2008年11月6日木曜日

1升瓶


 焼酎の1升瓶を買って飲む。
 経済的であるし瓶がリユースできると思っていたから。ところが売っているくせに引き取ってくれるお店が無くなってきた。せいぜいビール瓶までだ。ビンと缶のゴミの日に捨てられている。ボランティアの資源回収の催しでも対象にはならない。たいへんもったいない話だ。

 かつて日本の炭鉱は基幹産業であった。ただ、そこに従事する労働はつらいものであった。しかも命がけだった。だからそこに働く人々は自ずとよく組合に集まった。詩人が生まれ地底の歌を友にしてよく闘った。組合は生活協同組合をつくり生活をともに支えあった。日本が依存するエネルギーを国産できる石炭から安い輸入の石油に転換するとき職場と生活を守るために働く人々は闘った、国の進路を左右するエネルギー政策、日米安全保障条約という国策にまで人々はよく考えこの反対闘争に立ち上がった。それは文字通り燎原の火のようであったろう。

 筑豊も大牟田も高島も杵島も炭鉱のあるところはどこもかしこも我家からは遠い九州北部のことだった。三井三池闘争、安保闘争は我が両親には、ならずものの貧乏人が騒いでいて、背後には社会党や共産党がいてお上にたてつく「けすった」人たちと映っていた。ニュース映画で観る激しい労働組合の闘争の様子、それは田舎の小市民には理解できない世界だったのだろう。首相の岸さんは戦争中も戦後も偉いひと、筑豊の麻生家はたいへんな「分限者(ぶげんしゃ)どん」逆らう相手ではなかった。岸さんの鼻の高さ、それはりっぱな人だという証拠のように母が言っていたように思う。「革命」それはソ連や中国のようになること、自由がなくなる、恐怖のようにとらえられていた。

 どれがボタ山なのだろう。最初はわからなかった。石炭のくずの山、黒い三角錐そういう山を想像していたがそんなものはもはや無かった。70年代後半以降、就職して九州の旧炭鉱地帯を巡るときがあったが往年の趣きはなかった。

 若くて威勢がいいからお前はいちど訪ねて来いと誘われながらあちこちに不義理をした。今にしてそのころのことを悔いる。要するに生意気だった、今をときめく方になびいていた。

 それでも佐賀県の山にある得意先に訪ねていったことがある。大きな体育館のようなお店だった。往年の賑わいを想像はできたが、その旧炭鉱地域は火が消えたようだったのが目の前の姿だった。専務でありながら、発注もすれば納品の荷物も受ける。お店はまだ醤油も油も1升瓶で販売していた。確か1升瓶は木枠の箱に6本か8本入っていたように思うが、大変な重量物だった。だから入り数を減らすようにいつも訴えられていた。そのことよりも1升瓶という規格そのものが食品から急速に消えていきつつあった。今私はあの穏やかな老専務さんの年に近づきつつある。

 我家ではその空の1升瓶が車庫に山のように溜まりつつある。

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