2008年6月23日月曜日

『琉球新報』08年6月22日の記事


深夜2時まで飲みました。もちろんオリオンビールと泡盛です。

得意先のシンスケさんとは同じ年です。数年前に東京で会っていましたからさほど久しぶりではなかったのですが、那覇では20数年ぶりでした。あの頃は同じように1時くらいまで飲んでいてさぁお開きにしようよと言ったら、その時間ぐらいから得意先のみんなが続々と集まってきたので“沖縄の慣習”に往生したことを覚えています。その“のり”でいたのですが、みなもう2時になったらそそくさと帰りたかったようでした。月日は流れたのでした、悪いことをしました。

宿泊ホテルの所在がたまたまシンスケさんの生まれ育ったところだったそうです。通った中学、小学校、実家の跡(他人の家が建っている)、そして海。磯と砂浜があったそうで、夕日の沈むのがきれいだったそうです。東シナ海、日本海に臨むところに育ったひとの共通の郷愁ではないでしょうか。今ではテトラブロックとコンクリートの護岸、見上げればバイパス道路が走る景観になっているのですが。あの戦争で犠牲者が身内にもでたのかと聞いたら祖父伯父5人死んだというのです。それで没落したとか。

高校時代のアイドルがやっているというお店(スナック)に連絡してあるというので連れて行かれました。げっ、アイドルと言ったって同い年ではないかと思ったりもしたのですが。結局、彼の小中高の同窓生8人ぐらいが集まりました。女性がママさんもいれて4名。シンスケさんはシンスケベーと呼ばれていたそうです。うなずけます。本土とわけ隔てなく価格対応と提案をしたと私がとうに忘れていた昔話で私をほめるのです。それで思い出して、私のほうから今常識になっているティッシュペーパーの5個組み、トイレットペーパーの12ロール(当時は55~65m巻、今は120~130m巻の6ロールだが)をつくったのは我々の業態且つ我々の地方だという説を展開したのです。とまぁ、いろいろな昔話や、みな仕事は違いますから色々な話に及びました。よく覚えていません。

あのころ出張仕事の帰りに国際通の大きな本屋さんに行って当時買い求めたのが『これが沖縄戦だ』です。表紙の子の説明に「傷つき血みどろになった少女」と書いてあります。つまり女の子だと、そう思っておりました。

実はこの子が『表紙写真「うつろな目の少女」で知られる大城盛俊さん(75)であること』を本日(6.22)の地元紙『琉球新報』で知りました。21日に石垣島で沖縄戦を語られたそうです。その記事が載っておりました。記事によれば、沖縄戦当時、育ての父から「兵隊にやられないように」と言われ、女の子のように装っていた。12歳のとき上陸してきた米軍から逃げて玉城村のガマ(鍾乳洞の洞窟のこと)に入った。日本兵に黒砂糖の入ったリュックを取られそうになり断ったら思いっきり殴られたそうです。その暴行で右目は今も見えない。実母はスパイ容疑をかけられ日本兵に手榴弾で殺された。

63年前の沖縄戦のこと、今沖縄では続々と証言が増えつつあるそうです。戦後、重くかたく口を閉ざしていたひとたち。とりわけ「集団自決」にかかわった人たちは身内を手にかけているということがあったり、自分だけが生き残ったということで63年もの間、口を開くことができなかったそうです。地元紙の『琉球新報』も『沖縄タイムズ』もともに戦争体験と安保体制下の現実としての米軍基地被害、これらを真っ向から取り上げてあります。こちらの『朝日』『読売』とはまるで違いました。

1 件のコメント:

野生のトキ さんのコメント...

沖縄の影と光

沖縄は、もっとも時代の変化を表していると思う。

沖縄物産企業連合の宮城会長が、面白いことを言った。

沖縄から世界を見る。アジアをぐるっとつなぐ。中心は沖縄だ。
沖縄は、文化の中心だ。光と音と香り。
歌もダンスも、ゴルフも先端スポーツも沖縄がリードしている。

食べ物は、いまや東京では沖縄料理店の出展ラッシュ。だが、まがい物も多い。

戦争とアメリカ軍という影が強いほど、光もまた大きい。
いま、団塊移住の人気スポットだ。これほど、矛盾に満ちたことはなく、感性を揺さぶるところもない。