2011年2月1日火曜日

筑波のふくれみかん


 いつのことか近所の公民館主催のトレッキングで筑波山には登ったことがあった。それ以来親しみが湧いた。登り口の筑波神社には旅館やホテル、おみやげ屋さんが並んでいる。遠くから赤い鳥居が見えてその様子がわかる。明治の以前にはお寺があって門前、町を成していたらしい。山の中腹なので、今の車道と違い階段もある急な坂道だ。「新しい道」は家光さんのころ。古い参道は将門さんのころらしい。「筑波福来みかん保存会」会長の鈴木さんはそう表現する。世が世なら門前町で栄えたのだろう。斜面にある鈴木さんのお宅は門といい、石垣といい、棟上げといい、土蔵といいりっぱな構えだ。玄関に入ると土間があり応接セットがある。その昔はなんらかの商いをしていたのかもしれない。この筑波神社門前の山の中腹の村からは、眼下にその辺一帯の田園や村々を眺望できる。
ここらは気流の関係で平地よりも2~3℃気温が高いらしい。そう話してくださるのは保存会副会長の広瀬さん(77歳)だ。お話をおうかがいしている場所は、使わなくなった昔の郵便局で、地域で保存しているところらしい。昔のものの展示物や観光案内が置いてある。広瀬さんは昭和14年から50年までここで郵便局長をされていたらしい。

 何もさえぎるものもない。南に面した傾斜地で、麓よりも逆転気流というもののおかげでここは温かいところである。それでここには蜜柑が育つ。潮来生まれの金城さんに言わせれば「つくばみかん」といって昔はいくらでも食べていたという。

 どうも蜜柑の北限であるらしい。「イバラキで何でミカンだっぺ?」という疑問がようやくとけた。少なくとも100年あたりの昔からあったという。
 小さなみかんで桜島小みかんよりもやや小さい。だから相当小さい。食べごろになると実と皮の間が離れるように膨れてくるので「ふくれみかん」と言うのではないかとのこと。それで「福来(ふくれ)」という漢字を充てたのではないかとも。どうも固有の種であるらしい。万葉の昔、ここいらには橘があったという。
 実は甘くおいしいらしいが、それ以上に皮に芳香があってこれに価値があるようだ。陳皮のように用いられる。手で皮むきして、一週間ほどかけて乾かして、焙煎して、粉にして味をつけ地元では七味とうがらしに利用する。手間ひまのかかるものだ。黄色くて美しくなんと言っても独特の香りだ。この固有の芳香は柚子では強すぎ、ちょうど香りのバランスがいいという。
 昔からある木は高い。百年ほども経っているからだ。高齢化もあって所有者も木に登れない。まず、収穫が難しい。収穫するまでもなく多くは鳥の食べるままにしていたらしい。鳥もよく知っていて中の甘い果実だけをついばみ皮は形のままに残している。だからといってこの皮では使えない。
地域活性化の補助金の制度も導入して、この伝来のみかんを残し景観を復活させようと「筑波福来みかん保存会」が立ち上げられたらしい。それで一昨年あたりからみかんの木を植えだした。私たちを案内してくださった区長の斎藤さんが50年後のみかんが育った景観を語る。地域のために孫子のために残したいと。斎藤さんは鈴木会長や広瀬副会長よりもひとまわり若く見える。両先輩にたいして控え目だ。既存の木は枯れだしてきた。みかんの花が咲きやがて青い実が成る。これが黄金色に色づく。その景観をいう。

 皮は七味に加工する。さらにその七味や陳皮を利用して、地域の製造業のみなさんと組んで新たな商品づくりを試みる。地元のお菓子屋さん、日本酒の醸造元と取り組んでいるらしい。皮をとるために実は利用していなかったそうだが、ジャムをつくったそうだ。保存している冷凍した実を会長さんのお宅で見せてもらった。

 筑波神社へのお参りの帰りに、おみやげ屋さんでそのジャムと七味をみつけた。ラスクもあった。ふくれみかんを見に来たんだと言うと、店主は陽気なおばさんでそうかいそうかいとお茶を飲んでいけと奥に通された。軽妙なやりとりを楽しみつつ、ついつい買ってしまった。
 店頭には「NHKでとりあげられました」と手書きの宣伝がしてあった。行政の補助金は“事業仕分け”で打ち切られるハメになっているそうだ。

0 件のコメント: