2009年8月31日月曜日

総選挙が終わった


 今回の総選挙で国民新党は「ぶれない」をスローガンにして頑張ったが、5議席を3議席に減らしてしまった。代表と幹事長が落選してしまった。私の故郷の選挙区で当選した松下忠洋さんはその数少ない国民新党の所属だ。もともと自民党の人で郵政民営化に反対票を投じて刺客を送られ前回落選、今回当選復活した。兄の親友である。田舎の人だったので、町中(まちなか)にあった我が家によく泊まりにきたそうだ。母がしっかりしていて存命であったら喜んだことだろう。

 共産・社民はくしくも現有議席を確保したというか、現有議席に終わった。それぞれ9と7で足せば16議席。10議席減らした公明の21にも満たない。

 総選挙は一週間前のマスコミの調査の通り民主党の圧勝に終わった。良きにつけ悪しきにつけ大きなうねりとなって変化が起こるであろうことが考えられる。血も涙もない自公政治を止めてくれ~という悲鳴のような国民の多数の要求の受け皿になった。自公のめちゃくちゃな政治、格差政治、無能無責任の世襲バカ殿政治からの解放感が大多数にあると思う。

 さて、参議院でも民主党は第一党ではあるが、一党だけでは過半数に足りない。民主党はそれもにらんで、衆議院で絶対多数を握ったが連立政権を組む。さて、どうなるのだろう。組み合わせによっては自公のように、3分の2条項も使うことができる。蝙蝠(こうもり)のような政党もすりよる可能性もあるし、場合によっては大連立ですらありうる。今のところ社民・国民新党との連立を組むらしい。

 民主党には経団連の成績簿への追従、小泉改革顔負けの新自由主義的主張、あの安倍晋三さんも喜ぶ「愛国心」教育論・核武装論などの危険な側面ももちあわせる。松下政経塾出身者などの計算高く口のうまい議員に多い。

 圧倒的多数を得た民主党に対して社民がどうブレーキ役になりきれるのか。社民の福島党首のインタビューへの受け答えはいつもわかりやすく市民・勤労者の立場に立った発言だ。しかし、国会でその主張の通りに法案に対処しているかといえば「ん?」がある。

 「郵政」=自民といい、「政権交代」=民主といい、国民は「勝ち馬」にのみ乗ろうとする行動パターンをとったように見える。まるで「横並び」的な傾向が強いようだ。もちろん小選挙区制度という白か黒かという選挙制度の欠陥のせいもあるが、どうもそれだけではない。

 人々の要求の受け皿がうまく操作されているように思えてならない。どちらに転んでも、この社会で「楽をしている一握りの層」にとっては都合がいい選択だ。それに庶民が右往左往させられているように感じる。

 本当の「受け皿」をつくるべきではないか。
 今回の選挙の討論を聞いていても主張の大筋において共通しているのは、共産・社民だ。つまり、違いは小さい。共産は絶対きらいだの、社民の前身の社会は裏切ったの、どうのこうのはある。しかし、間違いなく両党は勤労者・市民層を代弁する主張をもっている。平和にたいする態度も明快だ。過去の経過、体質がどうのこうのとの相互の批判はあると思うが、それをなんとか共産・社民でブロックをつくることはできないだろうか。そうすると社会主義へ向かうのかとかまた出てくると思うが、その前の段階だ。国会の議席上は小政党同士だから大連立とは言いにくいが、ブロックを組むべきだと考える。

 連立に入っても、現実問題に直面したとき社民は民主に押し切られる可能性が高い、場合によっては捨てられるだろう。暴走へのブレーキ役になれるだろうか。もちろんその期待はある。

 来年は参議院選挙だ。

 共産・社民が個々で奮闘しても、また何か、ぽっと出の「風」に吹かれてせいぜい現状維持がせいいっぱいなのではないか。

 共産・社民でブロックをつくり、なにがしかの「輪のひろがり」をつくれば、国民の要求の「受け皿」になると考える。

 それは非現実的なことなのだろうか。夢物語なのだろうか。それとも「社共の夢よ、もう一度」の悪夢なのだろうか。

2009年8月30日日曜日

母の生涯


 母・幸子は数えで98年の長い人生を閉じました。
 
 生きてきた証に母の生涯の略歴と思い出を少し描いてみたいと思います。

 1912(明治45)年2月28日、8人兄弟の二女としてこの世に生を受けました。元号でいえば明治最後のひとでありました。生まれたのは鹿児島県薩摩郡川内町隈之城というところです。薩摩に特有の「麓」と呼ばれる鹿児島城下以外の地方の武士が住んだ集落です(*1)。
 男尊女卑、質素倹約で躾けられ、身に染み付いていたように思います(*2)。戦前は地主だったそうですが家が傾き、必ずしも豊かではなかったようです。

(*1);薩摩の場合、麓武士は半農半士、藩から禄をもらわず農業で暮らしていたそうです。うちは「高城殿(たっ“どん”)」ち言うて、「○○様(○○“さあ”)」とは違うと言っていました。士族は「どん」、庶民は「さあ」と呼び敬称が違うのだそうです。時代錯誤でしたが、そういう家柄のプライドをもっていました。渋谷五族といいまして、中世に鎌倉幕府から地頭職を得て薩摩の支配に来た渋谷氏の末裔(支族)という家柄になっています。中世文書の研究で知られる入来院氏もこの支族のひとつです。入来院家は大名家の島津の家来にはなりますが一目置かれた扱いでした。「入来の麓集落」は一見に値します。

(*2);このたび、孫の姪っ子たちが母の思い出話をしていて「男を立てるような躾」を受けたことがかなり印象に残っていて共通していたようでした。また祖父と母は実に達筆でしたから、字のへたな孫はこれでやられたそうです。

 学業ができたようで、川内女学校、鹿児島県女子師範学校を出て、小学校教諭となり数年間教鞭をとります。母にとってはこの時代が人生最高の“栄光の時”であったように考えられます。後で述べるように人生の困難なとき、この時代の思い出にすがり、ときには「昔はよかった」と後ろ向きになるようなこともあったように感じます。それほど母にとっては輝いた時でありました。当時(1930年代、昭和の初め)、女性が高等教育を受けられたこと、女性が職業をもち俸給すなわち給料をもらって働くことは、稀なことだったと考えられます。そして、なによりも子どもたちから慕われたことを人生最上の宝としていました。卒業した後も「先生、せんせい」と元生徒たちから尊敬されているのだということを生涯誇りにしていました。小説「二十四の瞳」で描かれる大石先生の姿はこのあとぐらいの時期です。

 1936(昭和11)年、同郷の父と見合いをして結婚します。「おまんさぁ(お前様)は、あたい(私)のどこが気にいいやしたぁな(気にいりましたか)」「ふくらはぎじゃ」という話を母はよくしてました。小さい時にはわかりませんでしたが、ずいぶん意味深なことを言っていたものです。父は台湾総督府で官僚をしていましたので、そのまま台湾への航路が新婚旅行になったようです。

 奥様生活をしていたのではないかと考えられますが、「兄ちゃんが弱かったから」いかに子育てに苦労したかという話ばかり聞かされました。1937年3月、その兄である長男が生まれます。未熟児か何か出産に事情があって、兄は病気ばかりをしていたそうです。「兄ちゃんな、“ぐらしか(かわいそう)”」というのが母の口癖でした。ですから、長男を大事にするという戦前の考え方もありますが、母が兄を気遣い、兄が母を慕う関係は濃いものでした。兄は身体が弱く学校へ上がるのが3年も遅れました。1940年2月に長女、1944年12月に二女が生まれます。1936(昭和6)年の満州事変から始まる15年に及ぶ戦争は破局に向かっていました。40に近い父も現地応召で兵隊にとられ、台湾も空襲にあいます。防空壕に入った話を母から少しだけ聞いていました。8月6日、9日の原爆投下、15日にポツダム宣言を受諾して日本は敗戦を迎えます。

 ポツダム宣言を受諾したということは植民地を全て放棄するということでした。母たちは一切の財産も持ち帰ることが許されず慌しく引き揚げます。1945年秋のことです。満州や樺太の惨状に比べればずっとましでしたが、「裸で引き揚げてきた」という口癖、全財産を失い一から出直さなければならなかったことは母には相当のショックだったと考えられます、母でなくともそうですが。当時、戦争で疲弊のどん底にあった日本の社会にひとを援助するという余裕はなかったと考えられます。揚陸地が宇品つまり広島の軍港でしたから、あのヒロシマの様子を見たのかと兄に聞きました。真夜中に着きそのまま汽車に乗せられ父母の故郷へ向かったそうです。三人の幼子(下の姉は乳飲み子でした)を抱え、母の最初の苦労が始まります。

 父の実家を頼ったそうですが、機会をとらえ後に私たちが育った住所に移ったそうです。戦後に建てた家に、後に2回ほど増改築をしましたが、ずっと住み続けました。時が流れ1954年1月に玉のような男の子が産まれます。居住空間は4畳半と3畳の間しかなくそこの縁側でお産婆さんをたのんで生んだそうです。何を隠そう二男のこの私です。父は50、母は42歳でした。何か間違えて生まれてきたのだと私は考えています。歳が離れていたのでかわいがられました。17歳離れた兄と暮らした覚えが私の方にはありません。男の子へは母は過重な期待をしましたから、そのプレッシャーに私は反抗して育ちました。

 父は癌で胃を全部摘っていて弱ってはいましたが、瓢として生きる意欲をもっていました。しかしながら1967年1月不慮の交通事故で亡くなりました。母が55歳のときです、2度目の苦労が始まったと思います。やがて兄も姉たちも県外の人と結婚して遠くに生活を始め、ひとり残った私も大学に入り故郷を離れます。それ以来、母は一人暮らしになります。61歳のときからです。

 気丈に一人で暮らしていました。お前たちに迷惑はかけないという姿勢でした。それでも60代、70代の初めまでは私が福岡県に住んでいましたからたよりにしていたように考えます。私は子どもが多かったので母に来てもらいました。私の東京への転勤でがっかりしたようでしたが、まだまだ歳のわりには元気でした。飛行機は恐くて絶対乗らないということで、とうとう母のほうから東京へ来ることはありませんでした。いつも元気だし、行けば子どもに言うような細かいことを言うので閉口し、偶にしか行かなくなったように記憶しています。いつか、長男が学生時代、沖縄を放浪して最後に母のところに立ち寄ったとき真っ黒にたくましくなった孫をみて、たいそう喜んだそうです。「鉄の精神じゃ」と言われたそうで、それ以来我が家では「鉄の精神」が気合の言葉となりました。私は絶対に断るのですが、長男を駅まで歩いて見送って行ったそうです、半端な距離ではありません。母が80代半ばだったのではないでしょうか。

 朝の散歩と墓参り、その他用事があれば母は全て歩いたようです。とくに我が県ではお墓に生花が途絶えるのは恥ですから、元気なころはほぼ毎日だったと考えられます。ほんとにすべて半端な距離ではありません。歩くことを健康法にしていました、それで死ぬ間際まで自分で歩くことができました。ただ、頻繁にこけるようになったようです。後から聞くことになりましたが、大変危険な事態もあったそうです。自分で治していました。よく歩きまわる元気なおばあさんということで市のケアマネージャーさんたちの間では有名になっていたそうで、後日そのことを当事者のみなさんから聞いて赤面しました。

 兄弟で順繰りに帰省してはいましたが、あるとき私も出向という職場環境が変わるので場合によってはあまり帰れないと思い、夫婦で帰ったところ母の状態はもう一人暮らしをするのは限界であると判断できました。兄弟に提案し、市のケアマネージャーさんたちにも相談して、ようやく縁があって「幸せの里」という施設のケアハウスに入居できました。2003年4月のことです。母は91歳になっていました。まだ元気でしたが、既に軽い認知症と大腸癌が忍び寄っていました。独居老人となって30年目のことでした。

 生まれて初めての集合住宅への入居でした。その日、不安におののく母に頼まれて入居者のみなさん全員が夕食をとる食堂で母に代わって挨拶をしました。母を紹介して、仲良くしてほしい、よろしくお願いしたいと申しあげて、最後に不覚にもひとりで号泣してしまいました。今日から保育園に預けられ迎えの来ない運命の女の子のようでした。にもかかわらず後日、あの挨拶はとてもよかったと母は何度も言ってくれました。

 母は大腸癌があって入院し院長から手術も勧められましたが、耐えられないのではないかと判断してお断りしました。母が93歳のときでした。以前に市のケアマネージャーさんからその場合の容態の進行と最後にどうなるかということを聞いていましたが、今回ほぼその通りになりました。心の準備をしておくのに大変参考になりました。

 私たち兄弟で代わる代わる母を訪ね、時にはどこかの温泉に連れ出しもして「遅い親孝行」を始めていましたが、徐々に認知症がすすんでいきました。ケアハウスの食堂は3階にあって母の部屋は2階にありました。母はこの食堂に行くことができなくなりました。行くことができても部屋へ帰ることができなくなりました。他人の部屋へ入ってしまい、母は初めてどの部屋も同じつくりだと知ります。夜の徘徊が始まり、また自分の部屋がわからず人の部屋に入り込んでご迷惑をかけたそうです。老人のための自立型住居であるケアハウスでは職員でもこういう状態の介助はできない制度であるそうです。

 幾度か途方に暮れましたが、介護度も進み、同じ施設の特別養護老人ホームの入居にこぎつけました。2007年4月、95歳のときでした。施設の人が認知症は「まだら模様」と言っていましたが、ときに私の名前が出てこなくなっていったのには「うわっ」と思いました。父と間違えているころはさもありなん、御愛嬌でしたが、自分の弟(叔父たち)と区別がつかなくなったりもしました。ちょうど、このころ年老いた叔父たちも母を訪ねてきていて、最後のお別れをしていたそうです。大腸癌のためにお腹が張ってきていましたが、痛みはないようでした。手足の血行も悪くなっていっているようでした。母は生きる意欲、執念は十分だったようです。以前、「百まで生きなきゃ」といっていましたのが、実現できると思うようになっていました。来年98を越したら数えでいいのだから、まず白寿のお祝いを盛大にやろうと義兄と話し合っておりました。4月から下血が始まったようです。かねてから無理な延命治療は行わないと決めていましたが、そのたびに病院と施設からなんども確認をされました。7月になって下血による貧血がひどくなり、介助なしには起き上がれなくなりました。

 ほんの2日ほど意識のないまま、苦しむ様子もなく、息が絶え絶えになり、そのまま息をひきとりました。看取ることができました。介護士さん看護士さんたちに必死の看護を受け、私たち子ども以上に、まるで身内のおばあちゃんが亡くなったように涙を流してもらいました。2009年8月23日深夜1時過ぎのことでした。口々に「幸子さん、長い人生、よくがんばったね」と声をかけていただきました。


 私は母が地主のお嬢様、学校の先生、官吏の奥様であった姿を知りません。私の知る母は朝から晩まで働いていた姿です。一文無しになった、そこから這い上がった、食べるものが何も無かったという苦労話です。戦時中と戦後の苦労を考えれば何も苦労ではない。あとは勉強しろということだけでした、勉強机の前に座って居さえすれば文句は言いませんでしたが、やや異常でした。冬になれば手のひびが割れ、血がにじみ、一所懸命遅くまで働きました。今時の「エコ」なんてものではなく、もったいないは当たり前、節約に節約で、何も捨てるものは無い明治の女性でした。タクシーなんて「ハイヤー」と呼び、まず自ら乗ることはなく、どこまでも歩きました。軟弱さはありませんでした。もし結婚したらなんと彼女に説明しようと思っていましたが、幸い妻殿もその辺では同じ精神で助かりました。その結果、母はお金を残しました。私たちに介護とお葬式のことで金銭の負担はかけませんでした。

 母が91歳のときです、人生初めてのケアハウス住まいという環境が激変した母をなぐさめようと温泉に招待しました。旅館の部屋で母が私名義の通帳をくれました、ちらっと見れば少なくない金額でした。私はなんで今までこのお金を自分のために使ってこなかったのかとひどくなじりました。後で、その場に居た妻殿からこっぴどく叱られました。お母さんはこのお金を私たち二人がありがたくもらってくれることを今日まで楽しみにしてきたのにあの態度はないでしょう、と。私はそういう悲しいやつでした。
 
 最初に弔問に来ていただいたのは、「今日は私が夜勤ですので」と挨拶をいただき、母の最後を看取っていただいた若い女性の介護士さんでした。仕事姿とはまた違う印象で、まだ納棺されていない母の頬と額をなでていただき別れを惜しんでいただきました。夜勤明けでお疲れだったと思います。施設の人たちが、夜勤を終え、仕事を終え、焼香に掛けつけていただきました。施設としてそういう慣習、社交辞令があるのかもしれないとは最初思いましたが、皆さんが口々に母に癒されたとおっしゃいました。私は子どもとして下の世話ひとつしたわけではなく、みな他人である介護士のみなさんの「仕事」にお任せしました。若い男性介護士の方「はっきり言ってこの仕事いやなこともあります。しかし幸子さんに声をかけられるとそんなことを忘れるんです、元気が出てくるんです。」私も、わたしも、と。女性介護士の方「幸子さんはかわいいんです。癒されるんです。つらいときがあったとき不思議と声をかけられるんです。」と。

 私の知る母は物欲も金銭欲も虚栄心もありました。なにがうれしくていつもそんなに心配ばかりしているのというほどの心配性で、苦労の種をわざわざ自分で探しているような人、だったはずです。母も人の子です、ねたみもそねみもしたはずです。それらが、人生の最後には、全て無くなっていました。
 好物の甘いもの、果物を食べれば「舌がちぎれそうだ」、訪ねていけば嫁、姪御には「べっぴんさん」、婿、甥っ子には「よかにせどん」。瞬時にそのひとの良いところを一言で表現しました。確かに晩年はそうでした。

 認知症のせいもあったのでしょうが、母は心の皮が剥けていき、芯だけになりました。お釈迦様が説くところの煩悩が消えていたのではないかと考えられます。最後に残ったものは「貴方の良いところ」をみつけられて、それを表現することができるようになり、そして感謝を表わすことができるようになったと考えられるのです。

  身内のことをこう言うのは気が引けますが、生前のうちに、母は聞くところの“仏様”に近づいていたのではないかと、そう考えられました。

 *この写真は施設の方に撮ってもらったもので、昨年の施設の夏祭りではないかと考えられます。これを遺影に使わせていただきました。とても良い写真で感謝の気持ちでいっぱいです。

総選挙の朝


 サスペンスドラマに出てくる殺人事件。車に乗る。下り坂にさしかかる。うん?!ブレーキが効かない。ああぁぁ・・・。

 先週の土曜日の朝刊を見たっきり、母のことで、新聞もテレビもインターネットもほとんど見ないで過ごしてきた。国の進路を決める選挙期間中に社会参加できていない気分だ。どうなるかわからなかったので、期日前投票も済ませた。小選挙区は「よりまし」選択をしたが今でも後味が悪い。

 その先週末の朝刊によれば民主党が圧倒的な議席を獲得しそうな情勢だった。前回の小泉魔法にひっかかったときといい、今回予想されることといい、絶対的多数を与えるということは、非常に危険なことだ。

 暮らし向きが危うくなり、路上に寝起きをする人々が現れている、電車が止まるのは、あれは人が飛び込んでいるからだ。人間の身体がばらばらになって生涯を終える、その悲しみを感じ取れない社会になって行きつつある。格差はやがてあらたな「差別」を産むことになるだろう。資本主義は暴走を始めた、懲りてはいない、様子をうかがっているだけだ。「生活を守らなかった」のは自公政治だ。やめさせたい、だが、その票がまた催眠術にかかったように民主党にのみ流れるのは意味が無い、そして危険だ。そもそも多様な民意を反映しない小選挙区制という制度にやはり欠陥がある。

 イギリスのサッチャーさん以来長く続いた新自由主義政策、資本主義(お金の力)という獣の側面を野に放った結果、小泉構造改革で人間がモノにされてしまった。「憂さの晴らし方」、「こぶしのおろし方」が違う。小泉選挙で懲りたはずだ、絶対的多数(=権力)を与えてはならない。

ブレーキが効かない車はどうなるか?


 以下は私が『八県百感』というブログに投稿した内容(8.18、8.20)
ブログ主は共産党の九州ブロックの比例代表の候補者の方。猫と焼酎と温泉が好きで、弱いものをいじめる輩が嫌いな人らしく感性がおもしろい。

<8.18>
 自公政治にえらい目にあいました。終わりにしたいです。では、民主か。あれは自民の片割れ、クローンです。それどころか、一部にはもっと過激な新自由主義、効率主義的な体質を持っています。ヒトはモノではありません。教育、平和、民主主義的原則において自公の先を行くもので、冷たい政策を持っています。落ちこぼれの切捨て、ひとの多様性への寛容の無さ、ご免です。共産・社民に奮闘していただきたい。しかしながら、社民は民主にすがるようです。民主に是々ぜーぜーとひっぱられる将来がみえます。かつての「新政党」のときに小沢さんに捨てられて自民に拾ってもらい、世紀の大転換をしました。喩(たと)えていえば「自死行為」、命をとりとめましたが背骨を骨折する重傷でした。多くの支持者たちを失いました。大転換は支持者への裏切りでしたから。過去をほじくりだしたくはありませんが、前身の社会党の姿を忘れていません。

 貴党は国会での議席といえば下りのエスカレーターを必死で駆け上る姿(志位さんの吐露)です。そのひたむきさがいい。見ていれば駅頭でビラをいつも受け取ってもらえるわけではないけれど、世論調査で2-3%だけれど、反戦を貫き通した先達の実績、筋を通す背筋と意地、これがいい。一層奮励努力していただきたい。人情左翼(矢野狛江市長)であってほしいと考えます。つながりを拡げ、拝金主義、人でなし資本主義に立ち向かいたいと考えます。「自民か民主か」ではない、一方の選択肢だと考えます。

<8.20>
 「気骨の判決」(8月16日NHKドラマ)は戦前しかも戦争中のことです。事実に照らし合わせて司法を守った話。昭和17年の衆議院選挙、国策を強力に推し進める「翼賛政治体制協議会」(略して「翼協」)という組織の推薦候補者以外の候補者への露骨な選挙妨害が行われました。候補者の選挙無効の訴訟に対して出された判決を描く。大審院に権力(東条内閣)の意向に沿う裁判官が送り込ます。それにすら毅然と対峙して「選挙無効」の判決をくだしたという内容です。
 大審院とは今の最高裁に相当します。なにを言いたいかというと、司法の独立は戦後これを守るべしというのが国是ですが、権力(内閣)の意向を汲む判事が送り込まれているのが実態です。三権独立と国民主権を守るために総選挙と同時に最高裁判所裁判官の国民審査が行われます。自衛隊イラク派兵の法案を作った元事務次官出身の判事などはよくよく審査されるべきだと考えます。こちらも大事な投票権です。
 今では口に出して言える「平和」も、「気骨の判決」のあの時代には言えませんでした。選挙の争点は大東亜戦争聖戦完遂の方法のどちらかであって、戦争か平和かの選択ではありませんでした。

 日本国憲法第79条、最高裁判所国民審査、国民は裁判官を罷免することができます。 「法の番人」をよくよく審査すべきです。衆議院選挙と同時に行われます。形骸化、形式化しているように実感しますが、大事な国民主権の制度です。

 さてそれで、あの小泉内閣のときに官僚のトップである外務次官として自衛隊のイラク派兵法を推進し、後に「憲法違反」(08年名古屋高裁)とされたこの派兵法の実務責任者を麻生内閣はこともあろうに最高裁裁判官に任命しました。その方は竹内行夫さんといいます。それで「国民審査竹内バッテン(×)運動」と呼んでいます。この方は憲法の番人にはふさわしくないと考えます。

2009年8月29日土曜日

さらば故郷

 桜島には雲がかかる。
 来た時には母がいた。帰るときには母はもういない。

 お盆の時期をよく持ちこたえてくれた。おかげで皆、難なく遠くから駆けつけることができた。

 しかしながら、関東に住む母の弟妹たちは歳をとり駆けつけることはできなかった。叔父二人は寂々たる思いの電報をよこす。近い親戚は故郷には叔母ひとりと従兄弟ひとりしかいない。

 30度を越える青空の日が続く、喪失感。1945年のあの夏の青空もこうだったのだろうか。

 慌しかった。

 深夜に亡くなったのでその日は徹夜と緊張で疲れ果てる。我々兄弟四人それぞれ遠く異郷に住む。老齢になって、それぞれの人生経験、価値観を持つ。葬儀も経験しそれぞれが違う体験、やり方を持つ。それでまた“船頭”が多くなる。かしましい。当地には当地のしきたり、相場がある。初めて知ることも多かった。同じ仏教でも宗派が違えば作法も違う。

 “お寺”と恃むご近所のお坊様(お導師様)に来てもらう。母はこの日のために葬儀社の互助会に入っていた。その大きな斎場で、仮通夜、通夜、葬儀を執り行う。そして略式の「初七日、四十九日」の法要、母の部屋の明け渡し、清算、役所、銀行めぐり。喪主である兄は取り仕切る立場にあったが、人を指図するより自分でやってしまう性格だ。手分けしてやるにしても、ほとんどを兄(の家族)がやってしまいへとへとになってしまったはずだ。まして病み上がりである。気が張っているが、後が心配だ。

 それぞれの家族と別れ、滞在最後の日は霧島の山中の温泉に宿をとり、のんびりした。母がもう一度休みをくれたと考えることにした。ナビで辿って故郷からわずか2時間で着いた。初めて宮崎のえびの高原(県境をこしたところ)にも足をのばす。

 朝8時を過ぎて大きな露天風呂に人はほとんどいない。
 号泣しても構わない。泣いてもわからない。
 朝食前で、何を長く入っていたのと妻殿から言われる。
 うん、僕は実の母を亡くしたのと言って、「あっ」と言ってわかってもらう。

 関西に住む兄は長男として墓を守るためにかねてより墓をそちらに移していた。実家もなく墓もなければ、故郷に帰るきっかけや理由が希薄になる。

 父の時(40数年前)は、初七日を過ぎるまでは一切の肉魚を絶ち精進したが、今はそういうことはないらしい。葬儀まで終えた夜、精進落としに、水入らずで、ささやかな宴を張る。子、孫、曾孫、叔母、従兄弟で23名。義兄が「千の風になって」を歌いたいというので、カラオケルームのお店を訊いて、姉夫婦と我が家族で行く。三男の「少年時代」を手始めに、皆が歌い発散し、最後に義兄が「千の風になって」を歌う。「お義母さんに聞かせてあげたかったな」義兄は声量があって美声だ。きっと母は聞き惚れたに違いない。

 施設の介護士のみなさんそれぞれがかけてくださった惜別の言葉を噛みしめると、感極まる。

 「少年時代」、息子はわかって歌ってくれたのだろうか。

 来る時には母がいた。帰途の機中で母がいない寂寞を思う。

2009年8月28日金曜日

別れ


 外はむっとする暑さだが、養護施設の中は温度が保たれている。
 しーんとした静けさの中で、蛍光灯がこうこうと灯された母の部屋にいて、一日で見慣れてしまった母の酸素呼吸の音だけが聞こえる。部屋の外には介護士のみなさんが見守っていて、一時間ごとに容態を診に来る。血圧が80以下になったらナースに知らせることになっていると伝えられる。

 いきなり携帯電話が鳴って出ると、つい先ほどまで宇都宮から冷静にメールをやりとりしていた下の姉の嗚咽の声。母に取り次げという。携帯を耳元にもっていってあげると、姉は「待っていてね、待っててね」とまるで幼子のように母に呼び掛ける。あきらかに取り乱している。容態が悪化したことを知らせてはいた。

 虫の音が聞こえる。上の姉が母の手をさする手を止めて、手すりにもたれる。疲れがみえる。

 足底に紫斑が出た足をさすってあげる。足は冷たい。ついひと月前は意識もうろうとしながらも、痛いかといえば、気持ちいいと反応していたことだ。

 介護士の方から呼吸がおかしくなったらいつでも知らせてと告げられる。部屋の外に夜勤の人たち3人が待機する。

 もしもの時は心肺蘇生をと以前に兄から頼まれていたといって、どうするかと問われて、兄に確認の上、お断りする。あるがままの最後を見送りたい。

 このひと月、兄弟で代わる代わる来て、容態が激変していった。私はまだ意識のあるうちに会ったので最後の別れになったと思っている。私のこと、妻のことをその時はまだわかってくれた。

 看病続きの姉がつらそうで徹夜になると考えられるから、外のソファーに横になって、何かあったら起こすからと促す。

 他の部屋で誰かの呼び出し音がする。静寂の中に酸素吸入の流れるような音と母の呼吸の音が続く。

 「心配ですね」と交代の介護士さんがまた診に来る、脈がもううまくとれない。腕にも足にも浮腫がでている。足底そして手先に紫斑がでる。

 枕元に置いてあるのは痰をとる装置らしい。父親の最後のときを思い出す。

 血圧102/40、38.9度熱が下がらない。酸素量90(まで上がった、80を切ると危ない)。呼吸数30回/分、・・・。

 ボーン、ボーンと日付が変わる。携帯を覗けばたまたま00:00。母の寿命が1日延びた。8月23日、日曜日に。

 血圧が測れない状態になり、施設のひとが看護士を呼ぶ。姉も起こす。

 無呼吸がある。5秒以内。何秒間か。介護士さんが「幸子さん!」幸子さんと言って肩をゆする。我に返ったように呼吸が蘇る。無呼吸状態が続いて、やや気が動転する。看護士さんが駆けつける。介護士の丸尾さんが「幸子さぁん」と母の蝋燭のようになった手をとりさする。私たちも手足をさする。マッサージをする。指にはめた血中酸素量を表わすデジタルの数値が60から80へ行ったり70ヘ行ったり動く。

 息が長く途絶え、そして、そのまま息をひきとった。1時12分。

 「幸子さん、長い人生よくがんばったね」

 お母さんおつかれさまでした。看取ることができて幸せでした。


「幸子さんと呼ばれて静かに息を引き取りました。苦しむ様子はありませんでした。介護士看護士の皆さんの必死の看護を受けて眠るように亡くなりました。1時12分ごろのことです。診断上は1時28分です。博善社に移動します。中央斎場です。」兄と下の姉へメールを打つ。記録を見れば2時20分のことのようだ。(診断上の死亡時刻は2009年8月23日1時28分と記録された)

~最後まで親身になって看取ってくださった施設の介護士、看護士、関係者のみなさん、こころから母を愛してくださった皆さんへの感謝を忘れることはありません、本当にありがとうございました~
 (8月22日21:30~23日01:12、特別養護老人ホーム「幸せの里」にて記す)

2009年8月21日金曜日

明朝出発


母がいよいよ、のようだ。
動揺した様子で伝えてくる。
今は上の姉がついていてくれて、土曜日に帰る予定だというが、もうそのままいた方がいいと伝える。生まれて初めてビジネス旅館にひとりで泊まって、生まれて初めて手にした携帯で私の電話を受ける。

ジムのサウナルームはたまたま誰もいない。
号泣するようにむせび泣く。昨日のことだ。

早く来て、という電話が携帯に大きな声で届く。
それで、今晩行くことにしていたが、もう少しもちそうだと言われたと、また電話がかかる。

しかし容態をきけば、いよいよだろう。
生ものは食べ終わり、新聞は止め、期日前投票は済ませた。
明朝出発する。

貴方のことを


 アメリカや我が国の時の首相、マスコミが“ベトコン”と呼んでいました。蔑称の意味が込められていました、一般マスコミもこころない見識だったと思います。私たちとほぼ同じ顔をした人たちが爆撃や砲弾に怯える姿をみて当時とても心を痛めていました。1960年代からのことでした(1975年4月30日終結)。

 九州の諫早湾で昔に干拓事業を決めたことだからといって様々な意見があるにもかかわらず、次々と閉められていった堤防水門の様子。確かにギロチンのようでした。あのとき、あの映像を報道でなんども観てやりきれなく心を痛めました。97年4月14日のことでした。 そのときのアサリさん、シオマネキさんそしてムツゴローさんたちのことが絵本『海をかえして!』(童心社、97年8月刊、丘修三・長野ヒデ子さん)に描かれています。

 2003年3月、ブッシュさんがイラクで戦争を始めました。テレビで中継されたのは、まるで花火がさかさまに炸裂しているような画像でした。モノが破壊され人々が殺傷されているという実感のない乾いた映像のような気がしました。なんともいえぬ心が痛みました。ブッシュさんたちは“うずうず”していたのでしょう、まるで悪徳牧場主に雇われた保安官のように得意気でした。小泉さんのはしゃぎよう、「自衛隊の行くところは非戦闘地域、だから自衛隊が行ったところ、そこが“非戦闘地域”」とか、わけのわからないことで海外派兵を強行しました。我が国は「子分」でした。開戦理由の大量破壊兵器は何もありませんでした。

 このブログを読んでいただいている方で、もし、このように(あるいはそれ以上に)お感じになったことがあるとしたら、好みや性格や趣味などがどんなに違っていても、貴方を私は人として好きになれるでしょう。
 *今年、富山からいただいた梨はおいしいです。

2009年8月20日木曜日

拝啓小泉純一郎様


仕事先で「貴方様来る!」の立て看板がそこら中にあるのをおみかけしまして、なつかしく思いました。 ここは県都であります。

貴方様の盟友の竹中平蔵様の世渡りの本、なんと言いましたっけ「竹中式マトリクス勉強法~1の努力で10の成果~」(幻冬舎08年10月刊)はなかなかの人気です。竹中様はついこの間ナントカという人材派遣会社(パソナグループ)の取締役会長に就任なさったことを新聞の経済欄でおみかけしました。

いずれも、私の口元からくすっと笑みというか苦笑いがもれてしまいました。

おふたりは、お二人が促進したこの生きにくい社会のことも見えず、巷に溢れる怨嗟の声も聞こえないのでしょう。

息災でいらっしゃる御様子、重畳、重畳。

御次男の健闘と竹中様のボロい金儲けを見守っています(あっ、性格悪)。
 *パソナグループ取締役会長の職は年俸1億円であるそうな、・・・(9.7追記)。

2009年8月19日水曜日

時計


 物事には原因があります。
 長く愛用していた置時計の時間が遅れてしまいました。電池が切れたのではない。壊れたのかなと思っていました。ひょいと気付いた。不思議なことに分針がのけぞっています。そのために秒針が重なるときにひっかかってしまって動けなくなる。原因はこれだとわかりました。では、しかしどうして分針がのけぞってしまったのだろう。ガラスの向こうの時計の中のこととて、わからない。精密ドライバーもまわらない、修理のしようがない。お気に入りの時計。同じものを施設の母の部屋にも置いています。

 金大中さんが亡くなりました。
 若かったとき、磐石のようであった軍事独裁政権を大統領選で追い詰めて朴正煕氏を震え上がらせました。その選挙戦の特集を当時のNHKの番組で観ました。その強い印象を覚えています。そしてそのことが東京でのKCIAによる拉致事件に及びました。学生時代のことです。昔話になりましたが、韓国には絶望的な軍事独裁が続いた時がありました。TK生「韓国からの通信(72~)」(岩波)息をのんで読んだものです。拷問と暗殺、監視、脅迫。韓国は目と鼻の先、東京よりも近かった。
 果敢に挑んだ同時代の人でした。哀悼の意を表します。

 日本国憲法第79条、最高裁判所国民審査、国民は裁判官を罷免することができます。 「法の番人」をよくよく審査すべきです。衆議院選挙と同時に行われます。形骸化、形式化しているように実感しますが、大事な国民主権の制度です。さてそれで、あの小泉内閣のときに官僚のトップである外務次官として自衛隊のイラク派兵法を推進し、後に「憲法違反」(08年名古屋高裁)とされたこの派兵法の実務責任者を麻生内閣はこともあろうに最高裁裁判官に任命しました。その方は竹内行夫さんといいます。それで「国民審査竹内バッテン(×)運動」と呼んでいます。この方は憲法の番人にはふさわしくないと考えます。名も無き庶民の「気骨の審査」をみせましょう、と呼びかけます。
 
 この夏は日が照りませんでした。先週末、ようやく土用干しならぬ土曜干しをしました。

2009年8月18日火曜日

時代


 眠れぬ日がある、真夜中に目が覚める。将来への不安、立ち向かわない姿勢、芥川先生ならサマになるが、こうも凡人ではシャレにもならない。

 畳の間とせんべい布団とやや重いぐらいの掛け布団があれば幸せだ。

 「気骨の判決」(8月16日NHKドラマ)は戦前しかも戦争中のことだ。事実に照らし合わせて司法を守った話。昭和17年の衆議院選挙、国策を強力に推し進める「翼賛政治体制協議会」(略して「翼協」)という組織の推薦候補者以外の候補者への露骨な選挙妨害が行われた。候補者の選挙無効の訴訟に対して出された判決を描く。大審院に権力(東条内閣)の意向に沿う裁判官が送り込まれる。それにすら毅然と対峙して「選挙無効」の判決をくだした。
 大審院とは今の最高裁に相当する。なにを言いたいかというと、司法の独立は戦後これを守るべしというのが国是だが、権力(内閣)の意向を汲む判事が送り込まれているのが実態だ。三権独立と国民主権を守るために総選挙と同時に最高裁判所裁判官の国民審査が行われる。自衛隊イラク派兵の法案を作った元事務次官出身の判事などはよくよく審査されるべきだと考える。こちらも大事な投票権だ。
 今では口に出して言える「平和」も、「気骨の判決」のあの時代には言えなかった。選挙の争点は大東亜戦争聖戦完遂の方法のどちらかであって、戦争か平和かの選択ではなかった。

 元も子もない言い方をするが、自民か民主か、クローンを選んだところでどうなるものではない。喩えて言えばカレーライスがいいですか、ライスカレーがご注文ですかでわからない。敢えて違いを言えば福神漬けは載せますか、いや脇に付けますかぐらいのもの。自公政治は終わりにしたい、政権交代は必要だ。ではもう一度「翼賛政治体制協議会」を呼び込みますか。自民・民主の大連立もそこそこの支持があるらしい、アンケートの質問設定の仕方次第だが。これほど痛い目にあう大人の姿をみていれば若者は「安定志向」に逃げ込みたくなるようだ、意外に壮年よりも保守的傾向が強い。スペシャリストとワーカー。成果を挙げれば果実のあるスペシャリストの方がいいのだろう。自民・民主の新自由主義的に描く世界は脈々と続く、少しもくたばっていない。期待の社民もすがりつく、ブレーキ役になるそうだが是々ぜーぜーといいかねない。

 すこし不規則な生活が続く、体重が戻ってくる。

2009年8月17日月曜日

みつけたブログ


 「諫早湾干拓」で検索をしていたら偶然に妻殿がみつけたらしい、おもしろいブログだからと。猫の好きな人のようだからみたらというので、覗いたら大笑いした。

 このお勧めブログは『八県百感』ブログ主は「何を隠そう私の演説です」とか普通に自己顕示もあるようだ。根っからの九州弁ではないようなのでプロフィールをみたらもともとは関西の方。大学が九州だったようでそのまま活動家、共産党の九州方面の比例代表候補者になっているようだ。杓子定規な、四角四面のよくありがちな言葉ではなくこの人らしい物言いで話しかけているし、ブログはなおさらおもしろい。猫、焼酎、温泉、そして派遣労働者などへの姿勢、環境問題への取り組み、いずれも人間味あふれている。

 「いわば売られたケンカ。だから、比例代表で私たちが後退したら彼らは本気で削減してくるでしょう。負けるわけにはいきません。共産党員魂に火をともして、がんばろうではありませんか」“敵か味方か、寄らば切るぞ”のような姿勢ではなく、人情左翼これが必要だ。みじめに議席を減らし続けているようにはみえるが、「魂」をみせつけられる。おもしろい人だ。

 「自民か民主か」だけではないだろう。共産、社民いつまで背を向け合っているのだろう。いや、社民は民主にすがりつくようだ、だが、またまた支持者を裏切ることにならないだろうか。政権交代はすべきだが、単なる権力交代・人権後退になればみじめだ。

 ブログ『八県百感』http://tamura.air-nifty.com/1961/cat5306219/index.html

2009年8月16日日曜日

徹子のネパール報告


 児童労働とは5歳以上から17歳までで、義務教育を妨げる労働に従事するものをいう。世界に2億1800万人いるといわれる(ILO/2006年報告)。一番多いのは南アジア1億2000万人。

 その南アジアの中のネパール。美しい山々に囲まれた国だと番組の中で黒柳徹子さんは言う。そして「疲弊した国」だということも続けて紹介する。3年前まで内戦が長く続いたこの国、つらい現実があげられる。食べていけない。働く必要がある、生活のために子どもが働かざるを得ない。貧しければ学校に行くことができない。教育を受けさせたい、もっと食べさせてあげたい、この国の希望と現実だ。ネパール国歌は「何百もの花束」という。新しい国になって新しい歌詞に換えられた。多様性を、そして多民族国家を称える趣旨という。

 「黒柳徹子のネパール報告 働く子ども」(テレビ朝日)を途中から観た。メイドとして働きその家の家事をこなして食べさせてもらう小さな少女。15歳の少女は5歳のときから川から砂を運ぶ仕事に従事してきた。砂は1回に50~70kgを運ぶ、日本円にして約10円、1日に20数回往復する。5歳から、だ。仕立て屋さんになりたいらしい。黒柳さんとの通訳を通してのやりとりの美しい笑顔。「誇りとはじらい」なるほど。

 黒柳さんがユニセフ親善大使になって26年目の報告。ユニセフ親善大使にならなかったら普通の芸能人として何も知らないでのんきに暮らしていたかもしれないと率直に語る。「子どもの命が救われること」これが願いだ。

 『わたしは8歳、カカオ畑で働きつづけて』(07年11月刊、合同出版)にチャイルド・レーバー(児童労働)がなぜいけないのかを4点にまとめてある。1)身体に受けるダメージ 2)教育を受けられない 3)人としての自由を奪う 4)社会を支える人材が育たない

  黒柳徹子さんへの人としての尊敬の念を抱くとともに、貧困が子どもと女性に重くのしかかるというつらい現実を考える。弱者をそのままにしてはならない社会への思い。

2009年8月15日土曜日

今年の8.15


お盆でもありますから我が家の子どもたちがあつまりました。

壇ふみさんの語る『火垂るの墓』(ほたるのはか)に、涙が溜れば目が痛くなります。

みながHDDやVHS、SDカードを持ち寄り「どうだ!?」を誇ります。なるほど。

早起きをしましたから、頼まれていたことも少し汗をかいてこなしました。パンもつくりました。子どもたちを迎えるために少し家のなかをきれいにしました。

人が炎で焼き殺されていいのか、一瞬の光で存在を奪われていいのか。人が起こした戦争や紛争は人の手によってやめよう、これが反戦です。人の尊厳を守るためです。

ひとが始めた戦争は人の手で終わらせてしまう。戦争を封印した今の憲法は世界と人の世に誇ることができます。日本の青空、日本に直接の戦争が無くなって64年。平和のためには身体を張る、そのために身体を鍛えていると、かつて野坂昭如さんが語ったと壇ふみさんは聞いたそうです。そうか、なるほど。

2009年8月14日金曜日

よく泣きもっと笑う


 ストレッサーでたまに夜中に目が覚めることがある。滅多になくなったが、今朝がそうだった。人とのストレッサーであれば、対話が必要だ。話せばわかる、だ。これが基本。話してわからぬ者とは、逃げるに如かず、だ。別に君子でもなんでもないけれど、「君子、危うきより去る、しかも逃げる」これだ。

 夜中に目が覚めてみれば、たまたま映画「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド監督)をやっていて途中から観る。

 笑う、涙する、これは人間が生きていくうえでとても大切な機能で効用がある。人間が人間である所以であるそうだ。そうか、わんわん泣いてもいいのだ。私は本や映画や記事や集会の報告にぐっと熱くなるものがあり涙腺が開くようだ。もちろんバカ言える相手と大笑いしているほうがいいに決まっている。

 やはり『免疫進化論』(09年4月刊、河出文庫)ときたか、著者の安保徹(あぼとおる)さんの免疫力アップ生活は、うんうんと読み進んで、なんだか煙に撒かれた気になるのだが。『よく笑う人はなぜ健康なのか』(伊藤一輔さん、09年4月刊、日経プレミアシリーズ)もおもしろい。

 泣き笑うことは人間にしかできないらしい。緊張と弛緩にも通じる。我々人間には生きるために様々な能力が備わってきたらしい。これを活かすこと。また逆に、進化の結果として自らの生命を奪う能力まで備わってしまったのだが。

2009年8月13日木曜日

いも焼酎


 ようやく夏らしい日になった。お盆になった。通勤が楽だ。

 30数年前に第一次の焼酎ブームがおきた。大分麦焼酎「いいちこ」のCMは今でも好きだ。当時いも焼酎ではトップブランドの「白波」にのみ、このブームの恩恵があったように思える。焼酎ブランドの会社を経営する従兄の喬さんは既に会長職だったが営業に東京や関西をあっちこっち飛び回っていた。それで、私が東京に出張したとき都営バスの車体一面に広告が描いてあったときはたまげた。

 私は高校卒業後、地元で焼酎をどんぶりの蓋でやりとりをするようなバンカラをして「三日酔い」でえらい目にあった。その記憶があって若いときは遠去かった。ビールとウイスキーをもっぱら嗜んだ。日本酒も体質にあわなかった。というより、調子に乗って限度をわきまえなかっただけなのだが。大分県臼杵のふぐひれ酒は旨かった、いつも二日酔いになった。

 そうですか。桜島のところですか、そうしますと、お強いんでしょ。なんでしたっけ、いもでお酒、あっそうですか焼酎、いも焼酎。「現地」のかたはお強いんですってね。やっていただけます、かつお節、あっいや、おはら節♪。おっとっと。

 20数年前転勤してきて、都内でしゃれた飲み屋にいくとズラリと日本酒の銘柄が並んでいた。苦手なのでビールをたのむと何しに来たと言わんばかりの対応だった。どこの店も競ってそういう品揃えだった。それが、今では焼酎が日本酒に取って代わった。まるで「政権交代」「明治維新薩摩の天下」だ。いつだったか、日本酒の生産量が下降しつづけて、一方で焼酎のそれが上昇しつづけて交差した。たしか年間生産量の60万トンが境目だった。本物の需要が実感できた。「いも」と「焼酎」というイメージが「貧乏ったらしさ、みじめっぽさ」「おやじ」から、その抵抗感、偏見がなくなり、それそのもののおいしさ、文化というものが受け入れられてきた、と言う風に理解している。女性が嗜むようになって久しい。

 義兄は二人とも他県の人だが、アルコールをよく嗜んだ。別に強要したわけではなくて、いつしか我がブランドの焼酎を晩酌の定番とした。いちいち嫁の故郷から取り寄せるのは不経済で面倒だったから、ご近所のお酒屋さんに、美味いからこのブランドを置けと交渉したらしい。それは正解だった。個性が強い(いもくさい)ので、固定客がついた。聞いてみたら、東北の港町のAさんも同じことをしていたらしい。私たち夫婦、家族も芋焼酎を嗜むようになって久しい。

2009年8月12日水曜日

期待


 学業はできたようだ。「男尊女卑」、「立身出世」の時代的価値観の中で育ち、きっと母は「男に生まれたかった」に違いない。それが適わず、「いい大学を出て、そして・・・」ということで夢を息子に託した。それをものの見事に私は裏切った。あれほどプレッシャーを与えたひとだったのに、落胆せずに現実をあっさりと受け入れた(ように見えた)。

 大学を出て何とか就職ができて、さあ親孝行をしてくれると思ったらしい。そしたら一年もしないうちに結婚すると切り出した。“男はお嫁さんのものになる”と言って、本音はがっかりしたようだった。だが、この現実もあっさりと受け入れた。文句を言わせぬ私の態度もあったと思う。会ってみれば色の白い、背の高いひとだということで喜び、おっとりとした性格もお気に入りになった。最初に男の子が誕生してまた喜んでくれた。4時間の特急に乗って偶に孫たちに会いにきてくれた。博多駅に迎えに行った。今思えば60代後半でまだ若かった。

 平々凡々と生きてきた私にたいしてなんの非難もせず、母親としてありのままに受け容れてくれた。なんだ、そうだったのか。

 孫が長じて国家試験に合格したときには、ボケ始めてはいたがその“快挙”が理解できて大層喜んだ。“立身出世“を「子」ではなく「孫」が達成してくれた。ずっと以前だったら母は他人(ひと)に吹聴してそれとなく自慢したことだったろう。私自身は母の“期待”に反抗して何も応えなかった。

 意識がしっかりしていたら、この数日のその孫の雄姿を母に見せたかった。親バカちゃんりんの私はあっちこっちのチャンネルをひねって目を細めている。

 今現在、母は酸素マスクをして一生懸命に生きている。姉がついていて、おばあちゃんに会いたいと姪っ子夫婦が明日は駆けつける。

 そしてビルのなかで、私はもくもくと仕事をこなす。目から鱗をはがしながら、手のひらを返さない生き方を這うように追い求めて行く。

2009年8月11日火曜日

「戦友」かな


 私はSさんやK女史のことを勝手に「戦友」だと思っている。ご迷惑かもしれない。

 20数年前のたった1年間だったが、一緒にお仕事をさせていただいた。お二人はお取引先という関係だった。Sさんはデザイナーで、Kさんはコピーライター。日用品以外の家庭雑貨の特別企画品、「特企品(とっきひん)」と呼んでいたが、この企画を立てて毎週商品を選び、専用のカタログを毎週制作する仕事を、皆で組んでこなしていた。Sさんは職場に常駐、Kさんは新幹線で通ってきていた。私が独り善がりでずいぶん無理を強要したはずだから、閉口され恨まれたに違いない。汗顔の極みだ。業績が悪くなったのを引き継いで「再建」めいた気負いがあって、過密で長時間の労働に耐えた。お二人にはそれ以上につきあってもらった。それでも、創り上げていくやりがいがあって、結果について一緒に一喜一憂していただいた。嵐のように引き回して、翌年転勤してしまったのは想定外だった。

 年上のSさんはその後結婚した。奥さんにもお子さんにも未だに会ったことはないが、毎年年賀状をいただき家族写真を拝見していた。誰でも子どもが小さいときは家族写真を年賀状に使い、大きくなればいつしかやめてしまう。奥さんが律儀な人らしく盆暮れの挨拶をいただく。

 ちょうど1週間前のことだ。トンデンファームのウィンナー類が届いたので何年かぶりにお礼の電話をかけてみた。はずかしいので、今まであまりしたことがない。いつか、Sさんはイガグリ頭になっていましたよとKさんから聞いていた。人のことはいえない。頭のなかにあるのは、いつまでも、長くて厚い髪とりっぱな口髭でGパン姿だ。久しぶりに聞く声は昔の通りだった。

 独立してデザイン会社やっているのだからホームページはあるのかと訊いたら、そんなものはないという。メールアドレスはと訊いたら、あると言って初めてメールをいただいた。人柄の穏やかな人だ。娘さんがもう短大生で就活だという。

2009年8月10日月曜日

いつ、なんどき


 高熱が出て点滴を始めた。呼吸困難の事態に備えて酸素吸入も用意したと特養ホームから兄に連絡が入る。いよいよという段階かとも思うが、判断がつかない。火曜日の夜のことだった。朝もう一度、様子を訊くからいざというときは先に行ってほしいと。

 いざ、荷造りというと案外手間取る。なにと何を持っていけば、どこまで持っていけばと戸惑う。喪服は目立つところに置いていたが、先回確認したときは慶事のネクタイを入れたままだった。スクランブル発進できる荷物を常備しておくことにする。

 故郷に身内は一人きり、87を過ぎた叔母がいる。兄が夜、連絡をとって母のところに駆けつけてもらった。朝になって意識はもどり小康状態だという。しかし、こういうことは繰り返され、いずれ重篤な状態になっていくだろうと考えられる。

 こういうことが来るとわかっていたのに、気持ちだけあって実際にはなんの準備もしていなかった。JALには「介護割引」という料金があった、片道2万円も違う。いざとなればそんなことも言ってはいられないが、泥縄で一応手続きを考える。介護証明関係の在り処を兄に尋ねる。おぼつかない。戸籍謄本を取り寄せる。オリジナリティを保ちたいがために本籍は故郷に残しておいた、こういうことがあって家族に不便を言われる。また、いつも手元に現金があるものではない。郵便局しか使えない、民営化されて手数料などがあがった、庶民にとっていいことは何もない。宿はインターネットで探るが、故郷には原発があってメンテナンスの時期など、ときに宿がとれぬことがある。

 父の事故の時には兄も姉も東京から身ひとつで帰ってきた。急行か特急を乗り継いで2日がかりでたどり着いた。「父が危篤で」と切符を買ったらしい。帰り着くところには、母も上の姉も私もいる家族があった。親戚も大勢いた(存命していて元気だったと言うべきか)。何よりも皆が若かった。

 浅い眠りしかとれなかった。反動で翌日は深く寝た。

 当面の約束や注文をキャンセルする。職場のみなさんにも一応断っておく。

 昨日は平熱にもどり意識はあるらしいが酸素マスクをつけた母の画像が届く。もう覚悟している。いつ、なんどきが続く。つらい“待機”。

2009年8月9日日曜日

天変地異の夏

今年は夏の日が照らない。雨が降らぬ合間をぬって思いっきりセミが鳴く。明け方などは右往左往してコンクリートの電柱にぶつかる。アスファルトの道路にセミの死骸が転がる。

天変地異の夏だ。夜は地震まであった。ヒトとモノを粗末にする世の中になった。罰があたるべきはセミではないはずだ。

11時02分、黙祷すべき時間を逸した。
昼間『東京物語』(2時間16分)を鑑賞し終わる。・・・。初めて観たわけではなかったが、家族が因数分解されていく先駆けを感じる。私らが生まれたころに既に始まっていたのだ。小津安二郎監督のすごさ。家族というもの、生活のリアルさ。・・・。東山千栄子さん演じるお母さんが亡くなる情景が今の私にリアルに迫る。笠智衆さんがこのお父さん役を演じたのが48歳のときだったとは。

ナガサキ忌


 無残な死に方をしたくない。一番嫌なのが戦争と虐殺。

 どんと上がったものが、大牟田からも水俣からも見えた(聞こえた?)らしい。出水の鶴のセンターでもその話を聞いた。ナガサキは山と島の向こうだ。

 西本治子さんはうまく話せなくなって泣き出しそうになる。ほんの少しの差が家族の中で生死を分けた(張本勲さんもその体験を話す)。生活できなくなって母方の実家の天草に帰る。母親は、外見は何ともなく見えるが働けない。ぶらぶら病。原爆の長崎から逃げて来た(何か移るらしいというデマ)ということと原爆症(医者が経験したことのない放射能による後遺症)、そうして貧窮者にたいする無理解が二重三重に差別を呼ぶ。家族知人が殺されたこと、生き残っても身体も生活も苦しかったこと。九州弁でとつとつと語るが、悲しみがこみあげてくる。うまくは話せない。

 政府与党はそういう人々が死に絶えるのを待っているようにしか思えないような態度をとってきた。原爆集団訴訟の被告として19連敗。今度の選挙が迫ってこなければ、さらにそ知らぬ顔をしていたのかもしれない。政権交代はあってしかるべきと考える。政治の冷たさを本質的に変えなければならない。

 日系アメリカ人のスティーブン・オカザキ監督はドキュメンタリー映画「ヒロシマ・ナガサキ」を25年の歳月をかけて完成させた(2007年)。これをDVDで入手することができる(2800円税別)。「生きる勇気と尊厳」を受け止めさせると評される。もちろん、アメリカで上映、放映された。ひょっとしたら、オバマさんも観たのかもしれない。

えーとチャレンジ


 いつも道理は妻殿の側にある。指切りまでする。「よしわかった、武士に二言はない」と啖呵を切って、三言も四言もしたことがある。「気が変わった、情勢が変わった、今日は忙しい」それで、針千本飲んだことがない。

 ヤクソクの夕食を準備し、約束のあとかたづけをする。

 時間がないと思ったから、カマスと豆アジの開きを出して自然解凍を始める。背黒いわしのゴマ漬けはもう少し後にする。うちは不思議だ、生協から「来る」。私の“買いたい買いたい病”は「買った覚えがない」。

 久々に“庶民の米びつ”を覗く。もう“やくそくげん米”は月に一度で足りる。

 この前の集会で発言に立った派遣労働者の方が政府与党は経済政策と称してエコ減税などを実施しているが、あれは自動車業界への救済政策であってエコひいきであると断じた。実感だ。それはいいとして、エコチャレンジ・産地がんばり値引きで買ったキャベツの残りとエコチャレンジたまねぎ1個ともやしの残りで炒め物をつくりましょう。久しぶりに、男子、厨房に立つ。あれっ、フライパンはどこ?

 「お疲れ様、何時ごろになりますか」「7時半ごろになります」「りょうかい」。いそいそ。先週は冷房の無い体育館での練習で汗だくになったらしい。

 踊り方をユーチューブに配信してあるから予習復習をしてきなさいとメールがあったらしい。午前中はこれを見ながらやっていって、レッスンは4時間みっちり。それぞれの先生たちが待機していてほとんど休み無し。山田洋次さんが「ミュージカルという複雑で面倒な舞台を作り上げてゆく、その楽しい大混乱と大騒ぎのプロセスを想像すると、ぼくはなんだか胸が熱くなるのです」とメッセージを寄せている。それを地でいくようだ。

 ビールを冷やしておいたのでプハーをやろうと用意する。乾杯、実は自分が飲みたかった。途中から焼酎のオンザロックに。氷も生協で来た。たのんだ覚えがある。メーカーはN社。昔からこの分野は得意だ。

 酔えば普段なら、ここで、はい、おやすみなさい。それを見透かされ、食器は洗うのかと釘を刺される。ぐっとこらえ「あなたはどんと座っていなさい」と、お任せあれ♪とばかりにお片づけ。後ろからグリルの中も分解して洗って、と追い討ち。普段妻殿が使ってくれない台所用石けん洗剤を使って洗う。どうだ、文句あるか。では失礼しますで、ばたんキュー。

 家事労働、ほんとは土下座をして感謝しなければならないところを「お茶、新聞、羊羹(?)」でふんぞりかえっている。もちろん、日々反撃されているが。

 まっ、昨夜のところは面目を保った。来週は盆休み。再来週からいよいよ土日両日。よっしゃ、まかしとけ。冷凍食品という強えぇ、味方がある。とくに生協ではたくさん扱っている。王将のギョーザまである(中国製はPTSDになったけど)。どれにしようか、「人気ランキング」には逆らいたいが。

 宣伝チラシができた。チケットも預かってきた。さて、誰に買ってもらおう。出演しているからと義理人情でほとんど押し付ける相手と、そ知らぬ顔をして買ってもらう相手と区分するか。「妻殿が出ている」とつい言ってしまいそうだ、くふふふ。

 先日の新聞にあらためて載っていたので、むしょうに観たくなった『東京物語』を借りてくる。VHSしかなくて一週間レンタルで50円になっていた。

 さっ、今日もいいことをしよう。

2009年8月8日土曜日

田舎体験


 コンビニに確か置くようになったはずだ。で、行ってみたら置いてあるものでは症状には用をなさないと考えられた。そこで、薬屋さんの所在を尋ねて思い知った。隣の大きな街にしかないという。そこまで10kmはある。

 駅はあるが2時間に1本。最寄駅まで歩いて20分、炎天下はつらかった。まして症状がある。2両編成だが、夜の下りに乗ったら私たち二人しか乗っていなかった(いつ、廃線になっても不思議ではない)。市営の福祉循環バスもあるが1日に往復1便。しかも土日には運用されない。

 街の駅で降りても、実のところ商店街はシャッター通りだった。もう街には薬店薬局はなくなっていた。結局、郊外型のドラッグストアしかない。医薬品は薬剤師のいるレジからしか買えなくなったはずだが、対応もこころもとなく町の薬屋さんのような親身なやりとりはなかった。これがいけなかった。買った薬の判断を誤った。

 田舎に行って考えた。田舎に住んで車がなければ生きていけそうにない。まして年寄りになって車がなければライフラインを維持できそうにない。車を運転できなくなれば、これが断たれることになる。加齢と反比例することだ。

 あのころ、18歳になると同時にあるいは卒業の春休みに同級生の男子は運転免許をとった。私はそういうことに関心がなく疎かった。また、大金が必要だったから母親に言うのは気が引けた。本来、我が業種に普通免許は必須な側面がある。ただ私の場合、仕事は事務職でとくに必要としなかった。職場はすべて駅の近くだった。

 免許をようやくとったのは30代後半。それと同時に車を買った。子どもが多かったのでワンボックスカーを買ったが、いざ乗せると車酔いをするのであまり役には立たなかった。それ以前の若いときには車がなく、今流にいえばエコな生活をしていた。自転車を活用した。前と後ろに乗せて背中に負んぶして、海水浴にもハイキングにも行った。パトカーにみつかれば説教された。今は軽カーにしているが、買い物と雨の日ぐらいであまり使わない。

 さて、田舎暮らしが明るい未来だけではないようだ、地方がへとへとに見える。

2009年8月7日金曜日

いよいよだ


 この国で初めての裁判員裁判(8月3日開始)は中継めいた報道もあって大きく注目された。

 我が子がいい大人になって社会人として自立していれば、もう親としてとくに言うことはない。健康に気遣ってほしいと願うことだけだ。

 全国では2番目とはいえ、県下でも衆目の集中するところだ。目の前に控える仕事に我が子のことだから緊張していることだろう。コトによっては何からなにまでやらなければ気がすまない側面があるようだ。その性分は私に似たのかもしれない。「気合いれてやれ」と「なるようにしかならない」といった言葉をかけるぐらいしかできない。

 「いよいよ来週だね。用意周到、腹据えて頑張って!あとはなるようになる。おなかに注意。」「ありがとう。今から緊張しているけど頑張ります!」

 三男は夏休みをとって中国の南部に行ってくるらしい。本日出発だ。
「気をつけて行ってらっしゃい。正露丸みたいな整腸剤持っていった方がいい。季節がら食中りに注意すること」「行ってきます。正露丸もちました。」

 私は自分のことは棚にあげて我が子には忠告できるようだ。暑い日差しの覚えがない、今年は夏がないようだ。

2009年8月6日木曜日

原爆“鬼”


 体重が4キロ減った。筋肉質になったからではない。このあいだの、食中りの打撃のように考えられる。お粥にすると具合がいい。私は酒も飲むが甘いものも好む。ここのところその間食も控えている。大食い早食い、出されたものは残さないという食生活をしてきた。「食べ物がなかったとき」というDNAを持っているような気がしている。

 昭和20年(1945年)秋、私が生まれていない私の一家は引き揚げ船で広島県の宇品港に上陸した。それで、当時8歳だった兄に訊いてみた。ヒロシマを見たかと。
 「んにゃ、着いたのは真夜中で真っ暗。すぐに汽車に乗せられた。何もみていない」そんな記憶しかないと。

 たいへんだった。食べるものが無くて大変だった。空襲で大変だった。などと言い聞かせられるように聞かされて、そのあとは「だから我慢しなさい」だったからあまり真正面から聞こうとはしなかった。下の姉は乳飲み子で本当に大変だったはずだ。具体的にどう大変だったのか聞き損ねた。もう母から聞くことはできない。こうなれば、兄や上の姉からも記憶を引き出したいものだが。

 原爆を投下したことは平和を早く実現することに貢献したのだ、自国の何万人ものアメリカ兵の犠牲を回避した。崇高な任務を遂行したということをエノラ・ゲイの搭乗者は固く信じて疑わない。一般的なアメリカ世論もそうだと聞いている。原爆は平和のために必要であったと。ひたすら任務を遂行した有能な搭乗員で、普通の市民だとは思う。いくら実相を伝えようとしても聞く耳をもたない。
 そのアメリカのオバマ大統領が、核兵器を使用したことのある国の当事者として、「行動すべき道義的責任」に触れた(09年4月9日、プラハ演説)。世界に一筋の光明が見えた。

 核兵器使用は誰がなんと言おうとも、その結果は「この世の鬼の行状」である。

 北朝鮮が核をもつから、わが国も、と唱える自民・民主の政治屋(せいじや)たちの浅薄な主張を私は断固悪(にく)む。

2009年8月5日水曜日

お受験とレッスン


 私が佐渡に行っている間に妻殿のお受験は終わった。資格を取ることになるのかと訊いたらそうでもない。業界の、認証の限りのようだ。仕事の内容がより深く理解できるようになって、合格すれば達成感があると言う。殊勝である。とは言っても「ん十年」ぶりのお受験はそれなりの重圧だったようだ。なにがしか、逃避したかったようで、お茶をたのむと普段は自分でやれ若しくはジャンケンだったのが、嫁いできたばかりのお嫁さんのようにいそいそと用意してくださる。そんなことでやる気あるのかと気合を入れてやると、やる気はあるという。ノートに向かえば居眠りを始める…。そんな姿を見ていたが、終わった。どうだったと訊くと、難しかったと。で、みんなも難しかったと言っていたよ、とも。

 オーディションにも出ず、初練習にも出られず、ようやく2回目の練習から合流した。そんな人が5人もいたそうだ。3回目のレッスンで立ち位置が決まったそうだ。一番後ろだと。そりゃそうだわな、というと、いや背が高い方だからという。今はおたおたしているらしい、無理もない。プロ並の常連の人もいる、お年寄りもいるらしい。男性がまだ足りないから来ないかと言うが、とんでもない。この数ヶ月の週末はそれに打ち込む。私はいそいそと生協で簡単便利な冷凍食品を買い込むことになる、と思う。緞帳が開き、流れるように唄い踊りながら登場する妻殿たちの姿を夢見ながら…。くふふふ。

 いろいろな運動、地道なやり方があるものだ。ペットボトルの蓋を捨てないで、と妻殿。ミュージカルの仲間にこれを集めて何かの社会に役立てるという人がいるのだそうだ。加入している生協やユニセフでもいろいろなことを呼びかけているが、心がけて“かたって(参加して)いる”。

2009年8月4日火曜日

健在だ

 出勤の準備で部屋を行き来しながら、耳でNHKの「おはよう日本」を「観て」いた。6時半過ぎぐらいか。最近、「直売所」が元気だという。ふむふむ。「安さ以外で客を呼べ」、ほう、函館だ。有機農法の作物を提供しているというご婦人…。あっ、あっ、あっ、あっ、もしかして。その通り、長谷川照美さんと名前がでる。あわてて、ゴミ置きから帰ってきた妻殿を呼ぶ。ほんとだ。直売所は出会い場だという。野菜をただ並べて売るだけではなくレシピを提供し、栄養価や効能を伝える、対面で売る。「とれ立て野菜の魅力はたくさん栄養が詰まっていておいしいこと」自分のつくった野菜を自分の言葉でしゃべる。「いろんな質問が来て、いやほんとに驚きました」とインタビューに応えていた。

 長谷川さんは根っからの農民ではなかったと思う。珍しい女性ボクサー。ボクササイズのレッスンをもっていて皆に人気があった。あるとき、農業をやりたい、それも自然と向き合う有機農業を。志を同じくするつれあいができたと言って、埼玉から函館へ移住して行った。ささやかな送別会を企画し、人望があったからみなが集まった。あの照美さんの現在のお姿をすっかり拝見させていただいた。生き方に芯が通っている方だ。

 その函館も、7月の長雨(例年の3倍の降雨量)と日照不足(例年の63%)で、農作物の収穫への深刻な打撃の恐れが地元の「函館新聞」でも報じられている。93年のあのとき、集中豪雨・日照不足・米と農作物の不作・政変(自民党の下野・細川内閣発足)に似てきた。

異人たちとの夏


イカ釣り船は夏の海の風物だ。
週末にAさんから突然イカをいただいた。

Aさんは魚屋さんには違いないが漁港の加工屋さんなので箱単位で送って寄越す。ご近所でお裾分けでもしないと食べきれない。刺身で食べて、妻殿が塩辛をつくり、丸焼き、醤油漬け、インターネットと料理書を調べてイタリアンなどイカ尽くしが続く。次男を呼べばなんの不自然さもなく厨房に立つ。

Aさんの目利きに「はずれ」はない。そのことを私が認めていることを「あうん」の呼吸でAさんはわかっている。誇りをもっている。それだからいつまでも付き合いが続く、お互いを認め合っている。

我社関係の仕事をしているの?と訊けば、しているよと応える。詳しく調べたわけではないが、下請けか孫請けに甘んじているようだ。産地は水揚げが落ちれば、何らかの付加価値加工をしていかなければ食ってはいけない。いち早く、何らかのコンシュマーパック(消費者に直接届く加工製品)をつくることだと熱心に勧めた。もう昔のことだ。当時は目先の水揚げが集中してそんなことには構っていられなかった。他の漁港をおさえて、魚を満載した漁船はひしめくように入船してきた。その期待に、浜の加工屋さんとして寝る間を惜しんで応えた。

あのころ、20数年前、食品加工場をつくっていれば今ごろはどうなっていただろう。そういうことをしなくてよかったのかもしれない。工場をつくっていれば、畢竟、さばやさんまを持って中国に進出していたかもしれない。そうしたら、「儲ける」ことはあっても、魚のプロの自信をもっているからそんな「商売」には嫌気が差していたかもしれない。もっとも、そういうことが先に見えていて、そういう道に進まなかったのかもしれない。

数年前、再訪したときはまるで「異人たちとの夏(1988年 監督:大林宣彦、出演:風間杜夫、片岡鶴太郎、秋吉久美子)」だった。事務所はそのまま、働いている事務員の方(Aさんの奥さん、親戚のご婦人)もそのまま、応接台もそのまま。そのまま20年が過ぎて年を重ねていた。Aさんとの親交はまるで実家に帰ったような暖かさ。そして、あの映画のような、錯覚を感じた。

「お変わりもなく」と挨拶を交わしたものの、その瞬間、互いに過ぎし幾星霜のことを考えたに違いない。

2009年8月3日月曜日

足跡


猫に言い聞かせることはできない。

昔の実家のこと。二階への上がり口の土間は三和土(たたき)だった。それをあるとき母はコンクリートにしたらしい。仕上がってみればうちの愛猫の足跡がついていた。そのかわいがっていた猫がいなくなっても、たまに家に帰れば薄暗い土間にいつでもその足跡が残っていた。実家は母がボケてから取り壊し、更地にして二束三文に近い価格で買われてしまった。父母の戦後の財産だった。猫の足跡と一緒になくなってしまった。

佐渡の野浦というところ。裏山の下りの里道で中島さんは車を止め、案内してくれた。昨秋放鳥されたトキの足跡があると。同行のみなさんも印象に残ったようだ。各々のブログにアップしてある。天邪鬼をしたかったが、やっぱりアップすることにした。このトキさんは、足に付いたセメントをいったいどうしたのだろう。ちなみに、猫は動作でおおよそどうしたかわかるのだが。

私がいつかいなくなってしまって、私の足跡は残るのだろうか。

*妻殿に隠れて、そっと生協のカタログの注文に「猫トング」を付け加えておいた。で、事後承認を得た。できることなら、「肉球」も付いているといいなと思った次第。

2009年8月2日日曜日

ラムネ温泉


 その駅は、今では観光名所になった肥薩線の嘉例川駅だったのではないかと思う。

 母は南国(鹿児島、奄美・沖縄、台湾)特有といわれる風土病(*)を持ち、ときどき発する症状に悩まされていた。医者にかかっても軽快しなかったので、勢い民間療法に頼った。飲泉と湯治。そこが霧島の「ラムネ温泉」というところだった。ここの泉水を幾日もがぶがぶ飲み続ければ効き、症状が治まったらしい。

*フィラリア症による乳糜尿(にゅうびにょう)という乳白色の尿になり倦怠感を訴えた、と記憶している。

 チッキで布団から味噌から米から何から何まで送り、自炊した。荷物は駅からタクシー(母たちはハイヤーと呼んでいた)で運んだが、逗留していて次からは歩いた。こども心に、遥かな道のりで夏の日だったと記憶している。空の青さと、暑さ、蝉のかしましさがぐーっとのしかかるようだった。白い砂利道、田んぼや森の緑の深さ。どれもこれも卒倒しそうなまぶしさだった。

 「ラムネ」温泉だというから期待した。

 ラムネやサイダーは夏休みに東京から帰ってきた従兄弟には接待として出したのに、私らにはめったに出してもらえるものではなかった。
 栓を抜いたときのシュワー、注ぐときのカッポンカッポン、飲んだときの喉への刺激。東京弁をしゃべる従兄の喉元を、それこそ生唾を飲み込むように口を空けて見つめていたはずである。従兄は飲みにくかったに違いない。同じように叔父も泡の立つビールを飲むので、いつか目を盗んで嘗めてみて驚いた、何だ、この苦さは。

 ラムネの町工場が近所にあって、夏になると排水口のあるドブにラムネ玉をみんなで探しにいった。ビー玉のことを我々は「めん玉」と呼んでいた。幼いころ私はホントに何かの目玉だと思っていた。穴入れ遊びをして、負けると巻き上げられた。で、いつも巻き上げられた。

 ラムネでもなんでもないではないか。ほんもののラムネを飲ませろと母にもがった(=駄々をこねた)。泉水は炭酸成分を比較的多く含む胃腸に効くようなものだったと考えられる。子どもに飲める代物でもなかった。ないものねだりなのであきらめた。何もないところだった。無論、駄菓子屋もない。

 渓流の上の茶畑で地元の子と夢中で遊んだのだろう。いつか夜になって下半身が真っ赤になって痒くて一晩泣いた。何かにかぶれたのか、ダニにでもやられたのだろう。そこは温泉だ、それで治した。そんな記憶がある。

 そのラムネ温泉は「平成5年(1993年)8月豪雨」と記録される集中豪雨のときに濁流とともに流されたということを、ずっと後になって妙見温泉の老舗「おりはし旅館」で聞いた。

 当時、地元の知り合いがあの年は6月と7月に梅雨が2回あったと言った。とにかく激しい雨が降り大災害を蒙った。8月1日と6日のことである。今年もそのようなことが山口と北部九州でおきている。 93年は米がとれなかった冷夏のあの年だ。

 今回、霧島に行く途中に「ラムネ温泉」という看板が掲げてあった。前から気になっていたので、そのわき道に沿って入ってみた。新しい湯治場棟のようなもので営業されていた。ここが当時のところなのかまったく思い出せなかった。

2009年8月1日土曜日

佐渡の「季節限定やりいか一夜干」


 「丸のやりいかの一夜干し」と「するめいかの開いたのの一夜干し」とどちらがいいのかと訊いたら、女店主さんに迷わず「やりいか」と一言だった。訊いたほうが野暮だった。それでまた信用した。

 両津港の改札を出たら、左手にいきなりのキンキンきらきらのお土産屋さんが並んでいる。この明るさは、仕事柄1,000ルクス以上はあると考えられる。なにがこうなのかなと思えば、佐渡といえば金山だからかな。佐渡にはいっぱいお土産があるようだ。

 そこではなくて、よかったらここの海産物店がいいとYさんが車を止めて薦めてくれたので引き返して中に入る。その地のお土産を買ったつもりで、他の土地のものだったり、ましてやメイド・イン・ナントカだったりすると興ざめだ。それでYさんが気を利かせてくれた。「はたはたの干したもの」は食べたことがない。そもそも「はたはた」に縁がない。やりいかと併せてそれを求めた。「もずく」や「あご(飛び魚)の干したもの」佐渡のあれやこれやもあったが、またの機会にした。帰り着くのは夜だ、4、5時間はかかる。

 これを選ぶのがあたり前のようにいわれた「やりいか」は、きちんと「ワタ」まで解凍してから焼くようにといわれた。これは、当たりだった。子持ちで、卵はいぶし銀のようでもあるし黄金でもあるように見える。やりいかそのものが美味いものだが、これは季節限定というだけあって、ワタが美味・珍味でおいしかった。まだ2尾残りがあるので息子を呼ぼう。

 あたるならこういうものにあたりたい。