9時までだったのでひとりひとりの時間は短かかったが、ここまで広く深刻な事態が進んでいるかと思い知る。

 昨年10月以来22万9千人が仕事を失い、その6割が派遣労働者。自殺者は3万2千人を越えているが、そのうちの経済生活苦によるものが7千人を越える。炊き出しに並ぶ人は昨年の2、3倍だという。07年の参議院の選挙の前に「貧困問題に取り組まない政治家はいらない」とアピールした。今回は8月6日までに各政党に反-貧困の要求16項目と政策17項目を届ける。

 お隣に座っていた人はどこかで見た御婦人だなと思っていたら、郡山のパナソニックの偽装派遣を告発して裁判で闘っている佐藤昌子さんだった。春の反-貧困フェスティバルで報告を聞いていた。

 帰りは丸の内線御茶ノ水駅から乗ろうとして、左に曲がるところを間違え30分近く道に迷った。東京は不案内だ。

「集会宣言文」

 総選挙が一ヵ月後に迫っています。問われているのは「どの政党の誰がふさわしいか」だけではありません。私たちが、どのような政府、どのような「国の形」を求めるのかが問われています。

 以前から進行していた生活の不安定化に昨年秋以降の大不況が拍車をかける形で、日本社会の貧困化が止まりません。生活相談・労働相談・自殺防止相談の各種窓口はどこもパンク状態で電話もつながらず、ホームレス状態にある人たち向けの炊き出しに並ぶ人々は昨年の2倍から3倍に急増しています。年末年始の派遣村以降も、「雇用壊滅」とも言われるさらなる雇用環境の悪化や雇用保険切れなどの影響で、事態はますます深刻化しています。
 しかしながら、「第二のセーフティネット」は依然として始まらず、労働者派遣法の抜本的改正も果たされませんでした。生活の成り立たなくなった人たちの多くが放置されている状況は、依然として何も改善されていません。そして、この現状の改善を政治に反映させたくても、少なからぬ人たちが投票によって意思表示する機会を奪われている状態です。

 私たちは何年も前から、貧困化する日本社会の状況を憂い、「人間らしい生活と労働の保障」を求め、そして「貧困問題に取り組まない政治家はいらない」と訴えてきました。今、それを改めて、より一層強調する必要を感じています。
 貧困問題に関心を寄せる私たちは、すべての候補者に国としてただちに貧困率を測定し、貧困率の削減目標を立てるよう求めます。そして、次期首相が国会の施政方針演説で、日本国政府としてその実行を宣言することを求めます。
国の経済力は経済成長率で表されてきました。国の健全さを表す指標は何でしょうか?
90年代以降、経済成長を遂げれば人々の生活も豊かになり、貧困も解消していく、という相関関係は崩れました。経済成長率と貧困率は独立の変数として見る必要があります。経済成長を遂げても、貧困が増えるのであれば、「何のための経済成長か」と問われる必要があります。二つの指標が政策評価指標として十全に機能して初めて、一人一人の健全な生活を基礎にした成長、「安心」と「活力」を両立できる社会と言うことができるのです。
私たちは、貧困の少ない社会、貧困を減らしていくプロセスにこそ、国の健全さを見出します。貧困の多い国は病んでいます。貧困があるのに、それを直視できない政府はもっと病んでいます。
 OECDは、日本の8人に1人が貧困状態にあると指摘しました。子どもの貧困率は7人に1人、一人親世帯では3人に2人に達します。相対的貧困状態にあると言われるこれらの人々の多くは、服を着て靴を履いています。一日三食ではないかもしれないが、ご飯も食べているでしょう。それを見て「まだ余裕がある」と言う人がいるかもしれません。しかし、私たちが築いてきた社会は、そんな情けないものだったのでしょうか。政府から「まだまだ絞れる」と言われる社会が、私たちの社会なのでしょうか。私たちが求めているのは、誰もが人間らしく暮らせる社会、そしてそれを可能にする政府です。
 政府は1965年以来、貧困率の測定を行っていません。つまり私たちが求めているのは、貧困問題に関する半世紀ぶりの政策転換です。すでに複数の官民による信頼できる試算がなされており、貧困率の公認は、貧困問題を直視し、それに立ち向かおうとする政権の「意思」の問題となっています。貧困問題を解決する「意思」を欠く政府に、私たちは私たちの生活を任せることができない。
貧困と向き合う政治的な意思、それを可能にする選挙結果を、私たちは「反貧困キャンペーン2009」に参加する全国各地の人々とともに、求めます。

 以上、宣言します。
                2009年7月31日集会参加者一同

 私も拍手でこれに賛同した。満場の拍手で承認された。
暮らしと生活が成り立たなければならない、格差という差別が克服されなければならない。

結果


あたってしまっていた。3億円ではない…。

水曜日に再度病院に行った。土曜日にお電話したのですが-、はぁ外出しておりました。「カンピロバクター」でした、コピーして渡しましょう。それで「原因は鶏の生食です」と断定されてしまった。今、症状がないのであれば完治しています、はいお大事に。
食中りだったのか…。たしかに半端ではなかった、つらかった。

私のところの食文化を否定されたようでやや複雑だが、食中毒のことは職場で勉強会をしたばかりだった。とくに鶏のカンピロバクターは印象に残ったのだったが。絵に画いたようにあてはまってしまった。思いおこせば、料理店でもスーパーでも買って食べたから特定はできないがいずれかにあたったのだろう。同じものを食べたつれあいは何とも無かったのだがと聞いたら、食べた鶏刺しの部位、或いは体調さまざまに条件が違うのでありうると。

食中りは若いときにマレーシアで経験がある。酔いの覚ましに屋台で食べたもののなかにえびの食感がおかしいと感じたのだったが、あとの祭り。その夜、ものの見事にあたってしまった。高い天井に張り付いた蛾とヤモリを仰ぎ見ながらウンウンうなり一晩中洗面所を往復し続け、トイレットペーパー1ロールを空にした。七転八倒だった。夜が明けて、地元の方(フェン)さんに連絡をとってもらい、医者の往診をたのみ、その後事なきを得た。このときも、仕事柄えびの鮮度のことは十分学習をしておりながら、あたってしまた。

方(フェン)さんの三代前は中国の潮州。東南アジア方面への華人の出身地では有名なところ。方(フェン)さんは「兵隊さん、ありがとう」を歌える。太平洋戦争当時、英軍の東洋艦隊の基地であった当地はいち早く占領された。「東洋の真珠」といわれた地である。マレー半島とは大きな架橋でつながっている。「国民学校」に通ったから、日本語ができる。日本軍がおこなった華僑虐殺の碑のことは語ろうとしない。

健さんは「傷だらけの人生」で売ったが、私は“スキだらけの人生”のようだ。

いや、ときに西洋医学は役に立つ。もちろん、そのまえに体力維持、身体の柔軟性づくりだが。食中毒とは、げにつらいものである。用心、用心。

2009年7月30日木曜日

小佐渡行(後編)

 私の故郷は大きな川が流れていて四方を丘というか山に囲まれている盆地だ。町から見える丘のひとつが東側を皿山(あるいは寺山)、南側を清水が丘という。いずれも約300m。登れば町が一望でき、見晴らしがよければ海と彼方に甑島が見える。小さい時、これらの山に登るのは遠足だった。弁当をもってぜーぜー言いながら父親のあとについていった。さつまいも畑かあるいはせいぜい牛を飼っていた戦後の開拓農民の居場所だった。今なら道路ができてしまって車でものの15分だ。皿山には憩いの広場という展望台ができ、清水が丘には自衛隊の駐屯地ができてしまった。

 野浦の裏山はその高さ以上にあって、南に面した棚田が続く。この稲作を手伝っていたYさんたちは、それは足腰が強くなるはずだ。苦労はしただろうけれど、この海に続く美しい光景をみれば思考がひろがるのも頷ける。稲束をかついで降りてきたという。

 前日の歓迎の宴会(交流会)で自己紹介をしていただいた北野源栄さんは特別栽培米を作り続けている。MOAや地元の生協その他に出荷している。何が大変かと言えば「草と虫」。山岸修さんは親から引き継いだとき棚田は83枚あったという。有機栽培を始めた。道具といえば、草を刈る道具と竹で編まれた虫を捕獲する道具とあとひとつの3つだけですと。捕獲した虫はどうするんだろうとYさんに聞けば「そのへんにぶんなげるんだろう」、いやつぶしますと山岸さん。弁舌さわやかなYさんの言うことが細部までいつも正しいとは限らない。山岸さんは小柄で高齢な方だが田んぼが運動場だとおっしゃる。

 会う前に吉村さんからあの人は目が「トキ」だと教えていただいたが、何のことかわからない。交流会の夜、中島明夫さんがパワーポイントを使って、トキの観察の内容とトキと人間が共生するための環境づくり、有機栽培の田んぼづくりやビオトープづくりなどを紹介。そして翌日は野浦の棚田、耕作放棄地のビオトープ化(棚田景観の復活、棚田のトキの餌場としての活用)とあちこちとを案内していただく。ここがトキの飛翔路ではないか、あっちからこう降りてきて、こっちから上昇気流にのってくるのではないかと、指し示し教えていただく様子を見てやっとわかった。「目がトキになっている」頭の中はトキだ、トキの仲間を識別できる。翼がないだけで、中島明夫さんはトキなのかもしれない。よく整備された「佐渡トキの話題」というブログhttp://sado-toki-no-wadai.cocolog-nifty.com/がある。

 佐渡には文化があるよと自慢する。誰もそれも流人も「草木がなびく」ようにみんな来たんだ、信長に追われた雑賀衆も。能、歌舞伎、そして野浦には文弥人形芝居がある。

 佐渡の海産物は業界ではブランドだ。いいものは築地に飛ばす。暖流系のものが多いように思うが、北限でモノがよい。また棒ダラなど北の食文化もある。スケソータラの煮付けもごちそうになった。鮑やサザエが盛りだくさん。「今朝採ってきたっちゃ」とおっしゃるのはあごに髭を蓄えたこの村の神主の臼杵秀昭さんだ。くるくるくるっという目をした活動的な方で地域のために多忙だ。人手不足らしく近在のあちこちの神主も兼ねる。まだ若いから中島明夫さんと一緒になって耕作放棄地のビオトープ化など環境を維持、活用する活動も買って出る。ほら、あそこも機械入れてそれを操縦したのはあの神主さんだと教えていただいた。「こちら佐渡 野浦 情報局」というブログで日々のこの辺の地域のことがよくわかる。http://wind.ap.teacup.com/applet/noura/20090729/archive

 野浦は半農半漁そして半林業で食ってきたらしい。北前船も寄航したし、さかのぼれば越前行きの航路もあったらしい(文弥人形「阿心丸船出の段」の題材)。りっぱな木材を使い、家を建てた。梁や柱に漆を塗った。Yさんのお宅だけのことではないだろう。営々と築きあげられた奥の深い生産諸力と結(ゆ)いの力があったのかと推測する。過疎化は例外ではない。それを「秀麿様」たちが必死で維持再生しようとしているように垣間見させていただいた。

 そのひとつが今回私たち一行のお目当てのひとつだった「芸能の里フェスティバル」だ。第10回という。実行委員長はあの神主さん。直前にたたきつけるような雨が降って、いざ始まれば雨があがる。まさに神がかりだ。

 野生のトキの最後の営巣地であったのがこの野浦だ。だから一層、「トキと共生できる里づくり」というビジョンを描いており、農業の実践があって、豊かな伝統芸能の伝承、後継者育成を図っている。

 春駒とかいて「はりこま」と読む。三河の万歳のようだなと思ったら、やはり祝い事の芸能であるらしい。若者と子どもが演じる。

 当日の朝だったか、Yさんの兄上から、観てひとつよかったらワンコインいや札だな、包んでやってくれと頼まれる。いわゆるおひねりですか、そういうことだ。よろこぶ、はげみになる。ただし千円以上はだめだ。昨日、料理を仕切ってくれたレイコ(さん)が踊る。剥き出しではなくこうちりがみに包んでだな、わかるように渡してやってくれ。胸元から手を入れるようにだな、やっていい。兄上は朝からビールだ。

 お目当て中のお目当て「文弥人形芝居」が2題演じられる。上方、岡本文弥の文弥節の語りによって演じられる一人遣いの人形芝居であって、何人かで操る人形浄瑠璃とは違う。顔の表情は変わらぬから遣い手の「迫真」で表情を読み取るのだよ、とYさんの兄上。兄弟して気合の話や理屈がうまい。演じ手をみればなんと今朝、有機栽培の田んぼの農法をけなげに朴訥にお話くださった北野さんではないか。「迫真」だから演じているときは人間が違う。ひとりで操るのは重く、それなりに難しいらしい。右手で扇子、刀、弓矢、艪などを、左手で首の向きと人形の左手を同時に操るらしい。
昨夜の交流会で御紹介いただいたみなさんがそれぞれに大車輪で出演されていた。

 舞踊にいよいよレイコさんが登場。4枚のおひねりのひとつを受け持つ。始まるや否や、早速Yさんが行けと合図するが、ここは硫黄島ではない。拙速はせぬ。やはり演技を観てそれがよかったよという意味だと思うから、じっと鑑賞してから、江戸に出てきた強訴農民のようにおひねりを高々と掲げ走りよりおもむろに舞台に置いたわけでありました。芝居がかったことをしたわけですが、まっ、カッコをつけたかったわけです。レイコ姉に通じたのでしょうか。

 料理もおもてなしも田んぼめぐりも観光も大変お世話になりました。初めて訪問したのであって、かすっただけですから全てではないし、ひょっとしたら間違って理解してしまったこともあるかもしれません。その点ご容赦ください。ただ、さわりをさらっと見たような佐渡観光ではなくて、人との(現在のひととも過去のひととも)つながりを少しつくれた旅でありました。主催者の「あったかキャッチボール」はそのことを特長にしています。

 「草木もなびいた」佐渡を少し理解できました。Yさんの元気の源泉もみつけられました。

2009年7月29日水曜日

小佐渡行(前編)

 島について私のイメージするのは「離島」。
暮らしや産業が大変なところという私の知る限りからのイメージである。

 しかし佐渡は豊かな島だなとの印象をもった。

 地図を見てもまったくそのとおりの海岸端にへばりついたような古い集落のYさんの実家を訪れた。その限りではどうやって暮らしてきたのだろうという、昔の天草や甑島と変らぬ印象だった。

 歓迎の宴に集まった村の主だった人々の言葉、親戚縁者の人たちが心をこめて作ってくださった地元の料理(海山の豪華な)、を聞いて見て食べてこれは西日本(上方)系だなと思った。お煮しめは遠く離れた九州の片田舎の味付けと変らないなつかしい味付けだ。明日は集落の祭りで「芸能の里フェスティバル」という。それが目当てで寄せていただいた。

 海岸通りから一軒奥まったYさんの実家に足を踏み入れてまず、たまげた。太くてりっぱな梁、大黒柱。その梁がぜいたくに使ってある。漆塗り。聞けばひいじいさんのとき、約150年前に建てたという。私の故郷の尺度から言えばこれは「お屋敷」だ。床の間の座敷は既に開け放ってあって、大宴会の準備をみんなでやる、こうなれば合宿所並みだ。何人入ろうが座敷は広い。

 ジェットフォイルで佐渡港に着けば“いかにも”の「♪佐渡おけさ」で迎えられる。私は初めての訪問。故郷自慢するのでいつも話だけはYさんから聞いていた。着いて初めに大佐渡で標高800mぐらいの眺望のよいところ(トンデン山)に車で一気に登って昼食をとる。ここからは佐渡の島が地図の通りに見えた。北西側に走る山地を大佐渡(おおさど)、南東側のそれを小佐渡(こさど)と言うらしい。その間に田んぼの緑が鮮やかに広がる国仲平野を左手に見て、妙宣寺に向かう。島に流された日蓮さんのゆかりの寺だ。ここに、島の宮大工の棟梁親子たちが二代かかってつくったという五重の塔を見学する。釘を一本も使っていないらしい。縁起をみると1825年の建立。佐渡の力だけでこれほどのものが建てられ、その耐震構造においては、現代のビルの構造にもおおいに取り入れられた技法なのだそうだ。最後に、今はもうこの島にしかない「トキのセンター」を見学する。

 Yさんの村は「野浦」という。小佐渡の北端をまわり東南側(新潟に臨む側)に面して3、4個所の集落を越えたところにあった。浦という地名の通り船着場であったらしい。北前船があの大きな岩場の風向きによってこっちかあっち側に停泊したのだと。縁起をみると往時には4軒の船宿があったらしい。あの大きなまっすぐな屋根が見えるだろう、あれがかつてはそうだったとYさんの兄上から教わる。

 こんな山の端の海岸の集落のどこに田んぼがあるのかと聞いたら明日案内する段取りになっていると。それで案内されて驚いた。集落を山の側に入った道を上がっていけば、いくらでも棚田が続く。それも比較的広く、美田だ。裏山を3~400mのぼったところまで続いていて、もうあそこが稜線だという近くまであった。

逆攻のとき


 初めて親しくお話をするYOさんから思わぬことを聞いた。成田の(今で言う)「野菜ボックス」を届けていたの。鎌田慧さんは家では仕事をしないの。奥さんも「東大」やっていたのかなぁ。俺は若いとき『自動車絶望工場』読んで感動したね。読んだこと無い?名作だよ。お茶をいただいて話をするの。執筆するのは都心にどこかマンションでも借りていたんじゃないのかなぁ。歳とったかなぁ。文句言わずに買ってくれる、こちらもホレっと、どさっと置いていくの。何が入っているかわかんないやつ。成田?勝手に有機野菜つくって、支援してもらうのさ、そういう配達もやっていたんだよオレ。

 YOさんには、突然「アンデス」「インカ」が“降霊”する。あの野太い声で♪コンドルは飛んでいく、他を原語で唄い出す。脈絡はあんまりない、だかあるんだか。

 『いま、逆攻のとき 使い捨て社会を越える』(鎌田慧著 09年5月刊、大月書店)を読みながら、ついこの間のYOさんの話をくすっと思い出す。ちょっと引けるけど、人をひきつけるお方だ。
 
 <以下、反貧困ネットワークから案内をいただいていたので原文のママ>
 7月31日集会が近づいてまいりましたので、改めて集会の告知をさせていただきます。
国会議員の方たちには、ぜひ当事者の声を聞いていただくようお願いします。マスコミの方たちには、取材方お願いします。みなさんに、参加を呼びかけます。よろしくお願いします。

(内容)
■1-1:集会概要
■1-2:呼びかけ文
■1-3:集会宣言文(案)

*****
■1-1:集会概要
反貧困全国キャンペーン2009スタート企画
選挙目前!!私たちが望むこと

日時:2009年7月31日(金)18:30開場 19:00開会(21:00閉会)
場所:総評会館203号室(定員300名)
 JR御茶ノ水駅聖橋口改札より徒歩5分、メトロ千代田線新御茶ノ水駅B3出口徒歩0分
   地図⇒http://www.sohyokaikan.or.jp/access/index.html
参加費:無料(会場カンパを予定しています。ご協力いただける方は、よろしくお願いします)
主催:反貧困ネットワーク
チラシはこちら⇒http://d.hatena.ne.jp/hanhinkon/20090731/1246379504

○当事者発言中心
○各政党に出席要請中
○次期首相の施政方針演説にこれを! 集会宣言(案)あり

*****
■1-2:集会呼びかけ文

小泉・郵政選挙から4年。
私たちはこれから、どういう日本を選択するのか?

2005年の小泉・郵政選挙以来の衆議院選挙がやってきました。あのときは、自民党が圧倒的な勝利をおさめて296議席を獲得。「弱肉強食」の新自由主義政策が、反対意見を軽視して、一方的に進められる政治を生み出してしまいました。

戦後最長の好景気から「100年に1度」の大不況へと、景気が悪化しただけではありません。年収300万未満世帯が増え続け、派遣労働が広がり、「ネットカフェ難民」が生まれ、派遣切り・非正規切りが起き、病院たらいまわしによる死亡事件が起き、自殺者は相変わらず異常な数で、餓死事件まで発生しました。

この4年を、もう一度、噛みしめてみませんか? そして数年間で唯一、私たちではなく議員(立候補者)が頭を下げるこの時期に、私たちの一票を生かしませんか?

選挙が終われば、私たちはまた「タダの人」扱いされます。あとで嘆いても、次の選挙時期を決められるのは、私たちではありません。

数少ないこのチャンスに、私たちの望みを堂々とぶつけていきませんか?

*****
■1-3:集会宣言文(
注意!当日までに修正される可能性がありますので、ご注意ください

 総選挙が一ヵ月後に迫っています。問われているのは「どの政党の誰がふさわしいか」だけではありません。私たちが、どのような政府、どのような「国の形」を求めるのかが問われています。

 以前から進行していた生活の不安定化に昨年秋以降の大不況が拍車をかける形で、日本社会の貧困化が止まりません。生活相談・労働相談・自殺防止相談の各種窓口はどこもパンク状態で電話もつながらず、ホームレス状態にある人たち向けの炊き出しに並ぶ人々は昨年の2倍から3倍に急増しています。年末年始の派遣村以降も、「雇用壊滅」とも言われるさらなる雇用環境の悪化や雇用保険切れなどの影響で、事態はますます深刻化しています。
 しかしながら、「第二のセーフティネット」は依然として始まらず、労働者派遣法の抜本的改正も果たされませんでした。生活の成り立たなくなった人たちの多くが放置されている状況は、依然として何も改善されていません。そして、この現状の改善を政治に反映させたくても、少なからぬ人たちが投票によって意思表示する機会を奪われている状態です。

 私たちは以前から、貧困化する日本社会の状況を憂い、「人間らしい生活と労働の保障」を求め、そして「貧困問題に取り組まない政治家はいらない」と訴えてきました。今、それを改めて、より一層強調する必要を感じています。
 貧困問題に関心を寄せる私たちは、すべての候補者に国としてただちに貧困率を測定し、貧困率の削減目標を立てるよう求めます。そして、次期首相が国会の施政方針演説で、日本国政府としてその実行を宣言することを求めます。
国の経済力は経済成長率で表されてきました。国の健全さを表す指標は何でしょうか?
90年代以降、経済成長を遂げれば人々の生活も豊かになり、貧困も解消していく、という相関関係は崩れました。経済成長率と貧困率は独立の変数として見る必要があります。経済成長を遂げても、貧困が増えるのであれば、「何のための経済成長か」と問われる必要があります。二つの指標が政策評価指標として十全に機能して初めて、一人一人の健全な生活を基礎にした成長、「安心」と「活力」を両立できる社会と言うことができるのです。
私たちは、貧困の少ない社会、貧困を減らしていくプロセスにこそ、国の健全さを見出します。貧困の多い国は病んでいます。貧困があるのに、それを直視できない政府はもっと病んでいます。
 OECDは、日本の8人に1人が貧困状態にあると指摘しました。子どもの貧困率は7人に1人、一人親世帯では3人に2人に達します。相対的貧困状態にあると言われるこれらの人々の多くは、服を着て靴を履いています。一日三食ではないかもしれないが、ご飯も食べているでしょう。それを見て「まだ余裕がある」と言う人がいるかもしれません。しかし、私たちが築いてきた社会は、そんな情けないものだったのでしょうか。政府から「まだまだ絞れる」と言われる社会が、私たちの社会なのでしょうか。私たちが求めているのは、誰もが人間らしく暮らせる社会、そしてそれを可能にする政府です。
 政府は1965年以来、貧困率の測定を行っていません。つまり私たちが求めているのは、貧困問題に関する半世紀ぶりの政策転換です。すでに複数の官民による信頼できる試算がなされており、貧困率の公認は、貧困問題を直視し、それに立ち向かおうとする政権の「意思」の問題となっています。貧困問題を解決する「意思」を欠く政府に、私たちは私たちの生活を任せることができない。
貧困と向き合う政治的な意思、それを可能にする選挙結果を、私たちは「反貧困キャンペーン2009」に参加する全国各地の人々とともに、求めます。

 以上、宣言します。2009年7月31日集会参加者一同

2009年7月28日火曜日

妹さん

 桐原君には一つ年下の弟がいた。醤油製造業の息子さんで家は裕福だった。うちの母たちは戦後のどさくさで軍の隠匿物資を使ってのしあがったのだと陰口を言っていた。町内会、ご近所では初めて桐原君のおじさんはアメリカに行った。そして桐原君の広い家の中で幻灯機を使ってそのアメリカ行きを紹介してくれた。アメリカとはこんなところだ、とか。ぎっしり詰まってホーっとみんなでため息交じりで観たものだった。その時、おじさんはホントの革靴とは歩けばキュッ、キュっと鳴るものだと教えてくれたのが何故か記憶に残っている。

 この幼なじみの兄弟には二つ三つ年下の妹がいた。遊び相手にもしていなかったが、いつか高校生の時あいさつをされてドギマギした、まぶしかった。

 不思議なことにおじさんも、同級生の圭一郎くんもケイジロウくんも早死にした。妹さんだけが取り残されたと母がまだ元気だったころ聞いたことがあった。

 そんなことをふと想い出した。

2009年7月27日月曜日

おかあさん


 Y少年とその母親はこの急な石段を跳躍するように勝手口か玄関に飛び込んで帰ってきたそんなときがあったのかもしれない。そのころ鴇はこの里山を普通に飛んでいたのだろう。俺のときは10羽みたけれども兄貴のときは20羽みたらしい。10年違えば違うな。

 もうみんなで出発するよという時だ。「おう、誰か写真を撮って」ととっさにYさんが言うので、目と目が合って近くにいた私がカメラを構えた。
 Yさんはおかあさんになにか言い聞かせるように話しかけていて、なかなか二人でこちらを向かない。この二日間で話しかけるのは初めて見かけた。職場では偉いさんだが、みているとYさんも私と同じ末っ子の2番目の息子だ。

 この家に招き入れられたときに、玄関を上がった座敷の正面左におかあさんと思しき人が座椅子に座っていた。そうすればこの屋敷の当主であるから初めてお会いするので挨拶をしようと思ったが、皆がまるで「いない人」のように屋敷の中を行き交う。そもそも当の息子の兄弟ふたりが構っていない(ようにみえる)。正面きって挨拶し損ねたのでちょこっとごあいさつをしただけで私もほかの人のように振舞った。

 90歳だとあとで比嘉さんから聞いた。きちんとした身なりで、ここのおかあさんもおしゃれというものを忘れていないのだなと思った。この村の「嫁」というものの重い負担(慣習)を軽減することに立ち向かったとも聞いた。だから村の女たちに慕われた。鴨居に掛けてあった女たち皆で撮った写真がそれを物語る、と。

 親子ふたりの写真を撮って、いよいよ皆でこの家を出るとき、吉村さんがさっとおかあさんのところに行って律儀にあいさつした。私も続いて、それに倣って帽子をとってひとことお礼とお別れのごあいさつをした。それまで遠目にうつろな表情のようにお見受けしていたが、目と目がきちんとあって目に涙が浮かんでいた。だれのお母さんだろうと、いくつだろうと、高齢でおぼつかなかろうとも、末っ子の息子(できのいい息子のようだ)が、遠くから大勢の知り合いを連れてきたのはうれしかったのかもしれない。また、いなくなるのは寂しいのかもしれない。ここのおかあさんよりずっと年上の母親がいるのでわかる気がする。

 どちらのおかあさんも健やかに長生きしてほしい。


  稲の束をかついで山をおりるんだよ、これがずしりと肩にくいこみ子どもには重いんだ。おふくろにはよく叱られた。黒いランニング姿のYさんは自慢の棚田を翔ぶように巡りながら、ほんの少しだけ昔話にふれた。

2009年7月25日土曜日

行き先


予報を観れば「草木もなびく」ところは晴れ間もあるようだ。さて、初めて行く。トキがいたかな。みやげの焼酎もリュックに詰めた。行ってきます。

2009年7月24日金曜日

「丁か半か」か?


この列島の人は流されやすい。
先の総選挙では「ナントカカントカ賛成か反対か」「ナントカは抵抗勢力」と言えば、魔法にかかったように詐欺に等しい手法にのりました。今度は「セイケンコウタイ」と言えばそちらに乗るようです。ざざざざっと、真っ黒クロムシ(となりのトトロ)が移動するように感じます。“完全勝利”を呼号するところは不気味だし。

自民も民主も本質的に片割れだ。新自由主義、効率主義、結果的に弱者切り捨てを推進してきた冷たい政策を持ち合わせています。それを危惧します。金太郎飴だ。

以前たまたま息子からマンゴーをもらった、宮崎産でした。知事さんのPRは功を奏したようには思う。「マンゴーと地鶏」なかなかよろしい。しかしこの人は他に何を成したのでしょう。県民の期待した経済政策や福祉政策の成果は残せていません。口のうまさと、態度の気味悪さを感じます。かつてこうして女優さんを口説き落としたのかもしれません。この人の暴力、淫行、スキャンダルは、人は忘れているかもしれませんが、人間としていかがなものかとさえ考えます。目がきょろきょろしている人ですが、眼が座ったとき何をしでかすか。口のうまい野心家を跋扈させてはならないと考えます。

すべての政党による徹底した地に足着いた討論戦が繰り広げられたらいいと考えます。現実にはそうなってはいません。結局、マスコミの争点誘導か、電通・博報堂なみの宣伝能力、イメージづくりに知らず知らずのうちにのることになりかねません。勝ち馬に乗りたい、それが風となって吹く。仕組まれた賭場のような丁か半かにのってしまっては、庶民の生活は破綻に向かうだけだと考えます。
民意はまちがいなくチェインジですが。

「金持ち」優遇から、「人持ち」重視(人のつながりを重視する立場)の政策へ大きな舵を切るべきだと考えます。実はそれがなされない資本主義というものの本質だと考えています。
社会に許容性、もっと多様性、百花斉放があってしかるべきだと考えます。本質的に同じ方向、とんでもない方向にイケイケがこわい。

~以前に集会の案内をいただいていました、以下原文のまま~

「選挙目前!私たちが望むこと」集会
7月31日19:00~21:00(18:30開場)@総評会館で、選挙向け集会を開きます。
今回の選挙を機に、私たちの社会がよい方向に進みますように!

【主催】反貧困ネットワーク
【日時】09年7月31日(金)18:30開場 19:00開会(21:00閉会)
【場所】総評会館203号室(定員300名)
JR御茶ノ水駅聖橋口改札より徒歩5分、メトロ千代田線新御茶ノ水駅B3出口徒歩0分
地図(http://www.sohyokaikan.or.jp/access/index.html)
【参加費】無料(会場カンパを予定。ご協力いただける方は、よろしくお願いします)
【リード】
2005年の小泉・郵政選挙以来の衆議院選挙がやってきました。あのときは、自民党が圧倒的な勝利をおさめて296議席を獲得。「弱肉強食」の新自由主義政策が、反対意見を軽視して、一方的に進められる政治を生み出してしまいました。
当時「貧困」という言葉が、人々の口にのぼることは、まずありませんでした。あれから4年。日本社会の雰囲気は一変しました。
戦後最長の好景気から「100年に1度」の大不況へと、景気が悪化しただけではありません。年収300万未満世帯が増え続け、派遣労働が広がり、「ネットカフェ難民」が生まれ、派遣切り・非正規切りが起き、病院たらいまわしによる死亡事件が起き、自殺者は相変わらず異常な数で、餓死事件まで発生しました。
この4年を、もう一度、噛みしめてみませんか? そして数年間で唯一、私たちではなく議員(立候補者)が頭を下げるこの時期に、私たちの一票を生かしませんか?
選挙が終われば、私たちはまた「タダの人」扱いされます。あとで嘆いても、次の選挙時期を決められるのは、私たちではありません。数少ないこのチャンスに、私たちの望みを堂々とぶつけていきませんか?

【内容】
各分野の当事者より、投票の目安とすべき要望をぶつけます。
決まり文句は「本当は○○してほしいけど、でもせめて、とりあえず、次の政権で△△だけはやってもらいたい」

2009年7月23日木曜日

母のふくらはぎ


小さいころ父のふくらはぎを揉んだことがあった。

父は帰宅するなり畳の上に倒れこみ、仰向けになり腕を額にあて、疲れ果てたように息を整えた。そうして、私の方をひょいと向き足を揉んでくれとたのんだ。小さな手で父のふくらはぎを揉んだ。毛でごわごわするふくらはぎは柔らかかった。父は目を閉じて気持ちよさそうだった。

私が幼い時に父は胃の全摘出手術を受けて、職場復帰はしたが、それ以来体力は著しく衰えていた。しかも勤め人としては高齢の域に達していた。地方にしては長距離通勤をしていたので、ときどきほうほうの体で帰宅し、すぐに横になることが多かった。

母の場合は仕事柄、冬場のひび赤切れがひどかった。母は年中、肩こり腰の痛みを訴え、お灸やサロンパス、アリナミン錠のいずれかを欠かすことはなかった。だから、母の肩たたきをしたり肩を揉んだりしたことはあった。

今、こうして母の足先やふくらはぎをさすったり、揉んだりしている。痛くはないかと聞くと、うつろな表情のなかでも気持ちいいと反応する。

姪っ子から「おばあちゃんはだんだん天国に近づいているのですね」と返信のメールが届く。

2009年7月22日水曜日

霧島温泉


 トカラ列島の悪石島は雨風になって気の毒だった。陽が当たらなかった、文字通り。もちろん真っ暗にはなった。

 日本で初めて新婚旅行というものをしたのが龍馬だと言われる。京都寺田屋で幕府方に襲われ傷を負った。薩長同盟に功績のあった彼を薩摩が招待したらしい。1886年、龍馬とお龍さんのカップルで、行き先が霧島の温泉である。

 今回、そのあたりに一泊目は逗留した。空港から見える霧島連山の中腹だ。その温泉郷は数箇所に湯煙があがる。硫黄ガスが出て危険という箇所をさらにのぼっていったところに栄之尾温泉がある。観光名では林田温泉と言えば県内で知らぬ者は無い。
 梅雨は明けたというが、あいにく曇り空。眼下に国分の町と錦江湾、桜島、大隈の高隈山系が見える。すっかり晴れていれば、遠く南の開聞岳も見えるはずだ、これも絶景だ。

 標高は800mぐらいらしく期待していた通り涼しい。露天風呂に浸り仰ぎ見れば、南からきた飛行機雲が見える。身体は熱く、風は涼やかだ。

 夕食に丸尾という町に降りて行き、郷土料理を食べる。車で来たので私は飲めない。風呂上りの「ぷはー」をしたいができないので、ひたすら旨いお茶を飲む。郷土料理コースは大概、定番で、苦瓜の和え物、きびなごの刺身、鶏刺し、とんこつ(豚骨)、揚げ立てのさつま揚げ。

 鶏刺しは、添えてある「なます」と「ゆずしょうが」で食べるのだそうで、初めての趣向だ。妻殿は鶏刺しが大の好物で鶏のレバ刺しも追加注文する。砂ずりの松笠焼きも。初めて入ったお店のカウンターで楽しむ。

 夕暮れといっても8時前だが、この時期まだ明るい。ホテル自慢の庭園を散歩する。眼下に一瞬飛び出してきたものがあって、はっと立ちすくむ、にらめっこになり、頭の中でカメラと浮かぶのだが、身体が動かない。若い大きな鹿だった、あっという間に木立の中に走り去った。それでわかった、庭内にあるコロコロしたものは鹿のウンチだったのだろう。

 敷地内の音を立てて流れる谷川につくられた有料の露天風呂に申し込めば、車で連れて行ってくれる。「緑渓湯苑」という。渓流沿いに6つの露天があって、ホテルの用意する着衣のまま入る混浴だ。

 やっと部屋でビールにありつく。思えば朝は5時起き、電車はラッシュでしかもダイヤが乱れ冷や汗もので空港行きバスに間に合った。冷房は切っても涼しかった。
 
 小さいころ、霧島の林田温泉に行くというのは夢のような贅沢だと考えていた。県内一の繁華街「天文館」からバスが出ていた。何しろ、そのバスもホテルも県内の財閥が経営する。もう、往時の賑わいはない。

 本日、医者にかかり、食あたりの疑いがあるとのこと、抗生物質その他を処方される。このときの鶏刺しか鶏レバーにあたったのだろうか。 それとも夏風邪のようなものが胃腸にきたのだろうか。検査の結果は来週になる。

2009年7月21日火曜日

ただいま


 今日はあちらもこちらも雨でした。梅雨明けしたはずですが、明日も曇るかもしれません。皆既日食で盛り上がろうとしているところを尻目に帰り着きました。

 きれいな星空と蛍に出会いました。しかしながら、いきなり“ねずみ取り”にひっかかったこと(それ自体は反省、ただし卑怯なやり方だと考えますが)や、暑さと冷房と夜風に体調を崩し、腹痛と激しい下痢のために落ち着きませんでした。体力落ちたな、と思うことしきりです、おいしいものを食べられませんでした。

 母の症状は進んでいました。ひどい貧血状態で朦朧とした状態だと考えられました。介助無しには起き上がれなくなっていましたが、その介助があれば車椅子で食事は自分ですることができました。こんな小さな人でも無力の人を抱き支えるのは大変なことでした。足を揉んでみたりさすってあげれば、気持ちよさそうに反応しました。覚悟を決めてはいますが、苦しむことがないことを願っています。

 本日衆議院が解散。訪問地のNさんは民主党のUさんを親戚だということで応援するそうです。松下政経塾出身で元は若くして自民党の有力県議まで勤め上げ公認候補で出た人ですが、総選挙で落ちてしまい今度は民主党から出るそうです。ちなみにNさんは熱心な自民党支持者のはずでした。それで、現職のTさんはといえば、選挙の時は無所属で出て選挙後、自民党に鞍替えしたそうです。今回は自民党公認候補です。地元紙も党の境目のない選挙だと評していました。共産党は出さないそうです。幸福実現党の立候補が予定されています。

 明日は奇跡的にトカラ列島や奄美地方でお日様が出てくれることを祈っています。

2009年7月15日水曜日

今日より若い日はない


しばらくブログを休みます。決して、入院したとか、けこんだり、へこんだりしたためではありません。夏の休みをとり、山の空気を吸い、お湯と砂風呂に浸り、なじみの食を楽しみ、海を眺め、山を仰ぎ、掃除と修繕と手入れをして、そうして老母と宇宙遊泳をするためです。
私は思い至りませんでした、最近、兄や姉たちは血行障害がおきているであろう母の腕や足をさすってあげていました。私もそれにならってそうしてきたいと思います。
「今日より若い日はない、誰しも」

2009年7月14日火曜日

東北の実家


 お母さんのご様子はと聞かれてありのままに答えると、姑様の表情はそのうちに沈んでしまう。ボケてしまった母の様子は近い将来の自分の姿を連想するからだろう、だからトーンを下げてまあまあ元気にやっていますとお茶を濁して話題をそらせば気を取り直す。

 お姑様はお舅様よりずっと若いのにまた老け込んだ、染めなくなったらしく髪が真っ白になったのにまず驚いた。お舅様は今度の誕生日で卆寿になる。元気そうだ。白内障があったぐらいでどこも悪いところはないらしい。秘訣はどこでも「眠られること」と「納豆食」と「快便」らしい。

 風呂上りの宿の部屋で二人きりになって、女性陣を待つ間少し話を聞いた。お舅様は高等小学校を出て塩釜で5年間修業のために働いたこと。そして昭和14年12月に入隊、北支に1年半、さらに「南方」と呼ぶ今のベトナムに派遣され、結局終戦までいたらしい。「佛印進駐」といわれるものと考えられる。6年半ずっと軍隊にいて、二等兵で終わった(?)らしい。もう戦友は床屋さんの小野寺さんと二人だけになったそうだ。
どうも戦闘行為のことを「作戦」というらしい。作戦中あるとき前線にひとり残されて皆のところに撤退してきて、見れば背嚢の脇に銃弾が貫通した跡があったらしく、九死に一生を得たという。砲身が90~75cmある75mmの砲弾の着弾を測量する役目だったと、細かいことまで叩き込まれたのだろう兵隊用語がでてくる。私はあとから『皇軍兵士の日常生活』(市ノ瀬俊也著、講談社現代新書、09年2月刊)を読み進む。
 昭和13年に実母がなくなったが、ほぼ13年間事実上、実家に帰ることはなかったらしい。死人の臭いはすごかったこと、馬を曳いていたらロッキード(P-38かな?)が襲ってきてさっと散ったら、馬がやられたこと。中隊の3分の2がビルマ作戦に行って生き残っていない、きっとあの悪名高い「インパール作戦」だろうか。

 「このひと若いときいじめられたの、からだが大きいから」と姑様をさしていう。背格好も顔も少しも似ていない妹である叔母殿がいう。農家に嫁いで、歩くときは腰が曲がっている。姑様は町に嫁いだので腰は曲がっていなかったが、足腰が痛いとやらで、前かがみだ。

 初めての子を見てくれと妻殿の姪っ子が祖父母に預けてくれたミニアルバム。目鼻が婿さんにそっくりだ。その抱きかかえられた赤ちゃんを中心に、若い両親(介護士・看護士)、祖父母(義兄夫婦)、曽祖父母の舅・姑様、そして姑様に抱えられているよく太った猫。 新しい命と4代揃って撮った写真は、つながりと希望のようだ。

 舅様は「商売はあがったりです」というが、世が世なら商店街の一等地もシャッター通りになって久しく、そもそも成り立っていない。跡継ぎの義兄の闘病、ひきこもった甥っ子、「ボケ防止です」とお店に立つ舅殿。普通にまじめに、ただひたすらに生きている妻の実家の家族だ。そしてかわいい曾孫が加わった。

2009年7月13日月曜日

お店番


 「リプトン」とハイカラで珍しい看板の掲げてある商店を覗く。

 中から、椅子に座っていた店番らしき老婦人に手招きされる。珍しい看板、商い道具、前掛けなどがお店の中やガラス戸棚に飾ってあって興味があって招き入る。往時の文字通り金看板が並べて飾ってある。主に薬の看板だ。元は薬品問屋そして酒類問屋であったらしい。中にいくと仙台の古い絵地図が置いてあって、青葉城からお殿様はまっすぐこの道を通った、その最初の角にあるのが先祖のお屋敷であったと。ということは、もとは由緒あるお武家様の出であったのだろうか。ああ、元はお武家様で…、と水を向けると満足そうだ。こちらにきて商いをやったのね。そして今は昔の資料のこんなことやあんなことをまとめているのだと、紐で結んだ包みや箱をみせてくれる。昔、瓶はなかったから陶器だったのね、と陶器製の一斗樽を説明していただく、軍隊に納品した一升陶器、星のマークがあるから陸軍だろうか。なんでも訊いてという感じで説明をするのが、うれしそうだ。

 そしてまた同じところで、「今は昔の資料のこんなことやあんなことをまとめているのだ」と、包みや箱をみせてくれる。あっと気づく、この上品な老婦人は少し認知症がきているのだなと。7、8年前の母もこうだったのではないかと思い及ぶ。

 でも、本当にうれしそうだった。骨董品的におもしろそうな年代ものの道具をいくつも見せてもらった。この東北一の温泉街で手広く商いができていたであろう往時を想像しながら、失礼させていただいた。粋な黒塀(見越しの松)があって、今はなにも商ってはいない。老夫婦しかいない様子だった。

2009年7月12日日曜日

こけし独楽


 聞いていたように降り立ったら硫黄の匂いがした。チェックインには時間があったので、荷物をホテルに預け、街を少し見物した。小さいときはもっとずっと賑やかだったと妻殿は言う。どこか閑散とした感じがある。どこの地方の町も同じだが、かろうじてシャッター通りではない。どこかの旅行社の温泉番付表が街中に貼ってあって、東日本の“横綱”とランク付けしてある。私は初めて訪れたが温泉はさすがだと思った。源蔵の湯に逗留し、その近くの共同浴場の滝の湯にも感心した。たまたま、ひとがいなくて独り占めできたせいもあるが、湯量と泉質と清潔感にいい湯にめぐりあった気がした。

 お店に誰もいなかったから、ちょっと入ってみた。頭部を胴の部分にはめこんでつくる鳴子のこけしの技法は一流なんだと妻殿は言う。

 お店の座敷にいたらしい店主と思しき中年男性が出てきて応対する。私たちの目線の先にあるこけしの上に載った小さなコマをまわしてみせる。このコマは落っこちないんだといいながら、やってみせれば実は落っこちるのがある。あれっ、と言って取り替える。ほかのものは落ちないで廻り終わればピタリと止まり、一、二、三、四のどれかをさす。ルーレットみたいなもので優れものだ。「当り独楽」というらしい。独楽の芯ははめるところもあるが、うちはひとつの木から削って作るという。あなたが作者かと訊いたら、作者(職人)だという。作業場は店頭にあったがお昼で店の座敷にひっこんでいたらしい。

 そんな話も聞けて、簡易ルーレットで遊べそうなので珍しく妻殿も買うことに同意する。 私はあちこちで旅の思い出にといっては民芸品を買い求めるので30年も経つと飾るところもないぐらいに溜まる。それで「旅の思い出」の購入癖をできるだけ抑制されてきた。

 岡崎靖男さんといって、こけし職人で親の代から引き継いだそうだ。鳴子には昔は80人ぐらいいたそうだが今では40人ぐらいだとのこと。 福島に音頭を取る人がいて、毎年、創作こけしのテーマと規格を決めて、各々の作者がそれに沿って制作し、競い合い限定販売をするらしい。独楽を包装したあともそんな話をひとなつっこくしていただいた。

再訪


新幹線の駅から車で片道1時間半、ボックスカーで送迎をしてもらえる。私たち以外あと2組の年輩のカップルがいた。駅からまっすぐ西へ行き、有名な鳴子温泉を左手に見て山の方へ上っていく。鬼(おにこうべ)温泉を後にして峠を越えれば秋田県でそこに秋の宮温泉郷がある。2月に来たときは雪景色、そう雪祭りの企画にきたのだった。そのイベントでなんと温泉宿のペア宿泊券が当たって、再訪した。

川に沿って宿があった。着いたときはむっとする夏の暑さで冷房ははいっていない。ところが夜になれば冷房はなくても寒いぐらいだ。いいお湯だった。

2009年7月11日土曜日

自由不自由


肩甲骨は肋骨の上にのっているそうで、それで腕が前後上下に自由に動くのだそうです。亀さんはそれができません。肩甲骨が肋骨の中にあるためです。そのため腕が上下に動く自由がないそうです。人間はその自由を手に入れた代わりに肩こりに悩まされることになりました。亀さんには肩こりがないそうです、亀さんに聞いたわけではありませんが。「ぶるぶる」を主宰するジムの先生から聞きました。せっかくの自由がありますから伸ばしましょうと指導されます。

2009年7月10日金曜日

蛸と夏


 私たちが食べているたこはアフリカ産など輸入ものが主流になって久しいのです。昔は湧いてくるほど獲れたそうですがさすがに枯渇しつつあります。いまさらながら国産のたこの活用ができないものかと考えていたところに、ある紹介があって出遭ったのが石川県の輪島のたこでした。「真たこ」と呼ぶ種類です。この種類は暖かいところのたこなので、ここはわりと北のほうの産地になります。北にいけば水たこと言う種類が主流になります。北海道の大きなたこがそうです。あわびやウニを潜って獲る漁業が盛んなこの地方ではたこは駆除の対象になっていて実際に補助金でそれをやっているのですが、これは一般の商業流通にはのりません。小型底引き網の混獲あるいは蛸壺漁による漁獲物です。茨城にあるたこ専門の加工業者さんの評価では「味わいのあるたこ」とのことでした。

 能登半島の日本海側の輪島は観光地ではありますが、僻地のひとつです。海を越えて北から吹く風は激しいものがあるようで、海の近くに構える住居はそれに備えるつくりになっています。厳しい環境のなかでも営々と築きあげられてきた棚田が日本海に向かってある姿はそれ自身もなかなか美しいものです。そして、その海は古くからの慣習で漁場が守られてきました。そうはいっても、潤沢な資源ではありません。

 そこでここの「たこ」を大量販売するための刺身用や酢だこの加工ではなくてもっと他に使える方法はないかと考えました。能登半島を進み峠の喫茶店で昼食をとったときに、掲げてあったのが「たこめし」の幟でした。聞けばママさん、朝は海女さんをやっているとのこと。海女さんとは誰もがやれるものではなく、代々権利として継承されてきたものです。また、夕食をとった居酒屋さんでも「たこめし」メニュウがありました。たこ飯といえば瀬戸内海の風物詩のような牧歌的なイメージと名物の観があったのですが、輪島のものもユニークでなかなかのものでした。

 多量に漁獲する沖合漁業や輸入物でなく、我々流通からすれば細々とやっているように見える沿岸の資源をなんとか加工して活用できないものかと考えました。実は輪島漁協(今は大型合併が促進されて石川県漁協(JF石川)の支部になりましたが)は、藩政時代から引き継ぐ漁場の管理を歴史的権利関係があって厳しく守ってきましたから多量でなければ価値のある漁獲物が多いのです。ここは後継者がいて若いひとが働く全国でも珍しい漁協のひとつと見受けられました。ただ、たこそのものはあまり儲からないということで獲る人も少ないようでしたが。夏はたこの産卵の時期です。

 もう数年も前の昔の話になりました。

2009年7月9日木曜日

読み進む


労働者派遣法が製造業まで適用拡大(2004年)が決まってしまってこの社会に何が起きたか、それが「派遣村」で市民の目にようやく見えるようになった。

「ミナマタ」問題で昨日「特措法」が成立した。分社化?企業の加害責任と救済義務と能力を将来霧散させる仕掛けになる可能性が高い。そして、そもそも被害者の一部切り捨てだ。これを強行した。水俣の活動家Tさんから日曜日明けの深夜に連絡がきていた。抗議に被害者団体のみなさんが上京したという。集会にはでられない。せめてカンパだけでも。ワンコインカンパを有志に訴え遅まきながら応じる。

同時代ライブラリー『閉山』(97年9月刊、岩波書店)を通読している。奈賀悟(なが さとる)さんという新聞記者が大牟田に居を移して、書き下ろした渾身の作品である。ドキュメンタリー映画『みいけ』がきっかけで探し当てた。映像で表現していたものを、その 約10年前に本に著わしていた。本の名のとおり、三井三池炭鉱が閉山する年に上梓された。通読と書いたが、第3章の炭塵爆発の章から読み進めなくなった。読むのがつらくて。くやしくて。淡々と描かれる事柄のなかに、力を持つもの(資本、権力、曲学阿世の徒)のすりかえと不条理な仕打ちというものがこれでもかと読み取れる。映画のインタビューに出ていたCO中毒被害者の家族(妻)である松尾薫虹(けいこう)さんのあの姿の背景にあったものが描かれている。家族のみながみな「言葉では言いつくせないという」その筆舌では言い尽くせないものを映像の奥行きとこの本の行間から読み取る。かんたんに読み取れるものではないものとは考える、想像を絶する苦労だろう。こういうものに共通する重く深いものだ。

2009年7月7日火曜日

変な本


地下に潜る。

信念のために非合法活動に入るのではない。
鉱夫となって、タコ部屋につながれる土工となって炭鉱に入っていくのではない。
鉄の暴風を避けて真っ暗闇のガマに逃げ込むのではない。
人狩りにあって強制連行され無理矢理地下壕を掘らされるのではない。

日本にはいくつもの何らかに由来のある地下世界、地下空間がある。地下施設がある。

そういうことを案内した本がある『ニッポン地下観光ガイド』(08年2月刊行)。
人が人にしでかしたことに心が寒くなる事例もあるし(そういうことには触れていないが)、地下のことなので、季節柄涼しくなる。


「神集島」これはなんと読むか?

日本列島には6,852の島があるらしい。
本土4島、沖縄島、北方領土を除いて、面積の大きい島の順を言えますか?
では、人口の多い島の順は?

日本の島ガイド『SHIMADASシマダス』(2004年第2版刊)という、いかにも財団法人(日本離島センター)がまとめたという本がある。なにやら、本の大きさは違うが昔の電話帳みたいな感じの本で、日本のほとんどの島を網羅している。1,306ページ分の島が掲載してある。基礎データはこれで足りる、が、これだけでは無味乾燥だ。やはり、行ってみなければわからない。時刻表で旅の想像が膨らむ人がいるように、この本も行ってみたことのない島のデータベースで、へぇそうかとなるかもしれない。

奄美諸島の与論島も載っている。長崎県口之津へ750人の移住があったことは載っているが、それがどうなったかは書いてない。もちろん、本の性格が違う。それでも「島」の百科事典でおもしろい。

高島、長崎市の先にある。炭鉱で有名で「三菱発祥の地」と紹介してある。若いときになんども訪ねて来いと言われながら不義理、いや失礼をしたことを今は後悔している。

1)「神集島」これはなんと読むか?
答:「かしわじま」;佐賀県唐津市の沖合にある。家族で民宿に泊まって海水浴に行った。
2)本土4島、沖縄島、北方領土を除いて、面積の大きい島の順を言えますか?
佐渡島、奄美大島、対馬島、淡路島、天草下島、屋久島、種子島、福江島、西表島、徳之島
3)では、人口の多い島の順は?
淡路島、天草下島、佐渡島、奄美大島、宮古島、福江島、石垣島、対馬島、種子島、小豆島、(2000年調べ)

2009年7月6日月曜日

山椒魚だ


他人のことはとやかく言えない。
自分もたこつぼに入っている。しかもどつぼにはまっている。ちゃつぼにおわれてとっぴんしゃん。ぬけたぁらどんどこしょだ。その眼で見ていることがある。せいぜい隣のたこつぼの奴と相憐れんでいるだけだ。しかもだ、脱出しようとはせずに、互いに監視し合っているようになる。五人組、とんとんとんからりんと隣組だ。

効率を求められる。
定員は充足どころかオーバーしているらしい。ならば、あの目標この目標と数値を挙げられ、達成しようと事実上強制させられる。自ら申し出るカタチをとるらしい、とっこうたいだ。
音頭を取る小心ものの似非正義漢。声が野太いだけなのだけれども。

山椒魚、井伏鱒二だ。

みんな、国語で習っただろう。

出て行こぉう。

と、他人のことは言えない。

*これはうちの「やも」ちゃん。神出鬼没。本文とはなんの関係もありません。

2009年7月5日日曜日

どんとこい、貧困


 仕事柄、日本語を鍛えなければならない。苦手な長文ではないのでその点はいいが、正しくわかりやすく、かつ心も込めて伝えるのは難しい。主語と、述語にあたる結論をはっきりさせなければならない。文章を削りに削っていけばわかる。手短に表現しなければ、読んでいただけないだろう。簡潔さでは「お役所文書」のごとく、内容は「お手紙」の形式になる。個別の「あなた」に語りかける。相手様を尊重する心がなければならない。文書による「対話」、お申し出の内容、ときにはお怒りの内容を斟酌しなければならない。「お申し出内容」に洩らさず応える、はぐらかしてはならない。明確な「答え」の無い場合が多い、お申し出になられた動機を尊重しつつ「答え」を探さなければならない。至らぬことが多いことを思い知る。つい、マニュアル用語になりがちだ。漢字やカタカナ用語は便利だが、難解であって実は意味があいまいだったりする。ひどいときになると業界用語、社内用語だったりする。これには泣かされるし、あきれるし、ついつられて使ってしまいがちだ。必要があって漢字や専門用語を用いたいときは、最低ルビをふる、その用語の意味を述べる。
 つまるところ文書文章は中学生にもわかるものをこころがけることになる。

 講習、講演、演説を聴く機会が数多くある。昔、友人からあのひとの話はそのまま論文になると聞いたことがある人がいた、なるほど後で本になればそうなっている。そういうのは内容のすごさだ。

 詭弁、雄弁は見抜ける、中味がないからだ。ただ、話術と枝葉末節の情報をもっているので言いくるめられる。針小棒大、はぐらかし、すりかえ、デマゴギーあらゆる技術をもっている。御免蒙る。

 湯浅誠さんの話をたまたま目の前で聴いた。初めて聞くタイプだった、わかりやすいのである、じゃそれはどうしてかと思うことを、まるでみすかしたようにつぎつぎに展開していく。話術といえばそうなのだが、ひとに伝える能力がある。表現力があるから彼の用いる「溜め」のような用語もわかってくる。しかも気持ちがぴったり合う、溜飲がさがる、心地よい。実践と調査と態度の奥の深さが窺える。40歳になったようだが、人柄は青年、話は仙人のようだ「なるほど」と思う。

 だから、彼から聞いた話がそのまま書いてある、それが新刊本『どんとこい、貧困!』(よりみちパン!セ 理論社YA新書)だ。腹に落ちると思う。

  すべてにルビがふってあって、字が大きく、イラストが組み合わせてある、対象が中学生以上だからということだけれども、そうでなくても伝えるためにはこれって必要だなと考えている。

2009年7月4日土曜日

怒ったらあかん


「何て書いてあるの? 読んでみようと思ったのだけれども・・・」と別れ際にジムの先生がイラスト文字のことを訊いた。

公泉さんは公朝さんの息子でどこぞの大学の講師をしている、と思っていたら教授になっていた。光秀がここで「敵は本能寺にあり」と言ったとか、言わなかったとかと伝えられる近くの丘の上の“芸術(アトリエ)村”に住まいして久しい。

公泉さんは快活な妻殿の影に隠れたがる。ときには心がへこんだりもしたらしい。その辺は何か共通したものを感じるが、若いときにお会いしたっきりになっている。その妻殿は“驚いたことに”著名な舞踏家であり画家である、海外でも。いつぞやはボディペインティングも催されたことがあった。

何故“驚くか”というとその妻殿どうしが中学時代からの親友で、ちゃんづけで呼び合う仲であるから。催し物があるたびに案内をいただくが不義理をしている。

その公泉さんからいただいたTシャツを後生大事に着用している。胸には“怒ったらあかん”、背中には“おかげさんでまたばちあててくれはったありがたや”とイラストしてある。その文言のとおりに生きるようになった気がしている。 ・・・つもりだ(いやぁこの木、金曜日はそうでもなかったなぁ、おこったらあかんのや)。

ある考えがあって、この芸術家ご夫婦に会いたいと思う。

*故西村公朝(1915~2003)さんは現代の仏師で著書も多数ある。数多くの仏像の修理を手掛けられた。仏像のことを、そして仏教の生き方をわかりやすく説く第一人者だった。教育テレビにも講座をもっていた。手元にあるのは『仏像が語りかける生きるヒント』(01年4月刊 講談社)

2009年7月3日金曜日

日本の基本問題


何かのカードのポイントが貯まって妻殿と相談して5,000円の図書カードに取り替えていた。元はといえば景品みたいなもので何でも買えと思うが、不思議なことにこのカードを使うときはできるだけ良い本を買いたいと考えるようになった。それで、湯浅誠さんが書き下ろし4冊目だという『どんとこい、貧困』(よりみちパン!セ 理論社YA新書 09年6月25日刊)と『日本の基本問題を考えてみよう』(中馬清福さん、岩波ジュニア新書 09年6月19日刊)を買った。「どんとこい、貧困」を買うために初めて紀伊国屋書店の児童本のコーナーに足を踏み入れた。はぁ、こんなところにあったのかと思うところだ、少年少女が来ているのだろうかと思う。

東京を遠く離れて旅して、どこの駅に降りても、駅はりっぱに変わっていても、町はシャッター通りで人は歩いていない。アーケードがあってもお店は開いていない。どこの駅前にもあるのはりっぱなサラ金のお店ばかり。バイパスとか呼ばれるところにあるのはどこの町でも見られる商店街とは不均衡な大型チェーンのお店ばかり。お金に関わる貧しさが剥き出しのようにも見える。

それに比べて首都および近郊はまるで豊かさがぎっしりと詰まっているようにも見える。ビルは林立し、しゃれた飲食店はいくらでも開店し、駅の近くには次々とジムが開業する。お金さえあれば豊かに暮らしていけるようにも感じる。富が集約される首都の一角で他人と横並びでなにがしかの“仕事”を為して、通勤電車というボックスに乗って「トカイナカ」(森永卓郎さんの表現)を往復している。豊かな中にいるような気がしている。首都に連なるところだけが豊かなようにまだ見える。累々たる「貧困」の上に成り立っていようともそれは見えづらい。

日本が「うつ」状態になっているように見える。
二極化、このまま突き進んで行ってどこに行くのだろう。

都議選が始まった。衆議院選挙も間近い。
来年の今頃は「改憲国民投票法」は施行されている(2010年5月18日~)。国の形、私たちの生きる姿が大きく後退する危険性もを孕んでいる。

著者の「中馬さん」は、私の知る人では「ちゅうまんさん」と読むが、この人は「ちゅうま」と読むらしい。いずれにせよ同郷の苗字ではある。『日本の基本問題を考えてみよう』を読む。

2009年7月2日木曜日

価値が違えば


月曜日に職場で知恵と経験を出し合って少しだけ勉強会をする。経験、スキル、出向、プロパー、いろんな人たちで寄り集まった。今年、このセクションに新人が配属されたのはわが社始まって以来の出来事。しかもその出身大学はブランドだ。

「泡を食う」というが石鹸を食べたようだった。それまでチーズというものを食べたことは無かった。と言いながら、石鹸も食べたことは無い。小学校6年のときだったと思う。助産科を営むところの子で、お母さんが忙しいけれども何でも持っていた友人の家で「食べたことがあるか」「ない」というので出してもらった。今思えばなんでもないプロセスチーズだった。加山雄三のCMが席巻し、乗り遅れまいと初めて口にしたコカコーラ。薬のようだった。高校のときに初めてなめたキッコーマン醤油。しょっぱいだけの変なものを嘗めたようだった。どれも最初は「これが食い物か!?」だった。
(故郷の醤油が他郷のものに比べて際立って甘いということを知ったのはずっと後のこと)

ホテル住まいでご不自由でしょう、とかいう趣旨で巻網船のオーナーのお宅に泊めてもらい、家庭料理をふるまってもらった。日本語はどうせ通じないので商社の相棒に言った「どこが違うんだ?」「ほんまでんなぁ」、スープとメインディッシュは魚か肉か出たかとは思うがそれは覚えていない。要は、チーズのあれこれとハムのあれやこれやで、どこがホテルの料理と違うのかわからなかった。しょっぱくて、カビくさくてそこの違いなのだろうか。白菜の乱切りの添え方だって同じだった。相棒はノルウェイ語交じりのイギリス英語でさかんに「おいしい、おいしい」とご愛敬を振り撒いていたが、こっちを向けば「こんなもんでっせ、毛唐の料理は」という態度で苦笑した。もちろん好意がありがたかった。どうすれば、よいものをつくれるかということに熱心な人だったので誘いにのった。この人の顔は鮮明に浮かんでくるが、もう名前は覚えていない。あのときのホテルと個人の家庭で出されたチーズやハムの違いがいまだにわからない。

納豆は他国のひとには腐った大豆にしか映らないだろう、我々にチーズのあれこれのカビ具合がいいというヨーロッパ人の価値があまりわからないように。

発酵と腐敗の違いとは一面「人間に都合のよいもの悪いもの」ということらしい。ただし、食文化によって違う。納豆とチーズのように。文化や背景、歴史を知れば食べ物はおもしろい。

かようにして、いろいろな感じ方、お申し出の内容、となる。はばひろく人とつながり、理解をし合えば、ホントは「グローバル化」とは楽しいもの。

 *画像は鳴子の無料休憩所「好日館」駅のすぐ近く。魚屋さんだったような商店跡を活用していたようでした。

○「中学生向けに貧困問題を説いた『どんとこい!貧困』を刊行しました。」と湯浅誠さんから新著刊行のおしらせ。 6月25日、4冊目となる単著『どんとこい!貧困』を刊行しました(理論社「よりみちパン!セ」シリーズ)。 主に中学生に向けて語る、というコンセプトのシリーズの中の1冊です。子どももすでに自己責任論に捉えられている場合が少なくない、と感じています。生きづらい世の中を作り出してしまう大人になる前に! 以下の理論社HPに本の概要が出ています、とのこと。 http://www.rironsha.co.jp/special/hinkon/index.html

2009年7月1日水曜日

忙しそうだ


夏風邪がこじれるのはありうることですが、頭までこじれたらえらいことだなと考えました。きわめてクリアです。しっかり自分を見失わず、私らしく今日も斜(はす)に構えています。

日本で最初の裁判員裁判の事例になるかもしれなかったそうですが、さすがに何でも東京が一番(8月3日)ということでしょうか、埼玉は2番目(8月10日)になりました。とはいえ埼玉では初めてということで何回か取材を受けたそうです。それで、見たよといつか姉が連絡してきました。日本の制度上の歴史的な裁判の当事者(弁護側)として立ち会うわけです。賛否両論、不安と期待がある中、実際に取り組み、それが先行事例になりますのでプレッシャーが重いようです。まっ、若いから切り拓くことでしょう。

*ミュージカル「龍馬」を演じた俳優さん

■集会のおしらせが届いています。 そのままご案内します。

1)声を上げたら逆ギレばっかり ~それでも負けない非正規ユニオン7.5シンポジウム~(7月5日)

2)どうする日本の若者支援 ~教育・福祉・労働をつなぐ~(7月18日)

3)生活保護問題対策全国会議設立2周年記念集会
カウンター越しの対立を超えて ~生活保護費国庫負担増・ケースワーカー増員を求めてつながろう~(7月18日)


***********
1)『 ~声を上げたら“逆ギレ”ばっかり~ それでも負けない非正規・ユニオン7.5シンポジウム』
とき 2009年7月5日(日)13:00~16:00
ところ 中央大学駿河台記念館(千代田区神田駿河台3-11-5)
アクセス↓
 http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/access/access_surugadai_j.html
主催・7.5シンポジウムを呼びかける会 
協賛・「週刊金曜日」
連絡先:全国一般労働組合東京南部(TEL03-3434-0669/FAX03-3433-0334 )
「非正規が組合作った? 生意気だ。ちょっといじめてやるか」。そんな嫌なセリフが聞こえてきそうな状況が相次いでいます 。働きに見合わない安すぎる賃金の是正やまともな残業代の支払い、安定した雇用の確保……。働く者として当たり前のごくささやかな要求を掲げ、立ち上がった非正規・ユニオンに、経営者は“逆ギレ”したように露骨で差別的な攻撃をしかけています。刑事告訴、実質的な解雇、懲戒をちらつかせての恫喝、などなど。それは、法で保障された労働組合活動への攻撃であり、言論の自由への弾圧であり、決して看過できることではありません。低い労働条件に泣かされ続けてきた非正規の仲間が立ち上がり、ふりしぼるようにして上げた声に、私たちは呼応しよう。不屈に闘う当事者の訴えを聞き、シンポジウムで経営者の思惑をあぶり出すことで、仲間を守り、不埒な経営者への社会的反撃を始めよう。
人らしい働き方を求め、社会を変えるのは「ノーと言える労働者」たちです。その異議申し立ての封じ込めには、広く連帯して「ノー」を突きつけていきましょう。
多くの仲間たちに「7・5シンポジウム」への参加を呼びかけます。
●シンポジウム
どう考える?労働組合の権利
●コーディネーター
  棗 一郎(弁護士)
●パネリスト
  堀内 光子(元ILO駐日代表・アジア総局長)
  圷 由美子(弁護士)
  豊 秀一(日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)議長)

逆ギレ組合攻撃に反撃を!
●派遣ユニオン
KDDIエボルバが国際オペレータの待遇改善要求に逆ギレ!
エボルバユニオン委員長が行った衆議院会館での報告について、長時間の事情聴取を行うなどの支配介入。

●首都圏青年ユニオン
ゼンショー・すき家が未払い残業代請求に逆ギレ!すき家ユニオン組合員に詐欺罪、窃盗罪をでっち上げ、刑事告訴。

●ネットワークユニオン東京
アルファ・デザイン・コンサルタンツが労働委員会への申立に逆ギレ!
ネットワークユニオン東京と組合役員および当該組合員を名誉毀損、営業妨害で告訴。

●全国一般東京東部労組
阪急トラベルサポートが未払賃金の是正勧告、派遣添乗員の待遇改善要求に逆ギレ!
HTS支部委員長が「週刊金曜日」の取材に応じて話した内容を「虚偽」だとして、事実上の解雇処分。

●全国一般東京南部
ベルリッツが春闘ベアなし回答での長期ストライキに逆ギレ!
全国一般なんぶとなんぶ役員、支部のBEGUNTOおよび執行委員個人に対し、違法ストだとして損害賠償請求を告訴。

このような攻撃を許してはいけない!

**********
2) シンポジウム「どうする?日本の若者支援/教育・福祉・労働をつなぐ」
●呼びかけ人
湯浅 誠 自立生活サポートセンター・もやい事務局長
佐藤洋作 文化学習協同ネットワーク
日時:2009年 7月18日 (土) 14:00~17:00(開場13:30)
会場:立教大学 池袋キャンパス14号館 D201教室(池袋駅より13分)
●資料代:(可能な方より)1000円 ●学生無料
●協力:自立生活サポートセンター・もやい
    文化学習協同ネットワーク
●プログラム (予定)
司 会:平塚眞樹/法政大学
開会あいさつと問題提起:湯浅 誠
第1部 若者支援の現場から
「ニート」・ひきこもり支援/自立援助ホーム/就労支援/高校/
生活支援/困難を抱える若者の支援/医療・精神保健等の分野から
第2部 政策と研究の動向
若者の生きづらさと支援:佐藤洋作
若者に対する総合的支援の取り組み:大塚幸寛/内閣府
若年就労問題の社会構造的背景:本田由紀/東京大学
欧米に学ぶ若者の貧困化と支援政策:宮本みち子/放送大学

● 参加申し込み・お問い合わせ〈当日参加も可能です〉
件名に「シンポ申し込み(または、問い合わせ)」と明記し、
必要事項(①お名前、②ご所属〈お立場〉、③お住まいの都道府県、④電話番号)をご記入のうえメールまたはファクスにて、7月15日(水)までに下記宛てお送りください。 参加票は特に発行いたしませんので、当日、会場にて受付・お支払をお願いいたします。
メールアドレス 
wakamono_shien@yahoo.co.jp TEL 03-5818-1177/FAX 03-5818-1179(明石書店:三輪)

●アクセス:立教大学池袋キャンパス 池袋駅より徒歩13分
http://www.rikkyo.ac.jp/access/pmap/ikebukuro.html
池袋駅 :JR山手線・埼京線、東武東上線、
西武池袋線、地下鉄丸ノ内線・有楽町線
●キャンパス内地図
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/campus.html



***********
3)生活保護問題対策全国会議・設立2周年記念集会
「カウンター越しの対立を超えて~生活保護費国庫負担増・ケースワーカー増員を求めてつながろう!~」

「水際作戦」と呼ばれる窓口規制のため、生活保護から排斥されて餓死する人が未だに後を絶ちません。私たちは、「カウンターのこちら側」から、そうした実態を告発してきました。一方、未曾有の経済危機と「派遣切り」の嵐の中、「最初で最後のセーフティネット」となっている生活保護の利用者が急激に増えつつあります。「カウンターの向こう側」の窓口職員や地方自治体からは「持ち件数が増えケースワークどころではない」、「4分の1の保護費負担が地方財政を圧迫する」といった悲鳴が聞こえます。私たちの国でこれ以上の餓死者を出さないためには、生活保護を必要とする人たちが漏れなく制度を利用できるようにしていかなければなりません。そのためには、生活保護費の国庫負担割合を増やすこと、ケースワーカーを増やしその専門性を高めることを求め、関係当事者が手をつないで声をあげていくことが、今、切実に求められています。カウンター越しの対立を超えて。

日時:2009年7月18日(土) 13時受付開始 13時30分開会
場所:東京・渋谷 東京ウィメンズプラザ・ホール
http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/facilities.html
主催:生活保護問題対策全国会議
共催:労働者福祉中央協議会、全国公的扶助研究会、生活底上げ会議

13:30 開会挨拶  尾藤廣喜(生活保護問題対策全国会議代表幹事・弁護士)
13:35 当事者の発言など
14:05 基調講演「生活保護制度を活かすために」
   岡部卓さん(首都大学東京教授・生活保護制度のあり方に関する専門委員会委員)
14:55 休憩
15:10 基調報告 「生活保護予算と人員の基礎知識」 
15:25 パネルディスカッション「カウンター越しの対立を超えて」
  コーディネーター:吉永純(花園大学教授・元ケースワーカー)
   代表討論:ケースワーカー代表vs 支援者代表
パネリスト
   藤井克彦さん(名古屋・笹島診療所)
   津田康裕さん(名古屋市職員・前中村区生活保護ケースワーカー)
岩渕正洋さん(札幌市職員・中央区生活保護ケースワーカー)
阪田健夫さん(弁護士・日弁連貧困と人権に関する委員会委員)
16:55 閉会挨拶  高橋均さん(中央労福協事務局長)
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
〒530-0047 大阪市北区西天満3丁目14番16号 西天満パークビル3号館7階
あ か り 法律事務所  Tel 06-6363-3310 Fax 06-6363-3320弁護士 小 久 保  哲  郎