2011年9月1日木曜日

けなげ

 30年以上も前のこと。当局の無認可という不当な扱いに屈しもせず、専務と事務局一人っきりという職場を若きつれあいは担っていた。我々は第一子をもうけ、勤務先がお互いに逆方向だったので、長男の面倒はつれあいの負担になった。保育園に預け、ときには職場に連れて行き売店のパン箱に入れながらあやし、病気のときには伝手を頼って同じ団地の人のご好意に甘えて預けたりした。息子はきょとんとしてもいたが、泣き虫だった。私はその苦労を担っていないので、何かあれば生涯このことを引き合いに出される。

 母がお産の手伝いができるようになったのは、私たちの第三子の二男が産まれたときだった。10日間ほど応援に来てくれて、つれあいの母親と交代した。宗像郡の駅から博多駅に送っていった。車中、荒れた手をさすりながら、ふと、実の娘たちのお産の手伝いをできなくて申し訳なかったと、母は大粒の涙をこぼした。姉たちからも責められたことを知っている。ついこの間が誕生日だったから27年前のことだ。

 上の姉が第三子を産むとき私は学生だった。姉から長男の哲ちゃんを関西の兄夫婦のところへ預けるから行き帰り連れてってほしいとたのまれ引き受けた。兄のところにはひとつ上の娘と同じ歳の男の子がいた。新幹線で連れて行き、数週間後再び兄のところから平塚に連れて帰った。よく言い聞かされていたのだろう、哲ちゃんは思いっきりいい子をしていたが、様子を見に行ったら急に吐いたりお腹を壊したりしていた。医者にもみせ兄たちもずいぶん心配していたが、時が来て連れ帰った哲ちゃんは家に帰るや否やそういう症状はケロッと治った。

 明日もソータローを預かることになっている。お母さんは仕事モードになると子どものことも忘れるらしい、夫よりも企業戦士の素質があるようだ。昨日は朝の七時半から預かった。お母さんがいないからと泣くこともなく、よく遊び、よく寝てくれた。言葉こそ話さないが、何か話しかけてくるような言葉を発する。もうミルクではなく食べられる。夕方も六時ごろのこと、ピンポーンとチャイムがなった。集金だ、そそくさとつれあいが玄関に走った。そのときだ、ソータローの顔色が変わったのは。つれあいが一瞬消えたことではっと不安になったのだろうか。私があやすものだから、必死にこらえているのが見て取れる。ときどきつれあいにしっかと抱きつき、預けられた幼子は今の「保護者」が私たちであることを本能的にわかっていたのだろう。

 ジムに行く時間で我が家を出たところで、シホさんと鉢合わせ。定期買ったりしていましたと少し遅くなったらしい。ようやく母親が迎えに来た様子を察するや否や、わっと泣き出した。泣き止まなかったそうだ。つれあいもギリギリの時間だったので、今夜のお惣菜と一緒に、ソータローを渡した。後ろ髪をひかれながらも我が家を後にしたらしい。

 哲ちゃんも、息子も、もういいおっさんになった。しかし、そういうことを想うとき、哲ちゃんも、我が子も、ソータローもぎゅっと抱きしめたくなるような衝動にかられる。

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