2009年4月22日水曜日

宿屋の日阪さん


いやされの宿「田舎や」http://www.enakaya.com/の日阪さんに話をうかがうのは2回目。

日阪さんは埼玉の生まれ。
私には何も無い。学歴も無く、体も小さく、失うものが無い。中学を出て住み込みで東京の問屋で働いた。残業をすればカツ丼が食べられて、それがうれしくて遅くまで働いた。それがカメラ屋だった。『岸辺のアルバム』あれで感動した。仕事の大切さがわかった。自分のやっている仕事がこれほど人の役に立っているとは、仕事の大切さがわかった。やりがいのある仕事だとわかったら、居ても立ってもいられず、何も無くて独立した。さすがに親父も心配した。

全国を卸して歩いた。使い捨てカメラを100台売って6万円設けている土産物の売店に12万円儲けさせてやるといって自分も儲けた。儲けて豪邸も建てたが、デジカメの時代がきた。カメラ屋に見切りをつけ、この地を選んだ。

この場所が気に入った。えんもゆかりもないが、全国を歩いてこの地がいいと思った。空気、水、農作物、景色どれをとっても日本一だ。この「竹山」(「たけやま」という南薩摩の景勝地、202m高)を目前にする藪を買って宿屋をやろうと考えた。みんなに反対された、家族にも。ならば、単身赴任でもやろうと考えた。真っ黒になりながら老人が南国の藪を刈り、木を倒した。周りのこの地の人も狂人と思ったことだろう。

レストランにファミリーレストランがあるように、宿屋に「ファミリー宿屋」があってもよいではないか。日阪さんには日阪さんの「戦争論」と「家族論」がある。話せば、また長い。若い家族全員が安く泊まれる宿を提供したい。それで1戸建てコテージをつくり一棟一万円、家族4人連れで泊まれば1人2,500円。平日はもっと安くする。休前日、GWはきちんと高くする。

温泉地だから温泉も掘った。宿の目の前にはヘルシーランド大浴場、大露天風呂、砂蒸しがある。それがよい人にはそこに行けばよい。彼の宿の温泉は35~36度。ぬるい。これはじっくり入る。24時間掛け流し。家族みんなで入れる混浴がコンセプト。子どもが思いっきり遊べるように深さは90cmで広い浴槽。人の体温とほぼ同じ35~36度は「不惑泉」というらしい。肌一枚で、湯と身体が同じ温度になる。空気と同じように「湯であるのか身体であるのかわからぬ」ようになるらしい。彼の理屈はそのまま宣伝コピーだ、営業も玄人だ。この湯ともうひとつは源泉の沸かし湯(42度)の深さ60cmの浴槽もある。出入り口の重い引き戸が開けてあるときは入ってよい合図。脱衣場には不惑湯の能書きが書いてある。

家族・夫婦は裸で付き合え、子どもは伸び伸びさせろ。

なお、「浴場施設」ではないので石けん、シャンプー、リンスは使えない。「まっ、楽しんでいってください」と。

宿屋をやるからとカメラ販売の会社と自宅など不動産を担保に億の借金をしたらしい。そして、「返せない」と当の銀行に乗り込んでいって頼み込み、このような持論を展開したらしい。売れなくなった不動産物件の担保と借金の釣り合いがとれているようだ。この経済環境のなかで「貸しはがし」にはあっていないらしい。

こんな自己主張の強い男になった以上「120まで生きざるをえない。」
生まれることは自分で決められない。死ぬことはねぇ、自分で決めさせてくれと念じている。私の借金の返済は120までかかるから、120まで生きることに決めた。だからこの歳(73)で次の人生のスケジュールができるんだ。

ここの人たちは遊びが好きだ。この地でカメラを卸して一緒に儲けた金でみんなと遊んで振舞った。当地では「いい人」だという評価をつくり人脈をつくった。億単位の借金をもっているが、生活は年金だけで暮らせる。

日坂さんのビジョンはまだまだ大きい。話は尽きない。


*『岸辺のアルバム』(きしべのアルバム)は、1977年6月24日から9月30日まで放送された東京放送のテレビドラマ。原作・脚本は山田太一。1974年の多摩川水害が背景にある。この水害で多摩川の堤防が決壊し、19棟の家屋が崩壊・流出したが、家を失った事のほかに家族のアルバムを失った事が大変ショックであったという被災者の話を山田が聞き、そこからドラマの構想が生まれた。-以上『ウィキペディア』より引用

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