2009年2月5日木曜日

瀬戸の島おこし「香川本鷹」


 四国丸亀市には瀬戸内海に面して離島がある。その島に渡る小さなフェリー乗り場で船を待った。

 我らがK理事長は人の話を聞いていない。
 切符売場の係のおばさんに尋ねているのが聞こえてきた。その会津なまりで「私はどこにいるの、私はどこに行くの?わかんねぇだもの」
 O専務が海上タクシーを手配(チャーター)して今こちらに向かっているところだとさっき説明したのに。切符売場のおばさんに聞いてみたところで答えられるわけがないではないかと、言い草を真似してみせてみな大笑いした。帰るときまでこのネタを何度も使ってM副理事長らと思い出し笑いした。Kさんはこんなに茶化されても怒らない、怒るどころかちょっと照れ笑いしている、さすがに理事長に戴くだけの人柄だ。

 丸亀市役所の川口さんは限界集落だと言った。手島(てしま)という小さな島は人口40人30世帯。90年に島の小中学校(併設)は廃校になった。それ以来子どもはほとんどいないということだろうか。この島で農業を営む高田さんによれば、多い時は児童生徒数が200人を超すことがあったらしい。高田さんはこの島から一度も働きには出たことはないらしい。

 この島々に「香川本鷹」をつくってほしいんじゃ。荘内半島(県の東側にある瀬戸内海に突き出た半島)でもできよるけんど、島の人が元気になってほしいんじゃと県の糸川さんは前日に説明してくれた。世が世ならご朱印状をもった人らやでぇ(優れた航海術を持つ瀬戸内の海人を秀吉や幕府は保護したらしい)。

 年上の川口さんが行動隊長になり、とうがらしの「香川本鷹」の復活栽培を説得に回ったという。手島では高田さんと藤原さんの「百姓魂」に火をつけたらしい。海に面した耕作放棄で荒れた段々畑を再び開墾したらしい。先祖代々伝えられたものであろう石垣はりっぱなものだ。勧めたときはアクセルを踏みっぱなしだったが、今では畑を広げ過ぎるのでブレーキをかけないと、と言う。そうは言ってもまだ3年目。台風に遭えば茎が折れて全滅の危険、せっかく挑みながらやめた人もいる現実。県のホームページで紹介し、最初に地元の新聞が取り上げた「幻のとうがらし復活」。そしてテレビが来るようになった。今日もこうして東京から押し掛け、記念写真をと言う、藤原さんの奥さんは紋付きをきてくるんじゃったと軽口をおっしゃる。

 雨の少ない瀬戸内気候。このとうがらしには最適地。雨の少ない地方なのに私たちの訪問時は滅多にない雨に祟られた。

 絶滅作物かと思われていたが、誰も見向きもしなかった栽培を守り、種子を持っている人がいた。そんな人だから頑固者で、なかなか譲ってくれなかったという苦労もあったが今では県農業試験場にきちんと保存してある。時代に流されぬ変わり者がいなかったら、どうも秀吉の時代から続く「香川本鷹」の復活はできなかっただろう。

 「香川本鷹」の応援団、こりゃ皆おもろい人ばかり。私には人間としてまっとうな人たちに見えた。

 帰る時間に余裕があって初めて金毘羅さんの階段をのぼった。映画「二十四の瞳」の修学旅行のシーンを思い出す。

 私のパソコンが動かない。風邪だ、寝る。歯の治療が終わった。

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