2008年5月5日月曜日

骨はあるんだよという話、子どもの日に寄せて

 かつて利根川は江戸湾に注ぎ込む暴れ河川で、もともとお江戸も湿地帯だった。
 利根川は大工事の末、今のように河口を銚子に改修した。巨大な消費都市お江戸が成立していくなかで、上方から船で大量輸送していた醤油を利根川水系沿いの輸送経由地で製造するようになる。銚子、野田である。原料の大豆と小麦は上流の関東平野が適作地である。上方から伝わった蒲焼という調理方法に「蒸す」という加工を加えて関東型の鰻蒲焼が成立する。
 泥臭く、骨の多い魚だからこの方法で食べやすくおいしくなった。西日本ではみられなかった方法だ。だから、お江戸のうなぎは少し大きかったのではないだろうか。
(右の画像は今年1月に採れたばかりのうなぎの稚魚、はるか南の太平洋から漂着して河川にのぼろうとしたころの稚魚です、許可無く採ってはいけません)
 
 魚の骨はのどにつかえるから、ときには刺さるからそんな工夫をした。工夫をしたといっても、究極的には取り除くしかない。だからあらかじめ親は幼な子のために、長じて子は老いた親のために骨をとってあげた。骨を取るという行為はしぜんな愛情、思いやりを表す行為であった。もはや「かつて」の話なのだろうか。
 
 「魚に骨があった、どうしてくれる」
こういう「許せない」世の中をつくってしまった。
 魚を加工する産地で、もっと細かな加工をしている中国で、ひとびとは額に汗して骨をとっている。私は背中に冷や汗して骨を折っている。みんな神様のような消費者のために今日も精進している。
 
 少しは骨のある子に育てたつもりの次男三男が今年同時に就職して、保険証に載る名前はいきなり私ひとりになった、30年ぶり。
 穏やかなこどもの日、知己のお方に孫ができたらしい、めでたい。うちも次は孫かいな?

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