2009年2月28日土曜日

97になる


 一日違えば私は四年に一度しか歳をとらなかったとあまりおもしろくない冗談を母はよく語った。
 今日で97歳になる。最後の明治生まれ。同級生のお母さんではただ一人だった。
 上の姉は昨日が誕生日で母はいつもまとめてお祝いをした。姉は不本意だったろうに。
 その姉と娘と孫が訪ねていった、また兄夫婦と孫も。姪っこがひ孫とのツーショットを携帯メールで送ってくれた。耳が遠くなったようだ。衰えてはいるが自分で歩ける。

 由緒正しいかは知らぬが、母は由緒ある家に生まれた。昔の士族のプライドと男尊女卑で育った。上に二人の姉がいたようだが早世し実質的には長子として育った。女子師範学校を出たこと、数年間小学校の教師をしたこと、生徒たちに長く慕われたことを生涯誇りに思っている。お坊ちゃん育ちの祖父が連帯保証人をしたことで家を傾けたらしい。母はその俸給のほとんどを家にいれたという。  

 父の姉に見そめられ見合い結婚をして4人の子に恵まれた。よい暮らしをしていたそうだが戦争で全財産を失い引き揚げてきた。戦時中、戦後の苦労話、窮乏生活の話はよく聞かされた。私だけが戦後だいぶたってから生まれた。50代で夫に先立たれ、末の子の私が家を出てからは独り暮らしになり、やがて幾星霜、市のケアマネージャーの皆さんに注目される独居老人となっていった。父の33回忌を催したときはまだしっかりしていた、これからどうしようと話し合ったがまだ独りで頑張って生きていくと、そのままにしてしまった。様々なこと、子どものそれぞれの家庭への遠慮もあったのだと思う。さすがに数年後には独居がおぼつかなくなりケアハウスに入居した、生まれて初めての集合住まいにかなり戸惑った様子だった。次には認知症が進み介助なしに暮らしていく独居型入居そのものができなくなった。そのたびごとに途方に暮れることがあったが、運にも恵まれた。特別養護老人ホームでお世話になって今に至っている。人には頼らぬという母の頑張りが仇になることもあったが、爪に火をともすように貯めた少なからぬお金が母自身を助けた。

 個体の命は、いつかは果てる。受け継ぎ、引き継ぐ生命。海から生まれたらしい。その海は地球から生まれた。地球は宇宙の一部からできた、その宇宙の137億光年という時間だか空間だかわからない。さて、なにがどうなっているのだか。せめてもの授かった命、ほどほどに皆がみな幸せに生きることができること、これが私のシンプルな理想だ。

 ふたりの姉にはそれぞれに孫ができてかわいがっている。生まれてきたみずみずしい生とついえていくだろう生に向き合っている。いつかは我が身、長生きも良し悪しだねと語り会っている。

2009年2月27日金曜日

初雪

 暖冬で無い髪を短く刈ったら皮肉にも寒い日が続く。午前中は雪さえ舞った。
 鍵を開けて、「そうか、君はいないのか」の家に帰って来た。寒さが身にしみる。
 妻殿は事務職のパートタイマーさん。滅多にないお泊りのご出張。さて、あれをやって、これやって。10時を過ぎてシンプルなお食事。

 そして明日もお仕事。明後日は何やらの総会とやら、出ないなら委任状をFAXせよとのご案内。おおそうかい、ならば何でも見てやろう、聞いてやろう。
 どちら様かは知らねど祝2周年だ、コングラチュレーションだ。リスペクトに値する。この日記いつまで続くやら、たよりのマイパソコンは無理解の酷使が祟り入院中。

 この国も酷使がはびこる。年度末が近づく。また数万人が切られる。

 年末のボランティアによる緊急避難的な「派遣村」の立ち上がりから、3ヶ月。国はそれで何を教訓にして手を打ったかと、あのときの村長の湯浅誠さんはインタビュウに応えていた。


 「南京事件」日本人がなかったことにしようとしていても世界は忘れない。

07年から翌08年にかけて世界10か国で「南京事件70周年国際シンポジウム」が開催された。その論議の『記録集』の予約出版が企画されて申し込んでいた。4,500円とは決して安くなかったが、せめて支えたい。日本評論社刊09年2月25日出版、それが本日届いた。

 あったのかなかったのか、なにがおきたのか、世界はどうみているのか、我が社会ではなにがおきているのか、自民と民主党の若き野心家の政治家、ネオコンはなにを言い出しているのか。なぜ、過去と向き合う必要があるのか。我々自身の日本人の問題だ。

2009年2月26日木曜日

ふりこめ君

 我家にもついにきた、来た。長男の名を名乗った。曰く、携帯の番号を変えたからと。聞けば、名乗り方は長男と同じ出だし。しかし典型的な手口。すぐに見破り、ふんふんと聞いてその番号を控えたと妻殿。なんと、身近なことになりました。
 帰宅後、掛かってきた電話。すわ、次の連絡かと、こちらの名前は名乗らず受話器をとった。出していた車検が終わったという内容だった。
どうやったら 鉄槌を下せるのだろう。
ぶぁっかもんと怒鳴ってやりたい。うん。

2009年2月25日水曜日

失くしたもの

 たった一輪、今春初めて我が家の梅が咲く。愛しいと、妻殿はこういうことが好きで、はしゃぐ。

 いつも習性で置いている引き出しにも無い。どの服のポケットからも出てこない。ハンカチとティッシュ入れ。そして思い出した。確か網棚に載せた。それっきり忘れてしまったらしい。我ながら不思議なことをするものだ。ポケットの中の探し物でもあったのだろう。通勤電車の網棚に置いてそのままにしてしまった。
 と、そんなことがこれから増えていくのだろう。あれから10日経つ。ティッシュ入れはお気に入りだったのだけれども…。

2009年2月24日火曜日

ケイシーのランプ

 いい映画を観ると引きずる、あとからも湧いてくる。1940年につくられたアメリカ映画「怒りの葡萄」(昨夜のBS11)。小説「蟹工船」と同じように今に通じる。タイムリーだ。

 古典的名作のひとびとの悲惨な話ははるかな昔、今に生まれてよかったね、ということではない皮肉な現実。

 ジェーン・フォンダの方は知っていたから、父親のヘンリーの目の方が彼女に似ていると思った。ヘンリー・フォンダ演じるトムはストを試みて殺された元説教師ケイシーの言葉に“ランプ”=光を見出す。そして触れてはいけないREDとはなんだと問う。

 新潮文庫「蟹工船」には「党生活者」も収録されている。実はこちらの方が今を反映している。小林多喜二は労働と貧困、団結から戦争というテーマへ進む、それが「党生活者」だ。あの時代、生半可なことではない。いくつも時代のタブーに触れた。

 車やIT家電をつくり過ぎてどれだけ売れなくなろうとも、そのために労働者を放り出し、工場を閉鎖しようとも、軍需産業のリストラの話は聞こえてこない。仕事も住処さえも無くしてしまえば、資格もとれる衣食住付きの特別国家公務員は天国にさえ見える。「兵士」が補充される仕組み、流れになってくる。ダンピングされる派遣の時給千何百円、何百円の世界が、軍需の世界では億円の単位で消費される。ケタが違う、世界が違う。このことに社会は手をつけない。

 経済の悲惨は構造的に起こる。金儲けを是とする資本主義の宿命だ。どうも暴走しただけとはいえない。様々に生起している地球的課題に対処しきれないのではないか。

 経済的悲惨の目をそらし、国々は戦争を繰り返してきた。戦争は発展しさらに大きな殺傷と悲惨を惹き起した。見てみるがいい、焼き殺され傷つけられたのは女、子ども、老人だ。ジョージ・ブッシュさんは21世紀にもアフガン、イラクなどで戦争を引きずり、多くのひとびとを不幸に陥れた。イスラエルも暴れまくり、村上春樹さんは当地で勇気をもって直言をした。「壁と卵」。

 名画も古典もまっとうに生きた人生も、勇気あるわずか15分のスピーチもひとのこころを動かす。

2009年2月20日金曜日

「いせえび荘」

 関東では2月になって雨が降っていなかった、雨が降ってよかった。「晴耕雨読」という名の芋焼酎があって「いせえび荘」という旅館に好んで置いてある。場所は薩摩半島の南の端っこ。

 ここで獲れる伊勢海老を様々な料理でもてなしてくれるその名の通りの宿である。まわりに温泉はいくらでもあるがここは温泉宿ではない。1泊2食で18,900円程したので高いと躊躇したが、料理はそれ以上の価値がある。伊勢海老づくし、もう参りましたというほど印象がある。

 地名は「番所が鼻」という。前もってペリーは日本をよくリサーチしてきたので、首府に近い伊豆下田に艦隊を率いて現れた。その当時の西欧列強の帝国主義的進出を薩摩は既に意識していたので、ここの見張所(=番所)の役割を重視した。そういう由来のある本州の南端のそのまた先っちょ(=鼻)である。
 そしてここは絶景地。全国を測量して歩いたあの伊能忠敬をしてうならせた場所として伝えられる。何が絶景か。海に聳える立錐型の開聞岳を東に仰ぎ見る。特攻隊の若者が翼を振ってあとにした薩摩富士。南に面しては太平洋とも東シナ海ともつかぬ大海原に臨める。琉球・奄美からの船も見えたであろうか。四国から甑島へ回遊する元気者の鯨の家族の潮吹きも見えたかもしれない。

 遠方から訪ねて来る泊り客、地元の宴会・法事などできりもりしているらしい。当主が一代で築き、息子さんがフロントに立つ。なかなかのイケメンである。地元では知られているが、さほど有名な観光地ではない。とっておきの「いせえび荘」。たまの贅沢で伊豆かどこかの高い旅館に行ってへたな散財をするよりもはるかに価値があると贔屓している。

2009年2月19日木曜日

笑い

 笑いには副作用が無いというのが「長寿遺伝子をONにする研究」の村上和雄さん(筑波大学名誉教授)。あの吉本興業ともコラボしているらしい。遺伝子研究の世界的権威というらしいが洒脱な語り口でもある。科学も極めれば神がかり的に聞こえてくる。

2009年2月15日日曜日

「子どもが育つ条件」


 土曜日は出勤日だったが、いきなり踏切の人身事故に遭遇し出足が遅れた。今日の朝刊の地域版に小さく載っていた。遮断機をくぐって侵入し線路上に横たわったらしく急ブレーキをかけたが間に合わなかったそうだ。高齢の女性だったらしい。なんともいたましい。一昨日も確かどこかの踏切で、遮断機をくぐってお母さんとその子ども(小4)が飛び込んだ、無理心中らしいというニュースを聞いていた。自殺者はずっと年間3万人を下回らない。そのうち経済苦によるものは7、8千人と聞いている。今年は正月早々から多い。このままでは済むまい。

 産休がもうすぐあけるからと、同じ私鉄沿線に住む姪っ子が初めて赤ちゃんを連れて遊びに来てくれた。元気にハイハイをしてさかんに何にでも興味を示す。髪がカールしてかわいい女の子。赤ちゃんは笑えばたしかに天使のようだ。まだ言葉は話せない。毎日30分は話しかけてみるということを実践しているそうだが、30分は長いと姪は言う。アンパンマンのメロディの出るおもちゃがあったので番組に反応するのかと聞いたら、テレビはみせないで向き合うことを心掛けているという。賢い姪のようだ。息子が妻に送ってくれた“とちおとめ”を一緒に食べた。いちごスプーンが気に入ってくれたのでプレゼントしてもたせた。岩波新書「子どもが育つ条件」(柏木恵子さん著08年7月刊)を読むことを薦めた。これは今の生活、社会、家族、人間を考えるうえでとても示唆に富んだ著作だ。

 若い家族が健やかに生活してほしい。

2009年2月14日土曜日

春は苦手


 昨夜来目が痒い。くしゃみもする。

 小学生のときには目医者に通った。「春季カタル」とか診断され毎年長く通ったが、なおさらかゆくなった記憶がある。眼病とかで水泳の授業は禁止された。そのため泳ぎができなかった。高学年になりクラスではそのことで取り残された。これは大きなコンプレックスになった。目が痒くて勉強にも集中できなかった経験がある。藪医者ではなかったかと考えている。またはアレルギーの症状がまだ珍しかったのだろうか。大学に入って診療所でみてもらったらなんでもないアレルギーだといわれて処方で緩和した。

 「花粉アレルギー」これが認知され一般化したのはいつごろからだったのだろうか。
最近は加齢で鈍くなったのか、免疫力がついたのかしらないが、症状は緩和されてきたように思う。小さいころのそれはとてもつらいことだったのを想い出す。だから春が苦手だ。

 春一番が吹き、初夏の陽気だという。そろそろ退職するひとびとの送別会の案内が寄せられ始めた。

2009年2月13日金曜日

愛情の形


 旧帝大正門の近くは大路が交差していて電停があり、この辺りには古本屋が並んでいた。その一角に古道具屋さんがあって小さな鏡台を求めた。2,980円、アルバイトの日給代ぐらいだった。この電停から一駅分歩いて行けば、叡電と呼ばれる私鉄の駅と交差する。この近辺は朝鮮韓国をルーツとするいわゆる「在日」の人たちが住んでいた。ここまでかついで行って、叡電に乗って岩倉という駅まで行ってまたかついで行って届けた。あの岩倉具視が安政の大獄時に遁世した里だ、当時は田んぼだらけで夏は蛍が出た、今は高級住宅街になっている。彼女の誕生日のプレゼントに贈った。私は愛情を形に残す。あれから今日で恐らく34年。今もこの部屋の隅にあり使ってもらっている。

 16分ボイルするハンバーグ、冷凍のまま5分間焼く餃子、彼女がつくり置きしていた豆、野沢村から取り寄せた野沢菜漬け、恩納村の早採れもずく、インスタントのもずくスープ(フリーズドライ)をメニューにして一応上げ膳据え膳して、30年ぶりの二人だけの静かなお誕生日。ジムで「ステップ」をして汗を少し流したあと、二人で焼酎を楽しんでいる。

2009年2月11日水曜日

県庁の15階


 秋田に行く途中、下の息子のところに立ち寄った。県都の中心で官庁街の中にアパートはあった。今風に入り口はセキュリティーで守られている。部屋の鍵がなければ建物に入れない。周辺は食堂・飲み屋・割烹には困らない、いや過剰にあるように思える。職場は歩いて10分、地方支社で家族的雰囲気のようだ。新卒者の売り手市場だった。大量採用があって配属された。一年違っていれば様変わりした求職市場でえらい目にあったことだったろう。案の定、ついこの間、国内外でグループ企業2万人の削減を発表した。県都にいながら新幹線で東京本社に通う仕事が多いという様子を聞けば、支社そのものが統廃合される日も近いのではないかと感じた。
 
 息子たちだけが安泰でいいとは思わない。年末年始にとくにそれを感じた。トップ企業の弱者非正規雇用労働者たちへの仕打ち。「正月も」なかった。就職して初めての正月を「実家」で迎えた子どもたちはずいぶんとのんびりしていたが、いずれ我が子たちにも及びかねない厳しい現実を想像した。醒めたところがありながら、ひたすら企業社会に順応することを身につけようとしているように見える。「闘え」そう言うことができない。椅子取りゲームの椅子をとることよりも、椅子を増やせと説得することができない。
 
 並ぶほどの店だからと早めに県庁の15階に上がって昼食をとった。地元の素材を使った特徴あるメニューだという。県内の工場直送の無濾過ビールも味わえた。登ったことのある筑波山もはるかに展望できる。富士山も展望できるそうだが、かすんで見えなかった。県庁は高くてりっぱな建物だ、並び建つものがない。息子も元気そうだった。

2009年2月10日火曜日

無駄な抵抗?

 自分のパソコンがいよいよ立ちあがらなくなった。
 女房殿がへそくりで買っていたパソコンを貸してもらっている。画像をとりこめるソフトをインストールしないまま繋いだせいかどうか知らないが、「デバイスドライバソフトウェアをインストール」できない。と、書いているが何のことかわからない。要するに妻殿のパソコンも立ち往生させる事態にしてしまった。電源をぶちっと切るあれを何回も繰り返す。「私のも壊す気か」と言われては言葉が無い。
 思えば保守頑迷、キーボードをたたいたのは、我が社では私が最後だった。“ひとりに一台”文字通りのパソコンが職場に導入されたのは97年のこと。大昔といえばそうだし、ついこの間のことといえばついこのあいだのことだ。「さっぱりわやや」の私は恐怖したものだ。電子決済、ペーパーレス、話はメール、瞬く間に進んだ。職場が非正規職員をパートから派遣に切り替えたのもこのころ。当時、今でいえば職場は「パート切り」をして派遣さんに切り替えたと思う。パソコン「スキル」をもつ若い派遣さん(みんな女性)が大量に入って来た。そのパソコン「スキル」ももはや派遣さんの武器ではない。労働ダンピングは私のまわりでも進んだように感じる。
 さて、パソコンが使えなくなってしまったらどうなるのだろう。もう、パスワードはなにがなんだかわからない。年をとれば衰える。パソコンのサポート事業が繁盛するかもしれない、いや新手の“パソコンサポート詐欺”が、我々が老人になるころには起きてくるのではなかろうか。
あっ、先のことより今のことで頭が痛い。妻殿からは幾度も買い替えることを勧められている。

2009年2月9日月曜日

「いぐ来てけだんし」


 故郷は南国といえども雪は降りもするし積もりもする。しかし何十cm、何mも積もりっぱなしという生活をしたことはない。

 「かてて」というのは幼いときによく使った九州の方言だ。息子も娘も小さいときに使った。遊びの仲間にいれてくれ、という意味だから「加てて」という漢字だろう。

 ひょんなことから『かだる雪まつり』のご案内をいただき、妻殿と相談したら興味を示し、ちょうどJR東日本の「大人の休日倶楽部会員パス」も初めて使ってみたいということで行ってみた。

 秋田で一番雪深い里として必ず天気予報には取り上げられるそうだが、初めて知った秋田県の「秋の宮温泉郷」というところ。広域合併で今は湯沢市。そこの鈴木俊夫湯沢市長の挨拶もあった「秋の宮地域づくり協議会」によるイベント。

 1940年生まれでボランティアを務める元・役場の観光課にいたという土田さんは10年前までははずかしくて泊まってくれとは言えなかったという。よくいえば鄙びた地域。「ここまで来て海老フライを、とんかつを、刺身を食べたいと思うだろうか」ということから始まって、JTBなどもいれて「この地域のサービス」とは、「こころのこもったおもてなし」とは、「料理とは」、と勉強を重ねたという。さらに「夕方6時になったら電気も消すべきだ、テレビも電気も無いそんな旅館があってもいいではないか」と何年も前から提案しているそうだが実現しないと嘆かれる。

 新幹線の古川駅からこのイベントのための送迎バス(マイクロバス)で2時間。鳴子温泉郷を北西へ折れて国道108号線(ルート108)で峠を越える。秋田県の最南端、だからここは「秋田県では」沖縄に一番近いところだと土田さんはわけのわからない譬(たと)えをいう。明治22年にできた村で、秋田県の「秋」、宮城県の「宮」で「秋の宮」だとのこと。なぁんだと思ったが、当時宮城県の県庁まで挨拶に行ったそうだ、聞けばなみだぐましい。

 2月6日(金)から8日(日)までのイベントで今年が第11回。「かだる」とは参加する、加わるということだから九州弁とおんなじだと考えた。6日(金)から会場と国道沿い10kmにミニかまくらを地域のひとも観光客もボランティアのひともみんなでつくろうというのも企画だ。杏林大学のゼミの学生さんたちも参加、よく働いたそうだ、なかに香港からの留学生もいて初めての雪経験だったらしい。3000個以上のミニかまくらを、バケツを使ってつくり、蝋燭を点灯させたそうだ。ちょうどその点灯が終わったころの土曜日の夕方に私たちは到着した。

 この温泉郷での大手旅館3者がこのまつりのために「かだる連泊モニタープラン」という2泊3日で16,800円というとてもお得な企画を提供。これを利用させていただいた。7日土曜日の「まつり」はキャンドル点灯に始まり、大抽選会、どんと焼き、小町(秋田小町伝説の里のひとつらしい)太鼓、餅つき、「七小町娘撮影会」最後は雪花火で文字通り打ち上げ。みんなで「かだる」というのがテーマ。天候は吹雪いて雪まつりそのもの、足が冷たい。初めての「かまくら」体験、こたつがあって「豆炭」がいれてあって、足をつっこめば暖かい。氷のバーもあっておもしろい。大抽選会ではなんと、なんと特賞に当たってしまい「当地旅館のペア宿泊券」を獲得してしまった。

 二,三〇年前は二階から出入りしていたと地元の人は口を揃えて言う。そして「温暖化」を実感している、ことしの雪は去年の半分だとも。雪は降るものではなく、横から叩かれるものだという。2日目の日曜日はその吹雪となった。ここの温泉の初めは元禄15年開湯、あの忠臣蔵のときだ。いまでもそこは存続していて「新五郎湯」という、入ったがいい湯だ。この温泉郷では冬は8か所ほど営業していて全部泉質が違い、それぞれが源泉をもっているのでかけ流しだ。この日はどちらも無料で開放され且つ無料シャトルバスが30分おきに運行された。私たちも3か所をまわって堪能した。吹雪でイベント本部のテントが3回も飛ばされたそうだ。実行委員会の人たちも大変だったろうに。

 一転して今日は穏やかな天候、これも珍しいという。秋田のこけしは首がつながったタイプ、峠を越えて鳴子に入ればこちらのこけしは首を差し込むタイプだと妻殿は言う。古川、仙台からはあっというまに新幹線で帰ってこられた。我が家の方が寒い。

 「いぐ来てけだんし」とは「いらっしゃいませ」という意味。「かだる雪まつり」チラシによれば、「かだるネサンス」=「住民、観光客、学生、有識者などが、みんなが“かだって”アイデアから実践までつくりあげ、温泉地を再生しようとする」試みだそうです。なにか私たちに通じるものがありますね。

 あっ、そうそう、ゲホゲホ、鼻水ズルズルで出発したが、根性と気合と西洋医学処方薬で帰るころには風邪を治したゾ。

2009年2月5日木曜日

瀬戸の島おこし「香川本鷹」


 四国丸亀市には瀬戸内海に面して離島がある。その島に渡る小さなフェリー乗り場で船を待った。

 我らがK理事長は人の話を聞いていない。
 切符売場の係のおばさんに尋ねているのが聞こえてきた。その会津なまりで「私はどこにいるの、私はどこに行くの?わかんねぇだもの」
 O専務が海上タクシーを手配(チャーター)して今こちらに向かっているところだとさっき説明したのに。切符売場のおばさんに聞いてみたところで答えられるわけがないではないかと、言い草を真似してみせてみな大笑いした。帰るときまでこのネタを何度も使ってM副理事長らと思い出し笑いした。Kさんはこんなに茶化されても怒らない、怒るどころかちょっと照れ笑いしている、さすがに理事長に戴くだけの人柄だ。

 丸亀市役所の川口さんは限界集落だと言った。手島(てしま)という小さな島は人口40人30世帯。90年に島の小中学校(併設)は廃校になった。それ以来子どもはほとんどいないということだろうか。この島で農業を営む高田さんによれば、多い時は児童生徒数が200人を超すことがあったらしい。高田さんはこの島から一度も働きには出たことはないらしい。

 この島々に「香川本鷹」をつくってほしいんじゃ。荘内半島(県の東側にある瀬戸内海に突き出た半島)でもできよるけんど、島の人が元気になってほしいんじゃと県の糸川さんは前日に説明してくれた。世が世ならご朱印状をもった人らやでぇ(優れた航海術を持つ瀬戸内の海人を秀吉や幕府は保護したらしい)。

 年上の川口さんが行動隊長になり、とうがらしの「香川本鷹」の復活栽培を説得に回ったという。手島では高田さんと藤原さんの「百姓魂」に火をつけたらしい。海に面した耕作放棄で荒れた段々畑を再び開墾したらしい。先祖代々伝えられたものであろう石垣はりっぱなものだ。勧めたときはアクセルを踏みっぱなしだったが、今では畑を広げ過ぎるのでブレーキをかけないと、と言う。そうは言ってもまだ3年目。台風に遭えば茎が折れて全滅の危険、せっかく挑みながらやめた人もいる現実。県のホームページで紹介し、最初に地元の新聞が取り上げた「幻のとうがらし復活」。そしてテレビが来るようになった。今日もこうして東京から押し掛け、記念写真をと言う、藤原さんの奥さんは紋付きをきてくるんじゃったと軽口をおっしゃる。

 雨の少ない瀬戸内気候。このとうがらしには最適地。雨の少ない地方なのに私たちの訪問時は滅多にない雨に祟られた。

 絶滅作物かと思われていたが、誰も見向きもしなかった栽培を守り、種子を持っている人がいた。そんな人だから頑固者で、なかなか譲ってくれなかったという苦労もあったが今では県農業試験場にきちんと保存してある。時代に流されぬ変わり者がいなかったら、どうも秀吉の時代から続く「香川本鷹」の復活はできなかっただろう。

 「香川本鷹」の応援団、こりゃ皆おもろい人ばかり。私には人間としてまっとうな人たちに見えた。

 帰る時間に余裕があって初めて金毘羅さんの階段をのぼった。映画「二十四の瞳」の修学旅行のシーンを思い出す。

 私のパソコンが動かない。風邪だ、寝る。歯の治療が終わった。

2009年2月4日水曜日

何故「今治」か


 私のパソコンはキャパがない。私と同じだ、とほほ。3日間もインターネットが開かなくなって途方にくれた。

 故郷に帰ればレンタカーを借りる。地名を聞けばどの辺にいるかがわかる。が、だ、「平成の広域合併」でよくわからなくなった。わが故郷は近辺の町村を合併した、その結果、県都の隣の市になった。それでは運転していて距離感が狂う、「もう、我が市?そんな馬鹿な」だ。

 愛媛県の今治と言えば「タオル」を連想した。中国産に押されて苦戦していたように聞いているが、紆余曲折の上、基本のキ、「白いタオル」(高い品質)で勝負をし、復活を遂げていると聞いたことがある。というのが、知っている私の今治だった。それと昔、佐世保重工業の再建に来た坪内さんという御仁。

 その今治も05年に広域合併を遂げた、「新設合併」と言い、既存はなくなり新しいものをつくるという対等合併だったそうだ。県都松山市に次ぐ第2の都市で且つ隣接することになった。

 来る2月28日この今治市で第4回「農を変えたい!全国集会in今治」が開かれる。「農を変えたい!全国運動」代表は中島紀一さんだ。

 では、何故今治か?再び、今治市役所の安井孝さんの話を聴く機会があった。今治は工業商業の町、タオルは全国50%のシェア、造船技術集積の町だそうだが、「農水産業頑張るゾ」ということを機軸に町づくりを進めてきたという。

 今度の総選挙はどうだか知らないが、愛媛県は名だたる保守王国、いうなれば自民党ばっかしなのだそうだ。その県のこの市に『今治市食と農のまちづくり条例』(06年9月)というものがある。そのまえに「食料の安全性と安定供給体制を確立する都市宣言」(05年12月)が議員立法により採択されていた。もっとその前に旧今治市で「食糧の安全性と安定供給態勢を確立する都市宣言」(88年3月)という背景があった。四半世紀以上前の学校給食の自校化を求める市民運動や有機農業を進めたい農民運動に端を発する。要は積み上げがあって、今日の多岐にわたる成果があって、大変に興味深い。こういうふうに元気がでるんだという先例になっている。「担い手」とはこう言いそれを、行政が後押しする。

 多忙そうな市職員の安井孝さんの話とパワーポイントは雄弁で、加えて別の職員の方に「さいさいきて屋」という“地産地消型地域農業振興拠点施設”に案内していただいた。ここは要するに「農産物直売所」つぶれたAコープの店を活用した540坪。年間15億円の売上げという。出品する人は850人に達し、今それ以上はもはやお断りしているとか。ここは食堂を経営していて、正真正銘の「みどり提灯」、「さいさいきて屋」の食材しか使わないというルール、だから毎日単品メニューが違う。洋菓子販売ではどう見ても「いちごケーキ」に見えるが、いちごを売っているのであってたまたまスポンジを使ったクリームを使っただけであってケーキではないというこだわり。ケーキ屋さんとは勝負しないというコンセプト。話は尽きない。まだまだ見たり聞いたりしたかったが、先を急いだ。