2008年7月3日木曜日

らっきょうの産地


 東シナ海に面した北部薩摩地方の海岸線は山がストンと海に入り込んでいるところが多い。現在は新幹線が開通して、以前の鹿児島本線は「おれんじ鉄道」とかいう第三セクターになったが、最初の鹿児島本線はここではない。今の肥薩線、鹿児島から県中央を北にぬけて人吉に向かい八代にでる路線だった。西郷軍も熊本へはこの経路をとった。
 
 こちら側は交通の難所だったようだ。そのなかで唐浜(からはま)と呼ばれる砂浜が少し続くところがある。その名のとおり真っ直ぐ西へ行くとちょうど上海あたりの緯度である。昔のことで海岸線には防砂林で松林が続いた。だから景色のよいところだった。なにしろ南国である。夏の日差しと暑さと蝉の声はまるで重い気圧のようだった。旧水引村というところで、海岸線のところは少し砂丘地帯になっている。だからおいしい「すいか」や「らっきょう」がとれた。いや、そんなものしかできなかったと理解している。ここの「すいか」「らっきょう」はまたいちだんとおいしかった。
 
 唐浜は絶好の海水浴場だった。季節になればバスが運行されたが公共交通手段はそれしかなかった。乗り物にはからっきし弱かったので、また舗装もされていない道路だったのでなおさらそんなものに乗る気はなかった。家にはポンコツのおなご自転車しかなくこれを使った。片道1時間ぐらいはかかったろうか。パンクをすればおしまいだった。ここではその記憶はない。国道からはずれておんぼろ道を行けば、砂道になるそのへんがすいかやラッキョウをつくっている畑のある周辺だったと思う。松林を抜ければ美しい南国の海があった。
 
 晴れて蒸していなければ彼方にくっきりと甑島が見えた。土日でなければほとんど海水浴客はいなかった。いま考えれば広大な砂浜がマイビーチ状態だった。そのかわり女の子もいなかった。そのほうがよかった。高校時代は女子とほとんど口をきいたことがなかった、だから異郷の大学で「人が変わった」。季節の売店が営業していたように思うが、市営のシャワーや脱衣所、水道、トイレがあって無料だったからお金は使わなかった。
 
 唐浜の南端っこには小さな漁村集落があって季節になれば煮干やちりめんじゃこをつくっていた。後日(私が30代半ばのころ)この人たちの一部が台湾にわたりちりめんじゃこ(しらす干し)をつくっていたことを知った。
 
 もっとずっと南にくだり河口を越せば久見崎海岸というここも美しい砂浜だった。ここの漁村は秀吉の時代、ここは軍港で、薩摩の軍勢(ぐんぜ)を送り出した。「想夫恋」(そうふれん)という還らぬ夫を慕う夫人の舞うもの悲しい踊りが400年を経た今でも伝えられている。お盆に踊られる。小さいときはその意味も価値もまったくわからなかったが、とにかく言い伝えられていた。山からストンというところで松林が濃かった。この一帯は海にむかっているのに山の中ではないかという眼下に突然、砂浜が開けてくるところだった。
 
 今では、この海岸には原子力発電所ができ海岸線はほぼ有刺鉄線で覆われている。あの砂浜が消えたのはなによりも残念でならない。
 
 河口の対岸の唐浜に近い方、「京泊」(きょうどまり)というが、ここには一社を除いて誰も入っていない海岸が埋め立てられた工業団地があってその北には火力発電所がある。原発よりもこちらの方が早かった。「京泊」というのは殿様が参勤交代で上方へ向かう時にここから船で出航する場合があったらしい、そういう由来であると記憶している。
 
 唐浜はどうなったか、まちがいなく砂浜は後退し、漂着物の山となっていた。ただ、今でも海水浴場ではあるらしい。昔の面影はない。
 
 ここは火力発電所、自衛隊、原子力発電所、新幹線、こんどは高速道路などを思いっきり誘致する形で生きのびようとしてきた。私がここをあとにしてから30数年後の「今」である。
 
 ただし、変わらず「らっきょう」の産地ではあるらしい。

2 件のコメント:

野生のトキ さんのコメント...

うーん
とても雰囲気がでてて良いですね。

余情半さんのこういう物つくりとその背景の物語は深くて素晴らしい。

毎日の泣きながらの苦闘もまた良いですが。

匿名 さんのコメント...

想夫恋・・・いいなぁ。
それにしても、お世辞じゃなくて、こういう風景描写には才能すらかんじます。心象風景と風景描写がまるで2台のバイオリン、いやチェロとバイオリンかな、みたいです。アコースティックな響きが文章にあります。

大林宣彦の映画に柳川を舞台にした映画がありましたが、あのかんじです。