2009年4月19日日曜日

新緑


この間までは「長生きしてよ、百歳まで生きんば」は半分冗談、励ましだった。

姉夫婦が母のところを訪ねている。昨夜は、血行障害が起きている足をさすってあげたらしい。今日は天気がよく、車椅子で連れ出して施設を一周したらしい。とても喜んで野ばらの香りが母の脳を少し刺激したようで嬉しそうとのこと。気晴らしをさせたようだ。写メールが届く。

元気なころの母は、心配の種を自分でわざわざ探しているような性格で一緒にいても気が重くなることがあった。今はすっかりぼけてしまった。ぼけ方は、まだら模様で、今日は名前がでてきても明日はわからない。妻や姪っ子には「べっぴんさん」、婿どのには「よかにせどん」、話を交わせば「幸せの絶頂だ」、好物の甘いもの、季節の果物には「舌がちぎれそうだ」と繰り返す。ただし、ぼけていても漢字はきちんと読める「正七位に叙す」とか。

我が家はさつきが咲き、新緑が目には青葉だ。さわやかな気候だ。函館と女川の知人に予約で故郷の新茶の手配をしてある。気分はよいが、また明日からの仕事が小さい事にみえる。

97、98、を乗り切れば、白寿、そして百歳を迎えさせたいと考えるようになった。さらに症状が進むだろうか。なんとか添い遂げられたらと算段を考える。

1 件のコメント:

ブナガヤ さんのコメント...

うちの母が亡くなったのは、父と一緒の82歳でした。父という、ある意味彼女の精神的な「敵」というか、張りというか、なくなったら長くはありませんでした。
カゴマに生れて、カゴマがいかに男尊女卑だったと年中息子は聞かされていました。

母の最後のカゴマ参りの時に、錦江湾に車椅子の母を連れ出しました。「ああ・・・」と言ったきり、静かに涙を流した母を今でも忘れられません。そう言えば、母も甥っ子に「よかにせどん」と言っていました。
いつもは、ほとんど鹿児島弁などでない母なのですが。そう言えば、母も今生きていれば、90歳です。