2008年7月18日金曜日

拝借「土の道」


川辺に育ちましたので「土の道」は堤防の道の思い出です。今ごろの夏は、人が歩くよりも雑草の方が強かったので生い茂りました。昼間に歩くものではありませんでした。空の青さと雑草の緑と木の黒陰がくっきりとした、今でも思い出せば目がくらくらとくる南国の夏でしたから。堤防の道は右と左にまたほんの細い道ができた程度で、半ズボンで歩くには難儀をしました。バッタやいろんな昆虫がいたと思います。今そんな道ではありません、堤防の道と言えどいつでも歩きやすい「歩道」です。あのころ人はまだそこまで、おおげさにいえば道を征服していなかったように思います。ですから今では、いろんな昆虫に出遭えませんし、秋になれば土手のススキ、春に還ればつくしんぼの芽吹きをみつけだすことができません。それでも町の範囲の堤防は皆が通るので歩けました、上流は鉄橋のあるあたり、下流はうちのお寺さんのあるあたりまで。それを越えて下流にずっと歩いていくと、といっても子どもには歩けないほどの距離でしたが、父の里がありました。雑草が生い茂りところどころ下の道に迂回しなければなりませんでした。下の道はトラックなど車が通れば土埃がもうもうとあがるので、できるだけ上の堤防の道を辿りたかったのです。父の里まで行くと堤防はゆるくなり、対岸は高江地区といい美田地帯でした。土地柄、私の地方には美田は少ないのです。この地区には「嫁に行くものではない働き尽くめだ」といつか叔母から聞いたことがあります。その対岸に行く渡し舟がいつものんびりと川に揺られていました。南の夏はそんなものでした。父は少年のころカッパになって自在に遊んでいたそうです、私はトンカチでした。私の地方は「ガラッパ」と呼ばれ「ひとの足をひっぱるやつら」とあまりよくは言われません。ずっと北の地方は「へこ(兵児)どん」と北辺の守りにふさわしく呼ばれます。対岸は見えるのですが行ったことがなかったので大人になるまで遠い、遠いところだと思っていました。生い茂った雑草群は何かがでてきそうで「おっとろしかった(恐ろしかった)」そんなひよわでしたがよく歩く少年でした。

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