2009年1月10日土曜日

さて、今日から


 お前を縁側で生んだと母からは言い聞かされて育った。
 お産婆さんは木下さんといった。私が挨拶できる年頃には腰が曲がっていた。そのお孫さんは同級生で背の高いえくぼのかわいいひとだった。中学で同じクラスになった。
 母は小柄なのにお腹は目立たなかったらしい。着物に割烹着が普段着で冬にむかい、40を過ぎてからだったので人にもいわなかったらしい。安産だった、手がかからなかったという。
 第一子の兄は戦前病院で生まれている。写真もたくさんあったようだ。兄は体が弱く苦労して育てたという。兄はそのことと引揚げの事情があって学校にあがるのが3年も遅れた。そして体が小さい。
 三畳間と四畳半に縁側、便所と、それに土間式の台所、縁側の向かいにポンプ式の井戸があって洗面所と五右衛門風呂、お隣に囲まれた三畳ほどの広さの庭があった。土間の水周りにはいつも蟹がいた。ねずみも捕まえることがあった。
 その縁側で母は産んだ。えっ、あんなところでと思っていた。6人家族、四畳半は茶の間で客間、そして寝室だった。ムダな空間はなかった、というより何もなかった。
 もの心ついたときには「ぴんこちゃん」と呼ぶ黒い老いたオス猫がいた。「シロ」と呼ぶ犬も飼っていたそうだが記憶には無い。母は動物を可愛がる人ではなかった。父は「生き物は死ぬから」といって飼いたがらなかった。それでも猫がいたのはねずみが出るからだったのだろう。
 私が生まれた年に二階を増築した。六畳四畳半だった。記憶はそこから始まる。兄姉たちは二階に、赤ん坊の私は父母と一緒に茶の間兼寝室に寝た。ただし17歳も年の離れた兄とは一緒に暮らした記憶がない。中学に入ったときに庭と風呂をつぶしてまた増築した、そこは三畳間と押入れにしかならなかった。その年に父は事故で亡くなった。引揚げてきて、紆余曲折があって戦後ようやく建てた家が父母の「我家」で、継ぎ足しをし、私を何不自由なく育ててくれたという。確かにそうだ。しかし麻生太郎さんや安倍晋太郎さんとは違う。純粋無垢、幼い弟を年の離れた姉二人は可愛がった。兄姉たちはモノのない戦後を生きたのでお金はさほどなくてもたくましい、今ではけたたましい。
 その「純粋無垢」に面影は無い。
 斜(はす)に構え、この世に正義は無く人生は常に絶望的だと称し自分以外はみな批判するそんなヤツになってしまった。捻じ曲がり元には戻りそうに無い。大きいもの、力でくるもの、金持ちが好きではない。という好きな人生を歩んできた。これは裏返せばそれに阿(おもね)りかねないモロさも孕(はら)んでいる。それもいやだ。「過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる」とトキさんに言われる。ダメかもしれないと嘆きつつ、さて、あらためてどうやって生きていこう。

  蛇足;大きいものはきらいながら、おおきい女性はなぜか好み。

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