2008年5月27日火曜日

国がしたこと


小中学時代のころの友人の家にカメラか写真の月刊誌があった。戦前の報道写真が掲載されていたことを覚えている。そこに中国戦線で兵士達に混じって、荷物を頭にのせ、着物やスカートを太ももまでめくって川を渡ろうとしている若い女性たちがいた。従軍慰安婦たちである。この存在は公然のことだったはずである。その写真の兵士と女性たちの表情は明るく国策に準じているようだったが、「不許可」と四角で囲った印が捺してある。検閲では許可されなかった、つまり隠していたことをコメントしてあった。

朝鮮半島の各地から強制連行して船で南方へ送るとき、軍の主計士官たちは軍馬はウマとして扱いながら、慰安婦たちを「物資」として扱い、記録上からも証拠に残さぬようにした。卑劣。

1975年は昭和50年の節目で、「昭和50年史」という類の内容がいくつか編集、あるいは特集され、相次いで出版された。当時、印象的な研究、ルポがあったことを覚えている。元従軍慰安婦の女性達のことである。多くが耐え難い屈辱と犠牲になったが、生存する人たちが帰国することもできず、主に沖縄、奄美にひっそりと暮らしているという、研究や証言が紹介されていた。当時その人たちは50歳前後。今私はその歳を幾つか越している。当時若くてわからなかったが、今はわかる。記憶も屈辱も古いことではなかったのだと。奄美は1953年まで、沖縄は1972年まで米軍政下におかれた。貧困とそして「島差別」があった。女性達の居場所があったのが何故奄美、沖縄だったのか。沖縄、奄美になぜ居場所があったのか。

若者が主催する昨年で3年目の「さらば戦争映画祭」でひとつのドキュメントが上映された。『オレの心は負けてない』~在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい~07年制作95分。彼女は16歳のときから中国のあちこちで7年間慰安婦を体験。93年に国を提訴、03年に敗訴。東北に在住。妻の実家に近い。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

余情半様。
>何故奄美、沖縄だったのか。沖縄、奄美になぜ居場所があったのか。

理由は簡単です。当地では「需要」が巨大だったからです。私は具体的にいわゆる「従軍慰安婦」のオバァを知っています。もう亡くなられたかもしれません。戦地の賃金が非常に高かったので貯金がかなりあったそうです。戦後、島に帰ると金武の歓楽街でAサインバーのヤリテババァになりました。そしてベトナム戦争で、巨富を築きました。ちなみに「パンパン」の女の人も皆、豊かになったそうです。

彼女と接するかぎり「屈辱」とか「犠牲」とかいう言葉はあまりピンときません。韓国の人たちと違って、そうとうに割り切っているかんじです。

私のブログでも書きましたが、沖縄の老人で、戦争体験や慰安婦(オバァ自身の表現では「パンパン」あるいは「ジュリグァ」「従軍慰安婦」などという表現は聞いたことがない)体験をひとくくりで「悲惨」とすると、真の姿が見えてこない気がします。

彼らはメチャクチャにタフで、いい意味でドライな人たちです。悲惨を世間に訴えることなどしていたら、生き残れず、子供ひとりも養なえなかったからです。仮にその子が混血だったとしても。このオバァだったら、たぶんこう言いそうです。「それしかないからそうなった。売ったのは父親。だから恥の上塗り」。

私は悲惨を叫び、国家を訴える人より、このようなしぶとい生き方をしてきた人のほうが、性に合っています。

かといって、別に裁判自体を否定しているわけではありませんので念のため。それはそういう方向もあるだろうなぁ、ただ、実際会ったかんじとは違うなぁ、ていどです。

ちなみにオジィの話しの方は拙ブログ2日前に書きましたので、よろしかったらご覧下さい。

匿名 さんのコメント...

「けっこうしぶとく生きているということ」についてはその通りです。
宋さんも、トマサさんもその境遇のなかで表面はそう生きてきたようです。
ただ好きでそう生きてきたのではなくて、内面奥深くの傷は癒えなかったと考えます。
言いたかったのは貧しさの中でやむなくそう生きたのではなく、戦争のなかでおきた国家犯罪に翻弄されたという事実です。
つまり歴史的背景とこの国のけじめのなさです。
彼女たちは70を過ぎてから、迷ったあげく、立ち向かいました。
けっして告発の美談でも闘志や勇気でもなかったのです。
宋さんの「屈折」は変わっていく、このことです。

それと、しぶとく生きるもなにも、戦争に巻き込まれ死に追い込まれたひとたちが多くいたという無念を思います。

話がとんで、うまく言えないのですが、
「昭和50年史」のときには、あっけらかんとありのままに描かれていました。
歴史学的には民衆史を描こうと頑張っていました。

彼女たちはいちど韓国に帰ったけれど「後ろ指」をさされて生きていけなかった。
「日帝」を非難はしても具体的に彼女等を援ける社会になっていませんでした。
被害者が「すれっからし」「ふしだら」のようにあべこべにされる理不尽。

地理的な要因もありますが、
寄り添える居場所が奄美、沖縄だったように思えています。
「てげてげ」が、ときに寛容でありました。
ハマタヌ様がよくご存知のとおりです。