2010年1月29日金曜日

北茨城行「凍みこんにゃく」

 「凍(し)みこんにゃく」という言葉が出てこない。ついつい「凍(し)みどうふ」と言ってしまう。そんな商品があることすら知らなかった。

 先週の土曜日、訪れた茨城県北部の山間部。「奥久慈」といわれるところは天気がよくポカポカとした陽気に感じられた。しかし聞けば朝は-10℃まで冷え込んだそうだ。確かに袋田あたりの川では陽の射さぬ水面は凍ったままだ。また、めったに雪は降らぬそうだ。この寒暖の差と、雪は降らないカラカラ天気、これが凍みこんにゃくづくりにはよいそうだ。

 増田さんの案内で生産者のひとり、栗田晋一さんのお話をみんなでうかがう機会を得た。
 「うちはもともと作っていたところではなく、売っていたところ」つくる人がいなくなって、山形県のお得意先にもう納入できないと相談したら「それは困る」と言われたそうだ。それで苦労の末、自分たちでつくるハメになった。そんな話から聞いた。山形庄内地方の伝統的料理にはなくてはならないもの。
 
 小売値で40枚4,000円。聞いただけで「そんな高額な!」見ただけで「これ、何?」。「凍みこんにゃく」とはこんにゃくの乾物。保存食で、もどして料理に使う加工食品。煮しめに似合いそうだ。生のこんにゃくとは似ても似つかぬ食感と味わいが出る。とは言ってもこんにゃく、ほとんど食物繊維だ。試食販売をすればいったん通り過ぎて「これなぁに?」と戻ってくるそうだ。実はこれこれこういう商品という営業になるらしい。
 なんでも、つくり方はその昔(18世紀の半ば過ぎ)上方(丹波地方?)から伝わったそうで、農閑期の仕事として、ここの気候に合うつくり方として盛んになったそうだ。乾物なので容易に搬送できる。
 仙台の奥座敷作並温泉をさらに西へ行くと県境を越し山形県に入れば有名な山寺がある。この門前には串に刺した玉こんにゃくが名物としてどの店頭でも売っている。山形県はこんにゃく消費ではダントツに日本一、なかでも庄内。この凍みこんにゃくもほとんどこの地域で使われる。この地の料理(「冷や汁」)には欠かせないもののようだ。
 常陸の国・奥久慈から庄内へのモノの流れがあった。モノづくりと庄内の郷土料理が結びついている。庄内は東日本にあっても丸い餅を用いる。凍みこんにゃくにしても何か上方の名残りがあるように思えるが、私たちの推測だ。

 凍みこんにゃくづくりは、いまの加工食品一般のつくり方から考えれば実に手間ひまがかかる。もとになる蒟蒻からして今私たちがなじんでいる蒟蒻とは違う。今の蒟蒻は一度原料のこんにゃく芋を粉にしたものからつくる。これは江戸時代にまさにこの奥久慈で発明された製法だ。いわば江戸時代のインスタント蒟蒻だが、今の蒟蒻は凍らせてしまえばそれで終わり。もどすことはできない。よく苦情・お問い合わせで寄せられる。凍みこんにゃくは昔ながらのこんにゃく芋(生芋)からつくらなければいけない。昔はあたり前のことだったのだろうが、今はまずこの蒟蒻のつくり方から手をつけなければならない。すると道具が違う。芋の皮を剥いて擦りおろし攪拌するのは「木のへら」(*)にこだわる。火からして違う。蒟蒻を煮る釜は竃の薪で炊く。薪が要る。竃の火はぱちぱちと見ている分には心地よい。こんにゃくは天日で干す。これには下に敷く稲藁が要る。冬の田んぼに敷く。すると田んぼをやらねばならない。稲はコンバインで刈り取るのではなく手で刈ることになる。型にはめてつくった蒟蒻は、焼き上げたパンのようだ。うす茶色をしている。これをスライスする。ほぼ葉書大サイズで、ちょうど普通の蒟蒻の一丁分だそうだ。これを冬の田んぼに敷き詰めた藁に一枚一枚並べて、天日に干し、夜間に凍らす、昼間の陽射しで溶ける、これに灰汁(あく)抜きのための水を撒く(昔は山の田んぼで水汲みからやったそうだが、今は水道だ)、また夜間に凍らす。この繰り返し。天日乾燥したら裏返す作業が必要だ。うまい方法はないそうで、手で裏返す。枚数の分だけ作業をせねばならず、気が遠くなるような手作業だ。聞いただけで腰も痛くなりそうだ。さらに天日干しをして、今度はムシロをひいた屋内で影干し。今はこのムシロも手に入らないだろう。完成までかれこれ1ヶ月を要す。「高いと思われるかもしれませんが、手間賃ですわ」と栗田社長。1枚がねぇ、ちょうど蒟蒻1枚分なんですよ。昔は山で干していたんです、今は目の前、水道もあるし、手袋だってある。ぽかぽか陽気かもしれないが凍ったこんにゃくは冷たい。「後継者?いないですね、おしまいですね」と40台半ばと思われる栗田さんはあっさり。「これはやりたくない、と思うような作業なんです」と。地元ではね、祖父の代までですね、お葬式とか、今では食べていないですね。
 
 昔、訪れた宮崎の「切干大根」のことを思い出す、寒風、よく晴れた冬日、山間部。こんにゃくの水分は97%。寒風と冬日にさらされた凍みこんにゃくは約十分の一の重さになる。土色を超して今度は白くなる、形も不ぞろいだがおおむね揃う。
 袋田の滝のみやげもの屋さんでは9枚で1,150~1,050円見当。生産者は二人だけ。
 
 さすが、イバラキを自慢する方のご紹介。「恐れ入りました」の逸品だと思う次第。庄内では欠かせない食材で大手スーパーのヨークベニマルですら扱っているようだが、その地域だけのことで稀少品。産地はどこを探してもここだけで、ほかでは手に入らない。

*品質管理(異物混入防止)の観点から腐食したり削れたりして混入の恐れがあるとして食品製造の現場ではよほどの事情が無い限り「木の道具」は使用させない傾向にある。すると、水産加工業の蛸を揉む木樽が消えていった。味噌醤油を仕込む木樽が消えていった。

追記;
 近世、常陸の国・奥久慈地方に上州から蒟蒻芋栽培が伝わり、痩せた土地柄の上州および常陸の山間部は蒟蒻の産地であったらしい。ところが産物の蒟蒻芋は重く、しかも日持ちがしない。18世紀の半ば過ぎ、藤右衛門さんという人が「粉こんにゃく」を発明した。これは保存がきき、しかも輸送効率はあがり、商品価値を高めた。功労者ということでこの人は水戸藩から苗字帯刀を許され、後世の人は神社に祭った。訪問当日は大子(だいご)にあるその神社に参って昼食をとった。ずいぶん待たされたけれど「しゃもの親子丼」はうまかった。
 こんにゃくは藩の専売品になったり「規制緩和」されたりして、大都市江戸はもちろん販路は奥州、北陸、上方にまでひろがったようだ。「袋田の滝」のみやげ物店の通りに「桜田門外の変」の映画の宣伝の幟が林立している。ああ、さすがに茨城だと思っていたら、それだけではない。実は幕末尊皇攘夷の水戸浪士の活動資金はこんにゃく商人から提供されていたらしい。そういう縁もあるようだ。
 
 私は、こんにゃくは黒いものだと思っていた。生まれ故郷ではそうだったから。これも餅の形と同様に西と東の違いがあるようだ。東日本の蒟蒻が白いのは、背景にはこの地で発明された「粉こんにゃく」(皮は剥いてつくられる)の普及があったのではないかと考えられる。黒いのはこんにゃく芋の皮のせいだそうで、西日本には長く粉こんにゃく原料を使う製法が及ばなかったのではないでろうか。今では粉こんにゃく原料からつくるのがほとんどで、わざわざ海藻(ひじき、あらめ、などの粉末)を配合して黒っぽくつくるそうだ。そう、私は黒っぽい蒟蒻のほうがありがたいような気がする育ちだ。

2 件のコメント:

ハマタヌ さんのコメント...

 おそれいりました。小生、茨城県人歴27年ですが、知りませなんだ。小生の住む南部と袋田あたりの奥久慈はほんとうにちがいますねぇ。いや、風土とは面白い。

余情 半 さんのコメント...

 私は50を過ぎるまで同じ県内でも東の大隈地方には縁が無くて行ったことがありませんでした。養殖鰻の産地があってみんなは行っていました。意外と見知らぬ地元の話は県外の人から聞くものです。長い間どんなところだろうと思っていましたよ。
 また、おもしろいもので北茨城といったところで福島の人からみたらしっかり南なんですがね。ソウルのひとがプサンは暖かくてのんびりとしていると言ったところで、博多からみたら玄海灘のはるか北方。熊本で芦北、水俣は南部で暖かいところといったところで、我々からしてみたら出水よりずっと北。
 ところで、ハマタヌさまも四方八方の人との対話になるようです。よくいえば幅の広さ。旅の運転中、私はスピードを出したくないときには追い抜いてもらうことがあります。