2010年12月23日木曜日

誇りある島Ⅱ


 時は明治18年9月、所は種子島北東部。伊関村の貞吉さんは深夜いつもの通り、松明と突き棒を持って磯の魚を獲りに行く。寝込みを襲うそういう漁であるらしい。そのしぐさがおかしい。すると、どうだ!棒の先に柔らかい固まり。なんと!人ではないか。しかも、見慣れぬ風体。…という「カシミヤ号」難破救出の場面。やんやの喝采だ。

 沖ヶ浜田黒糖生産者組合「大(おお)頭領」持田さんの歓迎のあいさつに続いて乾杯の挨拶に立ったのが沖田頭領。彼が演じてみせる再現劇だ。我々一行への歓迎の宴もたけなわのころ、それをやれと、やってほしいとみんなからねだられるのだが、まだ沖田さんは興にのっていない様子。酔いが足りないのだろう。そこは東京近辺からわざわざ8人も来てのたっての所望、まだシラフという感じではずかしがりながらも「タネ弁」でサダキチさんは凪の夜…、これ松明ネ、こっちは棒、と一人解説入りで演じ始める。「タネ弁」は「かごっま弁」ではない、標準語に近い。

 種子島といえば鉄砲伝来が有名で学校でも習った。外との交流の多い島、黒潮の流れの真っ只中にある。この島から「海流瓶」を流せば本土、ハワイ、アメリカ、対馬、韓国、南西諸島、フィリピン各地に漂着するらしい。台風に出遭って遭難したアメリカの運搬船「カシミヤ号」もそのひとつだったらしい。これを砂糖小屋のあるこの浜の村人たちが救出し手厚く介抱して国に帰した。船乗りたちはこの親切に感激し種子島のことを伝えた。それでアメリカ議会と大統領は感謝状と金一封といっても5,000ドルという大金を送ってよこしたそうだ。それを村では当時の文部大臣大隈重信の指導もあって村の教育基金に充てた。村ではこのことを長く顕彰し、あの戦争中でも絶やすことはなかったらしい。

 あれが私の実家、その道を折れて左手が運転手の長野さんのお宅。運転手の長野さんは従兄。しばらくいくと右手にあれが母校の伊関小学校。そこに大きな「カシミヤ号」顕彰碑が立っている。ずっと案内してくださった地元の長野広美さんは素敵なご婦人だ。感激のあまり「おお、種子島には少なくとも年に3回は来よう」と言い始めたのは我々一行の中心人物のひとり。我々一行はみな「船頭」なのですさまじい。行程中、長野広美さんが順追って解説をしてくれるのだが、見学の脈絡とはちとはずれる自説を展開する人や、さっき聞いたでしょと思われる質問をする人などかしましい。ところがこれがまた、種子島の理解に繋がっていくという不思議なことになる。長野広美さんも長野さんでそう負けてはいない、島自慢をきちんと展開する。ただし、話の腰は折られるのだけれども。みんなが種子島を気に入ったのは、出遭った人々や景色風土、仕事ぶりに魅了されたのもあるが、もっとも大きな理由は長野さんの俄かファンになったせいだと考えられる。

 このたびのツアーの目的のひとつは、「沖ヶ浜田の黒糖」づくりの現場を見学にきたこと。そしてそれをつくっている人々とふれあいたかったこと。ここの人たちはさとうきび農家それを自ら製糖する。冬場に収穫しこの収穫期に製糖する。製糖は協業作業だ。それは砂糖小屋と呼ばれる。「31号の4名です、こちらは34号の3名です」と自己紹介があったとき、なんだ?それはまるで囚人番号のようだと思ったのだけれども、政府にとって砂糖は貴重な収入源で税務署への申告でこのような不粋な番号制であるらしい。だから、種子島には最盛期300もの製糖小屋(工場)があったらしい。

 宿にした民宿の座敷に組合の皆さんに来ていただきみんなで鍋を囲んだ。あいさつと自己紹介をしてみんなわいわいと交流をした。この辺の区長もしている沖田さんの寸劇の出しものなどで歓迎していただいた。

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