2011年1月25日火曜日

種子島紀行Ⅶ

 ツアーの2日目の夜は種子島西之表市の沖ヶ浜田集落の民宿にいた。位置は島の北東海岸にある。サトウキビ畑は島の随所に見られた。サトウキビとその製品の黒糖の産地では、私たちが普通に言う黒糖のことを「砂糖」と呼ぶ。それで、畑で収穫したばかりのサトウキビから黒糖をつくる共同の作業場・工場のことを「砂糖小屋」と呼ぶ。往時(戦後)は島の至るところに300軒余りあったそうだが、今この集落では2軒限りであるそうだ。ちょうど最盛期のころにお邪魔したらしく、夜明け前から作業を始めなければ、夕方には終わらない。その作業場での生産の準備はできているらしい。砂糖小屋はこの民宿の裏手の海岸を臨むところにあるらしいということが判った。

 “台風で難破のアメリカ船、ある秋の凪の夜、貞吉さんが浜の漁に出てみれば、…”の沖田頭領による歓迎の宴での出し物もやんややんやの喝采で終わり、もうみんないい気分になっていて、お開きの雰囲気になる。我がメンバーは早速、工場と浜の様子を見に行きたいとそわそわしている。

 ツアーのみんなで民宿を出て海へ行く。海辺に面した砂糖小屋をみつけて覗く。黒糖をつくる準備がすっかり整っているようだ。設備がどれほどのものでも、整理整頓がされているかどうかで製造に臨む姿勢がわかる。さっぱりと、こぎれいだ。月夜で明るい。海辺へと進む。磯に行こうとして誰かが海藻で足を滑らせる。さらに進むと、月明かりに砂浜が見える。大きく湾曲した形だ。寄せては返す波打ち際より引っ込んだ砂浜に大きな海亀が横たわっている。動かない。確かめると既に死んでいる。かわいそうだからと海へ戻してやったのだが、帰りに見たらまた打ち上げられていた。

 しばらく浜を散歩して宿に戻ってきたら、どこに行っていたのかと、未だ持田さんも沖田頭領たちも地元の焼酎を飲みながら私たちの帰りを待っていた。

 大頭領(おおとうりょう)の持田さんは82歳。昭和4年生まれ。息子さんと甥っ子さんの後継ぎがいる。背筋がピンと伸びて肌の色艶がよい。昔話なのか、素もぐりもやるらしく特産の「とこぶし(ながらめ)」は日に200kgも採ったそうだ。二瓶さんによると、今期限りで引退するらしい。

 持田さんは同じ県内出身だという私のところに来て、実は…と、ホマレさんというお姉さんがいたという話に及ぶ。そのお姉さんは昔むかし私の町に嫁入りしたらしい、しかも嫁ぎ先は私と同じ苗字のところだという。お互いに酔っていたので話は堂々巡りだったけれども、それで親しく話し掛けてこられた。母が元気で生きていたら調べようもあったが、親戚付き合いのない私には、何分古い話でもあり確かめようもない。持田さんとは縁があるのかどうかはわからないが、なにかの結びつきはあるのかもしれないと考えた。酔いがまわって支えられながら12時近くに帰って行かれた。

 私は翌日、帰りのプロペラ機の中で目を瞑り浜辺の夜のことを思い出す。まるで月の砂漠にいた浦島太郎が飛行機に乗って現実の世界に引き戻されていくような不思議な気分だった。

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