2009年3月10日火曜日

3月10日

 3月10日は旧陸軍記念日、戦前のこと。何故そんなことを知っているかと言うと、兄が生まれた日でこれにちなん名前だから。

 紐解けば、日露戦争時の最後の決戦になった奉天会戦でこの日に勝利したという由緒。しかしながら、このとき、もはや日本の国力は尽きており、軍も政府もその辺をわきまえていてアメリカを介して講和に持ち込んだ。後の昭和軍閥の無茶苦茶と違って現実的な判断力があった。ようやく負けなかったというのが実情だったらしい。しかしながら、日本海海戦における目覚しい勝ち戦(砲撃戦)と大国ロシアとの戦争に勝ったということで、その後は決定的に道を踏み外していく(「東郷元帥の果たした役割」)。ついには中国侵略の大儀無き泥沼、米英決戦へと突き進んだ。

 1945年3月9日、日本では「10日の東京大空襲」と記録される。10万人の民間人が焼き殺されたという。犠牲者の多くは女、子ども、老人である。

 飛行機が兵器となり、地上の戦線をはるかに超えて機銃や爆弾で攻撃できることを人類は発見した。これが空爆である。植民地侵略戦争でこの方法を用い戦法を磨いた。本格的な実戦ではスペイン内線におけるナチスドイツ空軍によるゲルニカ爆撃(37年)。この惨状はあのピカソが描き世界に訴えた。日本軍による重慶爆撃(38年~)。第2次世界大戦でのバトル・オブ・ブリテン(ロンドン大空襲)を経て反転攻勢、連合軍によるドイツ各都市への大空襲。ドイツの敗戦はもはや濃厚であった。短期間に技術が進化した。

 古来、戦(いくさ)は武装した者どうしが戦場で力と戦法を尽くして戦い、勝利した側が相手を支配した。都市城砦戦や都市や村落への直接の侵略でなければ、戦場の後方にいる非戦闘員が殺傷される、ましてや虐殺されることはなかった。そうすることは卑怯なことで、且つ後の世まで恨みを買うものだったろう。
戦線を超えて空から軽々と侵入し殺傷・破壊するという「空爆」は、それまでの戦術と戦略これを一変した。
 
 当初の植民地侵略では実態も明るみに出ず省みられなかったが、さすがに非戦闘員を殺傷し生活の基盤を破壊するという行為の道義のなさ、残虐性に気付く。国際的には建前上、無差別爆撃を非難し禁止するが、実際に起きた世界大戦の前には無力と化す。
 
 軍事施設、軍需工場など戦争遂行に限られた爆撃目標の破壊を建前としていたが、実際には精度は高くなく、誤爆も含めて、無差別爆撃の方が戦果の上がる実感があった。「やったもんの勝ち」よろしく民間人に危害をもたらすことへのためらいは無くなっていった。より効率よく集中的に破壊し殺すことを追及したのが焼夷弾と爆弾を組み合わせた夜間爆撃の空襲の集中的仕方で、より人口の密集した東京の下町を目標に周到に用意され3月10日に実現させた。一夜にして10万の死者、傷ついた人々、住居を失った人々をつくりだした。

 空襲は手塚治虫さん、小田実さん、そのほかの人々が迫真の筆致で描いた、伝えた世界で追体験できる。沖縄では44年の10月の那覇大空襲を既に受けていた。カンポー(艦砲射撃のこと、沖縄、八戸、釜石など)、キジューソーシャ(飛行機からの機銃掃射のこと、奄美、「ガラスのうさぎ」で描かれた全国各地でのこと)、クウシュウ(沖縄、台湾を含む全ての都市、国土)を列島に在住していた人々は経験をする。そしてついには史上初めてのピカドン(核兵器)の惨禍を味わう。
 なぜ、ひとびとは惨めに殺されなくてはならなかったのか 。

0 件のコメント: