2008年6月19日木曜日

トンツートンツーこちら極東特派員



『サルクニア物語』前章

本土決戦のために近衛仕入部隊は30万増員100万体制にすることになりました。サティアン検査所には15万増員ここも85万体制に。拡大し過ぎて目も届かず毒ガス攻撃に狼狽した戦線を6200陣地から4000陣地に、しかしそれは質ではなく量での判断とされています。月に50万発しか飛んでこない陣地は放棄(足切り)します。住民を守るためではありません。また中小民間需要製造者の切捨てにつながることを危惧します。複雑すぎてアイソがつきた9001部隊を再編成し、さらに「安全」のため22000部隊を創設します。10002部隊を持っていたことは初めて知りましたが前線には知らされておりませんでした。新兵器はぞくぞくと近衛部隊とサティアン検査所に投入する予定です。

さて我が守備隊ですが、一層の防衛強化を高らかに宣言いたしました。外に向かっては。9万の増員(ホントはこれだけでもどう計算しても不足するのですが)。しかしこれは言ってみただけです。これがホントの「大本営発表」。
さすがの現地指揮官もあきれはててはおりますが「大命は下れり」の一点張りで、増員の具体化もないまま新任務遂行を余儀なくされています。高級将校たちも「おれも上には言ったんだ」と胸を張りますが、あとは前線部隊で工夫してくれと、とりあってくれません。昇格された後方本部に2名の高級参謀が配置され全体を監視判断、我が前線はもちろん輜重部隊での異変も見逃さず水も漏らさぬ体制が整えられつつあります、後方では。
我が守備隊の主流は現地召集「にわかづくり」の老兵と傷病兵で構成されております。昔取った杵柄と培った人格でなんとか糊口を凌いでおりますが、技術、システムは日進月歩、なんらの研修も講習もなく、ひたすら蛸壺反撃を余儀なくされておりますのが実態です。

すでに鉄の暴風は吹き荒れ、反撃の域を超えております。

 足手まといの老人子どもを疎開させましたが「対馬丸」は撃沈されてしまいました。乗客1661名のうち1484名が命を奪われました。このことは士気にかかわることなので助かったわずかな子供や親達には慰労ではなく厳重な口止めをいたしました。むしろ住民を疎開させることはとりやめ、老若男女を問わず住民を根こそぎ動員する必要を思いつきました。防衛のための飛行場をつくらせることです。とくに生徒学生をこきつかいました。機械動力がありませんでしたので手作業でありましたが、とにかく急がせて作り上げたのです。しかし、いざとなってカンジンの、肝心要の飛行機がありませんでした。
本土防衛の大義に鑑み、水際掃討を放棄し持久戦法をとることにしました。司令官が大本営に因果を含まされていたためです。そのために敵の無血上陸を許しましたので、敵軍は上陸のその日のうちに占領した飛行場を使用することができました。ただちに我が特攻機を迎撃されてしまいました。

なんだったんでしょう、国家総動員法のもとに生活のための土地をとりあげられ、血のでるような突貫工事でつくった飛行場づくりは。

青年少年は急ごしらえの兵隊や補助隊(鉄血勤皇隊など)に、女学生は看護兵(ひめゆり、白梅隊)に、彼ら彼女らを水汲み、炊事、洗濯、伝令あらゆる雑用にこきつかいました。平時ならともかく戦時の前線で実は最も危険な任務でありました。住民を盾に使った数々の事例の典型でありますす。持久戦法をとり続け南部に逃げて「ガマ」にたてこもったとき、危険な入り口には住民を配置し、軍は奥に陣取りました。火炎放射、黄リン弾、ナパーム弾で、最初に生きながら焼き殺されたのは住民たちでありました。ガマを出れば後ろから撃たれ、留まれば食糧を強奪され泣く子は殺されました。手りゅう弾は何のために渡されたのでしょう。

海軍守備隊全滅にあたり何故「沖縄県民斯く闘へり」の電文が発せられたのか。当時、本土、大本営では「一等劣る琉球人の皇民化」が進まず現地で敗退を重ねたのは沖縄住民の非協力のせいであるという噂がまことしやかに流されていたそうであります。誰が流したか。将軍たちの住民への責任の転嫁、なすりつけでありました。美化されてはおりますが、海軍大田司令官の「いくらなんでも」という義憤の打電であったといいます。その電文すら本土決戦を呼号する戦意高揚に利用されたのですが・・・。

 本土防衛の捨て石、本土決戦の時間稼ぎ、最後には沖縄戦を収拾することすら放棄してその後も住民虐殺、集団自決が続きます。「国体護持=天皇制を守ること」つまるところはこれでありました。やりきれないこの戦跡、その後の米軍世界戦略の「極東の要石(かなめいし)」の一端を機会があって少し見に行きます。

 今日は生き残っていたひめゆり部隊40名の教師・生徒が無残な最後を遂げた日。

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