2009年12月26日土曜日

臼杵せんべい


 昔2大政党と言えば自民党と社会党だった。
 九州を北から南に終着駅の「西鹿児島駅」(現在は鹿児島中央駅)まで行くのは2通りあって、西回り(西海岸を行くルート)が鹿児島本線、東回り(東海岸を行く)のが日豊本線。
 東京にでも就職してしまえば乗る機会はめったにないだろうと考えて、大学を卒業して最後の帰郷のルートはわざわざ日豊本線をとった。小倉までは夜行、そして乗り換える。初めて見る車窓の風景。彼女は初めての九州。延岡で途中下車して当時まだ残っていたローカルの高千穂線にも寄り道した(ほどなく廃線されたので貴重な経験になった)。
 ところが皮肉なことに、就職して赴任先が博多、そして営業先が主に大分・宮崎だった。それでいくらでも日豊本線にはお世話になることになった。今のJR九州の列車は実にセンスがいいが、当時の特急は味も素っ気もない黄土色の車体の特急、乗車時間が恐ろしく長く何度も乗ればひどく退屈に思えた。今ほどの快適さは何もなかった。
 得意先に行けば社会党の代議士さんのポスターが実に堂々と貼ってあった。労働組合(地区労)が母体になってできた得意先がこの沿線には多数あって歴史を背負っていた。また、九州のあっちこっちの旧炭鉱地帯には炭労を母体にした得意先があって往時がしのばれた。社会党にはレッキとした派閥があって同じ得意先で隣同士でも実は仲が悪かった。大分は瀬戸内海に面しているせいか、同じ九州人でも性格が穏やかに感じる。昔この本線沿いには、特急が止まる駅ごとに得意先があったそうだが、私が赴任したころには幾つかになっていた。臼杵は古い城下町で実に閑静な街並みだった。古くは戦国大名の大友宗麟の居城だったところだ。得意先の拠点があったので何度も通った。若くて元気が良かったので、あるとき専務さんから名物のふぐの刺身をご馳走してもらった。ここでは肝も出す。プロが調理するので問題はないが最初はひけた。透けるほど薄く切った切り身を丸い絵皿に放射状に広げて盛り付ける。それはどこでもそうだが、それが大変大きな丸皿で出てきたので、その皿と同じくらい目を丸くした。この世にこれほどうまいものがあるのかと思った。「どうだ参ったか」「恐れ入りました」まさにその境地だった。
 あとで考えればそれほど年は離れていなかったのだが、仕入れ担当の板井さんは高校を出て働いていたからベテランに見えた。穏やかな性格で、値切られもしたが相談にもよく乗ってもらった。臼杵は実に静かな街という印象が強く残っている。
 山本さんの故郷の佐渡の集落では「山本」と「臼杵」姓が古い家であるらしい。それで、何か所以・由来があるのではないかと、山本さんの兄上ははるばる臼杵まで訪ねて行ったそうである。こういうとき自治労仲間は役に立つ。母校の大学では網野善彦さんの歴史論の薫陶を受けたらしい。臼杵市そのものに「臼杵」姓はなく、その周辺の郡部に見つけられたらしい。「臼杵」にしても「高千穂」にしても佐渡にあったり、信州にあったり、何か古代の勇躍・つながりを想像できておもしろい。臼杵も佐渡も冬の魚が旨い…。
 「臼杵せんべい」なつかしい名物。たまたま臼杵の方から送っていただいたその日に、二男が大分生まれの大分育ちの彼女を連れてきて皆で頬張る。大分からは初めての社会党の総理が生まれた。そしてその社会党は無くなった(現在の社民党が後身だが)。得意先も県内で合併してひとつになって、杵築も臼杵も津久見も行くことはなくなった。
 「豊の国」古代・中世では仏教文化を育んだ先進地域だったようだ。

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