2009年7月14日火曜日

東北の実家


 お母さんのご様子はと聞かれてありのままに答えると、姑様の表情はそのうちに沈んでしまう。ボケてしまった母の様子は近い将来の自分の姿を連想するからだろう、だからトーンを下げてまあまあ元気にやっていますとお茶を濁して話題をそらせば気を取り直す。

 お姑様はお舅様よりずっと若いのにまた老け込んだ、染めなくなったらしく髪が真っ白になったのにまず驚いた。お舅様は今度の誕生日で卆寿になる。元気そうだ。白内障があったぐらいでどこも悪いところはないらしい。秘訣はどこでも「眠られること」と「納豆食」と「快便」らしい。

 風呂上りの宿の部屋で二人きりになって、女性陣を待つ間少し話を聞いた。お舅様は高等小学校を出て塩釜で5年間修業のために働いたこと。そして昭和14年12月に入隊、北支に1年半、さらに「南方」と呼ぶ今のベトナムに派遣され、結局終戦までいたらしい。「佛印進駐」といわれるものと考えられる。6年半ずっと軍隊にいて、二等兵で終わった(?)らしい。もう戦友は床屋さんの小野寺さんと二人だけになったそうだ。
どうも戦闘行為のことを「作戦」というらしい。作戦中あるとき前線にひとり残されて皆のところに撤退してきて、見れば背嚢の脇に銃弾が貫通した跡があったらしく、九死に一生を得たという。砲身が90~75cmある75mmの砲弾の着弾を測量する役目だったと、細かいことまで叩き込まれたのだろう兵隊用語がでてくる。私はあとから『皇軍兵士の日常生活』(市ノ瀬俊也著、講談社現代新書、09年2月刊)を読み進む。
 昭和13年に実母がなくなったが、ほぼ13年間事実上、実家に帰ることはなかったらしい。死人の臭いはすごかったこと、馬を曳いていたらロッキード(P-38かな?)が襲ってきてさっと散ったら、馬がやられたこと。中隊の3分の2がビルマ作戦に行って生き残っていない、きっとあの悪名高い「インパール作戦」だろうか。

 「このひと若いときいじめられたの、からだが大きいから」と姑様をさしていう。背格好も顔も少しも似ていない妹である叔母殿がいう。農家に嫁いで、歩くときは腰が曲がっている。姑様は町に嫁いだので腰は曲がっていなかったが、足腰が痛いとやらで、前かがみだ。

 初めての子を見てくれと妻殿の姪っ子が祖父母に預けてくれたミニアルバム。目鼻が婿さんにそっくりだ。その抱きかかえられた赤ちゃんを中心に、若い両親(介護士・看護士)、祖父母(義兄夫婦)、曽祖父母の舅・姑様、そして姑様に抱えられているよく太った猫。 新しい命と4代揃って撮った写真は、つながりと希望のようだ。

 舅様は「商売はあがったりです」というが、世が世なら商店街の一等地もシャッター通りになって久しく、そもそも成り立っていない。跡継ぎの義兄の闘病、ひきこもった甥っ子、「ボケ防止です」とお店に立つ舅殿。普通にまじめに、ただひたすらに生きている妻の実家の家族だ。そしてかわいい曾孫が加わった。

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