2011年3月1日火曜日

先に立たず


 スカイタワーなんてひとごとだ。んで、交差点に出て見上げてぎょっとした。聳え立っている。

 実は浅草より向こうに行ったことはない。いや、あまりないように思う。
 夕方の会議がちんたらと長引いた。その方面は行き先としては聞いたことがあったが降り立つのは初めてだろう。「急行久喜行き」とか言われていったいどこをどうやって行くのだろうと不安になる。それでなくても時間が押し迫っている。なるほどそれで「押上」か、なんてつまらないダジャレを言っている。

 ん、亀戸!?僕たち千葉方面ですからと先ほどまで一緒に飲んでいたお二人とプラットホームで別れて、逆方向に乗る。全部各駅停車で乗り継いで、最後は愛想のいいタクシーに乗ってようやく辿り着いた。…という風に今宵は帰ってきた。毎度のことながら、日付が変わっていた。思い返せば、なかなかいい食事処で、あとは天神様などを案内していただいた。いいものだ。

 昨日は母の誕生日だった。母は百まで生きるといつも言っていた。百まで生きたらどうするのと尋ねたら、そのときはそのときよ、とも。

 後からだったら何とでも言える。

 年齢のせいもあったのだろうけれども母が認知症になったのは独りぼっちにしていたせいだと思う。

 母が87歳のとき、父の33回忌を催した。これからどうするのと、こちらにも妙案がないまま、兄姉みんなの前で母に尋ねた。独りで生きていくよ。あなたたちには家族があるから、そちらを大事にしなさい。迷惑をかけないと。

 兄は阪神大震災で被害を受けてままならなかった。そうでなくとも嫁姑の関係では無理だと思っていた。姉たちは嫁いだ立場だからと言うし、私もまだ子育ての最中であった。同居はできないけれど、近所に家を借りて住まないかと提案したが、それはこちら側の都合乃至気休めで、母はのってこなかった。母の気丈夫さをいいことに、独居状態を放置した。何の根拠もなく、なんとかなるだろうと。

 定期便のように毎月欠かさず食べ物を送った、併せてこちら側の様子を手紙にして写真を添えた。そういうことで済ませてあまり母のもとへ帰ることはなかった。たまに帰っても、まとわりつくように話しかけてくるので根負けして2階に逃げ込みあまり相手をしなかった。その辺が兄や姉たちとは違った。たまたま訪ねてきた人と2時間も話をしたと聞いたら、その人に迷惑をかけるからそんなことをするんじゃないと説教をするそんなヤツだった。

 一日中誰とも話すこともない。新聞やテレビの言うこともわからなくなる、興味もなくなる。どれほど寂しく、不安になっていったことか。医者の前に出ればシャキッとしても、認知症は忍び寄っていた。

 言い訳はできるが、まだ母が元気なうちにもっと足しげく、もっとふむふむと応対してあげればよかった。

 後になってみれば、なんとでもキレイごとは言えるものだ…。

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