2008年5月18日日曜日

たまご生産の危機


 宅配のたまごを買っていると、配達のない土日の分はどうしているのかなとか思ったりする。登録をすると平飼たまごが手に入る。ただし有無を言わされず毎週届く。今春社会人になった末の子はこれの“たまごかけご飯”を至上の楽しみにしている。米も登録米だからまっとうにお願いしてつくってもらっている関係だと思っている。
 女房殿はスーパーのチラシに載っている98円や88円の卵を買いたいという。たまに買う。何がなんでも「平飼たまご」ではなく、家計も秤(はかり)にかける普通の家庭。
 養鶏業者の並々ならぬ日々の経営努力がある。インフルエンザに怯え、飼料の高騰に泣く。資材高騰もひたひただ。
 物価の優等生だとおだてられても誰か助けてくれるわけでもない、逆に売り場の「目玉商品」に利用されてきた。
 にわとりの毎日たまごを産む不自然。あくまでも一般論だが、雛から孵(かえ)りメスとして選別され、大地を走りまわることもなく鳥のように(?)飛びまわることもなく、大奥のごときメスだけの鶏舎で、座るか立つかぐらいの籠のなかで毎日たまごを産み続ける。そして羽も抜け落ちて産卵もできぬようになって、「鶏ガラスープ」のダシとなって生涯を終える。
 こういう鶏舎の経営努力と鶏さんがこの列島の「たまご」という優良な食糧と物価を支えてきている。
 この地球プラネットに生まれた生物で月の満ち欠け、潮の満ち干きに影響を受けぬものはなく、したがって排卵が毎日あるはずもなく、にわとりとは、柳沢(元厚労相)くん風に言えば、「卵を産む機械」生きている産卵マシーンである。先祖代々人間によってそういうふうに造りかえられてきた。
 にわとりのその生涯、境遇を考えれば、「平飼たまご」はありがたい。安全な飼料を使っているからとか、自分の健康のことをのみ考えているのではない。
 光と風と土の鶏舎でゆったり暮らす「にわとりたちのたまご」このことに思いをはせる。
 ある南の島の村落に寄宿したときにタイムトンネルから出てきたような錯覚に落ちた。鶏の鳴き声に目覚め、庭、畑を走りまわる鶏たちがいた。幼き日の朝と同じ、幾筋もの光と、凪ぎと一陣の風の交互、これを五感に受けとめつつ、顔を洗い、朝餉にあずかった。そんな「朝」に遭遇した。かつて、庭の、あるいは縁側下のたまごをひろう役割は子どもだった。自分の家では食べずお金に換えた。年に一度運動会の朝、生卵のすすりかたを教わった。たまごが貴重で、この列島の「朝」が健康であったように思えることを重ね合わせるからである。
 その経営に危機が訪れている。飼料の高騰だ。食糧資源への世界的な投機が横行している。このことを、いま生きている人類として許してはならない。
 間違いなく、途上国のひとびとに、より厳しく、そして我々の社会でも庶民に襲いかかる。産直を通して話し合い、それに終始するだけでなく、私達の日常と幸福を奪う世界的投機およびその実行者、倫理のかけらもなき輩と対峙、対決すべく世の中を動かさなくてはならない。グローバルの、といえばそういう課題でもある。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

なんやかやで25年近く平飼養鶏をしてしまった。沖縄の山の中で森の樹を切り(ゲンミツには盗伐です。ごめんなさい)、皮をはぎ、乾かして10坪の鳥小屋をつくったのが始まり。
榊の葉のようなブラジルホウレンソウとか水路脇に植えたウンチェバーではワンパック産直が続かず、目玉で卵を入れた。
超大好評!ほかの野菜はいらないから卵だけくれと「励まされ」、複雑な心境にもなった。なんせ草と野菜くず、少々のクズ米と港でもらったアラを煮たものだけの飼料。だから1日1個どころか3、4日に1個といったていたらくだった。
しかし、うまい。自分で言うのはなんだが、今のわが農場のものより数段にうんまいと思う。価格を着けるのなら1個100円はもらわねば。卵はニワトリの赤んぼだからね、大事に食べてほしい。

蛇足・ひとのブログに寄生していないで自分のブログを作れと余情半さんにいわれそうでコワイ。

匿名 さんのコメント...

先週のたまごはひょっとしたらご近所かお仲間のたまごかもしれませんでした。
よかったらいつでもお立ち寄りください。