2008年8月31日日曜日

我家のさんま


 さんまの季節、昨夜留守電に「送るぞ」と電話が入っていた。ちょうど酔っていたころ。

 この人の目利きの魚を食べるようになって、スーパーの魚が食べられなくなった。

 売り場の過当競争が嵩じて、「走り」もより早くなった。ふた昔も前なら今ごろが十分「走り」のようなものだったが、昨今そうではない。だから生産者の価格はもたない。店頭の価格は128円ぐらいから158円ぐらいになっている。水揚げ高をあげるためには量をたくさん獲るしかない。それがまた価格を下げる悪循環。何回かの休漁を申し合わせる。

 3年前に北海道の野付の食堂で「走り」のさんまを食べた。7月下旬だった、北海道のはるか東の漁場の試験的操業で獲ったもので市場に出回る。小さいが脂がのっている。最初は小型船から操業が許可され8月の初めには首都圏にさんまが出回るようになる。結局生産者にとって価格がもつのはその頃ぐらいまでで、あとは一挙に下がっていく。「走り」が嵩じて、こういう競争になる。

 待っていさえすれば、さんまの群れは道東沖に集まり、やがて南下を始め三陸沖に漁場を形成する。それが秋という季節。順に近くの漁港から獲りにいけばよいのだが、ところが、より早く獲ろうとする。そして「さんまは道東沖」という売り場の創り出した「神話」にも呪縛される。

 売り場の側で「さんまは北海道」がよいという決め付けが創り出されたと思っている。それもカタログを持つ我々のグループによってではないかと思う。
 夏から初秋にかけては長く北海道沖(道東という)にさんまの魚群はいるし、また太ってくるから確かに旨い。しかし、秋になれば一気に次々と三陸沖、常磐から銚子沖へと南下する。一般的に回遊をし、婚姻と産卵の準備のために移動する魚群の第一群つまり最初のころの群れは「チカラ」があって、旨い。「走りの良さ」の本質はそこにある。早ければよいというものではない(早さを競った江戸っ子気質なら別だが)。

 すぐ近くの沖合でとって近くの港に水揚げする三陸ものは、決して北海道のさんまには劣らない。第一群、第二群、・・・、といった有力な魚群が主体だからだ。
 北海道と三陸の中間に漁場がある時期、意識的に北海道にもっていって「北海道のさんま」にすることもある不合理。「さんまは道東」という中には、杓子定規な「虚構」がある場合がある、安直な売り場のコピーのためのもの。

 北海道ではさんまは根室にあげ、より漁場に近い厚岸(あっけし)に揚げた。根室、釧路という加工基地があるが、昔は魚種(とくに秋鮭や蟹と時期が重なる)も水揚げ量も豊かでさんまどころではなく、それで厚岸だけが専門の漁港になっていった。

 三陸では気仙沼がブランドだったが体質が古くて捌ききれず、量を捌く女川(おながわ)に漁船は多くを水揚げした。以北の漁港に比べれば、消費地への距離が圧倒的に有利だった。

 その女川で水産加工業を営むAさん。加工業といっても浜の加工屋さん。港でダンプごと買った魚を加工場の巨大な魚槽に運び込み、仕立て直して消費地市場に出荷する。九州なんかの事例を示して、当時まだ珍しかったコンシュマーパックまでやるような食品加工工場への発展をすすめたが、応じてはくれなかった、20年近くも前のこと。魚はいくらでも揚がっていて、また魚の目利きに覚えがあって、その必要を感じなかったのだろう。北海道・三陸は日本の大量漁獲の水揚げ基地、供給地として食っていけて必要を感じなかったのだろう。産地での付加価値加工のことだったが、荷捌きで手一杯だったことも事実だ。

 やはり破綻した。大量水揚げがなくなった。釧路も気仙沼も女川も有名漁港の老舗はほとんど没落し、日本の有力漁港の賑わいの灯が消えつつある。代わりに勃興してきたのが、商社や大手水産会社と手を組んで「検品と技術指導」ということで中国に進出して工場を営み帰ってきた目先の利いた加工屋さんたちである。漁港における有力加工屋さんの力関係が変貌していた。産地、食品加工工場の経営である。彼等にとっての港や産地は「中国」である。中国からは剥き身の切身やかにの棒肉、骨無しの切身やフィレー、もろもろの加工仕掛品がやってくる。この「水揚げ」も長くは続かぬようには思えるが・・・。

 女川のAさんは、浜の魚の荷捌きをする。目利きはプロだから、私にはいいものを送ってよこす。だからいいものがあがったときにしかよこさないから、こちらの都合はおかまいなしの時があって大慌てする。

 水揚げが激減してさすがに食っていけなくなったようだから、養殖の銀鮭も手掛け、そして魚の一次加工なども常時手掛けるようになったらしい。聴けば我がグループの取引先の下請けのそのまた下請けのようなものに甘んじているようだ。
 出遭ったころはまだ若くて子育てや教育のことなども話題にしたが、Aさんもそろそろ60に近いらしい。それぞれの人生、大病もしたらしい。大成しなかったような気がするが、チマチマしたことではなくて、信頼し合ってその腕と人生を認め合っているような気がする。

 「腕が落ちたね」というころは孫のことでも話しているころかもしれない。
 急遽、独立した子供達をそれぞれに呼んで、さんまの刺身、塩焼きを楽しんだ。我家の「走りのさんま」。ほかでは味わえない。

2008年8月30日土曜日

前向き


 8月の末になると蒼くなっていた。山のような夏休みの宿題をやっていなかったから。「あしたがあるさ、明日がある」で過ごしたから。

 やまなしのYさん。今度ご一緒した理事さんのひとり。小柄でちょうど西岸良平「鎌倉ものがたり」の主人公の愛妻「一色亜紀子」さんを、ほんの少し加齢した感じ。

 とにかく前向き。何事も決して悪くは考えない、いいほうに良い方に考えるタイプの御仁。ここのところ、そんな人には幾人か出遭ってきたが、とてつもなく前向き、積極的な人に思えた人。何か悩みはないのかと聴いても、ん~んとくに無いと。

 インドネシア語の簡易な会話辞典をもって、どこにでも飛び込んで行き、何でも見て、誰とでも話し、お昼休みの工場の若い婦人労働者にとけこみ記念撮影。だから、この訪問中でできる限りのあらゆる経験をなさったのではないだろうか。もちろんエビの手づかみ収穫も。FORUMの自己紹介のときにはインドネシア語でごあいさつ。生産者からのやんやの喝采。もっとも、インドネシア語でごあいさつしたのは理事さん全員でしたし、収穫もほとんどのかたがたが体験なさいました。

 お世話になったSさんとの久しぶりの再会。団長格でFORUMでのりっぱなごあいさつ。田んぼが好きで今回の池の収穫にもすすんで入る、なぜ私も入らぬのかとおっしゃった素敵なご婦人。

 引っ込み思案で人任せ、「寄らば大樹の陰」で生きてきた私なんか‘たじたじ’。後ろ向き人生を歩んできたような私には、それぞれに魅力的な皆さんとの出遭いでした。

 帰りの日のマングローブの公園でみんな揃って撮った写真を画像でいただきました。みなさんがそろって明るい、私も。記念になる傑作。時が経てばきっと、またきっと「前向き」を思い起こしてくれそう。

 今夜NHKで、「愛の水中花」松坂慶子さんのレオタード姿はもう見られなかった、いや見るもんじゃないと思った、篤姫様に対座する「幾島」姿で十分。いいとこを探そうと。魅力は倍化している。

2008年8月28日木曜日

気骨のある発表


「食品製造業の次男で、私立大出て荷受で修行、会社に帰って役員(専務)、なんとか賞受賞」だから典型的なボンボンの、我社と製品自慢の話かと思っていた。

あにはからんや実にしっかりした話だったからまったくの「期待」はずれだった、良い方に。

以下は6月に聴いた「日本における中小企業零細企業の食品安全」という発表のその“さわり”

・極端に例えれば食品の品質は医薬品並みを要求されている。高度な食品安全。「宇宙食?」
ところが価格は医薬品の1/100。価格競争と原料高騰にさらされる。設備投資無理。

・日本の食品産業 従業員規模では99%が中小零細企業。

・零細企業・・従来徒弟制という厳しい教育訓練(修行)で商品安全が守られてきた。
しかし、維持できなくなってきた。なんらかの仕組みの必要。

・製造工程の安全対策がいびつ、さかさま
苦情発生のたびに対策を講じる→検品・包装 いびつに対策 ~ 異物混入危害
(見た目だけのHACCP対応施設)
加熱・冷却 本来重要なCPP ~ 病原微生物危害 
成型 ~ 本当の品質向上、歩留まり

・取引先に約束している。工程を変更するのが恐い。
無理な商品開発、納品時間、価格、などなど。

2008年8月27日水曜日

おみやげ今昔


 87年インドネシアの産地で生産者の協同組合をつくろうとしていたシディックさんという人がお別れにくれたおみやげ。この素朴さがずっとお気に入り。赤道を越えた南の田舎のんびりさがつたわってくるようだったから。

 08年バリ島の帰りの空港の売店で目に入った。神のお告げのようなものを感じ、いくらか値切って買い求めた。どこも同じおみやげの中で、唯一その売店でしか見なかった。 ペダルも車輪もまわる。

 そういえば、中国の陰にこそ隠れたが、インドネシアは工業化と開発にひたすら走った国。熱帯雨林もマングローブの林も減った。

 見渡す限りの田園風景と仰ぎ見る高く美しい山がずっと頭の中に残っていたが、今回は都市化の中に囲まれた田園風景だった。建物にさえぎられあの高く美しい山はなかなか仰ぎ見ることができなかった。車とオートバイと道路と工場の数は見た目にも増えていた。

 21年「ふた昔」も前と比較しても詮なきこと。

 忍び寄るもの。エビから世界が見える、それを考えながら。

2008年8月26日火曜日

炭鉱と機動隊のカナリヤ


昔、日本はあちこちに炭鉱があった。地下坑道にはカナリヤをつれていた。
ガスの充満のもしもに備えて。
あの時、オームのサティアンに捜索に入るとき、機動隊はカナリヤをつれていった。
もしもの毒ガスに備えた。

ある商品の苦情お申し出が一箇所で続いていたが、違う地方でも出た。
また、違う品目だが、「なんとか」という今様の商品でも出た。

「キャー!」と言えと担当分野の仲間に助言する。

「狼(おおかみ)少年」部隊ではなくて「カナリヤ」部隊。

悲鳴で苦しからず、いや苦しい悲鳴をあげる感性が必要。
うっとうしく思われて結構。

五感、第六感部隊。

2008年8月25日月曜日

OPEN FORUM参加録 その1

 ATJ社は日本の民衆交易(≒フェアトレード)の実践者としては第一人者で有名な企業である。わずか19人のスタッフで成り立っているらしい。砂糖、バナナ、エビ、コーヒー、塩、オリーブオイルの事業を積み上げている。

 そのATJ社が、03年にインドネシアのエビで有名な産地に現地法人(ATINA社)を、05年には現地工場を立ち上げた。

 今年1月に参加しないかという打診を真に受けて、その後とくに連絡もとり合わなかったが、日程に合わせて夏季休暇をとっていた。相手の皆さんは仕事で私は貴重な休暇。少なからぬ自費負担と休養にはならないとわかっていて、行くかどうか迷いもあった。ままよと、好き好んで行くことにしたのは、やはりかつて間接的にはかかわった分野だったこと、「エビから見える世界」が今はどうなっているのか、我社なら避ける「恐いもの知らず」にも見える事業をこの目でみたいと思ったからだ。この機会を逃せばもう無かろうと思った。

 インドネシア側の生産者、工場の皆さんと、日本側の個人対応型をめざすという個配システムのみなさん(会員理事と職員、事務局、有識者)との、「国際産直」の二者認証の「OPEN FORUM」開催への参加が目的であった。ATJ・ATINA社にとっても初めてで、主催する個配システム側もエビで開催するのは初めてだったという。ATJ社の部長さんは(このエビを扱って)18年間の夢、生産者と消費者の交流がかなったと挨拶された。

 自己紹介では「この地(シドアルジョという産地)にATJ・ATINA社が生産工場をつくられたことに驚くとともに強い関心をもって参加する機会を得た」と正直に述べた。

 農業と畜産は人類の歴史のなかで自然に働きかけ長い年月をかけてつくりあげてきたもの。水産は逆に漁労漁獲が中心で何かを育て収穫するものではない。つまり「養殖」の歴史は非常に浅く、否定的成果に苦しめられることになる。といいながら、実は養殖というのは人類史的に言えば古くから、草魚の類、なまずの類の淡水魚で脈々と営まれてきている。それは東南アジアや中国、先住民のアメリカ大陸にあって、その生産量もばかにならない。世界を放浪したことのある人なら「トイレで池にチャポン」「池には魚」のような経験をされたことがあるだろう。金儲けが目的の現代養殖の事業と違って、伝統養殖は食べ物をつくる営みであり循環型。ベトナムのシーフードレストランのトイレに入ってひょっとしたらと思ったことのある「食べて出しているつながり」。トイレと豚の関係と同じ。

 元は塩田の開発が始まりだったらしい。海水を干満のチカラで川の下流やマングローブ林の汽水域からとりいれると魚やエビの稚魚も入り込み、それらが勝手に大きくなり収穫できることに気付いたらしい。迫害されて海辺へ追いやられ「食うために」みつけだした先祖たちの知恵ともいう。近年までは自分らの食糧のために魚(インドネシア語で「バンデン」と呼ばれる大衆魚、白身魚でおいしい)を育てていてエビは副産物だった。これが外貨を稼げるとあって逆転させ、エビを育てて出荷することにした。これが「伝統的粗放養殖」と呼ばれる、ほとんど農業に近い作業の方法。それがインドネシア・シドアルジョというような所のエビのつくりかた。

 エビはついこの間の40年ほど前までは天然の漁獲に頼っていた。1960年代までは湧くほど各産地にエビがいたはずである。これは他のどの魚種にも言える。種類こそ違え、世界のどこの海にもあった。例えば西アフリカ沖のタコがそうである。とくに熱帯、亜熱帯の地域に。しかしながら段々に獲りつくした。 このことの問題!

 一方、ブラックタイガーという南方系の種類について養殖が実用化されたのが1970年代の台湾に始まる。一挙に増産が始まる。この方式が東南アジアと中国各地に広まる。徐々に技術が高まる。孵化から稚魚、そして人工飼料、薬品、反収をあげるための飼育の仕方。そのために効率を極限にまで上げた高密度「集約型養殖」と呼ばれる。社会的分業とほとんど工業的手法に近い。そして開発型であったので東南アジアの汽水域のあるマングローブの林を潰した。 このことの問題。

 ところが80年代後半に台湾は潰滅する。地下水を汲み上げ利用していたために村全体も文字通り地盤沈下する。エビ御殿は傾いた。90年代初めに中国の大正エビが瞬く間に全滅する。それに続くタイの産地(バンコク周辺)の潰滅。エビがつくれなくなったどころか、大切な土地が池にも田んぼにも戻らなくなって、見渡す限り干上がった荒涼とした光景が広がった。これらを偶然、私は見聞することになった。バイヤーは舌打ちをしながら別の産地をみつければよかった。或いは開発させればよかった。

 いずれも、病気が発生したため。「自然は復讐する」を地で行く現象。

 バイヤーは、もっと別の場所に、たとえばスマトラ島にスラウェシ島に、数多(あまた)あるどこかの島に、首尾一貫した産地開発を促しさえすればよかった。より大型開発となって現在に至っている。したがってインドネシアが有力産地に「成長」してきた。数年前から養殖エビの主流がブラックタイガーからバナメイという種類に替わった。病気に強く早く育つため。ブラックタイガーは入手しづらくなっている。
 これはブラックタイガーに比べてあまりおいしいエビではない。

 今回21年ぶりにインドネシア・シドアルジョを訪問。伝統的な池と生産方法が健在であったことをうれしく思った。エビの収穫を見せてもらった。生産者のみなさんの働きと自然によく向き合った作用によってエビを育み、それを収穫する。また、その次もそのことができる。理にかなった育成方法。だからエビがおいしい。私は「エビにチカラがある」と表現する。この地にあった育て方が、将来も生き残るだろうと考えられる。

 この方法は餌を与えないやりかた。「ガンガン」という水草を干して発酵させそれを池に戻して、その栄養でプランクトンが発生しそれがエビの餌となる。「バンデン」という魚と共生ができ、よく水面上に飛び跳ねる動きの活発な魚なのでそのことによりエビに酸素を供給してくれる。密飼いをせずにエビの習性に合わせた自然に近い環境で育てる。
 そして、池放流後に化学合成薬品を投与しないという条件のエビを、ATJのグループは商品化している。

 また今回の「OPEN FORUM」の目的のひとつでもあったATINA社の工場と管理帳票の一部を監査させていただいた。私は当事者ではない立場(一組合員ではあるが)。 ~つづく~

2008年8月24日日曜日

甘さの効用


アイスランドは軍隊を持たない国。わが国も憲法を素直に読めば本来そういう国。ただし、アイスランドには米軍が駐留する。大西洋の要衝だからだ。米軍にとって日本もアジアを睨む要衝、不沈空母にすぎない。

魚を求めて訪問はいつも真冬の2月だった。極北の寒さのためウォッカを飲みすぎる人が多かったのか酒類の販売は制限されていた。首都レイキャビクの「銀座」の街頭にはソフトクリームショップ。しかも並んで買い求める。雪の吹きすさぶ街頭でひとびとがその甘く冷たいアイスクリームを肩寄せ合いながら頬張るのが異様に見えた。寒かろうに、なんでと。

振舞われるコーヒーも紅茶にも初めっからたっぷり砂糖がいれられていた。皆さんブーイングの嵐だったが、私には理解できた。しかも接待にはいちいち甘いお菓子がいくらでもでてきた。私はそのたびにご相伴にあずかった。インドネシアは常夏の国。腕時計と頭に巻いたタオルのあとを残して日焼けした。暑さと日差しは体力を消耗させる。

南の生まれ故郷も何につけ味付けは甘い。いかに甘いかが、母の時代にはグレードの高さの尺度のひとつだった。砂糖をいかにふんだんに使っているかが町のお菓子屋さんの評価のひとつだった。醤油に至っては他県人にはまず理解されない。

砂糖は食品の中の傑作だ。エネルギー代謝がよい。したがって、とても暑い国、寒い国で手っ取り早く糖分を摂ることは理にかなっている。接待は「疲れを癒してください」と受け取るべきだが、ところが飽食の私達にはもはや余計なお世話と受け取れるミスマッチ。

その昔、薩摩に支配されていた奄美の農民はさとうきびの耕作を強制された。日差しの強さ、3mにもなるさとうきび相手の作業は過酷だった。さとうきびを耕作していながら、茎のひとつをかじっても、黒砂糖をひとかじりしても首を刎ねられた。甘さを求めることは命を繋ぐ渇望であったろうに。

飽食の私達はもはや渇望など知らない。代謝する能力もなくなっているのだろう。
帰ってきて本日計量したら2kg太っていた。単なる食べ過ぎだろうが。

2008年8月23日土曜日

○さんが泣いた

 トキさんには聞いていましたが、最後には感極まってみんな涙なみだの輪になりました。なかでも、号泣したのが○さん。

 七月の事前学習会のときには、口がへの字でなんとなくおっかなさそうな印象だったから。もう目が腫れあがってしまって、いくらでもおちょくれました。

 「OPEN FORUM」を終え、交流会になり、バンドをバックに次々と歌を唄い、腰をくねくねしながら踊ります。インドネシアはこういうリズムなのか、みんなノリノリ。生産者のおじさんたちは途中からいなくなったようでしたが、工場のみなさんも会場に現れました。一様に若くてとにかく明るい。わが理事さんたちも、職員もおじけず、カタコトのインドネシア語で間にはいっていく。

 茨城の理事さんふたりがさっきプレゼントした「オリガミ」のエビの折り方を教え始めて輪ができる。工場のスカーフを巻いた若い婦人労働者のみなさんとあちこちで折紙の輪ができて何語かわからぬ会話と笑いが巻き起こる。
 
 イスラムのお国柄でアルコールがないのに、歌と踊りと笑いで会場はノリノリ。よく考えたら不思議だねと、N産直部長と顔をあわせることしきり。
 
 ついに、お開きという段になって、「昨日会って今日は別れる」悲しさと、みなさんの底抜けな明るさに情が乗り移り、涙のウェーブになった。と、ここまではよくあるパターンと聞いていたが、なかでも○さんの号泣がはじまった。
 
 最後といって、工場の側の再びの出し物、これが「サヨナラ、サヨナラ、なんとか」というお別れの曲。サヨナラ、サヨナラは日本語そのもの。こちらからアンコールをお願いしたら、いつのまにかジェンカの輪になって全員で会場をぐるぐるまわって汗だく。大盛り上がりで、最後は記念写真撮影の再びの大盛り上がり、工場のチームごとに撮影させてという延々でした。
 
 なんてひとなつっこくて、明るいのでしょうということで涙腺はみんな開きっぱなしでした。とっくに時間はオーバーして借りた会場の冷房は切られていました。
 
 工場のトップの都留さんというご婦人の魅力的な人柄でしょう(左端)。工場の拠って立つ理念の「素敵さ」でしょう。私の経験したことのない海外工場の全員との交流でした。

 翌朝、工場の幹部(といってもみんな若いスタッフです)が空港にお見送りに来て、また○さんは皆にわからぬように号泣しておりました、深ぶかと帽子をかぶって。

2008年8月17日日曜日

梅干ひとつ


 幼いとき、梅干はすっぱくて、しょっぱくてそう簡単に食えるものではなかったし、まして味わいなどわからなかった。お腹が痛いというと母は梅酢を摂らせた。口に含めばほぼ拷問のようだった。そうして、「おにぎりは梅干」などをとおして、梅干の味を自然にわかるようになった。それがちょうど韓国におけるキムチのようなものにも思える。我々にはこんなに辛いと思えるものを生まれたときから食えるのかと韓国人に訊いたら、梅干と同じように、幼いとき辛いものは辛いと感じていたという、徐々に慣れさせてきたのだそうだ。

 汗だくになるらしく塩を吹いて、襟足は真っ黒になって帰ってくる。配達を終えたあとは営業で遅く帰る。曜日によってはお昼をとる暇も惜しいというから、自分で大きなおにぎりを2個作って持っていく。この息子は梅干がきらいだったが、おにぎりの具は結局これにつきる。食べたあとの梅干の種をみて、種までしゃぶりつくものだとまた教える。

 まねごとで梅干を漬けたが、私自身は血圧が高めに出たりして食べるのを控えたら、繰り越すようになったので今年はパスした。息子が使い始めたらやがて底をついた。

 お店で買い求めたが、まともなものが売っていない。梅干ひとつとっても食の変化を捉えられる。「はちみつ梅干」が世に出て久しい、邪道だと思っていたらいつのまにか主流になった。中国産がでてきて安いものになった。国産、無着色、塩のみを探したが、「塩のみ」が無く、味はつくってあった。

 我々が「まとも」と思っているものが、隅に追いやられている。後輩たちが仕入れたり、企画したりする加工食品や冷凍食品は私にはだんだんわけがわからなくなってきている。

 個配システムで買い求めた「曽我の十郎」を奄美からいただいた「与論の塩」で漬けた。金持ち趣味で素材がよければいいというものではなく、漬け方が難しい。
 
 工場でつくった「いろいろな調味料でつくられた味」の梅干よりも、農村加工でつくった素朴な梅干のほうが、そもそも「無添加がどうのこうのというこだわり」以前に、私は旨いと思っている。群馬の山村に行く機会があってみつけた、しかも「加工品梅干」より安かった。個配システムでも偶然企画があって注文した。箱根の麓の梅干の云われを聞き、この産地は訪れたこともあって、馴染みになった。また、ここの代表の人と一緒に紀州田辺や南部にも勉強しにいったこともあって、不器用な自分でもつくってみたくなった。

 加工食品に囲まれていても、らっきょうも梅干も白菜もぬか漬けも母親たちがつくっていた記憶があって、結局たどりつく。それがホンモノという、擦り込まれたようなものがある。今、ハッシュドポテトやナゲット、結着肉のどうのこうのという商品の苦情と付き合っている。やがてこれが「ホンモノ」「ノスタルジア」というときがやってくるかと思えば複雑だ。

 なにをどう伝えるのか、難しいかもしれないが、「ごはんに梅干」は、へたなスポーツ飲料よりはバテの防止、疲労回復に役立つ、先人の知恵、クエン酸のチカラだ。

 *梅酢だこと海草の和え物(「梅酢たこ」は加工食品だが、梅酢の酢タコが一番相性がいいということを経験則的に知っている、不思議なことに我社グループ以外ではあまり売れない、知られていない実力商品)

2008年8月16日土曜日

北京五輪と農民


 東京から従弟が帰ってくると往生した。東京弁でまくしたてられるとまず対等に話ができなかった。従弟の言っていることはわかったが、私の言葉は聴き返されたので口ごもった。5時45分からはNHKの「ちろりん村とくるみの木」を見ることにしていたのに、あれこれの番組はないのかと尋ねられ聞いたこともなかった、せっかくきたのだから遊びたいといわれると付き合わざるをえなかった。ずっと後で知ったが、東京にはチャンネルが山ほどあった。こっちにはNHK二局と民放一局しかなかった。遊べばレスリングをやっているとかで、技をかけられた。一度も泊まったことのないおばあちゃんの家に従兄弟たちは泊めてもらえた。

 帰省した叔父さんは何はともあれ‘きびなご’と‘さば’の刺身を所望した。そんなありふれたもののどこがいいのかといつも思っていた。後年仕事で知ったが、さばは「ごまさば」のことで、他県ではさば(真さば)は刺身では、食べるものではなかった。今では温暖化とやら、三陸でも揚がる。それもおかしなことだ。  

 スポーツ音痴だが、昨日まで柔道を観ていて、今日からレスリングになった。伊調の姉ちゃんは大人になったとか、吉田は恐いものを知ったからよかったのだとか、俄か知識で騒いだり涙ぐんだりして、結局は酔っ払った。そして従弟のレスリングの技を思い出す。

 華やかな北京のオリンピック、どうあれうまくいけばよい。この国の抑圧の、体制のいろいろある。二世紀近くにわたる欧米列強と日本の帝国主義および自国自身の混乱によって、人々は抑圧、屈辱、犠牲を味わった。この国はどうあれここまできた、私は無事に運べばいいと考えている。その国のひとびとが遍く幸せであるかどうかは別に問えばよい。

 盛大な開会式のセレモニーの裏で、NHKで報道されたような、能力があるのにお金がなくて中学にも進学できない農村の女の子の実情を、どうして解決できない社会主義なのかと考えている。

 農民はなぜ貧乏なのか。遅ればせながらの貨幣経済の浸透、中国の体制、いろいろあろう。だが、そもそも中国だけではなく、人々の食糧を支えながら古今東西「何故、農民は貧乏なのか、追い詰められるのか」問いたい。もちろん近郊農民、土地成金農民、地主のことではない。

2008年8月15日金曜日

それぞれの8月15日


 母が裸で引き揚げてきたというから、幼な心に、はずかしかっただろうに、と思っていた。少し大きくなって「一文無しで」という意味をやっと理解できた。

 兄姉は引き揚げ船での記憶がそれぞれあって、なかでもお粥がひどくまずかったという。宇品の軍港に上陸した由。どのような風景だったのだろう。ずいぶん遠いところだが、故郷の父の本家筋を頼って帰ってきたらしい。居辛かったという、町にでてきたらしい。

 兵隊姿の父と母、兄、姉が一緒にとったセピア色の写真があった。現地召集の老兵だったと思うがあまり戦争中の話は聞かなかった。狙撃がうまくてという自慢をしていたように思う。戦になれば狙撃手は真っ先に死んでいたかもしれないと聞いたようにも思う。

 引き揚げてきて兄は方言が話せなかったので難儀をし、いじめられもしたという。

 母からいかに食べるものがなかったかということをいつも言い聞かされ、我慢を強いられた。その影響と反動でモノを貯めたがり、モノに囲まれていたがる。その不合理を今では同居人によく責められる。

 戦後何年も経って生まれたのに、家族がみな戦前生まれだったので何かしら強い影響を受けた。飢えも物不足もシラミも知らない。ただ、小さいころ、橋の上には白衣とアコーディオンの傷痍軍人さん達が立っていたし、橋の下には私達が「サンタカ」(たぶん差別用語)と呼んでいた今で言うホームレスの人達が少なからず住んでいた。銭湯にいけば、片手のない兵隊帰りの豆腐屋のおじさんに会った。国全体がアメリカをあこがれ、われわれは東京で起きていることをあこがれていた。

 そういう形で戦争を引き継いだ。うちの父母たちは「戦争に負けさえしなければ」という立場だったように思うが、私は「戦争をしなければ」という立場で受け継いでいる。私たちは子たちにどう引き継いだのだろうか。

2008年8月14日木曜日

自転車泥棒


 盗んだ方が悪いに決まっている。
が、ついつい妻殿を責めてしまう。何でチェーンロックしていなかったの。「その日に限って」。あまい~い。涙ぐむ。かさぶたを剥がす性格。

 形ばかりの式を挙げ、遠くから来てくれた友人たちを自宅3LDKアパートに泊めた。一晩どんちゃん騒ぎをして、送り出してから、新婚旅行に出かけた。どこに行くとも決めていなかったから、東へ、日本海の方へ出かけた。適当に宿をみつけ、レンタサイクルを借りて観光をしようとして、わかった。この新妻は自転車にうまく乗れなかった。観光よりも自転車の稽古になって半ベソをかかれた。岬に夕日が沈むのを見に行って、とっくみあいをしてじゃれあった。

 念願の自転車を買ってもらえた、3、4万はしたと思う。
誰誰ちゃんも、ほらあの人も買ってもらえたと、母の袖にしがみつき訴え、ときには脅迫した。買ってもらうまでは、たいがいのことは我慢をし、媚びへつらった。5段変速を駆使し登り坂もさっそうとこぎ行く自分の姿をひたすら夢想していた。実際、買う段になって、ドロップハンドルも高いサドルも小柄な私には向かなかった。
 せっせと油を注し、車体を磨いて、それは、それは大事にした。
あるとき自宅から忽然と消えた。南北に長い町じゅうを歩いて探しまわった。出てこなかった。
 2~3年後に警察から連絡があって遠い田舎町に引き取りに行った。ご近所も盗まれていたらしく車に同乗させていただいた。愛車に違いなかったが、変わり様に愕然とした。

 長男に最初のころ買った自転車も盗まれた。鍵をかけていなかった。あきらめが早く見えたので、「町じゅうを探せ」と叱りとばした。でも、もう通じなかった。

 その長男が小学生のころ、「ちゃりんこ」「ママちゃり」とか呼ぶので違和感を覚えた。自転車を馬鹿にしているようで。中国人への蔑称に似た語感だからかな。それもあるが、なにか軽んじているようで。今では全国区の呼び名、「日本語」になった。

 家族6人で一体何台盗まれただろうか。駐輪場や街中(まちなか)で盗まれるのならまだしも、私のものにいたっては自宅の車庫からも盗まれた。乗り捨てられ、放置自転車として隣の町内の路上から後日見つかった。電話番号を大書していたから連絡をいただいた。

 既に『自転車泥棒』の時代ではなくなった。盗まれた方はもちろん、盗んだ方にも「事情」があった。あったからその哀切に共感があって名画と呼ばれた。

 「気軽」に買い換えるようになった。いつのまにか、盗まれても執着しないのを感じる。盗んだ方もたいがい乗り捨てているようだ。北の方面の異国にでももっていくのならまだいい。ただその場の拝借のように、罪悪感はないだろう。それらがむしょうに腹が立つ。

 だから、盗ませない。自衛を講じる。
鍵、チェーンロック、車体に名前、電話番号、住所を大書。これが我家の家訓かな。

2008年8月13日水曜日

職場の訃報


15年間黙々と苦情係をやってきて今年の3月晴れて定年退職したが、嘱託職員として残った実直無欲な先輩。4月に奥さんが倒れ癌だとわかった。付き添っていたらとも勧めたが、それでも「どうなるものでもない」と、午前中だけ勤務を続けた。7月にセクションがわかれて顔を合わせることがなくなったが、ときどき内線で助言を求めていた。本日、奥さんが亡くなられたことを社内の掲示板で知った。61歳。これから二人で第2の人生だっただろうに、つらい。ご冥福を祈る。

2008年8月12日火曜日

上野発で上野着の夜行バスから♪

 都市と山村との共生?東京の上野駅から群馬県の上野村を直行バスで結べばどうかと会場から提案があった。思わず表題のように口ずさんでしまった【津軽海峡冬景色風】。

 国道299号線はどうやら我が町あたりが起点のように思える。飯能に行き、秩父に通じ、さらに奥秩父の山を越えれば群馬県の上野村にまでたどり着く。またさらに進めば、十石峠というところを越えて長野県の佐久地方に出る。子どもの友人の両親がそうやって帰省していたのを思い出す。
 
 また「秩父事件」の一舞台でもある。戦いに敗れた困民党の有志は十石峠を越し再起を期そうとしている。実際にそうした。
 
 十石峠の「十石」とは、米のとれぬ上州側の山村に信州佐久の米が日に十石送られたことから名づけられたらしい。ここは江戸時代、天領で鷹狩りの巣鷹を献上していた。
 
 さて、上州側の山村、上野村のことであるが86年の日航機墜落事件の御巣鷹山のある村である。そのころ私はまだ九州にいて、いったいどこにあるかもどんなところかも想像がつかなかった。ひょんなキッカケでそんなところを訪問する機会を得た。


 前に居並ぶ30数名のお歴々に「ちょんまげ」「結い髪」をかぶせれば(ご婦人もいた)などと想像しながら聴講してしまった。

 著名な「先生」と呼ばれる毛深い思索先生を中心に、この在を束ねる大庄屋様(スポンサーである)、はみ出し気味の幕府各奉行所お役人、甲州醸造家、紙漉き商人、昆布や牡蠣を育てる奇特な鉄商人、伊賀の成功お百姓さん、お江戸昌平校の教授、庄内の林業家(元は奥在の寺子屋の先生)、勘定奉行与力、起業支援家、元箱入懐紙商人&お役人親子、神主の参議さん、森林奉行配下与力、越中お役人、なんたらかんたら相談人、年貢鑑定士、伊予世話人、代役のお医者様などなどヘンな人であるとかないとかという人たちが居並んだ。
 
 お江戸でもなく大坂でもなく、上州上野村に集い、銘々「思い」を述べた。なんのため?「これからの日本はどのような社会をつくったらよいのか 日本のこれからの哲学を上野村で語り合おう」というのが主催者側の案内であった。そして「あらたな多数派の形成をめざす」のだという感じだった。
 
 銘々が「キーワード」を提示して所見を述べた。いわく「多様性」「個」「結びつき」「扶助」「認めあい」「身体」「再生」「感性」「祭り」「聞く」「農」「磨く」「自立」「貨幣、お金」「地域(ローカル)と世界(グローバル)」などなど。
 
 これらの言葉を否定形「○○が無い」とすると現代社会が見えてくると思索先生。「疲弊が進んだ」「さあどうするか」まとめるでもなく、深まり収斂するままに「思いが通じるような」そんなような2日間(8月9日~10日)にもわたるシンポジウムであった。
 
 「第1回」と会場では銘打ってあったので思索先生は困惑気味だった。
 
 初日に、会場側のご婦人が感激された旨の発言を、南国人かと思われるほど熱く述べた。この村の出身で近く永住する(帰ってくる)との前置きがあって、会場を振り返り、この村の人の挙手を求めたが幾人もいなかった、それもまた実態だった。
 
 静岡からきた「中山間地」の農民であるという人は、「食べて行けない」、そして「消費者はお金があっても食べられなくなる」と発言された。私にはこのことが、この集いの「どのような社会をつくったら、多数派の形成」の焦眉のテーマではないかと思ったのだが、さて・・・。

 コーディネーターや居並ぶパネリストの有様が‘ちょんまげ風’に見えたのは、「志民」とか「志民による連携」と表現するパネリストがいたが、幕末の「尊皇攘夷」にみられる幕藩体制への下からの変革の流れ、そして尊王開国でできた明治専制政府への自由民権の下からの抵抗と変革の潮流、そういうものを連想したためだ。思索先生のおっしゃると通り、これらを担った人たちは「余裕のある人たち」だった。ただし彼ら先達は政府に堂々もの申した。

閑話休題:
 上野村は1,500人ぐらいの人口で150人ぐらいが移住してきているという。帰りに木工品の作者の何人かにお会いしてこういう人たちが移住者であるという一端を窺った。手にとらせていただいた竹細工につけてあったのが45万円の値札だった。我が妻どのはすかさず臆することなく「何故そんな値段なのか」と訊いてしまい、案内していただいた作者先生が、品の裏を返しこのように細工してあり、いかに手の込んだものであるかを丁寧に且つ尊厳をもってご説明いただいた。つまり実用というよりも芸術品ではないかと理解した次第。さすがに退けた。

 数年前に訪れた旧神泉村を想起することしきり。ちなみにそこはここを流れる神流川を下ったところにある。三波石が美しく、山で採れる水の美味しいところ。
 
 同行いただいた(というよりも連れていっていただいた)人たちにお世話になりました。
「さしみナス」と表示してあったナスを買い求め、わさび醤油でいただきましたがイケました。

 九ちゃんをはじめ、日航機墜落事件の犠牲になられた人たちの無念を思い、ご冥福を祈ります。

2008年8月11日月曜日

昼休み


 旧海軍の航空機は太平洋での戦闘を想定していたので航続距離が長かった。南洋の島々を攻略しオーストラリアをも狙おうとしているころには、実は負け戦に転じていた。ラバウルあたりから片道長駆3時間ぐらいかけて飛んでいって戦闘は20分しかできなかった。

 昼休み愛妻弁当を掻き食らって、青山ブックセンターにたどり着くのが12時半。帰りのことを考えれば10分しかいられない。炎天下なのでこの時期、あまり頻繁には通わない。揃えてある本やレイアウト、陳列が個性的。場所柄お金持ち向けの本屋さんの品格があるが、なんというかコンセプトがあるし今風といえる、雰囲気が刺激的に思える。わずかな滞在なので、好きな立ち読みなんかほとんどできず、この場の「空気」と「目からの刺激」を味わって帰る。往きも帰りも時間的に難儀で、往時のゼロ戦パイロットの苦労を連想するのが私のレトロな一面。

 最近はこういう本屋さんでいい本に遭遇したら、内容を確かめ、本の名前などをメモしておいて、インターネットの本屋さん(大概、Amazon)で中古本を検索し買ってしまう。本屋さんの経営が厳しくなる、町の本屋さんが立ち行かなくなる、私もその背を押しているような購買行動ではある。

2008年8月9日土曜日

ナガサキ


 昨夜北京五輪が開催され、よくは知らないたくさんの国があるものだと思った。70年代後半から、世界のことを主要先進国という7カ国か8カ国で手っ取り早く差配しようと仕組んできたが、この地球上のこと、人類存続にかかわる危機について解決できないことが露呈した。地球温暖化対策、ハゲタカ投機マネーの規制、食糧危機もろもろ。テーマではないとはいえ、核兵器廃絶なんぞ考えもしていない。一番の経済的負担だというのに。
 しかしながら核兵器を使用させない、脅しに屈しないという国々は圧倒的に増えた。30年近くも昔のこと、職場の友人と2人でナガサキに行った。当時世界には核兵器が5万発もあるというなにか絶望的な数字を聞いていたものだ。ソ連亡き後、「おらが天国」のアメリカの支配が完全に及んでいるのは現在日本だけに思える。現状を俯瞰すれば実に異常だ。靖国を参拝し国士を気取る小泉さんや安倍さんのやったことは、アメリカのイラク殴りこみ戦争への真っ先の「イエス」か「はい」だけだった。要するに「アメリカのポチ」だ。当時アメリカを支持した国は日本だけではなかったが、その国の政権は国民の手によって交代させられた。ヨーロッパも他の国々も自分の頭で考えている。というよりも、人々が自分の頭で考えている。だから環境問題、平和追求にも独自に取り組め、その輪が広がっている。世界を動かせるのはココだ。
いつも思うが、6日も9日もとにかく暑い。ほんの少し火傷しただけでもとび上がりそうなのに、ヒバクシャたちの苦痛、その後の苦悩はいかばかりであっただろう。どう殺されても、どう生き残っても無残だけれども、とにかく核兵器を使わせてはならない、いや、戦争をさせてはならない。戦争を仕掛ける屁理屈にだまされてはならない。

2008年8月7日木曜日

あのう・・・


あのね、悲鳴が聞こえます。
今年の夏は「二の丑」まであって、食卓にのぼったうなぎ達の命、実は子孫が残せません。私の職場もこういうので潤っています。いや、この前までこの売上げが私の不本意なノルマでした。
食を担う農畜水産業の人たちの悲痛な叫び、もう知らんゾと。人口構成からいうと「少数派」。選挙までの補正予算でめくらましされます。いつまでも村と緑と海が保てない。「食」に関してはフランス革命の風刺画をイメージするのです。ひとりの農民に太った貴族や聖職者、王様が負ぶさっている、あれ。「食」に限って現代風に描けば農民漁民に負ぶさる無数の虚業者達(私も)。
運輸配送配達・パン屋さん・お弁当屋さん・今は飲料工場のみなさんが眠れません、車も工場も保守点検がなかなか満足にできません。品物は落下することもあります、ぶつかることもあります。破袋、トレーの傷、ボトルのへこみは、「食品テロ」ではありません。みなさん、休みもせずに毎日同じものをつくれますか? もちろんつくれるのですが。
家計の火の車、赤字転落の恐怖、消費者金融かクレジットカードのはしご。でもモノに囲まれていないと落ち着かない、冷凍庫は常に満杯、袋が膨らんだ、あれっ?心配。
安売り用のペット飲料・アイスの品切れでの売り場ノルマ絶望の右往左往、局地的な争奪戦、高く仕入れてくれるコンビニに負けた。 生産者や製造者をいまさら「囲い込め」と呼号する雨後筍の本部長さんたち。あのう・・・、売上高がいくらあるかをを言ってももう通じません。
竹輪の穴を大きくして丈を短くしているように、規格変更のてんやわんや、姑息を通り過ぎるほど地球資源浪費のツケだというのが見えない仕入れ担当と部長さん、半年単位での成果達成しか念頭に無い中小の取引先いじめ。無リンのすり身なんか、非遺伝子組換えの原料なんかなかなか入手できません、極端にいえばその海に魚なんかいない、大規模農場で非効率な種子なんか使っていられない、この殺伐な近未来。
潜伏した小林多喜二さんが生きていたら直ぐ捕まえられたでしょう、監視カメラだらけ、身内のセンターにさえ設置導入せざるをえない。無差別殺人をしたってナイフをどこで買ったかすぐにわかります。
死のうと思ったからお父さんから先に殺してあげた、むしゃくしゃしたから殺したくなった誰でもよかった。

食卓と家族と社会のどれから先に崩壊しているのか。同時、相互の関係だとは思いますが。

「儲けることがそんなに悪いことでしょうか」やはりこの価値で動く社会・仕組みにあるのではないでしょうか。利潤追求第一主義で組織や社会が動いている、どんな成果(利益)をだしましたか?これで詰め寄られる。このことにもう無理があるのではないかなぁ。人間がモノに変わり、そのモノが人間をふりまわしている。100円で手に入るプラスチック製品が山ほどあるのに、食べ散らかすほど・食べ残すほど・盆も正月も誕生日も関係なく・欲しい食べ物があるのに、幸せになれなかった。戦争で飢餓と生活物資の窮乏を経験した親達が私達を育てました。私達は歳を経るにつけテレビ、冷蔵庫など電化製品が揃い、車も持てて、花の東京は複々線化し地下鉄は伸び、国営はみんな民営化し、耐震ビルは立ち揃い、子どもがあるかないかは別にして、何人かどうかは別にして、子ども達を「何不自由なく!」育てたつもりでいました。それでどうして、食卓と家族と社会が崩壊しつつあるのでしょうか。
窮屈だったとはいえ昇りのエスカレーターが急に止まり、下りはじめるなんて誰が想像できたでしょうか。しかもそのエスカレーターの殺到先が「フィギア」だったいう、生活感の無さがなんとも‘はや’、です(価値観の違いとはいえ)。

こころの持ち様なのでしょうか。ライフスタイルの転換だけなのでしょうか。
こころの持ち様、ライフスタイルの転換は個々には必要だと考えますが・・・。

利潤追求第一主義で社会が極端に動いている、このことにもう無理があるのではないでしょうか。地球まるごと、うまくいっていないのではないでしょうか。決して閉塞はしていない、これを変えればいい。そして生命と環境と生活の最大の破壊である戦争をさせないこと。早く環境破壊の歩みを遅らせなければ。

虚業、身にしみる言葉。ずっぽり浸かっている。
富、泣いたり笑ったりバカ言ったりする相手がいること。安心してくたばれること。

2008年8月6日水曜日

原爆忌


「石器時代に戻してやる」というのは米国のよく使う脅しで、実際にベトナム戦争の戦略爆撃はそれを地でいった。太平洋戦争時よりも多量の爆弾投下に加えて枯葉剤を撒きちらかした。「同時代のこと」としてそれを見ていた。アフガン攻撃のための協力をとりつけるためにパキスタンにも同じセリフで脅していたらしい。

何故、3月10日の東京大空襲をはじめ、全国各地への非戦闘員への爆撃、機銃掃射、艦砲射撃はあれほどまでに必要だったのだろうか。ヒロシマへの原爆投下、さらにナガサキまでも必要だったのか。9.11のニューヨークとは比較にならないほど残虐そのものである。原爆は生き残った「ヒバクシャ」をも苦しめたし、今も苦しめている。

戦争を紛争解決の手段にしかねないアメリカをいつまでも「親分」と仰ぐような進み方でいいのだろうか。

ヨーロッパをみていても、中南米をみていても、東南アジアをみていても、アメリカ一極主義ではない。歴史が変わる。黙祷。

トホホ


友人に瑞穂君がいたが、今が出穂の時期らしい。予約米を登録したら景品に「米づくり十二ヶ月」という実によくできたカレンダーをもらってトイレに掲げているから毎日見る。先週の土曜日あたりから、はぁそうなんだとみていたら、皆さんのブログに次々と出穂の画像が出現し始めた。なんと美しい、かわいらしいというのだろうか。うらやましい、しかるに我家の「バケツでごはん」(わっかるかな?)じゃなくて、「バケツで稲作り」はやや絶望的。たわわに実るはずだったゴーヤも絶望。お店で買いまくるしかなく、この前までは鹿児島産、そしてでてきた群馬産(99円)。金で済まして収穫を夢見た、安直姿勢の行き着くところ。みなさんシュツホでわたしはトホホ。

本部


捜査本部、対策本部などの使い方から、いつのまにか経営体でも日常普段に本部制が使われ始めた。曰く商品本部、営業本部、管理本部などなど。90年代からかな。

7月から同じ仕事の内容のまま異動になって、フロアが4階もあがった。東京タワーが見える。営業所の所属から営業本部内の新設された部署になった。

さるお得意先から、我社のある営業所の書いた苦情回答がけしからん、書き直せと我が商品本部に寄せられた。営業所の担当は営業本部の承認を得たものだから書き直さんと商品本部の連絡した課長さんに返事したらしい。商品本部の課長さんの商品だったから、この課長さんが書き直したものがあるのだが、誰が対応すべきなのかと会議でおっしゃる。

はっきりしている、営業本部とその営業所のお問い合わせ担当が誠実に対応する必要があるし責任がある。これまでの当該の担当の対応がどうであったかの個々のことはあるが、問題はそのお得意先が何故、東京の商品本部に言ってきたか斟酌する必要があるのではないかと考えている。縄張り争いのようなことを言っているのではなく、苦情お問い合わせ対応の部署の地位の低さ、軽んじられ方である。お得意先、我が商品本部両方に感じる。

一般的にこの間の組織の流れは、環境対策、CSR対応、コンプライス対応、品質保証、などの部署が「新設」あるいは「昇格」してきたが、苦情お問い合わせ対応は取り残されてきた。証左する事例はいくらでもあるが、さすがに憚りがある。

能力を一層高めることと同時に、内外にむけて「地位を向上させること」「優先順位をあげさせること」がどうも必要だなぁと考えている。ベテランマネージャーさんは幾年もそれを我慢してきたらしいが。「売りの促進」が任務の営業本部内にあるのは「カナリヤ機能」なのかな、牽制機能(本質的な)はないのかなと考えている。部署自体が自己成長するしかないのかなとも考える。


それにしても稼ぐことが任務の営業所と違って、本部とは予算の使えるところだ。また、世の中は「肩書き」で見るもんだ、笑ってしまう。

2008年8月3日日曜日

あり?


「ありっ?前にもあったよね」関西の得意先で続く「ティッシュペーパーから蟻が出てきた」という苦情。ベテランに言わせると、いくらでもある事例とのこと。とくに夏場に多く、もとは木を好む種類の蟻があってそれがティッシュペーパーを好むらしい。こんなところにも、「自然の不自然」という現象があるものだ。

 壁の下(土台のところ)に、蟻が巣食ったらしくコンクリートの隙間から土が掘り出されていた。「蟻の一穴、堤をも壊す」を憂いて、やむなく、インスタントセメントを購入してきてこれを塞いだ。沖縄戦での住民が避難し日本軍がこれを盾にしたガマ(洞窟)を塞ぐ米軍のようで後味が悪かった。

ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」は池谷薫さんの初めての監督作。いい映画でした。『延安の娘』(02作、DVDは出たばかり08年07月25日発売)も機会があれば観てみたいもの。

2008年8月2日土曜日

ある農業者の紹介


ブログ『農と島のありんくりん』7月31日「日本の野菜は高いのか」を紹介します。 こちらのブログにはなるほどそうだったのかという農業の実践と思索的な発信があります。へーとかほーとか呻(うな)るだけで、もう足元にも及ばないし、私のは「評論」なのでとても恥ずかしいのですが、本記事にコメントを申し述べました。もしよければこちらをご覧ください。

 

大文字派?くの字派?


「大の字になって寝る」というのは言葉では知っていた。
見たことはなかった。
それを目の当たりにすることになる。
大きな声では言えないが、30年前からの同居人・相方。
まさに星のかたち。天真爛漫のお育ちがうかがえる。
気持ちがいいらしい。
明け方には「大の字」になってうつ伏せ寝。へぇ~。あたしゃ、くの字派。

2008年8月1日金曜日

リ・セット


「ふろ、飲む、寝る」ですっかり日記を疎かにしてしまった。
映画「モダンタイムス」のあのナットを締め続けるナッパ服の人のように、「回答」を発信し続け、帰宅したらなんとか気持ちを切り替えようと思ったらそうなってしまっていた。日記どころではない。
今日から8月。リセット、リ・セット。
自治会の夏祭りも先週終わった。昭和30年代に開発されたというこの団地もすっかり高齢化しているが、どこから湧いてくるのか若い人たちに出会える。この人たちどこにいたのだろう。「ココはふるさと?」
今日から自治会の班長さん。自治会費徴収、回覧板。
もともと「武蔵野の雑木林」を薙ぎ倒してできたのだろう。ここは市境にある。だからそれでもまだ林は結構残っていたが、私達が越してきてからも、あった林がどんどん無くなっていく。
真夏日の連続は「地球温暖化」を実感させる。実はそんなものではなく、もっと膨大、壮大、そして深刻、危惧すべき事態なのだが。

今日はクミコのCDが届いて妻殿はご機嫌だぁ。「ご機嫌」と「とうちゃん」がいちばん。「ブラボー!」「東京へはなんども行きましたか♪」
また、飲んだ。はぁ。