2009年5月8日金曜日

みなみへ(Ⅲ)

昔、休みをとって宮古島へは東京から直行便で行ったことがあります。そのときのこと、今どの辺かなと、通路の窓から下を覗いたとき目に入った緑の濃い島の印象を忘れられません。それが奄美大島でした。いつかは行ってみたいと思っていました。

奄美大島はちょうど二等辺三角形のような形をしていて底辺のところには海峡があって、加計呂麻島があります。その大島海峡の西の端に小島があって江仁屋離(えにやはなれ)といいます。そこまで船で連れて行ってもらったことがあります。海峡から外海に出ると南に大きな島が見えました。あれは何かと訊いたらあれが徳之島だと。私はもっと遠くにあるものだと思っていましたから意外さに驚きました。

島によってハブはみな違うということを瀬戸内町の郷土館の方に伺いました。ハブと島の人の気性が比例する、徳之島が一番激しいと。たしかに徳之島の伊仙町というところの町長選の激しさは有名でした。闘牛の島でもあります。行ったことはありません。

今の奄美大島の空港は北の方の西側の海にあります。いかにも珊瑚の海をつぶしてできた感じの空港のように思えます。その空港から真東に平たい島が見えます。それが喜界島です。親友のUさんは若いとき仕事でここに入り浸りになり我が社の黒糖焼酎のブランドをつくりました。モデルさんも連れて行き宣伝写真も撮ったそうです。

奄美大島、喜界島、徳之島を「道の島三島」といいます。「道の島」とは薩摩藩からの見方です。琉球へ渡るための懸け橋という意味だそうです。1609年薩摩藩は琉球王国を侵略し支配下に治め、奄美地方を直轄地とします。ちょうどそのころ中国の福建省あたりから伝わってきたさとうきび栽培を強制し、それからできる黒糖を「物成り」=税として激しい収奪をします。やがて島の稲作もつぶし、島はさながら“さとうきびのプランテーション”と化します。とくに1777年からの「惣買い入れ制」(藩による独占買占め)により島民はより一層激しい収奪にさらされます。黒糖地獄あるいは「蘇鉄地獄」といいます。台風などによってひとたび飢饉に陥れば食うものは無く、蘇鉄の実を食べて餓えをしのいだといいます。蘇鉄の実は粉にしてよくさらさなければ毒があり命を落とす危険性がありました。鉄分やカルシウムの多いものです。「私の腕の骨は太いでしょ、先祖が蘇鉄を食っていたんです」とFさんは教えてくれました。今は蘇鉄の粉はみやげものとして売っています。使いやすいもの、おいしいものではありません。幕末期、破産状態にあった藩の財政を急いで建て直すためにこの「道の島三島」で行われた厳しい収奪は黒糖地獄として鹿児島にもながく言い伝えられました。

奄美の、高い声を使い、掛け合いする民謡は哀調を帯び、引き込まれていきそうになります。また名瀬の酒場では蛇味線と太鼓で陽気に謡うこともできます。沖縄とは違う独特の良さが魅力です。

こちらの三島(さんとう)、あと二島に行ったことがありません。

0 件のコメント: