2011年3月13日日曜日

安否不明

 そういえばと夕方にスーパーを見に行った。うわさに聞いていた通り、パン、飲み物、カップめん・インスタントラーメン、一部の菓子の売り場はガラガラだった。カセットボンベも売り切れたと息子から聞いた。73年の石油ショックのときの売り場の姿を思い出す。

 発生当日、実家の姪の夫のブログ(18:28)によれば、「(気仙沼)市内は壊滅的です 三階建ての自宅の2階まで浸水してもう終わり 石油タンクが爆発して内湾は火の海です」と急迫した臨場を伝えてあった。その後の避難所からの書き込み(20時過ぎ)によれば「祖父母が逃げ遅れた」となっている。つまりつれあいの両親が行方不明であるらしいことで終わっていてそれ以降更新されていない。つれあいがそれをみつけたのが当日の深夜で、私は帰ることができずまだ職場にいた。ようやく通じ始めた携帯電話で知らせてきた。職場にはテレビがないことがあらためてわかった。別のフロアにパソコンでテレビを観られるセクションがあってそこに行ってようやく報道の映像を見ることができた。そして、その夜の上空からの気仙沼一帯の火災の様子を見て息を呑んだ。つれあいは「どういうことよ」と電話のむこうで泣きじゃくる。

 一切の安否はわからない。両親のことについては悲観的にならざるをえない内容だが確かめようもない。

 上の姉から電話があって、いきなりあっけらかんと「気仙沼から連絡あった?」と訊くものだから、ムカッときて「連絡取れる訳ないでしょ!:*@#$%&」と答えてしまった。昔から回路が一本ずれている人だ・・・。今は壊滅的状況の被災地へも、また、被災地からも連絡のとりようがない。報道を見ていてわかると思うのだが、こういうことを想像して理解できない人だ。もちろん、姉は心配して言ってきてくれるのだけれども、こういうとき「大人の対応」が私にはできない。

 事情があって長く音信不通だった姪っ子(つれあいの亡くなった姉の子)から昼前に連絡があった。避難所に設置された固定電話からかけてきたようだ。家(アパート)が無くなったと。藁をもすがる思いだろう。名取にいたようだ。被災地では携帯も電話も通じず、テレビもパソコンも何もないから、我々が遠くから報道で見て知っていることは何も知らない。そもそもライフラインがほとんどない。当事者たちに情報はない。

 地震の日から風呂に入っていなかった。そんなことは屁でもないが、あの日も翌日も仕事と通勤で疲れた。あのときの戦争を除けば、今我が国は未曽有の不幸と困難に直面している。そのことに思いが及ばないらしく、こころないことを言う人がいて、土曜日は無理して仕事に出て来なければよかったと嫌な気分になっていっそう疲れた。

 本日あたりから報道陣が被災地に入って現在の画像が見られるようになって、実家の家族の姿や名前がないかと目を皿のようにして探す。下の姉や長男がしきりと電話をくれて「今、何チャンネルで映っているよ」と知らせてくれる。当日の津波が襲ってきた映像も見ることができる。当日は雪が舞っていたようだ。どんなに寒かったことだろうことか。

 考えられることは津波に呑み込まれたか、火災に巻き込まれたか。今日の夕方、不用意に最悪の場合の趣旨のことを言ってしまって、つれあいが顔を真っ赤にしてくしゃくしゃにして泣き出す場面があった。いや、可能性のことを言っているのだ、覚悟も必要だと言い繕うのだけれども、「そんなことわかっている」と言われる。もしそうなら「どんなに怖かったろう」と更に泣き出す。どうしていいかわからない。それでもしばらくして、気を取り直す。

  少なくとも津波に襲われ住むところがないことははっきりしている。とにもかにくも、無事でいてほしい。

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