2010年1月26日火曜日

「奥久慈漆」(茨城県)の復活

 昔話だ。新婚2年目の大晦日あたり団地の中にあるスーパーの処分品コーナーで三段重を見つけ、半額の1,500円で求めた。もちろん漆器のまがい物で生地はプラスチック製、塗りは樹脂製だった。外側は赤、中は黒に塗ってあったように思う。1歳になる長男が加わって初めての三人家族で迎えようとしている年の瀬、妻殿は本で学びながらお節をつくった。生協で保存料なしの仙崎かまぼこを求めた以外は、ほとんど手作りだった。お重は持ってはいなかったから、それに詰められただけでとても幸せだった。

 ベースは黒か朱そして金などデザインされた漆器は美しい。しかし輪島に行けばため息がでるほど高価で手が出ない。せめて手が出るのは箸程度だ。いくつかの年齢になれば漆器のお重がほしいと思っていた。

 私たちの業界で扱えたのは、価格が手ごろな会津塗り、山中塗りだったようだ。四半世紀も前の話だ。せいぜい、朱色が独特な味わいのある春慶塗りのお盆程度だった。お正月用の三段重15,800円これが扱える金額の限度のようだった。生地は木製だったと思うが主な塗り方は樹脂製だったと思う。存分に漆を使ったものは価格の次元が違った。日常の器、そのなかでハレの器、という意味では庶民の価格だったように思う。

 今でも覚えている。カタログづくりのラフ校正、初校、最終校の合間を縫って、初めて漆器の産地の岐阜県から富山県、福井県の山中をまわった。電話に追いかけられた。どこかの小さい駅の黄色い公衆電話で小銭と発車時間を気にしながら遠い九州の事務所の坂口さんに連絡をしたのを覚えている。そして山間部の町々で漆器づくりの分業のさまをみたときの驚きを想いだす。そういう山間の町はどこだか覚えていないが、りっぱなお堂があって木がそびえていた情景が心に残っている。そんな環境のなかで信仰の歴史の厚い地だとも思い、歴史で習った一向宗のことを想像したりもした。ひとつのお椀が実は大きな木から削られてできていることに驚いた。いくつもの工程を経るのだがこれがそれぞれ分業され幾人もの熟練の人の技で幾日もかけてできるものだと初めて知った。だから、これはすごいものだと理解した。いいものは修理ができるものだということも知った。「使い捨てではない」ということが心に響きながら、そこまでのもの(高額なものということになる)を扱うことはないなと封印をしてきた。

 昔、法事は自宅でやるものだった。それには汁椀や平皿など漆器具の数が必要だった。十六寸(とろくすん)と呼ぶ豆の甘煮は定番で、朱塗りの小さな平皿に盛った。旧家でも豊でもない我が家にはりっぱな(高価な)ものはなかった。お客様を呼ぶには数が必要で本家からお借りした。裕福な本家の漆器の器は多分りっぱなものだったのだろう。どうも母がぞんざいな手入れをしていたようで、本家の奥さんが我が家で受け取るとき実に丁寧に手入れをし直して木箱にしまっていた。嫌味のひとつも言われたのを子ども心に覚えている。

 漆器は英語で「JAPAN」というのに現在、肝心の国産の漆はほとんどない。成分・性状がよく似ている中国産のものが圧倒的だと今回あらためて確認した。ベトナムなど東南アジアでも産するようだが少し違うものらしい。国産の主要な産地は岩手県。そして昔は大きな産地であった茨城県の北部、旧山方町の神長さんのお宅を訪問して漆の勉強をする機会に恵まれた。町おこしのひとつとして地域のひとたちが「奥久慈漆」を復活させてきたらしい。今では産物として、漆塗りの産地へ供給しているらしい。そして皆で自らも漆塗りの教室を開いている。

 漆の木は根から分けて育てるらしい。今では苗木も出荷している。神長さんは木に爪をかけただけで樹液が出るのをみせてくれた。漆は10年育ててようやく漆がとれる。1本の木からとれる漆は200g、あとは切るそうだ。木のどこからでも漆になる樹液はでてくるのらしいが、木の5箇所ぐらいにキズをつけ、滲み出てくる樹液を「掻きとる」作業らしい。質問にもあったが、ゴムの木のように缶を仕掛けておいて樹液を集めるようなものではない。根気のいる仕事だ。希少なはずである。ちなみに、長方形のコタツ板ぐらいのサイズで使用する漆の量は400g。畑に木を植えてある。

 神長さんの奥さんが、教室でつくった漆器をもってきて触らせていただく。こういうふうに押さえてみて手のぬくもりが残るものが本物と教わる。

 こういう探求企画のお膳立てはありがたい。いや、よく考えればいつもお膳の前の人生を送ってきている。自分で切り拓いたものはない。あてがい扶持でないのは、人生のつれあいと一緒になったときだけかな。既製品に囲まれている。職に就いたのも、住んでいるところも、着ているものも、食べるものも。自分でつくったものは何にもないなとふと気付く。

 結婚8年目ぐらいにして、なにがしかの塗りものの三段重を手にいれた。お重は、母の時代には潮干狩りやお花見、運動会などなにか行事があればお重に詰めた。もっぱらお煮しめとか蒲鉾、そして巻き寿司だった。子育てのころもお花見や公園でのレジャーなどに使ったのかもしれないが、今ではお正月に使うだけになっている。大事にはしているが、考えてみればしまったっきり年に一度しか使わない。

 韓国明太をつくる釜山近郊の水産加工の社長さんに日本は「木の文化」で、我国は「金属の文化」だと言われた。例えば今でもお箸が違う。古代では新羅の国で、当時朝鮮半島では鉄の文化が花開いていた。王墓の遺跡からも当時最先端の金属加工の技術が窺える。日本列島では漆塗りの歴史は七千年も前の遺跡からも出てくるらしい。

 ここの生産組合および漆生産復活の様子は昨年6月のNHKお昼の「ふるさと一番」でも取り上げられ生中継された。今回たまたま案内されてその地を踏んだ。妻殿がその番組のことを記憶していた。

 以下、NHKホームページより引用
「地域の結束で復活 国産の漆  ~茨城県・常陸大宮市~  (09/06/22放送)
 中国や東南アジアから98%を輸入に頼る「漆」。品質日本一とも言われ、かつての大産地であった常陸大宮市で、国産の「漆」を復活させる試みが広がっている。中心となるのは漆工芸作家と市民たちだ。作家の本間と息子さんの親子は漆器の工房を作ると共に、消えつつある漆林を守り、樹脂を採取する「漆掻き」に取り組む。数百本の漆一本一本に傷をつけ、採取する作業は手間と時間がかかる地道な作業。漆掻きの名人・神長さんは「若い後継者が出来て嬉しい」と期待を寄せる。本間さん親子は作品制作の傍ら、市民たちに漆器作りを教えてきた。講座を通じて漆器に魅せられた市民たちも「山方(やまがた)漆ソサエティ」という団体を作り、漆の復活とその魅力を広める活動を始めている。漆の苗作りや植林から作品作りまでと、その内容は幅広い。漆に再び焦点を当て、市民が結束して地域興しに役立てようという活動を紹介する。

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