2008年8月15日金曜日

それぞれの8月15日


 母が裸で引き揚げてきたというから、幼な心に、はずかしかっただろうに、と思っていた。少し大きくなって「一文無しで」という意味をやっと理解できた。

 兄姉は引き揚げ船での記憶がそれぞれあって、なかでもお粥がひどくまずかったという。宇品の軍港に上陸した由。どのような風景だったのだろう。ずいぶん遠いところだが、故郷の父の本家筋を頼って帰ってきたらしい。居辛かったという、町にでてきたらしい。

 兵隊姿の父と母、兄、姉が一緒にとったセピア色の写真があった。現地召集の老兵だったと思うがあまり戦争中の話は聞かなかった。狙撃がうまくてという自慢をしていたように思う。戦になれば狙撃手は真っ先に死んでいたかもしれないと聞いたようにも思う。

 引き揚げてきて兄は方言が話せなかったので難儀をし、いじめられもしたという。

 母からいかに食べるものがなかったかということをいつも言い聞かされ、我慢を強いられた。その影響と反動でモノを貯めたがり、モノに囲まれていたがる。その不合理を今では同居人によく責められる。

 戦後何年も経って生まれたのに、家族がみな戦前生まれだったので何かしら強い影響を受けた。飢えも物不足もシラミも知らない。ただ、小さいころ、橋の上には白衣とアコーディオンの傷痍軍人さん達が立っていたし、橋の下には私達が「サンタカ」(たぶん差別用語)と呼んでいた今で言うホームレスの人達が少なからず住んでいた。銭湯にいけば、片手のない兵隊帰りの豆腐屋のおじさんに会った。国全体がアメリカをあこがれ、われわれは東京で起きていることをあこがれていた。

 そういう形で戦争を引き継いだ。うちの父母たちは「戦争に負けさえしなければ」という立場だったように思うが、私は「戦争をしなければ」という立場で受け継いでいる。私たちは子たちにどう引き継いだのだろうか。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

情感があって、愛情が染み出していい文章とはこんな文章なのだというお手本のような記事です。すごい。いつかは私もこんな文を書きたい。