2009年8月30日日曜日

母の生涯


 母・幸子は数えで98年の長い人生を閉じました。
 
 生きてきた証に母の生涯の略歴と思い出を少し描いてみたいと思います。

 1912(明治45)年2月28日、8人兄弟の二女としてこの世に生を受けました。元号でいえば明治最後のひとでありました。生まれたのは鹿児島県薩摩郡川内町隈之城というところです。薩摩に特有の「麓」と呼ばれる鹿児島城下以外の地方の武士が住んだ集落です(*1)。
 男尊女卑、質素倹約で躾けられ、身に染み付いていたように思います(*2)。戦前は地主だったそうですが家が傾き、必ずしも豊かではなかったようです。

(*1);薩摩の場合、麓武士は半農半士、藩から禄をもらわず農業で暮らしていたそうです。うちは「高城殿(たっ“どん”)」ち言うて、「○○様(○○“さあ”)」とは違うと言っていました。士族は「どん」、庶民は「さあ」と呼び敬称が違うのだそうです。時代錯誤でしたが、そういう家柄のプライドをもっていました。渋谷五族といいまして、中世に鎌倉幕府から地頭職を得て薩摩の支配に来た渋谷氏の末裔(支族)という家柄になっています。中世文書の研究で知られる入来院氏もこの支族のひとつです。入来院家は大名家の島津の家来にはなりますが一目置かれた扱いでした。「入来の麓集落」は一見に値します。

(*2);このたび、孫の姪っ子たちが母の思い出話をしていて「男を立てるような躾」を受けたことがかなり印象に残っていて共通していたようでした。また祖父と母は実に達筆でしたから、字のへたな孫はこれでやられたそうです。

 学業ができたようで、川内女学校、鹿児島県女子師範学校を出て、小学校教諭となり数年間教鞭をとります。母にとってはこの時代が人生最高の“栄光の時”であったように考えられます。後で述べるように人生の困難なとき、この時代の思い出にすがり、ときには「昔はよかった」と後ろ向きになるようなこともあったように感じます。それほど母にとっては輝いた時でありました。当時(1930年代、昭和の初め)、女性が高等教育を受けられたこと、女性が職業をもち俸給すなわち給料をもらって働くことは、稀なことだったと考えられます。そして、なによりも子どもたちから慕われたことを人生最上の宝としていました。卒業した後も「先生、せんせい」と元生徒たちから尊敬されているのだということを生涯誇りにしていました。小説「二十四の瞳」で描かれる大石先生の姿はこのあとぐらいの時期です。

 1936(昭和11)年、同郷の父と見合いをして結婚します。「おまんさぁ(お前様)は、あたい(私)のどこが気にいいやしたぁな(気にいりましたか)」「ふくらはぎじゃ」という話を母はよくしてました。小さい時にはわかりませんでしたが、ずいぶん意味深なことを言っていたものです。父は台湾総督府で官僚をしていましたので、そのまま台湾への航路が新婚旅行になったようです。

 奥様生活をしていたのではないかと考えられますが、「兄ちゃんが弱かったから」いかに子育てに苦労したかという話ばかり聞かされました。1937年3月、その兄である長男が生まれます。未熟児か何か出産に事情があって、兄は病気ばかりをしていたそうです。「兄ちゃんな、“ぐらしか(かわいそう)”」というのが母の口癖でした。ですから、長男を大事にするという戦前の考え方もありますが、母が兄を気遣い、兄が母を慕う関係は濃いものでした。兄は身体が弱く学校へ上がるのが3年も遅れました。1940年2月に長女、1944年12月に二女が生まれます。1936(昭和6)年の満州事変から始まる15年に及ぶ戦争は破局に向かっていました。40に近い父も現地応召で兵隊にとられ、台湾も空襲にあいます。防空壕に入った話を母から少しだけ聞いていました。8月6日、9日の原爆投下、15日にポツダム宣言を受諾して日本は敗戦を迎えます。

 ポツダム宣言を受諾したということは植民地を全て放棄するということでした。母たちは一切の財産も持ち帰ることが許されず慌しく引き揚げます。1945年秋のことです。満州や樺太の惨状に比べればずっとましでしたが、「裸で引き揚げてきた」という口癖、全財産を失い一から出直さなければならなかったことは母には相当のショックだったと考えられます、母でなくともそうですが。当時、戦争で疲弊のどん底にあった日本の社会にひとを援助するという余裕はなかったと考えられます。揚陸地が宇品つまり広島の軍港でしたから、あのヒロシマの様子を見たのかと兄に聞きました。真夜中に着きそのまま汽車に乗せられ父母の故郷へ向かったそうです。三人の幼子(下の姉は乳飲み子でした)を抱え、母の最初の苦労が始まります。

 父の実家を頼ったそうですが、機会をとらえ後に私たちが育った住所に移ったそうです。戦後に建てた家に、後に2回ほど増改築をしましたが、ずっと住み続けました。時が流れ1954年1月に玉のような男の子が産まれます。居住空間は4畳半と3畳の間しかなくそこの縁側でお産婆さんをたのんで生んだそうです。何を隠そう二男のこの私です。父は50、母は42歳でした。何か間違えて生まれてきたのだと私は考えています。歳が離れていたのでかわいがられました。17歳離れた兄と暮らした覚えが私の方にはありません。男の子へは母は過重な期待をしましたから、そのプレッシャーに私は反抗して育ちました。

 父は癌で胃を全部摘っていて弱ってはいましたが、瓢として生きる意欲をもっていました。しかしながら1967年1月不慮の交通事故で亡くなりました。母が55歳のときです、2度目の苦労が始まったと思います。やがて兄も姉たちも県外の人と結婚して遠くに生活を始め、ひとり残った私も大学に入り故郷を離れます。それ以来、母は一人暮らしになります。61歳のときからです。

 気丈に一人で暮らしていました。お前たちに迷惑はかけないという姿勢でした。それでも60代、70代の初めまでは私が福岡県に住んでいましたからたよりにしていたように考えます。私は子どもが多かったので母に来てもらいました。私の東京への転勤でがっかりしたようでしたが、まだまだ歳のわりには元気でした。飛行機は恐くて絶対乗らないということで、とうとう母のほうから東京へ来ることはありませんでした。いつも元気だし、行けば子どもに言うような細かいことを言うので閉口し、偶にしか行かなくなったように記憶しています。いつか、長男が学生時代、沖縄を放浪して最後に母のところに立ち寄ったとき真っ黒にたくましくなった孫をみて、たいそう喜んだそうです。「鉄の精神じゃ」と言われたそうで、それ以来我が家では「鉄の精神」が気合の言葉となりました。私は絶対に断るのですが、長男を駅まで歩いて見送って行ったそうです、半端な距離ではありません。母が80代半ばだったのではないでしょうか。

 朝の散歩と墓参り、その他用事があれば母は全て歩いたようです。とくに我が県ではお墓に生花が途絶えるのは恥ですから、元気なころはほぼ毎日だったと考えられます。ほんとにすべて半端な距離ではありません。歩くことを健康法にしていました、それで死ぬ間際まで自分で歩くことができました。ただ、頻繁にこけるようになったようです。後から聞くことになりましたが、大変危険な事態もあったそうです。自分で治していました。よく歩きまわる元気なおばあさんということで市のケアマネージャーさんたちの間では有名になっていたそうで、後日そのことを当事者のみなさんから聞いて赤面しました。

 兄弟で順繰りに帰省してはいましたが、あるとき私も出向という職場環境が変わるので場合によってはあまり帰れないと思い、夫婦で帰ったところ母の状態はもう一人暮らしをするのは限界であると判断できました。兄弟に提案し、市のケアマネージャーさんたちにも相談して、ようやく縁があって「幸せの里」という施設のケアハウスに入居できました。2003年4月のことです。母は91歳になっていました。まだ元気でしたが、既に軽い認知症と大腸癌が忍び寄っていました。独居老人となって30年目のことでした。

 生まれて初めての集合住宅への入居でした。その日、不安におののく母に頼まれて入居者のみなさん全員が夕食をとる食堂で母に代わって挨拶をしました。母を紹介して、仲良くしてほしい、よろしくお願いしたいと申しあげて、最後に不覚にもひとりで号泣してしまいました。今日から保育園に預けられ迎えの来ない運命の女の子のようでした。にもかかわらず後日、あの挨拶はとてもよかったと母は何度も言ってくれました。

 母は大腸癌があって入院し院長から手術も勧められましたが、耐えられないのではないかと判断してお断りしました。母が93歳のときでした。以前に市のケアマネージャーさんからその場合の容態の進行と最後にどうなるかということを聞いていましたが、今回ほぼその通りになりました。心の準備をしておくのに大変参考になりました。

 私たち兄弟で代わる代わる母を訪ね、時にはどこかの温泉に連れ出しもして「遅い親孝行」を始めていましたが、徐々に認知症がすすんでいきました。ケアハウスの食堂は3階にあって母の部屋は2階にありました。母はこの食堂に行くことができなくなりました。行くことができても部屋へ帰ることができなくなりました。他人の部屋へ入ってしまい、母は初めてどの部屋も同じつくりだと知ります。夜の徘徊が始まり、また自分の部屋がわからず人の部屋に入り込んでご迷惑をかけたそうです。老人のための自立型住居であるケアハウスでは職員でもこういう状態の介助はできない制度であるそうです。

 幾度か途方に暮れましたが、介護度も進み、同じ施設の特別養護老人ホームの入居にこぎつけました。2007年4月、95歳のときでした。施設の人が認知症は「まだら模様」と言っていましたが、ときに私の名前が出てこなくなっていったのには「うわっ」と思いました。父と間違えているころはさもありなん、御愛嬌でしたが、自分の弟(叔父たち)と区別がつかなくなったりもしました。ちょうど、このころ年老いた叔父たちも母を訪ねてきていて、最後のお別れをしていたそうです。大腸癌のためにお腹が張ってきていましたが、痛みはないようでした。手足の血行も悪くなっていっているようでした。母は生きる意欲、執念は十分だったようです。以前、「百まで生きなきゃ」といっていましたのが、実現できると思うようになっていました。来年98を越したら数えでいいのだから、まず白寿のお祝いを盛大にやろうと義兄と話し合っておりました。4月から下血が始まったようです。かねてから無理な延命治療は行わないと決めていましたが、そのたびに病院と施設からなんども確認をされました。7月になって下血による貧血がひどくなり、介助なしには起き上がれなくなりました。

 ほんの2日ほど意識のないまま、苦しむ様子もなく、息が絶え絶えになり、そのまま息をひきとりました。看取ることができました。介護士さん看護士さんたちに必死の看護を受け、私たち子ども以上に、まるで身内のおばあちゃんが亡くなったように涙を流してもらいました。2009年8月23日深夜1時過ぎのことでした。口々に「幸子さん、長い人生、よくがんばったね」と声をかけていただきました。


 私は母が地主のお嬢様、学校の先生、官吏の奥様であった姿を知りません。私の知る母は朝から晩まで働いていた姿です。一文無しになった、そこから這い上がった、食べるものが何も無かったという苦労話です。戦時中と戦後の苦労を考えれば何も苦労ではない。あとは勉強しろということだけでした、勉強机の前に座って居さえすれば文句は言いませんでしたが、やや異常でした。冬になれば手のひびが割れ、血がにじみ、一所懸命遅くまで働きました。今時の「エコ」なんてものではなく、もったいないは当たり前、節約に節約で、何も捨てるものは無い明治の女性でした。タクシーなんて「ハイヤー」と呼び、まず自ら乗ることはなく、どこまでも歩きました。軟弱さはありませんでした。もし結婚したらなんと彼女に説明しようと思っていましたが、幸い妻殿もその辺では同じ精神で助かりました。その結果、母はお金を残しました。私たちに介護とお葬式のことで金銭の負担はかけませんでした。

 母が91歳のときです、人生初めてのケアハウス住まいという環境が激変した母をなぐさめようと温泉に招待しました。旅館の部屋で母が私名義の通帳をくれました、ちらっと見れば少なくない金額でした。私はなんで今までこのお金を自分のために使ってこなかったのかとひどくなじりました。後で、その場に居た妻殿からこっぴどく叱られました。お母さんはこのお金を私たち二人がありがたくもらってくれることを今日まで楽しみにしてきたのにあの態度はないでしょう、と。私はそういう悲しいやつでした。
 
 最初に弔問に来ていただいたのは、「今日は私が夜勤ですので」と挨拶をいただき、母の最後を看取っていただいた若い女性の介護士さんでした。仕事姿とはまた違う印象で、まだ納棺されていない母の頬と額をなでていただき別れを惜しんでいただきました。夜勤明けでお疲れだったと思います。施設の人たちが、夜勤を終え、仕事を終え、焼香に掛けつけていただきました。施設としてそういう慣習、社交辞令があるのかもしれないとは最初思いましたが、皆さんが口々に母に癒されたとおっしゃいました。私は子どもとして下の世話ひとつしたわけではなく、みな他人である介護士のみなさんの「仕事」にお任せしました。若い男性介護士の方「はっきり言ってこの仕事いやなこともあります。しかし幸子さんに声をかけられるとそんなことを忘れるんです、元気が出てくるんです。」私も、わたしも、と。女性介護士の方「幸子さんはかわいいんです。癒されるんです。つらいときがあったとき不思議と声をかけられるんです。」と。

 私の知る母は物欲も金銭欲も虚栄心もありました。なにがうれしくていつもそんなに心配ばかりしているのというほどの心配性で、苦労の種をわざわざ自分で探しているような人、だったはずです。母も人の子です、ねたみもそねみもしたはずです。それらが、人生の最後には、全て無くなっていました。
 好物の甘いもの、果物を食べれば「舌がちぎれそうだ」、訪ねていけば嫁、姪御には「べっぴんさん」、婿、甥っ子には「よかにせどん」。瞬時にそのひとの良いところを一言で表現しました。確かに晩年はそうでした。

 認知症のせいもあったのでしょうが、母は心の皮が剥けていき、芯だけになりました。お釈迦様が説くところの煩悩が消えていたのではないかと考えられます。最後に残ったものは「貴方の良いところ」をみつけられて、それを表現することができるようになり、そして感謝を表わすことができるようになったと考えられるのです。

  身内のことをこう言うのは気が引けますが、生前のうちに、母は聞くところの“仏様”に近づいていたのではないかと、そう考えられました。

 *この写真は施設の方に撮ってもらったもので、昨年の施設の夏祭りではないかと考えられます。これを遺影に使わせていただきました。とても良い写真で感謝の気持ちでいっぱいです。

2 件のコメント:

ハマタヌ さんのコメント...

心からお悔やみを申し上げます。お母さまの遺影はまさに「心の皮がむけて芯だけになった」素晴らしいお顔です。
そのように表現できる余情半さんの心根の温かさを思います。
合掌

余情 半 さんのコメント...

ご丁重なお悔やみのお言葉いただき誠にありがとうございます。母の「生きた証」を泥縄で描いてみたわけですが、しっかりしているころもっと対話をしていればよかったと、後悔しています。