2009年6月16日火曜日

特攻


太平洋戦争末期の今頃、地上戦の戦われていた沖縄では米軍、日本軍両方から住民が追い詰められていた時期である。守備軍は持久戦に持ち込み本土進攻をできるだけ遅らす作戦をとっていた。大本営の支援は「十死零命」の、つまり生ける命を部品にした神風特攻しかなす術はなかった。1900機余が沖縄戦に「投入」されている。「国を守るため隊員たちは勇躍大空の彼方へ飛び立っていった」か、このことにノンフィクション作家の保坂正康さんは検証を重ねた。そして断定する。「つくられた神話」である、と。

「神話」につくられ、そのことに安んじようとするが、それは事実ではなく、死地に赴いた人たち、戦場の前線にいた人たちの「思い」に通じないという。死ななくてよい平和、二度と戦わない決意とは、腹の底からの願いだったという。憲法の平和条項は非常に素直なあのときの日本人の気持ち、決意、願いであった。そこから日本の再出発があると述べる。


保坂さんは1939年(昭和14年)生まれ、戦後の46年4月「国民学校」(47年から小学校となる)にあがった。戦後民主主義教育を受けた第一世代だという。

彼は昭和史の数多くの取材を重ねた。そして戦場体験のある人たちは例外なく現憲法を肯定するという。立場の如何にかかわらず。

「パイロットは勇躍特攻機に乗って出撃して行った。」「日本軍は最後の最後まで戦って散った」という話が神話化された。玉砕、特攻、などの神話がまかり通り、軍事指導者を免責した。それは戦後社会の病理だという。

事実の問題だという。特攻とは100%死ぬ作戦。玉砕とは全員死ぬ作戦。戦陣訓では捕虜になることを許さなかった。そういう、およそ作戦とはいえない作戦、先の大戦はそういう戦争をしてきたのだ、と。

学徒出陣で特攻機の整備兵をしていた人の証言;「パイロットは勇躍、出撃したのではない、失禁をしたり気絶したり、それを無理やり正気にしてのせた」。衛生兵、軍医の証言、撤退するとき重傷重病の兵隊には口をこじ開けて「赤玉(青酸カリ)」を飲ませた。生き残ってこういう経験をした人たちの実感が現憲法であるという。「二度と戦争はいやだ。」という。

身近では、ニューギニアで死ぬような体験をした私の叔父、それを聞いた祖母の話に実感としての「二度とごめんだ」があった。「とっても、いや」は私のお姑さんだ。

日本国憲法は過去との相対のなかで生み出したもの。歴史から成り立っているという。「改正」派のいう「過去にいつまでこだわっている」「現実をみよ」というのは都合のいい言い方なのだと。

戦後一般のわれわれは武器を持ったこともなかった。保坂さんと同世代の知人のアメリカ人はベトナム戦争を戦った。ロシア人の知人はハノイでアメリカ人捕虜の尋問(拷問)を行ったことがある。みな、心になんらかの傷を負っている、「日本人はいいな」と言われたという。「日本人はいいな」で、それで済むか。「戦争を超えていく力」をつくれるかということが課せられているのではないか。

「9条は理想論か、押し付けられたのか」―――は意味が無い。後ろ向きの議論ではだめだ、と保坂さんは説いた。

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