2009年8月28日金曜日

別れ


 外はむっとする暑さだが、養護施設の中は温度が保たれている。
 しーんとした静けさの中で、蛍光灯がこうこうと灯された母の部屋にいて、一日で見慣れてしまった母の酸素呼吸の音だけが聞こえる。部屋の外には介護士のみなさんが見守っていて、一時間ごとに容態を診に来る。血圧が80以下になったらナースに知らせることになっていると伝えられる。

 いきなり携帯電話が鳴って出ると、つい先ほどまで宇都宮から冷静にメールをやりとりしていた下の姉の嗚咽の声。母に取り次げという。携帯を耳元にもっていってあげると、姉は「待っていてね、待っててね」とまるで幼子のように母に呼び掛ける。あきらかに取り乱している。容態が悪化したことを知らせてはいた。

 虫の音が聞こえる。上の姉が母の手をさする手を止めて、手すりにもたれる。疲れがみえる。

 足底に紫斑が出た足をさすってあげる。足は冷たい。ついひと月前は意識もうろうとしながらも、痛いかといえば、気持ちいいと反応していたことだ。

 介護士の方から呼吸がおかしくなったらいつでも知らせてと告げられる。部屋の外に夜勤の人たち3人が待機する。

 もしもの時は心肺蘇生をと以前に兄から頼まれていたといって、どうするかと問われて、兄に確認の上、お断りする。あるがままの最後を見送りたい。

 このひと月、兄弟で代わる代わる来て、容態が激変していった。私はまだ意識のあるうちに会ったので最後の別れになったと思っている。私のこと、妻のことをその時はまだわかってくれた。

 看病続きの姉がつらそうで徹夜になると考えられるから、外のソファーに横になって、何かあったら起こすからと促す。

 他の部屋で誰かの呼び出し音がする。静寂の中に酸素吸入の流れるような音と母の呼吸の音が続く。

 「心配ですね」と交代の介護士さんがまた診に来る、脈がもううまくとれない。腕にも足にも浮腫がでている。足底そして手先に紫斑がでる。

 枕元に置いてあるのは痰をとる装置らしい。父親の最後のときを思い出す。

 血圧102/40、38.9度熱が下がらない。酸素量90(まで上がった、80を切ると危ない)。呼吸数30回/分、・・・。

 ボーン、ボーンと日付が変わる。携帯を覗けばたまたま00:00。母の寿命が1日延びた。8月23日、日曜日に。

 血圧が測れない状態になり、施設のひとが看護士を呼ぶ。姉も起こす。

 無呼吸がある。5秒以内。何秒間か。介護士さんが「幸子さん!」幸子さんと言って肩をゆする。我に返ったように呼吸が蘇る。無呼吸状態が続いて、やや気が動転する。看護士さんが駆けつける。介護士の丸尾さんが「幸子さぁん」と母の蝋燭のようになった手をとりさする。私たちも手足をさする。マッサージをする。指にはめた血中酸素量を表わすデジタルの数値が60から80へ行ったり70ヘ行ったり動く。

 息が長く途絶え、そして、そのまま息をひきとった。1時12分。

 「幸子さん、長い人生よくがんばったね」

 お母さんおつかれさまでした。看取ることができて幸せでした。


「幸子さんと呼ばれて静かに息を引き取りました。苦しむ様子はありませんでした。介護士看護士の皆さんの必死の看護を受けて眠るように亡くなりました。1時12分ごろのことです。診断上は1時28分です。博善社に移動します。中央斎場です。」兄と下の姉へメールを打つ。記録を見れば2時20分のことのようだ。(診断上の死亡時刻は2009年8月23日1時28分と記録された)

~最後まで親身になって看取ってくださった施設の介護士、看護士、関係者のみなさん、こころから母を愛してくださった皆さんへの感謝を忘れることはありません、本当にありがとうございました~
 (8月22日21:30~23日01:12、特別養護老人ホーム「幸せの里」にて記す)

3 件のコメント:

増田・大仏・レア さんのコメント...

合掌

ゆっきんママ さんのコメント...

謹んでお悔やみ申し上げます。

余情 半 さんのコメント...

ありがとうございます。母親にまさるものはないのかもしれません。